饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15656 字 更新时间:2026-6-16 06:24

 それ以上、三雲は云わなかったが、もの静かな語調の端に、就任一カ月程で、早くも行内の人事関係で苦労しているらしい気配が感じられた。

「ここ暫くが何かとお難かしい時期なんですね、そんな時に恐縮なんですが、実は、当社では本年度の設備計画として高炉建設を計画し、目下、通産省と折衝中ですが、本日はその融資依頼に参ったのです」

 と云い、携えて来た書類袋の中から、六、七センチもの厚さの融資申込書と事業計画書を三雲頭取の前へ出した。

「ほう、おたくが高炉建設を――」

 三雲は、驚くように云った。

「そうです、何としても高炉を建設したいと思っております、今後の特殊鋼の需要見通しは、自動車、機械産業の成長と見合せ、ますます増大することに間違いありません、そんな時、今のように原料のスクラップや銑鉄《せんてつ》を外部から買って、小さな電気炉でやっていたのでは、いつまでたっても原料不安は解消しませんし、思いきった大量生産も出来ません、そこで原料から自前《じまえ》で大量生産するために、高炉からの一貫生産体制をこの際、作ろうと決心したのです、幸い当社では以前から所有している埋立地がありまして、高炉建設用地と、鉱石、コークスなどを積んで来る船の岸壁は出来ていますから、建設費は、比較的安くすみ、八百立方米《リユーベ》の高炉一基、転炉二基、アッセルミル圧延機一台、その他の付帯設備を入れて、総額二百五十億で出来る見込みをつけています」

 三雲は、鉄平の示した設備計画書と損益計算書をテーブルの上に拡《ひろ》げ、厳しい眼《まな》ざしで数字を見て行ったが、やがて顔を上げ、

「高炉建設の工期は、着工が今年の六月で、完成が翌年六月となっていますが、実際に高炉が稼動《かどう》し、営業ベースにのりはじめるのはいつ頃からですか?」

「順調に稼動さえすれば、半年で充分、営業ベースにのりはじめます」

「そうなると、製品販売トン数は、従来の三十三万トンから一挙に二倍以上の六十八万トンになり、大幅にコスト.ダウン出来るわけですね、当然、売値ダウンが考えられますが、今までよりどの程度、下げられるのですか?」

「高炉、転炉の設備によってトン当り、平均一万五千円ぐらいのコスト.ダウンが可能になりますが、新設備の償却、借入金の金利、人件費の増加などを考えますと、売値の引下げは、トン当り五千円前後、と見ております、むろん、こうした合理化によるプライス.ダウンによって、従来のシェアは大幅に崩れ、一時は業界に大きな波紋を投じるでしょうが、国際競争力をつけるためには、必要不可避なことですし、第一、少しでも、良質低廉《ていれん》なものを作り出すのが企業家の社会的使命だと思うのです」

 鉄平は、若い企業家らしい理想をもって、三雲頭取の質問に応え、さらに言葉を継いだ。

「それで肝腎《かんじん》の資金調達なのですが、二百五十億のうち、五十億は当社の自己資金でまかない、二百億は、メイン.バンクの阪神銀行四〇パーセント、準メイン.バンクである大同銀行さん三〇パーセント、残りの三〇パーセントは長期開発銀行、信託銀行、信用金庫で調達したいと思っておりますが、いかがなものでしょうか?」

 生一本《きいつぽん》に迫るように云った。

「当行の阪神特殊鋼に対するこれまでの融資比率は、たしか二五パーセントだったと思いますが、それより五パーセント増やしてほしいというご意向なんですね、それでメインの阪神銀行さんは、既に四〇パーセントの融資を、お認めになったのですか?」

 三雲は聞いた。メインの意向がどうであるかということは、重要なことであった。それは、メインがその企業の経営内容を最も詳細に把握《はあく》しているからであった。

「阪神銀行としての正式な回答はまだ貰《もら》っておりませんが、父には、よく高炉建設の計画内容を説明し、理解して貰っていますから、確実だと思います、しかし、いくら父が頭取をしている銀行とはいえ、総額四〇パーセント以上の融資は、阪神銀行自体が大同銀行さんより規模が小さく、とても無理ですので、この際、大同銀行さんに、平行メインになって戴《いただ》きたいというのが、私の率直なお願いです」

