十九
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供(こども)の時からの仲好(なかよし)でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗(しんしゅう)の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派(ほんがんじは)の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他(ほか)のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃(としごろ)になったとすると、檀家(だんか)のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐(ふところ)から出るのではありません。そんな訳で真宗寺(しんしゅうでら)は大抵有福(ゆうふく)でした。
Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏(まと)まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家(うち)へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場(きょうじょう)で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰(もら)って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ室(へや)によく二人も三人も机を並べて寝起(ねお)きしたものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にいました。山で生捕(いけど)られた動物が、檻(おり)の中で抱き合いながら、外を睨(にら)めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏(おそ)れました。それでいて六畳の間(ま)の中では、天下を睥睨(へいげい)するような事をいっていたのです。
しかし我々は真面目(まじめ)でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進(しょうじん)という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉(ことごと)くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬(いけい)していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解(わか)りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥(はる)かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家(ようか)では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺(あざむ)くと同じ事ではないかと詰(なじ)りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然(ばくぜん)とした言葉が尊(たっ)とく響いたのです。よし解らないにしても気高(けだか)い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組(いきぐみ)に卑(いや)しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図(いちず)な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当(しとう)になるくらいな語気で私は賛成したのです。
二十
「Kと私(わたくし)は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込(こまごめ)のある寺の一間(ひとま)を借りて勉強するのだといっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音(おおがんのん)の傍(そば)の汚い寺の中に閉(と)じ籠(こも)っていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室(へや)でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は手頸(てくび)に珠数(じゅず)を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似(まね)をして見せました。彼はこうして日に何遍(なんべん)も珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には解(わか)りません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留めたでしょう。詰(つま)らない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経(きょう)の名を度々(たびたび)彼の口から聞いた覚えがありますが、基督教(キリストきょう)については、問われた事も答えられた例(ためし)もなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその理由(わけ)を訊(たず)ねずにはいられませんでした。Kは理由はないといいました。これほど人の有難(ありがた)がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。家(うち)でもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が一向(いっこう)外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否(いな)やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年(まいとし)家(うち)へ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏み留(とど)まって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾(はらん)に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝(ゆううつ)と孤独の淋(さび)しさとを一つ胸に抱(いだ)いて、九月に入(い)ってまたKに逢(あ)いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、養家先(ようかさき)へ手紙を出して、こっちから自分の詐(いつわ)りを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更(いまさら)仕方がないから、お前の好きなものをやるより外(ほか)に途(みち)はあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ入ってまでも養父母を欺(あざむ)き通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
二十一
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙(だま)すような不埒(ふらち)なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私(わたくし)に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰(しょかん)も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責(きっせき)の言葉がありました。養家先(ようかさき)へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切(いっさい)構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他(た)に妥協の道を講じて、依然養家に留(とど)まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点についてKに何か考(かんが)えがあるのかと尋ねました。Kは夜学校(やがっこう)の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、存外(ぞんがい)世の中が寛(くつ)ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底(ふってい)でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背(そむ)いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱(こまぬ)いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳(は)ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の下(もと)に立つより遥(はるか)に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を完(まっと)うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜(お)しむ彼にとって、この仕事がどのくらい辛(つら)かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩(ゆる)めずに、新しい荷を背負(しょ)って猛進したのです。私は彼の健康を気遣(きづか)いました。しかし剛気(ごうき)な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、段々こん絡(がら)がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末(てんまつ)を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を促(うなが)したのですが、Kは到底駄目(だめ)だといって、応じませんでした。この剛情(ごうじょう)なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒(いか)りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果(ききめ)もありませんでした。私の手紙は一言(ひとこと)の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛(ゆきがか)り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ勘当(かんどう)なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母(けいぼ)に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔(へだ)たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく僧侶(そうりょ)でした。けれども義理堅い点において、むしろ武士(さむらい)に似たところがありはしないかと疑われます。
二十二
「Kの事件が一段落ついた後(あと)で、私(わたくし)は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰(もら)いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を嗣(つ)いだ兄よりも、他家(たけ)へ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟(きょうだい)ですけれども、この姉とKとの間には大分(だいぶ)年歯(とし)の差があったのです。それでKの小供(こども)の時分には、継母(ままはは)よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を彼の義兄宛(あて)で出しました。その中(うち)に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは固(もと)より私の一存(いちぞん)でした。Kの行先(ゆくさき)を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑(けいべつ)したとより外(ほか)に取りようのない彼の実家や養家(ようか)に対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃(なかごろ)になるまで、約一年半の間、彼は独力で己(おの)れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅(うるさ)い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々感傷的(センチメンタル)になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負(しょ)って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横(よこ)たわる光明(こうみょう)が、次第に彼の眼を遠退(とおの)いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上(のぼ)るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮(あせ)り方はまた普通に比べると遥(はる)かに甚(はなはだ)しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一(せんいち)だと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは止(よ)せといいました。そうして当分身体(からだ)を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情(ごうじょう)なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興(すいきょう)です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹(かか)っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って至極(しごく)同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路(みち)を辿(たど)って行きたいと発議(ほつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪(ひざまず)く事をあえてしたのです。そうして漸(やっ)との事で彼を私の家に連れて来ました。
二十三
「私の座敷には控えの間(ま)というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極(しごく)不便な室(へや)でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好(い)いといって、自分でそっちのほうを択(えら)んだのです。
