「ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの?」と直子がおかしそうに訊いた。
「彼、誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。
「あなた誰かに恋してるの?」と直子は僕に訊いた。
そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食べ、コーヒーを飲んだ。
朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もついていくことにした。二人は作業用のジーンズとシャツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニス?コートの裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植え込みがあり、ベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から五十のあいだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を上げながら檻の中をとびまわった。
彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とゴム?ホースを出してきた。直子がホースを蛇口につなぎ、水道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとし、レイコさんがデッキ?ブラシでごしごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀たちはそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけ、オウムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、少しすると「アリガト、キチガイ、クソタレ」と叫んだ。
「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。
「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレイコさんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。
「このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって怖くってしようがないのよ」とレイコさんは笑って言った。
掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。
「毎朝これをやっているの?」と僕は直子に訊いた。
「そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。ウサギみたい?」
見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹ほどのウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入れてから、子ウサギを抱きあげ頬ずりした。
「可愛いでしょう?」と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせていた。
「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指でウサギの頭を撫で、僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったので、僕も思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。あれは間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない――彼女はたしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだ、と。
レイコさんは『プラウド?メアリ』を口笛できれいに吹きながらごみを集め、ビニールのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。
「朝っていちばん好きよ」と直子は言った。「何もかも最初からまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの」
「そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレイコさんは言った。「すぐよ、そんなの」
「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。
「年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」とレイコさんは言った。
「どうしてですか?」と僕は訊いた。
「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレイコさんは答えた。そして『プラウド?メアリ』を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を閉めた。
部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえ、これから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないし、他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレイコさんは言った。
「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるから洗っといてくれる?」とレイコさんが言った。
「冗談でしょう?」と僕はびっくりして訊きかえした。
「あたり前じゃない」とレイコさんは笑っていった。「冗談に決ってるでしょう、そんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子?」
「そうねえ」と直子も笑って同意した。
「ドイツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。
「いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」とレイコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。
僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧クリームやリップ?クリームや日焼けどめやローションといったものがぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコーヒーを入れ、テーブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でTシャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。
十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワーに入り、さっぱりした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番がいて、食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジスタ?ラジオからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつし、僕らも「こんにちは」と言った。
これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、とレイコさんが言った。
「ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雨で崩れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです」と門番は言った。レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。
「気ィつけていってらしゃい」と門番は言った。
「親切そうな人ですね」と僕は言った。
「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレイコさんは言って指の先で頭を押えた。
いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青く、細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんで、まん中が直子で、最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運んだ。直子はブルージーンズと白いシャツという格好で、上着を脱いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レイコさんの歩調はまったく崩れなかったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。
「いつもこういう山のぼりしてるの?」と僕は直子に訊いてみた。
「週に一回くらいかな」と直子は答えた。「きついでしょ、けっこう?」
「いささか」と僕は言った。
「三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょう?しっかりしなくちゃ」とレイコさんが言った。
「運動不足なんですよ」
「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。
僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、いたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。
それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に出た。我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レイコさんは何かの葉っぱをみつけてきて、それで笛を作って吹いた。
道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十五分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたが、中には雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。
「ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ」とレイコさんが教えてくれた。「まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っちゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えているわけじゃないしね。町に出て働いた方がお金になるのよ」
「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。
「一時ヒッピーが住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て行ったわよ」
集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のようなものがあり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根に沿って歩いていくと、大きな犬が尻尾をばたばたと振りながら走ってきて、レイコさんにのしかかるようにして顔の匂いをかぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛を吹くとやってきて、長い舌でべろべろと僕の手を舐めた。
