搦手に向ふ老僧共大將軍には源三位入道頼政、乘圓房阿闍梨慶秀律成房阿闍梨日胤、帥法印禪智、禪智が弟子義寶、禪永を始として、都合其勢一千人、手々に燒松もて、如意が峯へぞ向ひける。大手の大將軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光、大衆には圓滿院大輔源覺、成喜院荒土佐、律成房伊賀公、法輪院鬼佐渡、是等は力の強さ、弓箭打物もては、鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。平等院には、因幡竪者荒大夫、角六郎房、島阿闍梨、筒井法師に、郷阿闍梨、惡少納言、北院には、金光院の 六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後等也。松井肥後、證南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乘圓房阿闍梨慶秀が房人、六十人の内、加賀光乘、刑部春秀、法師原には一來法師に如ざりき。堂衆には、筒井淨妙明秀、小藏尊月、尊永、慈慶、樂住、鐡拳玄永、武士には渡邊省播磨次郎、授薩摩兵衞、長七唱、競瀧口、與右馬允、續源太、清、勸を先として、都合其勢一千五百餘人三井寺をこそ打立けれ。
宮入せ給て後は大關小關堀切て、堀ほり逆茂木引いたりければ、堀に橋渡し、逆茂木ひき除などしける程に、時刻おし移て、關路の鷄啼あへり。伊豆守宣けるは、「爰で鳥鳴ては、六波羅は白晝にこそ寄んずれ、如何せん。」と宣へば、圓滿院大輔源覺、又先の如く進出て僉議しけるは、「昔秦昭王のとき、孟嘗君召禁られたりしに、后の御助に依て、兵三千人を引具して、逃免れけるに、函谷關に至れり。鷄啼ぬ限は、關の戸を開く事なし。孟嘗君が三千の客の中に、てんかつと云ふ兵有り。鷄の啼眞似をありがたくしければ鷄鳴とも云れけり。彼鷄鳴高き所に走上り、鷄の鳴眞似をしたりければ、關路の鷄聞傳て、皆鳴ぬ。其時關守鳥の虚音にばかされて、關の戸開てぞ通しける。是も敵の謀にや鳴すらん、唯寄よ。」とぞ申ける。かゝりし程に、五月の短夜ほの%\とこそ明にけれ。伊豆守宣けるは、「夜討にこそさりともと思つれ共、晝軍には如何にも叶ふまじ。あれ呼返せや。」とて、搦手は如意が嶺よりよび返す。大手は松坂より取て返す。若大衆共、「是は一如房阿闍梨が長僉議にこそ夜は明たれ。押寄せて其坊きれ。」とて、坊を散々にきる。防ぐ處の弟子同宿、數十人討れぬ。一如 房阿闍梨這々六波羅に參て老眼より涙を流いて此由訴申けれ共、六波羅には軍兵數萬騎馳集て騒ぐ事もなかりけり。
同廿三日の曉、宮は此の寺ばかりでは叶ふまじ、山門は心替し、南都は未參らず。後日に成ては惡かりなんとて、三井寺を出させ給ひて、南都へぞ入せ座ます。此宮は蝉折、小枝と聞えし漢竹の笛を二つ持せ給へり。彼蝉折と申は、昔鳥羽院の御時金を千兩、宋朝の御門へ、送らせ給ひたりければ、返報と覺くて、生たる蝉の如くに、節の附たる笛竹を、一節贈らせ給ふ。如何が是程の重寶をば左右なうはゑらすべきとて、三井寺の大進僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して、彫せ給へる御笛也。或時高松中納言實平卿參て、此御笛を吹れけるに、尋常の笛の樣に思忘て、膝より下に置れたりければ、笛や尤けん、其時蝉折にけり。さてこそ蝉折とは付られたれ。笛の御器量たるに依て、此宮御相傳有けり。されども今を限とや思食れけん、金堂の彌勒に參らさせおはします。龍華の曉、値遇の御爲かと覺えて、哀也し事共なり。
老僧共には皆暇賜で、留めさせ坐ます。しかるべき若大衆惡僧共は參りけり。源三位入道の一類引具して、其勢一千人とぞ聞えし。乘圓房阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがりて、宮の御前に參り、老眼より涙をはら/\と流いて申けるは、「何迄も御供仕べう候へ共、齡既に八旬にたけて、行歩叶ひがたう候。弟子で候刑部房俊秀を參らせ候。是は一年平治の合戰の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、六條河原で討死仕り候し相摸國住人山内須藤刑部丞俊通が子で候。 いさゝか縁候間、跡懷でおほしたてて、心の底迄能知て候。何迄も召具せられ候べし。」とて、涙を抑て留りぬ。宮もあはれに思召て、何の好にかうは申らんとて、御涙せきあへさせ給はず。
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橋合戰
