「時に仕事の方は、どう?」
と云いながら酌をし、田中は恐縮しきって盃《さかずき》を受け、
「相変らず、地方のどさ廻りみたいなもので、地方の都市銀行へ検査に行ったら、ご承知のように、一月《ひとつき》は家を留守にしますのでねぇ」
ややくたびれたように云った。金融検査官というのは、検査部長の指示を受けて、都市銀行から地方銀行、相互銀行、信用金庫に至るまでの金融検閲を予告なしに、“抜き打ち検査”し、一カ月程の日数をかけて、徹底的に内容を洗い出す。その検査報告に基づいて、もし不良貸出、預金導入の面で不審な点があれば、銀行は銀行局から厳しい監督を受け、時には新店舗が認可されないということにまで影響する。それだけに銀行は、全智《ぜんち》全能を搾《しぼ》って、帳簿面《づら》を整えるから、検査する側も、銀行経理の仕組について精通していなければならない。田中松夫は“検査の左甚五郎《じんごろう》”と云われ、この道二十数年の経験と勘で、一カ所数字が動けば四十数カ所に波及するといわれるほど複雑な銀行の帳簿を快刀乱麻を断つ如くチェックするベテランであった。美馬が検査部に入って、都市銀行へ出かけた時も、表向きはエリート官僚の彼がキャップになって、田中のようなベテランがサブにつき、検査の実際面を補ってくれるのだった。その代り美馬は、田中がたまたま、阪神銀行の支店がある加古川《かこがわ》出身であるところから、何かと面倒を見、酒好きの彼によく飲ませていた。そんなことが、今夜の呼出しにも役だっていた。
「ところで、最近は、どこへ検査に行ったんだい?」
「名古屋の中京銀行で、目下、その講評を整理中です」
検査官は六、七人が一組になって検査に行き、一カ月間で、伝票のつき合せから、貸出情況、預金の動き、資金内容、融資先まで、一件一件について丹念に調査し、本省へ帰ってから、また一カ月ほどかかってその調査結果を作成し、『講評』として上司に提出するのだった。したがって大銀行の場合はともかく、中下位銀行の場合は、講評の是非が一行の浮沈にかかわる時がある。美馬は中京銀行と聞くなり、顔が引き締まるのを覚えた。昨日、万俵大介が調べてほしいと云った銀行の一つである。
「どうだい、この頃の銀行は、どこも合併に神経質になっているんじゃないかね?」
「そりゃあ、そうですとも、うかうかしていたら、いつ呑まれる立場になるかもしれませんから、この頃は、検査に行ってみると、一種の殺気みたいなものを感じると云っても云い過ぎではありませんでしょうね」
田中は盃をあけて、美馬に返盃《へんぱい》した。美馬はそれを受けながら、
「君は今年で、幾つになったんだっけな?」
美馬は知っていながら、呆《とぼ》けるように聞いた。
「齢《とし》ですか、うかうかしているうちに、四十九歳、来年で五十歳です――」
「ほう、そうすると、そろそろ退官後の行き先を考えなきゃあならないね」
「ええ、しかし、美馬さんなどと違って、私どものような私大出のノン.キャリでは、これという行き先もなく――、一方、子供たちは大学へ入る齢頃ですので、少しでもましなところをと、気ばかり焦《あせ》っていますよ」
「子供さんは、どちらの大学へ?」
「それが昨年、今年と続けて東大を失敗したのですが、父親の私に懲《こ》りて、アルバイトして何年浪人してでも、絶対に東大へ入らなければ一生うだつが上らんと、頑張っております」
下積みの官僚の父親と、その息子の姿が、だぶるように美馬の眼に映った。
「実は、君も知っているうちの舅《おやじ》の阪神銀行系列の白鷺《しらさぎ》信用金庫に、常務クラスのしっかりした人物がいなくて困っている、誰か人材はいないものかと、頼まれているんだがねぇ」
気をもたせるように云うと、田中はひと膝《ひざ》のり出すような態度を示した。しかし美馬はわざとさり気なく、
「その舅《おやじ》がね、都市銀行の六位行から九位行までの経営内容の実態を詳しく知りたがっているんだよ、ところが、僕は今、銀行局を離れているから、なかなか詳しい事情が解らなくてねぇ、弱っているんだよ」
