引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここにいたら緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわよ。今だって私相当フラフラなのよ。とにかく誰も知っている人のいない遠いところに移りましょうって。でも夫は動きだがらなかったわ。あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。彼は会社の仕事が面白くて仕方なかった時期だったし、小さな建売住宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだったし、娘も幼稚園に馴染んでいたし。おいちょっと待てよ、そんなに急に動けるわけないだろうって彼は言った。仕事だっておいそれとみつけることはできないし、家だって売らなきゃならないし、子供の幼稚園だってみつけなきゃならないし、どんなに急いだって二ヶ月はかかるよってね。
駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つくわよ、って私言ったわ。脅しじゃなくてこれ本当よって。私には自分でそれがわかるのよって。私その頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠とかがもう少しずつ始まってたんですもの。じゃあ君、先に一人でどこかに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからって彼は言ったわ。
『嫌よ』って私は言ったの。『一人でなんかどこにも行きたくないわ。今あなたと離ればなれになったら私バラバラになっちゃうわよ。私は今あなたを求めているのよ。一人なんかしないで』
彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我慢してくれって言ったの。一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあいだ僕は何もかもちゃんと手配する。仕事の整理もする、家も売る、子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつける。うまく行けばオーストラリアに仕事の口があるかもしれない。だから一ヶ月だけ待ってくれ。そうすれば何もかもうまくいくからってね。そう言われると私、それ以上何も言えなかったわ。だって何か言おうとすればするほど私だんだん孤独になっていくんですもの」
レイコさんはため息をついて天井の電灯を見あげた。
「でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃって、ボンッ!よ。今回はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねったの。でも死ねなくて、気づいたら病院のベッドよ。それでおしまい。何ヶ月かたって少し落ち着いて物が考えられるようになった頃に、離婚してくれって夫に言ったの。それがあなたのためにも娘のためにもいちばんいいのよって。離婚するつもりはない、って彼は言ったわ。
『もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそうよ』って。
『もう遅いの』って私は言ったわ。『あのときに全部終っちゃったのよ。一ヶ月待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなことを要求してあなたを苦しめることになるし、私もうそういうことしたくないのよ』
そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚したの。彼は二年前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわよ。本当よ。その頃には自分の一生がずっとこんな具合だろうってことがわかっていたし、そういうのにもう誰をもまきこみたくなかった。いつ頭のたがが外れるかってびくびくしながら暮すような生活を誰にも押しつけたくなかったの。
彼は私にとても良くしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人だし、力強いし辛棒強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私を癒そうと精いっぱい努力したし、私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたんだと思ってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九パーセントまで完璧にやってたのよ。でも一パーセントが、たったの一パーセントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。それで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまって、まったくのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね」
レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキの缶の中に入れた。
「ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをちょっとずつちょっとずつ積みあげていったのにね。崩れるときって、本当にあっという間なのよ。あっという間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ」
レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこんだ。「部屋に戻りましょう。もう遅いし」
空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしまっていた。今では雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。
「だから私なかなかここを出られないのよ」とレイコさんは言った。「ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いのよ」
「気持はよくわかりますよ」と僕は言った。「でもあなたにはできると僕は思いますよ、外に出てきちんとやっていくことが」
レイコさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。
*
直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押えながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつと雨が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわりにちらちらと漂っていた。レイコさんとずっと二人で話したあとで直子を見ると、彼女はなんて若いんだろうと僕はあらためて認識した。
「遅くなってごめんね」とレイコさんが直子の頭を撫でた。
「二人で楽しかった?」と直子が顔を上げて言った。
「もちろん」とレイコさんは答えた。
「どんなことしてたの、二人で?」と直子が僕に訊いた。
「口では言えないようなこと」と僕は言った。
直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を食べた。
「こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がするわね」と直子が言った。「ずっと雨が降ったら、私たち三人ずっとこうしてられるのに」
「そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない黒人奴隷みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだり、ギターでBGMつけたりするでしょ?嫌よ、そんなの」とレイコさんは言った。
「あら、ときどき貸してあげるわよ」と直子が笑って言った。
「まあ、それなら悪くないわね」とレイコさんは言った。「雨よ降れ」
雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレイコさんは例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギターを出して弾いた。『デサフィナード』と『イバネマの娘』を弾き、それからバカラックの曲やレノン=マッカートニーの曲を弾いた。僕とレイコさんは二人でまたワインを飲み、ワインがなくなると水筒に残っていたブランディーをわけあって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。このままずっと雨が降りつづけばいいのにと僕も思った。
「またいつか会いに来てくれるの?」と直子が僕の顔を見て言った。
「もちろん来るよ」と僕は言った。
「手紙も書いてくれる?」
「毎週書くよ」
「私にも少し書いてくれる?」とレイコさんが言った。
「いいですよ。書きます、喜んで」と僕は言った。
