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作者:日-夏目漱石 当前章节:15401 字 更新时间:2026-6-15 23:39

 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。

「私には解(わか)りません」

 奥さんは予期の外(はず)れた時に見る憐(あわ)れな表情をその咄嗟(とっさ)に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。

「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘(うそ)を吐(つ)かない方(かた)でしょう」

 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。

「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」

「先生がああいう風(ふう)になった源因(げんいん)についてですか」

「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」

「どんな事ですか」

 奥さんはいい渋って膝(ひざ)の上に置いた自分の手を眺めていた。

「あなた判断して下すって。いうから」

「私にできる判断ならやります」

「みんなはいえないのよ。みんないうと叱(しか)られるから。叱られないところだけよ」

 私は緊張して唾液(つばき)を呑(の)み込んだ。

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好(い)いお友達が一人あったのよ。その方(かた)がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

 奥さんは私の耳に私語(ささや)くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。

「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後(のち)なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」

「その人の墓ですか、雑司ヶ谷(ぞうしがや)にあるのは」

「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪(たま)らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」

 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。

   二十

 私(わたくし)は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の大根(おおね)を攫(つか)んでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂(ただよ)う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆(すっかり)は私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束(おぼつか)ない私の判断に縋(すが)り付こうとした。

 十時頃(ごろ)になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐(すわ)っている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子(こうし)を開ける先生をほとんど出合(であ)い頭(がしら)に迎えた。私は取り残されながら、後(あと)から奥さんに尾(つ)いて行った。下女(げじょ)だけは仮寝(うたたね)でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。

 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜(たま)った涙の光と、それから黒い眉毛(まゆげ)の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺(なが)めた。もしそれが詐(いつわ)りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとくに私を相手に拵(こしら)えた、徒(いたず)らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。

 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合(はりあい)が抜けやしませんか」といった。

 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰(つぶ)させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、先刻(さっき)出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂(たもと)へ入れて、人通りの少ない夜寒(よさむ)の小路(こうじ)を曲折して賑(にぎ)やかな町の方へ急いだ。

 私はその晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き抜いてここへ詳(くわ)しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰(もら)って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日(よくじつ)午飯(ひるめし)を食いに学校から帰ってきて、昨夜(ゆうべ)机の上に載(の)せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色(とびいろ)のカステラを出して頬張(ほおば)った。そうしてそれを食う時に、必竟(ひっきょう)この菓子を私にくれた二人の男女(なんにょ)は、幸福な一対(いっつい)として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。

 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅(うち)へ出(で)はいりをするついでに、衣服の洗(あら)い張(は)りや仕立(した)て方(かた)などを奥さんに頼んだ。それまで繻絆(じゅばん)というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌(たいくつしの)ぎになって、結句(けっく)身体(からだ)の薬だぐらいの事をいっていた。

「こりゃ手織(てお)りね。こんな地(じ)の好(い)い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪(にく)いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭(かげ)で針を二本折りましたわ」

 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒(めんどう)くさいという顔をしなかった。

二十一

 冬が来た時、私(わたくし)は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。

 父はかねてから腎臓(じんぞう)を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病(やまい)は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭(かげ)一つで、今日(こんにち)までどうかこうか凌(しの)いで来たように客が来ると吹聴(ふいちょう)していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機(はずみ)に突然眩暈(めまい)がして引ッ繰り返った。家内(かない)のものは軽症の脳溢血(のういっけつ)と思い違えて、すぐその手当をした。後(あと)で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。

 冬休みが来るにはまだ少し間(ま)があった。私は学期の終りまで待っていても差支(さしつか)えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗(な)めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数(てかず)と時間を省くため、私は暇乞(いとまご)いかたがた先生の所へ行って、要(い)るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。

 先生は少し風邪(かぜ)の気味で、座敷へ出るのが臆劫(おっくう)だといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸(ガラスど)から冬に入(い)って稀(まれ)に見るような懐かしい和(やわ)らかな日光が机掛(つくえか)けの上に射(さ)していた。先生はこの日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火鉢を置いて、五徳(ごとく)の上に懸けた金盥(かなだらい)から立ち上(あが)る湯気(ゆげ)で、呼吸(いき)の苦しくなるのを防いでいた。

「大病は好(い)いが、ちょっとした風邪(かぜ)などはかえって厭(いや)なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。

 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。

「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平(まっぴら)です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解(わか)ります」

「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹(かか)りたいと思ってる」

 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」

 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥(ちゃだんす)か何かの抽出(ひきだし)から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。

