饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15418 字 更新时间:2026-6-19 10:59

同廿二日辰の刻ばかり渡邊に殘り留たる二百餘艘の船共、梶原を先として、八島の磯にぞ著にける。「四國は皆九郎大夫判官に攻め落されぬ。今は何の用にか逢べき。會に逢ぬ華、六日の菖蒲、いさかひ果てのちぎり哉。」とぞ笑ひける。

判官都を立給ひて後住吉の神主長盛、院の御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞しけるは「去十六日の丑刻に當社第三の神殿より、鏑矢の聲出でて、西を指て罷候ぬ。」と申ければ、法皇大に御感有て、御劍已下種々の神寶を長盛して大明神へまゐらせらる。昔神功皇后、新 羅を責給ひし時、伊勢大神宮より、二神のあらみさきを差副させ給ひけり。二神御船の艫舳に立て、新羅を安く被責落ぬ。歸朝の後、一神は攝津國住吉の郡に留り給ふ。住吉大明神の御事也。今一神は信濃國諏訪の郡に跡を垂る。諏訪大明神是也。昔の征罰の事を、思食忘ず今も朝の怨敵を滅し給ふべきにやと、君も臣も憑もしうぞ思食されける。

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鷄合 壇浦合戰

さる程に、九郎大夫判官義經周防の地に押渡て、兄の參河守と一に成る。平家は長門國ひく島にぞつきにける。源氏阿波國勝浦に著て八島の軍に打勝ぬ。平家引島に著と聞えしかば、源氏は同國の内、追津に著こそ不思議なれ。

熊野別當湛増は、平家重恩の身なりしが、忽に其恩を忘れて「平家へや參るべき、源氏へや參るべき。」とて、田邊の新熊野にて御神樂奏して、權現に祈誓し奉る。「唯白旗につけ。」と御託宣有けるを、猶疑なして白い鷄七、赤き鷄七、是を以て權現の御前にて勝負をせさす。赤き鷄一つも勝たず皆負てけり。さてこそ源氏へ參らんと思定めけれ。一門の者共相催し、都合其勢二千餘人、二百餘艘の船に乘り連て、若王子の御正體を船に乘參せ、旗の横上には、金剛童子を書奉て、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家も共にをがむ。されども源氏の方へ附ければ、平家興覺てぞ思はれける。又伊豫國の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乘連て漕來り、源氏と一つに成にけり。判官旁憑しう力ついてぞ思はれける。源氏の船は三千 艘、平家の船は千餘艘、唐船少々相交れり。源氏の勢は重れば、平家の勢は落ぞ行く。

元歴二年三月廿四日卯刻に、豐前の國の門司赤間關にて、源平矢合とぞ定めける。其日判官と梶原と既に同志軍せんとする事あり。梶原、判官に申けるは「今日の先陣をば、景時にたび候へ。」判官、「義經がなくばこそ。」と宣へば、「大將軍にてこそ在々候へ。」と申ければ、判官、「思ひも寄らず、鎌倉殿こそ大將軍よ。義經は奉行を承たる身なれば、唯殿原と同事ぞ。」と宣へば。梶原、先陣を所望しかねて、「天性此殿は侍の主には成り難し。」とぞつぶやきける。判官、是を聞き「日本一の嗚呼の者哉。」とて、太刀の柄に手をかけ給ふ。梶原「鎌倉殿より外に主を持ぬ者を。」とて、是も太刀の柄に手を懸けり。さる程に嫡子の源太景季、次男平次景高、同三郎景家、父と一所に寄合うたり。判官の氣色を見て、奧州佐藤四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、梶原を中に取籠て、我討とらんとぞ進ける。されども判官には三浦介取附き奉り、梶原には土肥次郎つかみつき、兩人手を摺て申けるは、「是程の大事を前にかゝへながら、同士軍候はゞ平家力附候なんず。就中、鎌倉殿の還り聞せ給はん處こそ穩便ならず候へ。」と申せば、判官靜まり給ひぬ。梶原進に及ばず。其よりして、梶原、判官を憎みそめて終に讒言して失ひけるとぞ、後には聞えし。

