饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15364 字 更新时间:2026-6-19 10:59

同十七日、嚴島御幸の御門出とて、入道相國の西八條の亭へ入せ給ふ。其日の暮方に、前右大將宗盛卿を召て、「明日御幸の次に、鳥羽殿へ參て、法皇の見參に入ばやと思召すはいかに。相國禪門にしらせずしては、惡かりなんや。」と仰ければ、宗盛卿涙をはら/\と流いて、「何條事か候ふべき。」と申されければ、「さらば宗盛其樣をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし。」とぞ仰ける。前右大將宗盛卿、急ぎ鳥羽殿へ參て、此由奏聞せられければ、法皇餘に思召す御事にて、夢やらんとぞ仰ける。

同十九日、大宮大納言隆季卿、未夜深う參て、御幸催されけり。此日比聞えさせ給ひつる嚴島の御幸、西八條より既に遂させ御座す。三月も半過ぬれど、霞に曇る有明の月は猶朦なり。越地を指て歸る雁の雲居に音信行も、折節哀に聞召す。未夜の中に鳥羽殿へ御幸なる。門前 にて御車より下させ給ひ、門の中へ差入せ給ふに、人稀にして木暗く、物さびしげなる御栖、先哀にぞ思食す、春既に暮なんとす、夏木立にも成にけり。梢の花色衰へて、宮の鶯聲老たり。去年の正月六日の日、朝勤の爲に、法住寺殿へ行幸有しには、樂屋に亂聲を奏し、諸卿列に立て、諸衞陣を引き、院司の公卿參り向て、幔門を開き、掃部寮筵道を布し、正かりし儀式一事もなし。けふは唯夢とのみぞ思食す。

重教中納言、御氣色申たりければ、法皇寢殿の階隱の間へ御幸成て、待參させ給ひけり。上皇は今年御歳二十、明方の月の光にはえさせ給ひて、玉體もいとど美しうぞ見させ御坐します。御母儀建春門院に、痛く似參させ給たりければ、法皇は先故女院の御事思食し出て、御涙塞敢させ給はず。兩院の御座、近くしつらはれたり。御問答は人承るに及ばず。御前には尼前計ぞ候はれける。良久しう御物語せさせ給ふ。遙に日闌けて後、御暇申させ給ひ、鳥羽の草津より御船に召されけり。上皇は法皇の離宮の故亭、幽閑寂寞の御すまひ、御心苦く御覽じ置せ給へば、法皇は又上皇の旅泊の行宮、浪の上、船の中の御在樣、覺束なくぞおぼしめす。誠に宗廟、八幡、賀茂などを指置せ給て、遙々と安藝國迄の御幸をば、神明もなどか御納受無るべき。御願成就疑なしとぞ見えたりける。

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還御

同廿六日、嚴島へ御參著、入道相國の最愛の内侍が宿所、御所になる。中二日御逗留有て、 經會舞樂行はれける。導師には、三井寺の公兼僧正とぞ聞えし。高座に登り、鐘打鳴し、表白の詞にいはく、「九重の都を出て、八重の汐路を分以て參らせ給ふ御志の忝さ。」と、高らかに申されたりければ、君も臣も感涙を催されけり。大宮、客人を始め參せて、社々所々へ皆御幸なる。大宮より五町許、山を廻て、瀧の宮へ參せ給ふ。公兼僧正一首の歌讀で拜殿の柱に書附られたり。

雲居よりおちくる瀧のしらいとに、ちぎりをむすぶ事ぞうれしき。

神主佐伯景廣加階、從上の五位、國司藤原有綱、品上あげられて加階、從下の四品、院の殿上許さる。座主尊永、法印になさる。神慮も動き、太政入道の心もはたらきぬらんとぞ見えし。

同廿九日上皇御船飾て還御なる。風烈かりければ、御船漕戻し、嚴島の内、ありの浦に留らせ給ふ。上皇、「大明神の御名殘惜に、歌仕れ。」と仰ければ、隆房の少將、

立かへる名殘もありの浦なれば、神もめぐみをかくる白浪。

夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。

今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と 仰ければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、

千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。

其後御前に人々餘た候はせ給ひて、御戯れことの在りしに、上皇「白き衣著たる内侍が國綱卿に心を懸たるな。」とて、笑はせおはしましければ、大納言大に爭がひ申さるゝ所に、文持たる便女が參て、「五條の大納言殿へ。」とて指上たり。さればこそとて滿座興ある事に申しあはれけり。大納言是を取て見給へば、

