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副將被斬
同五月七日、九郎大夫判官平氏の生捕共相具して關東へ下向と聞えしかば、大臣殿判官の許へ使者を立てゝ、「明日關東へ下向と承候。恩愛の道は思切られぬ事にて候也。生捕の中に、八歳の童と附られて候ひしものは、未だ此世に候やらん。今一度見候ばや。」と宣ひ遣されたりければ、判官の返事には、「誰も恩愛の道は思切られぬ事にて候へば、誠にさこそ思食され候らめ。」とて、河越小太郎重房がもとに預り奉たりけるを大臣殿の許へわか君入れ奉るべき由、宣ひければ、人に車借て、乘せ奉り、女房二人著奉たりしも一つ車に乘り具して大臣殿へぞ參られける。若君は遙に父を見奉り給て、世に嬉氣におぼしたり。大臣殿、「如何に是へ。」と宣へば、やがて御膝の上に參り給ふ。大臣殿若君の御ぐしを掻撫で、涙をはら/\と流いて、守護の武士共に宣ひけるは、「是は、各聞き給へ、母も無き者にてあるぞとよ。此子が母は、是を産とて、産をば平かにしたりしかども、やがてうちふして惱みしが、終に空く成ぞとよ。『此後如何なる人の腹に公達を設け給ふとも、思ひかへずして、生立て我形見に御覽ぜよ。さしはなて乳母などの許へ遣すな。』と云ひし事の不便さに、『あの右衞門督をば朝敵を平げん時は、大將軍をせさせ、是をば副將軍をせさせんずれば。』とて、名を副將と附たりしかば、斜ならず嬉氣に思ひて既に限りの時迄も、名を呼などして愛せしが、七日といふに、墓なく成りて有ぞとよ。此子を見る度ごとには、其事が忘れがたくおぼゆる也。」とて涙もせきあへ給はねば守護の武士共も、皆袖をぞ絞りける。右衞門督も [3]なき給へは乳母も袖を絞けり。やゝ久しく有て大臣殿、「さらば副將、とく歸れ。嬉しう見つる。」と宣へども、若君歸り給は ず。右衞門督是を見て涙を押へて宣ひけるは、「やゝ副將御前、今夜は疾々歸れ。唯今客人のこうずるぞ。朝は急ぎ參れ。」と宣へども、父の御淨衣の袖にひしと取附て、「いなや歸じ。」とこそ泣給へ。かくて遙に程歴れば、日も漸暮れにけり。さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房抱取て、御車に乘せ奉り、二人の女房共も袖を顏に推當てゝ、泣々暇申つゝ共に乘てぞ出にける。大臣殿は後を遙に御覽じ送て、日來の戀しさは事の數ならずとぞ悲み給ふ。「此子は母の遺言が無慚なれば。」とて乳母の許へも遣さず、朝夕御前にてそだて給ふ。三歳にて始冠して、義宗とぞ名乘せける。やう/\生立給ふまゝに、みめ容美しく、心樣優におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海の旅の空、浪の上、船の中の住にも片時も離れ給はず。然るを軍破れて後は、今日ぞ互に見給ひける。
河越小太郎判官の御前に參ていひけるは「さて若君の御事をば何と御計ひ候やらん。」と申ければ、鎌倉まで具し奉るに及ばず。汝ともかうも是であひはからへ。」とぞ宣ひける。河越小太郎宿所に歸て、二人の女房共に申けるは、「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若君は京に御留あるべきにて候。重房も罷り下候間、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候。とう/\召され候へ。」とて、御車寄せたりければ、若君何心もなう乘り給ひぬ。「又昨日の樣に父御前の御許へか。」とて悦ばれけるこそはかなけれ。六條を東へやて行く。此の女房共「あはやあやしき物哉。」と、肝魂を消して思ひける程に、少し引下て兵五六十騎が程河原へ打出たり。やがて車を遣とゞめて、敷皮しき、「下させ給へ。」と申ければ若君車よりおり給ひぬ。世にあやし げにおぼして、「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ。」と問ひ給へば、二人の女房共、とかうの御返事にも及ばず。重房が郎等、太刀をひきそばめて、左の方より御後に立囘り、既に斬奉らんとしけるを、若君見つけ給ひて、幾程遁るべき事の樣に、急ぎ乳母の懷の中へぞ逃入給ふ。さすが心強う取出し奉るにも及ばねば、若君をかゝへ奉り人の聞くをも憚らず、天に仰ぎ地に伏してをめき叫みける心の中推量られて哀也。かくて時刻遙に推し移りければ河越小太郎重房涙をおさへて、「今はいかに思食され候とも叶はせ給ひ候まじ。とう/\。」と申ければ其時乳母の懷の中より、引出し奉り、腰の刀にて押伏て終に頸をぞ掻いてける。猛き武士共もさすが岩木ならねば、皆涙を流しけり。頸をば「判官の見參にいれん。」とて取て行く。乳母の女房、徒跣にて追著て、「何かくるしう候べき。御頸ばかりをば給はて後世を弔ひまゐらせん。」と申せば、判官も世に哀氣に思ひ涙をはら/\と流いて「誠にさこそは思ひ給らめ。最もさあるべし。とう/\。」とてたびにけり。是を取て懷に入れて泣々京の方へ歸るとぞ見えし。其後五六日して、桂川に女房二人身をなげたる事ありけり。一人少なき人の頸をふところに入沈みたりけるは、此若君の乳母の女房にてぞ有ける。今一人屍を抱いて有けるは、介錯の女房なり。乳母が思きるは、せめて如何せん、介錯の女房さへ、身を投けるこそ有がたけれ。
[3] NKBT reads 泣給へば.
