饭饭TXT > 海外名作 > 《ノルウェイの森/挪威的森林(日文版)》作者:[日]村上春树【完结】 > 挪威的森林 (日文版).txt

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作者:日-村上春树 当前章节:15431 字 更新时间:2026-6-15 22:18

「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」

「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれませんか?」

「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになったの」とレイコさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピアノが弾けるんだわって思ってね。そういう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだったかっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれに飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のために音楽が演奏できるということはね。

さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけれど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんてただの一度もなかったのよ。テストをパスするためとか、課題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなためばかりにピアノを弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことではあるのよ、ひとつの楽器をマスターするためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなくてはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私はエリート?コースからドロップ?アウトして三十一か三十二になってやっとそれを悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづけて、それから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いたの。そこまでは何も問題はなかったわ。ないでしょう?」

僕は肯いた。

「ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の奥さんが私を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いたがってるんだけど教えて頂くわけにはいかないだろうかっていうの。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘さんのことは知らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私の家の前を通ってよく私のピアノを聴いてすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っていて憧れているっていうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピアノを習っていたんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今は誰にもついていないってことなの。

私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心者ならともかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね。だいいち子供の世話が忙しくてできませんって。それに、これはもちろん相手には言わなかったけれど、しょっちゅう先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその奥さんは一度でいいから娘に会うだけでも会ってやってくれって言うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭そうだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会うだけでいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒く長くて、手足がすらっと細くて、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうなの。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい綺麗なの。その子がうちの応接間のソファーに座っていると、まるで違う部屋みたいにゴージャスに見えるのよね。じっと見ているとすごく眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子だったわ。今でもはっきりと目に浮かぶわね」

レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目を細めていた。

「コーヒーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなことをね。音楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。話の要領もいいし、意見もきちっとして鋭いし、相手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖さがいったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。ただなんとなく怖いくらいに目から鼻に抜けるようなところがあるなと思っただけよ。でもね、その子を前に話をしているとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに劣った不細工な人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだとしても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃないかっていう気がしちゃうわけ」

彼女は何度か首を振った。

「もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな人間になるわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよ?あれほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじめたり踏みつけたりしなくちゃいけないのよ?だってそんなことしなくちゃいけない理由なんて何もないでしょう?」

「何かひどいことをされたんですか?」

「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるために周辺の物事をどんどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回ってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのに、馬鹿みたいだわ、まったく」

「どんな嘘をつくんですか?」

「ありとあらゆる嘘よ」とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら言った。「今も言ったでしょう?人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。彼女は自分を守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうような相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときには細心の注意を払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。そしてもしばれちゃうようなことがあったら、そのきれいな目からぼろぼろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、すがりつくような声でね。すると誰もそれ以上怒れなくなっちゃうの。

どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのかがね。それは今でもわからないわ、全然。もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれどね。もう何もかも終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったんだから」

短い沈黙があった。

「彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を通って私のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてたってね。『憧れてた』って言ったのよ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れるなんでね。でもね、それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私はもう三十を過ぎてたし、その子ほど美人でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の中にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何かとか、そういうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を持ったのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないのよ」

「かわりますよ、それはなんとなく」と僕は言った。

「その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いいわよ、弾いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女バッハのインベンション弾いたの。それがね、なんていうか面白い演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普通じゃないのよね。もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。

そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。

でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ」

レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。

「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。

「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね?」

「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。「ただ話しに引きこまれてたんです」

「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」

「まるでシエラザー ですね」

「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。

僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファーの上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。

「もう大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。「びっくりした?」

「少しね」と僕はにっこりとして言った。

「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファーの上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離した。

「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」と直子は言った。

「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」

直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がいるとか。

直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブループ?ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女フランス語とか編物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。

「ピアノはレイコさんに教わってるの」と直子は言った。「彼女は他にもギターも教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランス語に堪能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」

「僕にもないね」

「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」

「夕ごはんのあとはいつも何するの?」

「レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコードを聴いたり、他の人の部屋にいってゲームをしたり、そういうこと」と直子は言った。

「私はギターの練習をしたり、自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。

「自叙伝?」

「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ」

僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか?」

「でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」

「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」

「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」

「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」

「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの?」

「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの?」

「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」

「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にしてたもの」

「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人、あなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」

直子はソファーの上で脚を組みなおした。

「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」

「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」

直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」

「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」

「だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私、すごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど」

「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。

「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたし、私にもわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうでしょう?」

僕は肯いた。

「でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」

直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。

「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあげて……。でもね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたし、まるでお互いの体を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかその頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオープンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる?」

「わかると思う」と僕は言った。

「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして少しずつ不幸になっていたと思うわ」

「どうして?」

直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。

「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」

僕は肯いた。

「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよ、今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。

直子はまた下を向いて黙った。

「どう、ココアでも飲まない?」とレイコさんが言った。

「ええ、飲みたいわ、とても」と直子は言った。

「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか?」と僕は訊いた。

「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる?」

「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。

レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。

「もう少し明るい話をしない?」と直子が言った。

でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれた、そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったが、二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたので、レイコさんがソファーの背を倒してベッドにし、シーツと毛布と枕をセットしてくれた。

「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」

「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った

「ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたから、私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは言った。

「いいですね」と僕は言った。

彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうと、僕はブランディーを少し飲み、ソファー?ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。

目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。

直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。

僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中でその音はひどく大きく響いた。すると直子は、まるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっと立ち上がり、かすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれど、その目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄んでいて、向う側の世界がすけて見えそうなほどだったが、それだけ見つめてもその奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。

僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボタンを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいの肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていた。

これはなんという完全な肉体なのだろう――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全な肉体を持つようになったのだろう?そしてその春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう?

その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ちがいな突起のように感じられたし、腰のまわりに妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、肉体というもののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入っている。でもこれは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないことを語り合っているだけなんだ。こうすることで僕はそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろんそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつごつとした感触を感じることができた、そしてその感触は僕を愛しい気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。

しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉体はいつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生れ落ちたのだ、と僕は思った。まずふっくらとした少女の肉がキズキの死と前後してすっかりそぎおとされ、それから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体はあまりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。

彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再びまとい、上から順番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。

僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおしてベッドから出て、床に落ちている時計を拾い上げ、月の光の方に向けて見た。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。僕は眠ったか眠らないかのうちにレイコさんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き「朝よ、朝よ」とどなった。

レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはよう、と僕も言った。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばらく眺めていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられなかった。

「ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?」と直子がコーヒーを入れながら僕に言った。

「夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ」

「私たちいびきかいてなかった?」とレイコさんが訊いた。

「かいてませんよ」と僕は言った。

「よかった」と直子が言った。

「彼、礼儀正しいだけなのよ」とレイコさんはあくびしながら言った。

僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしているのか、あるいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイコさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄みきっていた。

「よく眠れた?」と僕は直子訊ねた。

「ええ、ぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。

僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。僕はパンにバターを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのようなものを求めて、向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。

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