同二十一日配所伊豆國と定らる。人々樣々に申あはれけれ共、西光法師父子が讒奏に依て、加樣に行はれけり。軈て今日都の内をおひ出さるべしとて、追立の官人、白河の御坊に向てお ひ奉る。僧正なく/\御坊を出て、粟田口の邊、一切經の別所へ入らせ給ふ。山門には、詮ずる所、我等が敵は、西光父子に過たる者なしとて、彼等親子が名字を書いて、根本中堂に坐ます十二神將のうち、金毘羅大將の左の御足の下に蹈せ奉り、「十二神將、七千夜叉、時刻をめぐらさず西光父子が命をめし取り給へや。」と、喚き叫で咒咀しけるこそ聞も怖しけれ。
同廿三日一切經の別所より配所へ赴き給けり。さばかりの法務の大僧正程の人を、追立の欝使が先にけたてさせ、今日を限りに都を出て、關の東へ趣かれけん心の中推量られて哀也。大津の打出の濱にもなりしかば、文殊樓の軒端の白々として見えけるを、二目共見給はず、袖を顏に推當て、涙に咽び給ひけり。山門に宿老碩徳多といへども、澄憲法印、其時はいまだ僧都にて坐けるが、餘に名殘を惜み奉り、粟津まで送り參せ、さてもあるべきならねば、それより暇申てかへられけるに、僧正志の切なる事を感じて、年來御心中に祕せられたりし、一心三觀の血脈相承をさづけらる。此法は釋尊の附屬、波羅奈國の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩より、次第に相傳し來れるを、今日の情に授けらる。さすが我朝は粟散邊地の境、濁世末代といひながら、澄憲是を附屬して、法衣の袂を絞りつゝ、都へ歸のぼられける心の中こそ尊けれ。山門には大衆起て僉議す。「抑義眞和尚より以降、天台座主始まて、五十五代に至るまで、未流罪の例を聞かず。倩事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は當山に攀上て、四明の教法を此所に弘め給しより以降、五障の女人跡絶て、三千の淨侶居を占たり。嶺には一乘讀誦年經て、麓には七社の靈驗日新なり。彼月氏の靈山は、王城の東北大聖 の幽窟也。此日域の叡岳も、帝都の鬼門に峙て、護國の靈地なり。代々の賢王智臣、此所に壇場を占む。末代ならんからに、いかんが當山に瑕をばつくべき。心うし。」とて、喚き叫といふ程こそ有けれ、滿山の大衆、皆東坂本へ降下る。
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一行阿闍梨之沙汰
「抑我等粟津へ行向て、貫首をうばひとゞめ奉るべし。但追立の欝使領送使有なれば、事故なう執得奉らん事有難し。山王大師の御力の外は憑方なし。「誠に別の仔細なく、取え奉るべくは、爰にて先瑞相を見せしめ給へ。」と老僧共肝膽を碎て祈念しけり。
爰に無動寺の法師乘圓律師が童、鶴丸とて生年十八歳になるが、心身を苦しめ、五體に汗を流いて、俄に狂ひ出たり。「我十憚師乘居させ給へり。末代といふ共、爭か我山の貫首をば、他國へは遷さるべき。生々世々に心憂し。さらむに取ては、我此麓に跡をとゞめても、何にかはせん。」とて、左右の袖を顏に押あてゝ、涙をはら/\と流す。大衆これをあやしみて、「誠に十禪師權現の御託宣にてあらば、我等驗を參らせん、少しもたがへず元の主に返し給へ。」とて、老僧共四五百人、手手に持たる數珠どもを、十禪師の大床の上へぞ投上たる。此物狂、走りまはて、拾ひ集め、少も違ず、一々に皆元の主にぞ賦ける。大衆神明の靈験新なる事の尊さに、皆掌を合て、隨喜の感涙をぞ催ける。「其儀ならば行向て奪留奉れ。」といふ程こそありけれ、雲霞の如くに發向す。或は志賀唐崎の濱路に歩みつゞける大衆も有り。或は山田矢ばせの湖上に舟 押出す衆徒も有り。是を見て、さしも緊しげなりつる追立の欝使領送使、四方へ皆逃去りぬ。
大衆國分寺へ參向ふ。前座主大に驚いて、「勅勘の者は、月日の光にだにも當らずとこそ申せ。如何に況や、急ぎ都のうちを逐出さるべしと、院宣宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒とう/\歸り上り給へ。」とて、端近うゐ出て宣けるは、「三台槐門の家をいでて、四明幽溪の窓に入しより以降、廣く圓宗の教法を學して、顯密兩宗を學き。只吾山の興隆をのみ思へり。又國家を祈奉る事おろそかならず。衆徒を育む志も深かりき。兩所山王定て照覽し給ふらん。我身に誤つ事なし。無實の罪に依て、遠流の重科を蒙れば、世をも人をも神をも佛をも恨み奉る事なし。是まで訪ひ來給ふ衆徒の芳志こそ、報じ盡しがたけれ。」とて香染の御衣の袖絞も敢させ給はねば、大衆も皆涙をぞ流しける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候。」と申ければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが、今はかゝる流人の身と成て、如何がやごとなき修學者、智慧深き大衆達には舁捧られては上るべき。縱のぼるべきなり共、鞋などいふ物をしばりはき、同樣に歩續いてこそ上らめ。」とてのり給はず。