宮は宇治と寺との間にて、六度迄御落馬有けり。これは去ぬる夜、御寢の成ざりし故也とて、宇治橋三間引きはづし、平等院に入奉て、暫御休息有けり。六波羅には、「すはや宮こそ南都へ落させ給ふなれ。追懸て討奉れ。」とて、大將軍には左兵衞督知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠教、侍大將には、上總守忠清、其子上總太郎判官忠綱、飛騨守景家、其子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門尉有國、越中次郎兵衞尉盛繼、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、都合其勢二萬八千餘騎、木幡山打越て、宇治橋の詰にぞ押寄たる。敵平等院にと見てんげれば、閧を作る事三箇度、宮の御方にも、同う閧の聲をぞ合せたる。先陣が、「橋を引いたぞ、過すな。」とどよみけれども、後陣に是を聞つけず、我先にと進程に、先陣二百餘騎押落され、水に溺れて流けり。橋の兩方の詰に打立て矢合す。
宮の御方には、大矢俊長、五智院但馬、渡邊省授、續源太が射ける矢ぞ鎧もかけず楯もたまらず通ける。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、品皮威の鎧也。其日を最後とや思はれ けん。態と甲は著給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒絲威の鎧也。弓を強う引んとて是も甲は著ざりけり。爰に五智院但馬、大長刀の鞘を外いて、唯一人橋の上にぞ進んだる。平家の方には是を見て、「あれ射取や者共」とて究竟の弓の上手共が矢先を汰へて差詰引詰散々に射る。但馬少しも噪がず、揚る矢をばつい潜り、下る矢をば跳り越え、向て來をば長刀で切て落す。敵も御方も見物す。其よりしてこそ、矢切の但馬とは云はれけれ。
堂衆の中に、筒井の淨妙明秀は、褐の直垂に、黒革威の鎧著て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取副て、橋の上にぞ進んだる。大音聲を揚て名のりけるは「日來は音にも聞きつらむ、今は目にも見給へ。三井寺には其隱れ無し。堂衆の中に筒井淨妙明秀とて、一人當千の兵ぞや。我と思はむ人々は寄合や、見參せむ。」とて、二十四差たる矢を差詰引詰散々に射る。矢庭に十二人射殺して、十一人手負せたれば、箙に一つぞ殘たる。弓をばからと投捨て、箙も解て捨てけり。つらぬき脱で跣に成り、橋の行桁をさら/\と走渡る。人は恐れて渡らねども、淨妙房が心地には、一條二條の大路とこそ振舞たれ。長刀で向ふ敵五人薙ふせ、六人に當る敵に逢て、長刀中より打折て捨てけり。其後太刀を拔て戰ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、角繩、十文字、蜻蜒返り、水車、八方透さず切たりけり。矢庭に八人切ふせ、九人に當る敵が甲の鉢に、餘に強う打當て、目貫の元よりちやうと折れ、くと拔て、河へざぶと入にけり。憑む所は腰刀、偏へに死なんとぞ狂ける。
爰に乘圓房阿闍梨慶秀が召使ける一來法師と云ふ大力の早態在けり。續て後に戰ふが、行桁は狹し、側通べき樣はなし。淨妙房が甲の手さきに手を置て、「惡う候、淨妙房」とて、肩をつんど跳り越てぞ戰ひける。一來法師打死してんげり。淨妙房は這々歸て、平等院の門の前なる芝の上に物具脱捨て、鎧に立たる矢目を數へたりければ六十三、裏掻く矢五所、され共大事の手ならねば、所々に灸治して、首からげ淨衣著て、弓打切り杖に突き、平あしたはき、阿彌陀佛申て、奈良の方へぞ罷ける。
淨妙房が渡るを手本にして、三井寺の大衆、渡邊黨走續々々、我も/\と行桁をこそ渡けれ。或は分取して歸る者も有り、或は痛手負て、腹掻切り川へ飛入る者もあり、橋の上の戰、火いづる程ぞ戰ひける。是を見て平家の方の侍大將上總守忠清、大將軍の御前に參て、「あれ御覽候へ。橋の上の戰、手痛う候。今は川を渡すべきで候が、折節五月雨の比で、水まさて候。渡さば馬人多く亡候なんず。淀芋洗へや向ひ候べき、河内路へや參り候べき。」と申處に下野國の住人、足利又太郎忠綱、進出て申けるは、「淀芋洗河内路をば、天竺震旦の武士を召て向けられ候はんずるか。其も我らこそ向ひ候はんずれ。目に懸たる敵を討ずして南都へ入參せ候なば、吉野とつ川の勢共馳集て、彌御大事でこそ候はんずらめ。武藏と上野の境に、利根川と申候大河候。秩父、足利、中違て、常は合戰を爲候しに、大手は長井渡、搦手は古我杉渡より寄せ候ひしに、爰に上野國の住人、新田入道、足利に語はれて、杉の渡より寄んとて儲たる舟共を秩父が方より皆破れて、申候しは、「唯今爰を渡さずば、長き弓箭の疵なるべし。 水に溺れて死なば死ね、いざ渡さんとて、馬筏を作て渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習として、敵を目にかけ、川を隔つる軍に、淵瀬嫌ふ樣や有る。此河の深さ、早さ、利根河に幾程の劣り勝りはよもあらじ。續けや殿原。」とて、眞先にこそ打入たれ。續く人共、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫廣綱四郎大夫、小野寺前司太郎、邊屋子四郎、郎等には宇夫方次郎、切生六郎、田中宗太を始として、三百餘騎ぞ續ける。足利大音聲を揚て、「強き馬をば上手に立てゝ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばう程は、手綱をくれて歩せよ。はづまばかい操て泳せよ。下う者をば弓の弭に取附せよ。手を取組み、肩を竝て渡すべし。鞍壺に能く乘定めて、鐙を強う踏め。馬の頭沈まば、引揚よ。痛う引て引被くな。水溜まば、三頭の上に乘懸れ。馬には弱う、水には強う中べし。河中にて弓引な。敵射共相引すな。常に錣を傾よ。痛う傾て天邊射さすな。かねに渡て推落さるな。水にしなうて渡せや渡せ。」と掟て、三百餘騎、一騎も流さず、向の岸へ颯と渡す。