「何遍(なんべん)も卒倒したんですか」と先生が聞いた。

「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」

「ええ」

 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。

「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。

「そうさね。私が代られれば代ってあげても好(い)いが。――嘔気(はきけ)はあるんですか」

「どうですか、何とも書いてないから、大方(おおかた)ないんでしょう」

「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。

 私はその晩の汽車で東京を立った。

   二十二

 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床(とこ)の上に胡坐(あぐら)をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう凝(じっ)としている。なにもう起きても好(い)いのさ」といった。しかしその翌日(よくじつ)からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性(ふしょうぶしょう)に太織(ふとお)りの蒲団(ふとん)を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。私(わたくし)には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。

 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母(ちちはは)の顔を見る自由の利(き)かない男であった。妹は他国へ嫁(とつ)いだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹(きょうだい)三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放(ほう)り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。

「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山(ぎょうさん)な手紙を書くものだからいけない」

 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床(とこ)を上げさせて、いつものような元気を示した。

「あんまり軽はずみをしてまた逆回(ぶりかえ)すといけませんよ」

 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極(きわ)めて軽く受けた。

「なに大丈夫、これでいつものように要心(ようじん)さえしていれば」

 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈(めまい)も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。

 私は先生に手紙を書いて恩借(おんしゃく)の礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気(はきけ)も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪(ふうじゃ)についても一言(いちごん)の見舞を附(つ)け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。

 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂(うわさ)などをしながら、遥(はる)かに先生の書斎を想像した。

「こんど東京へ行くときには椎茸(しいたけ)でも持って行ってお上げ」

「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」

「旨(うま)くはないが、別に嫌(きら)いな人もないだろう」

 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。

 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。

 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰(もら)っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛(あて)で書いた大変長いものである。

 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外(そと)へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣(きづか)って、私が引き添うように傍(そば)に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。

   二十三

 私(わたくし)は退屈な父の相手としてよく将碁盤(しょうぎばん)に向かった。二人とも無精な性質(たち)なので、炬燵(こたつ)にあたったまま、盤を櫓(やぐら)の上へ載(の)せて、駒(こま)を動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団(かけぶとん)の下から出すような事をした。時々持駒(もちごま)を失(な)くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付(みつ)け出して、火箸(ひばし)で挟(はさ)み上げるという滑稽(こっけい)もあった。

「碁(ご)だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好(い)いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」

 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居(いんきょ)じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経(た)つに伴(つ)れて、若い私の気力はそのくらいな刺戟(しげき)で満足できなくなった。私は金(きん)や香車(きょうしゃ)を握った拳(こぶし)を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。

 私は東京の事を考えた。そうして漲(みなぎ)る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動(こどう)を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人(おとな)しい男であった。他(ひと)に認められるという点からいえばどっちも零(れい)であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来(ゆきき)をした覚(おぼ)えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷(ひや)やか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰(く)い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。

 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐(ちんぷ)になって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待(もてな)されるのに、その峠を定規通(ていきどお)り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解(わか)らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者(じゅしゃ)の家へ切支丹(キリシタン)の臭(にお)いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留(と)まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。

 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。

「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。

「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。

 私は自分の極(き)めた出立(しゅったつ)の日を動かさなかった。

   二十四

 東京へ帰ってみると、松飾(まつかざり)はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。

 私(わたくし)は早速(さっそく)先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸(しいたけ)もついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧(ていねい)に礼を述べた奥さんは、次の間(ま)へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子(おかし)」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに極(きわ)めて淡泊(たんぱく)な小供(こども)らしい心を見せた。

 二人とも父の病気について、色々掛念(けねん)の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。

「なるほど容体(ようだい)を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」

 先生は腎臓(じんぞう)の病(やまい)について私の知らない事を多く知っていた。

「自分で病気に罹(かか)っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官(しかん)は、とうとうそれでやられたが、全く嘘(うそ)のような死に方をしたんですよ。何しろ傍(そば)に寝ていた細君(さいくん)が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、翌(あく)る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」

 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。

「私の父(おやじ)もそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」

「医者は何というのです」

「医者は到底(とても)治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」

「それじゃ好(い)いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」

 私はやや安心した。私の変化を凝(じっ)と見ていた先生は、それからこう付け足した。

「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆(もろ)いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」

「先生もそんな事を考えてお出(いで)ですか」

「いくら丈夫の私でも、満更(まんざら)考えない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間(ま)に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」

「不自然な暴力って何ですか」

「何だかそれは私にも解(わか)らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」

「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭(かげ)ですね」

「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」

 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後(あと)は何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度(いくたび)か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。

   二十五

 その年の六月に卒業するはずの私(わたくし)は、ぜひともこの論文を成規通(せいきどお)り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑(うたぐ)った。他(ほか)のものはよほど前から材料を蒐(あつ)めたり、ノートを溜(た)めたりして、余所目(よそめ)にも忙(いそが)しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽(たちま)ち動けなくなった。今まで大きな問題を空(くう)に描(えが)いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を抑(おさ)えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏(まと)める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。