爰に西塔の住侶、戒淨坊の阿闇梨祐慶といふ惡僧あり。長七尺計有けるが、黒革縅の鎧の、大荒目に金まぜたるを、草摺ながに著成て、冑をば脱ぎ法師原に持せつゝ、白柄の大長刀杖につき、「あけられ候へ。」とて、大衆の中を押分々々先座主のおはしける所へつと參りたり。大の眼を見瞋し、暫にらまへ奉り、「その御心でこそ、かゝる御目にも逢せ給へ。とう/\召 るべう候。」と申ければ、怖さに急ぎのり給ふ。大衆取得奉る嬉さに、賤き法師原にはあらで、止事なき修學者ども、舁捧奉り喚き叫んで上けるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、前輿舁て、長刀の柄も輿の轅も、碎けよと取まゝに、さしも嶮しき東坂平地を行が如く也。大講堂の庭に輿舁居て、僉議しけるは、「抑我等粟津に行向て、貫首をば奪とゞめ奉りぬ。すでに勅勘を蒙りて、流罪せられ給ふ人をとりとゞめ奉て、貫首に用申さん事、如何有べからん。」と僉議す。戒淨坊阿闇梨、又先の如くに進み出て僉議しけるは、「夫當山は日本無雙の靈地、鎭護國家の道場、山王の御威光盛にして、佛法王法牛角也。されば衆徒の意趣に至るまで、雙なく、賤き法師原までも、世以て輕しめず。況や智慧高貴にして、三千の貫首たり。今は徳行おもうして一山の和尚たり。罪なくして罪を蒙る。是山上洛中の憤り、興福園城の嘲に非ずや。此時顯密の主を失て、數輩の學侶、螢雪の勤怠らむ事心うかるべし。詮ずる所、祐慶張本に稱せられ、禁獄流罪もせられ、首を刎られん事、今生の面目冥土の思出なるべし。」とて、雙眼より涙をはら/\と流す、大衆尤々とぞ同じける。其よりしてこそ、祐慶をばいかめ房とはいはれけれ。其弟子に慧慶律師をば、時の人小いかめ房とぞ申ける。
大衆先座主をば、東塔の南谷、妙光坊へ入奉る。時の横災は、權化の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にて坐けるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大國も小國も、人の口のさがなさは、跡形なき事なりしかども、その疑に依て、果羅國へ流されさせ給ふ。件の國へは三つ道有り。輪池道とて、御幸道、幽地道と て、雜人の通ふ道、暗穴道とて、重科の者を遣す道なり。されば彼一行阿闇梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ遣しける。七日七夜が間、月日の光をみずして行道なり。冥々として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。唯 [1] 澗谷に鳥の一聲計にて、苔のぬれ衣ほしあへず、無實の罪に依て、遠流の重科を蒙むる事を、天道憐み給ひて、九曜の形を現じつゝ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を噬切て、左の袂に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。
[1] The kanji in our copy-text is New Nelson 3330.
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西光被斬
大衆先座主を取とゞむる由、法皇聞召て、いとゞやすからずぞおぼしめされける。西光法師申けるは、「山門の大衆、亂がはしき訴仕る事、今にはじめずと申ながら、今度は以の外に覺候。これ程の狼藉いまだ承り及候はず。能々御誡め候へ。」とぞ申ける。身のたゞ今滅びんずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもかゝはらず、か樣に申て宸襟を惱し奉る。讒臣は國を亂ると云へり。實なる哉、「叢蘭茂からんとすれども、秋の風是を敗り、王者明ならんとすれば、讒臣是を暗す。」とも、か樣の事をや申べき。此事新大納言成親卿以下近習の人々に仰合せられ、山責らるべしと聞えしかば、山門の大衆さのみ王地に孕れて、詔命をそむくべきにあらずとて、内々院宣に隨奉る衆徒もありなど聞えしかば、前座主明雲大僧正は妙光坊に坐けるが、大衆二心有ときいて、「終に如何なる目にか逢はむずらん。」と、心細げにぞ宣ける。さ れども流罪の沙汰はなかりけり。
