「あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもしれませんが、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったのです。それはわかってあげて下さい。正直に言って今の彼女の状況はあまり好ましいものではありません。彼女はなんとか自分の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結果は出ていません。
考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回目の訪問までは、こういう症状も比較的軽度のものだったし、私も正直言ってそれほど深刻には考えていませんでした。私たちにはある程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。でもあなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいました。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。
私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。私はできることならあなたを加えたセッションを行いたいと提案し、医者もそれには賛成したのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝えると『会うときは綺麗な体で彼に会いたいから』というのがその理由です。問題はそんなことではなく一刻も早く回復することなのだと私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変りませんでした。
前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありません。もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中的な治療をすることは困難です。ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこには含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院ということになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽くしていますし、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を祈っていて下さい。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。
三月三十一日
石田玲子 」
手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると「かもめ」がどこからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。
何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少なくとも今は何も考えたくはない。
僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が庭を包んだ。「かもめ」はもうどこかに姿を消したしまっていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてくれないのだ?
僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。
それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼はそれを聞きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。
僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日が過ぎた。
四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているのだ、いったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接点をうまく見つけることができなかった。どうして「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあいこ」なのだ?何故彼女は僕と「お昼ごはん」を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしくなるつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上がった。
僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、買物をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた「かもめ」に餌をやり、ビール以外の酒を飲まず、体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそりとやせてしまったことがわかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他人の顔みたいだった。
翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べてから、レイコさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どういう風にやっていけばいいのかを腰を据えて考えて見た。レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何か起るかはわからないわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっとうまくやっていけるだろうと。
しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手紙によってあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直子がもう一度回復するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。
「ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃない、あなた?」
「そうかな?」と僕は言った。
「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」
僕は笑って首を振った。「去年の十月の始めから女と寝たことなんて一度もないよ」
緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの?本当?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」
「大人になったからだよ」と僕は言った。
緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく顔をしかめて、やがてにっこり笑った。「本当だ。たしかに何か少し変ってるみたい、前に比べて」
「大人になったからだよ」
「あなたって最高ね。そういう考え方できるのって」と彼女は感心したように言った。「ごはん食べに行こう。おなか減っちゃったわ」
我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をすることにした。僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。
「ねえ、ワタナベ君、怒ってる?」と緑が訊いた。
「何に対して?」
「つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そういうのっていけないことだと思う?あなたの方はきちんと謝ってきたのに?」
「僕の方が悪かったんだから仕方ないさ」と僕は言った。
「お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容で、あまりにも子供じみてるって」
「でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?」
「うん」
「じゃあそれでいいじゃないか」
「あなたって本当に寛容なのね」と緑は言った。「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?」
「してないよ」と僕は言った。
「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃない?」
「まあ、そうだろうね」
「でもやらなかったのね?」
「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないからね」と僕は言った。
「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」
「でも僕のは固くて大きいよ」
彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってたでしょう?私」
「うん。たしかに」と僕は言った。
「そうしてね、もし逆にあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激してるとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけなのよ」
「わかってるよ」と僕は言った。
我々はランチを食べながら課目登録のカードを見せあって、二つの講義を共通して登録していることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせることになる。それから彼女は自分の生活のことを話した。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあいだアパート暮しになじめなかった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比べてあまりにも楽だったからだ。自分たちは誰かの看病をしたり、店を手伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れてしまっていたのだ、と緑は言った。
「でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ」と緑は言った。「これが私たち自身のための本来の生活なんだって。だから誰かに遠慮することもなく思う存分手足をのばせばいいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、三センチ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実の人生として存在するわけないといった気がしていたの。今にどんでん返しがあるに違いないって二人で緊張してたの」
「苦労性の姉妹なんだね」と僕笑って言った。
「これまでが過酷すぎたのよ」と緑は言った。「でもいいの。私たち、そのぶんをこれから先でしっかりとり戻してやるの」
「まあ君たちならやれそうな気がするな」と僕は言った。「お姉さんは毎日何をしてるの?」
「彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリーのお店始めたんで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートしたり、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」
彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫のかもめやら家主のことやらを話した。
「楽しい?」
「悪くないね」と僕は言った。
「でもそのわりに元気がないのね」
「春なのにね」と僕は言った。
「そして彼女が編んでくれた素敵なセーター着てるのにね」
僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセーターに目をやった。「どうしてそんなことはわかったのかな?」
「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあきれたように言った。「でも元気がないのね」
「元気を出そうとしているんだけれど」
「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」
僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」
「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」
「まあひとつの哲学ではあるな」
「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。
コーヒーを飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店に入ってきて、緑と三人で課目登録カードを見せあい、昨日のドイツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。僕はコーヒーを飲みながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になってきた。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際にはアネモネの花をさした小さなグラスが置いてあった。
女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテーブルに戻ってしまうと、緑と僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊か買い、また喫茶店に入ってコーヒーを飲み、ゲーム?センターでピンボールをやり、公園のベンチに座って話をした。だいたいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉が乾いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋でコーラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女はレポート用紙にボールペンでこりこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわよと彼女は答えた。
三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち合わせしてるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。別れ際に緑は僕のコートのポッケトに四つに折ったレポート用紙をつっこんだ。そして家に帰ってから読んでくれと言った。僕はそれを電車の中で読んだ。
「前略。
今あなたがコーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としてもはじめてのことです。でもそうでもしないことには私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませんから。だって私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょう?
ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の髪型が変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?私少しずつ苦労して髪をのばしてやっと先週の終りになんとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あなたそれにすら気がつかなかったでしょう?なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思ったのに、気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですか?どうせあなたが私がどんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。いくら考え事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何してたってどれだけ考えごとしてたって、私あなたのことを許したのに。
だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせているなんて嘘です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマまで持ってきたんです。そう、私のバッグの中にはパジャマと歯ブラシが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家においでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなたは私のことなんかどうでもよくて一人になりたがってるみたいだから一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを心ゆくまで考えていなさい。
でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありません。私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもと戻ってしまうみたいです。
今コーラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いているみたいで、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あなたは今隣りに座ってごくごくとコーラを飲んでいます。コーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変ったんだね』と気がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたらこんな手紙びりびりと破って、『ねえ、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう』って言えたのに。でもあなたは鉄板みたいに無神経です。さよなら。
P.S.
この次教室で会っても話かけないで下さい」
吉祥寺の駅から緑のアパートに電話をかけてみたが誰も出なかった。とくにやることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通いながらやれるアルバイトの口を探してみた。僕は土?日が一日あいていて、月?水?木は夕方の五時から働くことができたが、僕のそんなスケジュールにぱったりと合致する仕事というのはそう簡単に見つからなかった。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするついでにまた緑に電話をかけてみた。お姉さんが電話に出て、緑はまだ帰ってないし、いつ帰るかはちょっとわからないと言った。僕は礼を言って電話を切った。
夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書けなかったので、結局直子に手紙を書くことにした。
春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会えなくてとても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、話がしたかった。しかしいずれにせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように思えるからだ、と僕は書いた。
「それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどうでもいいことかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたときのことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要なことなのです。僕はいつもあのときのことを考えています」
僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれをじっと眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその方が相手に意がうまく伝わるだろうという気がした。僕はグラスに三センチくらいウィスキーを注ぎ、それをふた口で飲んでから眠った。
*
翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトをみつけた。それほど大きくないイタリア料理店のウェイターの仕事で、条件はまずまずだったが、昼食もついたし、交通費も出してくれた。月?水?木の遅番が休みをとるときは――彼らはよく休みをとった――かわりに出勤してくれてかまわないということで、それは僕としても好都合だった。三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週の土曜日から来てほしいとマネージャーが言った。新宿のレコード店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんとしたまともそうな男だった。
緑のアパートに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと戻ってないし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだろうかと疲れた声で訊いた。僕が知っているのは彼女がバッグにパジャマと歯ブラシを入れていたということだけだった。
水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色のセーターを着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスをかけていた。そしていちばんうしろの席に座って、前に一度見かけたことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕はそこに行って、あとで話がしたいんだけどと緑に言った。眼鏡をかけた女の子がまず僕を見て、それから緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいスタイルになっていた。いくぶん大人っぽくも見えた。
「私、約束があるの」と緑は少し首をかしげるようにして言った。
「そんなに時間とらせない。五分でいいよ」と僕は言った。
緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メートルくらい向うの崩れかけた廃屋を眺めるときのような目つきだった。「話したくないのよ。悪いけど」
眼鏡の女の子が<彼女話したくないんだって、悪いけど>という目で僕を見た。
僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き(テネシー?ウィリアムズの戯曲についての総論。そのアメリカ文学における位置)、講義が終わるとゆっくり三つ数えてからうしろを向いた。緑の姿はもう見えなかった。
四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわりの人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコートを脱ぎ捨て、明るい日だまりの中でおしゃべりをしたり、キャッチボールをしたり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一人ぼっちだった。直子も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離れていってしまった。そして今の僕には「おはよう」とか「こんにちは」を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさえ僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。何度か緑に話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだった。今話したなくないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言っていることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子といたし、そうでないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の長い男で、いつも白いバスケットボール?シューズをはいていた。
四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかった。五月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけにはいなかった。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残していた。
そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。
アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生と知り合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科にかよっているおとなしい無口な男で話をするようになるまでにずいぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の店でビールを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、僕らはだいたいそんな話をした。伊東はほっそりとしたハンサムな男で、その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジェ?バタイユとポリス?ヴィアンを好んで読み、音楽ではモーツァルトとモーリス?ラヴェルをよく聴いた。そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めていた。
彼は一度僕を自分のアパートに招待してくれた。井の頭公園の裏手のあるちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパートで、部屋の中は画材やキャンパスでいっぱいだった。絵を見たいと僕は言ったが、恥ずかしいものだからと言って見せてくれなかった。我々は彼が父親のところから黙って持ってきたシーバス?リーガルを飲み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベール?カサドゥシェの弾くモーツァルトのピアノ?コンチェルトを聴いた。
彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、と言った。
「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。「二十歳とか二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ。すごく現実的になりはじめるんだ。するとね、これまですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ」
「どうするんだい?」と僕も訊いてみた。
彼はししゃもをかじりながら頭を振った。「どうするったって、どうしようもないよ、油絵科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もアブラになんて行かないさ。だってそんなところ出たってまず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って美術の先生になれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなんだよ。やれやれ」
「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?」
「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。「それに僕は美術の教師なんかなりたくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわるい中学生に絵を教えて一生を終えたくないんだよ」
「それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お互いのために」と僕は言った。
「僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒になる気でいるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せないよ」
僕らは氷を入れずストレートでシーバスを飲み、ししゃもがなくなってしまうと、キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてかじった。キウリをぽりぽりと食べていると亡くなった緑の父親のことを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほど味気のないものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知らないうちに僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいたのだ。
「君には恋人いるの?」と伊東が訊いた。
いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は遠く離れているんだ。
「でも気持は通じているんだろう?」
「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。
彼はモーツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田舎の人々が山道について熟知しているように、モーツァルトの音楽の素晴らしさを熟知していた。父親が好きで三つの時からずっと聴いてるんだと彼は言った。僕はクラシック音楽にそれほど詳しいわけではなかったけれど、彼の「ほら、ここのところが――」とか「どうだい、この――」といった適切で心のこもった説明を聴きながらモーツァルトのコンチェルトに耳を傾いていると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは井の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス?リーガルを最後の一滴まで飲んだ。美味い酒だった。
伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って断り、ウィスキーの礼を言って九時前に彼のアパートを出た。そして帰りみち電話ボックスに入って緑に電話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。
「ごめんなさい。今あなたと話したくないの」と緑は言った。
「それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君との関係を終えたくないんだ。君は本当に数の少ない僕の友だちの一人だし、君に会えないのはすごく辛い。いつになったら君と話せるのかな?それだけでも教えてほしいんだよ」
「私の方から話しかけるわよ。そのときになったら」
「元気?」と僕は訊いてみた。
「なんとか」と彼女は言った。そして電話を切った。
五月の半ばにレイコさんから手紙が来た。
「いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読ませてもらっています。いいわよね、読んでも?
長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私もいささか疲れ気味だったし、良いニュースもあまりなかったからです。直子の具合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。直子もできることならずっとここにいて治したいというし、私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言ってここで彼女をコントロールするのはだんだん困難になってきました。普段はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不安定になることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があり、直子は全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。
だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるのがいちばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方ありません。前もあなたに言ったように、気長にやるのがいちばんです。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつほぐしていくのです。事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇に慣れるのを待つしかありません。
この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移っているはずです。連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、いろんなことがばたばたと決まってしまったのです。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良い医者もいます。住所を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって下さい。彼女についての情報は私の方にも入ってきますから、何かあったら知らせるようにします。良いニュースが書けるといいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなくてもときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら」
*
その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き、レイコさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き、家の机に向って膝に「かもめ」をのせながら書き、休憩時間にイタリア料理店のテーブルに向って書いた。まるで手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった。
君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と五月を送った、と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験したのははじめてのことだし、これだったら二月が三回つづいた方がずっとましだ。今更君にこんなことをいっても始まらないとは思うけれど、新しいヘア?スタイルはとてもよく君に似合っている。とても可愛い。今イタリア料理店でアルバイトしていて、コックからおいしいスパゲティーの作り方を習った。そのうちに君に食べさせてあげたい。