僧都の御女の座ける處に參て、有し樣初より細々と語申す。「中々文を御覽じてこそ、いとゞ御思は勝せ給て候ひしか。硯も紙も候はねば、御返事にも及ばず。思召され候し御心の中、さながら空て止候にき。今は生々世々を送り、他生曠劫を隔つ共、爭か御聲をも聞き、御姿 をも見參せ給べき。」と申ければ、伏轉び聲も惜ず泣かれけり。軈て十二の歳尼になり、奈良の法華寺に行澄て、父母の後世を弔ひ給ぞ哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ登り、奧の院に納つゝ、蓮華谷にて法師になり、諸國七道修行して、主の後世をぞ弔ける。か樣に人の思歎の積ぬる平家の末こそ怖しけれ。
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つぢかぜ
同五月十二日午刻ばかり、京中には辻風おびたゞしう吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起て、未申の方へ吹て行に、棟門平門を吹拔きて、四五町十町吹もて行き、桁長押柱などは虚空に散在す。檜皮、葺板の類、冬の木の葉の風に亂るが如し。おひたゞしう鳴どよむ音は、彼地獄の業風なり共、是には過じとぞ見えし。唯舎屋の破損する耳ならず、命を失ふ人も多し。牛馬の類數を盡して打殺さる。是たゝ事に非ず。御占有るべしとて、神祇官にして御占有り。「今百日の中に、祿を重ずる大臣の愼、別しては天下の大事、幵に佛法王法共に傾きて、兵革相續すべし。」とぞ、神祇官陰陽寮ともに占ひ申ける。
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醫師問答
小松大臣、か樣の事共を聞給て、萬心細うや思はれけん。其比熊野參詣の事有けり。本宮證誠殿の御前にて、終夜敬白せられけるは、「親父入道相國の體を見るに、惡逆無道にして、 動すれば君を惱し奉る。重盛長子として、頻に諫をいたすと云へども、身不肖の間、彼以て服膺せず。其振舞を見るに一期の榮華猶危し。枝葉連續して、親を現し名を揚ん事難し。此時に當て、重盛苟うも思へり。憖に列して、世に浮沈せん事、敢て良臣孝子の法に非ず。しかじ、名を遁れ身を退て、今生の名望を投捨て、來世の菩提を求んには。但凡夫薄地、是非に惑るが故に、猶志を恣にせず。南無權現金剛童子、願くは子孫榮絶えずして、仕て朝廷に交はるべくば、入道の惡心を和て、天下の安全を得しめ給へ。榮耀又一期を限て、後昆耻に及ぶべくば、重盛が運命をつゞめて、來世の苦輪を助け給へ。兩箇の求願、偏に冥助を仰ぐ。」と、肝膽を摧て祈念せられけるに、燈籠の火の樣なる物の、大臣の御身より出て、はと消るが如くして失にけり。人數多見奉りけれども、恐れて是を申さず。
又下向の時、岩田河を渡られけるに、嫡子權亮少將維盛已下の公達、淨衣の下に薄色の衣を著て、夏の事なれば、何となう河の水に戯れ給ふ程に、淨衣のぬれて衣に移たるが、偏に色の如くに見ければ、筑後守貞能是を見咎て、「何と候やらん、あの御淨衣の世に忌はしきやうに見させ座し候。召替らるべうや候らん。」と申されければ、大臣「我所願既に成就しにけり。其淨衣敢て改むべからず。」とて、別して岩田河より、熊野へ悦の奉幣をぞ立られける。人怪しと思ひけれ共、其心を得ず。然に此公達、程なく、誠の色を著給けるこそ不思議なれ。
下向の後幾くの日數を經ずして、病附給ふ。權現既に御納受あるにこそとて、療治もしたまはず。祈祷をも致されず。其比宋朝より勝たる名醫渡て、本朝にやすらふ事あり。境節入道 相國、福原の別業に座けるが、越中守盛俊を使で、小松殿へ仰られけるは、「所勞彌大事なる由、其聞え有り。兼ては又宋朝より勝たる名醫渡れり。境節悦とす。是を召請じて醫療を加しめ給へ。」と、宣遣はされたりければ、小松殿扶起され、盛俊を御前へ召て「先醫療の事、畏て承候ぬと申べし。但汝も承れ。延喜の御門は、さばかの賢王にて渡せまし/\けれ共、異國の相人を都の内へ入させ給たりけるをば、末代迄も賢王の御誤、本朝の耻とこそ見えたれ。況や重盛程の凡人が、異國の醫師を王城へ入ん事、國の耻に非ずや。漢高祖は、三尺の劔を提て天下を治しかども、淮南の黥布を討し時、流矢に當て疵を蒙る。后呂太后、良醫を迎て見せしむるに、醫の曰く『此疵治しつべし。但五十斤の金を與へば治せん。』と云ふ。高祖のたまはく、『我守の強かし程は、多くの鬪に逢て疵を蒙りしか共、其痛無し。運既に盡ぬ。命は則天に在り。縱ひ扁鵲といふとも、何の益か有ん。然ば又金を惜に似たり。』とて、五十斤の金を醫師に與へながら遂に治せざりき。先言耳に在り、今以て甘心す。重盛苟も九卿に列し、三台に昇る。その運命を計るに、もて天心に在り。何ぞ天心を察せずして、愚に醫療を痛はしうせむや。若定業たらば醫療を加ふ共益無からんか。