ごく軽い調子で云った途端、田中は顔を硬《こわ》ばらせた。詳しい事情を知るとなると、検査報告しかない。コピーが欲しいのだということが、田中にはすぐ解った。銀行検査の結果は、『講評』という名で、一応、検査した銀行に通達されるが、それは他行にも知れる半ば公的なものであった。ただしそれとは別に大蔵省内にもう一通、詳細に記載されている検査報告がある。そこには、その銀行の経営内容だけではなく、「頭取の融資態度甘し」とか、「頭取の私生活に疑問あり」という点まで記入されている場合があり、頭取のポストを左右し得る力を握っている大蔵省銀行局にとっては極秘情報に属するものであった。美馬がいうコピーというのは、それを指しているのであった。
「しかし、あれは……、詳しい検査報告のコピーは、ご承知のようにマル秘の書類ですから――」
田中が顔色を変えると、美馬はすかさず、田中の盃に酒を注ぎ、
「そりゃあ、君の立場として困ることは解るよ、下手すると、馘《くび》にかかわることだからねぇ、しかし、君の馘の心配は、たしか六年前にも一度したことがあったよなぁ」
と冷やかに云った。田中の視線が畳に落ちた。それは六年前、美馬が銀行課長だった時、田中松夫が行なった小さな汚職のことだった。金融検査官は、銀行でコーヒー、紅茶以外の接待は一切受けてはならず、昼食に出された丼物《どんぶりもの》の代金も支払わなければならないし、宿泊はその地方の財務局の寮に泊ることが慣行となっている。したがって夜の酒席はもちろん、宿泊の饗応《きようおう》も固く禁じられているにもかかわらず、大阪のさる銀行へ検査に行った田中は、キャバレーのホステスと馴染《なじ》みになり、つい女と泊ったホテルの支払いを銀行に任せてしまったのである。それを競争銀行と覚しきところからの投書で、銀行局へ密告され、問題になりかかったのを、美馬がもみ消してやったのだった。顔を蒼《あお》ざめさせ、黙り込んでしまった田中の表情を確かめてから、美馬は冷たい薄笑いをうかべ、そのくせ言葉だけはひどく優しく、
「あの程度のことは、君の運が悪かっただけのことだよ、そのことは別として、君ももう齢だから、この辺で晚年を故郷でゆっくり送るのも一つの考え方だよ」
言葉に或《あ》る種の感慨をもたせるように云うと、田中の表情が動いた。そして暫《しばら》く黙り込んでいたが、盃を一杯ぐっと空けると、
「検査報告のコピーは、六位から九位まで、私の手もとには揃《そろ》っていませんから、担当している者を調べて、全部、手に入れておきましょう」
嗄《かす》れるような声で約束した。
「そりゃあ有難い、できたらこの一カ月以内ぐらいに揃えて貰えれば助かるんだよ、銀行局も、僕がいた時より、銀行行政が自由化されているはずだが、相変らず、銀行に対して絶大なる力を持っているようだね、僕たちからみれば鼻紙ぐらいにしか思っていない資料を血眼《ちまなこ》になって欲しがる――。ねぇ、田中君、おかしいじゃないか――、しかし、君も僕も、そのおかしさの上に趺坐をかいているようなものだなあ、さあ、話がきまれば、お互いにリラックスして飲もうじゃないか」
美馬は、田中の気持など斟酌《しんしやく》せず、ぽんぽんと手を叩《たた》いて仲居を呼び、料理と酒を追加した。
成城のあたりは、夜の十時を過ぎると、森閑と静まり返り、邸町《やしきまち》を走る車の音だけが響いてくる。
一子は、子供と若いお手伝いを先に寝《やす》ませ、独り居間のソファに腰かけて、フランス刺繍《ししゆう》をしていた。毎晚のように帰りが遅い美馬を待つ間、いつも、そうして時間を過している。
玄関に車の停まる音がすると、一子はすぐ門を開けに行った。
「お帰りなさいまし、今夜はお早うございますのね」
「今夜は僕の用事ではなく、お舅《とう》さんの使い走りだよ、主計局と銀行局との二役をしなきゃならないから、とてもじゃないが身がもたんよ」
美馬は不機嫌に云い、一子が揃えたスリッパを履いて、居間へ入った。
「子供たちは、もう寝んでしまったのかい?」
美馬は、どんなに不機嫌な時でも、必ず一度は子供のことを聞く。
「ええ、とっくに――、宏は明日、学校の遠足で多摩へ参りますので大喜びです、潤も扁桃腺《へんとうせん》の熱が下り、二人ともいつもより早く寝みましたの」