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宮御最後
足利は、朽葉の綾の直垂に、赤革威の鎧著て、高角打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、柏木にみゝづく打たる金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。鐙踏張り立上り、大音聲を揚て、名乘けるは、「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給へ。昔朝敵將門を亡し、勸賞蒙し俵藤太秀里に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎忠 綱、生年十七歳、か樣に無官無位なる者の、宮に向ひ參せて、弓を引き矢を放つ事天の恐少からず候へ共、弓も矢も冥加の程も、平家の御上にこそ候らめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄合や見參せん。」とて平等院の門の内へ責入々々戰けり。
是を見給て、大將軍左兵衞督知盛、「渡せや渡せ。」と下知せられければ、二萬八千餘騎、皆打入て渡しけり。馬や人に塞れて、さばかり早き宇治川の、水は上にぞ湛へたる。自ら外るゝ水には、何も不堪流れけり。雜人共は、馬の下手に取附々々渡りければ、膝より上をば濡さぬ者も多かりけり。如何したりけん伊賀伊勢兩國の官兵、馬筏押破られ水に溺れて六百餘騎ぞ流れける。萠黄、緋威、赤威、色々の鎧の浮ぬ沈ぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、嶺の嵐に誘れて、龍田河の秋の暮、井塞に懸て、流もやらぬに異ならず。其中に緋威の鎧著たる武者が三人、網代に流れ懸て淘けるを、伊豆守見給ひて、
伊勢武者はみなひおどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。
是等は三人ながら伊勢國の住人也。黒田後平四郎、日野十郎、乙部彌七と云ふ者なり。其中に日野十郎は、ふる者にて有ければ、弓の弭を岩の狹間にねぢ立て、掻上り、二人の者どもをも引上て、助たりけるとぞ聞えし。大勢みな渡して、平等院の門の内へ、入替/\戰ひけり。此の紛に、宮をば南都へ先立て參せ、源三位入道の一類、殘て防矢射給ふ。
三位入道七十に餘て軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心靜かに自害せんとて、平等院の門の内へ引退いて、敵おそひかゝりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、 唐綾威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、父を延さんと、返合せ/\防戰ふ。上總太郎判官が射ける矢に兼綱内甲を射させて疼む處に、上總守が童、次郎丸と云ふしたゝか者押竝て引組でどうと落つ。源大夫判官は、内甲も痛手なれども、聞る大力なりければ、童を取て押て頸を掻き、立上らんとする處に、平家の兵共、十四五騎ひし/\と落重て、兼綱を討てけり。伊豆守仲綱も、痛手あまた負ひ平等院の釣殿にて自害す。其頸をば下河邊藤三郎清親取て、大床の下へぞ投入ける。六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光も、散々に戰ひ、分捕餘たして、遂に討死してけり。此仲家と申は、故帶刀先生義方が嫡子也。孤にて有しを、三位入道養子にして、不便にし給しが、日來の契を變ぜず、一所にて死にけるこそ無慚なれ。三位入道は渡邊長七唱を召て、「我頸うて。」と宣へば、主の生頸討ん事の悲しさに、涙をはらはらと流いて、「仕るとも覺え候はず。御自害候て、其後こそ給り候はめ。」と申ければ、「誠にも。」とて西に向ひ、高聲に十念唱へ最後の詞ぞあはれなる。
埋木の花さく事もなかりしに、みのなる果ぞかなしかりける。
是を最後の詞にて、太刀のさきを腹に突立て、俯樣に貫てぞ失られける。其時に歌讀べうは無りしか共、若より強に好たる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其頸をば唱取て泣々石に括合せ敵の中を紛れ出て、宇治川の深き所に沈てけり。