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腰越
さる程に大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて七日の曉關東へ下給ふ。粟田口を過ぎ給へば、大内山も雲井の餘所に隔りぬ。逢阪にもなりしかば關の清水を見給ひて、大臣殿なくなくかうぞ詠じ給ける。
都をば今日を限りの關水に、又あふ坂の影やうつさむ。
道すがらも餘りに心細げにおはしければ、判官情ある人にて、樣々に慰め奉る。大臣殿、判官に向て「相構、今度親子の命を助けて給へ。」と宣ば、「遠き國、遙の島へも遷しぞ參せ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さ候とも、義經が勳功の賞に申かへて、御命計は助參せ候べし。御心安う思食され候へ。」と憑もしげに申されければ「たとひ夷が千島なりともかひなき命だにあらば。」と宣ひけるこそ口惜けれ。日數歴れば、同廿四日、鎌倉へ下り著き給ふ。
梶原判官に一日先立て鎌倉殿に申けるは、「日本國は今は殘る所なう隨ひ奉り候。但し御弟九郎大夫判官殿こそ、終の御敵とは見えさせ給候へ。その故は『一谷を上の山より義經が落さずば、東西の木戸口破れ難し。生捕も死捕も義經にこそ見すべきに、物の用にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見參に入べき樣やある。本三位中將殿こなたへたばずば參て給はるべし。』とて既に軍出來候はんとし候しを、景時が土肥に心を合せて、三位中將殿を土肥次郎に預けて後こそ靜まり給て候しか。」と語り申ければ、鎌倉殿打頷いて、「今日九郎が鎌倉へ入なるに、各用意し給へ。」と仰られければ大名小名馳集て、程なく數千騎に成にけり。
金洗澤に關居ゑて、大臣殿父子請取奉て判官をば腰越へ追返さる。鎌倉殿は隨兵七重八重に居ゑ置いて我身は其中におはしながら「九郎はすゝどきをのこなれば此疊の下よりも這出んずる者也。但し頼朝はせらるまじ。」とぞ宣ひける。判官、思はれけるは「去年の正月木曾義仲を追討せしよりこのかた一谷壇浦に至るまで命を棄てゝ平家を責め落し、内侍所、璽の御箱事故なく返入奉り、大將軍父子生捕にして、具して是迄下りたらんには、縱如何なる不思議ありとも、一度はなどか對面なかるべき。凡は九國の惣追捕使にも成され、山陰山陽南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊豫の國ばかりを知行すべき由仰せられて、あまさへ鎌倉へだにも入られぬこそ本意なけれ。さればこは何事ぞ。日本國を靜むる事、義仲義經が爲態にあらずや。譬へば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とする計なり。誰か天下を知らんに知らざるべき。剩今度見參をだにも遂げずして逐ひ上らるゝこそ遺恨の次第なれ。謝する所を知らず。」とつぶやかれけれども力なし。全く不忠なきよし度々起請文を以て申されけれども、景時が讒言によて鎌倉殿用ゐ給はねば、判官泣々一通の状を書て廣元の許へ遣す。其状に云く、
源義經恐ながら申上候意趣は、御代官の其一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、會稽の耻辱を雪ぐ。勳賞行はるべき處に思外虎口讒言によて莫大の勳功をもだせられ、義經をかし無うしてとがをかうむり、功あて誤なしと云へ共、御勘氣を蒙る間空く紅涙に沈む。讒者の實否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素意をのぶるにあたはず。徒に數日を 送る。此時にあたて永く恩顏を拜し奉らず。骨肉同胞の義既に絶え、宿運究めて虚しきにたるか。將又先世の業因の感ずる歟。悲哉。此條故亡父尊靈再誕し給はずば誰の人か愚意の悲歎を申開ん。何れの人か哀怜をたれられん哉。事新き申状、述懷に似たりといへども、義經身體髮膚を父母に受て、幾の時節をへず、故頭殿御他界之間孤と成り、母の懷の中に抱かれて、大和國宇多郡に趣しより以降、未だ一日片時安堵之思に住せず。