又非業たらば、療治をくはへず共、助る事を得べし。彼耆婆が醫術及ばずして、大覺世尊、滅度を跋提河の邊に唱ふ。是即定業の病、 いやさざる事を示さんが爲也。定業猶醫療に拘るべう候はば、釋尊豈入滅あらんや。定業又治するに堪ざる旨明し。治するは佛體也。療するは耆婆也。然れば重盛が身佛體に非ず。名醫又耆婆に及べからず。縱四部の書を鑑て、百療に長ずといふ共、爭で有待の穢 身を求療せんや。縱五經の説を詳にして、衆病をいやすと云共、豈前世の業病を治せんや。若かの醫術に依て存命せば、本朝の醫道無に似たり。醫術効驗なくんば、面謁所詮なし。就中に本朝鼎臣の外相を以て、異朝浮遊の來客に見ん事、且は國の耻、且は道の陵遲也。縱重盛命は亡ずといふ共、爭か國の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由を申せ。」とこそ宣ひけれ。
盛俊福原に歸りまゐて、此由泣々申ければ、入道相國、「是程國の恥を思ふ大臣上古にも未聞かず、増て末代に有べし共覺えず。日本に相應せぬ大臣なれば、如何樣にも今度失なんず。」とて、泣く/\急ぎ都へ上られけり。
同七月廿八日小松殿出家し給ぬ。法名は淨蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して遂に失給ぬ。御歳四十三、世は盛とこそ見えつるに、哀なりし事共也。
入道相國の、さしも横紙をやられつるも、此人のなほし宥られつればこそ、世も穩かりつれ。此後天下に如何なる事か出來んずらむとて、京中の上下歎合へり。前右大將宗盛卿の方樣の人は、世は唯今大將殿へ參りなんずとぞ悦ける。人の親の子を思ふ習は、愚なるが先立だにも悲きぞかし。況や是は當家の棟梁當世の賢人にておはしければ、恩愛の別、家の衰微、悲でも猶餘有り。去ば世には良臣を失へる事を歎き、家には武略の廢ぬる事を悲む。凡は此大臣文章麗うして、心に忠を存し、才藝勝て、詞に徳を兼給へり。
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無文
天性此大臣は、不思議の人にて、未來の事をも兼て悟給けるにや、去四月七日の夢に、見給ける事こそ不思議なれ。譬ば、何く共知らぬ濱路を遙々と歩行給ふ程に、道の傍に大なる鳥居有けるを、「あれは如何なる鳥居やらん。」と問給へば、「春日大明神の御鳥居なり。」と申。人多く群集したり。其中に、法師の頭を一つ指擧たり。「さてあのくびは如何に。」と問給へば、是は平家太政入道殿の御頭を惡行超過し給へるに依て、當社大明神の召取せ給て候。」と申と覺えて、夢打覺ぬ。當家は保元平治より以降、度々の朝敵を平げて、勸賞身に餘り、忝く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人。二十餘年の以降は、樂榮え申計も無りつるに、入道の惡行超過せるに依て、一門の運命既に盡んずるにこそと、こし方行末の事共思召續けて、御涙に咽ばせ給ふ。
折節妻戸をほと/\と打敲く。「誰そ。あれ聞。」と宣へば、「瀬尾太郎兼康が參て候。」と申。「如何に、何事ぞ。」とのたまへば、「只今、不思議の事候て、夜の明候はんが遲う覺え候間、申さんが爲に參て候。御前の人を除られ候へ。」と申ければ、大臣人を遙に除て對面あり。さて兼康が見たりける夢の樣を始より終まで委しう語り申けるが、大臣の御覽じたりける御夢に少しも違はず。さてこそ瀬尾太郎兼康をば、神にも通じたる者にてありけりと大臣も感じ給ひけれ。
その朝嫡子權亮少將維盛院の御所へ參んとて出させ給たりけるを、大臣呼奉て、「人の親の身としてか樣の事を申せば、きはめてをこがましけれ共、御邊の人は子共の中には勝て見え給 ふ也。但此世の中の在樣いかゞあらむずらんと心細うこそ覺ゆれ。貞能は無いか、少將に酒進めよ。」と宣へば、貞能御酌に參りたり。「此盞をば先づ少將にこそ取せたけれ共、親より先にはよも飲給はじなれば、重盛まづ取擧げて少將にさゝん。」とて、三度受て、少將にぞ差されける。少將又三度うけ給ふ時、「如何に貞能引出物せよ。」と宣へば、畏て承り、錦の袋に入たる御太刀を取出す。「あはれ是は家に傳はれる小烏と云ふ太刀やらん。」など、世に嬉氣に思ひて見給ふ處に、さはなくして、大臣葬の時用る無文の太刀にてぞ有ける。其時少將氣色はとかはて世に忌はしげに見給ければ、大臣涙をはら/\と流いて、「如何に少將其は貞能が咎にも非ず。其故は如何にと云に、此太刀は大臣葬の時用る無文の太刀也。入道如何にもおはせん時、重盛が帶て供せんとて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉んずれば、御邊に奉るなり。」とぞ宣ける。少將之を聞給てとかうの返事にも及ばず。涙に咽びうつぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞ伏渡ふ。其後大臣熊野へ詣り下向して病つき、幾程もなくして遂に失給けるにこそ、實にもと思知られけれ。