白浪の衣の袖をしぼりつゝ、君故にこそたちもまはれね。

上皇「優しうこそ思食せ。此返事はあるべきぞ。」とて、やがて御硯をくださせ給ふ。大納言返事には、

おもひやれ君がおもかげ立つ浪の、よせくる度に濕るゝ袂を。

其より備前國小島の泊に著せ給ふ。

五日の日天晴風しづかに、海上も長閑かりければ、御所の御船を始參せて、人々の船共皆出しつつ、雲の波煙の浪を分過させ給ひて、其日の酉刻に播磨國山田の浦に著せ給ふ。其より御輿に召て、福原へ入せ坐ます。六日は供奉の人々、今一日も都へ疾と急がれけれども、新院御逗留有て、福原の所々歴覽有けり。池中納言頼盛卿の山庄、荒田まで御覽ぜらる。

七日、福原を出させ給に、隆季の大納言勅定を承はて、入道相國の家の賞行はる。入道の養子、丹波守清國、正下五位、同入道の孫、越前少將資盛、四位の從上とぞ聞えし。其日寺井に著せ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御迎の公卿殿上人、鳥羽の草津へぞ參られける。還御の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相國の西八條の亭へいらせ給ふ。

同四月二十二日新帝の御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、一年炎上の後は、未造りも出されず。太政官の廳にて、行はるべしと、定められたりけるを、其時の九條殿申させ給ひけるは、「太政官の廳は、凡人の家にとらば公文所體の所也。大極殿無らん上は、紫宸殿にてこそ、御即位は有るべけれ。」と申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ、御即位は有ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有しは、主上御邪氣に依て、大極殿へ行幸かなはざりし故也。其例如何あるべからん。只後三條院の延久の佳例に任せ、太政官の廳にて行はるべき物を。」と人々申合はれけれども、九條殿の御計の上は、左右に及ばず。中宮は弘徽殿より仁壽殿へ遷らせ給ひて、高御座へ參せ給ひける御有樣、目出度かりけり。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達は、去年大臣失せ給ひし間、色にて籠居せられたり。

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源氏揃

藏人左衞門權佐定長、今度の御即位に違亂なく目出たき樣を、厚紙十枚計にこま%\と記い て、入道相國の北方、八條の二位殿へ參らせたりければ笑を含んでぞ悦ばれける。か樣に花やかに目出たきこと共在しか共、世間は猶靜かならず。

其比一院第二の皇子、以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成卿の御娘也。三條高倉にましませば、高倉宮とぞ申ける。去じ永萬元年十二月十六日、御年十五にて、忍つゝ、近衞河原の大宮御所にて、御元服有けり。御手跡美しう遊し、御才學勝てましましければ、位にも即せ給ふべきに、故建春門院の御猜にて、押籠められさせ給つゝ、花の下の春の遊には、紫毫を揮て手から御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹て自ら雅音を操給ふ、かくして明し暮し給ふ程に、治承四年には、御歳三十にぞ成せましましける。

其比近衞河原に候ける源三位入道頼政、或夜竊に此宮の御所に參て、申されける事こそ怖けれ。「君は天照大神四十八世の御末神武天皇より七十八代に當せ給ふ。太子にも立ち、位にも即せ給ふべきに、三十迄宮にて渡せ給ふ御事をば、心憂しとは思召さずや。當世の體を見候に、上には從ひたる樣なれども、内々は平家を猜まぬ者や候。御謀反起させ給ひて、平家を亡し、法皇のいつとなく鳥羽殿に押籠られて渡せ給ふ御心をも休め參せ、君も位に即せ給ふべし。是御孝行の至にてこそ候はんずれ。若思召し立せ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなして馳參らむずる源氏共こそ多う候へ。」とて申續く。「先京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽藏人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六條判官爲義が末子、十郎義盛とて隱て候。攝津國には多田藏人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の 謀反の時、同心しながら返り忠したる不當人で候へば申に及ばず。さりながら、其弟多田次郎朝實、手島冠者高頼、太田太郎頼基、河内國には、武藏權守入道義基、子息石河判官代義兼、大和國には、宇野七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治、近江國には、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には山田次郎重廣、河邊太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重國、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐國には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同小次郎長清、一條次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衞有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃國には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子の四郎義信、故帶刀先生義方が次男、木曽冠者義仲、伊豆國には流人前右兵衞佐頼朝、常陸國には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奧國には故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義經、是皆六孫王の苗裔、多田新發意滿仲が後胤也。朝敵をも平げ、宿望を遂げし事は、源平何れ勝劣無りしかども、今は雲泥交を隔てて、主從の禮にも猶劣れり。國には國司に從ひ、庄には領所に召使はれ、公事雜事に驅立られて、安い思ひも候はず。如何計か心憂く候らん。君若思召立せ給て、令旨を賜づる者ならば、夜を日に續で馳上り、平家を滅さん事、時日を囘すべからず。入道も年こそ寄て候へども、子供引具して參候べし。」とぞ申たる。

