饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:16353 字 更新时间:2026-6-19 10:59

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蘇武

入道相國の憐み給ふ上は、京中の上下、老たるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬは無りけり。さても千本迄造り出せる卒都婆なれば、さこそは小さうも有けめ。薩摩潟より遙々と、都まで傳はりけるこそ不思議なれ。餘に思ふ事はかく驗有にや。

古漢王胡國を攻られけるに、始は李少卿を大將軍にて、三十萬騎むけられたりけるが、漢王の軍弱く、胡國の戰強して、官軍皆討ち滅さる。剩へ大將軍李少卿、胡王のために生擒らる。次に蘇武を大將軍にて、五十萬騎を向けらる。猶漢の軍弱く夷の戰強して官軍皆滅にけり。兵六千餘人生擒らる。其中に大將軍蘇武を始として、宗との兵六百三十餘人、勝出し一々に片足を切て、追放つ。即死する者もあり、程へて死ぬる者もあり。其中にされ共蘇武は死ざりけり。片足なき身となて、山に上ては木の實を拾ひ、春は澤の根芹をつみ、秋は田面の落穗を拾ひなどして露の命を過しけり。田にいくらもありける鴈ども、蘇武に見馴て恐ざりければ、是等は皆我故郷へ通ふ者ぞかしと懷しさに、思ふ事を一筆書て、「相構て是漢王 に上れ。」と云含め、鴈の翅に結つけてぞ放ける。かひ%\しくも田面の鴈、秋は必ずこしぢより都へ通ふものなるに、漢の昭帝上林苑に御遊ありしに、夕されの空うす曇り、なにとなう物哀なりけるをりふし、一行の鴈飛渡る。其中より鴈一つ飛さがて、己が翅に結附たる玉章をくひ切てぞ落しける。官人これを取て、御門に上る。披て叡覽あれば、「昔は巖窟の洞に籠られて、三春の愁歎を送り、今は昿田の畝に捨られて、胡狄の一足となれり。縱骸は胡の地に散すと云とも、魂は二度君邊に仕へん。」とぞ書たりける。其よりしてぞ文をば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。「あな無慚や蘇武が譽の跡なりけり。未胡國にあるにこそ。」とて、今度は李廣と云將軍に仰て、百萬騎を差遣す。今度は漢の戰強くして、胡國の軍破れにけり。御方戰勝ぬと聞えしかば、蘇武は昿野の中より這出て、「是こそ古の蘇武よ。」と名乘る。十九年の星霜を送て、片足は切れながら、輿に舁れて、故郷へぞ歸りける。蘇武十六の歳より胡國へ向けられけるに、御門より賜りたりける旗をば何としてかかくしたりけん、身を放たず持たりけり。今取出して御門の見參に入たりければ、君も臣も感嘆斜ならず。君の爲大功雙無りしかば、大國數多賜り、其上典屬國と云司を下されけるとぞ聞えし。

李少卿は、胡國に留て、終に歸らず。如何にもして漢朝へ歸らんとのみ歎けども、胡王許さねば叶はず。漢王是をば知り給はず、君の爲に不忠の者なりとて、はかなくなれる二親の骸を掘起いて打せらる。其外六親を皆罪せらる。李少卿此由を傳聞いて、恨深うぞ成にける。さりながら猶故郷を戀つゝ、君に不忠なき樣を一卷の書に作て參らせたりければ、「さては 不愍の事ごさんなれ。」とて、父母が骸を掘いだいて打せられたる事をぞ、悔しみ給ひける。漢家の蘇武は、書を鴈の翅に附て舊里へ送り、本朝の康頼は、浪の便に歌を故郷に傳ふ。彼は一筆のすさみ、是は二首の歌、彼は上代、是は末代、胡國、鬼界が島、境を隔て、世々は替れども、風情は同じ風情。ありがたかりし事ども也。

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平家物語卷第三

赦文

治承二年正月一日、院御所には拜禮行はれて、四日の日朝覲の行幸在けり。何事も例にかはりたる事は無れ共、去年の夏新大納言成親卿以下、近習の人々多く失れし事、法皇御憤未止ず、世の政も懶く思召されて、御心よからぬ事にてぞ在ける。太政入道も、多田藏人行綱が告知せて後は、君をも御後めたき事に思ひ奉て、上には事なき樣なれ共、下には用心して、苦笑てのみぞ在ける。

同正月七日彗星東方に出づ。蚩尤氣とも申す。又赤氣共申す。十八日光を増す。

去程に入道相國の御女建禮門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、御惱とて、雲の上、天が下の歎にてぞ在ける。諸寺に御讀經始り、諸社へ官幣使を立らる、醫家藥を盡し、陰陽術を窮め、大法秘法一つとして殘る所なう修せられけり。され共、御惱たゞにも渡せ給はず、御懷姙とぞ聞えし。主上今年十八、中宮は二十二に成せ給ふ。然共、未皇子も姫宮も出來させ給はず。若皇子にてわたらせ給はば、如何に目出度からんと、平家の人々は唯今皇子御誕生の有樣に、勇悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏の御繁昌折を得たり、皇子御誕生疑なし。」 とぞ申あはれける。御懷姙定らせ給しかば、有驗の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿佛菩薩につけて、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日、中宮御著帶有けり。仁和寺の御室守覺法親王、御參内有て、孔雀經の法をもて、御加持あり。天台の座主覺快法親王、同う參せ給て、變成男子の法を修せられけり。

