饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15545 字 更新时间:2026-6-19 10:59

其中にも徳大寺左大將實定卿は、舊き都の月を戀て、八月十日餘に、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆變り果て、稀に殘る家は、門前草深して、庭上露滋し。蓬が杣淺茅が原、鳥のふしどと荒果て、蟲の聲々恨つゝ、黄菊紫蘭の野邊とぞ成にける。故郷の名殘とては、近衞河原の大宮ばかりぞまし/\ける。大將其御所に參て、先隨身に、惣門を叩せらるるに、内より女の聲して、「誰そや蓬生の露打拂ふ人もなき處に。」と咎れば、「福原より大將殿の御參り候。」と申す。「惣門は鎖のさゝれて候ぞ。東面の小門より入せ給へ。」と申ければ、大將「さらば」とて、東の門より參られけり。大宮は御つれ%\に、昔をや思召出でさせ給ひけん、南面の 御格子開させて御琵琶遊されける處に、大將參られたりければ、「如何に夢かや現か、是へ是へ。」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘、秋の名殘を惜み、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄し給しに、有明の月の出けるを、堪ずや思ほしけん、揆にて招き給ひけんも、今こそ思ひ知られけれ。

待宵の小侍從といふ女房も、此御所にてぞ候ける。此女房を、待宵と申ける事は、或時御所にて、「待宵、歸る朝、何れかあはれは勝る。」と御尋ありければ、

待宵のふけゆく鐘の聲聞けば、歸るあしたの鳥はものかは。

と讀たりけるに依てこそ、待宵とは召されけれ。大將彼女房呼出し、昔今の物語して、小夜もやう/\更行けば、ふるき都のあれゆくを今樣にこそうたはれけれ。

舊き都を來て見れば淺茅が原とぞ荒にける、月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ。

と三反歌ひすまされければ、大宮を始め參せて、御所中の女房達、皆袖をぞ濕されける。

去程に夜も明ければ、大將暇申て、福原へこそ歸られけれ。御伴に候藏人を召て、「侍從が餘に名殘惜げに思ひたるに、汝歸て何とも云てこそ。」と仰せければ、藏人走り歸て、「『畏申せ』と候。」とて

物かはと君が云けん鳥の音の、今朝しもなどか悲かるらん。

女房涙を押へて、

またばこそ深行く鐘も物ならめ、あかぬわかれの鳥の音ぞうき。

藏人歸り參て、此由を申たりければ、「さればこそ汝をば遣つれ。」とて、大將大に感ぜられけり。其よりしてこそ物かはの藏人とはいはれけれ。

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物怪之沙汰

福原へ都を移されて後、平家の人々夢見も惡う、常は心噪ぎのみして、變化の者共多かりけり。或夜入道の臥給へる所に、一間にはゞかる程の物の面出來て、覗奉る。入道相國ちとも噪がず、ちやうとにらまへておはしければ、只消に消失ぬ。岡の御所と申は、新しう造られたれば、然べき大木もなかりけるに、或夜大木の倒るゝ音して、人ならば二三十人が聲して、どと笑ふ事ありけり。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、蟇目の當番と名附て、夜百人晝五十人番衆をそろへて蟇目を射させらるるに、天狗の在る方へ向いて射たる時は、音もせず、又無い方へ向いて射たるとおぼしき時は、はと笑などしけり。

又或朝入道相國帳臺より出で、妻戸をおしひらいて、坪の内を見給へば、死人の髑髏共が幾らと云ふ數も知らず、庭にみち/\て、上に成り、下に成り、轉合轉退き、端なるは中へ轉び入り、中なるは端へ出づ。おびたゞしうからめき合ければ、入道相國、「人や有る/\。」と召されけれども折節人も參らず。かくして多くの髑髏どもが一つに固まりあひ、坪の内にはゞかる程に成て、高さ十四五丈も有らんと覺ゆる山の如くに成にけり。彼一つの大頭に生 たる人の眼の樣に大の眼共が千萬出きて、入道相國をちやうとにらまへて、またゝきもせず。入道少も噪がず。ちやうとにらまへて立たれたり。彼大頭餘りに強く睨まれ奉り、霜露などの日に當て消る樣に、跡かたもなく成にけり。其外に一の御厩に立てて、舎人數多付けられ、朝夕隙なく撫飼れける馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を生だりける。是唯事にあらずとて陰陽師に占はせられければ重き御愼とぞ申ける。此御馬は、相摸國の住人大庭三郎景親が、東八箇國一の馬とて、入道相國に參らせたり。黒き馬の額白かりけり。名をば望月とぞ付られたる。陰陽頭安倍泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、寮の御馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を産だりけるには、異國の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本紀には見えたる。