「牧場の犬なのよ」と直子が犬の頭を撫でながら言った。「もう二十歳近くになっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど食べれないの。いつもお店の前で寝てて人の足音が聞こえるととんできて甘えるの」
レイコさんがナップザックからチーズの切れはしをとりだすと、犬は匂いを嗅ぎつけてそちらにとんでいき、嬉しそうにチーズにかぶりついた。
「この子と会えるのももう少しなのよ」とレイコさんは犬の頭を叩きながら言った。「十月半ばになると馬と牛をトラックにのせて下の方の牧舎につれていっちゃうのよ。夏場だけここで放牧して、草を食べさせて、観光客相手に小さなコーヒー?ハウスのようなものを開けてるの。観光客ったって、ハイカーが一日二十人くるかこないかってくらいのものだけどね。あなた何か飲みたくない、どう?」
「いいですね」と僕は言った。
犬が先に立って我々をそのコーヒー?ハウスまで案内した。正面にポーチのある白いペンキ塗りの小さな建物で、コーヒー?カップのかたちをした色褪せた看板が軒から下がっていた。犬は先に立ってポーチに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。僕らがポーチのテーブルに座ると中からトレーナー?シャツとホワイト?ジーンズという格好の髪をポニー?テールにした女の子が出てきて、レイコさんと直子に親しい気にあいさつした。
「この人直子のお友だち」とレイコさんが僕に紹介した。
「こんにちは」とその女の子は言った。
「こんにちは」と僕も言った。
三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテーブルの下の犬の首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。その固いところをぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良さそうに目をつぶってはあはあと息をした。
「名前はなんていうの?」と僕は店の女の子に訪ねた。
「ぺぺ」と彼女は言った。
「ぺぺ」と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかった。
「耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ」と女の子は京都弁で言った。
「ペペッ!」と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起こし、ワンッと吠えた。
「よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい」と女の子が言うと、ぺぺはまた僕の足もとにごろんと寝転んだ。
直子とレイコさんはアイス?ミルクを注文し、僕はビールを注文した。レイコさんは女の子にFMをつけてよと言って、女の子はアンプのスイッチを入れてFM放送をつけた。プラット?スウェット?アンド?ティアーズが『スピニング?ホイール』を唄っているのが聴こえた。
「私、実を言うとFMが聴きたくてここに来てんのよ」とレイコさんは満足そうに言った。「何しろうちはラジオもないし、たまにここに来ないと今世間でどんな音楽かかってるのかわかんなくなっちゃうのよ」
「ずっとここに泊ってるの?」と僕は女の子に聴いてみた。
「まさか」と女の子は笑って答えた。「こんなところに夜いたら淋しくて死んでしまうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。それでまた朝に出てくるの」彼女はそう言って少し離れたところにある牧場のオフィスの前に停まった四輪駆動車を指さした。
「もうそろそろここも暇なんじゃないの?」とレイコさんが訊ねた。
「まあぼちぼちおしまいやわねえ」と女の子は言った。レイコさんは煙草をさしだし、彼女たちは二人で煙草を吸った。
「あなたいなくなると淋しいわよ」とレイコさんは言った。
「来年の五月にまた来るわよ」と女の子は笑って言った。
クリームの『ホワイト?ルーム』がかかり、コマーシャルがあって、それからサイモン?アンド?カーファンクルの『スカボロ?フェア』がかかった。曲が終るとレイコさんは私この歌すきよと言った。
「この映画観ましたよ」と僕は言った。
「誰が出てるの?」
「ダスティン?ホフマン」
「その人知らないわねえ」とレイコさんは哀しそうに首を振った。「世界はどんどん変っていくのよ、私の知らないうちに」
レイコさんは女の子にギターを貸してくれないかと言った。いいわよと女の子は言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギターを持ってきた。犬が顔を上げてギターの匂いをくんくんと嗅いだ。「食べものじゃないのよ、これ」とレイコさんが犬に言い聞かせるように言った。草の匂いのする風がポーチを吹き抜けていった。山の稜線がくっきりと我々の眼前に浮かび上がっていた。
「まるで『サウンド?オブ?ミュージック』のシーンみたいですね」と僕は調弦をしているレイコさんに言った。
「何よ、それ?」彼女は言った。
彼女は『スカボロ?フェア』の出だしのコードを弾いた。楽譜なしではじめて弾くらしく最初のうちは正確なコードを見つけるのにとまどっていたが、何度か試行錯誤をくりかえしているうちに彼女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおして弾けるようになった。そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなりと弾けるようになった。「勘がいいのよ」とレイコさんは僕に向ってウインクして、指で自分の頭を指した。「三度聴くと、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの」
彼女はメロディーを小さくハミングしながら『スカボロ?フェア』を最後まできちんと弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさんは丁寧に頭を下げた。
「昔モーツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大きかったわね」と彼女は言った。
店の女の子が、もしビートルズの『ヒア?カムズ?ザ?サン』を弾いてくれたらアイス?ミルクのぶん店のおごりにするわよと言った。レイコさんは親指をあげてOKのサインを出した。それから歌詞を唄いながら『ヒア?カムズ?ザ?サン』を弾いた。あまり声量がなく、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感のある素敵な声だった。ビールを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから太陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたかいやさしい気持だった。
『ヒア?カムズ?ザ?サン』を唄い終ると、レイコさんはギターを女の子に返し、またFM放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいよと言った。
「私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻ってくれば、それでいいわよ」
「そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか?」と僕は訊いた。
「本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあさんじゃないんだから少しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく遠くから来たんだからつもる話もあるんでしょう?」とレイコさんは新しい煙草に火をつけながら言った。
「行きましょうよ」と直子が言って立ち上がった。
僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々のあとをついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。我々は牧場の柵に沿って平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだりした。
「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?」と直子は言った。
「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。「今年の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃうよ」
「古代史みたいなものよ」と直子は言った。「でも昨日ごめんなさい。なんだか神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、悪かったわ」
「かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる」
「私を理解して、それでそうなるの?」
「ねえ、君はわかってない」と僕は言った。「どうなるかといった問題ではないんだよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中時刻表読んでいる人がいる。あるいはマッチ棒をつなぎあわせて長さ一メートルの船を作ろうとする人だっている。だから世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?」
「趣味のようなものかしら?」と直子はおかしそうに言った。
「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいんならそう呼べばいい」
「ねえ、ワタナベ君」と直子が言った。「あなたキズキ君のことも好きだったんでしょう?」
「もちろん」と僕は答えた。
「レイコさんはどう?」
「あの人も大好きだよ。いい人だね」
「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」
「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外で歩きまわってるよ」
「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。
我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。
「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら言った。「こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」
僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。
「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてるような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの」
「そういうときはどうするの?」
「ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね」
「思わないよ」と僕は言った。
「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてくれるの。体の芯があたたまるまで。こういうのって変?」
「変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思うだけど」
「今、抱いて、ここで」と直子は言った。
我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと我々の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。
