店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれていった。少し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたので、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。
「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。
「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。
正直な話し、僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろして、性欲やらアルコールやらのいりまじったわけのわからないエネルギーを眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。
「これからどうするの、ワタナベ?」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」
「じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな?」
「いけないわけがないでしょう?」と僕は笑って言った。
「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、どうだ?」
「いや、映画みたいですね、今日は」
「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガー?スタンドに入ってチーズ?バーカーを食べ、熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきた、すみませんが相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子たちだった。化粧も服装もごくまともで、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたし、夕方に髭も剃っていたし、おまけにトーマス?マンの『魔の山』を一心不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄で、グレーのヨットバーカーにホワイト?ジーンズをはき、大きなビニール?レザーの鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着て、指にはターコイズ?ブルーの指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先で目を押さえるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケーキを注文し、何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄な女の子は何回か首を横に振った。マービン?ゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容まで聴きとれなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダー?バッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄な方の女の子が僕に向かって、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を観た。
「このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか?」と彼女は言った。
「朝の五時すぎにですか?」と僕はびっくりして訊きかえした。
「ええ」
「ねえ、朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に寝に帰る時間ですよ。」
「ええ、それはよくわかってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。
「友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」
「家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな」
「でも私、朝の⑦時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。」
「じゃあ自動販売機でお酒買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の五時二十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即座の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめたばかりで、仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだが、最近になって彼が他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひどく落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちにつきあって一晩新宿でよるあかしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?」と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのわかるもわかからないもないでしょう」
「いつの話、それ?」
「おとといの夜」
「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ?」
「そう」
「どうして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」
「でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょう?彼女の気持ちはどうなるのよ?」とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。
「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけど、あとは」と僕は言った。
「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を超えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら殆んどやけでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。彼女の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動きに合わせて彼女は敏感に反応し、体をくねらせ、声をあげた。僕は中に入ると彼女は背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせるために一生懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠った。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気《ねむけ》をとり、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもガラス板に二、三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にビールを飲んだグラスが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。
五
「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないし、正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだ、とその手紙にはあった。
そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッドに腰かけた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカーテンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたまま、とりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何行かを読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられた。僕は目を閉じ、長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読んだ。
「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。
「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考えれば考えるほど、私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになってきました。私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子にとっては、物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれるかとか、そういうことを中心に物事を考えるものです。『公正』なんていうのはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。
しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことで、私だって自分自身を引きずりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。
こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんか?ここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療を受けていると、いやでも多かれ少なかれ分析的になってしまうものなのです。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれはこれを意味し、それ故にこうなのだ、とかね。こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。
しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますし、まわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが(正直言って、何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしら?)、今回はすごく落ち着いて書いています。きれいな空気、外界から遮断された静かな世界、規則正しい生活、毎日の運動、そういうものがやはり私には必要だったようでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。そんなわけで、私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半で、夕食を済ませ、お風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとして、窓の外は真っ暗です。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみんなとても星にくわしくて、あれが乙女座だとか射手座だとか私に教えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、ここの人々は鳥や花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話していると、私は自分がいろんなことについていかに無知であったかということを思い知らされますし、そんな風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフ(お医者、看護婦、事務、その他いろいろ)が二十人ちょっといます。とても広いところですから、これは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。
私はテニスとバスケット?ボールをやっています。バスケット?ボールのチームは患者(というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんね)とスタッフが入りまじって構成されています。でもゲームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだんだんわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれど、ゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。
ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方に癖があるように、感じ方や考え方や物の見方にも癖があるし、それはなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そういうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですが、それでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づけることができなくて、そしてそういうものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。
運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、なす、キウリ、西瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読んだり、専門家を招いたり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとか、そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか?西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。
私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうのにも専門家がいて(考えてみれば専門家だらけですね、ここは)、これはいい、これは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食事のせいです。
その他の時間、私たちは本を読んだり、レコードを聴いたり、編みものをしたりしています。TVとかラジオとかはありませんが、その代わりけっこうしっかりした図書館もありますし、レコード?ライブラリイもあります。レコード?ライブラリイにはマーラーのシンフォニーの全集からビートルズまで揃っていて、私はいつもここでレコードを借りて、部屋で聴いています。