又源中納言雅頼卿の許に候ける青侍が見たりける夢も、怖しかりけり。譬へば大内の神祇官とおぼしき所に、束帶正しき上臈達數多おはして、議定の樣なる事の有しに、末座なる人の、平家の方人すると覺しきを、其中より追立らるゝ。彼の青侍夢の心に「あれは如何なる上臈にてましますやらん。」と或老翁に問ひ奉れば「嚴島の大明神」と答へ給ふ。其後座上に氣高げなる宿老のましましけるが、「此日來平家の預りたる節刀をば今は伊豆國の流人、頼朝に賜ばうずるなり。」と仰せられければ、其御傍に猶宿老のまし/\けるが、「其後は我孫にも給候へ。」と仰せらるゝといふ夢を見て是を次第に問ひたてまつる。「節刀を頼朝に給うと仰られつるは、八幡大菩薩、其後には我孫にも給び候へと仰られつるは、春日大明神、かう申す老翁 は、武内の大明神。」と仰らるゝと云ふ夢を見て、是を人に語る程に入道相國洩聞いて、源大夫判官季貞を以て雅頼卿のもとへ、「夢見の青侍急ぎ是へ給べ。」と宣ひ遣されたりければ、彼夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿、急ぎ入道相國の許に行向て、「全くさる事候はず。」と、陳じ申されければ、其後沙汰も無りけり。それにふしぎなりし事には清盛公いまだ安藝守たりし時神拜のついでに靈夢をかうぶて嚴島の大明神よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日比は朝家の御固にて、天下を守護せしかども、今は勅命に背けば、節刀をも召返さるゝにや、心細うぞ聞えし。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞て、「すは平家の代は、やう/\末に成ぬるは、嚴島大明神の、平家の方人し給ひけると云ふは其謂れ有り。但し其れは沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の節刀を頼朝に給うと仰せられけるは理なり。春日大明神の其後は我孫にも給び候へと被仰けるこそ心得ね。其も平家亡び、源氏の世盡なん後、大織冠の御末、執柄家の君達の、天下の將軍に成給べきか。」などぞ宣ける。又或僧の折節來たりけるが申けるは、「夫神明は和光垂跡の方便區々にましませば、或時は俗體とも現じ、或時は女神とも成り給ふ。誠に嚴島の大明神は女神とは申しながら、三明六通の靈神にてましませば俗體に現じ給はんも、難かるべきにあらず。」とぞ申ける。うき世を厭ひ眞の道に入ぬれば、偏に後世菩提の外の世の營み有まじき事なれども、善政を聞ては感じ、愁を聞ては歎く、是皆人間の習也。

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早馬

同九月二日、相摸國の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬を以て申けるは、「去ぬる八月十七日、伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝、舅北條四郎時政を遣して、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきの館にて夜討に討候ぬ。其後土肥、土屋、岡崎を始として三百餘騎、石橋山に楯籠りて候處に、景親、御方に志を存ずる者共一千餘騎を引率して、押寄せ責候程に、兵衞佐七八騎に打成れ、大童に戰ひなて、土肥の杉山へ逃籠候ぬ。其後畠山五百餘騎で、御方を仕る。三浦大介義明が子共、三百餘騎で源氏方をして、湯井小坪の浦で戰ふに、畠山軍にまけて、武藏國へ引退く。其後畠山が一族、河越、稻毛、小山田、江戸、葛西惣じて其外七黨の兵共、三千餘騎を相具して、三浦衣笠の城に押寄て攻め戰ふ。大介義明討たれ候ぬ。子どもは皆栗濱の浦より舟に乘り、安房、上總へ渡り候ぬ。」とこそ申たれ。

平家の人々、都移も早興醒ぬ。若き公卿殿上人は、「哀疾、事の出來よかし、討手に向はう。」など云ぞはかなき。畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門朝綱、大番役にて、折節在京したりけり。畠山申けるは、「僻事にてぞ候らん。親う成て候なれば、北條は知り候はず。自餘の輩は、よも朝敵が方人をば仕候はじ。今聞召直んずるものを。」と申ければ、「實にも」と云人も有り、「いや/\只今天下の大事に及びなんず。」とささやく者も多かりけり。入道相國怒られける樣斜ならず。「頼朝をば既に死罪に行はるべかりしを、故池殿の強に歎き宣ひ し間、流罪に由宥めたり。然るに其恩忘て、當家に向て弓を引くにこそあんなれ。神明三寶も、爭か赦させ給ふべき。只今天の責め蒙らんずる頼朝也。」とぞ宣ける。

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朝敵揃

夫れ我朝に朝敵の始めを尋ぬれば日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍發向して、宣旨を讀かけ、葛の網を結で、終に是を掩ひ殺す。其より以降野心を狹んで、朝威を滅んとする輩、大石の山丸、大山王子、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、大友の眞鳥、文屋の宮田、橘の逸勢、氷上の川繼、伊豫の親王、太宰少貳藤原の廣嗣、惠美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原仲成、平將門、藤原純友、安倍貞任、對馬守源義親、惡佐府、惡衞門督に至る迄、すべて廿餘人。され共一人として、素懷を遂ぐる者なし。尸を山野に曝し、頭を獄門に懸らる。