 三雲は暫時《ざんじ》、考え込むように沈黙したが、

「ご趣旨はよく解《わか》りました、当行はご承知のように、預金量こそ都市銀行中、第八位で店舗数も多いのですが、正直なところ、規模の割に、これといった優良融資先に恵まれず、新頭取としての私の仕事は、一つでも優良な企業を取引先にして、当行の内容を充実させることだと思っています、今、あなたのお話を聞き、特殊鋼という日本の基幹産業の一環を担《にな》っておられる公益的な事業であるということと、あなた自身の事業にかける熱意と勇気にも、実のところ、大いに動かされました、もちろん、この融資申込書と事業計画書については、審査部で慎重に検討してからでなければ、ご返事出来ませんが、私の気持としては、大いにご協力したいと思っています」

 静かな声であったが、曾《かつ》て留学生であった一人の青年が企業家として逞《たくま》しく成長しつつあるのを心から喜び、励ますような温か味があった。

「有難うございます、只今《ただいま》の頭取のお言葉で、高炉建設という大事業にたち向う私の心が、どれほど励まされ、勇気づけられたか解りません――」

 鉄平は深々と一礼しながら、冷厳な父と異なった別の頭取像を、そこに見出《みいだ》した思いがした。

 麻布六本木の二丁目辺りには、個人の邸宅が並ぶ閑静な一角がある。その中で、一軒だけ粋《いき》な黒塀《くろべい》を囲《めぐ》らせ、庭に四季の植木を取り入れている待合がある。

 鉄平は、その家の奥座敷で、湯上りの浴衣《ゆかた》に茶羽織を重ね、清元の「保名《やすな》」を習《さら》えていた。

姿もいつか乱れ髪

誰《た》が取りあげていふことも

なたねの畑《はた》に狂ふ蝶《てふ》(合)チン テチン……

 三味線を弾いているのは芸者でなく、待合『つる乃家《のや》』の女将《おかみ》である芙佐子《ふさこ》だったが、四十前の目尻《めじり》の切れ上ったはっきりした顔だちで、

「駄目、駄目、からっきし間《ま》をはずしていますよ、そんな保名じゃあ、まるで艶《つや》がなくって、恋に狂うどころか、恋醒《ざ》めしちゃいますよ」

 ずけずけ云った。

「だが、不粋《ぶすい》な僕が、亡《な》くなった祖父《じい》さんに倣《なら》って、清元をやるだけでもましだろう」

 いささかくたびれたように云うと、

「じゃあ、今日のお習《さら》いはこれくらいにして、お食事は何を召し上る?」

「そうだな、勝手を云うが、塩鮭《しおざけ》と佃煮《つくだに》ぐらいを食べたいな」

「ようございますとも、よそでは云えない勝手を云って戴くのが嬉《うれ》しいですよ」

 と云い、三味線を置きながら、

「あとで、びっくりなさる顔合せがございますよ」

「誰だい、びっくりする顔合せって?」

「まあ、お楽しみ、ちょんの間の出替りってことがあるじゃありませんか」

 悪戯《いたずら》っぽい云い方をして、席をたった。独りになると、鉄平はごろりと仰向けになった。いつもはぎっしり詰った日程に追われる東京出張で、鉄平自身、仕事がすめば飛ぶように神戸の工場へ帰って、鉄の塊を見ないことには落ちつかなかったが、今日は、大同銀行の三雲頭取と十三年ぶりに会った心の昂《たかぶ》りが醒めやらず、馴染みのつる乃家へ寄ったのだった。

 襖《ふすま》が静かに開いたかと思うと、

「まあ、ぼんぼん、ようおいでやす」

 芙佐子の養母である老女将であった。六十近いというのに、ぬき衣紋《えもん》にした衿《えり》もとの肌がはっとするほど白い。亡くなった祖父の妾《めかけ》で、大阪の新町《しんまち》の芸者だったのを落籍《ひか》して、神戸では目だつからと、大阪に一軒家を持たせて囲っていたのだった。そして時折、岡本の邸《やしき》へも呼んでいたから、鉄平も子供の頃からよく知っていた。

「なんだ、女将か、珍しい顔合せというのは」

 鉄平は、むっくりと起き上って笑った。

「へえ、この頃、大阪のわての店へはあまりお越しやないのに、東京の娘の店へ来てお目にかかれるとは、偶然でおますな、けど、こないしてお久しぶりでお目にかかったら、ますます亡くなりはった大旦那《だんな》はんにそっくり、太い眉と云い、大きなぎょろりとした眼と云い、ほんまに生写し――」

 と云い、仲居が運んで来た塩鮭と佃煮に、鉄平が箸《はし》をつけかけると、

「それ、そのお箸の持ち方までそっくり……」

 吸い寄せられるように鉄平に見惚《みと》れ、

「ぼんぼんがお生れになった時の大旦那はんのお喜びようは、よう忘れまへん、外の囲い者のわてにまで、お赤飯と目の下一尺の鯛《たい》を初孫《ういまご》の内祝やと届けてくれはり、お名前をつけはるお七夜《ななや》の日はまた、えらい騒ぎでおましたそうで、大旦那はんは、銀より上の位の金平とつけたいと仰《おお》せになりはったら、ぼんぼんのお父さんが、金平では落語《はなし》家《か》みたいやと云いはって、鉄平というお名になったそうでおますな」