さる程に源平兩陣の交ひ海の面卅餘町をぞ隔たる。門司、赤間、壇の浦は、たぎりて落る潮なれば、源氏の船は潮に向うて心ならず押落さる。平家の船は潮に追てぞ出來たる。沖は潮 の早ければ、汀に附て、梶原敵の船の行違處に、熊手を打懸て、親子主從十四五人、乘り移り、打物拔で艫舳に散々にないでまはり、分捕數多して、其日の高名の一の筆にぞ附にける。既に、源平兩方陣を合て閧を作る。上は梵天迄も聞え、下は海龍神も驚らんとぞ覺ける。新中納言知盛卿、船の屋形に立出で、大音聲を上て、宣ひけるは「軍は今日ぞ限る。者共少もしりぞく心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、雙なき名將勇士と云へども、運命盡ぬれば力及ばず。されども名こそ惜けれ。東國の者共に弱氣見ゆな。いつの爲に命をば惜むべき。唯是のみぞ思ふ事。」と宣へば、飛騨三郎左衞門景經御前に候けるが、「是承れ、侍共。」とぞ下知しける。上總惡七兵衞進出て申けるは、「坂東武者は、馬の上でこそ口はきゝ候とも、船軍にはいつ調練し候べき。縱ば魚の木に上たるでこそ候はんずれ。一々に取て海につけ候はん。」とぞ申たる。越中の次郎兵衞申けるは、「同くは大將軍の源九郎に組給へ。九郎は色白うせい小きが、向齒の殊に差出てしるかんなるぞ。但し直垂と鎧を常に著替なれば、きと見分難かん也。」とぞ申ける。上總惡七兵衞申けるは「心こそ猛とも其小冠者何程の事かあるべき。片脇に挾さんで、海へ入れなん物を。」とぞ申たる。新中納言はか樣に下知し給ひ、大臣殿の御まへに參て、「今日は侍共景色よう見え候。但阿波民部重能は、心變したると覺え候。首をはね候はばや。」と申されければ、大臣殿、見えたる事もなうて如何頸をば切るべき。指しも奉公の者であるものを。」「重能參れ。」とて召しければ木蘭地の直垂に、洗革の鎧著て、御前に畏て候。「如何に重能は心替したるか。今日こそ惡う見ゆるぞ。四國の者共に、軍好うせ よと下知せよかし。臆したるな。」と宣へば、「なじかは臆し候ふべき。」とて御前を罷立つ。新中納言「あはれきやつが頸を打落さばや。」と思食し、太刀のつかも碎よと握て大臣殿の御方を頻に見給ひけれども、御許され無れば、力及ばず。

平家は千餘艘を三手に作る。山賀の兵藤次秀遠五百餘艘で先陣に漕向ふ。松浦黨三百餘艘で二陣に續く。平家の君達二百餘艘にて三陣に續き給ふ。兵藤次秀遠は、九國一番の精兵にて有けるが我程こそなけれ共、普通ざまの精兵共五百人をすぐて、舟々の艫舳に立て、肩を一面に比て、五百の矢を一度に放つ。源氏は三千餘艘の船なれば勢の數、さこそ多かりけめども、處々より射ければ何くに精兵有とも見えず。大將軍九郎大夫判官眞先に進で戰ふ。楯も鎧もこらへずして、散散に射しらまさる。平家御方勝ぬとて、頻に攻皷打て悦の鬨をぞ作りける。

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遠矢

源氏の方にも和田小太郎義盛、船には乘らず、馬に打乘てなぎさに引へ、甲をば脱いで人にもたせ、鐙の鼻蹈そらし、よ引て射ければ、三町が内との物は外さずつよう射けり。其中に殊に遠う射たると覺しきを、「其矢給はらん。」とぞ招いたる。新中納言是を召寄せて見給へば、白篦に鶴の本白、こうの羽を破合せて作だる矢の十三束二伏有に、沓卷より一束計おいて、和田小太郎平義盛と、漆にてぞ書附たる。平家の方に精兵多しといへども、さすが遠矢射る 者は少かりけるやらん、稍久しう有て、伊豫國の住人仁井紀四郎親清召出され、此矢を給はて射返す。是も沖よりなぎさへ三町餘をつと射渡して、和田小太郎が、後一段餘に引へたる三浦の石田左近太郎が弓手のかひなにしたたかにこそ立たりけれ。三浦の人共是を見て、「和田小太郎が、我に過て遠矢射る者なしと思ひて恥かいたるをかしさよ。あれを見よ。」とぞ笑ひける。和田小太郎是を聞き、「やすからぬ事也。」とて小舟に乘て漕出させ、平家の勢の中を差詰め引詰め散々にいければ多の者共射殺れ手負にけり。又判官の乘給る船に、沖より白篦の大矢を一つ射立てゝ、和田が樣に「こまたへ給はらん。」とぞ招いたる。判官此を拔せて見給へば、白篦に山鳥の尾を以て作だりける矢の、十四束三伏あるに、伊豫國の住人仁井紀四郎親清とぞ書附たる。判官後藤兵衞實基を召て、「此矢射つべき者の御方に誰かある。」と宣へば「甲斐源氏に安佐里與一殿こそ、精兵にてましまし候へ。」「さらば呼べ。」とて呼れければ、安佐里の與一出來たり。判官宣ひけるは、「沖より此矢を射て候が、射返せと招き候。御邊あそばし候なんや。」「給はて見候はん。」とて、爪よて、「これは篦が少し弱う候。矢束もちと短う候。同じうは義成が具足にて仕り候はん。」とて、塗籠籐の弓の九尺計あるに、塗篦に黒ほろはいだる矢の、我大手に押握て十五束有けるをうちくはせ、よ引てひやうと放つ。四町餘をつと射渡して、大船の舳に立たる仁井紀四郎親清が眞正中をひやうづばと射て、船底へ逆樣に射倒す。死生をばしらず。安佐里與一は、本より精兵の手きゝ也。二町に走る鹿をば、外さず射けるとぞ聞えし。其後源平、戰に命を惜まずをめき叫んで攻戰ふ。何れ劣れりとも見 えず。されども、平家の方には、十善帝王三種の神器を帶して渡らせ給へば、源氏如何あらんずらんとあぶなう思ひけるに、暫は白雲かと覺しくて、虚空に漂ひけるが、雲にては無りけり、主もなき白旗一流舞下て、源氏の船の舳に、竿附の緒のさはる程にぞ見えたりける。判官、「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ。」と悦で、手水鵜飼をして、是を拜し奉る。兵共皆此のごとし。又源氏の方より江豚といふ魚、一二千這うて、平家の方へぞ向ひける。大臣殿是を御覽じて小博士晴信を召て、「江豚は常に多けれども、未だか樣の事なし。いかゞあるべきと勘へ申せ。」と仰られければ「此江豚見かへり候はば、源氏滅び候べし。はうて通候はば、御方の御軍危う候。」と申も果ねば、平家の船の下を、直にはうて通りけり。「世の中は今はかう。」とぞ申たる。