此世にこそ王位も無下に輕けれ。昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實なり、飛鳥も隨ひけり。中頃の事ぞかし、延喜御門神泉苑に行幸在て、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召て、「あの鷺取て參らせよ。」と仰ければ、爭か取らんと思けれ共、綸言なれば歩み向ふ。鷺も羽つくろひして立んとす。「宣旨ぞ。」と仰すれば、ひらんで飛去らず。是を取て參りたり。「汝が宣旨に隨て、參りたるこそ神妙なれ。やがて五位に成せ。」とて、鷺を五位にぞ成されける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし。」と云ふ札を遊し、頸にかけて放たせ給ふ。全 く鷺の御料には非ず、唯王威の程を知召んが爲也。

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咸陽宮

又先蹤を異國に尋るに、燕の太子丹と云者、秦の始皇帝に囚はれて、戒を蒙る事十二年、太子丹涙を流いて申けるは、「我本國に老母有り、暇を給はて彼を見ん。」と申せば、始皇帝あざ笑て、「汝に暇を給ん事は馬に角生ひ、烏の頭の白く成んを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白く成ぬを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白くなしたべ。故郷に歸て、今一度母を見ん。」とぞ祈ける。彼妙音菩薩は、靈山淨土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顏囘は、支那震旦に出て、忠孝の道を始め給ふ。冥顯の三寶、孝行の志を憐み給ふ事なれば、馬に角生て宮中に來り、烏の頭白く成て庭前の木に栖りけり。始皇帝、烏頭馬角の變に驚き、綸言返らざる事を信じて、太子丹を宥つゝ、本國にこそ歸されけれ。始皇猶悔みて、秦の國と燕の國の境に、楚國と云ふ國有り。大なる河流れたり。彼の河に渡せる橋をば楚國の橋と云へり。始皇官軍を遣て、燕丹が渡らん時、河中の橋を蹈まば落る樣に認めて、燕丹を渡らせけるに、何かは落入らざるべき。河中へ落入ぬ。されども、ちとも水にも溺れず、平地を行如して、向の岸へ著にけり。こは如何にと思ひて、後を顧ければ、龜共が幾らと云ふ數も知らず、水の上に浮れ來て、甲を竝てぞ歩ませたりける。是も孝行の志を冥顯憐給ふに依て也。

太子丹恨を含んで、又始皇帝に隨はず。始皇官軍を遣して、燕丹をうたんとし給ふに、燕丹 怖れ慄き、荊軻と云ふ兵を語らうて、大臣になす。荊軻又田光先生と云ふ兵を語らふ。かの先生申けるは、「君は此身が若う盛なし事を知召されて憑仰らるゝか。麒麟は千里を飛べども、老ぬれば駑馬にも劣れり。今は如何にも叶ひ候まじ。兵をこそ語らうて參せめ。」とて歸らんとする處に、荊軻、「此事穴賢、人に披露すな。」と言ふ。先生申けるは、「人に疑はれぬるに過たる恥こそ無けれ。此事漏ぬる物ならば、我疑がはれなんず。」とて、門前なる李の樹に首を突當て、打碎いてぞ死にける。又樊於期と云ふ兵有り。是は秦國の者なり。始皇の爲に、父伯叔兄弟を滅されて、燕の國に迯籠れり。秦皇四海に宣旨を下いて、「樊於期が頭はねて參らせたらん者には、五百斤の金を與へん。」と披露せらる。荊軻是を聞き、樊於期が許にゆいて、「我れ聞く。汝が頭を五百斤の金に報ぜらる。汝が首我にかせ、取て始皇帝にたてまつらん。悦んで叡覧を歴られん時、劍を拔き胸を刺んに易かりなん。」と云ひければ、樊於期跳上り、大息ついて申けるは、「我親伯叔兄弟を始皇の爲に滅されて、夜晝これを思ふに、骨髄に徹て忍びがたし。げにも始皇帝を滅すべくば、首を與へん事、塵芥よりも尚易し。」とて、手づから首を切てぞ死にける。

又秦舞陽と云ふ兵有り。是も秦の國の者なり。十三の歳敵を討て、燕の國に迯籠れり。ならびなき兵也。彼が嗔て向ふ時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ時は、みどり子も抱かれけり。是を秦の都の案内者に語らうて具してゆく程に、或片山の邊に宿したりける夜、其邊近き里に管絃をするを聞て、調子を以て本意の事を占ふに、敵の方は水也、我方は火也。さる程に 天も明ぬ。白虹日を貫て通らず。「我等が本意遂ん事、有がたし。」とぞ申ける。