 老女将がさらに云いかけると、

「もういい、みんな何度も聞いている話だよ、それより、ぼんぼんと呼ぶのは止《や》めてくれよ、三十八にもなって、ぼんぼんでもあるまいが」

 鉄平は睨《にら》むようにぎょろりと眼を動かしたが、老女将は昔を懐《なつ》かしむように、

「いいえ、なんぼ齢《とし》行きはっても、わてには、いつまでも大旦那はんのお膝《ひざ》にいてはったぼんぼんのお姿が眼に灼《や》きついておます、そうそう、初節句の時も、大旦那はんは日本一大きい鯉幟《こいのぼり》をたてるのやと云いはって、三越に注文しはったあげく、売場にある一番大きいのでは気に入らず、三越の屋上にたってるのを欲しいと店長さんに無理云いはって、とうとうそれをお邸の屋根の上へたてはったのだす、ともかく、ぼんぼんのこととなると、何でも日本一やないと気に入らん、それほど真底、可愛《かわ》ゆうに思うてはったのでおます」

 そう云われると、平素はあまり思い出さなかったが、鉄平は祖父のことを思いながら、老女将の酌で盃を重ねた。

 祖父に関する思い出の中には、不思議と祖母の姿がなかった。祖父は、鉄平が二十二歳になるまで長生きしたのに対して、祖母は、鉄平の十歳の時に亡くなっていたからであったが、それにしても祖母の印象が薄いのは、家の中における祖父の存在が大き過ぎたせいかもしれない。色が浅黒く大きな体躯《たいく》をした祖父は、性格も豪放磊落《らいらく》そのもので、祖母だけでなく、父の大介さえも、祖父の前では影が薄かった。鉄平がもの心つくようになって知った祖父は、定紋付きの車に乗って銀行へ出かける祖父であり、花見時になると、庭に緋毛氈《ひもうせん》を敷いて園遊会を開き、その都度、大勢の来客の他《ほか》に、きれいどころまで集めるのだった。そんな時、祖父は必ず、鉄平の自慢をしたのを覚えている。それが恥ずかしくて、中学へ行く頃になると、鉄平は園遊会の日は必ず、学校から遅く帰るようにしたが、そうすると、祖父は最初は激しく叱責《しつせき》し、あとはわびしげに鉄平の顔を見詰め、翌日、驚くほど贅沢《ぜいたく》なものを買い与えて、銀平や一子を羨《うらや》ましがらせた。贅沢といえば、祖父は、母の寧子を格別に扱い、何かと云えば「お母さまは華族さまの出だからな」と云い、どんな贅沢でもさせて、昔は王侯貴族のものだったと云われている洋蘭の温室を建てたのも祖父であった。それだけに祖父の存命中は、父の大介も高須相子も、勝手な振舞いは出来ず、鉄平が父と相子の情事を垣間《かいま》見てからも、その数年後、祖父が死亡するまでは、表だった振舞いはとれず、母の立場は安泰であった。

 その祖父は、或《あ》る朝、いつものように起きるなり、庭下駄を履いて池の鯉《こい》に餌《えさ》をやりに行き、池の縁に這《は》いつくばるような姿で脳溢血《のういつけつ》を起して、三日目に死亡したのだったが、その通夜《つや》の席で三人の女が祖父の亡骸《なきがら》に取り縋《すが》って泣いた。それは祖父の囲っていた女たちで、激しく嗚咽《おえつ》する女たちの姿を見ていると、鉄平も同じように涙を流し、喪主として枕《まくら》もとに坐っていた父の大介も眼を潤《うる》ませたが、なぜか母の寧子だけは涙一滴見せず、凍りついたように動かない視線で、祖父の死顔を見詰めていた。万俵家の中で一番心やさしく、傷つきやすいはずの母であるのにと思った記憶が、今も鉄平の胸に残っている。