前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止(よ)した方が好(い)いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭(いや)だと答えるのです。それでは今厄介(やっかい)になっている私だって同じ事ではないかと詰(なじ)ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して已(や)まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を更(か)えます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止(よ)せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって強(し)いてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇(ちゅうちょ)するだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅(うち)へ置いて、二人前(ふたりまえ)の食料を彼の知らない間(ま)にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、一言(いちごん)も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康について云々(うんぬん)しました。一人で置くとますます人間が偏屈(へんくつ)になるばかりだからといいました。それに付け足して、Kが養家(ようか)と折合(おりあい)の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺(おぼ)れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て漸々(ようよう)奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この顛末(てんまつ)をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何(なに)かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向って新しい住居(すまい)の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言(いちげん)悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭(にお)いのする汚い室(へや)でした。食物(くいもの)も室相応(そうおう)に粗末でした。私の家へ引き移った彼は、幽谷(ゆうこく)から喬木(きょうぼく)に移った趣があったくらいです。それをさほどに思う気色(けしき)を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢(ぜいたく)をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒(セーント)だとかの伝(でん)を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻(べんたつ)すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に逆(さか)らわない方針を取りました。私は氷を日向(ひなた)へ出して溶(と)かす工夫をしたのです。今に融(と)けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
二十四
「私は奥さんからそういう風(ふう)に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分(だいぶ)相違のある事は、長く交際(つきあ)って来た私によく解(わか)っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少角(かど)が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の質(たち)が私よりもずっとよかったのです。後(あと)では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる間(あいだ)は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が強(し)いてKを私の宅(うち)へ引(ひ)っ張(ぱ)って来た時には、私の方がよく事理を弁(わきま)えていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟(しげき)で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍(はた)のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥(かゆ)ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽古(けいこ)をしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解(わか)る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極(き)めていたらしいのです。艱苦(かんく)を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳(くどく)で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅(めぐりあ)えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに極(きま)っていました。また昔の人の例などを、引合(ひきあい)に持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯(うけが)ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後(あと)へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛(かか)ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の気性(きしょう)をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹(かか)っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と喧嘩(けんか)をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪(た)えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭(いや)でした。それで私は彼が宅(うち)へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
二十五
「私は蔭(かげ)へ廻(まわ)って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟(たた)っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆(さび)が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き把(は)のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来(き)ようというと、要(い)らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り繕(つくろ)っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強(し)いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力(つと)めました。Kと私が話している所へ家(うち)の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室(へや)に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起(た)って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな無駄話(むだばなし)をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の中(うち)では、Kがそのために私を軽蔑(けいべつ)していることがよく解(わか)りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価(あたい)していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥(はる)かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否(いな)みはしません。しかし眼だけ高くって、外(ほか)が釣り合わないのは手もなく不具(かたわ)です。私は何を措(お)いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋(うず)まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍(そば)に彼を坐(すわ)らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を曝(さら)した上、錆(さ)び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏(まと)まって来出(きだ)しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑(けいべつ)すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女(なんにょ)を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃(ころ)でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には一口(ひとくち)も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠(こも)っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
二十六
「Kと私(わたくし)は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室(くうしつ)を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶(あいさつ)をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖(ふすま)を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭(うなず)く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は神田(かんだ)に用があって、帰りがいつもよりずっと後(おく)れました。私は急ぎ足に門前まで来て、格子(こうし)をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥(たし)かにKの室(へや)から出たと思いました。玄関から真直(まっすぐ)に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取(まどり)なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介(やっかい)になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ已(や)みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数(てかず)のかかる編上(あみあげ)を穿(は)いていたのですが、――私がこごんでその靴紐(くつひも)を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違(かんちがい)かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと坐(すわ)っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬(かた)いように聞こえました。どこかで自然を踏み外(はず)しているような調子として、私の鼓膜(こまく)に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんははたして留守でした。下女(げじょ)も奥さんといっしょに出たのでした。だから家(うち)に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅(うち)を空けた例(ためし)はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断(ふだん)の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目(まじめ)に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食(ばんめし)の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳(ぜん)を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時(めしどき)には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に極(き)めました。その代り私は薄い板で造った足の畳(たた)み込める華奢(きゃしゃ)な食卓を奥さんに寄附(きふ)しました。今ではどこの宅(うち)でも使っているようですが、その頃(ころ)そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶(おちゃ)の水(みず)の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上(あ)げさせたのです。
私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋(さかなや)が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに叱(しか)られてすぐ已(や)めました。
二十七
「一週間ばかりして私(わたくし)はまたKとお嬢さんがいっしょに話している室(へや)を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや否(いな)や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子(しょうじ)を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯(ゆうめし)の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが睨(にら)めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院(でんずういん)の裏手から植物園の通りをぐるりと廻(まわ)ってまた富坂(とみざか)の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間(あいだ)に話した事は極(きわ)めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛(しか)けてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見分(みわ)けの付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼(せま)っている頃(ころ)でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後(あと)一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの唯一(ゆいいつ)の誇(ほこ)りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さんが学問以外に稽古(けいこ)している縫針(ぬいはり)だの琴だの活花(いけばな)だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の迂闊(うかつ)を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁(はんばく)もしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑(けいべつ)しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の数(かず)とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬(しっと)は、その時にもう充分萌(きざ)していたのです。