さりながら歸るべきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に到りぬ。燕の指圖竝に樊於期が首持て參りたる由を奏しければ、臣下を以て請取らんとし給ふ。「全く人しては參せじ、直に上まつらん。」と奏する間、「さらば。」とて、節會の儀を調て、燕の使を召されけり。咸陽宮は、都のめぐり一萬八千三百八十里に積れり。内裏をば地より三里高く築上て、其上に立たり。長生殿不老門有り、金を以て日を作り、銀を以て月を作れり。眞珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を布充てり。四方には高さ四十丈の鐵の築地を築き、殿の上にも同く鐵の網をぞ張たりける。是は冥途の使を入じと也。秋は田面の鴈、春はこしぢへ歸るにも、飛行自在の障有れば、築地には鴈門と名附て、鐵の門を開てぞ通しける。其中にも阿房殿とて、始皇の常は行幸成て、政道行はせ給ふ殿有り。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は、五丈の旗矛を立たるが、猶及ぬ程也。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀にて磨きけり。荊軻は燕の指圖を持ち、秦舞陽は樊於期が首を持て、玉の階をのぼりあがる。餘に内裏のおびたゞしきを見て、秦舞陽わな/\と振ひければ、臣下怪みて「舞陽謀反の心在り。刑人をば君の側に置かず、君子は刑人に近づかず、刑人に近づくは則死を輕んずる道也。」と云へり、荊軻立歸て「舞陽全く謀反の心なし。唯田舎の賤しきにのみ習て、皇居に馴ざる故に、心迷惑す。」と申ければ、臣下みな先靜りぬ。仍て王にちかづき奉る。燕の指圖ならびに樊於期が首見參にいるゝところに指圖の入たる櫃の底に、氷の樣なる劍の見えければ、始皇帝是を見て、や がて逃んとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引へて、劍を胸に差當たり。今はかうとぞ見えたりける。數萬の兵庭上に袖を列ぬと云へども、救んとするに力なし。只君逆臣に犯れ給ん事をのみ悲み合り。始皇のたまはく、「われに暫時の暇を得させよ。朕が最愛の后の琴の音を、今一度聞ん。」と宣へば、荊軻暫は侵し奉らず。始皇は三千人の后を持給へり。其中に華陽夫人とて、勝れたる琴の上手坐けり。凡此后の琴の音を聞ては、猛き武士の怒れるも和ぎ、飛鳥も落ち、草木も颱ぐ程なり。況や今を限の叡聞に備んと、泣々彈給ひけん、さこそは面白かりけめ。荊軻も頭を低れ、耳をそばだてて謀臣の思も怠にけり。其時后始めて更に一曲を奏す。「七尺の屏風は高くとも、跳らばなどか越ざらん。一條の羅穀は勁くとも、引かばなどかは絶ざらん。」とぞ彈給ふ。荊軻はこれを聞知ず、始皇は聞知て、御袖を引切り、七尺の屏風を飛超えて、銅の柱の陰に迯隱れさせたまひぬ。荊軻怒て、劍を投懸奉る。折節御前に番の醫師の候けるが、藥の袋を荊軻が劍に投合せたり。劍藥の袋を懸られながら、口六尺の銅の柱を、半迄こそ切たりけれ。荊軻又劍を持ねば、續いても投ず。王立歸て、わが劍を召寄て、荊軻を八裂にこそし給ひけれ。秦舞陽も討れにけり。官軍を遣して燕丹を亡さる。蒼天宥し給はねば、白虹日を貫いて通らず、秦始皇は遁れて、燕丹終に亡にき。されば今の頼朝もさこそは有らんずらめと、色代する人々も有けるとかや。

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文學荒行

抑彼頼朝と申は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆國蛭島へ流されて、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年來も有ばこそ有けめ、今年如何なる心にて、謀反をば起されけるぞと云ふに、高雄の文學上人の申勸められたりけるとかや。彼文學と申は、本は渡邊の遠藤左近將監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の年道心發し出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふは、いか程の大事やらん、試いて見ん。」とて、六月の日の草もゆるがず光たるに、片山の藪の中に這いり、仰のけに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻など云ふ毒蟲共が身にひしと取附て螫食などしけれども、ちとも身をも動かさず、七日迄は起上らず。八日と云ふに起上て、「修行と云ふは、是程の大事か。」と人に問へば、「其程ならんには、爭か命も生べき。」と言ふ間、「さては安平ごさんなれ。」とて、軈て修行にぞ出にける。

熊野へ參り、那智籠せんとしけるが、行の試みに、聞ゆる瀑に暫くうたれて見んとて、瀑下へぞ參りける。比は十二月十日餘の事なれば、雪降積り、つらゝいて、谷の小川も音もせず、峯の嵐吹凍り、瀑の白絲垂氷と成り、皆白妙に押竝べて、四方の梢も見え分かず。然るに文學瀑壺に下浸り、頸際漬て、慈救の咒を滿けるが、二三日こそ有けれ、四五日にも成ければ、堪へずして文學浮あがりにけり。數千丈漲り落る瀑なれば、なじかはたまるべき。さとおとされて、刀の刃の如くに、さしも嚴き岩角の中を、浮ぬ沈ぬ、五六町こそ流れたれ。時にうつくしげなる童子一人來て、文學が左右の手を取て引上給ふ。人奇特の思を成し、火を燒 きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では有り、ほどなく息いでにけり。文學少し人心地いできて、大の眼を見怒かし「我此瀑に三七日打れて、慈救の三洛叉を滿うと思ふ大願有り。今日は纔に五日になる。七日だにも過ざるに、何者が爰へはとて來たるぞ。」と言ければ、見る人身の毛よだて物いはず。又瀑壺に歸り立て打れけり。