かゝりし程に、中宮は月の重るに隨て、御身を苦うせさせ給ふ。一度笑ば百の媚有けん漢の李夫人、昭陽殿の病の床もかくやと覺え、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨を帶び、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露重げなるよりも猶痛しき御樣なり。かゝる御惱の折節に合せて、こはき御物怪共、取入奉る。よりまし明王の縛に掛て、靈顯れたり。殊には讃岐院の御靈、宇治惡左府の憶念、新大納言成親の死靈、西光法師が惡靈、鬼界島の流人共の生靈などぞ申ける。是によて太政入道生靈も死靈も、宥らるべしとて、其比やがて讃岐院御追號有て、崇徳天皇と號す。宇治惡左府、贈官贈位行はれて、太政大臣正一位を贈らる。勅使は少内記惟基とぞ聞えし。件の墓所は、大和國添上の郡、河上の村、般若野の五三昧也。保元の秋掘起して捨られし後は死骸道の邊の土となて、年々に只春の草のみ茂れり。今勅使尋來て、宣命を讀けるに、亡魂いかに嬉とおぼしけん。怨靈はかく怖ろしき事也。されば早良の廢太子をば崇道天皇と號し、井上内親王をば、皇后の職位に復す。是皆怨靈を宥められし策也。冷泉院の御物狂う坐し、花山の法皇十善萬乘の定位をすべらせ給しは、基方民部卿が靈とかや。三條院の御目も御覽ぜられざりしは、寛算供奉が靈也。

門脇宰相か樣の事共傳聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈樣々に候也。何と申候とも非常の赦に過たる事有るべし共覺え候はず。中にも鬼界島の流人共召還されたらん程の功徳善根、爭か候べき。」と申されければ、小松殿父の禪門の御前に坐て、「あの丹波少將が事を宰相の強ちに歎申候が不便に候。中宮御惱の御事、承及ぶ如くんば、殊更成親卿が死靈などと聞え候。大納言が死靈を宥んと思召んにつけても、生て候少將をこそ召還され候はめ。人の念ひを休させ給はば、思召す事も叶ひ、人の願を叶へさせ給はば、御願も既成就して中宮やがて、皇子御誕生有て、家門の榮花彌盛に候べし。」など被申ければ、入道相國、日來にも似ず事の外に和いで、「さて俊寛と康頼法師が事は、如何に。」「其も同う召こそ還され候はめ。若一人も留られむは、中中罪業たるべう候。」と申されたりければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊寛は隨分入道が口入を以て、人と成たる者ぞかし。其に所しもこそ多けれ、我山莊鹿谷に城廓を構へて、事にふれて、奇怪の振舞共が有けんなれば、俊寛をば思もよらず。」とぞ宣ける。小松殿歸て叔父の宰相殿呼奉り、「少將は既に赦免候はんずるぞ。御心安う思召され候へ。」とのたまへば、宰相手を合てぞ悦ばれける。「下し時もなどか申請ざらんと思ひたり氣にて、教盛を見候度毎には涙を流し候しが、不便に候。」と申されければ、小松殿、「誠にさこそは思召され候らめ。子は誰とても悲ければ、能々申候はん。」とて入給ぬ。

去程に鬼界が島の流人共召還るべく定められて、入道相國許文下されけり。御使既に都をたつ。宰相餘の嬉さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。「夜を晝にして急ぎ下れ。」とありし か共、心に任ぬ海路なれば、浪風を凌いで行程に、都をば七月下旬に出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には著にける。

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足摺

御使は丹左衞門尉基康と云者なり。船より上て「是に都より流され給し丹波少將殿平判官入道殿やおはする。」と、聲々にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野詣して無りけり。俊寛僧都一人殘りけるが、是を聞き、「餘に思へば夢やらん、又天魔波旬の我心を誑さんとて言やらん、現共覺ぬ物かな。」とて、周章ふためき走ともなく、倒るともなく、急ぎ御使の前に走り向ひ、「何ごとぞ、是こそ京より流されたる俊寛よ。」と名乘給へば、雜色が頸に懸させたる文袋より、入道相國の許文取出いて奉る。披いて見れば、「重科免遠流、早可成歸洛思。依中宮御産御祈被行非常赦。然間鬼界島流人少將成經、康頼法師赦免。」と計書かれて、俊寛と云文字はなし。禮紙にぞ有らんとて、禮紙を見るにも見えず。奧より端へ讀み、端より奧へ讀けれ共、二人と計書かれて、三人とはかゝれず。