甲斐なき命をば存すといへども、京都の經廻難治の間、身を在々所々に藏し、邊土遠國を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども交契忽に純熟して、平家の一族追討の爲に上洛せしむる手合に、木曾義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭うち、敵の爲に命をほろぼさん事を顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底に沈まん事を痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併亡魂の憤りを息め奉り、年來の宿望を遂んと欲する外他事なし。剩さへ義經五位の尉に補任之條、當家の重職何事かこれにしかん。然りといへども、愁深く歎切也。佛神の御助けにあらずより外は爭か愁訴を達ん。これによて、諸寺諸社の牛王寶印の裏をもて、野心を挿まざる旨、日本國中の大小の神祇冥道を請じ驚し奉て、數通の起請文を書進すといへども、猶以御宥免なし。夫吾國は神國なり、神は非禮を享給べからず。憑むところ他にあらず。偏に貴殿廣大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計をめぐらし誤なき由をゆうせられ、赦免に預らば、積善の餘慶家門に及び、榮華を永 く子孫に傳へん。仍て年來の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に盡さず。併令省略候畢ぬ。義經恐惶謹言。元歴二年六月五日 源義經進上因幡守殿へ
とぞ書かれたる。
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大臣殿被斬
さる程に、鎌倉殿大臣殿に對面有り。おはしける所に庭を一つ隔てゝ、向なる屋に居奉り、簾の中より見出し、比氣藤四郎義員を使者で申されけるは「平家の人々に別の意趣思奉る事努努候はず。其故は池殿尼御前如何に申給とも故入道殿の御許され候はずば、頼朝爭か扶り候べき。流罪に宥められし事偏に入道殿の御恩也。されば廿餘年迄、さてこそ罷過候しかども朝敵となり給て追討すべき由院宣を給はる間、さのみ王地に孕まれて、詔命を背くべきにもあらねば、力不及、加樣に見參に入給ぬるこそ、本意に候へ。」と申されければ義員此由申さんとて、御前に參りたりければ、居なほり畏り給ひけるこそうたてけれ。國々の大名小名竝居たる其中に、京の者共幾らも有り、皆爪彈をして申しけるは「居なほり畏り給ひたらば御命の助り給べきか。西國で如何にも成給べき人の、生ながらとらはれて、是までくだり給こそ理なれ。」とぞ申ける。或は涙を流す人もあり。其中に或人の申けるは、「猛虎深山に在る 時は百獸震ひ怖づ。檻穽の中に在るに及て尾を搖して食を求むとて、猛い虎の深い山に在る時は、百の獸恐怖ると云へ共檻の中に籠られぬる時は、尾を掉て人に向ふらんやうに、如何に猛き大將軍なれども、かやうに成て後は、心かはる事なれば、大臣殿も、かくおはするにこそ。」と申ける人も有りけるとかや。
去程に九郎大夫判官樣々に陳じ申されけれども、景時が讒言に依て、鎌倉殿更に分明の御返事もなし。「急ぎのぼらるべし。」と仰られければ、同六月九日、大臣殿父子具し奉て、都へぞ返り上られける。大臣殿は今少しも日數の延を嬉き事に思はれける。道すがらも、「こゝにてや/\」とおぼしけれども、國々宿々、打過々々通りぬ。尾張國内海と云ふ所あり。こゝは故左馬頭義朝 [4]か誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過しかば、大臣殿少し憑もしき心出來て、「さては命のいきんずるやらん。」と宣ひけるこそはかなけれ。右衞門督は、「なじかは命をいくべき、か樣に熱き比 [5]なれは、頸の損せぬ樣にはからひて京近うなて切らんずるにこそ。」と思はれけれども、大臣殿のいたく心細氣におぼしたるが心苦しさにさは申されず。偏に念佛をのみぞ申給ふ。日數ふれば、都も近著て近江國篠原の宿に著給ひぬ。