第二日と云に、八人の童子來て、引上んとし給へども、散々に抓合うて上らず。第三日と云に、文學終にはかなくなりにけり。瀑壺を穢さじとや、鬟結うたる天童二人、瀑の上より下降り、文學が頂上より手足の爪さき手裏に至る迄、よに煖に香き御手を以て、撫下給ふと覺えければ夢の心地して息出ぬ「抑如何なる人にてましませば、かうは憐給ふらん。」と問奉る。「我は是大聖不動明王の御使に、金迦羅、逝多伽と云ふ二童子也。文學無上の願を發して勇猛の行を企つ、行て力を合すべしと、明王の勅に依て、來れる也。」と答へ給ふ。文學聲を怒らかして、「さて明王は何くにましますぞ。」「兜率天に。」と答へて、雲井遙に上り給ひぬ。掌を合せて是を拜したてまつる。「されば、我行をば、大聖不動明王までも知召れたるにこそ。」と、頼もしう覺えて、猶瀑壺に歸立て打れけり。誠に目出たき瑞相ども在ければ、吹來る風も身に入ず、落來る水も湯の如し。かくて三七日の大願終に遂げにければ、那智に千日籠り、大峯三度、葛城二度、高野、粉川、金峯山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃の戸隱、出羽の羽黒、惣じて日本國殘る所なく行廻て、さすが猶故郷や戀しかりけん、都へ歸上たりければ、凡そ飛鳥も祈落す程の、やいばの驗者とぞ聞えし。

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勸進帳

後には、高雄と云ふ山の奧に、行ひすましてぞ居たりける。彼高雄に神護寺と云ふ山寺有り。昔稱徳天皇の御時、和氣清麿が建たりし伽藍也。久く修造無りしかば、春は霞に立籠られ、秋は霧に交り、扉は風に倒て、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵れて、佛壇更に顯也。住持の僧も無れば稀に差入物とては、月日の光ばかり也。文學是を如何にもして、修造せんといふ大願を起し、勸進帳を捧て、十方檀那を勸めありきける程に、或時院の御所法住寺殿へぞ參りたりける。御奉加有るべき由奏聞しけれども、御遊の折節で、聞召も入れられず。文覺は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨、内證をば知らず、只申入ぬぞと心得て、是非なく御坪の内へ破り入り、大音聲を揚て申けるは、「大慈大悲の君にておはします、などか聞召入れざるべき。」とて、勸進帳を引廣げ、高らかにこそ讀だりけれ。

沙彌文學敬白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙て、高雄山の靈地に一院を建立し、二世安樂の大利を勤行せんと請ふ勸進の状夫以れば、眞如廣大なり。生佛の假名を斷つと云へども、法性隨妄の雲厚く覆て、十二因縁の峰に並び居しより以降、本有心蓮の月の光幽にして、未だ三徳四曼の大虚に現はれず。悲哉。佛日早く沒して、生死流轉の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽る。誰か狂象跳猿の迷を謝せん。徒に人を謗し法を謗す。豈閻羅獄卒の責を免れんや。爰に文學適俗塵 を打拂て、法衣を飾と云へ共、惡行猶心に逞して、日夜に造り、善苗又耳に逆て朝暮に廢る。痛哉。再度三塗の火坑に歸て、永く四生の苦輪に廻らん事を。此故に無二の顯章千萬軸、軸々に佛種の因を明す、隨縁至誠の法、一として菩提の彼岸に至らずといふ事なし。故に文學無常の觀門に涙を落し、上下の眞俗を勸めて、上品蓮臺に歩を運び、等妙覺王の靈場を建んとなり。抑高雄は山堆くして、鷲峯山の梢を表し、谷閑にして商山洞の苔を敷けり。巖泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして囂塵なし、咫尺好して信心のみあり。地形勝れたり、尤佛天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。風に聞く、聚沙爲佛塔功徳忽に佛因を感ず。況や一紙半錢の寶財に於てをや。願くは建立成就して金闕鳳歴御願圓滿、乃至都鄙遠近隣民親疎、堯舜無爲の化をうたひ、椿葉再會の笑を開かん。殊には又聖靈幽儀先後大小、速に一佛眞門の臺に至り、必ず三身萬徳の月を翫ばん。仍て勸進修行の趣、蓋以如此。