「そうかい、主計局にいると、家庭放棄はやむを得んねぇ、われながらよく体が保《も》つと思うよ、省議や局議がある日は、だいたい午前十時頃から昼めしを挟んで、延々夕方まで続く時があるし、会議がすんだかと思うと、下から稟議書《りんぎしよ》が上って来るのが夕方からだから、退庁は平均七時半か八時、それから宴会が、多い時は二つもあるから、同じ大蔵省でも主計局にいる者は、局長以下末端に至るまで残酷物語だよ」
酒臭い息を吐いて珍しく愚痴ったが、一子は、美馬が口癖のように云う「忙しい、忙しい」という言葉を冷やかに聞いていた。
結婚当時、銀行局検査官だった美馬は、始終、地方銀行の検査と称して家を空《あ》け、一子はそれを本気にしていたが、結婚して半年目に、美馬が他《ほか》の女と関係していることを知るなり、実家へ帰ったことがあった。もともと美馬より、叔母の千鶴《ちづる》がすすめる大阪の繊維会社社長の令息との結婚を望んでいたのに、父が、美馬の将来を見込んで、相子と二人がかりで強引に美馬との結婚を推し進めたのだった。その美馬が結婚前から、バーのマダムと深い関係にあり、結婚後も、地方出張と偽って、マダムの家にしばしば泊っていたことを知って、一子は妊娠四カ月の体で離婚を決意した。その時、美馬は、一子の後を追って万俵家へ来、大介に向って、女の方から色と欲でもちかけてきた話であり、決して大介から送られた金で遊んだのではないと弁明した。
事実、高級官僚の中でも、大蔵官僚は、将来、金をふんだんに使える身分ということで、花街でも大いにもてる。中には、浮気した女との手切金を財産家の舅《しゆうと》に出してもらっている大蔵官僚がいることも、万俵大介は聞き知っていた。
しかし、美馬の話を黙って聞き終った大介は、「金の問題ではない、もし娘との間が不縁になったら、万俵家の娘は、女として一番大事なものを失うのだから、君も一番大事なもの、つまり大蔵官僚であることをやめて貰いたい」ときめつけたのだった。その一言に、美馬は、それまで感じたことのない怖《おそ》れを大介に抱き、大介から手渡された手切金で、その女ときれいに別れたのである。そして長男の宏が生れ、続いて次男の潤が生れ、表面は和やかに過している夫婦のように見えたが、少なくとも一子の内心にはしっくりしないしこりが残った。しかし一子は、母の寧子に似て、感情を露《あら》わにしないもの静かな性質だったから、いつもより深酔いしている夫を見、
「あなた、お冷水《ひや》をお持ちしましょうか?」
と聞くと、美馬は頷いた。田中松夫に極秘情報を齎《もたら》すように口説いた後、さすがにあと味の悪さを覚え、したたか飲みすぎて、悪酔いしているのだった。ネクタイをゆるめ、顔を仰向けにしてソファにもたれると、眼の上に舅から贈られたビュッフェの絵があった。葉を落したパリの街路樹の枝が天を突き刺すように鋭い研《と》ぎ澄ました線で描かれているのが、酩酊《めいてい》している美馬の神経に障《さわ》った。お冷水を運んで来た一子は、美馬が絵を鑑賞しているのだと思い、
「あなた、いい絵ですことね、ビュッフェの空に向った垂直の美しい線を見ていると、ゴシック建築の風土の中に育った絵という感じが、つくづく致しますわね」
もの柔らかに云った。美馬は一口、冷水を呑みこみ、
「号十五万円として、十五号で二百二、三十万円か――、しかしお舅さんのご用命の内容からみれば、決して高くはないさ」
一子は、夫の酒気に染まった顔を見詰めた。ずっと父の経済的援助を受けていながら、父からちょっとでも頼まれごとをすると、恩きせがましい云い方をし、しかもせっかくの絵まで金に換算してしまう。一子は、所詮《しよせん》、育ちの違いだと思った。
美馬は酔いざめの水をもう一杯、一気に呑み干すと、
「さて、お舅さんに、本日のご報告を申し上げることにしようか」
電話器を取り上げ、万俵大介の書斎直通の電話にダイヤルを廻した。
「もしもし、お舅さんですか、僕です、昨日はどうも――、ご依頼の件は今夜、早速、これという相手に当ってみましたが、何しろ、ことがことですので、慎重と適確を期し――、いや、その辺のところは、今暫く私におまかせ下さい、何とか致しますから――」
美馬は、壁に掲《かか》ったビュッフェを眺めながら、田中松夫と話はついているのに、故意にこと難かしく云った。
大介は、大島の和服姿に庭下駄を履き、銀平の新居の工事現場を見下ろせる高みに立っていた。