判官情深き人なれば、三日路より人を先立てゝ、善知識の爲に、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。昨日までは親子一所におはしけるを今朝より引放て、別の所に居奉りければ、「さては今日を最後にてあるやらん。」といとゞ心細うぞ思はれける。大臣殿涙をはら/\ と流いて、「抑右衞門督はいづくに候やらん。縱ひ頸は落とも、體は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生ながら別ぬる事こそ悲けれ。十七年が間一日片時も離るゝ事なし。西國にて海底に沈までうき名を流すもあれ故なり。」とて泣れければ、聖哀れに思ひけれども、我さへ心弱くては不叶と思ひて、涙を拭ひ、さらぬ體にもてないて申けるは「今はとかく思食すべからず。最後の御有樣を御覽ぜむにつけても互の御心の中悲かるべし。生を受させ給てよりこのかた、樂み榮え昔も類ひ少し。御門の外戚にて、丞相の位に至らせ給へり。今生の御榮華一事も殘る所なし。今又かゝる御目にあはせ給ふも、先世の宿業なり。世をも人をも恨み思食すべからず。大梵王宮の深禪定の樂み思へば程なし。況や電光朝露の下界の命に於てをや。 たう利天の億千歳、唯夢の如し。三十九年を過させ給ひけむも、僅に一時の間なり。誰れか嘗たりし、不老不死の藥。誰か保たりし、東父西母が命。秦の始皇の奢を極めしも、遂には驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜み給ひしも、空く杜陵の苔に朽にき。生ある者は必ず滅す、釋尊未だ栴檀の煙を免れ給はず。樂盡て悲來る、天人尚五衰の日に逢へりとこそ承はれ。されば佛は、『我心自空、罪福無主、觀心無心、法不住法』とて、善も惡も空なりと觀ずるが、正しく佛の御心に相叶事にて候也。如何なれば、彌陀如來は、五劫が間思惟して發しがたき願を發しましますに、如何なる我等なれば、億々萬劫が間、生死に輪廻して、寶の山に入て、手を空せん事、恨の中の恨み、愚なるが中の口惜い事に候はずや。努努餘年を思食すべからず。」とて、戒持せ奉り、念佛勸め申。大臣殿然るべき善知識哉と思食し、忽に妄念を飜へし て西に向ひ手を合せ、高聲に念佛し給ふ處に、橘右馬允公長、太刀を引 そばめて左の方より御後に立廻り、既に斬奉らんとしければ、大臣殿念佛を停めて、「右衞門督も既にか。」と宣ひけるこそ哀なれ。公長後へ囘るかと見えしかば、頸は前にぞ落にける。善知識の聖も、涙に咽び給ひけり。猛き武士も爭かあはれと思はざるべき。増て彼公長は、平家重代の家人新中納言の許に、朝夕祗候の侍也。さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情なかりける者かなとぞ、人皆慚愧しける。其後右衞門督をも、聖前の如くに戒持せ奉り、念佛勸め申。「大臣殿の最後如何おはしましつる。」と問はれけるこそ最愛けれ。「目出たうまし/\候つる也、御心安う思召れ候へ。」と申されければ、涙を流し悦で、「今は思ふ事なし。さらばとう。」とぞ宣ひける。今度は堀彌太郎斬てけり。頸をば判官持せて都へ入る。屍をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋ける。さしも罪ふかく離れがたく宣ひければ、加樣にしてんげり。
同廿三日大臣殿父子の頭都へ入る。檢非違使ども三條河原にいで向て、是を請取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸たりける。三位以上の人の頸、大路を渡して獄門に懸けらるゝ事異國には其例もやあるらん。我朝に於は未だ其先蹤を聞かず。されば平治に信頼は惡人たりしかば、頸をばはねられたりしかども獄門には懸けられず。平家にとてぞ懸られける。西國より上ては、生て六條を東へ渡され、東國より歸ては、死んで三條を西へ渡され給ふ。生ての恥、死での恥、何れも劣らざりけり。
[4] NKBT reads が.
[5] NKBT reads なれば.