阿波民部重能は、此三箇年が間、平家に能々忠を盡し、度々の合戰に命を惜まず防ぎ戰ひけるが、子息田内左衞門を生捕にせられて、いかにも叶はじとや思ひけん、忽に心替りして、源氏に同心してんげり。平家の方にははかりごとに、好き人をば兵船に乘せ、雜人共を唐船に乘せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取籠て討んと支度せられたりけれども、阿波民部が囘忠の上は、唐船には目も懸けず、大將軍のやつし乘給へる兵船をぞ攻たりける。新中納言「やすからぬ、重能めを切て棄べかりつるものを。」と千たび後悔せられけれども叶はず。さる程に四國鎭西の兵共、皆平家を背いて、源氏に附く。今まで從ひ著たりし者共も君に向て弓を引き、主に對して太刀を拔く。彼岸につかんとすれば、波高して叶ひ難し。此の汀に 寄らんとすれば、敵箭鋒を汰て待懸たり。源平の國爭、今日を限とぞ見えたりける。

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先帝身投

源氏の兵共既に平家の船に乘移りければ、水主梶取共、射殺され、切殺されて船を直すに及ばず、船底に倒伏しにけり。新中納言知盛卿、小船に乘て、御所の御船に參り、「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからん物共皆海へ入させ給へ。」とて艫舳に走り廻り、掃いたり拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女房達、「中納言殿、軍は如何に。」と口々に問ひ給へば、「めづらしき東男をこそ御覽ぜられ候はんずらめ。」とて、から/\と笑ひ給へば、「何條の只今の戲れぞや。」とて、聲々にをめき叫給ひけり。二位殿は此有樣を御覽じて日比思食設けたる事なれば、にぶ色の二衣打覆き、練袴の傍高く挾み、伸璽を脇に挾み、寶劔を腰にさし、主上を抱奉て、「我身は女なりとも、敵の手にはかゝるまじ。君の御供に參る也。御志思ひ參せ給はん人々は、急ぎ續き給へ。」とて舟端へ歩み出られけり。主上は今年は八歳に成せ給へども御年の程より遙にねびさせ給ひて、御容美しくあたりも照り輝くばかり也。御ぐし黒う優々として御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御樣にて、「尼ぜ、我をばいづちへ具してゆかんとするぞ。」と仰ければ、幼き君に向奉り涙を押へて申されけるは、「君は未知し召れさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に依て、今萬乘の主と生させ給へども、惡縁に引かれて、御運既に盡させ給ひぬ。先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、 其後西方淨土の來迎に預らむと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊地とて、心憂き境にてさぶらへば、極樂淨土とてめでたき處へ具し參せさぶらふぞ。」と泣々申させ給へば、山鳩色の御衣にびんづら結せ給ひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せて先東を伏し拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念佛有しかば、二位殿やがて抱き奉り、「浪のしたにも、都のさぶらふぞ。」と慰奉て千尋の底へぞ入給ふ。悲き哉、無常の春の風、忽に華の御容を散し、無情哉、分段の荒き浪、玉體を沈め奉る。殿をば長生と名附けて長き棲かと定め、門をば不老と號して、老せぬとざしとかきたれども、未だ十歳の内にして、底の水くづとならせ給ふ。十善帝位の御果報、申すも中々愚なり。雲上の龍降て、海底の魚となり給ふ。大梵高臺の閣の上、釋提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族を靡かし、今は舟の中波の下に、御命を一時に亡し給ふこそ悲しけれ。