眼下の向って右側が、大介自身が住んでいるスペイン風の赤い屋根と白い塔のある洋館、真ん中が亡父敬介が住まっていた数寄屋《すきや》風の日本館、大きな池を隔てて東側に、長男の鉄平が住んでいるル.コルビジェ式の白亜の洋館と、それぞれが独特の趣をもって点在しているが、今、日本館の半分が取り壊されていた。七間《しちけん》の梁《はり》が通った客殿と仏間、茶室、それに衣裳《いしよう》部屋と総檜造《ひのきづく》りの湯殿は残し、平素、父と母が使っていた部分を、銀平の結婚後の新居のために、南欧風の洋館に改築しているのだった。
鉄筋コンクリート二階建て、五十坪の建物は、まだ足場が組まれていたが、家の主体工事はほぼ終り、外側の壁塗りや内側のタイル貼《は》り、水道、電気などの作業員が出入りして、最後の追込みで慌《あわただ》しかった。
この新居の普請にも、当人の銀平は、最初の設計図に一度眼を通したきり、殆ど工事現場に顔を出さなかったから、大介は、休日でゴルフにも出かけない日は、朝から普請を見に来ているのだった。
現場監督は、庭の高みに立っている大介の姿に気付くと、急いで駈《か》け寄り、
「これはこれは、頭取、お早うございます、ちっとも存ぜず、失礼致しました」
「いや、突貫工事で急がせてすまないね」
「いえ、いえ、お休みのところ、早朝からお喧《やかま》しゅう致しております、それに致しましても、日本館のお取壊しは、りっぱな梁や一枚板などが、ふんだんに出て参り、ほんとにもったいないほどで――」
惜しむように云ったが、大介は、亡父の財力で建てた日本館の半分を取り壊し、自分の財力で、息子のための住まいを新たに建てることを楽しむかのように眺めていた。
「新婚夫婦の住まいだから、くれぐれも工期の方は、遅れぬように頼むよ」
と云うと、大介は踵《きびす》をかえし、池の方へ廻った。昨夜、美馬からかかって来た電話が、今朝がたの心境を明るくしていた。美馬らしく、早速、ことの緒《いとぐち》をつけ、あとは私に任せて下さいと、自信ありげに云ったのだった。大介は、最近ほど、一子を美馬に嫁がせた利点を強く感じる時はない。
池の前まで来ると、足を止めた。ここにたつと、いつも亡父の敬介が、朝、起きるなり、庭下駄をつっかけ、ぽんぽんと手を叩《たた》いて、三十数尾の鯉《こい》に餌《えさ》を投げ与えていたのを思い出す。
その時、池を挟《はさ》んだ東側の洋館の方から、鉄平が步いて来るのが見えた。
「お父さん、お早うございます」
「うむ、お早う、休日なのに早いじゃないか、今日も工場へ出勤するのかい?」
背広姿の鉄平を見て云った。
「工場は年中無休で動いていますから、ちょっと見に行ってこようかと思って――」
鉄平は、工場へ行くのが何よりもの楽しみであった。
「こんなところのたち話で、なんですが、例のわが社への融資の件、お父さんの方で引き受けて下さいますでしょうね」
念を押すように云ったが、大介は即答しなかった。
「大同銀行の三雲頭取は非常に積極的な態度を示して下さっていますし、通産省のほうも、大川の舅《ちち》が努力してくれていますから、あとはお父さんの“頭取決裁”という強力なバック.アップをお願いしたいのです」
大介はそれにも応《こた》えず、何かを見入るように、じっと池の面を見ていた。朝陽の中で銀髪が輝き、その端正な横顔は、父というより冷厳な銀行家という方が似つかわしい表情だった。大介は徐《おもむ》ろに、鉄平へ視線を向け、
「今の阪神特殊鋼の規模で、高炉建設などをすれば、業界から袋叩きにあいかねないのではないかね?」
慎重に、口を切った。
「その点は、僕も充分承知の上で、なお……」
「もういい、お前のいうことはだいたい解《わか》っている、だが、世間はそんなに甘くはない、お前は自分の力を過信しているんじゃないか、大同銀行の三雲頭取は、たまたまお前のニューヨーク時代の知己だった、大川一郎は、お前の妻の父だ、私はともかく、この二人の協力を得られなかったら、お前に一体何が出来たか、猪突《ちよとつ》猛進も結構だが、少しは冷静に考えてみることだな」
鉄平は黙った。
「高炉は通産省の認可が下り、資金調達が出来れば、何とか出来るだろう、だが、それから先はどうするのだ、その先もお前一人の力で、何とかなるというわけなのか?」
