「君は怯えすぎてるんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢うやら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」
「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。
「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?」と僕は言った。「そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコさんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあげられる」
直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら素敵でしょうね」と直子は言った。
我々がコーヒー?ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の端っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。
「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすれきれるくらい聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」
僕と直子は熱いコーヒーを注文した。
「お話はできた?」とレイコさんは直子に訊ねた。
「ええ、すごくたくさん」と直子は言った。
「あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか」
「そんなこと何もしてないわよ」と直子が赤くなって言った。
「本当に何もしてないの?」とレイコさんは僕に訊いた。
「してませんよ」
「つまんないわねえ」とレイコさんはつまらなそうに言った。
「そうですね」と僕はコーヒーをすすりながら言った。
夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つきも昨日そのままで、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泌について話していた白衣の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと話していた。僕らは大豆のハンバーグ?ステーキというのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされていた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用紙にボールペンで脳の絵を描いてくれた。そして何度も「いやちょっと違うな、これ」と言っては描きなおした。そして描き終わると大事そうにメモ用紙を白衣のポケットにしまい、ボールペンを胸のポケットにさした。胸のポケットにはボールペンが三本と鉛筆と定規が入っていた。そして食べ終ると「ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっしゃい」と昨日と同じことを言って去っていた。
「あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか?」と僕はレイコさんに訊いてみた。
「どっちだと思う?」
「どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともには見えないけど」
「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。
「でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいいけど」とレイコさんが言った。
「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」と直子が言った。
「うん、あの人狂ってる」とレイコさんがブロッコリーをフォークでつきさしながら肯いた。
「だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してるもの。それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この人はノイローゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年アルコール中毒がひどくなってやめさせられたし」
「患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言った。
「まったくそのとおり」とレイコさんはフォークをひらひらと振りながら言った。「あなたもだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃない」
「みたいですね」と僕は言った。
「私たちがまとな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってかわっていることよね」
部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレイコさんはまたギターを抱えてバッハの練習をしていた。
「明日は何時に帰るの?」とレイコさんが手を休めて煙草に火をつけながら僕に訊いた。
「朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら夕方のアルバイトをすっぽかさずにすむし」
「残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうですよ」と僕は笑って言った。
「ま、そうね」とレイコさんは言った。それから直子に「そうだ、岡さんのところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた」と言った。
「一緒に行きましょうか?」と直子が言った。
「なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら?」
「いいわよ」
「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレイコさんは僕の手をとって言った。「昨日はもう少しってとこまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね」
「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。
風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブルーのカーディガンを着て両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空を見上げ、犬みたいにくんくんと匂いを嗅いだ。そして「雨の匂いがするわね」と言った。僕も同じように匂いを嗅いでみたが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしまっていた。
「ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ」とレイコさんは言った。
スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててくれと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性が出てきてレイコさんと立ち話をし、クスクス笑いそれから中に入って今度は大きなビニール袋を持って出てきた。レイコさんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻ってきた。
「ほら葡萄もらってきたわよ」とレイコさんはビニール袋の中を見せてくれた。袋の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。
「葡萄好き?」
「好きですよ」と僕は言った。
彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。「それ洗ってあるから食べられるわよ」
僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい味の葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。
「あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげているの。そのお礼がわりにいろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワインもそうだし。市内でちょっとした買物もしてきてもらえるしね」
「昨日の話のつづきが聞きたいですね」と僕は言った。
「いいわよ」とレイコさんは言った。「でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの仲を疑いはじめるんじゃないかしら?」
「たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね」
「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷えるから」
彼女はテニス?コートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。「入りなさいよ。何もないところだけれど」
倉庫の中にはクロス?カントリー用のスキー板とストックと靴がきちんと揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。
「昔はよくここにきてギターの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんまりしていいところでしょう?」
レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言われたとおりにした。
「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」
「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。
「やめられないのよね、これだけは」とレイコさんは顔をしかめながら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリキ缶に捨てた。
