「万樹子にも、お茶を入れましょうか?」
母の佳江が聞くと、
「ううん、私は結構よ」
と云いながら、万樹子は、二間《けん》の大床《おおどこ》に飾られている結納《ゆいのう》飾りを見詰めた。白木の大台に、金銀の水引のかかった目録.長熨斗《のし》.結納金包.末広.友志良賀《ともしらが》.子生婦《こんぶ》.素留女《するめ》.松魚《かつお》節《ぶし》.家内喜多留《かないきたる》の九品の結納飾りが豪華に並び、嫁ぎ行く家の格式と富裕さが物語られていた。万樹子は指にはめている婚約指輪を改めて眺めた。三カラットのブルー.ホワイトのダイヤモンドが、燦然《さんぜん》と輝いている。万俵家という関西財界でも指折りの家柄と資産、その上、万俵銀平自身の瀟洒《しようしや》としたダンディな容姿が、万樹子の心を浮きたたせていた。母の佳江も床の間を見、
「ほんまに、ごりっぱなお結納やこと、さすがお古いお家柄だけあって、一つ一つが作法に叶《かの》うたご仕儀で、私も嬉《うれ》しゅうに思います」
船場の出である佳江は、船場言葉の混じった標準語で母親らしく喜んだが、ふと気懸《きがか》りそうに、
「このお結納と云い、その後の結婚式の日取りや式場、ご招待客のお人数など、みんな当のお母さまがなさらず、あの高須さんとおっしゃる女執事みたいな方が取り仕切ってなさるのは、私たちからみると、何かおかしいような気がするのでおます」
と云った。
「おかしい? どういう意味なんだい」
「むろん、あれほどのご大家ですさかい、女執事みたいな方がいはっても、決しておかしゅうはないのだすけど、あの方と、奥さまとの言葉のやりとりや、もの腰をみてたら、妙に奥さまの方が、遠慮をしてはるようで、その点がちょっと気懸りになるのでおます」
「それは、向うの奥さんが、公卿《くげ》華族出のお姫《ひい》さま育ちで、高須さんが一切を取り仕切っているから、そんな風に見えるだけだろう」
太左衛門の方は気にしなかったが、佳江の方は、
「けど、あの高須さんが、まるで銀平さんの実のお母さまみたいに、何から何まですべて裁量して、ものごとが運ばれているところが、何かやっぱり――」
「やっぱり、どうだというんだね?」
太左衛門が問い返すと、佳江は、
「不躾《ぶしつけ》な勘繰りかもしれませんけれど、あの方が、あの家で、あれほど実権をふるえるのは、もしや、やっぱり――、万俵さまと……」
口ごもらせた途端、太左衛門の温和な眼が厳しく光った。
「軽率なことを云うんじゃない、他《ほか》の企業の社長と異なり、銀行の頭取というのは、他人の大切なお金を預かっているから、教育者並に、女性問題を非常に厳しく云われる職業だ、それだけに、都市銀行の頭取には、女性問題がないとされている、もしそんなことがあったら、そのスキャンダルを理由に、退陣を迫られるのだ、それほど銀行家にとって女性問題のスキャンダルは致命的なんだから、もしお前が心配するように、あの女性が万俵頭取と何かあるとすれば、秘《ひそ》かに外に囲うはずだ、第一、興信所の調べでも、本人の家庭環境という項目のところに、何もなかったじゃないか」
「ほんなら、お仲人《なこうど》の伊東さんの御寮人はんが云いはった通りに、お子さんたちが幼《ちいさ》い時は厳格な家庭教師で、今は万俵家の家内《いえうち》一切を切り盛りされる女執事みたいな方ですやろか――」
佳江はまだ全面的に納得のゆかぬ口調で云うと、万樹子が口を挟んだ。
「お母さまは、どうしてそんな風におっしゃるの、高須相子さんという方はすばらしい人よ、私は正直なところ、雛壇《ひなだん》の飾り雛のような華族出のお母さまより、英語、フランス語がペラペラの才色兼備の高須さんに好意を持つわ」
万樹子は結納納めの翌日、仲人の伊東夫人の家で高須相子と出会ってイヴニング.ドレスやカクテル.ドレスの相談をした時、彼女の好みの良さとマナーの詳しさにすっかり魅了されたことを思い返した。その高須相子に外国流の洗練された家庭教育を受けた銀平は、さらに好ましい存在に思えたが、それにしても最前、車の中で、「過去に好きな方でもおありだったの?」というさりげない問いに対して、「その点は、あなたも僕と一緒じゃないですか」と云った銀平の言葉は、万樹子の気になった。