新大納言成親卿は、山門の騒動に依て、私の宿意をばしばらくおさへられけり。そも内議支度は樣々なりしかども、義勢計にては、此謀反叶ふべうも見えざりしかば、さしも憑れたりける多田藏人行綱、無益なりと思ふ心附にけり。弓袋の料に、送られたりける布共をば、直垂帷に裁縫せて、家子郎等共に著せつゝ、目うちしばたゝいて居たりけるが、倩平家の繁昌する有樣をみるに、當時輙く傾けがたし。由なき事に與してけり。若此事もれぬる物ならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬ先に廻忠して、命生うと思ふ心ぞ附にける。
同五月二十九日の小夜深方に、多田藏人行綱、入道相國の西八條の亭に參て、「行綱こそ申べき事候間參て候へ。」と、いはせければ、入道「常にも參らぬ者が參じたるは何事ぞ。あれきけ。」とて、主馬判官盛國を出されたり。「人傳には申まじき事也。」といふ間、さらばとて、入道自中門の廊へ出られたり。「夜は遙に更ぬらん、唯今如何に、何事ぞや。」とのたまへば、「晝は人目の繁う候間、夜に紛れ參て候。此程に院中の人々の兵具を調へ、軍兵を召され候をば、何とか聞召されて候。」「其は山攻めらるべしとこそきけ。」といと事もなげにぞのたまひける。行綱近うより、 小聲に成て申けるは、「其儀にては候はず、一向御一家の御上とこそ承り候へ。」「さて其をば法皇も知召されたるか。」「仔細にや及び候。成親卿の軍兵催され候も、院宣とてこそ召され候へ。俊寛がと振舞て、康頼がかう申て、西光がと申て。」など云ふ事共、始よりありの儘には指過ていひ散し、暇申てとて出にけり。入道大に驚き大聲をもて、 侍共よびのゝしり給ふ事聞もおびたゞし。行綱なまじひなる事申出して證人にや引れんずらんとおそろしさに、大野に火を放たる心地して、人も追はぬに執袴して、急ぎ門外へぞにげ出ける。入道、先づ貞能を召て、「當家傾うとする謀反の輩、京中に滿々たんなり。一門の人々にも觸申、侍共催せ。」と宣へば、馳廻て催す。右大將宗盛卿、三位中將知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑を鎧ひ、弓箭を帶し馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ。其夜の中に西八條には、兵ども六七千騎も有らんとこそ見えたりけれ。明れば六月一日なり。未暗かりけるに、入道、檢非違使安倍資成をめして、「きと院の御所へ參れ。信成を招いて申さんずる樣はよな、近習の人々、此一門を亡して天下を亂らんとする企あり。一々に召取て、尋沙汰仕るべし。夫をば君も知召るまじう候と申せ。」とこそ宣けれ。資成急ぎ馳參り、大膳大夫信成喚出いて、此由申に、色を失ふ。御前へ參て、此よし奏聞しければ、法皇、「あは此等が内々計りし事の、泄にけるよ。」と思召にあさまし。さるにても、「こは何事ぞ。」とばかり仰られて、分明の御返事もなかりけり。資成急ぎ馳歸て、入道相國に此由申せば、「さればこそ。行綱は、實をいひけり。此事行綱知らせずば、淨海安穩にあるべしや。」とて、飛騨守景家、筑後守貞能に仰て、謀反の輩、搦捕べき由下知せらる。仍二百餘騎、三百餘騎、あそここゝに押寄々々搦捕る。
太政入道先雜色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許へ、「申合すべき事あり。きと立寄給へ。」とのたまひつかはされたりければ、大納言我身の上とは、露しらず、「あはれ是は法皇の 山攻らるべきよし、御結構有を、申とゞめられんずるにこそ。御いきどほり深げ也。如何にもかなふまじきものを。」とて、ないきよげなる布衣たをやかに著なし、鮮なる車に乘り、侍三四人召具して、雜色牛飼に至るまで、常よりも引繕れたり。そも最後とは後にこそおもひ知れけれ。西八條近う成て見給へば、四五町に軍兵滿々たり。あな夥し。こは何事やらんと、胸打騒ぎ、車より下り、門の内に差入て見給へば、内にも、兵共隙はざまも無ぞ滿々たる。中門の口に怖げなる武士共、數多待受て、大納言の左右の手を取て引張り、「縛べう候らん。」と申、入道相國簾中より見出して、「有べうもなし。」とのたまへば、武士共前後左右に立圍み、縁の上に引のぼせて、一間なる處に押籠てけり。大納言夢の心地して、つや/\物もおぼえ給はず。供なりつる侍共、押隔られて、散々に成ぬ。雜色牛飼色を失ひ、牛車を捨て逃去ぬ。
さる程に、近江中將入道蓮淨、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、捕れて出來たり。
