僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアルバイトをし、伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス?ヴィアンを何冊か借りて読み、手紙を書き、「かもめ」と遊び、スパゲティーを作り、庭の手入れをし、直子のことを考えながらマスタペーションをし、沢山の映画を見た。
緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二ヶ月も口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座って、しばらく頬杖をついて黙っていた。窓の外には雨が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、それは何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教室を出ていなくなっても緑はずっとその格好で黙っていた。そしてジーンズの上着のポッケトからマルボロを出してくわえ、マッチを僕の渡した。僕はマッチをすって煙草に火をつけてやった。緑は唇を丸くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。
「私のヘア?スタイル好き?」
「すごく良いよ」
「どれくらい良い?」と緑が訊いた。
「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。
「本当にそう思う?」
「本当にそう思う」
彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握った。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の灰を床に落としてからすっと立ち上がった。
「ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ」と緑は言った。
「どこに行く?」
「日本橋の高島屋の食堂」
「何でまたわざわざそんなところまで行くの?」
「ときどきあそこに行きたくなるのよ、私」
それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雨が降りつづいていたせいか、デパートの中はがらんとしてあまり人影がなかった。店内には雨の匂いが漂い、店員たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の食堂に行き、ウィンドの見本を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べることにした。昼食どきだったが、食堂もそれほど混んではいなかった。
「デパートの食堂で飯食うなんて久しぶりだね」と僕はデパートの食堂でしかまずお目にかかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶を飲みながら言った。
「私好きよ、こういうの」と緑は言った。「なんだか特別なことをしているような気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパートに連れてってもらうなんてほんのたまにしかなかったから」
「僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパート行くの好きだったからさ」
「いいわね」
「べつに良くもないよ。デパートなんか行くの好きじゃないもの」
「そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと」
「まあ一人っ子だからね」
「大きくなったらデパートの食堂に一人できて食べたいものをいっぱい食べてやろうと思ったの、子供の頃」と緑は言った。「でも空しいものね、一人でこんなところでもそもろごはん食べたって面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでもないし、ただっ広くて混んでてうるさいし、空気はわるいし。それでもときどきここに来たくなるのよ」
「このニヶ月淋しかったよ」と僕は言った。
「それ、手紙で読んだわよ」と緑は無表情な声で言った。「とにかくごはん食べましょう。私今それ以外のこと考えられないの」
我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸い物を飲み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も言わずにすっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち上がって傘を持った。
「これからどこに行くの?」と僕は訊いてみた。
「デパートに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まってるでしょう」と緑は言った。
雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の姿はなく、売店も、乗り物切符売り場もシャッターを閉ざしていた。我々は傘をさしてぐっしょりと濡れた木馬やガーデン?チェアや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見たいというので、僕は硬貨を入れてやり、彼女が見ているあいだずっと傘をさしてやっていた。
屋上の隅の方に屋根のついたゲーム?コーナーがあって、子供向けのゲーム機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなものの上に並んで腰を下ろし、二人で雨ふりを眺めた。
「何か話してよ」と緑が言った。「話があるんでしょ、あなた?」
「あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんやりしてたんだ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ」と僕は言った。「でも君と会えなくなってよくわかったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだってね。君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」
「でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私がこのニヶ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを?」
「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。「君は僕のことを頭にきていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ」
「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まってるでしょう?だって私あなたのこと好きだって言ったでしょう?私そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃなくなったりしないわよ。そんなこともわかんないの?」
「それはもちろんそうだけど――」
「そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だって久し振りに会ったっていうのにあなたはボオッとして他の女の人のことを考えて私のことなんか見ようともしないんだもの。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなたと少し離れていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。いろんなことをはっきりさせるためにも」
「いろんなことって?」
「私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだんだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然だし具合わるいと思わない?もちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多少わかままで偏狭でファシストだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好きになった人だしね。でもね、あなたってなんだか特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感じするの。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに自分でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直に相談したの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もしあなたと会うなら俺と別れろって」
「それでどうしたの?」
「彼と別れたよ、さっぱりと」と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆うようにしてマッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。
「どうして?」
「どうして?」と緑は怒鳴った。「あなた頭おかしいんじゃないの?英語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから」
僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうまく出てこなかった。
緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?私だってこのニヶ月本当に辛かったんだから」
我々はゲーム?コーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、唇を求めあった。彼女の髪にも、ジーンズのジャケットの襟にも雨の匂いがした。女の子の体ってなんてやわらかくて温かいんだろうと僕は思った。ジャケット越しに僕は彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間に触れたような気がした。
「あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そして別れたの」と緑は言った。
「君のこと大好きだよ」と僕は言った。「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないんだ」
「その人のことで?」
僕は肯いた。
「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?」
「一年前に一度だけね」
「それから会わなかったの?」
「二回会ったよ。でもやってない」と僕は言った。
「それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?」
「僕にはなんとも言えない」と僕は言った。「とても事情が混み入ってるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当にどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間として責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」
「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と緑は僕の首に頬を押し付けて言った。「そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好きだってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってするわよ。私多少むちゃくちゃなところあるけど正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって良いかたちしているし、料理もうまいし、お父さんの遺産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思わない?あなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ」
「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」
「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるのね?」
「もちろんそう思ってるよ」
緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼してるから」と彼女は言った。「でお私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?」
「よくわかる」
「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」
僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。
「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」
「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ」
僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィンド?ブレーカーを暗い色に染めた。
「そろそろ屋根のあるところに行かない?」と僕は言った。
「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」
「まったく」
「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言った。「ああ気持良かった」
僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパートまで行った。緑はすぐに僕にシャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバスローブを貸してくれ、自分はポロシャツとスカートに着がえた。我々は台所のテーブルでコーヒーを飲んだ。
「あなたのこと話してよ」と緑は言った。
「僕のどんなこと?」
「そうねえ……どんなものが嫌い?」
「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」
「他には?」