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燈籠之沙汰
すべて此大臣は、滅罪生善の御志深う坐ければ、當來の浮沈を歎いて東山の麓に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎を建て、一間に一つづゝ、四十八間に四十八の燈籠を掛られければ、九品の臺目の前に輝き、光耀鸞鏡を琢て、淨土の砌に臨めるが如し。毎月十 四日十五日を點じて、當家他家の人々の御方より、みめよく若う盛なる女房達を多く請じ聚め、一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆に定て、彼兩日が間は、一心稱名聲斷ず、誠に來迎引攝の悲願も、此所に影向を垂れ、攝取不捨の光も、此大臣を照し給ふかとぞ見えし。十五日の日中を結願として、大念佛有しに、大臣自ら彼の行道の中に交て、西方に向ひ、「南無安養世界教主 彌陀善逝、三界六道の衆生を普く濟度し給へ。」と、迴向發願せられければ、見る人慈悲を起し、聞く者感涙を催けり。かかりしかば此大臣をば燈籠大臣とぞ人申ける。
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金渡
又大臣吾朝には如何なる大善根をし置たり共、子孫相續で、弔ん事有がたし。他國に如何なる善根をもして、後世をとぶらはればやと、安元の比ほひ、鎭西より妙典と云ふ船頭をめし上せ、人を遙に除て對面有り。金を三千五百兩召寄て、「汝は大正直の者であんなれば、五百兩をば汝に給ぶ。三千兩をば宋朝へ渡し、育王山へ參せて、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、田代を育王山へ申寄て、我が後世弔はせよ。」とぞ宣ひける。妙典是を賜て、萬里の煙浪を凌つゝ、大宋國へぞ渡りける。育王山の方丈、佛照禪師徳光に逢奉り、此由申たりければ、隨喜感嘆して、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、大臣の申されける旨を具に奏聞せられたりければ、御門大に感じ思召て、五百町の田代を育王山へぞ寄られける。さ れば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に斷ずとぞ承る。
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法印問答
入道相國小松殿に後れ給て、萬心細うや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ座けれ。同十一月七日の夜戌刻許、大地おびたゞしう動て良久し。陰陽頭安倍泰親、急ぎ内裏へ馳參て、「今夜の地震、占文の指す所其愼輕からず。當道三經の中に、坤儀經の説を見候に、『年を得ては年を出ず、月を得ては月を出ず、日を得ては日を出ず。』と見えて候。以の外に火急候。」とて、はらはらとぞ泣ける。傳奏の人も色を失ひ、君も叡慮を驚せ坐ます。若き公卿殿上人は「怪からぬ泰親が今の泣樣や、何事の有るべき。」とて、笑合れけり。され共此泰親は、晴明五代の苗裔を請て、天文は淵源を窮め、推條掌を指が如し。一事も違はざりければ、指神子とぞ申ける。雷の落懸りたりしか共、雷火の爲に、狩衣の袖は燒ながら、其身は恙も無りけり。上代にも末代にも、有がたかりし泰親なり。
同十四日、相國禪門此日比福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけん。數千騎の軍兵をたなびいて、都へ入給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる事は無れ共、上下怖れおののく。何者の申出したりけるやらん。入道相國朝家を恨み奉べしと披露をなす。關白殿、内内聞召るゝ旨や有けん、急ぎ御參内有て、「今度相國禪門入洛の事は、ひとへに基房亡すべき結構にて候也。如何なる憂目にか逢べきやらん。」と、奏せさせ給へば、主上大に驚せ給 て、「そこに如何なる目にも逢むは偏にたゞ吾逢にてこそ有んずらめ。」とて、御涙を流させ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は主上攝 録の御計にてこそ有に、こは如何にしつる事共ぞや。天照大神春日大明神の神慮の程も量がたし。