治承三年三月 日  文學

とこそ讀上たれ。

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文學被流

折節御前には、太政大臣妙音院、琵琶掻鳴し朗詠目出度うせさせ給。按察大納言資方卿拍子取て風俗、催馬樂歌はれけり。右馬頭資時、四位侍從盛定、和琴掻鳴し、今樣とり%\に歌 ひ、玉の簾、錦の帳の中さゞめき合ひ、誠に面白かりければ、法皇も附歌せさせ坐します。其に文學が大音聲出來て、調子も違ひ、拍子も皆亂にけり。「何者ぞ。そ頸突け。」と仰下さるる程こそ有けれ。はやりの若者共、我も我もと進ける中に、資行判官と云ふ者、走出でゝ、「何條事申ぞ。罷出よ。」と云ければ、「高雄の神護寺に庄一所寄られざらん程は全く文學いづまじ。」とて動かず。寄てそ頸を突うとしければ、勸進帳を取直し、資行判官が烏帽子を、はたと打て打落し、拳を握て、しや胸を突て、仰に撞倒す。資行判官は、髻放て、おめ/\と大床の上へ迯上る。其後文學懷より、馬の尾で柄巻たる刀の、氷の樣なるを拔出いて、寄來ん者を突うとこそ待懸たれ。左の手には勸進帳、右の手には刀を拔て走りまはる間、思設ぬ俄事では有り、左右の手に刀を持たる樣にぞ見えたりける。公卿殿上人も、こは如何に/\と噪れければ、御遊もはや荒にけり。院中の騒動斜ならず。信濃國の住人、安藤武者右宗、其頃當職の武者所で有けるが、「何事ぞ。」とて、太刀を拔て走出たり。文學悦でかゝる所を、斬ては惡かりなんとや思ひけん、太刀のみねを取直し、文學が刀持たる肘をしたゝかに打つ。打れてちと疼む處に太刀を捨てて「えたりやをう。」と、組だりける。組まれながら文學安藤武者が右の肘を突く。突れながらしめたりけり。互に劣らぬ大力なりければ、上に成り下に成り、轉合ふ所に、賢顏に、上下寄て、文學が動く所のぢやうをがうしてけり。去れ共、是を事ともせず、彌惡口放言す。門外へ引出いて、廳の下部にたぶ。ゐてひはる。ひはられて立ながら、御所の方を睨まへ、大音聲をあげて、「奉加をこそし給はざらめ。是程文學に辛い 目を見せ給ひつれば、思知せ申さんずる物を。三界は皆火宅也。王宮と云ふとも、其難を遁るべからず。十善の帝位に誇たうとも、黄泉の旅に出なん後は、牛頭馬頭の責をば免れ給はじ物を。」と、躍上躍上ぞ申ける。此法師奇怪なりとて、やがて獄定せられたり。資行判官は、烏帽子打落されて恥がましさに、暫は出仕もせず。安藤武者は、文學組だる勸賞に、一臈を歴ずして、右馬允にぞ成されける。さる程に其比美福門院隱れさせ給ひて、大赦有りしかば、文學程なく赦されけり。暫はどこにも行ふべかりしが、さはなくして、又勸進帳を捧て、勸めけるが、さらば唯も無して、「あはれこの世の中は、唯今亂れ、君も臣も皆滅失んずる物を。」など、怖き事のみ申ありく間、「此法師都に置ては叶ふまじ、遠流せよ。」とて伊豆國へぞ流されける。

源三位入道の嫡子、仲綱の其比伊豆守にておはしければ其沙汰として、東海道より船にて下すべしとて、伊勢國へ將て罷りけるに、放免兩三人ぞつけられたる。是等が申けるは、「廳の下部の習、加樣の事についてこそ自らの依怙も候へ。如何に聖の御房、是程の事に逢て、遠國へ流され給ふに、知人は持給はぬか、土産粮料如きの物をも乞給へかし。」といひければ、文學は「左樣の要事いふべき得意も持たず、東山の邊にぞ得意は有る。いでさらば文を遣う。」と云ければ、怪しかる紙を尋て、得させたり。「か樣の紙で物書くやうなし。」とて、投返す。さらばとて、厚紙を尋て得させたり。文學笑て「法師は物をえ書ぬぞ、さらばおれら書け。」とて書するやう、「文學こそ、高雄の神護寺造立供養の志あて勸め候つる程に、かゝる君の代に しも逢て所願をこそ成就せざらめ。禁獄せられて剩へ伊豆國へ流罪せられ候。遠路の間で候。土産粮料如きの物も、大切に候。此使に給べし。」と書けと云ければ、いふ儘に書て、「さて誰殿へとかき候はうぞ。」「清水の觀音房へと書け。」是は廳の下部を欺くにこそ。」と申せば「さりとては文學は觀音をこそ深う憑奉たれ。さらでは誰にかは用事をば言ふべき。」とぞ申ける。