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重衡被斬
本三位中將重衡卿は、狩野介宗茂に預られて、去年より伊豆國におはしけるを、南都の大衆頻に申ければ、「さらば渡せ。」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆藏人大夫頼兼に仰せて、終に奈良へぞ遣しける。都へは入られずして、大津より山科通りに、醍醐路を經て行けば、日野は近かりけり。此重衡卿の北方と申は鳥飼中納言惟實の女、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申ける。三位中將一谷で生捕にせられ給ひし後も、先帝に附まゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒氣なきにとらはれて、舊里に歸り姉の大夫三位に同宿して、日野と云所におはしけり。中將の露の命、草葉の末にかゝて、消やらぬときゝ給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思れけれども、其も叶はねば、泣より外の慰めなくて明し暮し給ひけり。三位中將、守護の武士に宣ひけるは、「此程事に觸て情ふかう芳心おはしつるこそ、あり難う嬉しけれ。同くは最後に今一度芳恩蒙りたき事あり。我は一人の子なければ、此世に思ひおく事なし。年頃相具したりし女房の、日野と云ふ所に有りと聞く。今一度對面して、後生の事をも申置ばやと思ふ也。」とて片時のいとまをこはれけり。武士共さすが岩木ならねば、各涙を流しつゝ、「何かは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦で、「大納言佐殿の御局は是に渡せ給候やらん。本三位中將殿の唯今奈良へ御通り候が、立ながら見參に入らばやと仰候。」と、人を入て言はせけれ ば、北方聞もあへず、「いづらやいづら。」とて、走出て見給へば、藍摺の直垂に、折烏帽子著たる男の、痩黒みたるが、縁に依り居たるぞ、そなりける。北方御簾の際近くよて「如何に夢かや現か、是へ入せ給へ。」と宣ける御聲を聞き給ふに、いつしか、先立つ物は涙也。大納言佐殿は、目もくれ心も消果てしばしは物ものたまはず。三位中將、御簾打かついで、泣々宣ひけるは、「去年の春一谷で如何にも成べかりし身の、責ての罪の報いにや生ながら捕られて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜きに、果は奈良の大衆の手に渡されて、斬るべしとて罷り候。如何にもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思置事なし。出家して形見に髮をもたてまつらばやと思へども、許されなければ力及ばず。」とて、額の髮を少し引きわけて口の及ぶ所をくひ切て、「是を形見に御覽ぜよ。」とてたてまつり給へば、北の方は日頃覺束なくおはしけるより今一入悲の色をぞ増し給ふ。「誠に別れ奉りし後は越前三位のうへの樣に、水の底にも沈むべかりしが、正しうこの世におはせぬ人とも聞ざりしかば、もし不思議にて今一度かはらぬ姿を見もし見えもやすると思ひてこそ、憂ながら今迄もながらへて在りつるに、今日を限りにておはせんずらん悲さよ。いまゝで延つるはもしやと思ふ憑みもありつる物を。」とて、昔今の事ども宣ひかはすにつけても、唯盡せぬ物は涙也。「餘りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ。」とて袷の小袖に淨衣をそへて出されたりければ、三位中將是を著かへて、元著給へる物どもをば、「形見に御覽ぜよ。」とて置かれけり、北の方、「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の 形見にてさぶらへ。」とて、御硯を出されたりければ中將泣々一首の歌をぞ書かれける。
せきかねて涙のかゝる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替ぬる。
北の方きゝもあへず。
ぬぎかふる衣も今は何かせん。けふを限りの形見と思へば。
「契あらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのり給へ。日も闌ぬ。。奈良へも遠う候、武士の待つも心なし。」とて、出給へば、北方袖にすがりて、「如何にや如何に、暫し。」とて、引留め給ふに、中將「心のうちをば唯推量給ふべし。されども終には遁れ果べき身にもあらず。又來ん世にてこそ見奉らめ。」とて出で給へども、誠に此世にてあひ見ん事は、是ぞ限りと思はれければ、今一度立歸り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出られける。北方御簾の際ちかく伏まろびをめき叫給ふ御聲の、門の外まで遙に聞えければ、駒をば更に疾め給はず、涙にくれて行先も見えねば、中々なりける見參かなと、今は悔しうぞ思はれける。大納言佐殿やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引覆いてぞ臥給ふ。