 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は好(い)いでしょうといった。狼狽(ろうばい)した気味の私は、早速(さっそく)先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫(ごう)も私を指導する任に当ろうとしなかった。

「近頃(ちかごろ)はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」

 先生は一時非常の読書家であったが、その後(ご)どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。

「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」

「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」

「それから、まだあるんですか」

「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」

 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味(くみ)を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応(てごた)えもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。

 それからの私はほとんど論文に祟(たた)られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前(ぜん)に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人(いちにん)は締切(しめきり)の日に車で事務所へ馳(か)けつけて漸(ようや)く間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後(おく)らして持って行ったため、危(あやう)く跳(は)ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据(す)えた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻(みまわ)した。私の眼は好事家(こうずか)が骨董(こっとう)でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。

 梅が咲くにつけて寒い風は段々向(むき)を南へ更(か)えて行った。それが一仕切(ひとしきり)経(た)つと、桜の噂(うわさ)がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭(むち)うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨(また)がなかった。

   二十六

 私(わたくし)の自由になったのは、八重桜(やえざくら)の散った枝にいつしか青い葉が霞(かす)むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠(かご)を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目(ひとめ)に見渡しながら、自由に羽搏(はばた)きをした。私はすぐ先生の家(うち)へ行った。枳殻(からたち)の垣が黒ずんだ枝の上に、萌(もえ)るような芽を吹いていたり、柘榴(ざくろ)の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。

 先生は嬉(うれ)しそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「お蔭(かげ)でようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。

 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了(けつりょう)して、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々(ちょうちょう)した。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、聊(いささ)か拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循(いんじゅん)らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々(いきいき)していた。私は青く蘇生(よみがえ)ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。

「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好(い)い心持です」

「どこへ」

 私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴(つ)れて郊外へ出たかった。

 一時間の後(のち)、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛(あて)もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を(も)ぎ取って芝笛(しばぶえ)を鳴らした。ある鹿児島人(かごしまじん)を友達にもって、その人の真似(まね)をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。

 やがて若葉に鎖(と)ざされたように蓊欝(こんもり)した小高い一構(ひとかま)えの下に細い路(みち)が開(ひら)けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら上(のぼ)りになっている入口を眺(なが)めて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。

 植込(うえこみ)の中を一(ひと)うねりして奥へ上(のぼ)ると左側に家(うち)があった。明け放った障子(しょうじ)の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先(のきさき)に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。

「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」

「構わないでしょう」

 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅(つつじ)が燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色(かばいろ)の丈(たけ)の高いのを指して、「これは霧島(きりしま)でしょう」といった。

 芍薬(しゃくやく)も十坪(とつぼ)あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬畠(ばたけ)の傍(そば)にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った端(はじ)の方に腰をおろして烟草(タバコ)を吹かした。先生は蒼(あお)い透(す)き徹(とお)るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺(なが)めると、一々違っていた。同じ楓(かえで)の樹(き)でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂(いただき)に投げ被(かぶ)せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。

   二十七

 私(わたくし)はすぐその帽子を取り上げた。所々(ところどころ)に着いている赤土を爪(つめ)で弾(はじ)きながら先生を呼んだ。

「先生帽子が落ちました」

「ありがとう」

 身体(からだ)を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。

「突然だが、君の家(うち)には財産がよっぽどあるんですか」

「あるというほどありゃしません」

「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」

「どのくらいって、山と田地(でんぢ)が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」

 先生が私の家(いえ)の経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを疑(うたぐ)った。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな露骨(あらわ)な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。

「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」

「私は財産家と見えますか」

 先生は平生からむしろ質素な服装(なり)をしていた。それに家内(かない)は小人数(こにんず)であった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢(ぜいたく)といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。

「そうでしょう」と私がいった。

「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家(うち)でも造るさ」

 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐(あぐら)をかいていたが、こういい終ると、竹の杖(つえ)の先で地面の上へ円のようなものを描(か)き始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直(まっすぐ)に立てた。

「これでも元は財産家なんだがなあ」

 先生の言葉は半分独(ひと)り言(ごと)のようであった。それですぐ後(あと)に尾(つ)いて行き損なった私は、つい黙っていた。

「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他(よそ)へ移した。

「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」

 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替(かわせ)と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟(しゅせき)であったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫(ふる)えが少しも筆の運(はこ)びを乱していなかった。

「何ともいって来ませんが、もう好(い)いんでしょう」

「好(よ)ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」

「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」

「そうですか」

 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。

   二十八

「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰(もら)うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」

「ええ」

 私(わたくし)は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。

「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣(ことばづか)いをするのが気に触(さわ)ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」

 先生の口気(こうき)は珍しく苦々しかった。

「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。

「君の兄弟(きょうだい)は何人でしたかね」と先生が聞いた。

 先生はその上に私の家族の人数(にんず)を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父(おじ)や叔母(おば)の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。

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