先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
十
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁(ちょう)も二丁もつづいた。その後(あと)で突然先生が口を利(き)き出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻(さい)はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀(かわい)そうなものですね。私(わたくし)の妻などは私より外(ほか)にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで途切(とぎ)れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽(こっけい)だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位(ちゅうぐらい)に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅(うち)へ帰るには私の下宿のつい傍(そば)を通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅(たく)の前までお伴(とも)しましょうか」といった。先生は忽(たちま)ち手で私を遮(さえぎ)った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君(さいくん)のために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後(ご)も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った波瀾(はらん)が、大したものでない事はこれでも解(わか)った。それがまた滅多(めった)に起る現象でなかった事も、その後絶えず出入(でい)りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩(も)らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻(さい)以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対(いっつい)であるべきはずです」
私は今前後の行(ゆ)き掛(がか)りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然(はっきり)いう事ができない。けれども先生の態度の真面目(まじめ)であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中(うち)で疑(うたぐ)らざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬(ほうむ)られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向(さしむか)いで話をする機会に出合った。先生はその日横浜(よこはま)を出帆(しゅっぱん)する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋(しんばし)へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃(ころ)の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義(れいぎ)としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
十一
その時の私(わたくし)はすでに大学生であった。始めて先生の宅(うち)へ来た頃(ころ)から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分(だいぶ)懇意になった後(のち)であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向(さしむか)いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経(た)ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切(みっせつ)の関係をもっている私より外(ほか)に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜(お)しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利(き)いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜(けんそん)過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼(だれかれ)を捉(とら)えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々(うんぬん)してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解(わか)らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目(だめ)ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下(くだ)らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解(わか)らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目(まじめ)だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
十二
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合(あい)の子(こ)なんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取(とっとり)かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分(じぶん)の市ヶ谷(いちがや)で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟(にいがた)県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶(なま)めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎(つつし)んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶(つや)っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描(えが)き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨(みじめ)なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻(さっき)いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或(あ)る時花時分(はなじぶん)に私は先生といっしょに上野(うえの)へ行った。そうしてそこで美しい一対(いっつい)の男女(なんにょ)を見た。彼らは睦(むつ)まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好(よ)さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外(ほか)に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評(ひやかし)のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交(まじ)っていましょう」
「そんな風(ふう)に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解(わか)っていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
十三
我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉(うれ)しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私(わたくし)がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上(のぼ)る楷段(かいだん)なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異(こと)にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)としてよく解(わか)らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然(はっきり)いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実(まこと)を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮(じら)していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓(うぐいすだに)の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間(すきま)から広い庭の一部に茂る熊笹(くまざさ)が幽邃(ゆうすい)に見えた。
「君は私がなぜ毎月(まいげつ)雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地に埋(うま)っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮(じら)せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止(や)めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます解(わか)らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
十四
年の若い私(わたくし)はややともすると一図(いちず)になりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ独(ひと)りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上(のぼせ)ちゃいけません」と先生がいった。
「覚(さ)めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯(うけ)がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭(いや)になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿(つばき)の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺(なが)める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣(いけがき)の向うで金魚売りらしい声がした。その外(ほか)には何の聞こえるものもなかった。大通りから二丁(ちょう)も深く折れ込んだ小路(こうじ)は存外(ぞんがい)静かであった。家(うち)の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間(ま)に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪(のろ)うより外(ほか)に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖(こわ)くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿(たど)って行きたかった。すると襖(ふすま)の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間(ま)へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解(わか)らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺(あざむ)かれた返報に、残酷な復讐(ふくしゅう)をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝(ひざ)の前に跪(ひざまず)いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載(の)せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥(しりぞ)けたいと思うのです。私は今より一層淋(さび)しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己(おの)れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