「もちろん、採算のとれない計画など、はじめからしやしません」
「そうか、その気ならやるがよい、やる限りは必ず成功させることだ、企業である限り、絶対、利潤をあげなければならない、その点は大丈夫だろうな?」
「高炉、転炉の設備によって、トン当り、平均一万五千円ぐらいのコスト.ダウンが可能になり、新設備の償却、借入金の金利、人件費の増加などを差し引いても、売価の引下げは、トン当り五千円前後になりますよ」
と云いきった。
「じゃあ、行内の筋を通す意味で、調査部の調査を経て融資額をきめることにしよう、しかし断わっておくが、銀行の融資には、親子も兄弟もない、冷厳なものだ」
そんなことは、云われるまでもないことで、こと新しく口にする父の方がおかしかった。
「もちろんです、私もそのつもりでやりますよ」
鉄平は、きっぱりと応えたが、いつになく、妙にからんだものの云い方をする父の言葉が気になった。
阪神銀行としては、阪神特殊鋼の高炉建設をどのように評価しているのだろうか。融資する以上は、充分に資金回収ができると見た上であるはずだが、父の言葉は厳し過ぎた。公私にこだわっているのは、むしろ父の方ではないかと、思った。
「ところで、“将軍”の姿が、最近、見えませんね」
鉄平は、話題をかえた。将軍というのは、祖父の敬介が愛玩《あいがん》していた体長八十センチもある吉野川産の巨鯉《おおごい》であった。
「うむ」
大介は、生返事をした。
「死んだのでしょうか?」
「いや、どこかにいるはずだ、お前が手を叩けば、きっと、現われるよ」
「私が叩くと……どうしてです?」
「お前は、お祖父《じい》さんと手の叩き工合までそっくりだからな」
「まさか――」
鉄平は、笑った。
「じゃあ、試しに手を叩いてごらん――」
「いやですよ、馬鹿馬鹿《ばかばか》しい、前にそんなことがありましたが、あれは偶然ですよ」
「偶然かどうか、まあ、やってみることだ」
まるで対決を迫るように云った。鉄平は、馬鹿馬鹿しく思いながら、池のはたにしゃがみ、水面に向って手を打った。間もなく静かに藻《も》をゆるがせて、どこからともなく、三十数尾の鯉が群れをなして泳いで来た。
「そら、来たじゃないか」
大介はやや昂《たかぶ》るような声で云ったが、将軍はまだ現われない。群れをなし、うねるように泳いで来た鯉は、餌をやると争うように食いつき、池の周囲に沿って遊泳した。鉄平はもう一度大きく三つ、手を叩いた。たしかに祖父も三つ叩いていた記憶があった。池の面が小波《さざなみ》だち、波紋が拡がったかと思うと、“将軍”の黒い影が、悠然として現われた。錦鯉《にしきごい》の中で、『墨流し』の一種と云われる変り鯉で、黒の濃淡の鱗《うろこ》を持ち、背のあたりは黒漆のように光り、赤、黄、紅白など、種々の色に彩《いろど》られた錦鯉の中で、寿齢五十年、体長八十センチの威容はいかにも将軍の呼名にふさわしい。水面に頭を出すと、鉄平の足もとまで悠然と泳いで来、竹筒のような大きな口を開けて、鉄平の掌《てのひら》から蚕のさなぎの餌を食べると、姿を消した。
「それみろ、やはり来たじゃないか」
「なるほどね、どうしてでしょう?」
鉄平は首をかしげた。
「それはお前が、おじいさん子だからだろう」
「そりゃあ、私はおじいさん子でしょう、お祖父さんの膝《ひざ》の上に抱かれたのは、私だけらしいから――」
おじいさん子という言葉を、大介は、もしや亡父と妻とのという鉄平の出生への疑惑の意味で云い、鉄平はいわゆる祖父に可愛《かわい》がられたという風にとって、二人の意味は微妙にくい違っていた。
「それだけじゃない……」
大介は、池に向って低く独りごつように云った。
「え? それだけ何ですか?」
「いや、要は、お前が大へんなおじいさん子だということだよ、鯉を呼ぶ手の音まで似ている」
なおも云ったが、鉄平は鯉にかかずらわっている時間はなく、
「では、行って参ります」
車庫《ガレージ》の方へ足を急がせた。
鉄平は、自ら運転する車で工場内に入ると、すぐ事務本部の建物の中にある専務室へ入った。出勤していた事務員は一瞬、驚いたような顔をしたが、休日には時々、事前に連絡もせず、運転手を休ませて、自分の車で工場を見に来ることがあったから、すぐ作業衣の用意をした。