同十五日、入道相國朝家を恨奉るべき事、必定と聞えしかば、法皇大に驚せ給て、故少納言信西の子息靜憲法印を御使にて、入道相國の許へ遣さる。「近年朝廷靜ならずして、人の心も調らず、世間も落居せぬ樣に成行く事、惣別に附て歎思召せ共、さてそこにあれば、萬事は頼思召てこそ有に、天下を靜る迄こそ無らめ、嗷々なる體にて、剩へ朝家を恨むべしなど聞召すは、何事ぞ。」と仰遣はさる。靜憲法印御使に西八條の邸へ向ふ。朝より夕に及ぶ迄待れけれ共、無音なりければ、去ばこそと無益に覺えて、源大夫判官季貞をもて、勅定の趣言入させ、「暇申て。」とて出られければ、其とき入道、「法印よべ。」とて出られたり。喚かへいて、「やゝ、法印の御房、淨海が申所は僻事か。先内府が身罷候ぬる事、當家の運命を計にも、入道隨分悲涙を押てこそ罷過候へ。御邊の心にも推察し給へ。保元以後は亂逆打つゞいて、君安い御心も渡せ給はざりしに、入道は唯大方を執行ふ許りでこそ候へ。内府こそ手を下し身を碎て、度々の逆鱗をば休め參せて候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政務、内府程の功臣は有難うこそ候らめ。爰を以て古を憶ふに、唐の太宗は魏徴に後て、悲の餘に、『昔の殷宗は夢の中に良弼を得、今の朕は覺ての後賢臣を失ふ。』と云ふ碑文を自書て、廟に立てだにこそ悲給けるなれ。我朝にも、間近く見候し事ぞかし。顯頼民部卿逝去したりしをば、故院 殊に御歎有て、八幡の行幸延引し、御遊無りき。惣て臣下の卒するをば、代代の御門皆御歎ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつまじきは君と臣との中とは申事にて候らめ。され共内府が中陰に、八幡の御幸有て御遊有き。御歎の色一事も之を見ず。縱入道が悲を御憐なく共、などか内府が忠を思召し忘させ給ふべき。縱内府が忠を思召忘させ給ふ共、爭か入道が嘆きを御憐無らん。父子ともに叡慮に背候ぬる事、今に於て面目を失ふ。是一つ。次に越前國をば、子子孫孫まで、御變改有まじき由、御約束在て給はて候しを、内府に後て後、やがて召され候事は、何の過怠にて候やらむ。是一つ。次に中納言闕の候し時、二位中將の所望候しを、入道隨分執申しか共、遂に御承引なくして、關白の息を成さるゝ事は如何に。たとひ入道如何なる非據を申おこなふ共、一度はなどか聞召入れでは候べき。申候はんや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、理運左右に及ばぬ事を、引違させ給ふは、本意なき御計とこそ存候へ。是一つ。次に新大納言成親卿已下、鹿谷に寄合て、謀反の企候し事、全く私の計略に非ず。併君御許容有に依て也。今めかしき申事にて候へども、七代迄は、此一門をば爭か捨させ給ふべき。其に入道七旬に及で、餘命幾くならぬ一期の内にだにも、動もすれば亡すべき由御計らひあり。申候はんや、子孫相ついで、朝家に召仕れん事有がたし。凡老て子を失ふは、枯木の枝無に異ならず。今は程なき浮世に、心を費ても、何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ、思成て候へ。」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、法印怖うも又哀にも覺て、汗水に成り給ぬ。其時は如何なる人も、一言の返事に及がたき事 ぞかし。其上我身も近習の仁也。鹿谷に寄合たりし事を正しう見聞れしかば、其人數とて、只今も召や籠られんずらんと思ふに、龍の鬚を撫で虎の尾を蹈む心地はせられけれども、法印もさる怖い人で、些もさわがず、申されけるは、「誠に度々の御奉公淺からず。一旦恨申させ坐す旨、其謂候。但官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取ては悉く滿足す。されば功の莫大なる事をも君御感有でこそ候へ。然に近臣事を亂り、君御許容有といふ事、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは、俗の常の弊也。小人の浮言を重うして、朝恩の他に異なるに、君を背き參させ給はん事と、冥顯につけて、其恐すくなからず候。凡天心は蒼々として測難し、叡慮定て此儀でぞ候らん。下として上に逆る事は、豈人臣の禮たらんや。能能御思惟候べし。詮ずる所、此趣をこそ披露仕候はめ。」とて出られければ、幾等も竝居たる人人、「穴怖し。入道のあれ程怒り給へるに、些も恐れず、返事うちして立るゝ事よ。」とて、法印を譽ぬ人こそ無かりけれ。
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大臣流罪