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能登殿最期

女院は此御有樣を御覽じて、御燒石、御硯左右の御懷に入て、海へ入せ給ひたりけるを、渡邊黨に源五馬允眤誰とは知り奉らねども、御髮を熊手に懸て、引上奉る。女房達、「あな淺まし、あれは女院にて渡らせ給ぞ。」と聲々口々に申されければ、判官に申て急ぎ御所の御舟へわたし奉る。大納言佐殿は、内侍所の御唐櫃をもて、海へ入らんとし給ひけるが、袴の裾を舟端にいつけられ、蹴纒ひて倒れ給たりけるを、兵ども取留め奉る。さて武士共内侍所の 御唐櫃の鎖を ねぢ切て、既に御蓋を開かんとすれば忽に目くれ鼻血垂る。平大納言、生捕にせられておはしけるが、「あれは内侍所の渡らせ給ふぞ。凡夫は見奉らぬ事ぞ。」と宣へば、兵共みなのきにけり。其後判官平大納言に申合せて、本の如く緘げ納め奉る。

さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫經盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける。小松の新三位中將資盛、同少將有盛、從弟左馬頭行盛、手に手を取組んで一所に沈み給ひけり。人々はか樣にし給へども、大臣殿父子は海に入んずる氣色もおはせず、舟端に立出でて四方見回し、あきれたる樣にておはしけるを、侍共あまりの心憂さに、そばを通る樣にて、大臣殿を海へつき入奉る。右衞門督是を見てやがて飛入給けり。皆人は、重き鎧の上に重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め。此人親子はさもし給はぬ上憖に究竟の水練にておはしければ、 しづみもやり給はず。大臣殿は、「右衞門督沈まば我も沈まむ、助かり給はゞ我も助らむ。」と思ひ給ふ。右衞門督も「父 しづみ給はゞ吾も しづまむ、助かり給はば我もたすからむ。」と思ひて、互に目を見かはし游ぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつと漕寄せ、先づ右衞門督を、熊手に懸て引上げ奉る。大臣殿、是を見ていよ/\沈みもやり給はねば同う取奉てけり。

大臣殿の御乳母飛騨三郎左衞門景經、小船に乘て、義盛が船に乘移り、「吾君取奉るは何者ぞ。」とて太刀を拔で走りかゝる。義盛既にあぶなう見えけるを、義盛が童、主を討せじと中に隔たり、景經に打てかゝる。景經が打つ太刀に、義盛が童、甲の眞甲打破れて、二の太刀 に頸打落されぬ。義盛猶あぶなう見えけるを、並の船より、堀彌太郎親經、よ引いて兵と射る。景經内甲を射させてひるむ處を、堀彌太郎、義盛が船に乘移て、三郎左衞門に組で伏す。堀が郎等主に續いて乘移り、景經が鎧の草摺引上て、二刀刺す。飛騨三郎左衞門景經聞ゆる大力の剛の者なれども運や盡にけん。痛手は負つ、敵はあまたあり、そこにて終に討たれにけり。大臣殿は生ながら取りあげられ目の前で乳子がうたるるを見給ふに、いかなる心ちかせられけん。

凡そ能登守教經の矢先に廻る者こそ無りけれ。矢種の有る程射盡して今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの大太刀拔、白柄の大長刀の鞘をはづし、左右に持て、なぎ廻り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。新中納言使者を立てゝ、「能登殿、痛う罪な作り給ひそ。さりとて好き敵か。」と宣ひければ、「さては大將軍に組めごさんなれ。」と心得て、打物莖短に取て、源氏の船に乘り移り、をめき叫んで責戰ふ。されども判官を見知給はねば、物具の好き武者をば「判官か」と目を懸て、馳囘り給ふ。判官も先に心得て面に立つ樣にしけれども、兎かく違ひて、能登殿には組れず。されども如何したりけん。判官の船に乘當て「あはや」と目を懸て飛でかゝるに、判官叶はじとや思はれけん、長刀脇にかい挾み、御方の船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛乘り給ひぬ。能登殿は疾態や劣られけん。やがて續いても飛び給はず。今はかうと思はれければ太刀長刀海へ投入れ、甲も脱で棄られけり。鎧の草摺かなぐり棄て、胴ばかり著て、大童にな り、大手を廣げて立たれたり。凡當を撥てぞ見えたりける。怖しなども愚也。能登殿大音聲を上て、「我と思はん者共は寄て教經に組で生捕にせよ。鎌倉へ下て頼朝に逢て物一言云はんと思ふぞ。よれやよれ。」と宣へども寄る者一人も無りけり。こゝに土佐國の住人、安藝の郷を知行しける安藝大領實康が子に、安藝太郎實光とて、三十人が力持たる大力の剛の者あり。我にちとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も、普通にはすぐれたるしたゝか者也。安藝太郎能登殿を見奉て申けるは、「如何に心猛くましますとも我等三人取付たらんに縱長十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」とて主從三人小船に乘て、能登殿の船に押竝べ、えいといひて乘移り甲のしころを傾け太刀を拔て一面に打て懸る。能登殿ちとも噪ぎ給はず、眞先に進だる安藝太郎が郎等をすそを合せて、海へどうと蹴入給ふ。續いてよる安藝太郎を、弓手の脇に取て挾み、弟の次郎をば、馬手の脇にかい挾み、一しめしめて、「いざうれ、さらば己等死出の山の供せよ。」とて、生年廿六にて、海へつとぞ入給ふ。

