饭饭TXT > 海外名作 > 《ノルウェイの森/挪威的森林(日文版)》作者:[日]村上春树【完结】 > 挪威的森林 (日文版).txt

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作者:日-村上春树 当前章节:15480 字 更新时间:2026-6-15 22:18

「まあまともな考えだね」

「でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスターべーションするとき特定の女の子のこと考えるの?」

「考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあきらめて答えた。

「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒らないから」

「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。

「どうして?私が魅力的じゃないから?」

「違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」

「じゃあどうして私のこと考えないの?」

「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことにまきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」

「他に想い浮かべるべき人がいるから」

「まあそういうことだよね」と僕は言った。

「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。「私、あなたのそういうところ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスターベーションするときちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むのよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか」

僕はため息をついた。

「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れなければあとは何してもいいわよ、何考えても」

「どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」と僕は言った。

「考えておいてくれる?」

「考えておくよ」

「あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ?男の人が何を考えて、その体のしくみがどうなってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃなくて、いわばケース?スタディーとして」

「ケース?スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。

「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不機嫌になったり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言うのよ。フェラチオだってなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」

「ふむ」と僕は言った。

「あなたフェラチオされるの嫌?」

「嫌じゃないよ、べつに」

「どちらかというと好き?」

「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。「でもその話また今度にしない?今日はとても気持の良い日曜の朝だし、マスターベーションとフェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人?」

「ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラブ活動で知りあったの。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう?合同コンサートとか、そういうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワタナベ君?」

「うん?」

「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」

「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。

我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォームを着た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。緑はときどききゅっきゅっとスカートの裾をひっばって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。

「ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。

「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、電車の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」

「残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。

「ところでお茶の水に何があるの?」

「まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから」

日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダー?バッグのストラップを握り、右手で僕の手をとって、そんな学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。

「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。

「できると思うよ」と僕は言った。

「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」

「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」

緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。「あなたって偉いのね」と彼女は言った。「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。仮定法だの微分だの化学記号だの、そんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視してやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら?」

「無視してやってきた?」

「ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、サイン、コサインだって全然わっかてないのよ」

「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。

「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。「知らないの?勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの」

「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」

「そういうのが何か役に立つのかしら?」

「どうかな」と僕は言った。「まあある種のことはやりやすくなるだろね」

「たとえばどんなことが?」

「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」

「それが何かの役に立つのかしら?」

「それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最初にも言ったように」

「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下りつづけた。「ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね」

「そうかな?」

「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたら、私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」

「ふむ」と僕は言った。

「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。

「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」

「理解できた?」

「理解できるところもあったし、できないところもあった。『資本論』を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれど」

「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっと理解できると思う?」

「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。

「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ベージから何ベージまで読んでこいってね。フォーク?ソングと社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって……なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ページで放りだしちゃたわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない?」

「ふむ」と僕は言った。

「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか?東インド会社と何か関係あるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」

「信じられる」

「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ!私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そうでしょ?」

「そうだね」

「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる?」

「聞くよ」

「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う?小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入っていたし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」

僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの?」

「六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで」と緑は言った。「でもこの大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン?コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」

「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」

「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」

「ありうる」と僕は言った。

「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員って見たことある?」

「ないな」

「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う?」

「きわめて疑わしいね」

「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」

「ピース」と僕は言った。

「ピース」と緑も言った。

「我々は何処に向かっているんだろう、ところで?」と僕は訊いてみた。

「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。私の番なの」

「お父さん?」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったんじゃなかったの?」

「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くだってわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから」

「具合はどうなの?」

「はっきり言って時間の問題ね」

我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。

「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる?二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」

大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。

緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。

その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。

緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。

「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どう、今日は?」

父親はもそもそと唇を動かした。<よくない>と彼は言った。しゃべるというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。<あたま>と彼は言った。

「頭が痛いの?」と緑が訊いた。

<そう>と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。

「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」

はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。

「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませ、果物かフルーツ?ゼリーを食べたくないかと訊いた。<いらない>と父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うと<食べた>と彼は答えた。

ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあって、そこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツ?ゼリーとキウリが三本。