法印御所へ參て、此由奏聞せられければ、法皇も道理至極して、仰下るゝ方もなし。同十六日入道相國、此日來思立給へる事なれば、關白殿を始奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、四十三人が官職を停て、追籠らる。關白殿をば、太宰帥に遷て、鎭西へ流し奉る。かゝらん世には、とてもかくても有なんとて、鳥羽の邊、古川と云ふ所にて、御出家有り。御歳三十 五。禮儀能く知めし、曇なき鏡にて渡せ給ひつる者をとて、世の惜奉る事斜ならず、遠流の人の道にて出家したるをば、約束の國へは遣ぬ事である間、初は日向國と定られたりしか共、御出家の間、備前の國府の邊、井ばさまと云ふ所に留め奉る。
大臣流罪の例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣豐成、左大臣魚名、右大臣菅原、左大臣高明公、右大臣藤原伊周公に至る迄、既に六人。され共攝政關白流罪の例は、是始めとぞ承る。
故中殿の御子二位の中將基通は入道の婿にておはしければ、大臣關白になし奉らる。圓融院の御宇、天禄三年十一月一日、一條攝政謙徳公失給しかば、御弟堀川の關白忠義公、其時は未從二位中納言にてましましけり。其御弟法興院の大入道殿其比は大納言の右大將にておはしける間、忠義公は、御弟に越られ給しか共、今又越返し奉り、内大臣正二位にあがて、内覽の宣旨蒙らせ給ひたりしをこそ、人皆耳目を驚したる御昇進とは申しに、是は其には猶超過せり、非參議二位中將より大中納言を經ずして、大臣關白になり給ふ事いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿の宰相、大外記、大夫史に至る迄、皆あきれたる樣にぞ見えたりける。
太政大臣師長は、つかさを停て、東の方へ流され給ふ。去ぬる保元に父惡左大臣殿の縁座に依て、兄弟四人流罪せられ給しが、御兄右大將兼長、御弟左中將隆長、範長禪師三人は歸洛を待ず、配所にてうせ給ぬ。是は土佐の畑にて、九囘の春秋を送り迎へ、長寛二年八月に召還されて、本位に復し、次の年正月正二位して、仁安元年十月に、前中納言より權大納言 に上り給ふ。折節大納言明ざりければ、員の外にぞ加はられける。大納言六人になる事是始也。又前中納言より權大納言に成る事も、後山階大臣躬守公、宇治大納言隆國卿の外は、未承及ばず。管絃の道に達し、才藝勝れてましましければ、次第の昇進滯らず、太政大臣迄極させ給て、又如何なる罪の報にや、重て流され給ふらん。保元の昔は、南海土佐へ遷され、治承の今は、又東關尾張國とかや。本より罪無して、配所の月を見んと云ふ事は、心有際の人の願ふ事なれば、大臣敢て事共し給はず。彼唐太子賓客白樂天、潯陽の江の邊にやすらひ給けん其古を思やり、鳴海潟汐路遙に遠見して、常は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を彈じ、和歌を詠じて、等閑がてらに月日を送らせ給けり。或時當國第三の宮熱田明神に參詣あり。其夜神明法樂の爲に、琵琶ひき朗詠し給ふに、所本より無智の境なれば、情を知れる者なし。邑老、村女、漁人、野叟、頭を低れ、耳を そばだつと云ども、更に清濁を分て、呂律を知る事なし。され共胡巴琴を彈ぜしかば、魚鱗躍迸り、虞公歌を發せしかば、梁塵動き搖く。物の妙を極る時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだて、滿座奇異の思をなす。漸漸深更に及で、風香調の中には、花芬馥の氣を含み、流泉の曲の間には、月清明の光を爭ふ。願くは今生世俗文字の業、狂言綺語の謬をもてと云ふ朗詠をして、秘曲を彈給へば、神明感應に堪ずして、寶殿大に震動す。平家の惡行無りせば、今此瑞相を、爭か拜むべきとて、大臣感涙をぞ流されける。
按察大納言資方卿の子息右近衞少將兼讚岐守源資時、二つの官を停らる。參議皇太后宮權大 夫兼右兵衞督藤原光能、大藏卿右京大夫兼伊豫守高階康經、藏人左少辨兼中宮權大進藤原基親、三官共に停めらる。按察大納言資方卿、子息右近衞少將、孫の右少將雅方、是三人をやがて都の中を追出さるべしとて、上卿には藤大納言實國、博士判官中原範貞に仰せて、やがて其日都の中を追出さる。大納言宣けるは、「三界廣しといへ共、五尺の身置き所なし。一生程なしといへ共、一日暮難し。」とて、夜中に九重のうちを紛出て、八重立つ雲の外へぞ赴かれける。彼大江山、生野の道にかゝりつゝ、丹波國村雲と云ふ所にぞ、暫はやすらひ給けるが、其より終には尋出されて、信濃國とぞ聞えし。
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行隆之沙汰