「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」
「他には?」
僕は首を振った。「他にはとくに思いつかないね」
「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく短いスカートはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なことあったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃんとあらためるから」
「別に何もないよ」と僕は少し考えてからそう言って首を振った。「何もない」
「本当?」
「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、何でも好きだよ」
「本当にこのままでいいの?」
「どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ」
「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。
「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞きながら布団の中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固さの好みに至るまでのありとあらゆる話をした。
「雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら?」と緑が質問した。
「知らない」と僕は言った。「巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかやってるんじゃないかな。蟻ってよく働くからさ」
「そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままなの?」
「知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つまり猿なんかに比べてさ」
「あなた意外にいろんなこと知らないのね」と緑は言った。「ワタナベ君って、世の中のことはたいてい知ってるのかと思ってたわ」
「世界は広い」と僕は言った。
「山は高く、海は深い」と緑は言った。そしてバスローブの裾から手を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息を呑んだ。「ねえ、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌だ」
「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。
「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。「大丈夫よ。安心しなさい。これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい?」
「好きにしていいよ」と僕は言った。
緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮をひっぱったり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと息をついた。「でも私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」
「ありがとう」と僕は素直に礼を言った。
「でもワタナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」
「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」
「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃってから考えるけどな」
「本当にそうする?」
「嘘よ」と緑は小さな声で言った。「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところ好きなの。本当に本当に好きなのよ」
「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。
「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」
「考えてないよ」と僕は嘘をついた。
「本当?」
「本当だよ」
「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」
「考えられないよ」と僕は言った。
「私の胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。
「さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなことやると刺激が強すぎる」
緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先にあてた。「ここに出していいからね」
「でも汚れちゃうよ」
「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑は泣きそうな声で言った。「そんなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ。気になるんなら新しいの買ってプレゼントしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの?」
「まさか」と僕は言った。
「じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して」
僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。「ずいぶんいっぱい出したのね」と彼女は感心したように言った。
「多すぎたかな?」
「いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ」と緑が笑いながら言って僕にキスした。
夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕らは台所のテーブルでビールを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを食べた。
「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と緑は言った。「そしたら私がやさしく出してあげるから」
「ありがとう」と僕は礼を言った。
「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそういうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が浮気しないようにいろんな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。楽しみ?」
「楽しみだね」と僕は言った。
緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広げてみたが、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみたところで何も理解できなかった。僕はそんなわけのわからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いったい自分はこれから先どうなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変っていくんだろうと考えつづけた。時折、僕のまわりで世界がどきどきと脈を打っているように感じられた。僕は深いため息をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまったく後悔していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、まったく同じことをするだろうと確信していた。やはり雨の屋上で緑をしっかり抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で射精に導かれることになるだろう。それについては何の疑問もなかった。僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女となら二人でうまくやっていけるだろうと思った。そして緑は彼女自身言っていたように血のかよった生身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたのだ。僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったのだ。僕のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろう?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはずなのだ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。
問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議なかたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。
僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書いた。「こういう手紙をレイコさんに書かなくてはならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。
「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう?僕にはレイコさんしか相談できる相手がいないのです」
僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。
レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。
「前略。
まず良いニュース。
直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもしれないということです。
次にあなたのこと。
そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。
私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実さのひとつのかたちです。
第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して下さい。
第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはならないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておいて下さい。
第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょう?
私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありません。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖にボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。
もちろん私はあなたと直子がハッピー?エンディングを迎えられなかったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
私は毎日誰に聴かせるともなくギターを弾いています。これもなんだかつまらないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながらギターを弾きたい。
ではそれまで。
六月十七日
石田鈴子 」
十一
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんていえばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。
八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう少し待ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。
いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ順番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったからだ。
「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったい?あなたこれでも三週間の音信不通だったのよ。どこにいて何をしてるのよ?」
「わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」
「言うことはそれだけなの?」
「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭を剃った。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがってきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。
僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめてきた火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。そしてウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができずにいた。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のできごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその体に触れることができるように気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。
僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバースデー?ケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょう?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。