さる程に三位中將をば南都の大衆、請取て、僉議す。「抑此重衡卿は、大犯の惡人たる上、三千五刑の中に洩れ、修因感果の道理極定せり。佛敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の大垣を廻して鋸にてや斬べき堀首にやすべき。」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穩便ならず。唯守護の武士に給うで、木津の邊にて切らすべし。」とて、武士の手 へぞかへしける。武士是を請取て、木津河の端にて切らんとするに、數千人の大衆、見る人幾等と云數を知らず。三位中將の年比召仕はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、最後を見奉らんとて、鞭を打てぞ馳たりける。既に只今斬奉らんとする處に馳著て、千萬立圍うだる人の中を掻き分け三位中將のおはしける御傍近う參りたり。「知時こそ唯今最後の御有樣見參せ候はんとて、是まで參りて候へ。」と泣々申ければ、中將「誠に志の程神妙なり。如何に知時佛を拜み奉て、きらればやと思ふは如何せんずる。あまりに罪深う覺ゆるに。」と宣へば、知時「安い御事候也。」とて、守護の武士に申あはせ、其邊におはしける佛を一體迎へ奉て出きたり。幸に阿彌陀にてぞまし/\ける。河原の沙の上に立參らせ、やがて知時が狩衣の袖のくゝりを解て、佛の御手にかけ、中將に引へさせ奉る。中將是を引へつゝ、佛に向ひ奉て申されけるは、「傳聞く、調達が三逆を作り、八萬藏の聖教を燒滅したりしも、終には天王如來の記 べつに預り、所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ずして却て得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く愚意の發起に在らず、唯世に隨ふ理を存ずる計也。命をたもつ者誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひ是といひ、辭するに所なし。理非佛陀の照覽にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千萬悲しんでも餘りあり。但し三寶の境界は、慈悲を心として、濟度の良縁區也。唯縁樂意、逆即是順、此文肝に銘ず。一念彌陀佛、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念佛に依て、九品託生を遂べし。」とて高聲 に十念唱へつつ頸を延てぞ切らせられける。日來の惡行はさる事なれども、唯今の有樣を見奉に、數千人の大衆も、守護の武士も、皆涙をぞ流しける。其頸般若寺の大鳥井の前に釘附にこそかけられけれ。治承の合戰の時、爰に打立て、伽藍を滅し給へる故也。
北方大納言佐殿首をはねられたりとも屍をば取寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣す。げにも棄置たりければ取て輿に入れ、日野へ舁てぞ歸ける。これをまちうけ見給ひける北方の心の中、推量られて哀也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつき比なれば、何しかあらぬ樣に成り給ひぬ。さても有るべきならねば、其邊に法界寺と云ふ處にてさるべき僧どもあまた語ひて孝養あり。頸をば大佛の聖俊乘房にとかく宣へば大衆に乞て日野へぞ遣しける。頸も屍も煙になし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。北方も樣をかへ、後世菩提を弔らはれけるこそ哀なれ。
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平家物語卷第十二
大地震
平家皆滅び果てゝ西國も靜まりぬ。國は國司に隨ひ、庄は領家のまゝなり。上下安堵して覺えし程に、同七月九日の午刻許に大地おびたゞしく動て良久し。赤縣の中白河の邊、六勝寺皆破れ壞る。九重の塔も上六重を震落す。得長壽院も三十三間の御堂を十七間まで振倒す。皇居を始めて、人々の家家惣て在々所々の神社佛閣、怪しの民屋、さながら破れ壞るゝ音は雷の如く、揚る塵は烟の如し。天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥獸悉く心を盡す。又遠國近國もかくのごとし。大地裂て水湧き出で、磐石破て谷へまろぶ。山壞て河を埋み、海漂ひて濱をひたす。汀漕ぐ船は波にゆられ、陸行く駒は足の立處を失へり。洪水みなぎり來らば、岳にのぼてもなどか助ざらん。猛火燃來らば、川を隔ても暫も去ぬべし。唯悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にも又上がたし。白河六波羅京中に打埋れて死る者幾等といふ數をしらず。四大種の中に、水火風は常に害をなせども、大地に於ては異なる變をなさず。こは如何にしつる事ぞやとて上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動度毎には、唯今ぞ死ぬるとて聲々に念佛申、をめきさ けぶ事おびたゞし。七八十、九十の者も、世の滅するなど云事は、さすが今日明日とはおもはずとて大に噪ぎければ、をさなき者どもも聞て、泣悲しむ事限なし。法皇はその折しも新熊野へ御幸成て、人多く打殺され觸穢出來にければ、急ぎ六波羅へ還御なる。道すがら君も臣もいかばかり御心を碎せ給ひけん。主上は鳳輦に召て、池の汀へ行幸なる。法皇は南庭にあく屋を立てぞましましける。女院宮々は、御所共皆震り倒しければ或は御輿に召し、或は御車に召て、出させ給ふ。天文の博士共馳參て、夕さりの亥子の刻には必ず大地打返すべしと申せば、怖しなども愚也。昔文徳天皇の御宇齊衡三年三月八日の大地震には、東大寺の佛の御ぐしを震落したりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に五丈のあく屋を立ててましましけるとぞ承る。其は上代の事なれば申におよばず。今度の事は是より後も類あるべしとも覺えず。十善帝王都を出させ給て、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を渡して其頸を獄門に懸けらる。昔より今に至るまで怨靈は怖しき事なれば世も如何あらんずらんとて心ある人の歎き悲しまぬは無かりけり。
