「いや、できません」と僕は応えた。
「それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに」
そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっぱりわからなかった。
彼女は胸のポケットからセブンスターを取り出して唇にくわえ、ライターで火をつけてうまそうに煙を吹き出した。
「えーとねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の方からここの説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二人でちょっとこうしてお話しすることにしたわけ。ここは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識もないといささか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだよく知らないでしょう?」
「ええ、殆んど何も」
「じゃ、まあ最初から説明すると……」と言いかけてから彼女は何かに気づいたというようにパチッと指を鳴らした。「ねえ、あなた何か昼ごはん食べた?おなかすいてない?」
「すいてますね」と僕は言った。
「じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょう。食事の時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思うわ」
彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある食堂まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われているのは半分だけで、あとの半分はついたてで仕切られていた。なんだかシーズン?オフのリゾート?ホテルにいるみたいだった、昼食メニューはヌードルの入ったポテト?シチューと、野菜サラダとオレンジ?ジュースとパンだった。直子が手紙に書いていたように野菜ははっとするくらいおいしかった。僕は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。
「あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ」と彼女は感心したように言った。
「本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし」
「よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだから。食べる?」
「要らないのなら食べます」と僕は言った。
「私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足りないぶんは煙草吸って埋めあわせてんの」彼女はそう言ってまたセブンスターをくわえて火をつけた。「そうだ、私のことレイコさんって呼んでね。みんなそう呼んでいるから」
僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト?シチューを食べパンをかじっている姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。
「あなたは直子の担当のお医者さんですか?」と僕は彼女に訊いてみた。
「私は医者?」と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。「なんで私が医者なのよ?」
「だって石田先生に会えって言われてきたから」
「ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私のこと先生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここにいてみんなの音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフだかわかんなくなっちゃってるわね、もう。私のことあなたに教えなかった?」
僕は首を振った。
「ふうん」とレイコさんは言った。「ま、とにかく、直子と私は同じ部屋で暮らしてるの。つまりルームメイトよね。あの子と一緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話して、あなたの話もよくするし」
「僕のとんな話するんだろう?」と僕は訊いてみた。
「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレイコさんは僕の質問を頭から無視して言った。「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいはセッションをするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチェックするだけであって、他の病院がやっているようないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというんじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。そこまでわかる?」
「なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどういうことなんでしょう?」
レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ?ジュースの残りを飲んだ。「ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮らしてるし、TVもあいし、ラジオもないし。今流行ってるコミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには結構高いお金かかるからそのへんはコミューンとは違うけど」
「そんなに高いんですか?」
「馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう?場所も広いし、患者の数は少なくスタッフは多いし、私の場合はもうずっと長くいるし、半分スタッフみたいなものだから入院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいいんだけど。ねえ、コーヒー飲まない?」
飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウンターのコーヒー?ウォーマーからふたつのカップにコーヒーを注いで運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてスプーンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲んだ。
「この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう?」
見た、と僕は言った。
「昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグループ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があって、ある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、法人になって、農場も広くなって、本館も五年前にできて」
「治療の効果はあったわけですね」
「ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教えるし、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるし、あなたも私を助けるの」
「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」
「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」
「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」
「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの」
「本当に?」と僕は訊いた。
「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの?私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんてわかんないわよ」
「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価値はあるでしょう」
「そうね、そうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくるくるとまわしていた。「でもね、ワタナベ君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」
僕は肯いた。
「それで直子はよくなっているんですか?」
「そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたし、私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち着いているし、しゃべり方もずいぶんましになってきたし、自分の言いたいことも表現できるようになってきたし……まあ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君っていうボーイ?フレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……」
「家庭的な背景?」と僕は驚いて訊きかえした。
「あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?」とレイコさんが余計に驚いて言った。
僕は黙って首を振った。
「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコーヒーをかきまわし、ひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら?」
「いいですよ」と僕は笑って言った。
「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」
「全部?」
「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループ?セッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」
僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えてきたんだけれど、今でもまだわからないんです」
「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょう?たとえ何が起ったにせよ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかしら」
僕は肯いた。
「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのって、時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの?」
「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけないし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから」
「いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないし、時間を気にしないでゆっくり話もできるし」
「私たちって誰のことですか?」
「私と直子の部屋よ、もちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれているし、ソファー?ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配しなくても」
「でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客が女性の部屋に泊まるとか?」
