床にはレコード?ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、そんなものが昨夜のままに残っていた。テーブルの上には形の崩れたバースデー?ケーキが半分残っていた。まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように見えた。僕は床の上にちらばったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の上には辞書とフランス語の動詞表があった。机の前の壁にはカレンダーが貼ってあった。写真も絵も何もない数字だけのカレンダーだった。カレンダーは真白だった。書きこみもなければ、しるしもなかった。
僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく湿っていた。顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子の肩を眺め、部屋を出てドアをそっと閉めた。
一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は言った。
僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子がどこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。
僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがまだよくわからないし、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろう。そしてその時間が経ってしまったあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕には皆目見当もつかない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間を与えてくれるなら、僕はベストを尽すし、我々はもっとお互いを知りあうことができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくりと話をしたい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を正直に語ることのできる相手を失ってしまったし、それは君も同じなんじゃないだろうか。たぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわり道をしてしまったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して感じた親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことのない種類の感情だった。返事をほしい。どのような返事でもいいからほしい―そんな内容の手紙だった。
返事はこなかった。
体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。僕は週日には以前にも増してきちんと大学に通い、講義に出席した。講義は退屈で、クラスの連中とは話すこともなかったけれど、他にやることもなかった。僕は一人で教室の最前列の端に座って講義を聞き、誰とも話をせず、一人で食事をし、煙草を吸うのをやめた。
五月の末に大学がストに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ。
大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバイトを始めた。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕事は思っていたよりきつく、最初のうちは体が痛くて朝起きあがれないほどだったが、給料はそのぶん良かったし、忙しく体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに済んだ。僕は週に五日、運送屋で昼間働き、三日はレコード屋で夜番をやった。そして仕事のない夜は部屋でウィスキーを飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、アルコールの匂いにひどく敏感で、僕がベッドに寝転んで生のウィスキーを飲んでいると、臭くて勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言った。
「お前が出て行けよ」と僕は言った。
「だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろう」と彼は言った。
「お前が出ていけ」と僕は繰り返した。
彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行って一人でウィスキーを飲んだ。
六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の住所あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事を待っているのはとても辛い、僕は君を傷つけてしまったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポストに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた少し大きくなったように感じられた。
六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことがあるかだとか、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入ってモーニング?サービスのまずいトーストとまずい玉子を食べまずいコーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何か、高校時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはあるか、等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。
「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や、雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキーを飲み、俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれど、これは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくて、ずっと自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめることなのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれたことについては、私は私なりに感謝しています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではなく、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったら、私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。
さようなら」
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつもTVの野球中継をつけて、それを見ているふりをしていた。そして僕とTVのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。
十時になると僕はTVを消して部屋に戻り、そして眠った。
*
その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタント?コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」
「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。
「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストン?バックに衣類やノートを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリーム?シチューの匂いだった。
僕は螢の入ったインスタント?コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。
四
夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストがたたきつぶされたところで、特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待していってみたのだが、大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されることなく、教授室も破壊しつくされることはなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るし上げたのだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義にでてくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけれど、そうでもしないことには気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかしそのおかげでクラスの中での僕の立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の中には居心地のわるい空気が流れた。誰も僕に話しかけなかったし、僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノートを取り、あいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたりした。
※
九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたし、突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼らの机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはブラスチックのコップと歯ブラシ、お茶の缶、殺虫スプレー、そんなものがきちんと整頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていたし、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃き、三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて「ワ、ワタナベ君、どうしたの?すごくきれいじゃないか」と言って賞めてくれるのを待った。
しかし彼は戻っては来なかった。ある日僕は学校から戻ってみると、彼の荷物は全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外されて、僕のものだけになっていた。僕は寮長室に言って彼がいったいどうなったのか訊いてみた。
「退寮した」と寮長は言った。「しばらくあの部屋はお前ひとりで暮せ」
僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教えてくれなかった。他人には何も教えずに自分ひとりで物事を管理することに無上の喜びを感じるタイプの俗物なのだ。
部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがて僕はそれははがして、かわりにジム?モリソンとマイルス?デイヴィスの写真を貼った。それで部屋は少し僕らしくなった。僕はアルバイトで貯めた金を使って小さなステレオ?プレーヤーを買った。そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときどき突撃隊のことを思いだしたが、それでもひとり暮らしというのはいいものだった。
*
月曜日の十時から「演劇史Ⅱ」のエウリピデスについての講義があり、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレストランにいってオムレツとサラダを食べた。そのレストランはにぎやかな通りからは離れていたし、値段も学生向きの食堂よりは少し高ったが、静かで落ちつけたし、なかなか美味いオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイトの女の子が三人で働いていた。僕は窓祭の席に一人で座って食事をしていると、四人づれの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに座ってメニューを眺め、しばらくいろいろと検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子がにそれを伝えた。
そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事を続けていると、そのうちに彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手をついて僕の名前を呼んだ。
「ワタナベ君、でしょ?」
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼女はとても目立つの女の子だったし、どこかであっていたらすぐ思い出せるはずだった。それに僕の名前を知っている人間はそれほどたくさんこの大学にいるわけではない。
「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰かくるの、ここ?」
僕はよくわからないままに首を振った。「誰も来ないよ。どうぞ」
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。
「おいしそうね、それ」
「美味しいよ。マッシュルーム?オムレツとグリーン?ビースのサラダ」
「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別のを頼んじゃったから」
「何を頼んだの?」
「マカロニ?グラタン」
「マカロニ?グラタンもわるくない」と僕はいった。「ところで君とどこであったんだっけな?どうしても思い出せないんだけど」
「エウリピデス」と彼女は簡潔に言った。「エレクトラ。『いいえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。さっき授業が終わったばかりでしょう?」
僕はまじと彼女の顔をみた。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕は思い出した。「演劇史Ⅱ」のクラスで見かけたことのある一年生の女の子だった。ただあまりにもがらりととヘア?スタイルが変わってしまったので、誰なのかわからなかったのだ。
「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?」と僕は肩から十センチくらい下のところを手で示した。
「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のようと思ったくらいよ。本当にひどかったのよ。ワカメがあたまにからみついた水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女はいって、長さ四センチか五センチの髪を手のひらでさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこりと微笑んた。
「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツのつづきを食べながら言った。「ちょっと横を向いてみてくれないかな」
彼女は横を向いて、五秒ぐらいそのままじっとしていた。
「うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだね。耳もきれいにみえるし」と僕はいった。
「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これも悪くないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなこと行ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の長い女の子がそんなに好きなの?そんなのまるでファシストじゃない。下がらないわよ。どうして男の人って髪の長い女の子が上品で心やさしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ。本当よ。」
「僕は今のほうがすきだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通のかわいい女の子だった。でもいま僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。
「本当にそう思う?」
僕はサラダを食べながら肯いた。
彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。
「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?」
「まあ出来ることなら正直な人間でありたいとは思っているけどね。」と僕は言った。
「どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?」と僕は訊いてみた。
「急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ちつかないの。だからサングラスかけるわけ。」
「なるほど」と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。
「あっちの席に戻らなくていいの?」と僕は彼女の連れの三人の方を指さして言った。
「いいのよ、べつに。料理が来たらもどるから。なんてことないわよ。でもここにいると食事の邪魔かしら?」
「邪魔も何も、もう食べ終わっちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分のテーブルに戻る気配がないので食後のコーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリームを置いていった。
「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワタナベってあなたの名前でしょう?ワタナベ?トオルって」
「そうだよ」
「じゃどうして返事しなかったの?」
「今日はあまり返事したくなかったんだ」
彼女はもう一度サングラスを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の入っている檻でものぞきこむような目付きで僕をじっと眺めた。「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー?ボガートみたいなしゃべりかたするのね。クールでタフで」
「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」
奥さんがコーヒーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリームも入れずにそれをそっとすすった。
「ほらね、やっぱり砂糖もクリームもいれないでしょ」
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。「君はなんか誤解しているんじゃないかな」
「どうしてそんなに日焼けしてるの?」
「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝袋をかついで。だから日焼けしたんだ」
「どんなところ?」
「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」
「一人で?」
「そうだよ」と僕は言った。「ところどころで道づれができるってことはあるけれどね」
「ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子としりあったりして」
「ロマンス?」と僕はびっくりして言った。「あのね、やはり君は何か思いちがいをしていると思うね。寝袋かついで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間がいったいどこでどうやってロマンスなんてものにめぐりあえるんだよ?」
「いつもそんな風に一人で旅行するの?」
「そうだね」
「孤独が好きなの?」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行し、一人でごはんを食べて、授業のときはひとりだけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。
彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「『孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ』」と言った。「もしあなたが自叙伝書くことになったらその時は科白使えるわよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「緑色は好き?」
「どうして?」
「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色はすきなのかって訊いている」
「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」
「『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』」と彼女はまたくりかえした。「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそう言われたことある、他の人から?」
ない、と僕は答えた。
「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?まるで呪われた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私のお姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?」
「それでお姉さんはピンク似合う?」
「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから。」
彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラスチェックの上着を着た男が「おーい、ミドリ、飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というように手をあげた。
「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートとってる?演劇史Ⅱの?」
「とってるよ」と僕は言った。
「悪いんだけど貸してもらえないかしら?」私二回休んじゃってるのよ。あのクラスに私、知ってる人いないし」
「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれていないことをたしかめてから緑に渡した。
「ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?」
「来るよ」
「じゃあ十二時にここに来ない?ノート返してお昼ごちそうするから。別にひとりでごはん食べないと消化不良起こすとか、そういうじゃないでしょう?」
「まさか」と僕は言った。「でもお礼なんていらないよ。ノート見せるくらいで」
「いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に書いとかなくて忘れない?」
「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで合う」
「向うの方から「おーい、ミドリ、早くこないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえた。
「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」と緑はその声を無視して言った。
「そうだと思うよ。あまり意識したことないけど」と僕は答えた。しゃべり方がかわっているなんて言われたのは本当にそれがはじめてだったのだ。
彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこりと笑って席を立ち、自分のテーブルに戻っていった。僕がそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手をあげた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなっかた。僕は彼女がくるまでビールを飲んで待っているつもりだったのだが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いをさましながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そして二時からドイツ語の授業に出た。
講義が終わると、僕は学生課にいって講義の登録簿を調べ、「演劇史Ⅱ」のクラスに彼女の名前を見つけた。緑という名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にカード式になっている学生名薄をくって六九年度入学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。
「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店?
「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。