「ぼんぼん、どないしはったんでおます?」

 老女将の声がした。鉄平はにやりと白い歯を見せ、

「祖父の死んだ日のことを想《おも》い出していたんだよ、あの時、現われた三人のきれいな女のうちの一人が、皺《しわ》くちゃのあんたかと思ってねぇ」

「まあ、いややこと、二十年近うも前の話やおまへんか、わてもその頃はまだ若うおましたさかいな、さあ、もっとおあがりやす――」

 老女将は、鉄平に酌をし、

「このあと、誰か若い妓《こ》を呼んでおきまひょか?」

 心得顔に云った。

「さあ、今晚はどうしようかな」

「ぼんぼんみたいなええ体をしてはって、奥さん以外の女《おなご》はんも抱かんと、鼻血が出まっせぇ」

 いつもは老女将のいうような芸者遊びをして、旺盛《おうせい》な性欲をさっと爽快《そうかい》に処理する鉄平であったが、今夜はあまり気がすすまない。それは昨日から通産省、岳父の大川一郎邸、今日は自社の販売会議、そして大同銀行への融資依頼と、いささか疲れ気味であることもあったが、それ以上に三雲頭取に会った清冽《せいれつ》な余韻が、心の中にまだ尾を曳《ひ》いているせいかもしれなかった。

「いや、今夜は日航の最終便で帰るよ、これから大きなものを建てなきゃあならないんだ」

 鉄平は、解《げ》せぬような顔つきで見詰める老女将にそう云うと、盃をおいて帰り支度をはじめた。

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 三   章

 阪神銀行本店の講堂では新入行員の入行式が行われていた。

 咳《しわぶき》一つなく静まりかえった講堂の正面壇上には、向って左側に万俵頭取以下七名の役員、右に人事部長をはじめ十二名の部長がずらりと居列《いなら》んでいる。そして、神戸港を象徴する紺碧《こんぺき》の地に波濤《はとう》を思わせる三本の曲線をくっきりと染めぬいた大きな行旗が中央に掲げられていた。

 式次第を進めている人事課長の声が一段と改まって、

「只今《ただいま》から、頭取のお話を承ります」

 と云《い》うと、新入行員たちは、威儀を正して、万俵頭取を迎えた。銀髪端正な頭取が行旗の前にたつと、それだけで威風あたりを払い、新入行員たちは信用と品位を重んじる銀行という企業に入った自負心を今さらのように感じる。万俵はそうした新入行員たちの心理をすべて熟知した上で、重々しく口を開いた。

「皆さん、ご入行おめでとう、学園紛争の中で学業を続け、今また入行試験の難関を突破されて来た諸君を、われわれの職場に迎えることが出来ることは、まことに嬉《うれ》しく、力強く感じる次第です、銀行員たることを自らの職業として選び、これから活躍されんとする諸君に、頭取として一言、激励の言葉をお贈りしたい」

 そこで一旦《いつたん》、言葉を切り、一同を見廻した。二百名の新入行員のうち八十名が大学卒、百二十名が高校卒で、人材即資産、即生産設備ともいえる銀行にとって、新規採用者への期待はどこよりも大きい。

「銀行は、信用を売り、信用を買う仕事であります、つまり命の次に大切と云われるお金を預かり、有利に運用して信用を得る仕事であるから、銀行経営は何よりもまず堅実であらねばなりません、しかし堅実であると同時に、積極的であれというのが私の持論であります、堅実性と積極性は必ずしも両立しない場合があります、堅実のあまり萎縮《いしゆく》してしまっては前進がなく、また前進し過ぎて破綻《はたん》を来たすのでは堅実性に欠けますが、この両者を兼ね備えることが銀行経営の要諦《ようたい》であると思います。

 最近、金融再編成の促進がやかましく取沙汰《とりざた》されている中で、銀行間の競争はますます激甚《げきじん》になる一方であります、それだけにわれわれは堅実性と勇気を持って銀行競争に打ち克《か》ち、近い将来、必ずや業界における当行の地位を向上させるという使命を、役職員一同、強く持たなければなりません、したがって小成に安んずるという考えの人が、もしこの中にいるとすれば、それは当行の行風に合わぬ人であり、今からでも遅くないから去って戴《いただ》きたい、しかし金融界の今後の激動期に、当行の一員として大いに実力を磨き、能力を発揮したいと思う人物には、当行は充分酬《むく》いるに吝《やぶさか》でない、当行の人事方針は一切の学閥、門閥に捉《とら》われず、実力精鋭主義をもって貫き、諸君の卓抜した仕事に対して必ず正当なる評価をもって応《こた》えることを、ここに約束し、諸君の大成を祈ります」

 頭取の言葉は、若い新入行員たちの心を魅了した。

 入行式が終了すると、万俵は爽《さわ》やかな表情で頭取室へ戻った。恒例の行事ではあったが、経営トップ、ことに万俵のようなオーナー頭取にとって、毎年、新しい人材を入れ、規模を拡大していくことは、大きな充実感と自信が漲《みなぎ》る時であった。