さる程に少將や判官入道も出來たり、少將の取てよむにも、康頼入道が讀けるにも、二人と計かかれて、三人とはかゝれざりけり。夢にこそかゝる事は有れ、夢かと思ひなさんとすれば現也、現かと思へば又夢の如し。其上二人の人々の許へは、都より言づけ文共、幾らも有けれ共、俊寛僧都の許へは、事問文一つもなし。さればわがゆかりの物どもは都のうちにあと をとゞめず成りにけりとおもひやるにもしのびがたし。「抑我等三人は罪もおなじ罪、配所も一つ所也。如何なれば赦免の時、二人は召還されて、一人爰に殘るべき。平家の思忘かや、執筆の誤か。こは如何にしつる事共ぞや。」と、天に仰ぎ地に臥して、泣悲め共かひぞなき。少將の袂にすがて、「俊寛がかく成といふも、御邊の父、故大納言殿、由なき謀反故也。されば餘所の事とおぼすべからず。赦れ無れば、都迄こそ叶はずとも、此船にのせて、九國の地へ著けて給べ。各の是に坐つる程こそ、春は燕、秋は田面の雁の音信る樣に、自ら故郷の事をも傳聞つれ。今より後、何としてかは聞べき。」とて悶え焦れ給ひけり。少將、「誠にさこそは思召され候らめ。我等が召還るゝ嬉さは、去事なれ共、御有樣を見置奉るに、行べき空も覺えず。打乘奉ても上たう候が、都の御使も叶ふまじき由申す上、赦れも無に、三人ながら島を出たりなど聞えば、中々惡う候なん。成經先罷上て、人々にも申合せ、入道相國の氣色をも窺て、迎に人を奉らん。其間は此日比坐しつる樣に思成て待給へ。何としても命は大切の事なれば、今度こそ漏させ給ふ共、終にはなどか赦免なうて候べき。」と、慰め給へども、人目も知らず泣悶えけり。既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乘ては下つ、下ては乘つあらまし事をぞし給ひける。少將の形見には夜の衾、康頼入道が形見には、一部の法華經をぞ留ける。纜解て押出せば、僧都綱に取附き、腰に成り、脇に成り、長の立つまでは引かれて出で、長も及ばす成ければ、船に取附き「さて如何に各、俊寛をば終に捨果給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日來の情も今は何ならず。只理を枉て乘せ給へ。責ては、九國の地 迄。」と口説かれけれ共、都の御使「如何にも叶ひ候まじ。」とて、取附給へる手を引のけて、船は終に漕出す。僧都せん方なさに、渚に上り倒伏し、少き者の乳母や母などを慕ふ樣に、足摺をして、「是乘て行け、具して行け。」と、喚叫べ共、漕行船の習にて、跡は白浪ばかりなり。未遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走あがり、澳の方をぞ招ける。彼松浦小夜姫が、唐舟を慕つゝ、領巾ふりけんも、是には過じとぞ見えし。船も漕隱れ、日も暮れ共、怪の臥處へも歸らず、浪に足打洗せ、露に萎て、其夜は其にてぞ明されける。さり共少將は情深き人なれば、能き樣に申す事も在んずらんと憑をかけ、其瀬に身をも投ざりける心の程こそはかなけれ。昔壯里息里が、海巖山へ放たれけん悲も、今こそ思ひ知られけれ。

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御産

去程に此人々は、鬼界が島を出て、平宰相の領肥前國鹿瀬庄に著給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風も烈しう、道の間も覺束なう候に、それにて能々身いたはて、春に成て上り給へ。」とありければ、少將鹿瀬庄にて、年を暮す。

さる程に同年十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣坐すとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にて有けるに法皇も御幸なる。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人 も漏るは無りけり。先例も、女御、后、御産の時に臨んで大赦行はるゝ事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦有りき。其例とて今度も、重科の輩多く許されける中に、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。

御産平安に在ならば、八幡、平野、大原野などへ、行啓なるべしと御立願有けり。仙源法印、是を敬白す。神社は太神宮を始奉て、二十餘箇所、佛寺は東大寺、興福寺、已下十六箇所に御誦經あり。御誦經の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤む。平紋の狩衣に帶劔したる者共が、色々の御誦經物、御劍御衣を持續いて、東の臺より南庭を渡て、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。

小松大臣は例の善惡に噪がぬ人にて坐ければ、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將以下公達の車共遣續させ、色々の御衣四十領、銀劔七つ、廣蓋に置せ、御馬十二匹引せて參り給。寛弘に上東門院御産の時、御堂殿御馬を參せられし其例とぞ聞えし。此大臣は中宮の御兄にて坐ける上、父子の御契なれば、御馬參せ給ふも理なり。五條の大納言國綱卿、御馬二匹進ぜらる。志の至か、徳の餘かとぞ人申ける。猶伊勢より始て、安藝の嚴島に至まで、七十餘箇所へ神馬を立らる。内裏にも寮の御馬に四手附て、數十匹引立たり。仁和寺御室は、孔雀經の法、天台座主覺快法親王は、七佛藥師の法、寺の長吏圓慶法親王は、金剛童子の法、其外五大虚空藏、六觀音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、殘所なう修せられけり。護摩の煙御所中にみち、鈴の音雲を響し、修法の聲身の毛堅て、如何なる 御物のけなり共、面をむかふべしとも見えざりけり。猶佛所の法印に仰て、御身等身の藥師竝に五大尊の像を作り始らる。