宮は此事如何有るべからんとて、暫は御承引も無りけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後 前司季通が子、少納言維長と申しは、勝たる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申ける。其人が此宮を見參らせて、「位に即せ給ふべき相坐す。天下の事思召放たせ給ふべからず。」と申ける上、源三位入道もか樣に申されければ、「さては然るべし。天照大神の御告やらん。」とて。ひしひしと思召立せ給ひけり。熊野に候十郎義盛を召て、藏人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東國へぞ下されける。

同四月二十八日都を立て近江國より始めて美濃、尾張の源氏共に次第に觸て行程に、五月十日伊豆の北條に下りつき流人前兵衞佐殿に令旨奉る。信太三郎先生義教は、兄なれば取せんとて、常陸國信太の浮島へ下る。木曽冠者義仲は、甥なればたばんとて、山道へぞおもむきける。

其比の熊野別當湛増は、平家に志し深かりけるが、何とかして漏れ聞きたりけん、新宮の十郎義盛こそ、高倉宮の令旨賜はて美濃尾張の源氏共觸れ催し、既に謀反を起なれ。那智新宮の者共は、定て源氏の方人をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を、天山と蒙りたれば、爭で背奉べき。那智新宮の者共に矢一つ射懸て、平家へ仔細を申さんとて、直甲一千人、新宮の湊へ發向す。新宮には鳥井法眼、高坊法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、龜甲、那智には執行法眼以下、都合其勢二千餘人也。閧作り矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れと、互に矢叫の聲の退轉もなく、鏑の鳴止む隙もなく、三日が程こそ戰うたれ。熊野別當湛増、家の子郎等多くうたせ、我身手負ひ、辛き命を生つゝ、本宮へこそ逃上 りけれ。

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鼬沙汰

さる程に法皇は、「遠き國へも流され遙の島へも移んずるにや。」と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年に成せ給ふ。同五月十二日午刻許、御所中には鼬夥う走騒ぐ。法皇大に驚き思食し御占形を遊いて、近江守仲兼、其比は未鶴藏人と召されけるを召て、「此占形持て泰親が許へ行き、屹と勘させて、勘状を取て參れ。」とぞ仰ける。仲兼是を賜はて、陰陽頭安倍泰親が許へ行く、折節宿所には無りけり。白川なる所へと言ければ、其へ尋ゆき、泰親に逢うて、勅定の趣仰すれば、軈て勘状を參せけり。仲兼、鳥羽殿に歸り參て門より參らうとすれば、守護の武士共許さず。案内は知たり、築地を越え大床の下を這て、切板より泰親が勘状をこそ參せたれ。法皇是をあけて御覽ずれば、「今三日がうちの御悦竝に御歎。」とぞ申たる。法皇「御悦は然るべし。是程の御身に成て又いかなる御歎のあらんずるやらん。」とぞ仰ける。

さる程に前右大將宗盛卿、法皇の御事をたりふし申されければ、入道相國漸思直て、同十三日鳥羽殿を出奉り、八條烏丸美福門院の御所へ御幸なし奉る。今三日が中の御悦とは泰親是をぞ申ける。

かゝりける所に、熊野別當湛増、飛脚を以て、高倉宮の御謀反の由都へ申たりければ、前右 大將宗盛卿大に騒で、入道相國折節福原に坐けるに、此由申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳のぼり、「是非に及べからず。高倉宮搦取て、土佐の畑へ流せ。」とこそ宣けれ。上卿は三條大納言實房、職事は頭辨光雅とぞ聞えし。源大夫判官兼綱、出羽判官光長承て、宮の御所へぞ向ひける。此源大夫判官と申は、三位入道の次男なり。然るを此人數に入られける事は、高倉宮の御謀反を、三位入道勸め申たりと、平家未知ざりけるに依て也。

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信連

宮は五月十五夜の雲間の月を詠させ給ひ、何の行方も思召よらざりけるに、源三位入道の使者とて、文持て忙しげに出來り、宮の御乳母子、六條のすけの大夫宗信、是を取て、御前へ參り開いて見に、「君の御謀反已に顯れさせ給ひて、土佐の畑へ流し參すべしとて、官人共御迎に參り候。急ぎ御所を出させ給て、三井寺へいらせ坐せ。入道もやがて參り候べし。」とぞ申ける。「こは如何せん。」と噪がせおはします處に、宮の侍長兵衞尉信連と云ふ者有り。「唯別の樣候まじ。女房裝束にて出させ給へ。」と申ければ、「然るべし。」とて、御髮を亂し、重ねたる御衣に、市女笠をぞ召れける。六條のすけの大夫宗信、唐笠持て御供仕る。鶴丸と云ふ童、袋に物入て戴いたり、譬へば青侍の女を迎へて行樣に出立せ給ひて、高倉を北へ落させ給ふに、大なる溝の有けるを、いと物輕う越させ給へば、路行人立留まて、「はしたなの女房の溝の越樣や。」とて、怪げに見參せければ、いとゞ足早に過させ給ふ。