「君たちも精が出るな、僕はちょっと、工場を廻ってくるよ」
ワイシャツの上に作業衣をつけ、安全用の黄色いヘルメットを冠《かぶ》ると、家にいる時の鉄平には見られない精悍《せいかん》な力が漲《みなぎ》り、大股《おおまた》な足どりで工場へ向った。
休日の工場は、現場要員だけの出勤だったから、通路には人影が少なく、騒音も低かったが、工場へ近付くにつれて、電気炉から聞えてくる低い振動音や、鋼《はがね》が圧延され製管される高い金属音が聞え、鉄平の体に快い躍動を与える。鉄平のような技術屋の経営者にとっては、工場は体の一部のようなもので、工場全体から響いて来る音で、その日の操業状態が聞き分けられた。
鉄平は圧延工場へ足を踏み入れた。電車の車庫のように細長く大きな建物の中は、圧延機の耳を劈《つんざ》くような音が響いている。電気炉で製鋼された鋼塊は、ここの加熱炉でもう一度灼《や》かれた上、圧延される。加熱炉の中に入れられた鋼塊が千六百度にまで熱せられると、真っ赤に灼けた鋼塊がローラー.コンベアに載って分塊圧延機の前に運ばれ、遠隔操作による圧延作業がはじまる。大音響を轟《とどろ》かせて、真っ赤に灼けている鋼塊の上に圧力をかけ、さらに横からも圧力を加え、縦から横から容赦なく叩いて、みるみる長方形の二トンの鋼塊は赤い新幹線が走るように秒速五メートルの速さで圧延されて行く。黒く煤《すす》けた工場内を真っ赤に灼けた鋼がオレンジ色に輝きながら延びていく光景は、美しい。
鉄平が、圧延荷重《かじゆう》の適否を注意深く見ていると、耳もとで人声がした。振り向くと、工場長の一之瀬だった。
「今日も、ご出勤ですか」
鉄平より一まわり以上年長だが、老練な技術と温和な人柄で、鉄平を陰になりひなたになって支えている人物であった。
「そういう君だって、同類じゃないか」
「お互い、一日に一度は、工場の顔を見たい性質《たち》ですね、製鋼部長の金田君も出ていますよ」
一之瀬は、苦笑して云い、
「ところで、通産省のヒアリングの方も、何とかうまくすみ、ほっとしました、これも大川一郎先生のおかげでしょうね」
鉄平は頷《うなず》いた。通産省へ高炉の設備計画書を出して暫《しばら》くして、通産省でヒアリングが行われた。業者の方から提出した設備計画書の各項目について、通産省重工業局鉄鋼業務課長、製鉄課長以下七、八人の担当技官が、説明を求める会で、指示された日時に、各業者は三時間ぐらい、技官の質問に応じることになっていた。この時、たまたま、心証的なことがからんだりすると、技官から意地悪く突っ込まれたり、いや味たっぷりの質問や詳細なデータの提出を求められ、いびられることもあるが、それも大川一郎の線で、先週ことなく終り、あとは学識経験者と大手業者代表によって組織されている産業構造審議会の答申を待つばかりであった。
遠隔操作室の方から、作業員が、デッキへ向って走り寄って来た。
「専務、事務本部からお電話です、東京からのお電話だそうで、遠隔操作室の方へつなぐそうですから――」
鉄平は駈足で遠隔操作室へ行き、受話器を取ると、案の定、大川一郎の濁声《だみごえ》が聞えて来た。
「わしだ、今、岡本へかけたら、娘の奴《やつ》、休日にまで工場へ出かけたと云って怒っとったぞ、いや、それでいい、男はそうでないといかん、ところで、例の通産省の件、転炉だけにしておけなどと生意気なことを云いよった張本人に、高炉を承知させた――、いや、大丈夫だ、さっきわしの息のかかった通産省内の手兵から電話があった、正式通達は一カ月後になるそうだが、あとは君の力量次第だ、特に資金調達はおやじさんに、がっちり頼み込んでおくことだな、わしの方も、朝から五組の陳情客が待っておるんでな」
早口でまくしたてるように用件を云い終ると、ガチャンと電話をきってしまった。鉄平の胸に沸々《ふつふつ》と喜びがこみあげて来た。二年前から計画をたてて実現し得なかった高炉建設が、やっと陽の目を見ることが出来るのだった。鉄平は受話器を置くなり、すぐ操作室を出、デッキにたっている一之瀬を呼んだ。
「高炉建設はOKだ、今、大川の舅《おやじ》から知らせてきた」
「そうですか、やっと高炉が産声《うぶごえ》をあげますか――」