「キウリ?」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよ?まったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよ、私」

「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。

緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかに、キウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃない?なんで病人が生のキウリをかじるのよ?お父さん、キウリ食べたい?」

<いらない>と父親は言った。

緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TVの映りがわるくなって修理を呼んだとか、高井戸のおばさんが二、三日のうち一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対した<うん><うん>と返事をしているだけだった。

「本当に何か食べたくない、お父さん?」

<いらない>と父親は答えた。

「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない?」

「いらない」と僕も答えた。

少しあとで緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファーに座って煙草一本吸った。TV室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。

「ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。

「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」

「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」

「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。

緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。

「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人、悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけど、少くとも根は正直な人だし、お母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけど、でもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」

緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。

「あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一緒にここにいてくれる?」

「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの」

「日曜日はいつも何をしてるの?」

「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」

「ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょ?そのつきあっている人のこと」

「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明できそうにないし」

「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら?」

「どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」

「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」

「ふむ」と僕は言った。

「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコートとかシャルル?ジュールダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?」

「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。

「きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりするのよね。それからほら、変なものを入れさせたり、アクロバートみたいな格好をしたり、そういうところをポラロイド?カメラで撮ったりもするの」

「楽しそうだな」

「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしよう、あんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。『どう、私の体って凄いでしょ?あなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう?感じる?でも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」

「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。

「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私、ポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見にいかない?」

「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」

「本当?すごく楽しみ。SMのやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」

「いいよ」

「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる?」

「さあ見当もつかないね」

「あのね、セックス?シーンになるとんね、まわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。とても可愛いくって」

病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は<ああ>とか<うん>とあいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックしたりしていた。

十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくると、緑は「ねえ先生、どんな具合ですか?」と訊ねた。

「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよな」と医者は言った。「手術の結果はあと二、三日経たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けばうまく行くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」

「また頭開くんじゃないでしょうね?」

「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かいスカートはいてるじゃないか」

「素敵でしょ?」

「でも階段上るときどうするんだ、それ?」と医者が質問した。

「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすくす笑った。

「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」

回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュ?スープとフルーツとやわらかく煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶしてゼリー状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こし、スプーンでスープをすくって飲ませた。父親は五、六口飲んでから顔をそむけるようにして、<いらない>と言った。

「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた」と緑は言った。

父親は<あとで>と言った。

「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしっこはまだ大丈夫?」

<ああ>と父親は答えた。

「ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない?」と緑が言った。

いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだに、緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリーム?コロッケとポテト?サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。

「ワタナベ君、あまりおなかすいてないの?」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。

「うん、あまりね」と僕は言った。

「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんなそうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦痛、疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」

「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。

「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、するとみんなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺロッと食べちゃうと『ミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ』って言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見て『ミドリちゃんは元気でいいわねえ』だもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしくみってものがわかんないかしら、あの人たち?口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。なおる見こみもないのに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわして、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭がだんだんおかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見ててごらんなさいよ、たまらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏しくなってくるし、私だってあと三年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだってこんな状態じゃ結婚式だってあげられないし」

「君は週に何日くらいここに来てるの?」と僕は訊いてみた。

「四日くらいね」と緑は言った。「ここは一応完全看護がたてまえなんだけれど実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人たち本当によくやってくれるわよ、でも数は足りないし、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどしても家族がつかざるを得ないのよ、

ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあいまをぬって私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来て、私が四日くらい。そしてその寸暇を利用してデートしてるの、私たち。過密なスケジュールよ」

「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?」

「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラスチックの湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。

「二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と僕は言った。「僕がしばらくお父さんのこと見ててやるから」

「どうして?」

「少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかないで頭の中を空

っぽにしてさ」

緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「そうね。そうかもしれないわね。でもあなたやり方わかる?世話のしかた」

「見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ませて、汗を拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その他わからないことは看護婦さんに訊く」

「それだけわかってりゃまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。「ただね、あの人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわからないことを。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね」

「大丈夫だよ」と僕は言った。

病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけになって、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはしなかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕には見当もつかなった。

緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と僕は「演劇史Ⅱ」で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。

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