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内侍所都入

新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀平内左衞門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば、「子細にや及候。」と申。中納言に、鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にける。是を見て侍共廿餘人後たてまつらじと手に手を取組で一所に沈みけり。其中に、越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨 四郎兵衞は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落にけり。海上には赤旗赤幟共、投捨かなぐり捨たりければ、龍田川の紅葉葉を、嵐の吹散したるがごとし。汀に寄る白浪も、薄紅にぞ成にける。主もなき虚しき船は、潮に引かれ風に從て、いづくを指ともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生捕には、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衞門督清宗、内藏頭信基、讃岐中將時實、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳になり給ふ若公、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨融圓、侍には源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、橘内左衞門季康、藤内左衞門信康、阿波民部重能父子、以上三十八人也。菊池次郎高直、原田大夫種直は、軍以前より郎等共相具して降人に參る。女房達には、女院、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、四十三人とぞ聞えし [2]元歴二年の春の暮、如何なる年月にて一人海底に沈み、百官波上に浮らん。國母官女は、東夷西戎の手に從ひ、臣下卿相は數萬の軍旅にとらはれて、舊里に歸り給ひしに、或は朱買臣が錦をきざる事を歎き、或は王昭君が胡國に赴きし恨も、かくやとぞ悲み給ひける。

同四月三日、九郎大夫判官義經、源八廣綱を以て、院の御所へ奏聞せられけるは、去三月二十四日、豐前國田浦門司關、長門國壇浦赤間關にて、平家を責め落し三種神器事故なう返し入れ奉るの由、申されたりければ、院中の上下騒動す。廣綱を御坪の内へ召し、合戰の次第を委しう御尋ありて、御感のあまり左兵衞尉に成されけり。「一定内侍所返り入らせ給ふか、見て參れ。」とて、五日、北面に候ける藤判官信盛を西國へ差遣はさる。宿所へも歸らず、や がて院の御馬を給はて鞭を擧げ、西をさしてぞ馳下る。

同十四日、九郎大夫判官義經、平氏男女の生捕共相具して上りけるが、播磨國明石浦にぞ著にける。名を得たる浦なれば、深行くまゝに月すみ上り、秋の空にもおとらず。女房達差つどひて、「一年是を通りしには、かゝるべしとは思はざりき。」などいひて、忍音に泣合れけり。帥佐殿つくづく月を詠め給ひ、いと思ひ殘す事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ續け給ふ。

ながむればぬるゝ袂にやどりけり、月よ雲井の物語せよ。

治部卿局

雲のうへに見しにかはらぬ月影の、すみにつけても物ぞかなしき。

大納言佐局

我身こそ明石浦に旅寢せめ、同じ浪にもやどる月哉。

「さこそ物悲しう昔戀しうもおはしけめ。」と判官猛き武士なれども、情ある男士なれば、身に染て哀にぞ思はれける。

同二十五日、内侍所、璽の御箱、鳥羽に著せ給ふと聞えしかば、内裏より御迎に參らせ給ふ人々、勘解由小路中納言經房卿、高倉宰相中將泰通、權右中辨兼忠、左衞門權佐親雅、榎並中將公時、但馬少將教能、武士には伊豆藏人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衞門尉有綱とぞ聞えし。其夜の子刻に、内侍所、璽の御箱、太政官の廳に入せ給。寶劔は失にけり。神璽は 海上に浮びたりけるを、片岡太郎經春が、取上奉たりけるとぞきこえし。

[2] NKBT has 。 at this point.