「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう?」
「もちろんしませんよ、そんなこと」
「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるし、私のギターも聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」
「でも本当に迷惑じゃないですか?」
レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえ、口の端をきゅっと曲げてから火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよ、個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら?」
「もちろん喜んで」と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」
「まさか」と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私、それ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね」
「開くとどうなるんですか?」
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。
我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プールとテニス?コートとバスケット?コートのそばを通り過ぎた。テニス?コートでは男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているというよりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中断してやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニス?コートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。
先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよ、とレイコさんが教えてくれた。
「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きながら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるし、小さなスーパー?マーケットみたいなのもあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるし、まず不便はないわね」
「町に出ることはできないんですか?」と僕は質問した。
「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、そういう特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでしょう?そんなことしたら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルト?ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカーテンが引かれていた。
「ここはC地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切られて、一区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど」
「とても静かですね」と僕は言った。
「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、グループ療法している人もいるし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ?壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ」
彼女は<C-7>という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシンプルで感じの良い住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それでいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだが、部屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがあり、揺り椅子があった。キッチンには食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯があり、文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあって、簡単な料理なら作れるようになっていた。
「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう?」とレイコさんは言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」
「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないもの」
「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩いてソファーに座らせ、自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよ、ここの冬は。どこを見まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、膝の上で手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っているソファーをぽんぽんと叩いた。「私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それでいいでしょう?」
「僕の方はべつに構いませんと」
「じゃ、それで決まりね」とレイコさんは言った。「私たちたぶん五時頃にここに戻ってくると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるから、あなた一人でここで待ってほしいんだけれど、いいかしら?」
「いいですよ、ドイツ語の勉強してますから」
レイコさんが出ていってしまうと僕はソファーに寝転んで目を閉じた。そして静かさの中に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふとキズキと二人でバイクに乗って遠出したときのことを思い出した。そういえばあれもたしか秋だったなあと僕は思った。何年前の秋だっけ?四年前だ。僕はキズキの革ジャンパーの匂いとあのやたら音のうるさいヤマハの一ニ五CCの赤いバイクのことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで出かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事があったわけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。秋の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパーを両手でしっかりと掴んだまま空を見上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ばされそうな気がしたものだった。
長いあいだ僕は同じ姿勢でソファーに身を横たえて、その当時のことを次から次へと思い出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋の中で横になっていると、これまであまり思い出したことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるものは楽しく、あるものは少し哀しかった。
どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もしなかった記憶の洪水(それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと湧き出していたのだ)にひたりきっていて、直子がそっとドアを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしなかったくらいだった。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子の目をじっと見ていた。彼女はソファーの手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕自身の記憶がつむぎあげたイメージなのではないかと思った。でもそれは本物の直子だった。
「寝てたの?」と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。
「いや、考えごとしてただけだよ」と僕は言った。そして体を起こした。「元気?」
「ええ、元気よ」と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色あいの遠くの情景にように見えた。「あまり時間がないの。本当はここに来ちゃいけないんだけれど、ちょっとした時間見つけて来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい髪してるでしょう?」
「そんなことないよ。とても可愛いよ」と僕は言った。彼女はまるで小学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じようにきちんとピンでとめていた。その髪型は本当によく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木版画によく出てくる美しい少女のように見えた。
「面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う?可愛いって?」
「本当にそう思うよ」
「でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ」と直子は言った。そして髪留めを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪留めだった。
「私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかったの。そうしないと私うまく馴染めないの。私って不器用だから」
「少しは馴れた?」
「少しね」と彼女は言って、また髪留めに手をやった。「でももう時間がないの。私、いかなくちゃ」
僕は肯いた。
「ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも私、もしここにいることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと特殊な場所だし、システムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だからもしそう感じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしないから。私たちここではみんな正直なの。正直にいろんなことを言うのよ」
「ちゃんと正直に言うよ」
直子はソファーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみたいにそのままの姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が少し熱くなった。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドアを開けて出て行った。