一之瀬が感慨無量のように眼を瞬《しばたた》かせると、鉄平は、
「じゃあ、早速、技術サイドの問題を検討しようじゃないか、製鋼部長の金田君を呼んで、僕の部屋へ来てくれ、今日なら外部の来客や電話に煩《わずら》わされなくていい」
と云うなり、もう事務本部に向っていた。
専務室へ一之瀬と金田が来ると、鉄平は高炉設備計画書を机一杯に拡げていた。高炉八百立方米《リユーベ》一基、転炉六十トン二基、アッセルミル圧延機一台、その他付帯設備を入れて、総額二百五十億の設備計画書で、三人の間ではもう何度も検討され、手直しした計画書であった。
「まず高炉をどこのメーカーに作らせるかということだが、高炉建設に慣れている五菱《ごりよう》重工がいいと思うから、早速、五菱重工に詳細な積算をさせることだ」
鉄平が云うと、金田製鋼部長は、覇気《はき》に満ちた若々しい表情で、
「炉底七メートル、炉高六十メートル、八百立方米《リユーベ》の高炉は規模からいえば小さいですが、最新の設計を取り入れたいですね、炉頂部に高圧装置をつけ、高圧を何ポンドかかけることによって、出銑量《しゆつせんりよう》があがりますから、これを取り入れること、それから炉内の通気性を良くし、還元効率を高めて、燃料費をきりさげるために、酸素と重油を大量にふき込める設計も取り入れ、鉱石の挿入《そうにゆう》もいうまでもなく、大量安全に運べるベルト.コンベア方式にすることです」
「もちろんだ、高炉ができれば、鋼の段階でトン当り五千円も安くなるのだから、阪神特殊鋼の体質改善のためにも、最新の設計を取り入れるよ、次に問題なのは原材料だ、年間、鉄鉱石は七十二万トン、コークスは二十五万トン、コークスに要する石炭は三十一万トンを必要とするが、これらの原材料は殆《ほとん》どオーストラリアとブラジルからの輸入で、わが社一社だけで購入することは困難だから、どこかの高炉メーカーに頼んで、原材料を共同輸入させてもらう交渉をやってみる」
鉄平が云うと、一之瀬は事務員が運んできた番茶で咽喉《のど》を潤《うるお》し、
「問題は、高炉を動かす技術ですが、これはどうします?」
「高炉操業の技術は絶対、経験者でなければならないから、帝国製鉄に技術指導を依頼するか、それとも他社からスカウトするかだが、この方は心づもりしているから、任せてくれ」
鉄平は自信ありげに云った。
「するとあと残された点は資金調達ですが、阪神銀行は随《つ》いて来てくれるのでしょうね?」
一之瀬はともすれば、経理面を度外視しがちな鉄平の欠点を補うように云った。
「そのことは、今朝、会社へ来る前に、父に念押しして来た、父は阪神特殊鋼が高炉メーカーになることにまだ不安を抱いている様子だが、通産省の認可がおりた以上、必ず支援してくれるよ」
父を信頼するように云った。
阪神銀行の頭取室に、珍しく灯《あか》りがついていた。
万俵はさっきから、葉巻をくゆらせているだけで、一言も話さない。大亀専務を呼んでおきながら、まるでそこに彼がいるのを忘れ果てているかのようであり、部屋の中はしんと静まりかえっている。しかしそんな時は、必ず万俵頭取が何かを思い迷っている時であることを、大亀は知っていた。秘書課長時代から万俵に仕えて二十数年になる。その間、営業部長時代に直属の部下が多額の不良貸付をしたため、大亀も進退伺いを出したこともあったが、頭取は長い目で見てくれ、その後の寝食を忘れた働きを認めて、今日の地位に取りたててくれたのであった。それだけに大亀は、万俵頭取に忠節を尽し、万俵の一挙手一投足、咳払《せきばら》いの仕方一つにも気を配ってきたから、今では、ちょっとした仕種《しぐさ》を見るだけで、万俵の心の動きが読み取れるのだった。
万俵は、六尺近い長身をゆったりとソファにもたせかけているが、葉巻をもつ指先が時々、神経質に動く。
「お茶でも、申しつけましょうか?」
気持をほぐすように大亀が云うと、
「いや――」