西光法師此事聞て、我身の上とや思ひけん、鞭を擧院の御所法住寺殿へ馳參る。平家の侍共、道にて馳向ひ、「西八條へ召るゝぞ。きと參れ。」と言ければ、「奏すべき事有て、法住寺殿へ參る。軈てこそ參らめ。」と云ければ、「惡い入道哉。何事をか奏すべかんなる。さないはせそ。」とて、馬より取て引落し、中に縛て、西八條へさげて參る。日の始より根元與力の者なりければ、殊によう縛て、坪の内にぞ引居たる。入道相國大床に立て、「入道傾うとする奴が なれる姿よ。しやつ爰へ引寄よ。」とて、縁のきはに引寄させ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞふまれける。「本より己らが樣なる下臈の果を君の召仕はせ給ひて、なさるまじき官職をなし給び、父子ともに過分の振舞をすると見しに合せて、過たぬ天台座主流罪に申行ひ、天下の大事引出いて、剩へ此一門ほろぼすべき謀反に與してける奴なり。有のまゝに申せ。」とこそのたまひけれ。西光元より勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も變ぜず、惡びれたる景氣もなし。居直り、あざ笑て申けるは、「さもさうず、入道殿こそ過分の事をばのたまへ。他人の前はしらず、西光が聞ん處に左樣の事をば、えこそのたまふまじけれ。院中に召仕るる身なれば、執事の別當成親卿の院宣とてもよほされし事に與せずとは申べき樣なし。それは與したり。但し耳に留まる事をも宣ふ物かな。御邊は故刑部卿忠盛の子で坐しか共、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿の邊に立入り給ひしをば、京童部は高平太とこそ言しか。保延の頃、大將軍承り海賊の張本三十餘人、搦進ぜられたりし賞に四品して、四位の兵衞佐と申ししをだに、過分とこそ時の人々は申合れしか。殿上の交をだに嫌はれし人の子孫にて太政大臣迄なりあがたるや過分なるらむ。侍品の者の、受領檢非違使に成る事、先例傍例なきに非ず。なじかは過分なるべき。」と、憚る所なう申ければ、入道餘にいかて、物も宣はず。斬し有て「しやつが頸左右なう切な。よく/\戒めよ。」とぞ宣ける。松浦太郎重俊承て、足手を挾み樣々に痛問ふ。本より爭がひ申さぬ上、糺問は緊かりけり。殘なうこそ申けれ。白状四五枚に記され、やがて、しやつが口をさけとて、口を裂れ、五條朱 雀にて、きられにけり。嫡子前加賀守師高、尾張の井戸田へ流されたりけるを、同國の住人小胡麻の郡司維季に仰て討れぬ。次男近藤判官師經禁獄せられけるを、獄より引出され、六條河原にて誅せらる。其弟左衞門尉師平、郎等三人、同く首を刎られけり。是等は云甲斐なき者の秀て、いろふまじき事に綺ひ、あやまたぬ天台座主流罪に申行ひ、果報や盡にけん、山王大師の神罰冥罰を立處に蒙て、斯る目に逢へりけり。
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小教訓
新大納言は一間なる所に押籠られ、汗水に成りつゝ、あはれ是は日比の有まし事の洩聞えけるにこそ。誰漏しつらん。定て北面の者共が中にこそ有らむなど、思はじ事なう案じ續けて坐けるに、後の方より足音の高らかにしければ、すは唯今我命を失はむとて、武士共が參るにこそと待給に、入道自ら板敷高らかに踏鳴し、大納言の坐ける後の障子を、さとあけられたり。素絹の衣の、短らかなるに、白き大口ふみくゝみ、聖柄の刀押くつろげてさす儘に、以の外に怒れる氣色にて、大納言を暫睨まへ、「抑御邊は平治にも已に誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申宥、頸を繼たてましは如何に。何の遺恨を以て、此一門ほろぼすべき由御結構は候けるやらん。恩を知を人とはいふぞ、恩を知ぬをば畜生とこそいへ。されども當家の運命盡ざるに依て、迎へたてまつたり。日比の御結構の次第、直に承らん。」とぞ宣ける。大納言「全くさること候はず。人の讒言にてぞ候らむ。能々御尋候へ。」と申されければ、入 道言せも果ず。「人やある、人やある。」と召れければ、貞能參りたり。「西光めが白状參せよ。」と仰られければ、持て參りたり。是を取て二三返押返々々讀きかせ、「あなにくや、此上は何と陳ずべき。」とて、大納言の顏にさと投懸け、障子をちやうとたててぞ出られける。入道猶腹を居兼て、「經遠、兼康」と召せば、瀬尾太郎、難波次郎、參りたり。「あの男取て、庭へ引落せ。」と宣へば、是等は左右なうもし奉らず、「小松殿の御氣色いかゞ候はんずらん。」と申ければ、入道相國大にいかて、「よし/\、己らは内府が命をば重して、入道が仰をば輕うじけるごさんなれ。その上は力及ばず。」と宣へば、此事あしかりなんとや思けん、二人の者共立上て、大納言を庭へ引落し奉る。其時入道心地よげにて、「取て伏せて、喚かせよ。」とぞ宣ける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「如何樣にも御聲の出べう候。」と私語いて引伏奉れば、二聲三聲ぞ喚れける。其體、冥途にて娑婆世界の罪人を、或は業の秤にかけ、或は淨頗梨鏡に引向て、罪の輕重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、是には過じとぞ見えし。蕭樊囚れ囚て韓彭俎醢たり。晁錯戮をうけて周儀罪せらる。たとへば、蕭何、樊、韓信、彭越、是等は皆高祖の忠臣なりしか共、小人の讒に依て、過敗の恥をうくとも、か樣の事をや申べき。