競瀧口をば平家の侍共、如何にもして、生捕にせんとうかゞひけれ共、競も先に心えて、散散に戰ひ、大事の手負ひ、腹掻切てぞ死にける。圓滿院大輔源覺、今は宮も遙に延させ給ひ ぬらんとや思ひけん。大太刀大長刀左右に持て、敵の中をうち破り、宇治川へ飛で入り、物具一つも捨ず、水の底を潜て、向の岸に渡り著き、高き所に登り、大音聲を揚て、「如何に平家の君達、是までは御大事かよう。」とて、三井寺へこそ歸けれ。
飛騨守景家は、古兵にて有ければ、此紛に、宮は南都へやさきたゝせ給ふらんとて軍をばせず、其勢五百餘騎、鞭鐙を合せて追懸奉る。案の如く、宮は三十騎許で落させ給けるを、光明山の鳥居の前にて、追附奉り、雨の降る樣に射參せければ、何が矢とは覺ねども、宮の左の御側腹に矢一筋立ければ、御馬より落させ給て、御頸取れさせ給ひけり。是を見て御伴に候ける鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀、金光院の六天狗、何の爲に命をば惜むべきとて、をめき叫んで討死す。
其中に宮の御乳母子、六條助大夫宗信敵は續く、馬は弱し、にゐ野の池へ飛でいり、浮草顏に取掩ひ、慄居たれば、敵は前を打過ぬ。暫し有て兵者共の四五百騎、さゞめいて打ち歸ける中に、淨衣著たる死人の、頸も無いを、蔀の下にかいていできたりけるを誰やらんとみ奉れば、宮にてぞましましける。我死ば此笛をば御棺に入よと仰ける小枝と聞えし御笛も、未御腰に差れたり。走出て取も附まゐらせばやと思へども、怖しければ其も叶はず。かたき皆歸て後、池より上り、ぬれたる物共絞著て、泣々京へ上たれば、憎まぬ者こそ無りけれ。
去程に南都の大衆ひた甲七千餘人、宮の御迎に參る。先陣は粉津に進み、後陣は未興福寺の南大門にゆらへたり。宮は早光明山の鳥居の前にて討れさせ給ぬと聞えしかば、大衆みな 力及ばず涙を押へて留りぬ。今五十町許待附させ給はで、討れさせ給けん宮の御運の程こそうたてけれ。
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若宮出家
平家の人々は宮竝びに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百餘人が頸、太刀長刀のさきに貫き、高く指上げ、夕に及で六波羅へ歸入る。兵共勇 のゝしる事夥し。怖しなども愚也。其中に源三位入道の頸は、長七唱が取て宇治川の深き所に沈てければ、それは見ざりけり。子供の頸はあそこ爰より皆尋出されたり。中に宮の御頸は、年來參り寄る人も無れば、見知り參せたる人もなし。先年典藥頭定成こそ、御療治の爲に召たりしかば、其ぞ見知り參せたるらんとて召れけれども、現所勞とて參らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ね出されたり。さしも淺からず、思食されて、御子を産參せ最愛ありしかば、爭か見損じ奉るべき。只一目見參せて、袖を顏に推當て、涙を流されけるにこそ、宮の御頸とも知てけれ。
この宮は、腹々に御子の宮達あまた渡らせ給ひけり。八條女院に伊豫守盛教が娘、三位局とて候はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮御座けり。入道相國、弟池中納言頼盛卿を以て、八條女院へ申されけるは、「高倉宮の御子の宮達のあまた渡らせ給候なる。姫宮の御事は申に及ばず、若宮をば、疾う/\出し參させ給へ。」と申されたりければ、女院御返事に、「かゝる聞えの有し曉、御乳人などが、心少う具し奉て失にけるにや、全く此御所に渡せ給は ず。」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此由を入道相國に申されけり。「何條其御所ならでは、何くへか渡せ給ふべかんなる。其儀ならば、武士共參て、搜奉れ。」とぞ宣ける。此中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房に相具して、常は參り通れければ、日來は懷うこそ思召つるに、此宮の御事申しに參られたれば、今はあらぬ人の樣に疎しうぞ思召されける。若宮、女院に申させ給けるは、「是程の御大事に及び候上は終には遁れ候まじ。とう/\出させ御座ませ。」と申させ給ければ、女院御涙をはら/\と流させ給ひて、「人の七つ八つは、何事をも聞分ぬ程ぞかし。其に我故、大事の出來たる事を、片腹痛く思て、か樣に宣ふいとほしさよ。由無かりける人を、此六七年手馴して、かかる憂目を見よ。」とて、御涙せきあへさせ給はず。頼盛卿、宮出し參らさせ給ふべき由重ねて申されければ、女院力及ばせ給はで、終に宮を出しまゐらさせ給ふ。御母三位局、今を限の別なれば、さこそは御名殘惜うも思はれけめ。泣泣御衣著奉り、御髮掻撫で、出し參せ給ふも、唯夢とのみぞ思はれける。女院を始參せて、局の女房、女童に至るまで、涙を流し袖を絞らぬは無りけり。