頭を振り、視線を天井のレリーフに向けた。万俵が何か判断に迷った時に、よくする癖であった。戦災に焼け残った古い建物にしか見られない古典的で華麗なレリーフであり、それを見ると、心が憩《やす》まり、静まるのだった。まだ先代頭取の万俵敬介が健在で、大介が若い取締役だった時代から、始終、大介の身近に仕えて来た大亀には、大介が天井を仰ぎ、レリーフを眺めるのは、仕事か、さもなければ、女のことで思案にあまっている時であるのを知っていた。公卿《くげ》華族の嵯峨寧子と結婚する前から、秘《ひそ》かに囲っていた女の始末をした時も、その女のことで三流業界紙にゆすられた時も、莫大《ばくだい》な金を敬介に隠して工面し、もみ消しに走ったのは大亀であった。いわば万俵大介の人に知られたくない影の部分の尻拭《しりぬぐ》いをすべて任されて来た男だった。それでいて、一言も人に洩《も》らさず、恩きせがましい顔もせず、その上、仕事の面でも、秘書畑と営業畑という銀行の本筋を步いて来ており、その点が、単に万俵家の金庫番的功績で専務に成りあがった“家令専務”の小松とは違っていた。
「頭取、何かよほどのお考えごとでも――」
万俵は、はじめて視線を動かし、
「大亀君、私は当行の合併を考えているのだ」
はじめて、行内の者に合併の意図を洩らした。
「合併……、どことです――、具体的な話でもあるのでしょうか?」
大亀は、息を呑《の》むように云った。
「いや、そうではない、これから私がやろうと思っているのだ」
万俵は、葉巻を口から離した。
「頭取、お言葉を返すようですが、たしかに当行の業績は抜群とはいえません、しかし何も今、合併を考えねばならぬほど追い詰められた経営内容でもございません、万一、不幸な合併をした時の惨《みじ》めさを思うと――たとえば曾《かつ》て大友銀行と合併した南大阪銀行などは、役員が、二年目には当初の三分の一、四年目に十分の一、七年目の今日では、もはや誰一人残っておらず、徹底的に淘汰《とうた》されてしまったではございませんか、吸収行と被吸収行は紙一重ではなく、天国と地獄の違いです」
これまで被吸収行の惨めさをつぶさに見て来た大亀は、声を震わせるように云った。
「だからこそ、当行のように上位行から欲しがられる規模のところは、坐《ざ》して食われるのを待つより、先手を打って対等もしくはこちらがリーダー.シップをとれる合併、つまり“小が大を食う”合併をやってのけたいのだ」
「それは、あまりに無謀なお考えではないでしょうか、今までの例をみましても、表面は対等合併といいながら、やはり実質的には、大が小を支配してしまうのが現実です、それに第一、まだ都市銀行間の合併は、機運としても時機尚早《しようそう》だと思います」
「時機尚早――、決して尚早ではないじゃないか、現に先日来、富国銀行から、クレジット.カードの業務提携に次いで、当行にとってはメリットがあり過ぎるような預金の相互受払いの業務提携まで云って来ているじゃないか、それでいて一方では、当行が長年、水やり、肥料《こえ》やりして育てて来た平和ハウスに、先月の末、まるで公定步合のような安いレートで貸しつけている、これらを綜合《そうごう》すると、富国銀行が、秘かに当行へ攻略の手を伸ばして来ていることは歴然としている」
大亀は、ようやく万俵の長い思案の内容をつかみ、それが万俵の心を不安と焦燥に駈《か》りたてていることが解《わか》ったが、
「といって、性急に合併の方向にものをお考えになるのは、早計ではないでしょうか、この際、大きな危険をおかさず、阪神間の経済圏と密着した銀行、という立場を手堅く守りぬく道もございます」
あくまで手堅く城を守る意見を出すと、万俵は頭《かぶり》を振った。
「性急でも、早計でもない、私が合併の気持を固めたのは今年の初めからだ、娘婿《むすめむこ》の美馬を連絡役にして、私が二月に永田大蔵大臣に会ったのも、実のところは、当行に合併の意思があることを暗に伝え、それに対する大臣の反応を探るためだったのだよ、また最近、美馬を呼んで、六位から九位までの都市銀行について、大蔵省しか把握《はあく》し得ない極秘の計数情報を入手してくれるように頼んでいる」
着々と布石しつつあることを話すと、大亀は愕《おどろ》くように万俵を見詰めた。しかし、やはりすぐには肯《がえん》じきれぬように、
「正直なところ、私にはどうしても危険極まりないことのように思えます、しかし、頭取が、何が何でも、合併を断行しようとなさるのでしたら、せめて当行より下位の、そこそこのところと安全な合併を――」