しかし、尾形賢一と自分とのことは、絶対、誰にも知られていないという確信が、万樹子にはあった。
万樹子が、尾形賢一を知ったのは、大学のスキー部の合宿で志賀高原へ行き、たまたま同じ山小屋に大阪の大学から合宿に来ていた尾形たちのスキー.クラブと出会った時であった。その中で、背の高い、筋肉質の逞《たくま》しい体をぴったりとスキー服に包み、急斜面を雪煙を上げて大胆に滑走する尾形賢一の男性的な美しさに眼を奪われたのだった。しかも彼は学生スキーで常に入賞し、女子学生たちの注目を集めていた。しかし尾形自身は、寡黙《かもく》で無骨な性格であり、コーチを頼まれれば、親切にコーチした。派手好きな万樹子は、尾形のコーチを受けながら、尾形のように衆目を集めている男性が自分の恋人であれば、どれほど誇らしいかと思い、積極的に尾形に甘えた。そんな万樹子に、尾形は甘ったれのブルジョア娘と苦笑しながらも、好意を抱いたようだった。そして、これが学生生活最後の合宿という冬の或《あ》る日、互いの部員たちがゲレンデへ出払ってしまった人気《ひとけ》ない山小屋の一室で、どちらからともなく体を重ね合せてしまったのだった。その時、窓から雪の反射光が射《さ》し込み、掩《おお》いかぶさった尾形の逞しい背の上に、真っ白い光が目眩《めくるめ》くように輝いた情景が、今も万樹子の眼に鮮やかに残っている。冬休みが終ってからも、万樹子は尾形との秘かな交渉を続けていたが、彼が大学を卒業して、一流企業の就職試験に失敗し、二流の食品会社に就職した頃から、万樹子の眼には、スキー場で学生スキーヤーとして衆目を集めていた尾形が、俄《にわ》かに、凡庸な小市民的な人間に見え、さらに二人の経済的環境の違いも加わって、次第に齟齬《そご》を来たしはじめたのだった。尾形は深刻に苦しんだが、万樹子は、最初から父の財力と社会的地位によって間違いなく保証される結婚を選ぶことにしていたから、至極あっさりと別れを告げてしまったのだった。だから、先刻《さつき》、万俵銀平が、過去に好きな人があったかもしれないのは、お互いさまじゃないかという意味のことを云ったのは、彼一流の自嘲《じちよう》めいた皮肉かもしれないが、もしや、高須相子がどこからか聞き知っていながら、わざと知らぬふりをしているのではないかという一抹《いちまつ》の不安が、万樹子の胸を捉《とら》えた。
万俵家の広大な庭の一角に、煌々《こうこう》と夜間照明が点《つ》き、銀平の結婚後の新居のために、日本館の半分を取り壊して南欧風の洋館に改築する突貫工事が進められていた。鉄骨の打込みや、コンクリート.ミキサーの音が周囲の静まりの中で鳴り響いている。
高須相子は、自室の窓から工事現場の様子を見遣《みや》りながら、シャツ.ブラウスに、スラックスという甲斐甲斐《かいがい》しい姿で、机の上の受話器を取り、阪神特殊鋼の社長で銀平の叔父である石川正治に電話をしていた。
「ええ、当方も今日は朝から銀平さんの結婚披露宴の名簿作りを致しておりますの、ご親戚《しんせき》、知人、友人はあげればきりがありませんが、企業関係の方は、まだ大分、増えるようなご様子ですか? それとも――、ええ、承知致しました、それによりまして、うちわの方のお人数はしめなくてはなりませんので――」
政、官、財界の来賓や、阪神銀行をはじめ阪神特殊鋼、万俵商事、万俵不動産、万俵倉庫など関連企業の招待客については、石川正治が中心になって取りまとめ、家内《いえうち》の関係は相子が取り仕切っているのだった。
電話を切ると、相子は足どりも軽く、階下へ降りて行った。銀平の結婚式の準備も、新居の工事も着々と進んでいることが、相子の気持を晴れやかにしているのだった。
居間に入ると、テーブルの上に、作りかけの名簿がきちんと置かれていたが、寧子の姿は見えない。先程、食堂で顔を合わせた時、寧子の方から食後すぐに名簿作りを始めましょうと云っていたのに、もう八時を廻っている。相子はふと居間の続きになっている広間を覗《のぞ》くと、そこに寧子がいた。飾棚の正面に置かれている結納の受書《うけしよ》、長熨斗、末広が載った白木の台から、奉書紙にしたためられた受書を手に取り、うっとりと見惚《みと》れるように見入っている。それは万俵家から、仲人の伊東夫人の手を経て、安田家へおさめられた結納金、金五百万円也《なり》と三カラットの婚約指輪に対する安田家の受書であった。
