饭饭TXT > 海外名作 > 《ノルウェイの森/挪威的森林(日文版)》作者:[日]村上春树【完结】 > 挪威的森林 (日文版).txt

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作者:日-村上春树 当前章节:15557 字 更新时间:2026-6-15 22:18

 「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。

 「大学に行かれたんでしょうか?」

 「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」

 僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じとれなかった。<うん、えーと、病院の方じゃないかなあ>、それはまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だった。僕はそれについて少し考えをめぐらせてみたが、面倒くさくなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ?コンラッドの「ロード?ジム」の残りを読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。

 永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に行って夕食を食べた。

外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八月にあったのだ。

 「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」

 「じゃあまあ簡単だったわけですね」と僕は言った。「発表はいつなんですか?」

 「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」

 「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受けにくるんですか?」

 「まさか。大体はアホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九五パーセントまでは屑だもんなあ。これは嘘じゃないぜ。あいつら字だてろくに読めないんだ」

 「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」

 「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でもいちばんの理由は自分の能力を試してみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れもののなかでためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。このばかでかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのをためしてみたいんだよ。わかるか?」

 「なんだかゲームみたいと聞こえますね」

 「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力をためしてみたいんだ」

 「そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょうね?」

 「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ」

 「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。

 「俺のような人生はすきじゃないか?」

 「よして下さいよ」と僕は言った。「好きも嫌いもありませんよ。だってそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好きな時に好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学の文学部を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?」

 「じゃ俺の人生がうらやましいか?」

 「うらゃましかないですね」と僕は言った。「僕はあまりに僕自身に馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」

 彼はしばらく黙って食事をしていた。

 「なあ、ワタナベ」と食事が終わってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」

 「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。

 「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当たるんだぜ」

 食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック?バーに酒に飲みに行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。

 「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範っていったいどんなものなんですか?」と僕は訊いてみた。

 「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。

 「笑いませんよ」と僕は言った。

 「紳士であることだ」

 僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士ってあの紳士ですか?」

 「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。

 「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」

 「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」

 「あなたは僕がこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。

 「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。

 翌週の月曜日の「演劇史Ⅱ」の教室にも小林緑の姿はみあたらなかった。僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列の席に座り、教師がくるまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町町や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていたかということがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくり話がしたい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてもしできることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほしい。

 それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便せんをきれいに畳んで用意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。

 やがて憂鬱そうな顔をした小柄な教師が入ってきて出欠をとり、ハンカチで額の汗を拭いた。彼は足が悪くいつも金属の杖をついていた。「演劇史Ⅱ」は楽しいとは言えないまでも、一応聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねえと言ってから、彼はエウリピデスの戯曲におけるデウス?エクス?マキナの役割について話しはじめた。エウリピデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスのそれとどう違うかについて彼は語った。十五分ほど経ってところで教室のドアが開いて緑が入ってきた。彼女は濃いブルーのスポーツ?シャツにクリーム色の綿のズボンをはいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師に向かって「遅れてごめんなさい」的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショルダー?バッグからノートをだして、僕に渡した。ノートの中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる?」と書いたメモが入っていた。

 講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょろりとして高い方がアジ?ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。そして机のふちをぎゅっとつかんで足を下におろし、杖をとって足をひきずりながら教室を出て行った。

 背の高い学生がビアを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビアにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章の説得力はなかった。信頼性もなければ、人の心を駆り立てる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。

 「出ましょうよ」と緑は言った。

 僕は肯いて立ちあがり、二人で教室をでた。出るときに丸顔の方が僕に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひらひらと手を振った。

 「ねえ、私たち反革命なのかしら?」と教室を出てから緑が僕に言った。「革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?」

 「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。

 「そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間がかかってもかまわないかしら?」

 「いいよ。二時からの授業まではどうせ暇だから」

 緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。我々がテーブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日変りの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だった。

 「美味いね」

 「うん。それに結構安いのよ。だから高校のときからときどきここにお昼食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校でね、私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところをみつかっただけで停学になる学校なんだもの」

 サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指の先で目のきわをぽりぽりと掻いたりしていた。

 「眠いの?」と僕は言った。

 「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしないで」と彼女は言った。「この前ごめんなさいね。どうしても抜けられない大事な用事ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレストランに電話をしようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの家の電話だって知らないし。ずいぶん待った?」

 「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」

 「そんなに余ってるの?」

 「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」

 緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。「あなたって親切なのね」

 「親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ」と僕は言った。「ところであの日君の家に電話したら、家の人が君は病院に言ったって言ってたけど、何かあったの?」

 「家に?」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。「どうして家の電話番号がわかったの?」

 「学生課で調べたんだよ、もちろん。誰でも調べられる」

 なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、またブレスレットをいじった。「そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさい。「

 「かまわないよ。なんだか余計なこと訊いちゃったみたいだな」

 「ううん、そんなことないのよ。私が今少し疲れてるだけ。雨にうたれた猿のように疲れているの」

 「家に帰って寝たほうがいいんじゃないかな」と僕は言ってみた。

 「まだ寝たくないわ。少し歩きましょうよ」と緑は言った。

 「彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつれていった。四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のことを思い出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とはずいぶん違ったものになっていただろうな、とぼくはふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思いなおした。多分我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我々はべつのどこかであっていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。

 僕と小林緑は二人で公園のベンチに座って彼女の通っていた高校の建物を眺めた。校舎にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩がとまって羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木がはえていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。

 「ワタナベ君、あの煙なんだか分かる?」突然緑が言った。

 わからない、と僕は言った。

 「あれ生理ナプキン焼いてるのよ」

 「へえ」と僕は言った。それ以上に何と言えばいいのかよくわからなかった。

 「生理ナプキン、タンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。「みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子校だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙なの」

 「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。

 「うん、私も教室の窓からあの煙をみるたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学、高校あわせる千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まってない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」

 「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」

 「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら?」

 「さあ、見当もつかない」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ。そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。

 「本当は私あの学校に行きたくなかったの。」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人がいくごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校のとき成績が良いとそういうとこあるでしょ?先生がこの子の成績ならあそこに入れなすよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出ていきたい、一日も早くここを出ていきたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻?無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわかる?」

 「わからない」と僕は言った。

 「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかって思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずるずる行っちゃうんじゃないかって怖かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小林具合わるいんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘ついてがんばったのよ。それで無遅刻?無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語をとったの。だってあの学校に恩なんか着せられちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ。」

 「学校のどこが嫌いだったの?」

 「あなた学校好きだった?」

 「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気にはしなかったな。」

 「あの学校ね」と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。「エリートの女の子のあつまる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持の娘ばかりね。。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄付もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借りきって塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル?オークラの食堂でテーブル?マナーの講習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田《ちよだ》区三番町、港区|元麻布《もとあざぶ》、大田区|田園調布《でんえんちょうふ》、世田谷《せたがや》区|成城《せいじょう》……もうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県|柏市《かしわし》っていう女の子がいてね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家にあそびにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどっていうからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があって、小型車くらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたのよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス?ベンツで学校の近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや『グリーン?ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないワ。信じられる?」

 僕は首を振った。

 「豊島区北大塚《きたおおつか》なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一番|堅実《けんじつ》に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧?図解入り四十八手のとじこみ付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデー、ジャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあるけど、たいしたものないわよ。ミステリーとか、時代もの、風俗もの、そういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結婚式のスピーチ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐやめられる、などなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとか鉛筆とかノートとかそういうの並べてね。それだけ。『戦争と平和』もないし、『性的人間』もないし、『らい麦畑《むぎばたけ》』もないの。それが小林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっていうのよ?あなたうらやましい?」

 「情景が目の前に浮かぶね」

 「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持なの?」

 「うち?うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないし、とくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ?カローラがあって」

 「どんなアルバイトしてるの?」

 「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいいんだ」

 「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで」

 「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」

 「私通って学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上に両方の手のひらを上にに向けて言った。「それが問題だったのよ」

 「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることになるよ」

 「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」

 「わからないな」

 「お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だちに何かしましょう寄って言うでしょう、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、それは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日はひどい顔してるからそどに出たくないなあ』っていうのと同じね。ブスの子がそんなこと言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間の」

 「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。

 「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」

 彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。

 「君はなにかアルバイトしてる?」

 「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子《しょうさっし》みたいなのがついてるでしょ?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング?コースがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。あっという間よ。日比谷《ひびや》図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかくらでもくるし」

 「コツって、どんなコツ?」

 「つまりね、他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人は《あのこは文章がかける》って思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだが、わたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節がくると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だがら私けっこういいお金とってるのよ、その原稿書きで」

 「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだね、うまく」

 「そうねえ」と言って緑はすこし首ををひねった。「見つけようと思えばなんとか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」

「なるほど」と僕は感心して言った。

「ピース」と緑は言った。

 彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした’。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。

 「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターベイションしたりしてるだけさ」

 「ワタナベ君もするの、そういうの?」

 「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じように、男はマスターベイションやるんだ。みんなやる。誰でもやる。」

 「恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人も?」

 「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応《けいおう》大学の学生なんてマスターベイションしてからデートに行くよ。その方がおちつくからって」

 「そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね」

「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君、今度の日曜日は暇?あいてる?」

 「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」

 「よかったら一度うちにあそびにこない?小林書店に。店は閉まってるんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげるわよ」

 「ありがたいね」と僕は言った。

 緑はノートのベージを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。

「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれる?ごはん用意してるから」

 僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。

 日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れ《むれ》が中庭をぐるぐるとびまわり、近所の子供たちが網をもってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわきでは四、五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本か買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きなのだ。

 日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐそとを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先《のきさき》すれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植《はちうえ》が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で何人か客がこりこんできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。

 大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛《はんじょう》しているようには見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルから見て、このあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築《ぞうちく》されたら部分的に補修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えることのほうが多かった。

 人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑固《がんこ》に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。

 そんな道を十分ばかり歩いてガソリン?スタンドの角を右に曲ると小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。

 店はすっかりシャッターをおろし、シャッターには「週刊文春?毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はシャッターのわきにあるベルを押して、二、三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。

「シャッター開けて入ってらっしゃいよ」と彼女はどなった。

「ちょっと早かったけど、いいかな?」と僕もどなりかえした。

「かまわないわよ、ちっとも。二階に上がってきてよ。私、今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉まった。

 僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押しあげ、身をかがめて中に入り、またシャッターを下ろした。店の中はまっ暗かった。土間《どま》からあがったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファ?セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがあり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少なからずホッとした。

「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。

「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?」と緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビールをだしてテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。

「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待てる?」

「もちろん待てるよ」と僕は言った。

 僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めていた。彼女は素速く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで煮ものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素速く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗った。うしろから見ているとその姿はインドの打楽器《だがっき》奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が俊敏《しゅんびん》で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれを眺めていた。

「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。

「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向いて笑った。緑は細いブルージーンズの上にネイビーブルーTシャツを着ていた。Tシャツの背中にはアップル?レコードのりんごのマークが大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるでこしをがっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったんじゃないかと思えるくらいの華奢《きゃしゃ》な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの姿よりはずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭《りんかく》にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。

「そんなに立派な食事作ることなかったのにさ」と僕は言った。

「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑はふりむかずに言った。「昨日は私忙しくてろくに買物できなかったし、冷蔵庫のありあわせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたてて親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆んどお酒飲まないくせに家の中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね、遠慮なく」

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