伊勢國阿濃の津より舟に乘て下りけるが、遠江國天龍灘にて、俄に大風吹き大波立て、既に此舟を打覆さんとす。水手梶取共、如何にもして、助らんとしけれども、波風彌荒ければ、或は觀音の名號を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども、文學は是を事ともせず。高鼾かいて臥したりけるが、何とか思けん、今はかうと覺えける時、かはと起、船の舳に立て、奥の方を睨へ大音聲を揚て、「龍王やある、龍王やある。」とぞ喚だりける。「如何に是程の大願發いたる聖が乘たる船をば過うとはするぞ。唯今天の責蒙んずる龍神共かな。」とぞ申ける。其故にや波風程なく靜て、伊豆國へ著にけり。文學京を出ける日より祈誓する事あり。「我都に歸て、高雄の神護寺造立供養すべくば、死ぬべからず。此願空かるべくば、道にて死ぬべし。」とて、京より伊豆へ著ける迄、折節順風無りければ、浦傳ひ島傳ひして三十一日が間は、一向斷食にてぞ有ける。され共氣力少しも劣へず、行うちして居たりけり。誠に直人とも覺ぬ事共多かりけり。近藤四郎國高といふ者に預けられて、伊豆國奈古屋が奥にぞすみける。

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福原院宣

さる程に兵衞佐殿へ常は參て、昔今の物語ども申て慰む程に、ある時文學申しけるは、「平家には小松大臣殿こそ、心も剛に策も勝て坐しか。平家の運命が末に成やらん、去年八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、わどの程將軍の相持たる人はなし。早々謀反起して、日本國隨給へ。」兵衞佐、「思も寄らぬ事宣ふ聖御房哉。我は故池尼御前にかひなき命を助けられ奉て候へば、其後世を弔はん爲に、毎日に法華經一部轉讀する外は他事なし。」とこそ宣けれ、文學重て申けるは「天の與ふるを取ざれば、却て其咎を受く。時至て行はざれば、却て其殃を受と云ふ本文有り。か樣に申せば、御邊の心を見んとて、申など思ひ給か。御邊に志の深い色を見給へかし。」とて、懷より白布に裏だる髑髏を一つ取出す。兵衞佐殿、「あれは如何に。」と宣へば、「是こそわどのの父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋れて、後世弔ふ人も無かりしを、文學存ずる旨有て、獄守に乞て此十餘年頸に懸け、山々寺々拜みまはり、弔ひ奉れば、今は定て一劫もたすかり給ぬらん。去れば、文學は故頭殿の御爲にも、奉公の者でこそ候へ。」と申ければ、兵衞佐殿、一定とは覺ねども、父の頭と聞く懷しさに、先涙をぞ流されける。其後は打解て物語し給ふ。「抑頼朝勅勘を許りずしては、爭か謀反をば起すべき。」と宣へば「それ易い事、やがて上て申許いて奉らん。」「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申許さうと宣ふ、あてがひ樣こそ、大に誠しからね。」「吾身の勅勘を許うと申さば こそ僻事ならめ。わどのの事申さうは、何か苦しかるべき。今の都福原の新都へ上らうに、三日に過まじ。院宣伺はうに、一日が逗留ぞ有らんずる。都合七日八日に過ぐべからず。」とてつき出ぬ。奈古屋に歸て、弟子共には、伊豆の御山に人に忍んで、七日參籠の志ありとて出にけり。實にも三日と云に、福原の新都へ上りつゝ前右兵衞督光能卿の許に、聊縁有ければ、其に行いて、「伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝こそ勅勘を許されて、院宣をだにも給はらば、八箇國の家人ども催し集めて、平家を亡し、天下を靜んと申候へ。」兵衞督、「いさとよ、我身も當時は三官共に停られて、心苦しい折節なり。法皇も押籠られて渡せ給へば、如何有んずらん。さりながら伺うてこそ見め。」とて、此由竊に奏せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。聖是を頸にかけ、又三日と云に伊豆國へ下り著く。兵衞佐「あはれ、此聖の御房は、なまじひに由なき事申し出して、頼朝又如何なる憂目にか逢んずらん。」と、思はじ事なう、あんじ續けて坐ける處に八日と云ふ午刻許に下著て、「すは院宣よ。」とて奉る。兵衞佐、院宣と聞く忝さに、手水鵜飼をし、新き烏帽子淨衣著て、院宣を三度拜して披かれけり。

頻の年より以降、平氏王化を蔑如し、政道に憚ることなし。佛法を破滅して朝威を亡さんとす。夫吾朝は神國なり、宗廟相並んで神徳惟新なり。故に朝廷開基の後、數千餘歳の間、帝猷を傾け、國家を危ぶめんとする者、皆以て敗北せずといふことなし。然れば則、且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守て、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を 退けよ。譜代弓箭の兵略を繼ぎ、累祖奉公の忠勤を抽で、身を立て家を興すべし、てへれば、院宣此の如し。仍執達如件。