「寧子さま!」
声をかけられると、寧子は驚いたように振り返り、受書をもと通りに白木の台の上に置いて、すぐ居間の方へ入って来た。
「もう八時を過ぎておりましてよ、ご親戚関係の方は、いかがなさいまして?」
昼の間に一応、下選《したよ》りをしておいてほしいと、寧子に頼んでおいたのだった。
「それがまだ出来ていませんの、どなたにご遠慮して戴《いただ》けばいいのか、よう解《わか》らなくて――」
「まあ、お昼から申し上げておいたじゃありませんか、私の方は、銀平さんの恩師、友人関係のリストをほぼ仕上げましてよ、ご親戚関係はあなたがなさるのが当然じゃありませんか、それにあなたのお実家《さと》筋のこととなると、私はさっぱり存じ上げませんもの――」
暗に、旧華族という肩書以外にこれという企業家も有名人も見当らぬ寧子の実家で人員調整をすればいいと云わぬばかりの云い方をしたが、寧子はおっとりとした口調で、
「ほんとうに、あなたは、何でも手早《てばよ》うにお出来になるのね、私ってどうしてこんなに何も出来ないのでしょう――」
白い顔をかしげた。
「首などかしげていらっしゃる時じゃありませんわ、披露宴は、関西だけでなく、東京でも致しますし、その時は、大蔵大臣をはじめ、政、財界のお歴々もご出席下さるのですよ、石川正治さまをはじめ銀行の秘書課の方は、その方面のことで手一杯ですから、うちわのことは、あなたと私とでちゃんと運ばねばなりません」
東京は帝国ホテルで、大阪は新大阪ホテルで、披露宴が行われることになっているのだった。
親戚関係の名簿を前にして、なすこともなく、つくねんと坐《すわ》っている寧子の姿を見ると、相子は腹だたしい思いがした。
「少しは、しっかり遊ばして下さいましな、鉄平さん、一子さんの結婚式に次いで、今度で三度目ですから、見よう見真似《みまね》でもお出来になるはずじゃありませんか」
「ですけれど、私は、ご親戚筋ともあまりおつき合いが無《の》うて、名簿のお名前を拝見しても、どなたがどういうご縁続きだか、見当がつかない方もあって……」
困惑するように云い、
「でも、華族の結婚の時のように、宮内省《くないしよう》へ届け出なくていいですから、よろしゅうございますわね」
寧子は、ぽつりと何の脈絡もなく、呟《つぶや》いた。そして咎《とが》めだてるように自分を見詰めている相子に気付くと、
「引出ものは、銀のティー.ポットでございましたわね」
取り繕うように云った。
「そう、銀器ですが、皇族のようにご紋章は入れません」
寧子が“宮内省”云々《うんぬん》と云った言葉に対する皮肉であった。三子が入って来た。
「ああら、まるでオフィスのような大忙しさね、一体、何人ぐらいお招きするの?」
「大阪で三百名、東京で三百五十名ほどお招きするの、だから個人関係の名簿作りも大へんで、三子さんにも手伝って戴きたいくらい」
相子はシャツ.ブラウスの袖《そで》をたくし上げ、名簿に記されている氏名の上に印《しるし》をつけて行くと、三子は、机の上にある銀行関係の名簿をぱらぱらと繰り、
「まあ、すごい顔ぶれやわ、まるで阪神銀行頭取、万俵大介の結婚式みたい、東西の一流財界人が、ずらり綺羅星《きらぼし》の如《ごと》くやわ」
驚嘆の声を上げた。阪神銀行そのものは、都市銀行中、十位のランクであったが、オーナー頭取である万俵大介の財力と顔をもってすれば、この程度のことはなし得るのだった。と同時に、ことさらに今度の銀平の結婚式を派手にするのは、大阪重工の安田社長と姻戚関係を結び閨閥《けいばつ》の枝を現在以上に拡《ひろ》げることによって、財界における万俵大介の力をデモンストレーションしておこうという意味合いが含まれ、相子もそうした意図をすべて呑《の》み込んだ上で行動しているのだった。
三子は、さらに母の前にある親戚関係の名簿を覗き込み、