長兵衞尉信連は御所の留守にぞ置れたる。女房達の少々坐けるを彼此へ立忍せて、見苦き物有ば、取認めむとて見程に、宮のさしも御秘藏有ける小枝と聞えし御笛を、只今しも常の御所の御枕に取忘れさせ給ひたりけるぞ、立歸ても取まほしう思召す。信連是を見附て、「あな淺まし。君のさしも御秘藏有る御笛を。」と申て、五町が内に追著て參たり。宮斜ならず御感有て、「我死ば、此笛をば御棺に入よ。」とぞ仰ける。「やがて御供に候へ。」と仰ければ、信連申けるは、「只今御所へ、官人共が御迎へに參り候なるに、御前に人一人も候はざらんか、無下にうたてしう候。信連が此御所に候とは上下皆知られたる事にて候に、今夜候はざらんは、其も其夜は迯たりけりなど言れん事、弓箭取る身は、假にも名こそ惜う候へ。官人共暫あひしらひ候て打破てやがて參り候はん。」とて、走り歸る。

長兵衞が其日の裝束には、薄青の狩衣の下に、萌黄威の腹卷を著て、衞府の太刀をぞ帶たりける。三條面の惣門をも、高倉面の小門をも、共に開いて待かけたり。源大夫判官兼綱、出羽判官光長、都合其勢三百餘騎、十五日の夜の子の刻に宮の御所へぞ押寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨有と覺て、遙の門外にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乘ながら門の内に打入れ、庭にひかへて大音聲を揚て申けるは、「御謀反の聞え候に依て、官人共別當宣を承はり、御迎に參て候。急ぎ御出候へ。」と申ければ、長兵衞尉大床に立て、「是は當時は御所でも候はず。御物詣で候ぞ。何事ぞ、事の仔細を申されよ。」と言ければ、「何條此御所ならでは、いづくへか渡せ給ふべかんなる。さないはせそ。下部共參て、捜し奉れ。」とぞ云ける。長兵 衞尉是を聞て、「物も覺ぬ官人共が申樣哉。馬に乘ながら門の内へ參るだにも奇怪なるに、下部共參て捜まゐらせよとは、爭で申ぞ。左兵衞尉長谷部信連が候ぞ。近う寄て過すな。」とぞ申ける。廳の下部の中に、金武と云ふ大力の剛の者、長兵衞に目をかけて、大床の上へ飛上る。是れを見てどうれいども十四五人ぞ續たる。長兵衞は狩衣の帶紐引切て捨るまゝに、衞府の太刀なれ共、身をば心得て作せたるを拔合て、散々にこそ切たりけれ。敵は大太刀大長刀で振舞へども、信連が衞府の太刀に切立られて、嵐に木の葉の散樣に、庭へ颯とぞ下りたりける。

さ月十五夜の雲間の月の顯れ出で明りけるに、敵は無案内なり、信連は案内者也、あそこの面道に追懸ては、はたと切り、此所の詰に追詰てはちやうと切る。「如何に宣旨の御使をば、かうはするぞ。」と云ければ、「宣旨とは何ぞ。」とて、太刀曲ばをどり退き、押直し踏直し、立ち處に好者共十四五人こそ切伏たれ。太刀のさき三寸許打折て腹を切んと腰を探れば、鞘卷落て無けり。力及ばず、大手を廣て、高倉面の小門より走り出んとする所に、大長刀持たる男一人寄合ひたり、信連長刀に乘んと、飛で懸るが、乘損じて、股をぬい樣に貫かれて、心は猛く思へども、大勢の中に取籠られて、生捕にこそせられけれ。

其後御所を捜せども、宮渡らせ給はず。信連許搦て、六波羅へ率て參る。入道相國は簾中に居給へり。前右大將宗盛卿、大床に立て、信連を大庭に引居させ、「誠にわ男は、『宣旨とは何ぞ。』とて切たりけるか。其上、廳の下部を、刃傷殺害したん也。詮ずる所糺問して、よく よく事の仔細を尋問ひ、其後河原に引出て、首を刎候へ。」とぞ宣ひける。信連少しも噪がずあざ笑て申けるは、「この程夜々あの御所を、物が窺ひ候時に、何事の有るべきと存じて、用心も仕候はぬ處に、鎧きたる者共が打入て候を、『何者ぞ。』と問候へば、『宣旨の御使』と名乘り候。山賊、海賊、強盗など申す奴原は、或は『公達の入せ給ふぞ。』或は『宣旨の御使』など名乘り候と兼々承て候へば、『宣旨とは何ぞ。』とて切たる候。凡物の具をも思ふ樣に仕り、鐵善き太刀をも持て候はば、官人共をよも一人も安穩では歸し候はじ。又宮の御在所は何くにか渡せ給ふらん。知參せ候はず。縱知參せて候とも、侍ほんの者の、申さじと思切てん事、糺問に及で申べしや。」とて、其後は物も申さず。

