饭饭TXT > 海外名作 > 《ノルウェイの森/挪威的森林(日文版)》作者:[日]村上春树【完结】 > 挪威的森林 (日文版).txt

第 18 页

作者:日-村上春树 当前章节:15468 字 更新时间:2026-6-15 22:18

「比較的まともなんだよ」と僕は言った。

「ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った?」

「僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になっても苦痛は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし」

「どんな話したの?」

「エウリビデス」

緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんでいる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっといないわよ」

「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。

緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。「お父さん、おやすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょ?もう死んじゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ」

我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてくれた。

「仏壇の前だけど怖くない?」と緑は訊いた。

「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。

「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?」

「いいよ」

僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。

「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。

「どんなこと?」

「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」

「すごく可愛いよ」

「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」

「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。

「すごくってどれくらい?」

「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」

緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」

「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。

「もっと素敵なこと言って」

「君が大好きよ、ミドリ」

「どれくらい好き?」

「春の熊くらい好きだよ」

「春の熊?」と緑はまた頭を上げた。「それ何よ、春の熊って?」

「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」

「すごく素敵」

「それくらい君のことが好きだ」

緑は僕の胸にしっかり抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよね?」

「もちろん」

「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」

「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」

「でも怖いのよ、私」と緑は言った。

僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきものは一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。

しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなものは少なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読むものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマン?ヘッセの『車輪の下』を選び、その分の金をレジスターのわきに置いた。少くともこれで小林書店の在庫は少し減ったことになる。

僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って『車輪の下』を読みつづけた。最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれなかったら、僕は『車輪の下』なんてまず読みかえさなかっただろう。

でも『車輪の下』はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディーが一本あったので、それを少しコーヒー?カップに注いで飲んだ。ブラディーは体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。

三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。

ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコートが椅子の背にかけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌーピーのカレンダーがかかっていた。僕は窓のカーテンを少し開けて、人気のない商店街を見下ろした。どの店もシャッターを閉ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブラディーをもう一杯飲み、そして『車輪の下』を読みつづけた。

その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかしてインスタント?コーヒーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙を書いた。ブラディーをいくらかもらった、『車輪の下』を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、と僕は書いた。そして少し迷ってから、「眠っているときの君はとても可愛い」と書いた。それから僕はコーヒー?カップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシャッターを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の部屋の淡いピンクのカーテンのかかった窓を少し見上げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。

「コーヒーでも飲むか?」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。

僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙にはあった。

「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさんとよくあなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レイコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いものです。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。

ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みます。そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽のひとつとして――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽しみにしています。

私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができないのです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。

ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言ったら、『あたり前じゃない、私だってワタナベ君のこと好きよ』ということでした。私たちは毎日キノコをとったり栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけています。鳥もウサギも元気です。さよなら」

僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られてきた。中には葡萄色の丸首のセーターと手紙が入っていた。

「お誕生日おめでとう」と直子は書いていた。「あなたの二十歳が幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。このセーターは私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレンタイン?デーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で」

レイコさんからの短いメッセージも入っていた。

「元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにセーターは仕上げました。どう、素敵でしょう?色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう」

一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。

時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。ジョン?コルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。

僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバイトをし、時折『グレート?ギャツピイ』を読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに2DKのアパートを借りて二人で住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパートを借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパートで、緑も小林書店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。

永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。

僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。

大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス?カントリー?スキーをした。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食のテーブルにやってきて「どうして手の中指は人さし指より長く、足の方は逆なのか」について教えてくれた。門番の大村さんはまた東京の豚肉の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていたレコードをとても喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてギターで弾いた。

秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口をきかないでソファーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。そのぶんレイコさんがしゃべった。「でも気にしないで」と直子は言った。「今こういう時期なの。しゃべるより、あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの」

レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドで抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターペーションしてた、と。

「他の誰とも寝なかったの?」と直子が訪ねた。

「寝なかったよ」と僕は言った。

「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精をした。

「覚えていられる?」とそのあとで直子が僕に訊ねた。

「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。

「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言った。「寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトすれば生活費の方はなんとかなると思うし。それで、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように」