新大納言は我身のかくなるにつけても、子息丹波の少將成經以下、をさなき人々如何なる目にか遭らむと、おもひやるにもおぼつかなし。さばかり熱き六月に裝束だにもくつろげず、熱さもたへがたければ、 胸せき上る心地して、汗も涙も爭ひてぞ流れける。「さり共小松殿は、 思召はなたじ者を。」とのたまへ共、誰して申べしと覺給はず。
小松大臣は、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將車のしりにのせつゝ、衞府四五人、隨身二三人召具して、兵一人も召具せられず、殊に大樣げで坐したり。入道を始奉て、人々皆思はずげにぞ見給ひける。車より下給ふ處に、貞能つと參て、「など是程の御大事に、軍兵をば一人も召具せられ候はぬぞ。」と申せば、「大事とは天下の大事をこそいへ、か樣の私事を大事と云樣やある。」とのたまへば、兵仗を帶したりける者共もそゞろいてぞ見えける。そも大納言をば何くに置かれたるやらんと、此彼の障子引明け/\見給へば、ある障子の上に蜘手結たる所あり。爰やらんとて開られたれば、大納言坐けり。涙に咽びうつぶして、目も見合せ給はず。「如何にや。」と宣へば、その時見附奉り、うれしげに思はれたる氣色、地獄にて罪人共が、地藏菩薩を見奉るらんもかくやと覺えて哀なり。「何事にて候やらん、かゝる目にあひ候。さて渡らせ給へば、さり共とこそ憑まゐらせて候へ。平治にも已に誅せらるべきにて候しが、御恩を以て頸をつがれ參せ、正二位の大納言に上て、歳已に四十に餘り候。御恩こそ生々世々にも報じ盡しがたう候へ。今度も同じくは、かひなき命を助けさせ坐ませ。命だに生て候はゞ、出家入道して、高野粉川に閉籠り、後世菩提の勤を營み候はん。」とぞ被申ければ、「さ候共、御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さは候共、重盛かうて候へば、御命にもかはり奉るべし。」とて出られけり。父の禪門の御前に坐て、「あの成親卿失れん事、よく/\御計候べし。先祖修理大夫顯季、白河院に召仕はれてより以降、家に其例なき正二位の大納言に上 て、當時君無雙の御いとほしみ也。軈て頸を刎られん事、いかがさぶらふべからん。都の外へ出されたらんに、事たり候なん。北野天神は時平大臣の讒奏にて、憂名を四海の浪に流し、西宮の大臣は、多田滿仲が讒言にて、恨を山陽の雲によす。各無實なりしか共、流罪せられ給ひにき。是皆延喜の聖代、安和の御門の御僻事とぞ申傳へたる。上古猶かくの如し。況や末代に於てをや。既に召置れぬる上は、急ぎ失はれず共、何の苦みか候べき。『刑の疑しきをば輕んぜよ。功の疑しきをば重んぜよ。』とこそ見えて候へ。事新しく候へども、重盛彼大納言が妹に相具して候。維盛又聟なり。か樣に親しく成て候へば、申とや思召され候らん。其儀では候はず。世の爲君の爲、家の爲の事を以て申候。一年故少納言入道信西が執權の時に相當て、我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衞督藤原仲成を誅られてより以來、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を始て執行ひ、宇治の惡左府の死骸を掘おこいて、實檢せられたりし事などは餘なる御政とこそ覺え候しか。されば古の人々も、『死罪を行へば、海内に謀反の輩絶ずと。』こそ申傳て候へ。此詞に附て、中二年有て平治に又世亂れて、信西が埋れたりしを掘出し、首を刎て大路を渡され候にき。保元に申行ひし事、幾程もなく、身の上にむかはりにきと思へば、怖しうこそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。旁恐あるべし。御榮花殘る所なければ、思召す事在まじけれ共、子々孫々迄も繁昌こそあらまほしう候へ。父祖の善惡は、必子孫に及ぶと見えて候。積善家必餘慶あり積惡門には必餘殃とどまるとこそ承れ。如何樣にも、今夜首を刎られん事は、然べう候はず。」と申されければ、 入道相國げにもとや思はれけん、死罪は思とゞまりぬ。