前關白松殿の侍に、江大夫判官遠成と云ふ者有り。是も平家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て搦捕るべしと聞えし間、子息江左衞門尉家成打具して、いづちともなく落行きけるが、稻荷山に打上り、馬より下て、父子言合けるは、「是より東國の方へ落くだり、伊豆國の流罪人前兵衞佐頼朝を憑ばやとは思へ共、其も當時は勅勘の人で、身一つだにも叶難う坐也。日本國に、平家の庄園ならぬ所や有る。とても遁ざらん物故に、年來住馴たる所を人に見せんも恥がましかるべし。只是より歸て、六波羅より召使有らば、腹掻切て死なんにはしかじ。」とて、河原坂の宿所へとて取て返す。案の如く、六波羅より源大夫判官季定、攝津判官盛澄、ひた甲三百餘騎、河原坂の宿所へ押寄て、鬨をどとぞ作ける。江大夫判官縁に立出で、 「是御覽ぜよ、おの/\、六波羅では此樣を申させ給へ。」とて、館に火をかけ、父子共に腹かき切り、 ほのほの中にて燒死ぬ。
抑か樣に上下多の人の亡び損ずる事を以何と云に、當時關白に成せ給へる二位中將殿と前の殿の御子三位中將殿と、中納言御相論の故と申す。さらば關白殿御一所こそ、如何なる御目にも逢せ給はめ、四十餘人迄の人々の、事に逢べしやは。去年讃岐院の御追號と、宇治惡左府贈官贈位在しか共、世間は猶も靜かならず。凡是にも限まじかんなり。入道相國の心に天魔入かはて腹を居かね給へりと聞えしかば、又天下に如何なる事か出でこんとて京中上下怖れおのゝく。
其比前左少辨行高と聞えしは、故中山中納言顯時卿の長男也。二條院の御代には、辨官に加てゆゆしかりしか共、此十餘年は官を停められて、夏冬の衣がへにも及ばず、朝暮の ざんも心に任せず、有か無かの體にて坐けるを、太政入道、「申べき事有り。きと立より給へ。」と宣遣はされたりければ、行高此十餘年は、何事にも交はらざりつる物を、人の讒言したる者あるにこそとて、大に恐れ騒がれけり。北方、君達も「如何なる目にか逢はんずらん。」と泣悲しみ給ふに、西八條より、使布竝に有ければ、力及ばで、人に車借て西八條へ出られたり。思には似ず、入道やがて出向うて對面あり。「御邊の父の卿は、大小事申合せし人なれば、愚に思ひ奉らず。年來籠居の事も、いとほしう思たてまつりしか共、法皇御政務の上は力及ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申沙汰仕るべし。さらば疾歸られよ。」とて入給ぬ。被歸たれば、 宿所には女房達死だる人の生返りたる心地して、指つどひて、皆悦泣共せられけり。
太政入道源大夫判官季貞を以て、知行し給べき庄園状共數多遣はす。先さこそ有らめとて、百疋百兩に米を積でぞ贈られける。出仕の料にとて、雜色牛飼牛車迄、沙汰し遣はさる。行高手の舞足の踏どころも覺えず、こはされば夢かや夢かとぞ驚かれける。同十七日五位の侍中に補せられて、左少辨に成かへり給ふ。今年五十一、今更若やぎ給ひけり。唯片時の榮花とぞ見えし。
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法皇被流
同廿日、院御所法住寺殿には、軍兵四面を打圍む。平治に信頼が、仕たりし樣に、火をかけて、人をば皆燒殺さるべしと聞えし間、上下の女房女童、物をだに打被かず、遽て噪で走出づ。法皇も大に驚かせおはします。前右大將宗盛卿、御車を寄て、「とう/\めさるべう候。」と奏せられければ、法皇「こはされば何事ぞや。御とがあるべし共思召さず。成親俊寛が樣に遠き國遙の島へも、遷遣んずるにこそ。主上さて渡せ給へば、政務の口入する計也。其もさるべからずば、自今以後さらでこそ有め。」と仰ければ、宗盛卿「其儀では候はず。世を靜ん程、鳥羽殿へ御幸成參せんと、父入道申候。」「さらば宗盛やがて御供に參れ。」と仰けれ共、父の禪門の氣色に畏を成て、參られず。「哀れ是に附ても、兄の内府には事外に劣たる者かな。一念もかゝる御目に逢べかりしを内府が身に代て制し停てこそ今日迄も心安かりつれ。諫む る者無しとて、か樣にするにこそ。行末とても憑しからず。」とて御涙を流させ給ふぞ忝けなき。
さて御車に召されけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。只北面の下臈、さては金行といふ御力者許ぞ參りける。御車の尻には、尼前一人參られたり。此尼前と申は、法皇の御乳の人、紀伊二位の事也。七條を西へ、朱雀を南へ御幸成る。恠しの賤の男賤の女に至るまで「あはれ法皇の流されさせましますぞや。」とて、涙を流し袖を絞らぬは無けり。「去七日の夜の大地震も、かゝるべかりける前表にて、十六洛叉の底迄も答へ、堅牢地神の驚きさわぎ給ひけんも理哉。」とぞ人申ける。
さて鳥羽殿へ入せ給たるに大膳大夫信成が、何として紛れ參りたりけるやらむ、御前近う候けるをめして「如何樣にも、今夜失はれなんずと思召すぞ。御行水を召さばやと思召すは如何せんずる。」と仰ければ、さらぬだに信成、今朝より肝魂も身に添はず、あきれたる樣にて有けるが、此仰承る忝さに、狩衣に玉だすきあげ、小柴墻壞、大床のつか柱破などして、水汲入かたのごとく御湯しだいて參せたり。