 回転椅子《いす》に深々と体を埋《うず》め、葉巻をとり出して、ほっと一息つくと、秘書の速水が入って来た。

「速水君、今日はどこも入社式で、来客はないし、行内の会議もないし、午後から久しぶりにゴルフの手ほどきをしてやろう、それまでに仕事を片付けておき給《たま》え」

 煙を吐き出しながら、上機嫌に声をかけると、速水は秀《ひい》でた額の下に柔らかい笑いをうかべ、

「では、お言葉に甘えさせて戴きますが、頭取はその前に、一つお仕事をおすませ下さい、毎朝新聞の榎本《えのもと》記者が、入行式のことで取材に来られています」

「ああ、榎本君か、彼なら会おう」

 毎朝新聞の榎本記者は、万俵が昵懇《じつこん》にしている経済記者の一人であった。万俵が概してマスコミにうけがよいのは、経営者としての優れた資質もさることながら、常々、政治家と官僚とマスコミの三者対策を遺漏《いろう》なく進めておけばたいていのことは罷《まか》り通るという万俵一流の考えで、マスコミにも接しているからだ。しかも相手が経済記者なら、思いがけない企業情報を得る場合もある。

 榎本記者は慌《あわただ》しく入って来るなり、

「頭取、急ぎの記事で恐縮ですが、今日の夕刊で、今年の新入社員への“社長名言集”を特集するのです、頭取の訓話の概略は、今、速水さんから聞いたんですが、要は堅実をモットーとする銀行界において、阪神銀行の万俵頭取は“勇気なき者は去れ”という話をされたということですね」

「まあ、そんなところですが、銀行家は、私の他《ほか》に、どんな人が入るのですか?」

 さり気なく聞いた。

「富国銀行の巌頭取です、毎年、ドイツの哲学者の高邁《こうまい》な言葉を引用して話すのがお好きのようですが、あの政治的言動の多い頭取が、カントの、ショーペンハウエルのと云い出すかと思うと、歯が浮きますね」

 榎本記者は、辛辣《しんらつ》に云い、

「ところで頭取、富国銀行の関西における最近の動きは、少しおかしいと思われませんか?」

 当然、万俵がその動きを察知しているかと思い込んでいる口調で聞いた。万俵はとっさに何のことかと聞き返しかけたが、口を噤《つぐ》んだ。同業の動き、特に上位四大銀行に関する情報は、金融再編成の問題があるだけに、どんな些細《ささい》なことでも、知っておきたかったからである。榎本記者は、

「東京の金融界では、富国銀行が遠からず系列下の地方銀行を合併するというようなことが流布《るふ》されていますが、僕の勘では、あれはゼスチャーに過ぎませんね、本心はあくまで都市銀行間の大型合併をやりたがっており、頻《しき》りに関西系の銀行を物色している感じですよ」

 確信ありげに云った。万俵は、内心、動悸《どうき》が鳴るような驚きを覚えたが、

「榎本さん、いやに自信ありげな推理じゃありませんか、で、富国銀行が結婚したがっている相手は、どこだと思うのですかね?」

 平静を装い、じわりと聞いた。

「さあ、そこまではまだ解《わか》りませんが、あの銀行のことだから、これと狙《ねら》ったら、二年でも三年でもかけて、真綿《まわた》で首を絞めるようなじわじわしたやり方で、呑《の》み込んでしまうでしょうな」

 榎本記者はそう云って笑ったが、万俵は応えず、窓外へ眼を向けた。その時、机の上の電話のベルが鳴った。秘書課経由ではなく、外からの直通電話であった。榎本記者は、それを機会《しお》に、

「じゃあ、夕刊締切の間際《まぎわ》ですから、これで失礼します」

 足早に出て行った。万俵は扉《ドア》が完全に締まりきってから、受話器を取った。

「もしもし、芥川でございますが」

 東京事務所長の芥川からであった。

「ああ、私だ――」

 政官界工作を担当する芥川との電話の時は、部屋に人がいなくとも、万俵の声が自然に低くなる。

「午後の定時連絡電話でもいいことなんですが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございまして――」

 電話を通して聞える芥川の声も低く、そこで一旦、言葉を切ってから、

「実は昨日、都市銀行協会の懇話会で、富国銀行の竹中常務と一緒だったんですが、会のあと、二人で何げない雑談をしていると、富国銀行と阪神銀行の両行で、預金の相互受払いの業務提携をやらないかと、もちかけて来ましてねぇ」

 つい今しがた、榎本記者と富国銀行の動きについて話していたばかりだったから、万俵は思わず、受話器を持ち直した。芥川のいう預金の相互受払いというのは、富国銀行と阪神銀行の二行で店舗の共同利用を行おうということである。