幾らも竝居たりける平家の侍共、「哀剛の者哉。あたら男を切られんずらん無慚さよ。」と申あへり。其中に或人の申けるは、「あれは先年所に有し時も、大番衆が留兼たりし強盗六人に、唯一人追懸て四人切伏せ、二人生捕にして、其時成れける左兵衞尉ぞかし。是をこそ一人當千の兵とも云べけれ。」とて口々に惜合へりければ、入道相國いかゞ思はれけん、伯耆の日野へぞ流されける。源氏の世に成て、東國へ下り、梶原平三景時について、事の根元一一次第に申ければ、鎌倉殿神妙なりと感じおぼしめして、能登國に御恩蒙りけるとぞ聞えし。

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宮は高倉を北へ、近衞を東へ、賀茂河を渡せ給て、如意山へいらせ御座す。昔清見原の天皇 の未だ東宮の御時、賊徒に襲はれさせ給ひて、吉野山へ入せ給ひけるにこそ、をとめの姿をば假せ給ひけるなれ。今此宮の御有樣も、其には少しも違せ給はず。知ぬ山路を終夜分入せ給ふに、何習はしの御事なれば、御足より出る血は、沙を染て紅の如し。夏草の茂が中の露けさも、さこそは所せう思召れけめ。かくして曉方に三井寺へ入せ御座す。「かひなき命の惜さに、衆徒を憑んで、入御あり。」と仰ければ大衆畏り悦んで、法輪院に御所を飾ひ、其に入れ奉てかたのごとくの供御したてゝ參らせけり。

明れば十六日、高倉宮の御謀反起させ給ひて、失させ給ぬと申程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。法皇是を聞食して「鳥羽殿を御出在は御悦也。並に御歎。と泰親が勘状を參せたるは是れを申けり。」とぞ仰せける。

抑源三位入道年比日來も有ばこそ有けめ。今年如何なる心にて、謀反をば起しけるぞといふに、平家の次男前右大將宗盛卿すまじき事をし給ひけるに依てなり、去ば人の世に有ばとて、すまじき事をもし、坐に言ふ間敷事をも言ふは能々思慮有るべき者なり。

譬へば、源三位入道の嫡子、仲綱の許に、九重に聞えたる名馬有り。鹿毛なる馬の雙なき逸物、乘走り心むき、又有るべし共覺えず。名をば木の下とぞ云れける。前右大將是を傳聞き仲綱の許へ使者を立て、「聞え候名馬を見候はばや。」と宣ひ遣されければ、伊豆守の返事には、「さる馬は持て候つれ共、此程餘に乘損じて候つる間、暫勞せ候はむとて田舎へ遣して候。」「さらんには力なし。」とて、其後沙汰も無りしを、多く竝居たりける平家の侍共、「哀其馬 は一昨日迄は候し者を、昨日も候ひし、今朝も庭乘し候つる。」など申ければ、「さては惜むごさんなれ。惡し、乞へ。」とて侍して馳させ、文などして、一日が中に五六度七八度など乞はれければ、三位入道是を聞き、伊豆守喚寄せ、「縱金を丸たる馬なりとも、其程に人の乞うものを惜べき樣やある。速に其馬六波羅へ遣せ。」とぞ宣ける。伊豆守力及ばで一首の歌を書そへて、六波羅へ遣す。

戀くば來ても見よかし、身にそへるかげをばいかゞ放ちやるべき。

宗盛卿、歌の返事をばし給はで、「哀馬や、馬は誠に好い馬で有けり。去ども餘に主が惜つるが憎きに、やがて主が名乘を印燒にせよ。」とて、仲綱と云ふ印燒をして、厩に立られたり。客人來て「聞え候名馬を見候はばや。」と申ければ、「其仲綱めに鞍置いて引出せ。仲綱め乘れ。仲綱め打て、はれ。」など宣ひければ、伊豆守是を傳聞き、「身にかへて思ふ馬なれども、權威について取るゝだにも有に、馬故仲綱が天下の笑れ草と成んずる事こそ安からね。」と、大に憤られければ、三位入道是を聞き伊豆守に向て、「何事の有べきと思侮て、平家の人どもが、さ樣のしれ事をいふにこそ有なれ。其儀ならば、命生ても何かせん、便宜を窺ふでこそ有め。」とて、私には思も立たず、宮を勸め申けるとぞ後には聞えし。