「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。

「ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶんないし、レイコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるにはこの場所はちょっと特殊すぎる。長くいればいるほどここから出にくくなってくると思うんだ」

直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見えなかった。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあいだにはほんの少しの空間しかあいていなかった。

「ゆっくり考えればいいよ」と僕は言った。「いずれにせよ僕は三月までには引越すから、君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいいから来ればいいよ」

直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときのように両腕で直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸で、彼女は小さな白い下着だけを身に着けていた。彼女の体は美しく、どれだけ見ていても見飽きなかった。

「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」

「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」

「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」

「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と僕は言った。

直子はベッドの上で身を起こして、Tシャツを頭からかぶり、フランネルのシャツを着て、ブルージーンズをはいた。僕も服を着た。

「ゆっくり考えさせてね」と直子は言った。「それからあなたもゆっくり考えてね」

「考えるよ」と僕は言った。「それから君のフェラチオすごかったよ」

直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」

「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。

そして我々は台所でテーブルをはさんで、コーヒーを飲みながら昔の話をした。彼女は少しずつキズキの話ができるようになっていた。ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼女は話した。雪は降ったりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三月に来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いコートの上から彼女を抱いて、口づけした。さよなら、と直子が言った。

一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年末のテストがあって、僕は比較的楽にそれをパスした。他にやることもなくて殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特別な勉強をしなくても試験をパスするくらい簡単なことだった。

寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動している連中が寮内にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで寮長子飼いの体育会系の学生たちとこぜりあいがあり、二人が怪我をして六人が寮を追い出された。その事件はかなりあとまで尾をひいて、毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっと重苦しい空気が漂っていて、みんながピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体育会系の連中に殴られそうになったが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせよ、この寮を出る頃合だった。

試験が一段落すると僕は真剣にアパートを探しはじめた。そして一週間かけてやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいささか悪かったが、ありがたいことには一軒家だった。まあ掘りだしものと言ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか庭番小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあいだにはかなり荒れた庭が広がっていた。家主は表口を使い、僕は裏口を使うからプライヴァシーを守ることもできた。一部屋と小さなキッチンと便所、それに常識ではちょっと考えられないくらい広い押入れがついていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかしたら孫が東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくのは条件で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の好さそうな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさいと言ってくれた。

引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラックを借りてきて僕の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫とTVと大型の魔法瓶をプレゼントしてくれた。僕にとってはありがたいプレゼントだった。その二日後に彼も寮を出て三田のアパートに引越すことになっていた。

「まあ当分会うこともないと思うけど元気でな」と別れ際に彼は言った。「でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がするんだ」

「楽しみにしてますよ」と僕は言った。

「ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方が良かった」

「同感ですね」と僕は笑って言った。「でも永沢さん、ハツミさんのこと大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやすいから」

「うん、それは知ってるよ」と彼は肯いた。「だから本当を言えばだな、俺のあとをワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前とハツミならうまくいくと思うし」

「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。

「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も

相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」

「いいですよ」

「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。

引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくてホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。

「窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として使われています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めています。いったい何匹いるのかわからないけれど、とにかく沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをしています。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことはあまり気に入らないようですが、古いチーズをおいてやると何匹かは近くに寄ってきておそるおそる食べました。そのうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっくりするくらいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかという気がするくらいです。

大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講義もずっと少なくなるし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっくり本を読めるからかえって良いかもしれません。あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほどきつくないアルバイトの口を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻ることができます。

僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何かを新しく始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住むことができるとしたら、それがいちばん良いじゃないかなという気がします。うまくいけば君も大学に復学できるし。一緒に住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにアパートを探すことも可能です。いちばん大事なことは我々がいつもすぐ近くにいることができるということです。もちろんとくに春という季節にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、夏でオーケーです。問題はありません。それについて君がどう思っているか、返事をくれませんか?