「大川のおじさまは、鉄平兄さまの岳父でいらっしゃるから、東京と大阪の両方にお出になるのね、あのおじさまったら、ダブル.ハートの強心臓が売物だけに、おっしゃることが面白いわ、いつだったか、うちへいらした時、万俵家はお上品ムードの親父《おやじ》さんより、話に聞く亡《な》くなった祖父《じい》さんの方が面白うて出来がいい、わしの婿《むこ》は幸い、祖父さん似らしゅうて、わしとうま[#「うま」に傍点]が合うて結構だ、三子ちゃんの結婚相手も、お祖父さんやわしに似たタイプの方が男らしくていいよと、しゃあしゃあとおっしゃるのよ」
と云うと、寧子は、
「そんなお品の悪いお喋《しやべ》りをするものではありません」
と三子を窘《たしな》めたが、相子は、たしかにこの万俵家には、大介型と敬介型のはっきりした二つの型《タイプ》があると思った。銀平は、父の大介に似、端麗な容姿から瀟洒《しようしや》としたもの腰までそっくりであったが、鉄平は、色の浅黒い精悍《せいかん》な顔つきから逞しい体躯《たいく》まで、亡くなった敬介に酷似し、特にそのぎょろりとした眼で直視されると、相子は威圧感を覚える時さえある。鉄平は、銀平と異なり、からりとした性格で、相子にからむようなことはなかったが、あまり容貌《ようぼう》が亡くなった敬介と似ているので、時々、鉄平の視線に出食わすと、曾《かつ》て自分を見下すようにじろりと見ていた敬介の視線を連想し、万俵家の中で、自分が心秘かに一目《いちもく》おいているのはやはり鉄平であると自覚するのだった。その点、銀平の持っている冷たさは、一種の虚無的な脆《もろ》さがあり、怖《おそ》れるほどのものではない。
「銀平さん、まだかしら?」
相子は、銀平の友人関係の名簿に印をつけていたペンを止めた。
「まだよ、今夜は万樹子さんとデートだけど、銀平兄さま、どんな顔して、まことしやかなデートをしているのかしら?」
三子がおどけるように云っていると、門の方から車の音がし、やがて銀平が居間の前を横切って、二階へ上りかけた。
「あら、お帰りなさい、今夜はいかがでしたの?」
相子が声をかけると、
「別に、どうってこともありませんよ」
素っ気なく応《こた》えた。
「銀平さん、あなたの友人関係で、お聞きしたいことがあるのよ」
と云うと、銀平は居間へ入って来たが、一步、室内へ入るなり、何か異様な思いに取りつかれたように表情を硬《こわ》ばらせた。
「どうしたの? 今、相子さんと二人で、あなたの結婚披露の準備をしているところよ」
母の寧子が云ったが、寧子と相子が二人、向い合って自分の結婚準備に大童《おおわらわ》になっているその光景を見ると、銀平は、ついさっき、安田万樹子から、まるで“二人おふくろさん”みたいねと云われた言葉が、再び思い返されたのだった。
「友達のことなど、どうだっていいですよ、あなたは、何でもやって下さり過ぎますよ」
銀平は冷やかな口調で、相子に云った。
「なんてことをおっしゃるの、あなたの結婚のために、こんなに一生懸命になっているのに――」
「それが有難迷惑なんですよ、おかげで安田万樹子から、おたくは“二人おふくろさん”みたいねと云われましたよ」
「まあ“二人おふくろさん”だなんて……」
寧子は哀しげに眼を伏せたが、相子は勝ち誇るように笑った。
*
六甲山の朝は、四月初旬というのにまだ霜柱がたち、肌寒い。
万俵大介は、カシミヤのセーターの上に厚手ウールのガウンを羽織り、スリッポンの靴裏で霜柱を踏みしだきながら、山荘内の雑木林をゆっくりと步いていた。辺りは野鳥の羽搏《はばた》きと囀《さえず》り以外、森閑と静まり返り、山全体がまだ冬の眠りから醒《さ》めきっていない。
鶯《うぐいす》の鳴声で、大介は足を止め、左手の深い谷の方へ視線を向けた。鶯は見えなかったが、夏に聞く音色より澄んで美しい。六甲山の自然も、ここ数年、目に見えて荒れ、野鳥も少なくなったが、万俵家の山荘がある聖者の道《シユライン.ロード》の辺りは、まだ自然の美しさが保たれている。万俵家の山荘は、先々代の龍介の代に、一山いくらの単位で買い入れたから、谷や沢を含めて十数町步にわたり、六甲山のたいていの野鳥と植物に恵まれていた。
大介は、再び山荘内の雑木林の中を步きながら、腕時計を見た。十時半を廻っている。日曜日の今朝、七時半に岡本の邸《やしき》を車で出、久しぶりに六甲山の山荘へ来たのは、静養のためではなく、娘婿の大蔵省主計局次長の美馬中を東京から呼び寄せ、秘《ひそ》かに会うためであった。約束の時間は十一時だから、今頃、美馬はもう大阪伊丹《いたみ》空港から六甲山へ向っているはずであった。雑木林を抜け、山荘の前庭に戻って来ると、