「昨日はどこまで話したっけ?」とレイコさんは言った。
「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と僕は言った。
「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんはあきれたように言った。「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、たしか」
「そうです」
「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私はたぶん前の方に入ると思うの」とレイコさんは言った。「若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ」
「そう思います」と僕は同意した。
「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にアルバイトで何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなかったわ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンはうまくいったの。
昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノはたいしたことないし、音楽の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計のんびりやれたわけよ。それに彼女の通っていた学校はまずまずの成績をとっていれば大学までエスカレート式に上っていける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかったからお母さんの方だって『のんびりとおけいこ事でもして』ってなものよ。だから私もその子にああしろこうしろって押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分のやりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分の好きなように弾かせるの。百パーセント好きなように。次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」
レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食べつづけていた。
「私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上だったわね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきちんとした訓練受けてたら良いところまでいってたのになあってね。でもそれは違うのよ。結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最初はとにかくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見でパァーッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけなのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行けないか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スボイルされているのね。下手に才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれてみんなが凄い凄いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えちゃうのね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、すると先生の方もこの子はできるからって次に行かせちゃう、それもまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行く。そして叩かれるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっことしていってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったんだけれど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度ですんでるのよ。
でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能のスポーツ?カーに乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素速く反応するのよ。いささか素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどまって考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ」
レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮めるようにふうっと深呼吸をした。
「レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がジャズ?ピアノの真似事して教えてあげたりしてね。こういうのがバド?バウエル、こういうのがセロニスア?モンクなんてね。でもだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手くてね、ついつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部分は作りごとだったと思うんだけれど、それにしても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユーモアがあって、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが実に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知っているから、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせたり、悲しませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。それも自分の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろんそういうのもあとになってからそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからないの」
レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。
「病気なのよ」とレイコさんは言った。「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンコがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。そしてその彼女の病気はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だから考えようによっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者にならなかったとしたらそう思ったわ。この子も犠牲者の一人なんだってね」
そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのかと考えているように見えた。
「まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあったし、なんだかちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をしていて、彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いったい何を本当は考えているのかしらと思ったこともあったわ。でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに私は一介のビアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいいことでしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでオーケーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。
ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてたの、私。なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。だから彼女が私のことについていろいろ質問しても――ものすごく知りたがったんだけど――あたりさわりのないことしか教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただの、まあその程度のことよね。先生のこともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方ないわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追われて、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られるとね、私もドキッとしちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。それでも必要以上のことは教えなかったけれどね。
あれは五月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然気分がわるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。それで私、どうする、家に帰る?って訊ねたら、少し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を殆んど抱きかかえるようにして私の寝室につれていったの。うちのソファーってすごく小さかったから、寝室に寝かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言ったわ。どうする、お水か何か飲む?って。いいの、となりにしばらくいてもらえればってその子は言って、いいわよ、となりにいるくらいいくらでもいてあげるからって私言ったの。