僕はこれから少しまとめてアルバイトをしようかと思っています。引越しの費用を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金がかかります。鍋やら食器やらも買い揃えなくちゃなりませんしね。でも三月になれば暇になるし、是非君に会いに行きたい。都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京都に行こうと思います。君に会えることを楽しみにして返事を待っています」

それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃え、家で簡単な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って切断してもらい、それで勉強机を作った。食事もとりあえずはそこで食べることにした。棚も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半年くらいの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べるようになった。僕はその猫に「かもめ」という名前をつけた。

一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイトを見つけ二週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料は良かったが大変な労働だったし、シンナーで頭がくらくらした。仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビールを飲み家に帰って猫と遊び、あとは死んだように眠った。二週間経っても直子からの返事は来なかった。

僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみれば僕はもう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知らせていなかったのだ。そろそろ引越ししようかと思うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりなのだ。

僕は公衆電話に入って緑のアパートの番号をまわした。お姉さんらしい人が出て僕が名前を告げると「ちょっと待ってね」と言った。しかしいくら待っても緑は出てこなかった。

「あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだって」とお姉さんらしい人が言った。「引越すときあなたあの子に何の連絡もしなかったでしょう?行き先も教えずにぷいといなくなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってるのよ。あの子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同じだから」

「説明するから出してもらえませんか」

「説明なんか聞きたくないんだって」

「じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えてもらえませんか、緑さんに」

「嫌よ、そんなの」とお姉さんらしい人は突き放すように言った。「そういうことは自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ?自分で責任持ってちゃんとやんなさい」

仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理はないと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い出しもしなかった。僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわりのことが全く目に入らなくなってしまうのだ。

そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週間も連絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶん僕は傷ついただろう。それもけっこう深く傷ついただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、ある部分ではそれ以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思うとひどく切ない気持になった。他人の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷つけるというのはとても嫌なものだった。

僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕は自分の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、自分が不注意で無神経であったことを詫びた。君にとても会いたい。新しい家も見に来てほしい。返事を下さい、と書いた。そして速達切手を貼ってポストに入れた。

しかしどれだけ待っても返事は来なかった。

奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を待ちつづけていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイトもできなかった。何日頃に会いに来て欲しいという直子からの手紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て二本立ての映画をみたり、ジャズ喫茶で半日、本を読んでいた。誰とも会わなかったし、殆んど誰とも口をきかなかった。そして週に一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事のことには触れなかった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペンキ屋の仕事のことを書き、「かもめ」のことを書き、庭に桃の花のことを書き、親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおばさんのことを書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それでも返事はこなかった。

本を読んだり、レコードを聴いたりするのに飽きると、僕は少しずつ庭の手入れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを借り、雑草を抜き、ぼうぼうにのびた植込みを適当に刈り揃えた。少し手を入れだだけで庭はけっこうきれいになった。そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませんか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからしばらく保険会社の役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮らしているのだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独立してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだと言った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。

「いいですね」と僕は言った。

「よかないよ」と彼は言った。「旅行なんてちっとも面白くないね。仕事してる方がずっと良い」

庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろくなのがいないからで、本当は自分が少しずつやればいいのだが最近鼻のアレルギーが強くなって草をいじることができないのだということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると彼は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この中にあるのは全部不用品みたいなものだから使いたいものがあったらなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供用プールから野球のバッドまであった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子を二脚と鏡とギターをみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと言った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。

僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空気を入れ、ギヤを調整し、自転車屋でクラッチ?ワイヤを新しいものにとりかえてもらった。それで自転車は見ちがえるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほこりを落としてからニスを塗りなおした。ギターの弦も全部新しいものに替え、板のはがれそうになっていたところは接着剤でとめた。錆もワイヤ?ブラシできれいに落とし、ねじも調節した。たいしたギターではなかったけれど、一応正確な音は出るようになった。考えて見ればギターを手にしたのなんて高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフターズの『アップ?オン?ザ?ルーフ』を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不思議にまだちゃんと大体のコードを覚えていた。

それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り名前を書いて戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便物といえば転送されてきた高校のクラス会の通知だけだったし、僕はたとえ何があろうとそんなものにだけは出たくなかった。何故ならそれは僕とキズキのいたクラスだったからだ。僕はそれをすぐに屑かごに放り込んだ。

四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレイコさんからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあった。僕ははさみできれいに封を切り、縁側に座ってそれを読んだ。最初からあまり良い内容のものではないだろうという予感はあったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。

はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることができなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほしい、と彼女は書いていた。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页