饭饭TXT > 海外名作 > 《ノルウェイの森/挪威的森林(日文版)》作者:[日]村上春树【完结】 > 挪威的森林 (日文版).txt

第 6 页

作者:日-村上春树 当前章节:15574 字 更新时间:2026-6-15 22:18

「ありがとう」と僕は言った。

 それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づいた。靴を脱ぐときに横に置いてそのまま忘れてきてしまったのだ。僕はもう一度下におりて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から細長いグラスをだして、そこに水仙をいけた。

「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』?」

「知ってるよ、もちろん」

「昔フォーク?グループやってたの。ギター弾いて」

 そして彼女は「七つの水仙」を歌いながら料理を皿にもりつけていった。

 緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢のものに、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸い物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついていた。味つけはまったく関西風の薄味だった。

 「すごくおいしい」と僕は感心して言った。

 「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょ?見かけからして」

 「まあね」と僕は正直に言った。

 「あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?」

 「僕のためにわざわざ薄味でつくったの?」

 「まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」

 「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」

 「ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探したって関西のひとなんて一人もいないわよ。うちは東京?北関東系の一家なの」

 「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」

 「まあ話せば長くなるんだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆んど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょ、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃおうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしょうがなかったの。三日分のカレー作って毎日それをたべてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行って一番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マスターしたのまな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」

 「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。

 「あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味を覚えて。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的思考って駄目だけど」

 「誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思うよ、たしかに」

 「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょ。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなベラベラの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそういうとね、魚なんかおろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命爪に火をともすようにお金ためてザルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?」

 僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。

 「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子を作るための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使ってそれ買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一生懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャーつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」

 「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。

 「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわるいとは思うんだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかきちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのか全然知らないんだもの。」

 「お母さんはいつ亡くなったの?」

 「二年前」と彼女は短く答えた。「癌よ。脳腫瘍《のうしゅよう》。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだの。なんていうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに―」と彼女は何かの言いかけたが思いなおしてやめ、箸を置いてため息をついた。「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」

 「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。

 「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。

 僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。

 食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テーブルの上を拭き、どこかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。

 「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの」

 「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。

 緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変ってるわね。冗談なんかいわないって顔して冗談言うんだもの」

 緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとすりつけるようにして消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。

 「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木樵女《きこりおんな》みたいだ。無理に消そう思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているときに三ヶ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」

 「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」

 「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」

 「いいのよ、べつに。どうせ吸ったって同じくらいまずいんだもの」と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハード?パッケージをくるくるとまわした。「先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと」

 「どうしてそうと思ったの?」

 緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えていた。「どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?」

 「六月にやめたんだ」

 「どうしてやめたの?」

 「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さとか、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそうんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」

 「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」

 「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「多分そのせいで人にあまり好かれないんだろうね。昔からそうだな」

 「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女は頬杖をつきながらもそもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」

 僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。

 「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?」と僕は訊いてみた。

 「お母さんはお墓の中よ。二年前死んだの。」

 「それ、さっき聞いた」

 「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど。」

 「緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。

 「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。

 「そう」

 「お父さんは去年の六月にウルグアイに行ったまま戻ってこないの」

 「ウルグアイ?」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグアイなんかに?」

 「ウルグアイに移住《いじゅう》しようとしたのよ、あのひと。馬鹿みたいな話だけど。軍隊のときの知りあいがウルグアイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言いだして、そのまま一人で飛行機乗って行っちゃったの。私たち一生懸命とめたのよ、そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごいショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ。」

 僕はうまく木槌《きづち》が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。

 「お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか知ってる?こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くするよりはお前たち二人を死なせたほうがずっと良かった』って。私たち唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かってお前らがかわりにしにゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょっとひどすぎるとおもわない?」

 「まあ、そうだな」

 「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみんなちょっと変ってるのよ。どこか少しずつずれてんの」

 「みたいだね」と僕も認めた。

 「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かってお前らが代わりに死にゃよかったんだなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」

 「まあそう言われてみればそかもしれない」

 「そしてウルグアイに行っちゃったの。私たちをひょい放り捨てて」

 僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を棚にきちんとしまった。

 「それでお父さんからは連絡ないの?」と僕は訊いた。

 「一度だけ絵ハガキが来たわ。去年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ、あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終わりの方にももう少し落ちついたら私とお姉さんを呼びよせるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙出しても返事も来やしないし」

 「それでもしお父さんがウルグアイに来いて言ったら、君どうするの?」

 「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」

 「ウルグアイってそんなに不潔なの?」

 「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコいっぱいで、そこに蝿がいっぱいたかって、水洗《すいせん》便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。そういう映画をどこかで見たんじゃないかしら。お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはチャラチャラした車に乗って湘南あたりをドライブすることなの」

 「ふうん」

 「ウルグアイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」

 「それじゃこのお店は今誰がやってるの?」と僕は訊いてみた。

「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じゃないからなんとかとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃうつもりだけど」

 「お父さんのことは好きなの?」

 緑は首を振った。「とくに好きってわけでもないわね」

 「じゃあどうしてウルグアイまでついていくの?」

 「信用してるからよ」

 「信用?」

 「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用してるのよ、お父さんのとこを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグアイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?」

  僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」

 緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、別にどっちだっていいんだから」と彼女は言った。

その日曜日の午後にはばたばたといろんなコトが起きった。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスした。そんなふうに言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。

 僕らは大学の話をしながら食後のコーヒーを飲んでいると、消防自動車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で呼んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんとんと足早に階段を上がる音が聞こえた。

 僕は一人でコーヒーを飲みながらウルグアイっていったいどこにあったんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、このへんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウルグアイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。そのうちに緑が下におりてきて、ねえ、早く一緒に来てよといった。僕は彼女のあとをついて廊下のつきあたりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望《いちぼう》に見わたせた。三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな臭い匂いが漂っていた。

「あれ坂本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだす用にして言った。「坂本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないんだけど」

 僕は手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかったけれど、消防車が三台か四台あつまって消火作業をつづけていているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひしめいていた。

 「大事なものがあったらまとめて、ここは非難したほうがいいみたいだな」と僕は緑に言った。「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変るかもしれないし、すぐそこがガソリン?スタンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」

 「大事なものなんてないわよ」と緑は言った。

 「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえずのお金だってなきゃ困るし」

 「大丈夫よ。私逃げないもの」

 「ここが燃えても?」

 「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」

 僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女のいったいることがどこまで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になってきた。

 「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。

 「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。

 「まさか。危なくなったら僕は逃げるの。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」

 「冷たいのね」

 「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」

 「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えばいいもの」

 「唄?」

 緑は下から座布団《ざぶとん》を二枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んできた。そして僕らはもうもうと上がる黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はギターを弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙《ひんしゅく》をかわないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行為だとは思えなかったからだ。

 「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑は言った。

 彼女は昔はやったフォーク?ソングを唄った。唄もギターもお世辞にも上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン?ツリー』だの「バフ」だの『五〇〇マイル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄っていった。はじめのうち緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱《がっしょう》しようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえしていた。人々は大声で何かを呼んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプターがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと僕は思った。警官がラウト?スピーカーで野次馬に向かってもっと後ろに退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラスの割れる声がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールをのみながら気持良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作詞?作曲したという不思議な唄を唄った。

    あなたのためにシチュー作りたいのに

    私には鍋がない。

    あなたのためにマフラーを編みたいのに

    わたしには毛糸がない。

    あなたのために詩を書きたいのに

    私にはペンがない

 「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。

 僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン?スタンドに引火したら、この家も吹きとんじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとギターを置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。

 「私の作った唄どうだった?」と緑が訊いた。

 「ユニークで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。

 「ありがとう」と彼女は言った。「何もない―というのがテーマの」

 「わかるような気がする」と僕は肯いた。

 「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向っていった。

 「うん」

 「私ちっとも悲しくなかったの」

 「うん」

 「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」

 「そう?」

 「そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない」

 「でもいろいろ事情があるわけだろう?そうなるには」

 「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん?お母さんなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのよね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、『お前、私が死んで嬉しんだろう?」ってね。べつにうれしがないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」

 なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。

 「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが―お父さんとお母さんが―もう少し私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっと悲しい気持ちになるとかね」

 「あまり愛されなかったと思うの」

 彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーセント愛してくれる人を自分でみつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう決心したの」

 「すごいね」と僕は感心して言った。「それで成果はあがった?」

 「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えていた。「多分あまりに長く持ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ」

 「完璧な愛を?」

 「違うわよ。いくら私でもそこまえは求めてないわよ。私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向かって苺のシュート?ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたはなにもかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート?ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」

 「そんなの愛とはなんの関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。

 「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑は言った。「女の子にはね、そう言うのがものすごく大切なときがあるのよ」

 「苺のショート?ケーキを窓から放り投げることが?」

 「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいの。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のシュート?ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。お詫びにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート?ムース、それともチーズ?ケーキ?』」

 「するとどうなる?」

 「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」

 「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」

 「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。

 「そういう人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。「でも私、真剣にそういう考え方しかできないの。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方してるなんて思ったこともないし、そんなもの求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話すと、そんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」

 「そして火事で死んでやろうと思うの」

 「あら、これはそういうじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」

 「火事で死ぬことが?」

 「そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったのよ」と緑は言った。「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋《ちすじ》らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識と言えば痛みと苦しみだけ」

 緑はマルボロをくわえて火をつけた。

 「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりゆっくり死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたら薄暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私」

 結局それから三十分ほどで火事はおさまった。大した延焼もなく、怪我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。

 火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。

 「疲れたの?」と僕は訊いた。

 「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ほおっとして」

 「僕は緑の目を見ると、ミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落として、それが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。

 最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。

 「あなたには好きな女の子いるの?」

 「いるよ」

 「でも日曜日はいつも暇なのね?」

 「とても複雑なんだ」と僕は言った。

 そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。

 五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかもしれないからと、彼女は断った。

 「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとね、身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」

 「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。

 「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。

翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス?ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード?バーンスタインのLPを待っていた。ふたりともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしていた。クラブ?ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下がり、人々は人々はみんなしあわせそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。

 でも考えて見ればこの何年かのあいだ、いったいどんな風景に馴染んてきたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだったんだろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。

 僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。

その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今夜あそびにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていた、誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。

 僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ払わない程度にウィスキー?ソーダをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話をしていたのだが、待ちあわせの相手が来ると二人はそちらにいってしまった。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页