かゝりしか共、中宮は隙なく頻らせ給ふばかりにて、御産も頓に成遣ず。入道相國、二位殿、胸に手を置て、こはいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、唯ともかくも好樣にとぞ宣ける。さり共「軍の陣ならば、是程淨海は臆せじ物を。」とぞ後には仰られける。御驗者は、房覺性運兩僧正、春堯法印、豪禪、實專兩僧都、各僧伽の句どもあげ、本寺本山の三寶、年來所持の本尊達、責ふせ々々々もまれけり。誠にさこそはと覺えて尊かりける中に法皇は、折しも新熊野へ御幸なるべきにて、御精進の次なりける間、錦帳近く御座有て、千手經を打上遊されけるにこそ、今一際事替て、さしも躍狂ふ御よりまし共が縛も、暫打靜けれ。法皇仰なりけるは、「如何なる御物氣なり共、此老法師がかくて候はんには、爭か近附奉るべき。就中に今現るる所の怨靈共は、皆我朝恩によて、人と成し者共ぞかし。縱報謝の心をこそ存ぜず共、豈障碍を成すべきや。速に罷退き候へ。」とて女人生産し難からん時に臨で、邪魔遮障し、苦忍難からんにも、心を致して大悲呪を稱誦せば、鬼神退散して、安樂に生ぜんと遊いて、皆水精の御數珠を推揉せ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそ坐けれ。

頭中將重衡卿、其時は未中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと出て、御産平安、皇子御誕生候ぞや。」と、高らかに申されければ、法皇を始參せて、關白殿以下の大臣、公卿、殿 上人、各の助修、數輩の御驗者、陰陽頭、典藥頭、惣て堂上堂下、一同にあと悦あへる聲は、門外までどよみて、暫は靜りやらざりけり。入道餘りの嬉さに、聲をあげてぞ泣ける。悦泣とは是を云べきにや。小松殿、中宮の御方に參せ給て、金錢九十九文、皇子の御枕に置き、「天を以て父とし、地を以て母と定め給へ。御命は方士東方朔が齡を保ち、御心には天照大神入替らせ給へ。」とて、桑の弓蓬の矢を以て、天地四方を射させらる。

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公卿揃

御乳には前右大將宗盛卿の北方と定められたりしが、去七月に難産をして失給しかば、御乳母平大納言時忠卿の北方、御乳に參せ給ひけり。後には帥典侍とぞ申ける。法皇軈て還御の御車を、門前に立られたり。入道相國嬉さの餘りに、砂金千兩、富士の綿二千兩、法皇へ進上せらる。然るべからずとぞ人人内々 ささやきあはれける。

今度の御産に笑止數多あり。先法皇の御驗者、次に后御産の時御殿の棟より甑を轉かす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、是は北へ落したりければ、こは如何にと噪がれて取上て落なほしたりけれ共、惡き御事に人人申あへり。をかしかりしは入道相國のあきれ樣、目出たかりしは小松大臣の振舞、本意なかりしは前右大將宗盛卿の、最愛の北方に後れ奉て、大納言大將兩職を辭して籠居せられし事、兄弟共に出仕あらば、如何に目出たからん。次に七人の陰陽師を召されて、千度の御祓仕るに、其中に、掃部頭時晴と云ふ 老者有り。所從なども乏少なりけり。餘に人多く參つどひて、たかんなをこみ、稻麻竹葦の如し。「役人ぞ、あけられよ。」とて、押分々々參る程に、右の沓を踏拔れて、そこにて些立休ふが、冠をさへ突落されぬ。さばかりの砌に、束帶正しき老者が、髻放てねり出たりければ、若き殿上人こらへずして、一度にどと笑ひあへり。陰陽師など云は、返陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。其に懸る不思議の有けるを、其時は何共覺えざりしか共、後こそ思合する事共も多かりけれ。御産によて、六波羅へ參らせ給ふ人々、關白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大將實定、源大納言定房、三條大納言實房、五條大納言國綱、藤大納言實國、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、權中納言實綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衞門督時忠、別當忠親、左宰相中將實家、右宰相中將實宗、新宰相中將通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、左大辨宰相長方、右大辨三位俊經、左兵衞督重教、右兵衞督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大貳親宣、新三位實清、以上三十三人、右大辨の外は直衣なり。不參の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿、已下十餘人、後日に布衣著して、入道相國の西八條の邸へ向はれけるとぞ聞えし。

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大塔建立

御修法の結願には、勸賞共行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。並に後七日の御修 法、大元の法、灌頂興行せらるべき由仰下さる。御弟子覺誓僧都、法印に擧せらる。座主の宮は、二品竝に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺の御室さゝへ申させ給ふによて、法眼圓良、法印に成さる。其外の勸賞共毛擧に遑あらずとぞ聞えし。中宮は日數經にければ、六波羅より内裏へ參せ給ひけり。此御娘、后に立せ給しかば、入道相國夫婦共に、「哀れ、如何にもして皇子御誕生あれかし。位に即奉て、外祖父、外祖母と仰れん。」と願ける。我が崇奉る安藝の嚴島に申さんとて、月詣を始て、祈り申されければ、中宮やがて、御懷姙有て、思ひのごとく皇子にて坐けるこそ目出度けれ。