又靜憲法印、入道相國の西八條の邸に行て、「夕法皇の鳥羽殿へ御幸成て候なるに、御前に人一人も候はぬ由承るが餘に淺ましう覺え候。何か苦う候べき、靜憲ばかりは御ゆるされ候へかし。參り給はん。」と申されければ、「とう/\、御房は事あやまつまじき人なれば。」とて許されけり。法印鳥羽殿へ參て、門前にて車よりおり、門の内へさし入給へば、折しも法皇、御 經を打上々々遊されける御聲も、殊にすごう聞えさせ給ける。法印のつと參られたれば、遊ばされける御經に、御涙のはら/\とかゝらせ給を見參せて、法印餘の悲さに、裘代の袖を顏に押當て、泣々御前へぞ參られける。御前には尼前ばかり候はれけり。「如何にや法印御房、君は昨日の朝、法住寺殿にて、供御聞召されて後は、よべも今朝も聞召も入ず。長夜すがら御寢も成らず。御命も既に危くこそ見えさせ御座ませ。」とのたまへば、法印涙を押て申されけるは、「何事も限有る事にて候へば、平家樂みさかえて二十餘年。され共惡行法に過て既に亡び候なんず。天照大神、正八幡宮爭か捨まゐらせさせ給ふべき。中にも君の御頼ある日吉山王七社、一乘守護の御誓あらたまらずば、彼法華八軸に立翔てこそ、君をば守參させ給ふらめ。しかれば政務は君の御代となり、凶徒は水の泡と消失候べし。」など申されければ、此詞に少し慰せ坐ます。
主上は關白の流され給ひ、臣下の多く亡びぬる事をこそ御歎有けるに、剩へ法皇鳥羽殿に押籠られさせ給ふと聞召されて後は、つや/\供御も聞召れず。御惱とて常は夜のおとどにのみぞ入せ給ける。きさいの宮をはじめしまゐらせて御前の女房たちいかなるべし共覺え給はず。
法皇鳥羽殿へ押籠られさせ給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上夜ごとに清凉殿の石灰の壇にて、伊勢太神宮をぞ御拜有ける。是は唯一向法皇の御祈也。二條院は、賢王にて渡せ給しか共、天子に父母なしとて、常は法皇の仰をも申替させましける故にや、繼體の君に てもましまさず。されば御讓を受させ給ひたりし六條院も、安元二年七月十四日御年十三にて崩御成りぬ。淺ましかりし御事也。
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城南離宮
「百行の中には、孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む。」と云へり。されば唐堯は老衰へたる母を貴ひ、虞舜はかたくななる父を敬ふと見えたり。彼賢王聖主の先規を追せ坐しけむ叡慮の程こそ目出たけれ。其比内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり。「かゝらむ世には雲井に跡を留めても何にかはし候べき。寛平の昔をも訪ひ、花山の古をも尋て、家をいで世をのがれ山林流浪の行者とも成ぬべうこそ候へ。」と遊されたりければ、法皇の御返事には、「さな思召され候そ。さて渡せ給ふこそ一つの頼にても候へ。跡なく思召し成せ給ひなん後は、何の頼か候べき。唯愚老がともかうもならむ樣を聞召果させ給ふべし。」と遊されたりければ、主上此返事を龍顏に押當て、いとゞ御涙に沈ませ給ふ。君は船、臣は水、水能く船を浮べ、水又船を覆す。臣能く君を保ち、臣又君を覆す。保元平治の比は、入道相國君を保ち奉ると云共、安元治承の今は、又君をなみし奉る。史書の文に違はず。大宮大相國、三條内大臣、葉室大納言、中山中納言も失せられぬ。今は古き人とては成頼、親範ばかり也。此人々も、かゝらむ世には、朝に仕へ身を立て、大中納言を經ても何かはせんとて、いまだ盛んなし人々の、家を出で世を遁れ、民部卿入道親範は、大原の霜に伴ひ、宰相入道成頼は、高野 の霧に交り、一向後世菩提の營みの外は他事なしとぞ聞えし。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を澄す人も有ければ、是豈博覽清潔にして、世を遁たるに非や。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞いて、「あはれ心疾も世を遁たる物かな。かくて、聞も同事成共、親り立交て見ましかば、如何に心憂らん。保元平治の亂をこそ、淺ましと思しに、世末に成ば、かゝる事も有けり。此後、猶いか許の事か出來むずらむ、雲を分ても上り、山を隔ても入なばや。」とぞ宣ける。實心有ん程の人の跡を留むべき世共みえず。
同廿三日。天台座主覺快法親王、頻に御辭退有るに依て、前座主明雲大僧正、還著せらる。入道相國は、かく散々にし散されたれ共、御娘中宮にてまします。關白殿と申も聟也。萬心安うや思はれけん。「政務は只一向主上の御計たるべし。」とて、福原へぞ下られける。前右大將宗盛卿、急ぎ參内して、此由奏聞せられければ、主上は「法皇の讓坐したる世ならばこそ。唯とう/\執柄に言合て、宗盛ともかうも計へ。」とて、聞召もいれざりけり。