「東京に店舗が少ない当行にとっては、びっしりと碁盤の目のように詰った富国銀行の東京の店舗を利用させて貰《もら》えることは、有難すぎる話だ、しかしそれに反して、富国銀行の方のメリットは少なすぎるが、その点はどうなんだ?」

「そこなんです、当行にとってあまりうま過ぎる話なので、竹中常務にその辺の探りを特に入れたんですが、富国銀行の取引先が最近さかんに阪神間へ進出しているのに、関西における支店がやや手薄で何かと取引先に迷惑をかけているため、阪神銀行の店舗網を活用させて貰えれば、大いに富国銀行としてもメリットがある、折から富士ストアと太平スーパーの提携がきっかけで、両行も株の持合いをするようになったのだから、この際、ぜひお近づきをと、竹中常務はいうんです」

 低い声をさらに絞って、説明した。万俵は頷《うなず》き、

「そういえば、クレジット.カードの業務提携を云って来たのも、あの直後だったし、このところ、富国銀行は少々、しつこすぎるようだな」

 と云い、暫《しばら》く思案した。

「実はついさっき、毎朝の榎本記者が来て、富国銀行は関西系の都市銀行との合併を考え、目下、極秘裡《ごくひり》に物色中の気配があるという情報だが、真相はどうなんだね?」

「ほう、やはりそうでしたか――、私もその情報は三日前にキャッチして、目下、裏付け調査をやっており、そこへ昨日の富国銀行からの預金の相互受払いの誘いですから、内心、ぎくりと致しました、むろん、こちらで確実な調査を急ぎますが、本店の方でも特に融資先関係で何か異常な動きがないか、ご調査を戴きたいのです、もし仮に富国銀行が当行を狙っているのなら、当行の主力取引先には必ず接近を図っているはずですから」

 芥川は、ますます声を殺すようにして云った。

「うむ、その点については、早速、渋野常務に当らせる、預金の相互受払いの提携のことは、只今、本店で検討中と、富国銀行へ返事しておき給え」

 大介はそう云って、電話をきった。

 もはや入行式の充実した満足感は吹き飛び、得体の知れぬ不気味な圧迫感が背後から音もなく、忍び寄って来るような思いがした。上位四行の大銀行が、金融制度調査会の特別委の答申を待たずして、秘《ひそ》かに合併の相手を探しはじめていることが事実であるならば、それは由々しい事態であった。阪神銀行のように、上位四行から眼をつけられやすい業容の銀行はもはやこれ以上、坐《ざ》して待つような安易さは許されない。すぐにも美馬を呼んで、食われる前に食う方策を考え、決意しなければならぬ時が近付いて来たのだった。

 大阪ロイヤル.ホテルの十五階にあるロイヤル.トップのステージでは、ジュリエット.グレコの『シャンソンの夕』が開かれていた。

 ステージを囲む三十近いテーブルに、ダーク.スーツを着た男性やカクテル.ドレスを着飾った女性たちが席を占めていた。万俵銀平と安田万樹子もステージに近い席を占め、カクテルを飲みながら、本場のシャンソンに聴き入っていた。

 ステージでは第一部が終り、第二部に入って、『愛の讃歌《さんか》』が唄《うた》い出された。二色のライトが交錯する中で、真っ黒に光るドレスをまとったグレコは、栗色《くりいろ》の長い髪を肩まで垂らし、マイクを胸に抱くようにして唄っている。

「いいわね、まるでパリのナイト.クラブにいるみたい」

 万樹子は、カクテル.グラスに口をつけながら、そっと銀平の肩へ体を寄せるようにして囁《ささや》きかけた。見合いをしてから一カ月経《た》っていたが、万樹子とデートするのは、今日で二度目だった。万樹子からは三日にあげず、電話がかかって来ていたが、銀平は仕事の多忙を口実に避けていた。別に万樹子を嫌っているわけではないが、目だちすぎるほど派手な服装をした万樹子と並んで步くことがやりきれないのだった。今夜も、銀ラメのリボンレースのカクテル.ドレスに、銀色の靴を履いた万樹子の姿は、人目にたち過ぎ、香水も二十三歳の未婚の女性にしては濃艶《のうえん》であり過ぎた。

 ステージに眼を向けると、グレコの歌はブルーのスポット.ライトの中で、『枯葉』に変った。痩《や》せぎすで知的な容姿であったが、心で唄うその声は、聴く者の心を深く包んで酔わせる。銀平はふと、まだパリにいるだろう小森章子のことを思い出した。まる三年、体の交渉を持ちながら、一言も結婚を口にせず、最後に「パリで以前の自分を取り戻して来るわ」と云い、絵の勉強に渡仏してしまった小森章子のことを思うと、銀平は結婚そのものが面倒であったことと、さほど大きくない灘の酒造家の娘と結婚に漕《こ》ぎつけることの煩《わずら》わしさから、そのまま別れたとはいえ、今、安田万樹子との結婚を目前にし、苦渋に似た思いが横切った。