其後大臣中門に出て、侍共に宣けるは、「仰なればとて、大納言左右なう失ふ事有るべからず。入道腹のたちのまゝに、物噪き事し給ては、後に必悔しみ給ふべし。僻事してわれ恨な。」と宣へば、兵共、皆舌を振て恐慄く。「さても經遠、兼康が、けさ大納言に情なう當りける事、返返も奇怪也。重盛が還聞ん所をばなどかは憚らざるべき。片田舎の者はかゝるぞとよ。」と宣へば、難波も瀬尾も、共に恐入たりけり。大臣はか樣に宣て、小松殿へぞ歸られける。さる程に大納言のともなりつる侍ども、中御門烏丸の宿所へ走り歸て、此由申せば、北方以下の女房達、聲も惜まず泣叫ぶ。「既に武士の向ひ候。少將殿を始參らせて、君達も捕れさせ給ふべしとこそ聞え候へ。急ぎ何方へも忍ばせ給へ。」と申ければ、「今は是程の身に成て、殘り留る身とても、安穩にて何かはせん。唯同じ一夜の露とも消ん事こそ本意なれ。さても今朝を限と知らざりける悲しさよ。」とて、臥まろびてぞ泣かれける。已に武士共の近附よし聞えしかば、かくて又恥がましくうたてき目を見んもさすがなればとて、十に成給ふ女子、八歳の男子、車に取乘せ、何くを指共なくやり出す。さても有べきならねば、大宮を上りに、北山の邊雲林院へぞ坐ける。其邊なる僧坊に下置奉て、送の者ども、身の捨がたさに、暇申て歸りけり。今は幼き人々計殘居て、又事問ふ人もなくして御座けむ北方の心の中、推量られて哀なり。暮行影を見給ふにつけては、大納言の露の命、此夕を限也と、思ひやるにも消ぬべし。女房侍多かりけれ共、物をだに取したゝめず、門をだに推もたてず。馬どもは厩 に竝たちたれ共、草飼ふ者一人もなし。夜明れば馬車門に立なみ、賓客座に列て、遊戯れ舞躍り、世を世とも思ひ給はず、近き傍の人は、物をだに高く言はず、怖畏てこそ昨日までも有しに、夜の間に變る有樣、盛者必衰の理は目の前にこそ顯れけれ。樂盡て哀來ると書れたる江相公の筆の跡、今こそ思しられけれ。
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少將乞請
丹波少將成經は、其夜しも院の御所法住寺殿に上臥して、未出られざりけるに、大納言の侍共、急ぎ御所へ馳參て、少將殿を呼出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より今まで告知せざるらん。」と、宣も果ねば、宰相殿よりとて使あり。此宰相と申は、入道相國の弟也、宿所は六波羅の惣門の内なれば門脇の宰相とぞ申ける。丹波少將には舅なり。「何事にて候やらん、入道相國のきと西八條へ具し奉れと候と申せ。」といはせられたりければ、少將此事心得て、近習の女房達呼出し奉り、「夜邊何となう世の物騒う候しを、例の山法師の下るかと餘所に思て候へば、早成經が身の上にて候ひけり。大納言よさり斬らるべう候なれば、成經も同罪にてこそ候はんずらめ。今一度御所へ參て、君をも見まゐらせたう候へ共、既にかゝる身に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。女房達御前へ參り、此由奏せられければ、法皇大に驚かせ給て、さればこそ今朝の入道相國が使に早御心得あり。「あは此等が内々謀し事の漏にけるよ。」と思召すにあさまし。「さるにても是へ。」と御氣色有ければ、參られたり。法皇も御 涙を流させ給ひて、仰下さるゝ旨もなし。少將も涙に咽で申あぐる旨もなし。良有てさてもあるべきならねば少將袖を顏に押當てゝ、泣々罷出られけり。法皇は後を遙に御覽じ送らせ給ひて、末代こそ心憂けれ、是かぎりで又御覽ぜぬ事もやあらんずらんとて、御涙を流させ給ぞ忝き。院中の人々、少將の袖をひかへ、袂にすがて名殘ををしみ、涙を流さぬはなかりけり。
舅の宰相の許へ出られたれば、北方は近う産すべき人にて御座けるが、今朝より此歎を打添て、已に命も消入る心地ぞせられける。少將御所を罷出つるより、流るゝ涙つきせぬに、北方の有樣を見給ひてはいとゞ爲方なげにぞ見えられける。少將乳母に六條と云女房あり。「御乳に参り始候らひて、君をちの中より抱上参て、月日の重なるに隨ひて、我身の年の行をば歎ずして、君の成人しう成せ給ふ事をのみうれしう思ひ奉り、白地とは思へども、既に二十一年、片時も離れ参らせず。院内へ参らせ給ひて、遲う出させ給ふだにも、覺束なう思ひ参らするに、如何なる御目にか遭せ給はんずらん。」と泣く。少將、「痛な歎そ。宰相さて坐れば、命許はさり共乞請給はんずらん。」と、慰たまへども、人目もしらず、泣悶えけり。
西八條殿より、使しきなみに有ければ、宰相「行むかうてこそ、ともかうも成め。」とて出給へば少將も宰相の車の後に乘てぞ出られける。保元平治より以來、平家の人々、樂榮えのみ有て、愁歎はなかりしに、此宰相計こそ、由なき聟ゆゑに、かゝる歎をばせられけれ。西八條近うなて、車を停め、先案内を申入られければ、太政入道「丹波少將をば此内へは入らるべから ず。」と宣ふ間、其邊近き侍の家におろし置つゝ、宰相計ぞ門の内へは入給ふ。少將をば、いつしか兵共打圍んで守護し奉る。憑れつる宰相殿には離れ給ひぬ。少將の心の中、さこそは便無りけめ。宰相中門に居給ひたれば、入道對面もし給はず。源大夫判官季貞をもて申入られけるは、「由なき者に親うなて、返々悔しう候へども、甲斐も候はず。相具せさせて候者の、此程惱む事の候なるが、今朝より此歎を打そへては既に命も絶なんず。何かはくるしう候べき。少將をば暫く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候べき。」と申されければ、季貞参て此由申す。