是に附ても、天下の人、小松大臣の御事をぞしのび申ける。或時小松殿參内の次に、中宮の御方へ参せ給ひたりけるに、八尺許有ける蛇が、大臣の指貫の左の輪を這廻りけるを、重盛騒がば、女房達も騒ぎ、中宮も驚せ給ひなんずと思召し、左の手で蛇の尾を押へ、右の手で 首を取り、直衣の袖の中に引入れ、些ともさわがず、つい立て、「六位や候、六位や候。」と召されければ、伊豆守、其時は未衞府藏人でおはしけるか、仲綱と名乘て參れたりけるに、此蛇をたぶ。給て弓場殿を經て、殿上の小庭にいでつゝ、御倉の小舎人をめして、「是給れ。」と言れければ、大に頭を掉て逃去ぬ。力及ばず我郎等競の瀧口を召て、是を給ぶ。給て捨てけり。其朝小松殿善い馬に鞍置て、伊豆守の許へ遣すとて、「さても昨日の振舞こそ、優に候しか。是は乘一の馬で候。夜陰に及で陣外より、傾城の許へ通れむ時もちゐらるべし。」とて遣さる。伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬畏て賜り候ぬ。さても昨日の御振舞は、還城樂にこそ似て候しか。」とぞ申されける。如何なれば小松大臣は、か樣にゆゆしうおはせしに、宗盛卿はさこそ無らめ、剩へ人の惜む馬乞取て、天下の大事に及ぬるこそうたてけれ。

同十六日の夜に入て、源三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源太夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光已下、都合其勢三百餘騎、館に火かけ燒上て、三井寺へこそ參られけれ。三位入道の侍に、渡邊源三瀧口競と云者有り。馳後て留たりけるを、前右大將競を召て、「如何に汝は三位入道の供をばせで、留たるぞ。」と宣ば競畏て申けるは、「自然の事候はば、眞先かけて、命を奉らうとこそ日比は存て候つれども、何と思はれ候けるやらん、かうとも仰せられ候はず。」「抑朝敵頼政に同心せむとや思ふ。又是にも兼參の者ぞかし。先途後榮を存じて、當家に奉公致さんとや思ふ。有の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。競涙をはら/\と流いて、「相傳の好はさる事で候へ共、いかが朝敵となれる人に同心をばし候べき。殿中に 奉公仕うずる候。」と申ければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、些も劣まじきぞ。」とて入給ひぬ。

「侍に競はあるか、」「候。」「競はあるか。」「候。」とて朝より夕に及まで祗候す。漸日も暮ければ、大將出られたり。競畏て申けるは、「誠や三位入道殿三井寺にと聞え候。定めて討手向けられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師、さては渡邊のしたしい奴原こそ候らめ。擇討などもし候べきに、乘て事にあふべき馬の候つるを、親い奴めに盗まれて候。御馬一匹下し預るべうや候らん。」と申ければ、大將尤さるべしとて、白葦毛なる馬の煖廷とて秘藏せられたりけるに、好い鞍置てぞ給だりける。競屋形に歸て、「早日の暮よかし、此馬に打乘て、三井寺へ馳參り、三位入道殿の眞先かけて、打死せん。」とぞ申ける。日も漸暮ければ、妻子共をば彼此へ立忍せて、三井寺へと出立ける心の中こそ無慚なれ。

平紋の狩衣の菊綴大らかにしたるに、重代の著背長の緋威の鎧に、星白の甲の緒をしめ、いか物作の大太刀帶き、二十四差たる大中黒の矢負ひ、瀧口の骨法忘れじとや、鷹の羽にて矧だりける的矢一手ぞ差副たる。滋籐の弓持て、煖廷に打乘り、乘替一騎打具し、舎人男にもたてわき挾せ、屋形に火かけ燒上て、三井寺へこそ馳たりけれ。六波羅には、競が宿所より火出來たりとて、ひしめきけり。宗盛卿急ぎ出て、「競はあるか。」と尋給ふに、「候はず。」と申す。「すはきやつめを手延にして、たばかられぬるは。あれ追懸て討。」と宣へども、競は本より勝れたる強弓精兵矢繼早の手きゝ大力の剛の者二十四差たる矢で先二十四人は射殺れなん ず。音なせそとて、向ふ者こそ無りけれ。三井寺には、折節競が沙汰ありけり。渡邊黨「競をば召具すべう候つる者を、六波羅に殘り留まて、いかなるうき目にか逢ひ候らん。」と申ければ、三位入道心を知て「よも其者、無體に囚へ搦られはせじ。入道に志深い者也今見よ。唯今參うずるぞ。」と宣も果ねば、競つと出來たり。「さればこそ。」とぞ宣ける。競かしこまて申けるは「伊豆守殿の、木の下が代に、六波羅の煖廷をこそ取て參て候へ。參せ候はん。」とて伊豆守夜半ばかり門の内へぞ追入たる。馬やに入て、馬共に噛合ければ、舎人驚あひ、「煖廷が參て候。」と申す。大將急ぎ出て見給ふに、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」と云ふ印燒をぞしたりける。大將「安からぬ。競めを手延にしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。今度三井寺へ寄たらんに、如何にもして先づ競めを生捕にせよ。鋸で頸斬ん。」とて、躍上々々怒られけれども、煖廷が尾髪を生ず、印燒も又失ざりけり。