治承四年七月十四日 前右兵衞督光能奉

謹上 前右兵衞佐殿

とぞ書かれたる。此院宣をば、錦の袋に入れて、石橋山の合戰の時も、兵衞佐殿頸に懸られたりけるとかや。

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富士川

さる程に、福原には勢の附ぬ先に、急ぎ討手を下べしと公卿僉議有て、大將軍には小松權亮少將維盛、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢三萬餘騎、九月十八日に新都を立て、十九日には舊都に著き、やがて廿日東國へこそ討立れけれ。大將軍權亮少將維盛は、生年二十三、容儀帶佩繪に書とも筆も及難し。重代の鎧唐皮と云ふ著せ長をば、唐櫃に入て舁せらる。道中には、赤地の錦の直垂に、萌黄絲威の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘り給へり。副將軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧著て、黒き馬の太う逞に沃懸地の鞍置て乘り給へり。馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至る迄、光輝く程に出立れたりしかば、めでたかりし見物也。薩摩守忠度は、年來或る宮腹の女房の許へ通はれけるが、或時坐たりけるに、其女房の許へ、止事なき女房客人に來て、良久しう物語し給ふ。小夜も遙に更行く迄に 客人歸り給はず。忠度軒端にしばしやすらひて、扇を荒く遣はれければ、宮腹の女房、「野もせに集く蟲の音よ。」と、優にやさしく口ずさみ給へば、薩摩守やがて遣ひ止て歸られけり。其後又坐たりけるに、宮腹の女房「さても一日、何とて扇をば遣ひ止にしぞや。」ととはれければ、「いさ、かしがましなど聞え候しかば、さてこそ遣ひやみ候しか。」とぞ宣ひける。彼女房の許より忠度の許へ、小袖一重遣すとて、千里の名殘の悲しさに、一首の歌をぞ、贈られける。

東路の草葉をわけん袖よりも、たゝぬ袂の露ぞこぼるゝ。

薩摩守返事には

別路を何かなげかんこえて行く、關もむかしの跡とおもへば。

關も昔の跡と詠る事は、平將軍貞盛、將門追討の爲に、東國へ下向せし事を、思ひ出て讀たりけるにや、最優うぞ聞えし。

昔は朝敵を平げに外土へ向ふ將軍は、先參内して節刀を賜る。宸儀南殿に出御して、近衞階下に陣を引き、内辨外辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各禮儀を正うして、是を給はる。承平天慶の蹤跡も、年久う成て准へ難しとて、今度は讃岐守正盛が、前對馬守源義親追討の爲に、出雲國へ下向せし例とて、鈴ばかり賜て、皮の袋に入て、雜色が頸に懸させてぞ下られける。古朝敵を滅さんとて、都をいづる將軍は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に鬪ふ時身を忘る。さ れば今の平氏の大將軍維盛忠度も、定てか樣の事をば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。

同二十一日新院又安藝國嚴島へ御幸成る。去る三月にも御幸ありき。其故にや、中一兩月世も目出度治て、民の煩も無りしが、高倉宮の御謀反に依て、又天下亂れて、世上も靜かならず。是に依て、且は天下靜謐の爲、且は聖代不豫の御祈念の爲とぞ聞えし。今度は福原よりの御幸なれば、斗藪の煩も無りけり。手から自から御願文を遊ばいて、清書をば攝政殿せさせおはします。

蓋し聞く、法性雲閑なり。十四十五の月高く晴れ、權化智深く一陰一陽の風旁扇ぐ。夫嚴島の社は稱名普く聞る場、効驗無雙の砌也。遙嶺の社壇を繞る、自大慈の高く峙を彰し、巨海の祠宇に及ぶ、空に弘誓の深廣なる事を表す。夫以れば初庸昧の身を以て忝なく皇王の位を踐む。今賢猷を靈境の群に玩で閑放を射山の居に樂む。然るに竊に一心の精誠を抽で孤島の幽祠に詣、瑞離の下に冥恩を仰ぎ、懇念を凝して汗を流し、寶宮の内に靈託を垂。其告げの心に銘する在り。就中に特に怖畏謹愼の期をさすに、專ら季夏初秋の候に當る。病痾忽に侵し、猶醫術の驗を施す事なし。萍桂頻に轉ず。彌神感の空からざる事を知ぬ。祈祷を求と云へども、霧露散じ難し。しかじ、心府の志を抽でゝ、重て斗藪の行を企てんと思ふ。漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢を破り、凄々たる微陽の前、遠路に臨で眼を究む。遂に枌楡の砌に著て、敬て清淨の席をのべ、書寫したて奉る色紙墨字 の妙法蓮華經一部、開結二經、阿彌陀、般若心經等の經、各一巻。手づから自から書寫しまつる金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の陰、共に善理の種を添へ、潮去潮來響空に梵唄の聲に和す。弟子北闕の雲を辭して八亥、涼燠の多くめぐる事なしと云へども、西海の浪を凌ぐ事二度、深く機縁の淺からざる事を知ぬ。朝に祈る客一つにあらず。夕に賽しする者且千也。但尊貴の歸仰多しといへども院中の往詣未聞かず。禪定法皇初めて其儀をのこい給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高山の月の前には漢武未だ和光の影を拜せず。蓬莱洞の雲の底にも天仙空く垂跡の塵を隔つ。仰願くは大明神、伏乞らくは、一乘經、新に丹祈を照して、唯一の玄應を垂給へ。

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