「あはれ例の宰相が、物に心得ぬ。」とて、頓に返事もし給はず。良有て入道宣けるは、「新大納言成親、此一門を滅して天下を亂むとする企あり。此少將は既に彼大納言が嫡子也。疎うもあれ、親うもあれ、えこそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、御邊とてもおだしうや御座べきと申せ。」とこそのたまひけれ。季貞歸参て、此由宰相殿に申ければ、誠に本意なげにて、重て申されけるは、「保元平治より以降、度々の合戰にも、御命に代り参らせんとこそ存候へ。此後もあらき風をば、先防ぎ参らせ候はんずるに、縱教盛こそ年老て候とも、若き子供數多候へば、一方の御固にはなどか成で候べき。それに成經暫預らうと申を、御容れ無きは、教盛を一向二心ある者と思召にこそ。是程後めたう思はれ参らせては、世に有ても何にかはし候べき。今は只身の暇を賜て、出家入道し、片山里に籠て、一筋に後世菩提の勤を營み候はん。由なき憂世の交なり。世にあればこそ望もあれ、望の叶はねばこそ恨もあれ。しかじ憂世を厭ひ、眞の道に入なんには。」とぞ宣 ける。季貞参て、「宰相殿は早思召切て候ぞ。ともかうも能樣に御計ひ候へ。」と申ければ、入道、大に驚いて、「さればとて出家入道まではあまりにけしからず。其儀ならば、少將をば暫御邊に預奉ると云べし。」とこそ宣けれ。季貞歸まゐて、宰相殿に此由申せば、「あはれ人の子をば持まじかりける物かな。我子の縁に結れざらむには、是程心をば碎じ物を。」とて出られけり。
少將待受奉て、「さていかゞ候つる、」と申されければ、「入道餘に腹をたてて、教盛には終に對面もし給はず。叶ふまじき由頻に宣ひつれ共、出家入道まで申たればにやらん、暫く宿所に置奉れとの給ひつれども、始終よかるべしとも覺えず。」少將、「さ候へばこそ成經も御恩をもて、暫の命も延候はんずるにこそ。其につき候ては、大納言が事をばいかゞ聞召され候ぞ。」「其迄は思も寄ず。」と宣へば、其時涙をはら/\と流いて、「誠に御恩を以てしばしの命もいき候はんずる事は然るべう候へども、命の惜う候も、父を今一度見ばやと思ふ爲也。大納言が斬れ候はんに於ては、成經とても、かひなき命を生て何にかはし候べき。唯一所でいかにもなる樣に、申てたばせ給ふべうや候らん。」と申されければ、宰相世にも苦げにて、「いさとよ、御邊の事をこそとかう申つれ。其までは思も寄ねども、大納言殿の御事をば、今朝内の大臣の樣々に申されければ、其も暫は心安い樣にこそ承はれ。」と宣へば、少將、泣々手を合てぞ悦れける。「子ならざらむ者は、誰か唯今我身の上をさしおいて、是程までは悦べき。實の契は親子の中にぞ有ける。子をば人の持べかりける物哉。」とやがて思ぞ返されける。さて今朝 の如くに同車して歸られけり。宿所には女房達、死だる人の生かへりたる心地して、差つどひて皆悦び泣どもせられけり。
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教訓状
太政入道は、か樣に人々數多縛め置ても、猶心行ずや思はれけん。既に赤地の錦の直垂に、黒絲縅の腹卷の、白金物打たる胸板せめて、先年安藝守たりし時、神拜の次に、靈夢を蒙て、嚴島の大明神より現に賜はられたりける銀の蛭卷したる小長刀、常の枕を放ず立られたりしを脇挾み、中門の廊へぞ出られける。其氣色大方ゆゝしうぞ見えし。貞能を召す。 [2]筑後守貞能は木蘭地の直垂に緋縅の鎧著て、御前に畏て候。やゝあて入道宣けるは、「貞能、此事如何思ふ。保元に平右馬助を始として、一門半過て、新院の御方へ参にき。一宮の御事は、故刑部卿殿の養君にて坐いしかば、旁々見放ち参らせ難かしども、故院の御遺誡に任て、御方にて先を懸たりき。是一の奉公也。次に平治元年十二月、信頼義朝が院内を取奉り、大内にたて籠り天下黒闇と成しに、入道身を捨て、凶徒を追落し、經宗惟方を召縛しに至まで、既に君の御爲に命を失んとする事度度に及ぶ。たとひ人何と申す共、七代までは此一門をば爭でか捨させ給べき。其に成親と云ふ無用の徒者、西光と云下賤の不當人めが申す事に附かせ給て、此一門を滅すべき由、法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏する者あらば、當家追討の院宣下されつと覺るぞ。朝敵となて後は、いかに悔ゆとも益あるまじ。世を靜めん程、 法皇を鳥羽の北殿へ移奉るか、然らずは、是へまれ、御幸をなし参らせんと思ふは如何に。其儀ならば、北面の輩、箭をも一つ射んずらん。侍共にその用意せよと觸べし。大方は入道院方の奉公思切たり。馬に鞍おかせよ。きせながとり出せ。」とぞ宣ける。