頼盛卿、宮請取參せ、御車に乘奉て、六波羅へ渡し奉る。前右大將宗盛卿此宮を見參せて、父の相國禪門の御前に坐て、「何と候やらん、此宮を見奉るが、餘に痛う思ひ參せ候。理を枉て此宮の御命をば、宗盛に賜候へ。」と申されければ、入道「さらばとう/\出家をせさせ奉れ。」とぞ宣ける。宗盛卿、此由を八條女院に申されければ、女院「何の樣もあるべからず、唯疾々。」とて法師になし奉り、釋氏に定らせ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になし參させ給 ひけり。後には東寺の一の長者、安井宮僧正道尊と申しは、此宮の御事なり。
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通乘沙汰
又奈良にも一所座しけり。御乳母讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し參らせて、北國へ落下りたりしを、木曽義仲上洛の時主にし進せんとて、具し奉て都へ上り、御元服せさせ參らせたりしかば、木曽が宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。後には嵯峨の邊、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申けり。
昔通乘といふ相人有り。宇治殿二條殿をば、君三代の關白、共に御年八十と申たりしも違はず。帥内大臣をば、流罪の相在すと申たりしも違はず。聖徳太子の、崇峻天皇を横死の相在ますと申させ給ひたりしが、馬子大臣に殺され給ひにき。さも然るべき人々は、必ず相人としもあらねども、かくこそ目出たかりしか。是は相少納言が不覺にはあらずや。中比兼明親王、具平親王と申しは、前中書王、後中書王とて、共に賢王聖主の王子にて渡せ給ひしかども、位にも即せ給はず。され共何かは謀反を起させ給ひし。又後三條院第三の皇子、資仁親王も御才學勝て御座ければ、白河院未東宮にておはしまいし時「御位の後は、此宮を位には即參らさせ給へ。」と、後三條院、御遺詔有しかども、白河院如何思召されけん、終に位にも即け參らさせ給はず、責ての御事には、資仁親王の御子に、源氏の姓を授け參らさせ給て、無位より一度に三位に叙して、軈て中將に成參らさせ給ひけり。一世の源氏、無位より三位 する事嵯峨皇帝の御子、陽院の大納言定卿の外は是始とぞ承る。花園左大臣有仁公の御事なり。
高倉宮の御謀反の間、調伏の法承はて修せられける高僧達に勸賞行はる。前右大將宗盛卿の子息侍從清宗三位して、三位侍從とぞ申ける。今年纔に十二歳。父の卿も、此齡では兵衞佐でこそおはせしか。忽に上達部に上り給ふ事、一の人の公達の外は、いまだ承り及ばず。源茂仁、頼政法師父子追討の賞とぞ除書には有ける。源茂仁とは、高倉宮を申けり。正い太上法皇の王子をうち奉るだに有に、凡人にさへなし奉るぞ淺ましき。
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[1] ぬえ
抑源三位入道頼政と申は、攝津守頼光に五代、參河守頼綱が孫、兵庫頭仲正が子也。保元の合戰の時、御方にて先をかけたりしか共、させる賞にも預らず、又平治の逆亂にも、親類を捨て參じたりしか共、恩賞是疎なりき。大内守護にて年久う有しかども、昇殿をば許されず。年たけ齡傾いて後、述懷の和歌一首詠んでこそ昇殿をば許されけれ。
人しれず大内山の山守は、木隱てのみ月を見るかな。
此歌に依て昇殿許され、正下四位にて暫有しが、三位を心にかけつゝ、
のぼるべき便無き身は木の下に、しゐをひろひて世をわたるかな。
さてこそ三位はしたりけれ。軈て出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞ成れける。 此人一期の高名と覺し事は、近衞院御在位の時、仁平の頃ほひ、主上夜々おびえたまぎらせ給ふ事有けり。有驗の高僧貴僧に仰て、大法秘法を修せられけれども、其驗なし。御惱は丑刻許で在けるに、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上に掩へば、必ずおびえさせ給ひけり。是に依て公卿僉議有り。去る寛治の比ほひ、堀河天皇御在位の時、しかの如く、主上夜な/\おびえさせ給ふ事在けり。其時の將軍義家朝臣、南殿の大床に候はれけるが、御惱の刻限に及で、鳴絃する事三度の後、高聲に「前陸奧守、源義家」と名乘たりければ、人人皆身の毛堅て、御惱怠せ給ひけり。然れば即先例に任て、武士に仰て警固有べしとて、源平兩家の兵の中を選せられけるに、此頼政を選出れたりけるとぞ聞えし。此時は未兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔より朝家に武士を置るゝ事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡さんが爲なり。目にも見えぬ變化の物仕れと仰せ下さるゝ事、未承り及ばず。」と申ながら、勅定なれば召に應じて參内す。