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吾朝には神代より傳はれる靈劍三あり。十握劍、天の早切劍、草薙劍是也。十握劍は大和國磯上布留社に納めらる。天早切の劍は尾張國熱田宮にありとかや。草薙劍は内裏にあり。今の寶劍是也。此劍の由來を申せば、昔、素盞烏尊出雲國曾我里に宮造りし給ひしに其處に八色の雲常に立ちければ、尊是を御覽じてかくぞ詠じ給ひける。

八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくる其のやへ垣を。

是を三十一文字の始とす。國を出雲と名付る事も即ちこの故とぞ承る。

昔、尊、出雲國ひの河上に下り給ひし時國津の神に足なつち、手なつちとて夫神婦神おはします。其子に端正の娘あり。稻田姫と號す。親子三人泣居たり。尊「如何に」と問ひ給へば答へ申ていはく、「我に娘八人ありき。皆大蛇の爲にのまれぬ。今一人殘るところの少女又呑れんとす。件の大蛇、尾首共に八つあり。各八の峯八の谷に這はびこれり。靈樹異草背に生ひたり。幾千年を歴たりといふ事を知らず。眼は日月の光の如し。年々に人を呑む。親呑まるるものは子悲み、子呑まるゝものは親悲み、村南村北に哭する聲絶えずとぞ申ける。尊哀に思食し、此少女をゆつのつまぐしに取なし、御ぐしに差藏させ給ひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿を造て高き岡に立つ。其影酒にうつれり。大蛇人と思ひて其影を飽まで飮で醉臥たりけ るを尊帶給へる十握の劍をぬいて大蛇をづた/\に切り給ふ。其中に一の尾の至て切れず。尊恠しと思食し、堅樣に破て御覽ずれば一の靈劍あり。是を取て天照大神に奉り給ふ。「是は昔高間の原にてわがおとしたりし劍也。」とぞ宣ひける。大蛇の尾のなかに在ける時は村雲常に掩ければ天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寶とし給ふ。其後豐葦原中津國の主として天孫を下し奉り給ひし時、此劍をも御鏡に副てたてまつらせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及で、靈威に怖れて天照大神を大和國笠縫里磯垣の廣きに移し奉り給ひし時、此劍をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時劍を造りかへて御守とし給ふ。靈威本の劍に相劣らず。

天の村雲劍は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、清撰に當てあづまへ下り給ひし時、天照大神へ詣て御暇申させ給ひけるに、御妹いつきの尊を以て謹而怠事なかれとて靈劍を尊にさづけ申給ふ。さて駿河國に下り給ひたりしかば、其處の賊徒等「この國には鹿多う候。狩して遊ばせ給へ。」とてたばかり出し奉り、野に火をはなて既に燒き殺し奉らんとしけるに、尊はき給へる靈劍を拔て草を薙ぎ給へば、はむけ一里が中は草皆薙れぬ。尊又火を出されたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹掩ひ、凶徒悉く燒け死にぬ。其よりしてこそ天の村雲の劍をば草薙劍とも名付られけれ。尊、猶奧 へせめ入て、三箇年が間處々の賊徒を討平らげ、國々の凶黨をせめしたがへて上らせ給ひけるが、道より御惱著せ給ひて、御歳三十と申七月に尾張國熱田の邊にて終に隱れさせ給ひぬ。その魂は白き鳥と成て、天に上けるこそ不思議なれ。生捕の夷共をば御子武彦尊を以て御門へたてまつらせ給ふ。草薙劍をば熱田の社に納めらる。あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行此劍を竊で吾國の寶とせんと思て、竊に舟に藏して行程に波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知て、罪を謝して先途を遂ず。元の如く返し納め奉る。然るを天武天皇朱鳥元年に是を召て内裏に置かる。今の寶劍是也。御靈威いちはやうまします。陽成院狂病にをかされましまして靈劍を拔せ給ひければ、夜るのおとど閃々として電光にことならず。恐怖の餘に投棄させ給ひければ、自はたと鳴て鞘に差されにけり。上古にはかうこそ目出かりしか。縱ひ二位殿脇に差て海に沈み給ふともたやすううすべからずとて、勝れたる海士人共を召てかづきもとめられける上、靈佛靈社に貴き僧を籠め種々の神寶を捧げて祈り申されけれども、終に失せにけり。其時の有職の人々申合はれけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓ひ有ける其誓未だ改らずして石清水の御流れ未だ盡せざるゆゑ、日輪の光未地に落させ給はず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし。」と申されければ、其中に、ある博士の勘へ申けるは「昔出雲國ひの河上にて素盞烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首八の尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。」と申す。千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば 二度人間に返らざるも理とこそ覺えけれ。

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一門大路渡

さる程に、二の宮歸り入らせ給ふとて法皇より御迎へに御車を參らせらる。御心ならず、平家に取られさせ給て、西海の波の上に漂はせ給ひ三年を過させ給ひしかば、御母儀も御乳母持明院の宰相も、御心苦しき事に思はれけるに、別の御事なく返り上らせ給ひたりしかば、差つどひて皆悦泣どもせられたる。