法皇は城南の離宮にして、冬も半過させ給へば、野山の嵐の音のみ烈くて、寒庭の月の光ぞさやけき。庭には雪のみ降積れ共、跡蹈つくる人も無く、池にはつらゝ閉重て、むれ居し鳥も見えざりけり。大寺の鐘の聲、遺愛寺の聞を驚し、西山の雪の色、香爐峯の望を催す。夜霜に寒き砧の響、幽に御枕に傳ひ、曉氷を輾る車の跡、遙に門前に横はれり。巷を過る行人、征馬のいそがはしげなる氣色、浮世を渡る有樣も、思召し知られて哀也。宮門を守る蠻夷の夜晝警衞を勤るも、先の世のいかなる契にて、今縁を結ぶらんと仰なりけるぞ忝き。凡 物に觸れ事に隨て、御心を傷しめずと云ふ事なし。さるまゝには彼折々の御遊覽、處々の御參詣、御賀の目出たかりし事共、思召續けて、懷舊の御涙抑へ難し。年去り年來て、治承も四年に成りけり。
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平家物語卷第四
嚴島御幸
治承四年正月一日の日、鳥羽殿には、相國も許さず、法皇も恐させ坐しければ、元日元三の間、參入する人も無し。されども、故少納言入道信西の子息、櫻町中納言重教卿、其弟左京大夫長教ばかりぞ許されて參られける。同正月廿日のひ春宮御袴著、竝に御眞魚始とて、目出たき事共有しかども法皇は鳥羽殿にて、御耳の餘所にぞ聞召す。
二月廿一日、主上異なる恙も渡せ給はぬを押下し奉り、東宮踐祚有り。これは入道相國、萬思ふ樣なるが致す所なり。時よくなりぬとてひしめき合へり。内侍所神璽寶劔渡し奉る。上達部陣に聚て、故事共先例に任せて行しに、辨内侍御劔とて歩み出づ。清凉殿の西面にて泰通中將請取る。備中の内侍しるしの御箱取り出づ。隆房の少將請取る。内侍所璽の御箱、今夜ばかりや手をも懸んと思ひあへりけむ内侍の心の中共、さこそはと覺えて哀れ多かりける中に、璽の御箱をば、少納言内侍とり出づべかりしを、今夜是に手をも懸ては長く新しき内侍には成まじき由人の申けるをきいて、其期に辭し申て取出ざりけり。年既に長たり。二度盛を期すべきにも在らずとて人人惡みあへりしに、備中内侍とて、生年十六歳、未だ幼なき 身ながら、其期に態と望み申て取出でける、優しかりし樣也。傳はれる御物共しな%\司々請取て新帝の皇居五條内裡へ渡し奉る。閑院殿には火の影も幽に鷄人の聲も留り瀧口の問籍も絶にければ、ふるき人々心細く覺えて目出度き祝の中に涙を流し心を痛ましむ。左大臣陣に出で、御位讓の事共仰せしを聞いて、心有る人々は、涙を流し袖を濕す。我と御位を儲君に讓り奉り、麻姑射の山の中も、閑になど思召す先々だにも、哀は多き習ぞかし。況や是は御心ならず、押下されさせ給ひけん哀さ、申も中々愚也。
新帝今年は三歳、あはれ何しかなる讓位かなと、時の人々申合れけり。平大納言時忠卿は、内の御乳母、帥のすけの夫たるによて、「今度の讓位何しかなりと、誰か傾け申すべき。異國には、周の成王三歳、晉の穆帝二歳、我朝には、近衞院三歳、六條院二歳、是皆襁褓の中に包まれて、衣帶を正うせざりしかども、或は攝政負て位に即け、或は母后抱て朝に臨むと見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生て百日と云に踐祚あり。天子位を踐む先蹤、和漢かくのごとし。」と申されければ、其時の有職の人々、「あな怖し、物な申されそ。されば其は好例どもかや。」とぞつぶやき合れける。春宮位に即せ給ひしかば、入道相國夫婦共に外祖父外祖母とて、准三后の宣旨を蒙り、年官年爵を賜はて、上日の者を召使ふ。繪書き花つけたる侍共出入て、偏に院宮の如くにてぞ有ける。出家入道の後も榮耀は盡せずとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は、法興院の大入道殿兼家公の御例也。
同き三月上旬に、上皇安藝國嚴島へ御幸成るべしと聞えけり。帝王位をすべらせ給ひて、諸 社の御幸の始には、八幡賀茂春日などへこそ成せ給ふに、安藝國までの御幸は如何にと、人不審をなす。或人の申けるは、「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉の社へ御幸なる。既に知ぬ、叡慮に有と云事を。」御心中に深き御立願有り。其上此嚴島をば平家斜ならず、崇敬ひ給ふ間、上には平家に御同心、下には法皇の何となう鳥羽殿に押籠られて渡らせ給ふ、入道相國の謀反の心をも和げ給へとの御祈念の爲とぞ聞えし。山門の大衆憤り申す。「石清水、賀茂、春日へならずば、我山の山王へこそ御幸は成るべけれ。安藝國への御幸は何の習ぞや。其儀ならば神輿を振下し奉て、御幸を留め奉れ。」と僉議しければ、是に依て暫御延引有けり。入道相國やう/\になだめたまへば、山門の大衆靜りぬ。