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紺掻沙汰
同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覺上人頸にかけ、鎌田兵衞が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年の比取出して、たてまつりけるは實の左馬頭の首にはあらず。謀反をすゝめ奉らんためのはか りごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起し、世を討取て、一向父の頭と信ぜられける處へ又尋出してくだりけり。是は年來義朝の不便にして召使はれける紺掻の男、年來獄門に懸られて後世弔ふ人も無りし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申給はり取おろして、兵衞佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。もし世に出でて尋ねらるゝ事もこそあれとて東山圓覺寺といふ所に、深う納めて置きたりけるを、文覺聞出して、彼紺掻男共に、相具して下りけるとかや。今日既に鎌倉へ著くと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。其より色の姿に成て、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請取り給ふぞ哀なる。是を見る大名小名、皆涙を流さずと云事なし。せき巖の峻しきを伐掃て、新なる道場を造り、父の御爲と供養して、勝長壽院と號せらる。公家にもか樣の事を哀と思食て、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。勅使は左大辨兼忠とぞ聞えし。頼朝卿武勇の名譽長ぜるによて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖靈、贈官贈位に及けるこそ目出たけれ。
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平大納言被流
同九月二十三日、平家の餘黨の都にあるを、國々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登國、子息讃岐中將時實上總國、内藏頭信基安藝國、兵部少輔正明隱岐國、二位僧都專親阿波國、法勝寺執行能圓備後國、中納言律師忠快武藏國とぞ聞え し。或西海の波の上、或東關の雲の果て、先途何くを期せず、後會其期を知らず、別の涙を押て、面々に赴かれけん心の中推量れて哀なり。其中に平大納言は、建禮門院の吉田に渡らせ給ふ處に參て「時忠こそ責重うして、今日既に配所へ趣き候へ。同じ都の内に候て、御當りの御事共承はらまほしう候つるに、終に如何なる御有樣にて渡らせ給ひ候はんずらむと、思置參せ候にこそ、行空も覺ゆまじう候へ。」と、泣々申されければ、女院、「げにも昔の名殘とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、吊ふ人も誰かは有るべき。」とて御涙せきあへさせ給はず。
此大納言と申は、出羽前司具信が孫、兵部權大輔贈左大臣時信が子也。故建春門院の御せうとにて高倉の上皇の御外戚なり。世の覺え時のきら目出たかりき。入道相國の北方、八條の二位殿も姉にておはせしかば、兼官兼職、思の如く心の如し。されば程なくあがて正二位の大納言に至れり。檢非違使別當にも三箇度までなり給ふ。此人の廳務の時は、竊盗強盗をば召捕て、樣もなく右のかひなをば腕中より打落し/\追捨らる。されば惡別當とぞ申ける。主上 併三種の神器都へ返し入奉るべき由西國へ院宣を下されたりけるに院宣の御使、花形がつらに、浪形と云燒驗をせられけるも、此大納言のしわざ也。法皇も故女院の御せうとなれば、御形見に御覽ぜまほしう思召しけれども、加樣の惡行によて御憤淺からず。九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申宥めばやと思はれけれども叶はず。子息侍從時家とて、十六になられけるが流罪にも漏れて、伯父の時光卿の許におはしけり。母上帥のす け殿の共に、大納言の袂にすがり、袖をひかへて今を限りの名殘をぞ惜みける。大納言、「終にすまじき別かは。」と心強は宣へどもさこそは悲しうも思はれけめ。年闌齡傾て後、さしも睦まじかりし妻子にも、別果て、住慣し都をも、雲井の餘所に顧みて、古へは名にのみ聞し越路の旅に趣き、遙々と下り給ふに、彼は志賀唐崎、是は眞野の入江、交田の浦と申ければ、大納言泣々詠じ給ひけり。
歸りこん事はかた田に引く網の、目にもたまらぬ我涙かな。
昨日は西海の波の上に漂ひて、怨憎會苦の恨を扁舟の内に積み、今日は北國の雪の下に埋れて、愛別離苦の悲みを故郷の雲に重ねたり。
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土佐房被斬
さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふ由聞えしかば、心を合せて一人づつ皆下り果にけり。兄弟なる上、殊に父子の契をして去年の正月木曾義仲を追討せしより以降度々平家を攻落し、今年の春滅し果てゝ一天を靜め、四海を澄す。勸賞行はるべき所に、如何なる仔細有て、かゝる聞えあるらんと、上一人を始め奉り下萬民に至るまで、不審をなす。此事は、去春攝津國渡邊より舟汰して八島へ渡り給ひし時、逆櫓立うたてじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依て也。定て謀反の心もあるらん。大名共差上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中の噪 ぎと成て、中々惡かりなんとて土佐房正俊を召て「和僧上て、物詣する樣にてたばかり討て。」と宣ひければ正俊畏て承り、宿所へも歸らず、御前を立て軈て京へぞ上りける。