同廿六日、平氏の生捕共京へ入る。皆小八葉の車にてぞ有ける。前後の簾を上げ、左右の物見を開く。大臣殿は淨衣を著給へり。右衞門督は、白き直垂にて、父の車の後にぞ乘られたる。平大納言時忠卿の車も、同くやり續く。子息讃岐中將時實も同車にて渡さるべかりしが現所勞とて渡れず。内藏頭信基は、疵を蒙たりしかば閑道より入にけり。大臣殿さしも花やかに清氣におはせし人のあらぬ樣に痩衰へ給へり。されども四方見廻して最思ひ沈める氣色もおはせず、右衞門督はうつぶして目も見上給はず、思ひ入たる氣色也。土肥次郎實平木蘭地の直垂に小具足計して隨兵三十餘騎車の先後に打圍で守護し奉る。見る人都の中にも限らず、凡遠國近國山々寺々よりも、老たるも若きも、來り集れり。鳥羽の南の門、作道、四塚迄、ひしと續いて、幾千萬と云ふ數を知らず。人は顧る事を得ず、車は輪を廻す事能はず。治承養和の飢饉、東國西國の軍に、人種ほろびうせたりといへども、猶殘りは多かりけりと ぞ見えし。都を出て中一年、無下に間近き程なれば、めでたかりし事も忘れず。さしも恐をのゝきし人の今日の有樣、夢現とも分かねたり。心なき怪の賤男賤女に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬは無りけり。増て馴れ近附ける人々のいかばかりの事をか思ひけん。年比恩を蒙り、父祖の時より祗候したりし輩の有繋身のすてがたさに、多くは源氏についたりしかども、昔の好み忽にわするべきにもあらねば、さこそ悲しう思ひけめ。されば袖を顏に押あてゝ、目を見上げぬ者も多かりけり。

大臣殿の御牛飼は、木曾が院參の時、車遣損じて切られにける次郎丸が弟、三郎丸也。西國にては、かり男に成たりしが、いま一度大臣殿の御車をつかまつらんと思ふ志ふかゝりければ、鳥羽にて判官に申けるは、「舎人牛飼など申者は、いふかひなき下臈の果にて候へば、心有るべきでは候はねども年來めしつかはれまゐらせて候御志淺からず。然るべう候はゞ御ゆるされを蒙て、大臣殿の最後の御車を仕り候はばや。」とあながちに申ければ、判官「仔細あるまじ、とう/\。」とてゆるされけり。斜ならず悦で、尋常にしやうぞき、懷より遣繩取出しつけかへ、涙に暮て行先も見えねども、袖を顏に押あてゝ牛の行に任せつゝ、泣々遣てぞ罷りける。法皇は六條東洞院に御車を立て叡覽あり。公卿殿上人の車ども同じう立竝べたり。さしも御身近う召仕はれしかば、法皇もさすが御心弱う、哀にぞ思食されける。供奉の人人は只夢とのみこそ思はれけれ。「日比は如何にもして、あの人々に目をもかけられ、詞の末にも懸らばやとこそ思ひしかば、かゝるべしとは誰か思ひし。」とて、上下涙を流しけり。一年宗盛 公内大臣に成て、悦び申し給ひし時は公卿には花山院大納言を始として、十二人扈從して遣り續け給へり。殿上人には藏人頭親宗以下十六人前驅す。公卿も殿上人も、今日を晴ときらめいてこそ有しか、中納言四人、三位中將も三人迄おはしき。軈て此平大納言もその時は左衞門督にておはしき。御前へ召され參せて御引出物給はて持成され給ひし有樣目出たかりし儀式ぞかし。今日は月卿雲客一人もしたがはず、同じく壇浦にて生捕にせられたりし侍共廿餘人白き直垂著て、馬の上にしめつけてぞ渡されける。六條を東へ河原までわたされて、歸て、大臣殿父子は九郎判官の宿所、六條堀河にぞおはしける。御物参らせたりしかども 胸せき塞て、御箸をだにも立てられず。互に物は宣はねども目を見合せて隙なく涙をぞ流されける。夜になれども、裝束もくつろげ給はず、袖を片敷て臥給ひたりけるが、御子右衞門督に、御袖を打著せ給ふを、まぼり奉る源八兵衞、江田源三、熊井太郎是を見て、「哀高も賤きも恩愛の道程悲しかりける事はなし。御袖を著せ奉りたらばいく程の事か有るべきぞ。せめての御志の深さかな。」とて、武きものゝふども皆涙をぞ流しける。

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同二十八日鎌倉の前兵衞佐頼朝朝臣從二位し給ふ。越階とて二階をするこそ有がたき朝恩なるに是は既に三階なり。三位をこそし給ふべかりしかども、平家のし給ひたりしを忌うて也。其夜の子刻に内侍所太政官の廳より温明殿へ入らせ給ふ。主上行幸成て三箇夜臨時の御神 樂あり。右近將監小家能方別勅を承はて家に傳れる弓立宮人といふ神樂の秘曲を仕て勸賞蒙りけるこそ目出たけれ。此歌は、祖父八條判官資忠と云し伶人の外は知れる者なし。餘り秘して子の親方には教へずして堀川天皇御在位の時傳へ參て死去したりしを、君親方に教へさせ給ひけり。道を失はじと思食す御志感涙抑へがたし。