「ねえ、ワタナベ君?」と僕の耳もとで直子が言った。
「うん?」
「私と寝たい?」
「もちろん」と僕は言った。
「でも待てる?」
「もちろん待てる」
「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれるの?」
「もちろん待つよ」
「今固くなってる?」
「足の裏のこと?」
「馬鹿ねえ」とくすくす笑いながら直子は言った。
「勃起してるかということなら、してるよ、もちろん」
「ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる?」
「いいよ、やめる」と僕は言った。
「そういうのってつらい?」
「何が?」
「固くなってることが」
「つらい?」と僕は訊きかえした。
「つまり、その……苦しいかっていうこと」
「考えようによってはね」
「出してあげようか?」
「手で?」
「そう」と直子は言った。「正直言うとさっきからそれすごくゴツゴツしてて痛いのよ」
僕は少し体をずらせた。「これでいい?」
「ありがとう」
「ねえ、直子?」と僕は言った。
「なあに?」
「やってほしい」
「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを外し、固くなったペニスを手に握った。
「あたたかい」と直子は言った。
直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。
「なかなか上手いじゃない」と僕は言った。
「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。
射精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直子はブラジャーとブラウスをもとどおりにし、僕はズボンのジッパーをあげた。
「これで少し楽に歩けるようになった?」と直子が訊いた。
「おかげさまで」と僕は答えた。
「じゃあよろしかったらもう少し歩きません?」
「いいですよ」と僕は言った。
僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きながら直子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したことはないのだけれど。あなたには話しておいた方がいいと思うから話すのだと彼女は言った。
「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもとても仲が良かったの」と直子は言った。「喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。まあ喧嘩にならないくらいレベルに差があったということもあるんだけどね」
お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言った。勉強もいちばんならスポーツもいちばん、人望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあってという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女の子がいる。でも自分のお姉さんだから言うわけじゃないんだけれど、そういうことでスボイルされて、つんつんしたり鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む人でもなかった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだったのだ、と。
「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」と直子はすすきの穂をくるくると回しながら言った。「だってそうでしょう、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良くて、スポーツができて、人望もあってなんて話してるの聞いて育ったんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。それにまあ顔だけとれば私の方が少しきれいだったから、親の方も私は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピースとかフリルのついたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンとかね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼントしてくれたし、いろんなところにつれていってくれたり、勉強みてくれたり。ボーイ?フレンドとデートするとき私も一緒につれてってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉さんだったわ。
彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくて――同じでしょう?」
「そうだね」と僕は言った。
「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってたわ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、私はお姉さんが死んだあとでずいぶんそれ読んだんだけど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであったり、ボーイ?フレンドの手紙がはさんであったり。そういうので私、何度も泣いたのよ」
直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。
「大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてというじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れちゃってて、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお姉さんに相談したし、彼女はとても親切にいろんなこと教えてくれるんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片づけちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとムシャクシャして人にあたったりするでしょ、多かれ少なかれ。そういうのもないの。彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。でも不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃないのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、テストの成績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも私がいなくなると――たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレエのレッスンに出かけたりすると――また一人でボオッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバタッと自然になおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんじゃないかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけれど、なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。
でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。それでお父さんこういったのよ。『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って」
直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。
「お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学校六年生の秋よ。十一月。雨が降って、どんより暗い一日だったわ。そのときお姉さんは高校三年生だったわ。私がピアノのレッスンから戻ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度していて、もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺に立って、首を少しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで考えごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼんやりとしか見えなかったのよ。私は『ねえ何してるの?もうごはんよ』って声かけたの。でもそういってから彼女の背がいつもより高くなってることに気づいたの。それで、あれどうしたんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハイヒールはいてるのか、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そして近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上にひもがついていることにね。天井のはりからまっすぐにひもが下っていて――それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、まるで定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは白いブラウス着ていて――そう、ちょうど今私が着てるようなシンプルなの――グレーのスカートはいて、足の先がバレエの爪立てみたいにキュッとのびていて、床と足の指先のあいだに二十センチくらいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと細かに全部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行かなかったのよ。私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃと思ったわ。でも体の方が言うことをきかないのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下にいかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外そうとしているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで五、六分ぼおっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さんが『何してるのよ?』って見に来るまで、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷たいところに……」
直子は首を振った。
「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せた。「手紙に書いたでしょ?私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」
「僕は望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。
「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」
「僕は何も無駄になんかしてない」
「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの?十年も二十年も私を待つことができるの?」