 スポット.ライトがステージの上のグレコの姿を消し、激しい拍手の中で、『シャンソンの夕』は終った。テーブルを埋めた人々は、口々にグレコの唄を讃《たた》えながら席をたった。

「万樹子さん、ご機嫌よう――」

 華やかな声がし、若い女性が万樹子のそばへ近寄って来たが、銀平の姿に気付いて、

「あら、ご免なさい、お邪魔して――」

「いいのよ、ご紹介致しますわ、私の婚約者《フイアンセ》の万俵銀平さんですの、こちらは女学院時代の同窓生の吉野春子さん――」

 万樹子は双方を紹介した。

「はじめまして、万樹子さんのスキー仲間の悪友なんですの、でもご結婚遊ばしても、どうぞ悪友をお見捨てなく――」

 背の高い女性は、快活に笑った。

「万俵です、よろしく」

 銀平は、無愛想にそれだけ云うと、女たちのお喋《しやべ》りにつき合わされるのを避けるように、さっさと階下の駐車場へ降りて行った。

 マーキュリーを運転する銀平は車の流れを巧みにきり抜け、出入《でいり》橋の高速道路にのった。小雨がぱらつきはじめ、高速道路のオレンジ色のライトが潤《うる》むように光っている。万樹子は助手席に体をもたせかけ、

「よかったわね、今夜のグレコ、それにロイヤル.トップのあの雰囲気《ふんいき》もすばらしかったわ」

 いかにも満ち足りた口調で云ったあと、

「それにしても、先程、私のお友達にご紹介した時、どうして一緒に話して下さらなかったの?」

 不満そうに云った。

「僕は、女性のお喋りにお付き合いするのは苦手でしてねぇ」

「まあ、あなたって、いつもそんな素っ気ない応え方をなさるのね」

「これは僕の性格でしてね、別にどうってことはないんですよ」

「それにしても、素っ気なさすぎるわ、過去にお好きな方でもおありになったのかしら?」

 詮索《せんさく》がましい聞き方をした。銀平はスピードを増しながら、

「なかったと云ったら、嘘《うそ》でしょうね」

「じゃあ、どうしてその方と結婚なさらなかったの?」

「その点は、あなたも一緒じゃないですか、あなただって僕と同じように曾《かつ》ては好きな人がいたかもしれない、しかし、いざ結婚となると、両親がお膳立《ぜんだて》した料理のフルコースを選ぶというわけでしょう」

 前方を見詰めたまま云った。万樹子は一瞬、眼を伏せたが、すぐ銀平の横顔をじっと見詰めた。

「あなたって、妙にニヒルなところがおありなのね」

「ニヒル――、僕がニヒルというのですか、ニヒリストでは極めて現実的で実証的な銀行員は勤まりませんよ」

 そう云って銀平が白い笑いを浮かべた時、車がスリップし、急ブレーキをかけた。降り出したばかりの高速道路のカーブを横すべりし、危うくガード.レールにぶつけるところであった。

「大丈夫? お酒はそう召し上らなかったはずでしょう」

 万樹子が青ざめた顔で云うと、

「いや、スピードの出し過ぎだ、百二十キロで飛ばしていたからねぇ」

 銀平は、スピードを落した。

 西宮まで来ると、ぱらついていた雨が上り、安田万樹子の家がある芦屋までは間もなくであった。

「結婚式まではあと二カ月半ね、東京と大阪で二回だし、両方で六百人余りお招きするから、いま、そのお支度で大へん――」

 万樹子は、浮き浮きした口調で云った。

「そんな大げさな……無意味なことだな」

「だって、あなたのお父さまも、私の父も、東京と関西の両方にお仕事がまたがっているし、私の両親は、兄も姉も結婚してしまって、私が最後だから、出来るだけ多くの方をお招《よ》びしたいと云ってますわ」

 大きな眼を輝かせ、譲らない語調で云った。

「それにおたくの高須さんも、万俵.安田両家の披露宴なら、東京と大阪で二度するのが当然だとおっしゃってましてよ、あの方、ご聡明《そうめい》で、おきれいで、てきぱきしてらして、第一、あなたのこと、とても大切に思ってらして、あなたのお家、まるで“二人おふくろさん”みたい――」