抑平家安藝の嚴島を信じ始られける事は如何にと云に、鳥羽院の御宇に清盛公未安藝守たりし時、安藝國を以て、高野の大塔を修理せよとて、渡邊遠藤六郎頼方を雜掌に附られ、六年に修理畢ぬ。修理畢て後、清盛高野へ上り、大塔拜み、奧院へ參られたりければ、何くより來る共なき老僧の、眉には霜を垂れ、額に浪を疊み、鹿杖の兩股なるにすがて、出來給へり。稍久しう御物語せさせ給ふ。「昔より今にいたる迄此れは密宗をひかへて退轉なし。天下に又も候はす。大塔既に修理終候たり。さては、安藝の嚴島、越前の氣比の宮は、兩界の垂跡で候が、氣比の宮は榮たれ共、嚴島はなきが如くに荒果て候。此次に、奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は肩を竝ぶる人、有まじきぞ。」とて立れけり。此老僧の居給へる所に異香薫じたり。人を附て見せ給へば、三町許は見給て其後は掻消すやうに失せ給ぬ。是唯人には非ず。すなはち大師にて坐けりと、彌々尊く思召し、娑婆世界の思出にとて、高 野の金堂に曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印といふ繪師に書せらる。東曼陀羅をば、清盛書んとて、自筆にかゝれけるが、何とかおもはれけん、八葉の中尊の寶冠をば我首の血を出いて、書かれけるとぞ聞えし。

さて都へ上り、院參して、此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感有り。猶任を延られて、嚴島を修理せらる。鳥居を立替へ、社々を造りかへ、百八十間の廻廊をぞ造られける。修理畢て、清盛嚴島へ參り、通夜せられたりける夢に、御寶殿の内より、鬟結たる天童の出て、「是は大明神の御使なり。汝此劔を以て一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし。」とて、銀の蛭卷したる小長刀を賜ると云夢を見て、覺て後見給へば。現に枕上にぞ立たりける。大明神御託宣有て、「汝知れりや忘れりや、或聖を以て言せし事は。但惡行有らば、子孫迄は叶ふまじきぞ。」とて、大明神あがらせ給ぬ。目出度かりし御事なり。

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頼豪

白河院御在位の御時、京極大殿の御娘の后に立せ給て、賢子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしう思召、其比、有驗の僧と聞えし三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ、御願成就せば、勸賞はこふによるべし。」とぞ仰ける。「安う候」とて三井寺に歸り、百日肝膽を摧て祈申されければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承保元年十二月十六日。御産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず御感有て 三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝が所望の事は如何に。」と仰下されければ、三井寺に戒壇建立の事を奏す。主上「是こそ存の外の所望なれ。一階僧正などをも申べきかとこそ思召つれ。凡は皇子御誕生有て、皇祚を繼しめん事も、海内無爲を思ふ爲なり。今汝が所望達せば、山門憤て、世上も靜なるべからず。兩門合戰して、天台の佛法亡なんず」とて、御許されも無りけり。

頼豪口惜い事なりとて、三井寺に歸て、干死にせんとす。主上大に驚かせ給て、江帥匡房卿其比は未美作守と聞えしを召て、「汝は頼豪と師檀の契有なり。行いて拵て見よ。」と仰ければ、美作守綸言を蒙て、頼豪阿闍梨が宿坊に行向ひ、勅定の趣を仰含んとするに、以の外にふすぼたる持佛堂に立籠て、怖氣なる聲して、「天子には戯の言なし、綸言汗の如しとこそ承れ。是程の所望叶はざらんに於ては、我祈出したる皇子なれば、取奉て魔道へこそ行んずらめ。」とて、遂に對面も爲ざりけり。美作守歸り參て、此由を奏聞す。頼豪は軈て干死に死けり。君如何せんずると叡慮を驚させおはします。皇子やがて御惱附せ給て、樣々の御祈共有しかども、叶ふべし共見えさせ給はず。白髮なりける老僧の、錫杖を以て、皇子の御枕に彳み、人々の夢にも見え、幻にも立けり。怖なども愚也。

去程に承暦元年八月六日、皇子御年四歳にて遂に隱させ給ぬ。敦文の親王是也。主上斜ならず御歎有けり。山門に又西京の座主、良信大僧正、其比は圓融坊の僧都とて有驗僧と聞えしを内裏へ召て、「こは如何せんずる。」と仰ければ、「何も、吾山の力にてこそか樣の御願は成就 する事で候へ。九條右丞相、慈慧大僧正に契申させ給しに依てこそ、冷泉院の皇子御誕生は候しか。安い程の御事候。」とて、比叡山に歸り上り、山王大師に、百日肝膽を摧て祈申ければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀川の天皇是なり。怨靈は昔もかく怖しかりし事也。今度さしも目出度き御産に、非常の大赦行はれたりといへ共、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。

同十二月八日。皇子東宮に立せ給ふ。傅には、小松内大臣、大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞えし。

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少將都歸

明れば治承三年正月下旬に丹波少將成經、肥前國鹿瀬庄を立て、都へと急がれけれ共餘寒猶烈しく、海上も痛く荒ければ、浦傅島傅して、きさらぎ十日比にぞ、備前の兒島に著給ふ。其より父大納言殿の住給ける處を尋いりて見給ふに、竹の柱、舊たる障子なんどに書置れたる筆のすさびを見給て、「人の形見には手跡に過たる物ぞなき。書置給はすば、爭か是を見るべき。」とて、康頼入道と二人、讀では泣き、泣いては讀む。「安元三年七月廿日出家、同廿六日、信俊下向。」とも書かれたり。さてこそ源左衞門尉信俊が參りたりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊來迎便有り、九品往生疑なし。」とも書かれたり。此形見を見給てこそ、「さすが欣求淨土の望も御座けり。」と、限なき歎の中にも、聊頼しげには宣けれ。

其墓を尋て見給へば、松の一村ある中に、甲斐々々しう壇を築たる事もなし。土の少し高き所に少將袖掻合せ、生たる人に申樣に、泣々申されけるは、「遠き御守と成せ御座して候事をば、島にて幽に傳へ承しか共、心に任せぬ憂世なれば、急ぎ參る事も候はず。成經彼島へ流れて露の命の消やらずして、二年を送て、召還さるる嬉さは、さる事にて候へ共、此世に渡せ給ふを見參て候はばこそ、命の長きかひもあらめ。是までは急がれつれ共、今日より後は、急ぐべし共覺えずと、掻口説てぞ泣かれける。誠に存生の時ならば、大納言入道殿こそ、如何に共宣ふべきに、生を隔たる習程、恨めしかりける物はなし。苔の下には誰か答ふべき。唯嵐に騒ぐ松の響計也。

其後はよもすがら康頼入道と二人、墓の廻を行道して念佛申し、明ぬれば新う壇築き、釘貫せさせ、前に假屋作り、七日七夜、念佛申し經書て結願には大なる卒塔婆を立て、「過去聖靈出離生死、證大菩提」と書て、年號月日の下に、「孝子成經」と書かれたれば、賤山賤の心無も、子に過たる寶はなしとて、涙を流し、袖を絞ぬは無りけり。年去年來れ共、忘難きは撫育の昔の恩。夢の如く幻の如し。盡難きは戀慕の今の涙なり。三世十方の佛陀の聖衆も憐み給ひ、亡魂尊靈も、如何に嬉しと覺しけん。「今暫候て、念佛の功をも積べう候へ共、都に待つ人共も心元なう候らん。又こそ參候は。」とて、亡者に暇申つゝ、泣々そこをぞ立れける。草陰にても名殘惜うや思はれけん。

三月十六日少將殿鳥羽へあかうぞ著給ふ。故大納言殿の山庄、洲濱殿とて鳥羽に在り。住荒 して年經にければ、築地は有共覆もなく、門は有共扉もなし。庭に立入り見給へば、人跡絶て苔深し。池の邊を見まはせば、秋の山の春風に、白浪頻に折懸て紫鴛白鴎逍遙す。興ぜし人の戀さに、盡ぬ物は涙也。家はあれ共、欄門破れ、蔀遣戸も絶てなし。「爰には大納言殿のとこそ坐しか、此妻戸をばかうこそ出入給しか、あの木をば、自らこそ植給しか。」など言ひて、言の葉に附て、父の事を戀しげにこそ宣ひけれ。彌生中の六日なれば、花は未名殘あり。楊梅桃李の梢こそ、折知顏に色々なれ。昔の主はなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少將花の下に立寄て、

桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰栖。

故郷の花の言ふ世なりせば、如何に昔の事を問まし。

此古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も折節哀に覺えて、墨染の袖をぞ濕しける。暮る程とは待れけれ共、餘に名殘惜くて、夜更る迄こそ坐けれ。更行まゝに、荒たる宿の習とて、古き軒の板間よりもる月影ぞ隈もなき。鷄籠の山明なんとすれ共、家路は更に急がれず。さてしも有べき事ならねば、迎に乘物ども遣て、待らんも心なしとて、泣々洲濱殿を出つゝ、都へ歸り入給けん人々の心の中共、さこそは哀にも嬉しうも有けめ。康頼入道が迎にも乘物有けれ共其には乘らで、「今更名殘の惜に。」とて、少將の車の尻に乘て、七條河原までは行く。其より行別れけるに、猶行もやらざりけり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よて、別るゝ名殘も惜きぞかし。況や是は憂かりし島の栖、 船の中、浪の上、一業所感の身なれば、前世の芳縁も不淺や思ひしられけん。

少將は舅平宰相の宿所へ立入給ふ。少將の母上は、靈山に坐けるが、昨日より宰相の宿所に坐て待れけり。少將の立入給ふ姿を一目見て、「命あれば」と計ぞのたまひける。引被てぞ臥給ふ。宰相の内の女房侍共さしつどひて、皆悦び泣共しけり。増て少將の北の方、乳母の六條が心の中、さこそは嬉しかりけめ。六條は盡せぬ物思ひに黒かりし髮も皆白く成り、北の方、さしも花やかにうつくしう坐しか共、いつしか痩衰へて、其人とも見え給はず。少將の流され給し時、三歳にて別給し稚き人、長う成て髮結ふ程也。又其傍に三つ計なる少き人の坐けるを、少將「あれは如何に。」と宣へば、六條「是こそ」とばかり申て、袖を顏におし當て、涙を流しけるにこそ、「さては下りし時、心苦げなる有樣を見置しが、事故なく育けるよ。」と思出ても悲かりけり。少將は本の如く院に召仕はれて、宰相中將にあがり給ふ。