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山門牒状

三井寺には、貝鐘鳴いて、大衆僉議す。「近日世上の體を案ずるに、佛法の衰微、王法の牢籠正に此時に當れり。今度清盛入道が暴惡を戒めずば、何の日をか期すべき。宮此に入御の御事、正八幡宮の衞護、新羅大明神の冥助に非ずや。天衆地類も影向を垂れ、佛力神力も降伏を加へ坐す事などか無るべき。抑北嶺は圓宗一味の學地、南都は夏臘得度の戒場也。牒送の 處に、などか與せざるべき。」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも、牒状をこそ遣しけれ。先山門への状に云、

園城寺牒す、延暦寺の衙。特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと思ふ状右入道淨海恣に王法を失ひ、佛法を滅ぼさんと欲す。愁歎極なき所に、去る十五日の夜、一院第二の王子、竊に入寺せしめ給ふ。こゝに院宣と號して、出し奉るべき由、責ありといへども、出し奉るに能はず。仍て官軍を放ち遣す旨、其聞えあり。當寺の破滅、正に此時に當れり。諸衆何ぞ愁嘆せざらんや。就中に延暦、園城兩寺は、門跡二つに相分ると雖、學する所は是圓頓一味の教門に同じ。譬へば鳥の左右の翅の如し。又車の二つの輪に似たり。一方闕けんに於ては、爭かその歎無らんや、者れば、特に合力を致して、當寺の破滅を助けられば、早く年來の遺恨を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議此の如し。仍牒送件の如し。

治承四年五月十八日 大衆等

とぞ書たりける。

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南都牒状

山門の大衆、此状を披見して、こは如何に、當山の末寺で有ながら、鳥の左右の翅の如く、 又車の二つの輪に似たりと、抑て書く條、奇怪なり。」とて、返牒を送らず。其上入道相國天台座主明雲大僧正に、衆徒を靜らるべき由宣ければ、座主急ぎ登山して、大衆をしづめ給ふ。かゝりし間、宮の御方へ、不定の由をぞ申ける。又入道相國、近江米二萬石、北國の織延絹三千匹、往來に寄らる。是を谷々嶺々に引れけるに、俄の事では有り、一人して數多を取る大衆も有り。又手を空うして、一つも取ぬ衆徒も有り。何者の爲態にや有けん、落書をぞしたりける。

山法師織延衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ。

又絹にもあたらぬ大衆の詠たりけるやらん。

織延を一きれも得ぬわれらさへ、薄恥をかくかずに入哉。

又南都への状に云、

園城寺牒す、興福寺の衙。特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと乞ふ状右佛法の殊勝なる事は、王法を守らんがため、王法亦長久なる事は、即ち佛法に依る。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、恣に國威を竊にし、朝政を亂り、内につけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難を遁れんがために、俄に入寺せしめ給ふ。爰に院宣と號して出したてまつるべき旨、責ありと云へども、衆徒一向是を惜み奉る。仍て彼の禪門、武士を當寺に入れんとす。佛法と云、王 法と云、一時に當に破滅せんとす。昔唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を滅さしめし時、清凉山の衆、合戰を致して是を防ぐ。王權猶かくの如し。何ぞ況や謀反八逆の輩に於てをや。就中に南京は例なくして、罪なき長者を配流せらる。今度にあらずば、何の日か會稽を遂げん。願くは、衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には惡逆の伴類を退けば、同心の至り、本懷に足ぬべし。衆徒の僉議かくの如し。仍牒送如件。