頼政は憑切たる郎等、遠江國の住人、井早太に、ほろのかざきりはいだる矢負せて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作だる鋒矢二筋、滋籐の弓に取添て、南殿の大床に伺候す。頼政矢を二つ手挾ける事は、雅頼卿其時は未左少辨にて坐けるが、變化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候と選び申されたる間、一の矢に變化の物を射損ずる者ならば、二の矢には、雅頼の辨の、しや頸の骨を射んとなり。日來人の申に違はず、御惱の刻限に及で、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上にたなびいたり。頼政吃と見上たれば、雲の中に恠き物の姿あり。是を射損 ずる者ならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながらも矢取て番ひ、南無八幡大菩薩と、心の中に祈念し、能引て、ひやうと射る。手答して、はたと中る。「得たりやをう」と、矢叫をこそしたりけれ。井早太つと寄り、落る處をとて押へて、續樣に九刀ぞ刺たりける。其時上下手々に火を燃いて、是を御覽じ見給ふに、頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く聲 ぬえにぞ似たりける。怖しなども愚なり。主上御感の餘に、獅子王といふ御劔を下されけり。宇治左大臣殿是を賜り次で、頼政に賜んとて、御前のきざはしを半許下させ給へる處に、比は卯月十日餘の事なれば、雲井に郭公、二聲三聲音信てぞ通りける。其時左大臣殿
時鳥名をも雲井にあぐるかな。
と仰せられたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖を廣げ、月を少し傍目にかけつゝ、
弓はり月のいるにまかせて。
と仕り、御劔を賜て罷出づ。「弓矢を取てならびなきのみならず、歌道も勝たりけり。」とて君も臣も御感在ける。さて彼變化の物をば、空船に入て流されけるとぞ聞えし。
去る應保の比ほひ、二條院御在位の御時、 ぬえと云ふ化鳥、禁中に鳴て、屡宸襟を惱す事有き。先例を以て、頼政を召されけり。比は五月二十日餘のまだ宵の事なるに、 ぬえ唯一聲音信て、二聲とも鳴ざりけり。目指とも知ぬ闇では有り、姿形も見えざれば、矢つぼを何とも定めがたし。頼政策に先大鏑を取て番ひ、 ぬえの聲しつる内裏の上へぞ射上たる。 ぬえ鏑の音に驚 て虚空に暫ひゝめいたり。二の矢に小鏑取て番ひ、ひいふつと射切て、 ぬえと鏑と竝べて前にぞ落したる。禁中さざめきあひ、御感斜ならず、御衣を被させ給けるに、其時は、大炊御門右大臣公能公是を賜りついで、頼政にかづけさせ給ふとて、「昔の養由は、雲の外の鴈を射き、今の頼政は、雨の中の ぬえを射たり。」とぞ感ぜられける。
五月闇名をあらはせる今宵哉。
と仰せられかけたりければ、頼政、
たそがれ時もすぎぬとおもふに。
と仕り、御衣を肩に懸て退出す。其後伊豆國賜はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、丹波の五箇庄、若狹のとう宮河を知行して、さて坐べかりし人の、由なき謀反起て、宮をも失參せ我身も子孫も亡ぬるこそうたてけれ。
[1] The kanji in our copy-text is New Nelson 6976 or Nelson 5357.
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三井寺炎上
日ごろは山門の大衆こそ、亂りがはしき訴仕るに、今度は穩便を存じて音もせず。南都三井寺或は宮請取奉り、或は宮の御迎に參る。是以て朝敵也。されば三井寺をも南都をも攻らるべしとて、同五月二十七日、大將軍には入道の四男頭中將重衡、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢一萬餘騎で園城寺へ發向す。寺にも堀ほり、かい楯掻き、逆茂木引て待かけたり。卯刻に矢合して、一日戰ひ暮す。防ぐ所の大衆以下法師原三百餘人まで討れにけり。夜軍に 成て、暗さはくらし、官軍寺中に攻入て、火を放つ。燒る所、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、普賢堂、大寶院、清瀧院、教待和尚本坊、竝に本尊等、八間四面の大講堂、鐘樓、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御寶殿、惣じて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、智證の渡し給へる一切經七千餘卷、佛像二千餘體、忽に煙と成こそ悲しけれ。諸天五妙の樂も、此時長く盡き、龍神三熱の苦も彌盛なるらんとぞ見えし。