十五
その後(ご)私(わたくし)は奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は満足とも不満足とも極(き)めようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多(めった)に顔を合せなかったから。
私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐(すわ)って考える質(たち)の人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造(せきぞう)家屋の輪廓(りんかく)とは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏(まと)め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯(みね)のようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽(おお)い被(かぶ)せた。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも解(わか)らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震(ふる)わせた。
私は先生のこの人生観の基点に、或(あ)る強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛(てがか)りにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世(えんせい)に近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪(ひざまず)いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載(の)せさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼(たれかれ)について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ヶ谷(ぞうしがや)にある誰(だれ)だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命(いのち)の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵(かぎ)にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃(ころ)は日の詰(つま)って行くせわしない秋に、誰も注意を惹(ひ)かれる肌寒(はださむ)の季節であった。先生の附近(ふきん)で盗難に罹(かか)ったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた家(うち)はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家を空(あ)けなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外(ほか)の二、三名と共に、ある所でその友人に飯(めし)を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。
十六
私(わたくし)の行ったのはまだ灯(ひ)の点(つ)くか点かない暮れ方であったが、几帳面(きちょうめん)な先生はもう宅(うち)にいなかった。「時間に後(おく)れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には洋机(テーブル)と椅子(いす)の外(ほか)に、沢山の書物が美しい背皮(せがわ)を並べて、硝子越(ガラスごし)に電燈(でんとう)の光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団(ざぶとん)の上へ私を坐(すわ)らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏(かしこ)まったまま烟草(タバコ)を飲んでいた。奥さんが茶の間で何か下女(げじょ)に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角(かど)にあるので、棟(むね)の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領(りょう)していた。ひとしきりで奥さんの話し声が已(や)むと、後(あと)はしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、凝(じっ)としながら気をどこかに配った。
三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪(しかつめ)らしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に紅茶茶碗(こうちゃぢゃわん)を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好(よ)くありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴(ちょうだい)。ご退屈(たいくつ)だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜(よろ)しければあちらで上げますから」
私は奥さんの後(あと)に尾(つ)いて書斎を出た。茶の間には綺麗(きれい)な長火鉢(ながひばち)に鉄瓶(てつびん)が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走(ちそう)になった。奥さんは寝(ね)られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛(でか)けになるんですか」
「いいえ滅多(めった)に出た事はありません。近頃(ちかごろ)は段々人の顔を見るのが嫌(きら)いになるようです」
こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風(ふう)も見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「そりゃ嘘(うそ)です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方(かた)だけあって、なかなかお上手(じょうず)ね。空(から)っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同(おん)なじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空(から)の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手痛(てひど)かった。しかしその言葉の耳障(みみざわり)からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出(みいだ)すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
十七
私(わたくし)はまだその後(あと)にいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒(いたず)らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗(こうちゃぢゃわん)の底を覗(のぞ)いて黙っている私を外(そ)らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数(かず)を聞いた。奥さんの態度は私に媚(こ)びるというほどではなかったけれども、先刻(さっき)の強い言葉を力(つと)めて打ち消そうとする愛嬌(あいきょう)に充(み)ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱(しか)り付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
二人はそれを緒口(いとくち)にまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻(さっき)の続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空(から)な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上(うわ)の空(そら)でいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外(ほか)に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目(まじめ)ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好(い)いじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚(おのぼれ)になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に好(よ)く映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃(ちかごろ)では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人(いちにん)として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑(の)み込めた。
十八
私(わたくし)は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟(しげき)を与えた。それで奥さんはその頃(ころ)流行(はや)り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
私は女というものに深い交際(つきあい)をした経験のない迂闊(うかつ)な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬(どうけい)の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を眺(なが)めるような心持で、ただ漠然(ばくぜん)と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力(はんぱつりょく)を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通男女(なんにょ)の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間(あいだ)始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因(げんいん)がちゃんと解(わか)るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛(つら)いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍(なんべん)あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。奥さんも言葉を途切(とぎ)らした。下女部屋(げじょべや)にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を掻(か)き馴(な)らした。それから水注(みずさし)の水を鉄瓶(てつびん)に注(さ)した。鉄瓶は忽(たちま)ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防(しんぼう)し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは眼の中(うち)に涙をいっぱい溜(た)めた。
十九
始め私(わたくし)は理解のある女性(にょしょう)として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓(ハート)を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠(わだか)まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開(あ)けて見極(みきわ)めようとすると、やはり何(なん)にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的(えんせいてき)だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭(いや)になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人(おっと)らしかった。親切で優しかった。疑いの塊(かたま)りをその日その日の情合(じょうあい)で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観(じんせいかん)とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴(ちょうだい)」