治承四年五月十八日 大衆等

とぞ書たりける。

南都の大衆此状を披見して、やがて返牒を送る。其返牒に云、

興福寺牒す、園城寺の衙來牒一紙に載せられたり。右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を滅さんとする由の事、牒す、玉泉、玉花、兩家の宗義を立つと云へども、金章、金句、同じく一代の教門より出でたり。南京北京共に以て、如來の弟子たり。自寺他寺互に、調達が魔障を伏すべし。抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。大藏卿爲房、賀州刺史の古、檢非所に補し、修理の大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。然を親父忠盛昇殿を許されし時、都鄙の老少皆蓬壺の瑕瑾を惜み、内外の榮幸各馬臺の讖文に啼く。忠盛青雲の翅を刷ふといへども、世の民猶白屋の種を輕ず。名を惜む青侍其家に望むことなし。然るを去る平治元年十二月、太上天皇、一 戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以降、高く相國に上り、兼て兵仗を給る。男子或は台階を辱うし、或は羽林に連る。女子或は中宮職に備り、或は准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫、かの甥、悉く竹符を割く。加之九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕從と成す。一毛心に違へば、王侯と云へ共是を囚へ、片言耳に逆ふれば、公卿といへども是を搦む。是に依て、或は一旦の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂を遁れんと思て、萬乘の聖主猶面諂の媚をなし、重代の家君却て膝行の禮を致す。代々相傳の家領を奪ふと云へども、上裁も恐れて舌を卷巻き、宮々相承の庄園を取ると云へども、權威に憚てもの言ふことなし。勝に乘るあまり、去年の冬十一月太上皇の棲を追捕し、博陸公の身を推し流す。反逆の甚しい事、誠に古今に絶たり。其時我等すべからく賊衆に行き向て、其罪を問ふべしと云へども、或は神慮に相憚り、或は綸言と稱するに依て、鬱陶を抑へ光陰を送る間、重て軍兵を起して、一院第二の親王宮を打ち圍む所に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送りつけて、新羅の扉に預け奉る。王法盡べからざる旨明けし。隨て又貴寺身命を捨てゝ、守護し奉る條、含識の類、誰か隨喜せざらん。我等遠域にあて、其情を感ずる所に、清盛入道猶匈氣をおこして、貴寺に入らんとするよし、仄に承り及を以て、兼て用意を致す。十八日辰の一點に大衆を起し、諸寺に牒送し、末寺に下知し、軍士を得て後、案内を達せんとする所に、青島飛び來て芳翰を投げたり。數日の鬱念一時に解散す。彼唐家清凉一山の 鳥芻、猶武宗の官兵を返す。況 や和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらんや。能く梁園左右の陣を固めて、宜く我等が進發の告を待つべし。状を察して、疑貽をなすことなかれ。以て牒す。

治承四年五月二十一日 大衆等

とぞ書たりける。

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永僉議

三井寺には又大衆起て僉議す。山門は心替しつ、南都は未參らず。此事延ては惡かりけん。六波羅に押寄て夜討にせん。其儀ならば、老少二手に分て、老僧共は如意が嶺より搦手に向ふべし。足輕ども四五百人先立て、白川の在家に火を懸け燒上ば、在京人六波羅の武士「あはや事出來たり。」とて、馳向んずらん。其時岩坂、櫻本にひかけ/\、暫支へて戰ん間に、大手は、伊豆守を大將軍にて、惡僧共、六波羅に押寄せ、風上に火かけ一揉もうで攻んに、などか太政入道燒出て討ざるべき。」とぞ僉議しける。

其中に平家の祈しける一如房阿闍梨眞海、弟子同宿數十人引具し、僉議の庭に進出で申けるは、「かう申せば、平家の方人とや思召され候らん。縱さも候へ。いかゞ衆徒の義をやぶり、我寺の名をも惜では候ふべき。昔は源平左右に爭て、朝家の御守たりしかども、近來は源氏の運傾き、平家世を取て二十餘年、天下に靡ぬ草木も候はず。内々の館の有樣も、小勢にてはたやすう攻落しがたし。よく/\外に謀を運して、勢を催し、後日に寄らるべう や候らん。」と、程を延さんが爲に、長々とぞ僉議したる。

爰に乘圓房阿闍梨慶秀と云老僧あり。衣の下に腹卷を著、大なる打刀前垂に差ほらし、かしら包んで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭に進出でて申けるは、「證據を外に引くべからず。我寺の本願天武天皇は未だ春宮の御時、大友王子にはゞからせ給ひて、芳野の奧をいでさせ給ひ、大和國宇多郡を過させ給ひけるには、其勢僅に十七騎、去共伊賀伊勢に打越え、美濃尾張の勢を以て、大友王子を亡して、終に位に即せ給ひき。『窮鳥懷に入る。人倫是を憐む』と云ふ本文有り。自餘は知らず、慶秀が門徒に於ては、今夜六波羅に押寄て、打死せよや。」とぞ僉議しける。圓滿院大輔源覺、進出て申けるは、「僉議ばし多し、夜の更るに、急げや進め。」とぞ申ける。

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大衆揃

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