十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファーを倒してベッドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯を消し、眠りについた。僕はうまく眠れなかったのでナップザックの中から懐中電灯と『魔の山』を出してずっと読んでいた。十二時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんやりとしていなかったし、動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて「眠れないのよ、なんだか」と小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置いて懐中電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。闇と雨音がやわらかく僕らをくるんでいた。
「レイコさんは?」
「大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直子が言った。
「本当にまた会いに来てくれるの?」
「来るよ」
「あなたに何もしてあげられなくても?」
僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風にやさしく抱き合ったあとで、直子は僕の額にそっと口づけし、するりとベッドから出て行った。直子の淡いブルーのガウンが闇の中でまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。
「さよなら」と直子が小さな声で言った。
そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。
雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、目に見えないくらいの細い秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雨だれの音で雨が降っていることがやっとわかるくらいだった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていたが、太陽が上るにつれて霧は風に流され、雑木林や山の稜線が少しずつ姿をあらわした。
昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世話をしに行った。直子とレイコさんはフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着ていた。僕はセーターの上に防水のウィインド?ブレーカーを着た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥たちも雨を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄せてあっていた。
「寒いですね、雨が降ると」と僕はレイコさんに言った。
「雨が降るごとに少しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変るのよ」と彼女は言った。「日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと雪を落として向うに抜けていくの」
「鳥たちは冬はどうするんですか?」
「もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍りついた鳥を雪の下から掘り返して解凍して生き返らせて『はい、みんな、ごはんよ』なんていうわけにもいかないでしょう?」
僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせて<クソタレ><アリガト><キチガイ>と叫んだ。
「あれ冷凍しちゃいたいわね」と直子が憂鬱そうに言った。「毎朝あれ聞かされると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ」
鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。彼女たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、テニス?コートの少し先で別れた。彼女たちは道の右に折れ、僕はまっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは言い、さよならと僕は言った。また会いに来るよ、と僕は言った。直子は微笑んで、それから角を曲って消えていった。
門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たちが着ていたのと同じ黄色い雨合羽を着て、頭にはすっぽりとフードをかぶっていた。雨のおかげてあらゆるものの色がくっきりとして見えた。地面は黒々として、松の枝は鮮やかな緑色で、黄色の雨合羽に身を包んだ人々は雨の朝にだけ地表をさまようことを許された特殊な魂のように見えた。彼らは農具や籠や何かの袋を持って、音もなくそっと地表を移動していた。
門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リストの僕の名前のところにしるしをつけた。
「東京からおみえになったんですな」とその老人は僕の住所を見て言った。「私も一度だけあそこに行ったことありますが、あれは豚肉のうまいところですな」
「そうですか?」と僕はよくわからないまま適当に返事をした。
「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけはうまかったですわ。あれはこう、何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょな」
それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなんて話を聞いたのもはじめてだった。「それはいつの話ですか?東京に行かれたというのは?」と僕は訊いてみた。
「いつでしたかなあ」と老人は首をひねった。「皇太子殿下の御成婚の頃でしたかな。息子が東京におって一回くらい来いというから行ったんですわ。そのときに」
「じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言った。
「昨今はどうですか?」
よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことはないと僕は答えた。僕がそう言うと、彼は少しがっかりしたみたいだった。老人はもっと話していたそうだったけれど、バスの時間があるからと言って僕は話を切り上げ、道路に向って歩きはじめた。川沿いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残り、それは風に吹かれて山の斜面を彷徨していた。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀しい気持になった。
寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着がえてアルバイト先の新宿のレコード屋にでかけた。そして六時から十時半まで店番をしてレコードを売った。店の外を雑多な種類の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めていた。家族づれやらカップルやら酔払いやらヤクザやら、短いスカートをはいた元気な女の子やら、ヒッピー風の髭を生やした男やら、クラブのホステスやら、その他わけのわからない種類の人々やら次から次へと通りを歩いて行った。ハードロックをかけるとヒッピーやらフーテンが店の前に何人か集って踊ったり、シンナーを吸ったり、ただ何をするともなく座りこんだりした。トニー?ベネットのレコードをかけると彼らはどこかに消えていった。
店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム?センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ?ゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリング?ストーンズの『ジャンピン?ジャック?フラッシェ』をかけてくれないかと言った。僕はレコードを持って来てかけてやると、彼女は指を鳴らしてリズムをとり、腰を振って踊った。そして煙草はないかと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラークを一本やった。女の子はうまそうにそれを吸い、レコードが終るとありがとうも言わずに出ていった。十五分おきに救急車だかパトカーだかのサイレンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れのサラリーマンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向って何度もオマンコと叫んで笑いあっていた。
そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱し、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。
店長が食事から戻ってきて、おい、ワタナベ、おとといあそこのブティックの女と一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティックにつとめるその女の子に前から目をつけていて、店のレコードをときどき持ちだしてはプレゼントしていたのだ。そりゃ良かったですね、と僕が言うと、彼は一部始終をこと細かに話してくれた。女とやりたかったらだな、と彼は得意そうに教えてくれた、とにかくものをプレゼントして、そのあとでとにかくどんどん酒を飲ませて酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃあとはもうやるだけよ。簡単だろ?
僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のカーテンを閉めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が隣りにもぐりこんでくるじゃないかという気がした。目を閉じるとその乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手で体の線を感じとることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子のあの小さな世界へ戻って行った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のことを思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕は勃起したベニスを握り、直子のことを考えながら射精した。射精してしまうと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだったが、それでもなかなか眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、どうしても眠ることができないのだ。
僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めていた。旗のついていない白いボールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨のように見えた。直子は今頃どうしているだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が辛い夢を見ることがないように僕は祈った。
七
翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メートル?プールを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたし、食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べものをするために文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。
「どこに行くの?」と彼女が僕に訊いた。
「図書室」と僕は言った。
「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」
「さっき食べたよ」
「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」
結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレーを食べ、僕はコーヒーを飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のチョッキを着て、金の細いネックレスをかけ、ディズニー?ワォッチをつけていた。そして実においしいそうにカレーを食べ、水を三杯飲んだ。
「ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話したのよ」と緑は言った。
「何か用事でもあったの?」
「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」
「ふうむ」と僕は言った。
「『ふうむ』って何よいったい、それ?」
「別に何でもないよ、ただのあいづちだよ」と僕は言った。「どう、最近火事は起きてない?」
「うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、そのわりに煙がいっばい出てリアリティーがあったし、ああいうのいいわよ」緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。「ねえ、ワタナベ君、どうしたの?あなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし」
「旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない」
「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」
「ふうむ」と僕は言った。
「ねえワタナベ君、午後の授業あるの?」
「ドイツ語と宗教学」
「それすっぼかせない?」
「ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある」
「それ何時に終わる?」
「二時」
「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?」
「昼の二時から?」と僕は訊いた。
「たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているし、私と一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。ね、いいでしょう?」
「いいよ、じゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。「二時に文学部の中庭で待っているよ」
ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出て、紀伊国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってワォッカ?トニックを二杯ずつ飲んだ。
「ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女は言った。
「そんなにお昼から飲んでるの?」
「たまによ」と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。「たまに世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ?トニック飲むのよ」
「世の中が辛いの?」
「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」
「たとえばどんなこと?」
「家のこと、恋人のこと、生理不順のことーーいろいろよね」
「もう一杯飲めば?」
「もちろんよ」
僕は手をあげてウェイターを呼び、ウォッカ?トニックを二杯注文した。
「ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう」と緑は言った。「いろいろと考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」
「それはよかった」
「『それはよかった』」とまた緑はくりかえした。「あなたって本当に変ったしゃべり方するわよねえ」
「そうかなあ」と僕は言った。
「それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の順番を組みかえることができたとしたら、あれをファースト?キスにするわね、絶対。そして残りの人生をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう?五十八歳になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わない」
「素敵だろうね」と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。
「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」と僕は少し考えてから言った。「ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思える」
緑はカウンターに片肘をついて僕の顔を見つめた。「ジム?モリソンの歌にたしかそういうのあったわよね」
「People are strange when you are a stranger」
「ピース」と緑は言った。
「ピース」と僕も言った。
「私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ」と緑はカンタンーに片肘をついたまま言った
「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」
「それも悪くないな」と僕は笑って言った。
「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴らしいと思わない?私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だからもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわって」
僕は笑って三杯めのウォッカ?トニックを飲み干した。
「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?」と緑は言った。
「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。
「いいのよべつに、欲しくなくだって」緑はピスタチオを食べながら言った。「私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ」
「まあそうかもしれないな」
「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったって、世界はロバのウンコよ。ねえ、この固いのあげる」緑は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。