康頼入道は、東山雙林寺に、我山庄の有ければ、其に落著て、先思續けけり。

故郷の軒の板間に苔むして、思し程は洩ぬ月かな。

軈てそこに籠居して、憂かりし昔を髮思續け、寶物集と云ふ物語を書けけるとぞ聞えし。

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有王

去程に鬼界島へ三人流されたりし流人二人は召還され都へ上りぬ。俊寛僧都一人、憂かりし島の島守と成にけるこそうたてけれ。僧都の、少うより不便にして召仕はれける童あり。名 をば有王とぞ申ける。鬼界島の流人、今日既に京都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行向うて見けれ共、我主は見え給はず。「如何に」と問へば、「其は猶罪深しとて、島に殘され給ぬ。」と聞て、心憂なども愚也。常は六波羅邊にたゝずみありいて聞けれども、赦免有るべし共聞出ず。僧都の御娘の忍びて坐ける所へ參て、「此せにも洩させ給て、御上りも候はず。如何にもして彼島へ渡て、御行へを尋參らせんとこそ思立て候へ。御文賜はらん。」と申ければ、泣々書て賜だりけり。暇を請共、よも赦さじとて、父にも母にも知せず。唐船の纜は、卯月五月にも解なれば、夏衣立を遲くや思けん。三月の末に都を出て、多くの波路を凌つゝ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼島へ渡る船津にて、人怪み、著たる物を剥取などしけれ共、少しも後悔せず、姫御前の御文計ぞ人に見せじとて、髻結の中に隱したり。さて商人船に乘て件の島へ渡て見に、都にて幽に傳聞しは、事の數にもあらず。田もなし。畑もなし。村もなし。里もなし。自ら人は有共、言ふ詞も聞知らず。若しか樣の者共の中に我が主の行末知たる者や在んと、「物申さう」と言ば、「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺執行御房と申す人の、御行末や知たる。」と問に、法勝寺とも執行とも、知たらばこそ返事もせめ。唯頭を掉て「知ず」と言ふ。其中に或者が心得て、「いさとよ、左樣の人は三人是に有しが、二人は召還されて都へ上りぬ。今一人は殘されて、あそこ此に惑ひ歩けども、行方も知らず。」とぞ言ひける。山の方の覺束なさに、遙に分入り、嶺に攀、谷に下れ共、白雲跡を埋んで、往來の道もさだかならず、晴嵐夢を破て其面影も見ざりけり。山にては終に尋も逢はず、海の邊に著て尋るに、沙頭に印を 刻む鴎、澳の白洲に集く濱千鳥の外は、跡問ふ者も無りけり。

或朝磯の方より、蜻蛉などの樣に痩衰たる者一人よろぼひ出來り。本は法師にて有けりと覺て、髮は虚樣へ生あがり、萬の藻屑取附て、荊を戴たるが如し。節見れて皮ゆたひ、身に著たる物は絹、布の分も見えず。片手には荒海布を拾ひ持ち、片手には網人に魚を貰て持ち、歩む樣にはしけれ共、はかも行かず、よろ/\として出來たり。「都にて多くの乞丐人見しか共、かゝる者をば未見ず、『諸阿修羅等故在大海邊』とて、修羅の三惡四趣は深山大海の邊に有と、佛の説置給ひたれば、知らず、我餓鬼道に尋來るか。」と思ふほどに、彼も此も次第に歩近づく「若か樣の者も、我主の御行末知たる事や在ん。」と、「物申さう。」と言ば「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺の執行御房と申す人の御行末や知たる。」と問に、童は見忘たれ共、僧都は何か忘べきなれば、「是こそ其よ。」と云も敢ず、手に持る物を投捨て、沙の上に倒伏す。さてこそ我主の行末も知てけれ。軈て消入給ふを、膝の上に掻乘奉り「有王が參て候。多くの浪路を凌て、是迄尋參りたる甲斐もなく、いかに軈て憂目をば見せさせ給ふぞ。」と、泣々申ければ、良在て、少し人心地出來、扶起されて「誠に汝が是まで尋來たる志の程こそ神妙なれ。明ても暮ても、都の事のみ思ひ居たれば、戀き者共が面影は、夢に見る折も有り、幻に立つ時も有り。身も痛く疲弱て後は、夢も現も思分かず。されば汝が來れるも唯夢とのみこそ覺れ。若この事夢ならば、覺ての後は如何せん。」有王、「現にて候也。此有樣にて、今まで御命の延させ給て候こそ。不思議には覺候へ。」と申せば、「さればこそ。去年 少將や判官入道に棄られて後の便無さ、心の中をば只推量るべし。その瀬に身をも投げんとせしを、由なき少將の、『今一度都の音信をも待かし。』など、慰置しを、愚に若やと頼つゝ、存へんとはせしかども、此島には人の食物絶て無き所なれば、身に力の有し程は、山に上て硫黄と云ふ物をとり、九國より通ふ商人にあひ、物に換などせしかども、日に副て弱行ば、今は其態もせず。か樣に日の長閑なる時は、磯に出て網人釣人に手を摺り、膝を屈て、魚を貰ひ、汐干の時は貝を拾ひ、荒海布を取り、磯の苔に露の命を懸てこそ、今日までも存たれ。さらでは憂世を渡よすがをば、如何にしつらんとか思らん。」僧都、「是にて何事をも言ばやとは思共、いざ我家へ。」と宣へば、此御有樣にても、家を持給へる不思議さよ。」と思て行程に、松の一村ある中に、より竹を柱とし、蘆を結て、桁梁に渡し、上にも下にも松の葉をひしと取懸たれば、風雨たまるべうも無し。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘箇所の庄務を司りしかば、棟門平門の内に、四五百人の所從眷屬に圍繞せられてこそ坐せしか。目のあたりかゝる憂目を見給けるこそ不思議なれ。業にさま/\あり。順現、順生、順後業と云へり。僧都一期の間、身に用る所、皆大伽藍の寺物佛物にあらずと云ふ事なし。去れば彼信施無慚の罪に依て、今生にはや感ぜられけりとぞ見えたりける。