「旦那《だんな》さま、もう中へお入りになりはった方がよろしおます、お体が冷えまっさかい」
シャベルで庭の盛土を直している管理人が、遠くから声をかけた。
「いや、少し汗ばんで来たぐらいだ、そろそろ、美馬もつく頃だろう」
「へえ、そう思うて、家内《かない》がお部屋を暖こうにしておりますよって」
勤めてからもう十五年になる管理人は、素朴な口調で応えた。
テラスから、南向きの広間に上ると、大介は、薪《まき》が燃えている暖炉の前のロッキング.チェアにどっかりと腰を下ろした。広間の壁面はすべて生節《いきぶし》の檜《ひのき》の乱張りで、天井には一抱えもある太い松の梁《はり》が通り、山荘らしい野趣が溢《あふ》れている。
パイプに葉を詰めかけると、車の音がし、ガラス戸越しに下の門からS字型に曲った道を上って来る車が見えた。
「やあ、日曜日というのに、すまなかったね」
大介はパイプを片手に、舅《しゆうと》らしい犒《ねぎら》いの言葉で迎えると、美馬は鞄《かばん》一つ持たぬ軽装で、
「お待たせしたのではありませんか、飛行機が二十分程遅れましたので――」
と云い、大介の横に腰を下ろした。
「シーズン.オフの山荘というのも、なかなかいいものですね、下界は桜が満開というのに、こうして人気《ひとけ》のない処《ところ》で、暖炉を焚《た》きながら、鶯の鳴声に耳をすますなんて――」
美馬が軽くロッキング.チェアを揺すりながら寛《くつろ》ぐように云うと、大介は運ばれて来た紅茶にブランディを滴《た》らし、
「岡本の邸でもよかったんだが、銀平の結婚準備や新居改築などで、何かと騒がしく、落ち着かなくなってね、永田大臣は、東京の披露宴には出席して貰《もら》えそうかね?」
「ええ、秘書官は、何とか都合をつけると云っていますから、まず大丈夫でしょう、当日は、富国銀行の巌頭取もお招きするんですか?」
美馬は女のような色白の顔に、微妙な笑いをうかべて云った。
「当方にとって招きたくない客でも、相手が全国銀行協会の会長となれば、来て貰わないと画龍《がりよう》点睛《てんせい》を欠くからねぇ」
苦々しげに云い、手にしていた紅茶茶碗《ぢやわん》をサイド.テーブルの上に置くと、
「それで中君、この間、電話で話したように富国銀行から申し入れがあった預金の相互受払いの業務提携だがね、君はどう考えるかね、当行にとってメリットがありすぎることをもって、ただちに富国銀行が当行との合併をもくろむ布石と考えるのは、早計過ぎるだろうか?」
入行式の日、東京事務所長の芥川常務から、そのことを電話で報《しら》せて来た時、背筋が凍るような不安感に駈《か》られたことなど気振《けぶ》りにも見せず、平静な様子で聞いた。
「その預金の相互受払いの業務提携を持ち込んで来る前にも、クレジット.カードや新種預金の業務提携を云って来たんでしたね」
元銀行局銀行課長であった美馬は、念を押すように云った。
「そうだ、二月に万俵商事が吸収した太平スーパーと、富国銀行がメイン.バンクである富士ストアとが、業務提携した時、銀行間でも二パーセントの株の持合いをしたんだが、それ以後、どうも通常のコマーシャル.ベースを越えた過度の便益供与が多過ぎる、つまり、ラヴレターが来すぎるように思うのだ」
「それで、融資関係の方はどうなんです、その方面にも手が廻っているんですか?」
「融資担当の渋野常務に調査させたところ、当行が九年前から水やり、肥料《こえ》やりで今日まで育てて来た平和ハウスに、先月末、まるで公定步合のような安いレートで、ぽんと七億円貸し付けたのをはじめ、その他《ほか》の当行の大口取引先にも、積極的な融資態度を示して来ているらしい、しかも芥川からの報告では、富国銀行の竹中常務が、マスコミ関係に、当行と富国銀行が親密な仲であることを、故意に捏造《ねつぞう》して流している節《ふし》があるというのだ」
業務提携を表面に押したてて来ると同時に、阪神銀行の大口融資先にも“微笑外交”で接近し、阪神銀行と富国銀行は親密な間柄であるという既成事実を作りあげようとしている。ここまで材料が揃《そろ》えば、もはや富国銀行が阪神銀行との合併をもくろんでいるとみて、ほぼ間違いがなさそうであった。注意深く耳を傾けていた美馬も、