抑内侍所と申は、昔、天照大神天の岩戸に閉籠らんとせさせ給ひし時、如何にもして我容をうつし置きて御子孫に見て奉らんとて御鏡を鑄給へり。是猶御心に合はずとて又鑄替させ給ひけり。先の御鏡は紀伊國日前國懸の社是也。後の御鏡は御子あまの忍ほみみの尊に授け參せさせ給ひて、殿を同うして住み給へ。」とぞ仰ける。さて天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひて天下暗やみと成たりしに、八百萬の神達神集に集て岩戸の口にて御神樂を奏し給ひければ、天照大神感に堪させ給はず、岩戸を細目に開き見給ふに、互に顏の白く見えけるより面白といふ詞は始まりけるとぞ承はる。其時こやねたぢからをといふ大力の神よてえいといひてあけ給ひしよりしてたてられずといへり。さて内侍所は第九代の御門開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及て靈威に怖れて別の殿へ移し奉らせ給ふ。近き比は温明殿におはします。遷都遷幸の後、百六十年を經て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日の子刻に内裡なかのへに始めて燒亡ありき。火は左衞門の陣より出きたりければ内侍所のおはします温明殿も程近し。如法夜半の事なれば内侍も女官も參り合はせずして、かしこ所を出し奉るにも及ばず。小野宮殿急ぎ參らせ給て内侍所既に燒させ 給ひぬ。世はいまはかうごさんなれとて御涙を流させ給ふほどに、内侍所は自炎の中を飛び出でさせ給ひ、南殿の櫻の梢に懸らせおはしまし光明赫奕として朝の日の山の端を出るに異ならず。其時小野宮殿世は末失せざりけりと思食すに悦の御涙せきあへさせ給はず。右の御膝をつき左の御袖を廣げてなく/\申させ給ひけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓有ける其御誓いまだ改らずんば神鏡實頼が袖に宿らせ給へ。」と申させ給ふ御詞の未をはらざる先に飛移らせ給ひけり。即御袖に裹で太政官の朝所へ渡し奉らせ給ふ。近頃は温明殿におはします。此世には請取奉らんと思ひ寄る人も誰かはあるべき。神鏡も又宿らせ給べからず。上代こそ猶目出かりけれ。

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文之沙汰

平大納言時忠卿父子も、九郎判官の宿所近うぞおはしける。世の中かくなりぬる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言猶命惜うや思はれけん、子息讃岐中將を招いて、「散すまじき文を一合判官に取られてあるぞとよ。是を鎌倉の源二位に見えなば、人も多く損じ我身も命生らるまじ、如何せんずる。」と宣へば、中將申されけるは、「判官は大かたも情ある者にて候なる上女房などの打たへ歎く事をば、如何なる大事をももてはなれぬと承り候。何か苦しう候べき。姫君達數多ましまし候へば、一人見せさせ給ひ、親うならせおはしまして後、仰らるべうや候らん。」大納言涙をはら/\と流いて、「我世にありし時は、娘共をば女御 后とこそ思ひしか。なみ/\の人に見せんとはかけても思はざりしものを。」とて泣かれければ、中將、「今はその事努々思食寄せ給ふべからず。當腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の二十三になり給ふをぞ、判官には見られける。是も年こそすこし長しうおはしけれど眉目容美しう、心ざま優におはしければ、判官ありがたう思ひ奉て、もとの上河越太郎重頼が娘も有しかども、是をば別の方に尋常にしつらうてもてなしけり。さて女房件の文の事を宣ひ出されたりければ、判官剩へ封をも解かず、急ぎ時忠卿の許へ送られけり。大納言斜ならず悦で、やがて燒ぞ棄てられける。如何なる文共にてありけん、覺束なうぞ聞えし。

平家滅びて、いつしか國々靜まり、人のかよふも煩なし。都も穩しかりければ、「唯九郎判官程の人はなし。鎌倉の源二位は何事をか爲出したる。世は一向判官の儘にてあらばや。」などいふ事を源二位漏聞いて、「こは如何に、頼朝がよく計ひて、兵を指上すればこそ平家はたやすう滅びたれ。九郎ばかりしては、爭か世をばしづむべき。人のかくいふに奢て何しか世を我儘にしたるにこそ。人こそ多けれ、平大納言の聟になて、大納言を扱ふなるも受けられず。又世にもはゞからず、大納言の聟取いはれなし。是へ下ても定て過分の振舞せんずらん。」とぞ宣ひける。

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