主馬判官盛國、急ぎ小松殿へ馳參て、「世は既にかう候。」と申ければ、大臣聞も敢ず。「あは早成親卿が首を刎られたるな。」と宣へば、「さは候はねども、入道殿御著背長召され候。侍共も皆打立て法住寺殿へ寄んと出たち候。法皇をば鳥羽殿へ押籠参らせうと候が、内々は鎭西の方へ流し参らせうと被擬候。」と申せば、大臣、爭かさる事在べきと思へ共、今朝の禪門の氣色、さる物狂しき事もあるらむとて、車を飛して、西八條へぞおはしたる。
門前にて車よりおり、門の内へ指入て見給へば、入道腹卷を著給ふ上は一門の卿相雲客數十人、各色々の直垂に、思々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。其外諸國の受領衞府諸司などは、縁に居溢れ、庭にもひしと竝居たり。旗竿共引そばめ/\、馬の腹帶を固め、甲の緒を縮め、唯今皆打立んずる氣色共なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそば取て、さやめき入給へば、事の外にぞ見えられける。
入道ふし目に成て、あはれ例の内府が、世をへうする樣に振舞、大に諫ばやとこそ思はれけめども、さすが子ながらも、内には五戒を保て慈悲を先とし、外には五常を亂らず、禮儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹卷を著て向はむ事、面はゆう辱しうや思はれけん、障子を少し引立て、素絹の衣を腹卷の上に、周章著に著給たりけるが、胸板の金物の少しはづれ て見えけるを藏さうと、頻に衣の胸を引ちがへ引ちがへぞし給ひける。大臣は舎弟宗盛卿の座上につき給ふ。入道も宣ひ出さず、大臣も申しいださるゝ事もなし。
良有て入道のたまひけるは、「成親卿が謀反は事の數にもあらず。一向法皇の御結構にて在けるぞや。世をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へ遷奉るか、然らずば、是へまれ、御幸を成まゐらせんと思ふは如何に。」と宣へば、大臣聞も敢ず、はら/\とぞ泣れける。入道、「如何に/\。」とあきれ給ふ。大臣涙を抑て申されけるは、「此仰承候に、御運は早末に成ぬと覺候。人の運命の傾んとては、必惡事を思立候也。又御有樣、更現共覺候はず。さすが我朝は邊地粟散の境と申ながら、天照大神の御子孫、國の主として、天兒屋根命の末、朝の政を司どり給ひしより以降、太政大臣の官に至る人の、甲冑をよろふ事禮儀を背にあらずや。就中に御出家の御身なり。夫三世の諸佛解脱幢相の法衣を脱捨て、忽に甲冑を鎧ひ、弓箭を帶しましまさむ事、内には既に破戒無慙の罪を招くのみならず、外には又仁義禮智信の法にも背き候なんず。旁々恐ある申事にて候へども、心の底に旨趣を殘すべきに非ず。先世に四恩あり。天地の恩、國王の恩、父母の恩、衆生の恩是也。其中に最重きは朝恩也。普天の下王地に非ずと云ふ事なし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折し賢人も、勅命背き難き禮儀をば存知すとこそ承はれ。何に況、先祖にも未聞ざし太政大臣を極めさせ給ふ。所謂重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐門の位に至る。加之國郡半過て一門の所領と成、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に非ずや。今是等の莫大の御恩を思召忘れて、猥しく法皇 を傾け参らせ給はん事、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非禮を受給はず。然れば君の思召立ところ、道理半無に非ず。中にも此一門は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪を靜る事は無雙の忠なれ共、其賞に誇る事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七箇條の御憲法に『人皆心有り、必各執あり、彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理誰か能く定べき。相共に賢愚なり。環の如くして端なし。爰を以て縱人怒ると云とも、かへて我咎を懼れよ。』とこそ見えて候へ。然れ共御運盡ざるに依て、御謀反已に露ぬ。其上仰合せらるゝ成親卿を召置れぬる上は、縱君如何なる不思議を思召し立せ給ふとも、何の恐か候べき。所當の罪科行れん上は、退いて事の由を陳じ申させ給て、君の御爲には彌奉公の忠勤を盡し、民の爲には益撫育の哀憐を致させ給はば、神明の加護に預り佛陀の冥慮に背べからず。神明佛陀感應あらば、君も思召なほす事などか候はざるべき。君と臣とを比るに親疎別く方なし。道理と僻事を竝べんに、爭か道理に附ざるべき。
[2] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads 筑後守貞能、木蘭地の直垂に.