 無邪気に云った万樹子の言葉が、鋭く銀平の胸に突き刺さった。しかし銀平はそれを顔に出さず、

「ともかく僕は、二度、披露宴をやるなど、まっぴらですよ、だいたい最近の財界の派手な結婚式を見ていると、両家があらん限りの力を振りしぼって、まるで果し合いでもしているようで、馬鹿馬鹿《ばかばか》しい限りですよ」

 吐き捨てるように云い、あとは万樹子の話しかけにも応じなかった。

 車は芦屋川沿いに少し浜側に下り、安田太左衛門邸の門前に着いた。

「お入りになりませんこと? 父も帰っていると思いますわ」

 万樹子はドレスの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、車を降りながら誘った。

「この間、お送りして来た時、お目にかかっているから、今夜はこれで失礼しますよ」

「だって、せっかくですもの、少しでもお寄りになってよ、どうしてもおいやなの?」

 万樹子は高い門柱の陰で、すねるように云った。銀平はいきなり万樹子の背を門柱の陰に押しつけ、顔を両手に挟《はさ》むと、その分厚い肉感的な唇に強く唇を捺《お》しつけた。万樹子はそれを求めていたかのように、厚い唇で巧みに受けいれ、銀平の愛撫《あいぶ》に身をゆだねた。

 そのあと、万樹子は愛のしるしを得たように満ち足りた表情で、

「さようなら、お寝《やす》みなさい――」

 甘く湿った声で云ったが、銀平は車をスタートさせて通りの角を曲った途端、左手でポケットからハンカチーフを取り出し、女の口紅と唾液《だえき》のついた口もとをぐいと、拭《ぬぐ》い取った。

 銀平の車が行ってしまうと、万樹子は、うっとりと潤んだ表情で、門のベルを押した。

 はじめて銀平と交わした口づけが、万樹子の気持を華やいだものにしていた。

「お帰りなさいまし」

「ご苦労さま――」

 門を開けに出た女中にも、いつになく犒《ねぎら》いの言葉をかけ、玄関から両親の居間になっている奥座敷まで、グレコの唄った『バラ色の人生』を口ずさみながら、カクテル.ドレスの裾をひらひらと翻すように步き、襖《ふすま》をからりと開けた。居間に、和服姿に寛《くつろ》いだ父の太左衛門が、母の佳江と向い合って、お茶を呑《の》んでいた。

「只今《ただいま》――、お父さまも、今日はお早いのね」

 エナメルのセカンド.バッグを脇《わき》へ置き、父の前に坐《すわ》った。太左衛門は、その名前に似ない小柄で温和な顔を綻《ほころ》ばせ、

「今夜は、久しぶりに、宴会がなかったから早く帰ったんだよ、万樹子の方は楽しかったかい?」

 婚約者とシャンソンを聞きに行った娘を優しく見た。

「ええ、二年ぶりに来日したグレコは、すばらしかったわ、それに今夜は、銀平さんも、上機嫌で話して下さり、楽しかったわ」

 まだ銀平との抱擁が尾を曳《ひ》いているように、ぬるむような声で云った。

「ほう、あの青年が、上機嫌で喋る時もあるのかね」

 太左衛門は、家柄、学歴、頭脳と、多くの点に恵まれながらも、何か一つ欠けているような感じを受ける万俵銀平の姿を思いうかべていた。父の万俵大介に似た端麗な容姿と明晰《めいせき》な頭脳を持ち、将来、銀行経営者たるにふさわしい資質を備えながら、どこかに血の通っていない冷たさを感じるのは、何によるものか。大阪重工の社長として、毎日、多くの社員を見ている安田太左衛門にも、腑《ふ》に落ちないものがあり、興信所に、万俵銀平の結婚調査を依頼したのだった。その結果は、本人に関する事項として、経歴、収入、資産、健康状態、素行、友人関係、思想、信仰などの項目について調査されて来たが、いずれも問題になるような点はなく、素行の項に、「バー遊びを好み、ホステスとの肉体交渉なきにしもあらずであるが、いずれもその場限りの金銭的な関係で、特定の相手なし」と記されていた。阪神銀行の頭取の御曹子で、三十三歳の独身男性であれば、当然のことであり、ホステスとのその場限りの交渉がない方が、逆に疑惑を持たねばならぬことであった。そして本人の家庭に関する事項として、家庭環境及び生活状態、父母及び兄弟姉妹関係が記されていたが、ここにも問題点がなく、紳士録や年鑑などに記載されている以外のことは見出《みいだ》せなかった。それでも、太左衛門自身は、もう一つ積極的になれないものがあったが、当の万樹子が、見合いから帰ったその日、万俵銀平との結婚をきめてしまっていた。

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