「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこうだってね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ」
「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」
「じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつけてくる?他の人たちと同じように」
「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」
「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ知ってる?世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやってるのよ」
「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は?」
緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。
「私のこともっと知りたい?」
「興味はあるね、いささか」
「ねえ、私は『私のこともっと知りたい?』って質問したのよ。そんな答えっていくらなんでもひどいと思わない?」
「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。
「本当に?」
「本当に」
「目をそむけたくなっても?」
「そんなにひどいの?」
「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。「もう一杯ほしい」
僕はウェイターを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はカウタンーに頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス?モンクの弾く「ハニサックル?ローズ」を聴いていた。店の中には他に五、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。
「今度の日曜日、あなた暇?」と緑が僕に訊いた。
「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からのアルバイトを別にすればね」
「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?」
「いいよ」
「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからないけど。かまわない?」
「どうぞ。かまわないよ。」と僕は言った。
「ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?」
「さあね、想像もつかないね」
「広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず」と緑は言った。「すごく気持がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、となりにはあなたが寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいに、そっと」
「ふむ」と僕は言った。
「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我に返って『だめよ、ワタナベ君!』って叫ぶの。『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人人がいるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」
「やめるよ、僕は」
「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言った。「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、『駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」
「そんなに大きくないよ。普通だよ」
「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」
「それがつまり君が今やりたいことなの?」
「そうよ」
「やれやれ」と僕は言った。
全部で五杯ずつウォッカ?トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円札をだして勘定を払った。
「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言った。「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら話はべつだけど」
「いや、そうは思わないけど」
「それに入れさせてもあげなかったし」
「固くて大きいから」と僕は言った。
「そう」と緑は言った。「固くて大きいから」
緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいといったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。
「残念だわ、私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。
緑と二人でウィンドウ?ジョッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。
「君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。
緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ?」
「たしかに」と僕は言った。
五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送り、そこで別れた。
「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訪ねた。
「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。
「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」
「なんでそんなことするの?」
「変質的な海賊なのよ、それ」
「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。
「そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの」
「それで?」
「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」
「それが君のいちばんやりたいことなの?」
「そう」
「やれやれ」と僕は首を振った。
日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタナベ、女が来てるぞ!とどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのスカートをはいてロビーの椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。
「早すぎたかしら、私?」と緑は言った。「ワタナベ君、今起きたばかりみたいじゃない」
「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれる?」と僕は言った。
「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」
「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるだもの。見るにきまってるよ、みんな」
「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵なレース飾りがついてるの。ひらひらっと」
「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブルーのボタン?ダウン?シャツの上にグレーのツイードの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。
「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけ?シコシコって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
「たぶんね」
「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」
「まあそうだろね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃないかな」
「スエズ運河」
「たとえば、だよ」
「つまり特定の女の子のことを考えるのね?」
「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの?」と僕は言った。「どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ?」
「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」