少しするとね『すみません、少し背中をさすっていただけませんか』ってその子が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さすってやったの、すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたシャツ着てたもんだから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の二倍はあったわね。ブラジャーもね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人用の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもいいことじゃない?私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってその子本当に申しわけないって声で言った、そのたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ」
レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には葡萄を食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。
「そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。
『ねえ、どうしたの?』って私言ったわ。
『なんでもないんです』
『なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ』
『時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。淋しくって、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こうなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところにくるのだけが楽しみなんです、私』
『ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』
家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することができないし両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておいおい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰るのが辛いんだったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして『本当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って言うのよ。
仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。その頃にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、私だんだん変な気になってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。だってさ、絵から切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱きあっていて、その子が私の背中を撫でまわしていて、その撫で方たるやものすごく官能的なんだもの。亭主なんてもう足もとにも及ばないくらいなの。ひと撫でされるごとに体のたがが少しずつ外れていくのがわかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら彼女私のブラウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。それで私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだって。私前にも一度やられたことあるの、高校のとき、上級の女の子に。それで私、駄目、よしなさいって言ったの。
『お願い、少しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。本当に淋しいの。先生しかいないんです。見捨てないで』そしてその子、私の手をとって自分の胸にあてたの。すごく形の良いおっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃうみたいなの。女の私ですらよ。私、どうしていいかわかんなくてね、駄目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みたいに言いつづけるだけなの。どういうわけか体が全然動かないのよ。高校のときはうまくはねのけることができたのに、そのときは全然駄目だったわ。体がいうこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自分の胸に押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カーテンを閉めた寝室で十三歳の女の子に裸同然にされて――その頃はもうんなんだかわからないうちに一枚一枚服を脱がされてたの――愛撫されて悶えてるんなんて今思うと信じられないわよ。馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだったの。その子は私の乳首を吸いながら『淋しいの。先生しかしないの。捨てないで。本当に淋しいの』って言いつづけて、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけてね」
レイコさんは話をやめて煙草をふかした。
「ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ」とレイコさんは僕の顔を見て言った。「あなたには話した方がいいと思うから話してるけれど、私だってすごく恥かしいのよ、これ」
「すみません」と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかった。
「そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。そして下着の上からあそこ触ったの。その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。お恥かしい話だけれど。あんなに濡れたのはあとにも先にもはじめてだったわね。どちらかいうと、私は自分がそれまで性的に淡白な方だと思ってたの。だからそんな風になって、自分でもいささか茫然としちゃったのよ。それから下着の中に彼女の細くてやわらかな指が入ってきて、それで……ねえ、わかるでしょ、だいたい?そんなこと私の口から言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつごつした指でやられるのと全然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽毛でくすぐられてるみたいで。私もう頭のヒューズがとんじゃいそうだったわ。でもね、私、ボォッとした頭の中でこんなことしてちゃ駄目だと思ったの。一度こんなことやったら延々とこれをやりつづけることになるし、そんな秘密も抱えこんだら私の頭はまだこんがらがるに決まっているんだもの。そして子供のことを考えたの。子供にこんなところ見られたらどうしようってね。子供は土曜日は三時くらいまで私の実家に遊びに行くことになっていたんだけれど、もし何かがあって急にうちに帰ってきたりしたらどうしようってね。そう思ったの。それで私、全身の力をふりしぼって起きあがって『止めて、お願い!』って叫んだの。
でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてクンニリングスしてたの。私、恥かしいから主人さえ殆んどそういうのさせなかったのに、十三歳の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃうわよ。私、泣けちゃうわよ。それがまた天国にのぼったみたいにすごいんだもの。
『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いきり。それで彼女やっとやめたわ。そして体起こしてじっと私を見た。私たちそのとき二人ともまるっきりの裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いじっと見つめあったわけ。その子は十三で、私は三十一で……でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒されちゃったわね。今でもありありと覚えているわよ。あれが十三の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかったし、今でも信じられないわよ。あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい泣き出したいくらいみっともない代物だったわ。本当よ」
なんとも言いようがないので僕は黙っていた。
「ねえどうしてよってその子は言ったわ。『先生もこれ好きでしょ?私最初から知ってたのよ。好きでしょ?わかるのよ、そういうの。男の人とやるよりずっといいでしょ?だってこんな濡れてるじゃない。私、もっともっと良くしてあげられるわよ。本当よ。体が溶けちゃうくらい良くしてあげられるのよ。いいでしょ、ね?』でもね、本当にその子の言うとおりなのよ。本当に。主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、もっとしてほしかったのよ。でもそうするわけにはいかないのよ。『私たち週一回これやりましょうよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私だけの秘密にしましょうね?』って彼女は言ったわ。