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僧都死去

僧都現にて有けりと思定て、「抑去年少將や判官入道が迎にも、是等が文と云ふ事もなし。今 汝が便にも、音信の無きはかう共謂ざりけるか。」有王涙に咽び俯して、暫は物も申さず。良有て起上り、涙を抑へて申けるは、「君の西八條へ出させ給しかば、やがて追捕の官人參て、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋て、失果て候ぬ。北方は少き人を隱しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奧に忍ばせ給て候しに、此童計こそ時々參て宮仕つかまつり候しが、何も御歎の愚なる事は候はざりしかども、稚き人は、餘に戀參させ給て、參り候度毎に、『有王よ、鬼界が島とかやへ我具して參れ。』とむづからせ給候しが、過候し二月に、もがさと申す事に失させ給ぬ。北方は其歎と申し是の御事と申し、一方ならぬ御思に沈ませ給ひ、日に添へて弱らせ給候しが、同三月二日の日遂にはかなく成せ給ぬ。今は姫御前ばかり、奈良の姨御前の御許に御渡り候。是に御文賜はて候。」とて取出いて奉る。開て見給へば、有王が申にたがはず書れたり。奧には、「などや三人流されたる人の、二人は召還されて候に、今迄御上り候はぬぞ。哀高きも卑きも、女の身ばかり心うかりける物はなし。男の身にて候はば、渡せ給ふ島へも、などか尋ね參らで候ふべき。此有王御伴にて、急ぎ上せ給へ。」とぞ書かれたる。「是見よ、有王。此子が文の書樣のはかなさよ。己を伴にて、急ぎ上れと書たるこそ恨しけれ。心に任せたる俊寛が身ならば、何とてか三年の春秋をば送るべき。今年は十二に成とこそ思に、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、身をも扶くべきか。」とて泣れけるにこそ、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道に迷ふ程も知れけれ。「此島へ流されて後は、暦も無れば月日の換り行をも知らず、唯自ら花の散り、葉の落るを見て、春秋を辨へ、蝉の聲麥秋 を送れば夏と思ひ、雪の積を冬と知る。白月黒月の變行を見ては、三十日を辨へ、指を折て數れば、今年は六に成と思つる稚き者も早先立けるごさんなれ。西八條へ出し時、此子が我も行うと慕しを、軈て歸うずるぞと拵へ置しが、今の樣に覺るぞや。其を限と思はましかば、今暫もなどか見ざらん。親と成り、子と成り、夫婦の縁を結も、皆此世一に限ぬ契ぞかし。などさらば、其等が左樣に先立けるを、今迄夢幻にも知せざりけるぞ。人目も愧ず如何にもして、命生うと思しも、是等を今一度見ばやと思ふ爲也。姫が事計こそ心苦けれ共、其も生身なれば、歎ながらも過んずらん。さのみ存て、己に憂目を見せんも我身ながらも強顏かるべし。」とて、自らの食事を止め、偏に彌陀の名號を唱へて、臨終正念をぞ祈られける。有王渡て廿三日と云に、其庵の内にて遂に終り給ぬ。歳三十七とぞ聞えし。有王空き姿に取附き、天に仰ぎ地に俯し、泣悲め共かひぞなき。心の行程泣あきて、「軈て後世の御供仕るべう候へども、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ。後世弔ひまゐらすべき人も候はず。暫存て、弔ひ參せ候はんとて、臥戸を改めず、庵を切懸け、松の枯枝、蘆の枯葉を取掩ひ、藻鹽の煙と成し奉り、荼毘事終にければ、白骨を拾ひ、頸に懸け、又商人船の便に、九國の地へぞ著にける。

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