「台所の引き出しよ、たぶん」
直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持ってきた。僕はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立てた。レイコさんがその火で煙草に火をつけた。あたりはあいかわらずひっそりとしていて、そんな中で三人でロウソクを囲んでいると、まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソクの光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜していた。僕と直子は並んでソファーに座り、レイコは向いの揺り椅子に腰掛けた。
「どう、ワインでも飲まない?」とレイコさんが僕に言った。
「ここはお酒飲んでもかまわないですか?」と僕はちょっとびっくりして言った。
「本当は駄目なんだけどねえ」とレイコは耳たぶを掻きながら照れくさそうに言った。「まあ大体は大目に見てるのよ。ワインとかビールくらいなら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、知り合いのスタッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってるの」
「ときどき二人で酒盛りするのよ」直子がいたずらっぽく言った。
「いいですね」と僕は言った。
レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラスを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワインだった。レコードが終るとレイコはベッドの下からギター?ケースを出してきていとおしそうに調弦してから、ゆっくりとバッハのフーガを弾きはじめた。ところどころで指のうまくまわらないところがあったけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、そこには演奏する喜びのようなものが充ちていた。
「ギターはここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでしょう、だからね。独学だし、それに指がギター向きになってないからなかなかうまくならないの。でもギター弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしくて……まるで小さな部屋みたい」
彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子はレイコさんにビートルスのものを弾いてほしいと頼んだ。
「リクエスト?タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように」
彼女はそう言いながら『ミシェル』をとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみ、煙草を吸った。
それから彼女は『ノーホエア?マン』を弾き、『ジェリア』を弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「『ノルウェイの森』を弾いて」と直子は言った。
レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
「なんですか、それ?」と僕は訊いた。
「私が『ノルウェイの森』をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリクエストするの」
「そしてそれが私の煙草代になるわけね」
レイコさんは指をよくほぐしてから『ノルウェイの森』を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。
「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」
「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。
直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワインを飲んだり煙草をふかしたりしていた。
「不思議な人みたいね」と直子は言った。
「不思議な男だよ」と僕は言った。
「でもその人のこと好きなのね?」
「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね」
「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と寝たんだって?」
「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」
「それがストイックなの?」と直子が訊ねた。
「彼にとってはね」
直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ」と彼女は言った。
「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」
「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように」
「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの」
直子は両脚をソファーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。「ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。
「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。
「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコット?フィッツジェラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい?」
「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?お酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの?」
「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。
直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。
「ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?」と直子がふと思いついたように小さな声で訊いた。
「八人か九人」と僕は正直に答えた。
レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十歳になってないでしょう?いったいどういう生活してんのよ、それ?」
直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだよ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだと思う」
直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよね?まだそのこと知りたい?」
「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。
「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして練習していた。
「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」
直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。
「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたの……わかるでしょう?」
僕は黙って肯いた。
直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そうでしょう?」
「うん」と僕は言った。
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」
「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」
彼女はテーブルの上のワイン?グラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイン?グラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。
「ね、ワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」
僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセーターを着た。「すみません」と僕はレイコさんに言った。
「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。
僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。
雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイ?ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。
僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんがギターを練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。
「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ私と二人で少し外を散歩しない?」
「いいですよ」と僕は言った。
僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニス?コートとバスケットボール?コートのあるところまで来て、そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。
「バスケットボールは?」
「それほど得意じゃないですね」
「じゃああなたいったい何が得意なの?」とレイコさんは目の横のしわを寄せるようにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」
「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。
「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなの?どんなことが得意なの?」
「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」
「どんなこと好き?」
「歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと」
「一人でやることが好きなのね?」
「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。「他人とやるゲームって昔からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめないんです。どうでもよくなっちゃうんです」
「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス?カントリー?スキーやるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ歩きまわって汗だくになって」とレイコさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと自分の右手を眺めた。
「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」
「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」
「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?」
「そうですね」と僕は言った。
「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするのを見てきたのよ」とレイコさんは言った。「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなおってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることはできないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的なことしかね」
「どうして直子に限って見当がつかないんですか?」
「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。それをほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」
彼女はもう一度バスケットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてから地面にバウンドさせた。
「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できるの?」
「やってみます」と僕は言った。
「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれないわよ。あなたそのこと考えてみた?」
僕は肯いた。
「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができるの?そこまで直子のことを愛してる?」
「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよくわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います」
「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?」
「それもどうしていいかよくわかりませんね」と僕は言った。「いったいどうすればいいんですか?ずっとマスターペーションしながら待ちつづけるべきなんですか?自分でもうまく収拾できないんですよ。そういうのって」
レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
考えてみます、と僕は言った。
「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレイコさんは言った。「信じる?」
「心から信じるよ、もちろん」
「心から信じる?」
「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。
「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その頃は。今ほどしわもなかったしね」
そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。
「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私はそう言われると嬉しいけどね」
「気をつけます」と僕は言った。
彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だった。その女の子は派手なスキー?ウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。
「なかなか美人でしょう?私の娘よ」とレイコさんは言った。「今年はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな」
「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。
「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレスでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。
「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それでボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。
「それでコンサート?ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッ!よ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて……私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ」
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。
三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。『もし私と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。『私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?」
レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボールを持ちあげた。
「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの」
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。
「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。