「富国銀行は、元来、政治的な動きがうまい銀行で、政府その他の公金関係に密着して、大規模な預金の吸上げを行ない、トップ.バンクの座を維持しているのですが、最近、大友銀行や五菱銀行の飛躍的な躍進で、トップの座が脅《おび》やかされて来たから、今のうちに都市銀行間の大型合併をやってのけ、大きく水をあけておきたいというのが偽らざるところでしょう、そうなると、財閥系銀行でもなく、日銀、大蔵閥でもない都市銀行で、しかもただ一人のオーナー頭取を擁する阪神銀行を狙《ねら》ったのは、的を射てますね、しかし、お舅《とう》さんの方で応じる気持がなければ、それほど気になさることもないでしょう」
それだけのことで自分を呼んだのですかといわんばかりに云った。大介は赤々と燃える暖炉に眼を遣《や》りながら、この五日間、富国銀行の不気味な動きに対する不安を誰にも見せず、独り胸中に畳み込んで来たことを思い返し、暫《しば》し沈思してから、
「中君、実は、今日は極秘で君と話したいことがあってね、忙しい中をわざわざ東京から六甲山まで来て貰ったのも、そのためなのだ」
美馬の視線を、真っ正面から捉《とら》えた。
「というのは、なるべく近い時期に、阪神銀行に、どこか似合いの婿を見つけて、合併したいのだ、その婿探しに是非とも、元銀行課長であった君の智恵《ちえ》と力をかりたい」
「婿探し? 花嫁ではなく、敢《あえ》て婿といわれるのですね――」
美馬は、大介の勢いに、ややたじろぐように反問した。
「そうだ、阪神銀行より小さいところではなく、大きいところと合併したいのだ、かといって、もちろん当行が、吸収される合併ではない、対等、もしくはそれを上廻るリーダーシップのとれる合併をやりたい、つまり“小が大を食う”合併を成功させて、配当、利子、店舗の自由化までに業容を拡大しておきたいのだ」
万俵は眼をぎらつかせ、迫るように云った。
「しかし、お舅さん、はっきり云って、そんな都合のいい合併など、よほど思わぬハプニングでもなければ、実現不可能な話ではないでしょうか、それとも、具体的に、どこかお心づもりでもおありなんですか?」
「いや、具体的には、さし当ってない、しかし、二月に『金田中』で永田大臣と会った時、銀行合併は、規模の大小だけできめられるものではない、質の問題がある、つまり業容次第によっては、小が大を食うこともあり得るという見解を聞いたのだ、もっとも大臣は、私の気持を暗に察したらしく、そのためには、せめて預金順位がシングルになっていなければねぇと、意味あり気に付言したがね」
「ほう、あの時、もうそこまでのお話合いが、出来ていたんですか」
美馬は、いささか鼻白むように云い、
「で、阪神銀行が、急に預金量を増やして九位になれる目算は?」
「現在九位の平和銀行とは、五百億の開きがあるが、九千二百人の全行員に夜討ち朝がけの預金合戦を命じれば、出来ぬ話ではない」
大介は、まるで将棋の駒《こま》を動かすように、自信に満ちた声で云い、
「問題は、食う相手だ、むろん当行が大友銀行や五菱銀行などの上位行を食えるわけがないのだから、それは問題外として、中位の銀行のほんとうの経営内容を何とか洗ってくれないか、大蔵省が銀行に講評する各行の業容と、大蔵省に保管されているそれとは、大分、開きがあるところもあるそうだから、そこのところを知りたいのだ、それを握っているのは銀行局以外にないのだからねぇ」
そのために日頃、何かと経済的な面倒をみてやっているのではないかというニュアンスを、言外に響かせた。
「そりゃあ、お舅さんの云われるように各行のほんとうの経営内容を握っているのは銀行局以外、ありません、しかし、これは銀行局の中でも極秘資料ですから、おいそれとはつつけませんし、無理押しすれば、私自身の立場が困ったことにもなりかねませんからねぇ」
鼻にかかった抑揚のない声で云い、暫《しばら》く黙り込んだが、
「それは非常にお急ぎなんですか?」
と云い、上衣の内ポケットからびっしり日程の詰った手帖《てちよう》を取り出した。