この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が持てないのです。
担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。『外部の人』というのはつまり正常な世界の正常な人ということですが、それいわれても、私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に言って、私には両親にはあまり会いたくありません。あの人たちは私のことですごく混乱していて、会って話をしても私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんが、それはとても大事なことだし、避けて通ることはできない種類のことなのです。
でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷としては感じないで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を感じるし、それを嬉しく思うし、その気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとって、私の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたように、私はあなたが思っているより不完全な人間なのです。
ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会って、お互いに好意を抱き合っていたとしたら、いったいどうなっていたんだろうと。私がまともで、あなたもまともで(始めからまともですね)、キズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろう、と。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は公正に正直になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。
この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。前日までに電話連絡すれば、いつでも会うことができます。食事も一緒にできますし、宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい」
僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動販売機でコーラを買ってきて、それを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻し、机の上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にしては少しきちんとしすぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。奇妙な名前だった。僕はその名前について五、六分間考えをめぐらせてから、これはたぶんフランス語のami(友だち)からとったものだろうと想像した。
手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出た。その手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたように、日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出し、それについて僕なりに思いをめぐらしながら、僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に戻り、直子のいる「阿美寮」に長距離電話をかけてみた。受付の女性が出て、僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言い、できることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞き、三十分あとでもう一度電話をかけてほしいと言った。
僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切り、ナップザックに着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら『魔の山』のつづきを読んだ。それでもやっと眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。
六
月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたから、寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線自由席の切符を買い、いちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗り、熱いコーヒーとサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかを訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。地図でみると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行って、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所は終点のほんの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩けば「阿美寮」につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は思った。
二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニール?ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分がわるくなった。朝飲んだコーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん少なくなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前にはたき木が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにしばらくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。
そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉林を抜けて集落に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバスが停まるたびに何人かの客が降りた。乗りこんでくる客は一人もいなかった。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めて四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしばった段ボール箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。
やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降りてきた。二人の運転手は少し話しをしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。どうして我々のバスが峠の上でもう一台のバスが来るのを待っていたかという理由はすぐに明らかになった。山を少し下ったあたりから道幅が急に狭くなっていて二台の大型がすれちがうのはまったく不可能だったからだ。バスは何台かのライトバンや乗用車とすれちがったが、そのたびにどちらかがバックして、カーブのふくらみにぴったりと身を寄せなくてはならなかった。
谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作してある平地も狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いところだけがどの集落も同じで、バスが来ると犬たちは競いあうように吠えた。
僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを肩にかけて、谷川に沿って登山ルートを上り始めた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやって一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。
雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚かフィルターをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。
雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さで上に柵や網がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿は見えなかった。門のわきには「阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りします」というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジスタ?ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなものをニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そこにはミニ?バスと4WDのランド?クルーザーとダークブルーのボルボがとまっていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだった。
ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中の道をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向って、「いや、どうもすみませんでしたな」とたいしてすまなくもなさそうな口調で言った。自転車の泥よけには白いペンキで32と書いてあった。僕が名前を言うと彼はどこかに電話をかけ、僕の名前を二度繰り返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、はあ、わかりましたと答え、電話を切った。
「本館に行ってですな、石田先生と言って下さい」と門衛は言った。「その林の中の道を行くとロータリーに出ますから二本目の―-いいですか、左から二本目の道を行って下さい。すると古い建物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこに鉄筋のビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とるからわかると思います」
言われたとおりにロータリーの左から二本目の道を進んでいくと、つきあたりにはいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があった。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配され、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらしかった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建てとは言っても地面から掘りおこされたようにくぼんでいるところに建っているので、とくに威圧的な感じは受けない。建物のデザインはシンプルで、いかにも清潔そうに見えた。
玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入ると、受付に赤いワンピースを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように言われたのだと言った。彼女はにっこり笑ってロビーにある茶色のソファーを指差し、そこに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そして電話のダイヤルをまわした。僕は肩からネップザックを下ろしてそのふかふかとしたソファーに座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良いロビーだった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待っているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。
途中で一度受付の女性が「もう少しで見えますから」と僕に声をかけた。僕は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたりには何の物音もない。何だかまるで午睡の時間みたいだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっすり眠り込んでしまったみたいに静かな午後だった。
しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をした中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を組んだ。そして僕と握手した。握手しながら、僕の手を表向けたり裏向けたりして観察した。
「あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょう?」と彼女はまず最初にいった。
「ええ」と僕はびっくりして答えた。
「手を見るとわかるのよ」と彼女は笑って言った。
とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。そのしわはまるで生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の顔によく馴染んでいた。彼女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっぱいにちらばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。
髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、前髪も不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似合っていた。白いTシャツの上にブルーのワークシャツを着て、クリーム色のたっぷりとした綿のズボンにテニス?シューズを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んどなく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い女大工みたいに見えた。
彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺めまわしていた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体の各部のサイズを測り始めるんじゃないかという気がするくらいだった。
「楽器何かできる?」