でも私、立ち上がってバスローブ羽織って、もう帰ってくれ、もう二度とうちに来ないでくれって言ったの。その子、私のことじっと見てたわ。その目がね、いつもと違ってすごく平板なの。まるでボール紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。奥行きがなくて。しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめて、まるで見せつけるみたいにゆっくりとひとつひとつそれを身につけて、それからピアノのある居間に戻って、バッグからヘア?ブラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、靴をはいて出ていったの。出がけにこう言ったわ。『あなたレズビアンなのよ、本当よ。どれだけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ』ってね」
「本当にそうなんですか?」と僕は訊いてみた。
レイコさんは唇を曲げてしばらく考えていた。「イエスでもあり、ノオでもあるわね。主人とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。これは事実ね。だから一時は自分でも私はレズビアンんなんじゃないか、やはり真剣に悩んだわよ。これまでそれ気づかなかっただけなんだってね。でも最近はそう思わないわ。もちろんそういう傾向が私の中にないとは言わないわよ。女の子を見て積極的に欲情するということはないからね。わかる?」
僕は肯いた。
「ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだけなのよ。そういう場合に限って私はそうなっちゃうのよ。だからたとえば直子を抱いたって、私とくに何も感じないわよ。私たち暑いときなんか部屋の中では殆んど裸同然で暮らしてるし、お風呂だって一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし……でも何もないわよ。何も感じないわよ。あの子の体だってすごくきれいだけど、でもね、べつにそれだけよ。ねえ、私たち一度レズごっとしたことあるのよ。直子と私とで。こんな話聞きたくない?」
「話して下さい」
「私がこの話をあの子にしたとき――私たちなんでも話すのよ――直子がためしに私を撫でてくれたの、いろいろと。二人で裸になってね。でも駄目よ、ぜんぜん。くすぐったくてくすぐったくて、もう死にそうだったわ。今思い出してもムズムズするわよ。そういうのってあの子本当に不器用なんだから。どう少しホッとした?」
「そうですね、正直言って」と僕は言った。
「まあ、そういうことよ、だいたい」とレイコさんは小指の先で眉のあたりを掻きながら言った。
「その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座ってボォッとしていたの。どうしていいかよくわかんなくて。体のずうっと奥の方から心臓の鼓動がコトッコトッて鈍い音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさして。でも子供が帰ってくるからとにかくお風呂に入ろうと思って入ったの。そしてあの子に撫でられたり舐められたりした体をとにかくきれいに洗っちゃおうって思ったの。でもね、どれだけ石鹸でごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ちないのよ。たぶんそんなの気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に抱いてもらったの。その穢れおとしみたいな感じでね。もちろん彼にはそんなことなにも言わなかったわよ。とてもじゃないけど言えないわよ。ただ抱いてって言って、やってもらっただけ。ねえ、いつもより時間かけてゆっくりやってねって言って。彼すごく丁寧にやってくれたわ。たっぷり時間かけて。私それでバッチリいっちゃったわよ、ピューッて。あんなにすごくいっちゃったの結婚してはじめてだったわ。どうしてだと思う?あの子の指の感触が私の体に残ってたからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわねえ、こういう話。汗が出ちゃうわ。やってくれたとかいっちゃったとか」レイコさんはまた唇を曲げて笑った。「でもね、それでもまだ駄目だったわ。二日たっても三日たっても残っているのよ、その女の子の感触が。そして彼女の最後の科白が頭の中でこだまみたいにわんわんと鳴りひびいているのよ」
「翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようかなあって、私どきどきしながら家にいたの。何も手につかなくて。でも来なかったわ。まあ来ないわよね。プライドの高い子だし、あんな風になっちゃったわけだから。そして翌週も、また次の週も来なくって、一ヶ月が経ったのよ。時間がたてばそんなことも忘れちゃうだろうと私は思ってたんだけど、でもうまく忘れられなかったの。一人で家の中にいるとね、なんだかその女の子の気配がまわりにふっと感じられて落ち着かないのよ。ピアノも弾けないし、考えることもできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。それでそういう風に一ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何か変なのよね。近所の人が妙に私のことを意識してるのよ。私を見る目がなんだかこう変な感じで、よそよそしいのよ。もちろんあいさつくらいはするんだけれど、声の調子も応待もこれまでとは違うのよ。ときどきうちに遊びに来ていた隣りの奥さんもどうも私を避けてるみたいなのね。でも私はなるべくそういうの気にすまいとしてたの。そういうのを気にし出すのって病気の初期徴候だから。
ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だし、私の母の知り合いの娘さんだし、子供の幼稚園が一緒だったんで、私たちわりに親しかったのよ。その奥さんが突然やってきて、あなたについてひどい噂が広まっているけれど知っているかって言うの。知らないわって私言ったわ。
『どんなのよ?』
『どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ』
『言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃいよ』
それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。まあ本人だってはじめてしゃべりたくって来てるんだもの、何のかんの言ったってしゃべるわよ。そして、彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、どうして私が入院していたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしちゃったわね。
『私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないってみんなに言ったのよ』ってその人は言ったわ。『でもね、その女の子の親はそう信じこんでいて、近所の人みんなにそのこと言いふらしてるのよ。娘があなたにいたずらされたっていうんで、あなたのこと調べてみたら精神病の病歴があることがわかったってね』
彼女の話によるとあの日――つまりあの事件の日よね――その子が泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問いただしたらしいのよ。顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラウスのボタンがとれて、下着も少し破れていたんですって。ねえ、信じられる?もちろん話をでっちあげるためにあの子自分で全部それやったのよ。ブラウスにわざと血をつけて、ボタンちぎって、ブラジャーのレースを破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それで家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そういうのありありと目に浮かぶわよ。
でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいかないわよ。私だって信じたと思うもの、もしそういう立場に置かれたら。お人形みたいにきれいで悪魔みたいに口のうまい女の子がくしくし泣きながら『嫌よ。私、何も言いたくない。恥かしいわ』なんて言ってうちあけ話したら、そりゃみんなコロッと信じちゃうわよ。おまけに具合のわるいことに、私に精神病院の入院歴があるっていうのは本当じゃない。その子の顔を思いきり打ったっていうのも本当じゃない。となるといったい誰が私の言うことを信じてくれる?信じてくれるのは夫くらいのものよ。
何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、彼は信じてくれたわよ、もちろん。私、あの日に起ったことを全部彼に話したの。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまで言わなかったわよ。それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。『冗談じゃない。俺がそこの家に言って直談判してきてやる』って彼はすごく怒って言ったわ。『だって君は僕と結婚して子供までいるんだぜ。なんでレズビアンなんて言われなきゃならないんだよ。そんなふざけた話あるものか』って。
でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そんなことしたって私たちの傷が深くなるだけだからって言ってね。そうなのよ、私にはわかっていたのよ、もう。あの子の心が病んでいるだっていうことがね。私もそういう病んだ人たちをたくさん見てきたからよくわかるの。あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。こういう言い方ってひどいかもしれないけど、本当にそうなのよ。でもそれは世の中の人にはまずわからないし、どん転んだって私たちには勝ち目はないのよ。その子は大人の感情をあやつることに長けているし、我々の手には何の好材料もないのよ。だいたい十三の女の子が三十すぎの女に同性愛をしかけるなんてどこの誰が信じてくれるのよ?何を言ったところで、世間の人って自分の信じたいことしか信じないんだもの。もがけばもがくほど私たちの立場はもっとひどくなっていくだけなのよ。