「うむ、急ぐ、出来ればこの一カ月以内にでも、六位の中京銀行から、九位の平和銀行までの各行の業容を知らせてほしい、そうして洗って貰えば、案外、図体《ずうたい》は大きいが中身はよくない、当行にとって恰好《かつこう》の合併相手が浮かんで来るかもしれない」
大介はそう云って、燃えさかる炎の中へ新しい薪を投げ入れた。それは、もはや大介の胸中で、銀行合併の火蓋《ひぶた》がきられたという事実を象徴するような動作であった。
高須相子は、車を運転し、六甲山から大阪の伊丹空港に向っていた。
皮のブレザー.コートを羽織り、ネッカチーフを巻いた相子は、いつもよりさらに若々しく、美馬と並んでいると、傍目《はため》には、仲の良い中年夫婦の日曜ドライブのように見えたが、相子は大介と美馬との密談が終った頃、山荘へ行き、六甲山ホテルから取り寄せた料理で美馬をもてなしたあと、空港へ送って行く途中だった。
美馬は、先刻《さつき》の大介の依頼をいささか重荷に思っているらしく、浮かぬ顔で黙って、煙草《たばこ》をくゆらせていたが、相子は、明るい声で話しかけた。
「せっかくの日曜日に、ほんとうに恐縮でございましたわ、今日はゴルフのお約束でもおありだったんじゃあございませんの?」
と云うと、美馬ははじめて口を開いた。
「まあ、お互いさまじゃないですか、相子さんだって、このところ銀平君の結婚式の準備で大へんなんでしょう」
「ええ、今度はいろんな意味合いを籠《こ》めて、披露宴を派手にやることにしていますので、大へんですわ、あなたのおかげで、東京での披露宴は、政、官界の大物の方にいらして戴《いただ》けて、安田さまの方も、大へんなお喜びようでございますわ」
車は、中腹の急カーブにさしかかったが、相子のハンドル捌《さば》きは見事であった。
「安田さんのお嬢さんと銀平君とは、うまく行きそうなんですか?」
「向うは相当なお熱の上げようなんですけれど、銀平さんは例によって、素っ気ない応対ぶり、万樹子さんから三日にあげずのお誘いの電話があっても、お断わりしっぱなしだったんですけど、先日、やっと二度目のデートで、グレコのシャンソンを聞きに行ったところですの、でも、何とかうまく行くんじゃないかしら、どちらも相当なものだから――」
「と云うと、安田家のお嬢さんも、何か?」
「興信所に素行調査を依頼しましたところ、万樹子さんは学生時代に既に男性を知ってらっしゃるし、銀平さんだって、前にちょっとお話しした小森章子という女性とのことがございますでしょう、だからお互いさまですよ」
相子は、下から登って来る対向車を避けるためにハンドルを左にきりながら云った。
「ほう、あれほどの良家の子女に対しても、素行調べとは、さすが相子さんらしいやり方ですね、しかし、向うだってご同様に、興信所を使ってこちらを調べれば、銀平君の女関係どころか、万一、あなたとお舅さんのことが――」
と云いかけると、相子は窓から吹き込む風にネッカチーフの端を靡《なび》かせ、
「銀平さんについては、バー遊びが派手で、不特定多数の女性とのつきあいはあっても、特定の女性関係はなしという調査結果になりましょうし、私のことは、あなたと一子さんの時も、鉄平さんの結婚の時にも、一切、解《わか》らなかったじゃありませんか、興信所は警察でも何でもないんですもの、世間的な聞きこみ、会社関係、友人関係などの問い合せをもとにしてまとめるのですから、その辺の防備さえ常に万遺漏《ばんいろう》なくしておけば、大丈夫ですわ」
「そうすると、相子さんの方が、興信所より役者が一枚上だったということですか」
「ということになりますかしら、ふ、ふ、ふ」
相子は、声をたてて笑った。
車はいつの間にか、六甲登山口のあたりまで降りて来、真下に帯のように細長い神戸の街と港が望まれ、気温も下界並になって、四月の陽気がたっていた。
大臣室で省議が終ると、主計局次長の美馬中は、時計を見た。午前十一時から始まった省議は、昼食を挟んで、終ったのが四時だった。各省別の既定経費の削減が議題で、放っておくと、各省庁の経費は年々、切りがなく増えて行くから、大臣、次官、主計局長を中心に、官房長、主計局次長以下、担当主計官が出席して、その洗い直しを討議したのだった。