同九月廿九日土佐房都へついたりけれ共、次の日迄判官殿へもまゐらず。土佐房がのぼりたる由聞給ひ、武藏房辨慶を以て召されければ、やがてつれて參りたり。判官宣ひけるは、「如何に鎌倉殿より御文はなきか。」「指たる御事候はぬ間、御文はまゐらせられず候。『御詞にて申せ。』と候ひしは『當時まで都に別の仔細無く候事、さて御渡候故と覺え候。相構てよく守護せさせ給へ。と申せ。』とこそ仰せられ候つれ。」判官、「よもさはあらじ、義經討に上る御使なり。大名ども差上せば、宇治勢田の橋をも引き都の噪ぎとも成て、中々惡かりなん。和僧上せて物詣する樣にて、たばかて討てとぞ仰附られたるらんな。」と宣へば、正俊大に驚て、「何に依てか、唯今さる事の候べき。聊宿願に依て熊野参詣の爲に罷上て候。」其時判官宣ひけるは、「景時が讒言に依て義經鎌倉へもいれられず、見參をだにし給はで追上せらるゝ事は如何に。」正俊「其事は如何候らん、身においては全く御後ぐらう候はず。起請文を書き進らすべき」由申せば。判官「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉たらばこそ。」とて、以外氣色惡しげに成り給ふ。正俊一旦の害をのがれんがために居ながら七枚の起請文を書て或は燒て飮み、或は社に納などして、ゆりて歸り、大番衆に觸回して其夜やがて寄せんとす。判官は磯禪師といふ白拍子の娘しづかと云女を最愛せられけり。しづかも傍を立去る事なし。しづか申けるは、「大路は皆武者で候ふなる。是より催の無らんに、大番衆の者どもの是程噪 ぐべき樣やさぶらふ。あはれ是は晝の起請法師のしわざと覺え候。人を遣して見せさぶらはばや。」とて、六波羅の故入道相國の召使かはれける禿を三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまで歸らず。中々女は苦しからじとて半者を一人見せに遣す。程なく走り歸て申けるは、「禿と覺しきものは、二人ながら土佐房の門に切伏られて候。宿所には鞍おき馬ども、ひしと引立て、大幕の内には、矢負、弓張、者共皆具足して唯今寄んと出立候ふ。少も物詣の景色とは見え候はず。」と申ければ、判官是を聞いてやがて討立給ふ。靜著背長取て投懸奉る。高紐計して、太刀取て出給へば、中門の前に馬に鞍置て引立たり、是に打乘て「門を開よ。」とて門あけさせ、今や/\と待給ふ處に、暫有て直甲四五十騎門の前に推寄せて、閧をどとぞ作ける。判官鐙蹈張り立あがり、大音聲をあげて、「夜討にも晝戰にも、義經たやすう討つべき者は、日本國にはおぼえぬものを。」とて只一騎おめいて懸け給へば、五十騎ばかりの者共中をあけてぞ通しける。さる程に、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云一人當千の兵共、やがて續いて責戰ふ。其後侍共御内に夜討入たりとて、あそこの屋形、爰の宿所より駈來る。程なく六七十騎集ければ、土佐房猛く寄たりけれども、戰に及ばず、散々に懸散されて扶かる者はすくなう、討るゝ者ぞ多かりける。正俊希有にしてそこをばのがれて鞍馬の奧ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、彼法師土佐房を搦めて、次日判官の許へ送りけり。僧正が谷と云所に隱れ居たりけるとかや。正俊を大庭に引居たり。かちの直垂にすちやう頭巾をぞしたりける。判官笑て宣ひけるは「いかに和僧、起請にはうてた るぞ。」土佐房少しも噪がず、居なほりあざ笑て申けるは。「ある事に書て候へば、うてて候ぞかし。」と申す。「主君の命を重んじて、私の命を輕んず、志の程最神妙也。和僧命惜くば、鎌倉へかへし遣さんはいかに。」土佐房、「正なうも御諚候者哉。惜しと申さば、殿は扶け給はんずるか。鎌倉殿の、法師なれども、己ぞねらはんずる者とて、仰蒙しより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取返奉るべき。只御恩には疾々頭を召され候へ。」と申ければ、「さらばきれ。」とて、六條河原に引出て切てげり。褒めぬ人こそ無りけれ。
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判官都落
ここに足立新三郎といふ雜色は、「きやつは下臈なれども、以外さか/\しいやつで候。召使ひ給へ。」とて、判官に參せられたりけるが「内々九郎が振舞見て、我に知せよ。」とぞ宣ひける。正俊がきらるゝを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿に此由申ければ、舍弟參河守範頼を、討手に上せ給ふべき由仰られけり。頻に辭申されけれども、重て仰られける間、力及ばで物具して、暇申に參られたり。「わ殿も九郎がまねし給ふなよ。」と仰られければ、此御詞に恐れて、物具脱置て京上はとどまり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づゝの起請を晝は書き、夜は御坪の内にて讀上讀あげ百日に千枚の起請を書て參らせられたりけれども、叶はずして終に討たれ給ひけり。其後北條四郎時政を大將として討手のぼると聞えしかば、判官殿鎭西の方へ落ばやと思ひ立ち給ふ處に緒方三郎維義は平家を九國の内へも入 奉らず、逐出す程の威勢の者なりければ、判官「我に憑まれよ。」と宣ひける。「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年來の敵で候。給はて頸を切て憑まれ參らせん。」と申。左右なくたうだりければ、六條河原に引出して切てげり。其後維義かひ/\しう領状す。