直子が行ってしまうと、僕はソファーの上で眠った。眠るつもりはなかったのだけれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所には直子の使う食器があり、バスルームには直子の使う歯ブラシがあり、寝室には直子の眠るベッドがあった。僕はそんな部屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりとるように深く眠った。そして薄闇の中を舞う蝶の夢をみた。
目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が少し変り、風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナップザックからタオルを出して顔を拭き、シャツを新しいものに変えた。それから台所に行って水を飲み、流しの前の窓から外を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓の内側には切り紙細工がいくつか糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫のシルエットが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあわされていた。あたりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたいだった。
人々が「C地区」に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だった。台所の窓からのぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見えた。三人とも帽子をかぶっていたので、顔つきや年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからするとそれほど若くはなさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくすると、また同じ方向から四人の女性がやってきて、同じように角を曲って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂っていた。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りのようなかたちに淡い光が浮かんでいた。
直子とレイコさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子ははじめて会うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わした。直子は本当に恥ずかしがっているようだった。レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマス?マンの『魔の山』だと僕は言った。
「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。
レイコさんがコーヒーをいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子に突撃隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕に蛍をくれた話をした。残念だわ、彼がいなくなっちゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかったのに、と直子はとても残念そうに言った。レイコさんが突撃隊について知りたがったので、僕はまた彼の話をした。もちろん彼女も大笑いをした。突撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ちていた。
六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と直子は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レイコさんはマカロニ?サラダとコーヒーだけしか取らなかった。そしてあとはまた煙草を吸った。
「年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるのよ」と彼女は説明するように言った。
食堂では二十人くらいの人々がテーブルに向って夕食を食べていた。僕らが食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行った。食堂の光景は人々の年齢がまちまちであることを別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違うのは誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を出すこともなければ、声をひそめるということもなかった。声をあげて笑ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりするようなものは一人もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をしていた。彼らはいくつかのグループにわかれて食事をしていた。ひとつのグループは三人から多くて五人だった。一人が何かをしゃべると他の人々はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべつの人がそれについてしばらく何かを話した。何について話しているのかはよくわからなかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニスのゲームを思いださせた。直子も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕はいぶかった。そして変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを感じた。
僕のうしろのテーブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の髪の薄い男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つきの中年女性に向って無重力状態で胃液の分泌はどうなるかについてくわしく説明していた。青年と女性は「はあ」とか「そうですか」とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞いていると、髪のうすい白衣の男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきた。
食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろじろとは見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだった。僕の参入は彼らにとってはごく自然な出来事であるようだった。
一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて「いつまでここにいらっしゃるんですか?」と僕に聞いた。
「二泊して水曜には帰ります」と僕は答えた。
「今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも真っ白でいいもんですよ」と彼は言った。
「直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ」とレイコさんは男に言った。
「いや、でも冬はいいよ」と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男が本当に医者なのかどうか僕はますますわからなくなってしましった。
「みんなどんな話をしているんですか?」と僕はレイコさんに訊ねてみた。彼女には質問の趣旨がよくかわらない様子だった。
「どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、そんないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって『今日は北極熊がお星様を食べたから明日は雨だ!』なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?」
「いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて」と僕は言った。「みんなごく静かに話しているから、いったいどんなことを話しているかなあとふと思っただけです」
「ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ」直子は魚の骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチで口もとを拭った。「それに声を大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必要もないし」
「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなった。僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それでもこの奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落ちつかなかった。その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された場所に集って、互い同士でしかわからない情報を交換しているのだ。
食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは「C地区」の中にある共同浴場に行ってくると言った。そしてもしシャワーだけでいいならバスルームのを使っていいと言った。そうすると僕は答えた。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでシャワーを浴び、髪を洗った。そしてドライヤーで髪を乾かしながら、本棚に並んでいたビル?エヴァンスのレコードを取り出してかけたが、しばらくしてから、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同じレコードであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼女を抱いたその夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん昔の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が引き伸ばされて狂ってしまったのだ。
月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファーに寝転んでビル?エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は様々な物事の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕はナップザックの中からブランディーを入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとくち口にふくんで、ゆっくりのみ下した。あななかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくのが感じられた。そしてそのあたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブランディーを飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。月の光は音楽にあわせて揺れているように見えた。
直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。
「部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て」とレイコさんが言った。「荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思ったわ」
「まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消してみたんですよ」
「でも素敵じゃない、こういうの」と直子は言った。「ねえ、レイコさん、この前停電のときつかったロウソクまだ残っていたかしら?」