夫三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄奉て、御願となす。本佛も彼御門の御本尊、然るを生身の彌勒と聞え給し教待和尚百六十年行て、大師に附囑し給へり。都史多天上摩尼寶殿より天降り、遙に龍華下生の曉を待せ給ふとこそ聞つるに、こは如何にしつる事共ぞや。大師此所を傳法灌頂の靈跡として、井花水のみづをむすび給し故にこそ、三井寺とは名附たれ。かゝる目出たき聖跡なれども、今は何ならず。顯密須臾に亡て、伽藍更に跡もなし。三密道場もなければ、鈴の聲も聞えず。一夏の花も無れば、閼伽の音もせざりけり。宿老碩徳の名師は、行學に怠り、受法相承の弟子は、又經教に別んたり。寺の長吏圓慶法親王は、天王寺の別當をとゞめらる。其外僧綱十三人、闕官せられて、皆けん非違使に預らる。惡僧は筒井淨妙明秀に至るまで、三十餘人流されけり。かゝる天下の亂、國土の騒、徒事とも覺えず、平家の世末になりぬる先表やらんとぞ人申ける。
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平家物語巻第五
都遷
治承四年六月三日、福原へ行幸在べしとて京中ひしめきあへり。此日來都遷り有るべしと聞えしかども、忽に今明の程とは思はざりつるに、こは如何にとて上下騒合へり。剩へ三日と定められたりしが、今一日引上て、二日になりにけり。二日の卯刻に、既に行幸の御輿を寄たりければ、主上は今年三歳、未幼なう坐ましければ、何心もなう召されけり。主上少なう渡せ給ふ時の御同輿には、母后こそ參せ給ふに、是は其儀なし。御乳母平大納言時忠卿の北の方帥のすけ殿ぞ、一つ御輿に參られける。中宮、一院、上皇、御幸なる。攝政殿を始め奉て太政大臣已下の公卿殿上人、我も/\と供奉せらる。三日福原へ入せ給ふ。池中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日頼盛家の賞とて、正二位し給ふ。九條殿の御子、右大將良通卿、越られ給ひけり。攝ろくの臣の御子息、凡人の次男に、加階越えられ給ふ事、是れ始とぞ聞えし。
さる程に法皇を入道相國やう/\思直て、鳥羽殿を出し奉り、都へ入れ參らせたりしが、高倉宮御謀反に依て又大に憤り、福原へ御幸なし奉り、四面に端板して、口一つ開たる内に 三間の板屋を作て、押籠參らせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。輙う人の參通ふべき事も無れば、童部は、籠の御所とぞ申ける。聞も忌々しう怖しかりし事共也。法皇今は世の政しろしめさばやとは、露も思召しよらず、唯山々寺々修行して、御心の儘に慰ばやとぞ仰せける。凡平家の惡行に於ては悉く極りぬ。去ぬる安元より以降、多くの卿相、雲客、或は流し、或は失ひ、關白流し奉り、我聟を關白になし、法皇を城南の離宮に遷し奉り、第二の皇子、高倉宮を討ち奉り、今殘る所の都遷なれば、か樣にしたまふにやとぞ人申ける。
都遷は先蹤なきに非ず。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武うが草葺不合尊の第四の王子、御母は玉依姫、海人の娘也。神の代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖也。辛酉の歳、日向國宮崎郡にして、皇王の寶祚を繼ぎ、五十九年と云し己未歳十月に東征して、豐葦原中津國に留り、此比大和國と名づけたる畝傍の山を點じて、帝都をたて橿原の地を切掃て、宮室を作り給へり。是を橿原の宮と名づけたり。其より以降、代々の帝王、都を他國他所へ遷さるゝ事三十度に餘り、四十度に及べり。神武天皇より、景行天皇まで十二代には、大和國郡々に都を立て、他國へは終に移れず。然るを成務天皇元年に近江國に移て、志賀郡に都を立つ。仲哀天皇二年に、長門國に移て、豐浦郡に都を立つ。其國の彼都にて、御門隱れさせ給しかば、后神功皇后御世を請取らせ給ひ、女體として、鬼界、高麗、契丹まで、責從へさせ給ひけり。異國の軍を靖めさせ給ひて、歸朝の後筑前國三笠郡にして、皇子御誕 生、其所をば宇美宮とぞ申たる。かけまくも忝なく、八幡の御事是なり。位に即せ給ひては、應神天皇とぞ申ける。其後神功皇后は、大和國に移て、磐余稚櫻宮に御座す。應神天皇は同國輕島明宮に住せ給ふ。仁徳天皇元年に、津國難波に移て、高津宮に御座す。履仲天皇二年に、大和國に移て、十市郡に都を立つ。反正天皇元年に、河内國に移て、柴垣宮に住せ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和國に移て、飛鳥のあすかの宮におはします。雄略天皇二十一年に、同國泊瀬朝倉に宮居し給ふ。繼體天皇五年に、山城國綴喜に移て、十二年、其後乙訓に宮居し給ふ。宣化天皇元年に、又大和國に歸て、檜隈入野宮におはします。孝徳天皇大化元年に、攝津國長柄に移て、豐崎宮に住せ給ふ、齊明天皇二年、又大和國に歸て、岡本宮におはします。天智天皇六年に、近江國に移て、大津宮に住せ給ふ、天武天皇元年に、猶大和國に歸て、岡本の南の宮に住せ給ふ。是を清見原の御門と申き。持統、文武二代の聖朝は、同國藤原宮におはします。