一国の財政を預かる大蔵省で、主計局は、各省の予算を厳しく査定する権限を持っていたから、エリート官僚が綺羅星《きらぼし》の如《ごと》く群れている省内でも、主計官僚は特に一目《いちもく》おかれている。美馬は、延々五時間に及んだ省議に、やや疲れを覚えたが、すぐ次長室へは帰らず、銀行局の方へ向った。昨日、舅の万俵大介から頼まれたことに取りかかるためであった。そして大臣室の前を通り、階段の方へ行きかけると、
「美馬君――」
と声をかけられた。振り返ると、大蔵大臣を訪ねて来たらしい厚生大臣が、秘書官を伴い、美馬の方へ近付いて来、
「例の医療保険の件、あれ、来年度予算で何とかできるように、一つ君の力で頼むよ」
耳うちするように云った。
「はあ、それは前年度予算以来、事情は、よく承っております、微力ながら努力させて戴きます」
美馬が慇懃《いんぎん》に応《こた》えると、厚生大臣は、
「じゃあ、くれぐれもよろしく頼むよ」
もう一度、念を押すように云ったが、厚生大臣が行き過ぎると、美馬の顔に快感に似た笑いがうかんだ。予算を牛耳っている主計局次長なるが故《ゆえ》に、大臣でさえ下手《したで》に声をかけるのだった。美馬は、仕立おろしのチャコール.グレイのスーツに、同系色のネクタイを締め、一分《いちぶ》の隙《すき》もない身のこなしで、四階の銀行局へ上って行った。
銀行局は、銀行局長室、財務審議官室、総務課、銀行課、中小金融課、検査部の順に各室が並んでいた。美馬は曾《かつ》ての古巣であり、勝手知ったところであるから、個室になっている検査部長室をノックすると、部長室付の秘書が、お出かけですと告げた。格別の用件はなかったが、金融検査官のベテランである田中松夫に声をかけるのに不自然にならないように、まず検査部長と雑談を交わしてからにしようと思ったのである。検査官室の方を見ると、殆《ほとん》どが銀行検査に出払い、ぱらぱらと十人程の金融検査官が居残っているところに、やや猫背で机に向っている田中松夫の姿が見えた。美馬はまっすぐその方へ近寄って行き、背後《うしろ》からぽんと肩を叩《たた》いた。振り向いた田中は驚いたように、美馬の顔を見、たち上ろうとしたが、
「いいんだよ、それより、今夜、ちょっと時間を空《あ》けてくれないか」
美馬は、わざとおおっぴらに云った。どうせ自分と田中が会っていれば、誰かの眼にふれるであろうことを考えた上でのことだった。田中は驚きと警戒心の入り混じった表情で、
「何か、急なご用でも――」
年齢は美馬より四、五歳上であったが、エリート.コースにのったキャリア組と、万年冷飯食いのノン.キャリア組との差別が歴然とあり、今や全く上司に対する言葉遣いで云った。
「都合がつけば、弁慶橋の染八に来てくれないか、六時ごろがいいな」
と云うと、田中の方が、傍目《はため》を気にするような小声で、
「承知しました、お伺い致します」
と応えた。美馬は当然のように頷《うなず》き、銀行局を出ていった。
その夜、美馬が弁慶橋の小料理屋『染八』の二階へ上って行くと、約束の時間より十分早かったが、既に田中松夫は先に来て待っていた。角ばった顔に丸い縁の眼鏡をかけ、百貨店の既製服売場で買ったような平凡な服を着、ネクタイだけは飲屋の女将《おかみ》にでも貰《もら》ったのか、妙に目だった趣味の悪い柄ものを締めていた。美馬の姿を見ると、田中は組んでいた趺坐《あぐら》を坐《すわ》り直し、
「先ほどは、どうも――、突然で驚きました」
曾て美馬が銀行局検査部にいた時には、同じ検査官であったが、十六年の間に、美馬と田中の間には、主計局次長と万年検査官という大きな隔たりが出来てしまっていた。東大出のエリート官僚は、検査部に入って金融検査官になっても、せいぜい二年ぐらいで、あとは特急列車並の速さで課長、部長、次長に栄進して行く。しかし私大出の田中は、鈍行列車よろしく万年金融検査官として、検査部の主《ぬし》的な存在になっているのだった。
「こうして向い合うと、いつも検査部時代のことを思い出すねぇ、あの頃はほんと世話になったねぇ、とにかく銀行の帳簿は解りにくいものだから、とても見よう見真似というわけにはいかなくて、君のおかげで助かったもんだ、まあ、久しぶりに呑もうじゃないか」
すぐ酒と料理を注文した。銚子《ちようし》が運ばれて来ると、美馬は仲居に席をはずさせ、