元明天皇より、光仁天皇迄七代は、奈良の都に住せ給ふ。然を桓武天皇、延暦三年十月二日、奈良の京春日の里より、山城國長岡にうつて、十年と云し正月に、大納言藤原小黒丸、參議左大辨紀古佐美、大僧都玄慶等を遣して、當國葛野郡宇多村を見せらるゝに、兩人共に奏して云、此地の體を見るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應の地なり。尤帝都を定むるに足れりと申す。仍て愛宕郡に御座す賀茂大明神に、告申させ給ひて、延暦十三年十一月廿一日、長岡の京より此京へ移されて後、帝王三十二代、星霜は三百八十餘歳の春秋を送り迎ふ。昔より代々の帝王、國々所々に、多の都を立てら れしかども、かくの如くの勝地は無しとて、桓武天皇殊に執し思食し、大臣公卿諸道の才人等に仰せ合せ、長久なるべき樣とて、土にて八尺の人形を作り、鐡の鎧甲をきせ、同う鐡の弓矢を持せて、東山の嶺に、西向に立てゝ埋まれけり。末代に此都を他國へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事出來んとては、此塚必鳴動す。將軍が塚とて今に在り。桓武天皇と申は平家の曩祖にて御座す。中にも此京をば平安城と名付けて平かに安き都と書り。尤平家の崇べき都也。先祖の御門の、さしも執し思食されたる都を、させる故なく、他國他所へ遷さるゝこそ淺ましけれ。嵯峨皇帝の御時平城の先帝尚侍の勸に依て世を亂り給ひし時、既に此京を他國へ移さんとせさせ給ひしを大臣公卿諸國の人民背き申しかば、移されずして止にき。一天の君萬乘の主だにも移し得給はぬ都を、入道相國、人臣の身として、移されけるぞ怖しき。
舊都はあはれ目出たかりつる都ぞかし。王城守護の鎭守は、四方に光を和げ、靈驗殊勝の寺寺は上下に甍を竝給ひ、百姓萬民煩なく、五畿七道も便あり。されども今は辻々をみな掘切て、車などの輙う行かよふ事もなし。邂逅に行く人も、小車に乘り、道を歴てこそ通けれ。軒を爭し人のすまひ、日を歴つゝ荒行く。家々は賀茂河桂河に壞入れ、筏に組浮べ、資材雜具舟に積み、福原へと運下す。たゞなりに、花の都、田舎になるこそ哀しけれ。何者の爲態にや有けん。舊き都の内裏の柱に二首の歌をぞ書いたりける。
百年を四かへり迄に過來にし、愛宕の里のあれやはてなん。
さきいづる花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき。
同き六月九日、新都の事始め有るべしとて、上卿には徳大寺左大將實定卿、土御門宰相中將通親卿、奉行の辨には、藏人左少辨行隆、官人共召具して、和田の松原の西の野を點じて、九條の地を割れけるに、一條より下五條までは其所あて、五條より下は無りけり。行事官歸り參て、此の由を奏聞す。さらば播磨の印南野か、猶攝津國の兒屋野かなどいふ公卿僉議有しかども、事行べしとも見えざりけり。
舊都をば既にうかれぬ、新都は未事行かず、有とし有る人は、身を浮雲の思をなす。本此所に栖む者は地を失て愁へ、今移る人々は、土木の煩を歎きあへり。惣て只夢の樣なりし事共也。土御門宰相中將通親卿の申されけるは、異國には三條の廣路を開いて、十二の通門を立と見えたり。況や五條迄有ん都に、などか内裏を立ざるべき。且々里内裏造るべき由、議定有て、五條大納言國綱卿、臨時に周防國を賜て、造進せらるべき由、入道相國計ひ申されけり。此國綱卿は大福長者にておはすれば、造出れん事、左右に及ばねども、如何が國の費え民の煩ひ無るべき。指當る大事、大嘗會などの行はるべきを差置いて、かゝる世の亂に遷都造内裏、少も相應せず。古の賢き御代には、即内裏に茨を葺き、軒をだにも調へず、煙の乏きを見給ふ時は、限有る御貢物をも許れき。是即民を惠み、國を扶け給ふに依て也。楚、章華臺を立て黎民をあらけ、秦、阿房殿を起して、天下亂ると云へり。茅茨剪ず、采椽けづらず、舟車飾ず、衣服文無ける世も有けん物を。されば唐の太宗は、驪山宮を造て、民の費 えをや憚せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松生ひ、墻に蔦茂て止にけるには、相違かなとぞ人申ける。
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月見
六月九日、新都の事始、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。舊き都は荒行ば、今の都は繁昌す。淺ましかりける夏も過ぎ、秋にも既に成にけり。やう/\秋も半に成行ば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大將の昔の迹を忍つゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路のせとを押渡り、繪島が磯の月を見る。或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、詠て歸る人も有り。舊都に殘る人々は、伏見廣澤の月を見る。