「おい、みんな、どうしたんだ!」
太い声がし、専務の万俵鉄平がヘルメットに作業衣姿で足早にかけ寄って来た。運輸課長は、ほっとした表情で、
「人夫たちが、あんまり手荒い仕事をするんで、ちょっと注意したら……」
「なにを! 自分らの不手際《ふてぎわ》を棚に上げて、文句だけ一人前にぬかす気か! この阿呆《あほ》んだら!」
最前の玉掛工に替って、黄色い腹巻を作業衣の下からみせた荒くれ男が、いきなり運輸課長の胸ぐらを掴《つか》みかけた。
「馬鹿《ばか》なことをするな!」
鉄平が、大声で一喝した。
「お前はなんや――」
口から唾《つば》を飛ばして、今度は鉄平につっかかって来たが、人品卑《いや》しからぬ顔に怒気を漲《みなぎ》らせた鉄平とまともに対《むか》い合うと、位負《くらいま》けしたように手をおろした。鉄平は精悍《せいかん》な眼で一同を見廻し、
「出航時間まで、あと二時間だ、すぐ仕事にかかるんだ!」
と命じると、殺気だった男たちは、急におとなしくなり、そそくさと、それぞれの持場に散り、再び活発な作業が始まった。
「いやはや、驚きましたよ、専務」
鉄平の背後《うしろ》で、一之瀬工場長が温和な笑いをうかべていた。高炉建設用地で行なわれている地質調べのボーリング.テストに一緒にたち合い、遅れている荷積み作業を気にして、岸壁に寄ったのだった。
「なにが驚きだ、全く馬鹿馬鹿しい!」
不機嫌に鉄平が云うと、
「いやあ、あんまりそっくりなんで――」
一之瀬工場長は、なおも柔和な笑い顔で云った。
「誰にだ、土建屋の大将にでも似ていると云うのか」
「いやあ、わが社の前身である万俵鉄工を創設された先代にですよ」
「また、祖父《じい》さん似の話か、たまには、もう少し、気の利《き》いたことでも云ったらどうかね」
「またって、私はそう度々、申し上げた覚えはありませんよ、しかし、あんな荒くれ男どもを一睨《ひとにら》みで震え上らせる威力は、万俵家の中で、先代以外にはありませんよ、現頭取は、どちらかといえば、頭で考えて、人を動かすタイプの方ですし……」
と云いかけて、たち入りすぎたと思ったのか、荷積み作業の方へ顔を向けた。
「急ピッチで進み始めましたね、この分なら、予定通り完了しますよ、じゃあ、引き揚げますか」
「いや、もう少し見ていよう、君、先に行っててくれ給《たま》え」
鉄平は、クレーンで吊り上げられるベアリング素材を仰ぎながら云った。その眼には、自分の分身を見詰めるような愛着の色が滲《にじ》んでいる。
「じゃあ、私は製鋼工場の方へ行かねばなりませんから、失礼します」
と云って、ジープで走り去った。
鉄平は作業の邪魔にならぬように長い船体の横を通り抜け、船尾の脇《わき》にたつと、煙草《たばこ》に火を点《つ》け、目の前の神戸港に視線を向けた。
石油工場や重化学工場がたち並ぶ臨海工業地帯であるから、すがすがしい潮風を胸一杯に吸い込むことは出来なかったが、ダイナミックな活力が漲っていて、鉄平の心を大きく膨《ふく》らませる風景であった。そしてすぐ横では、八千トンの大型貨物船に、自社製品の輸出の荷積みが行なわれている。ベアリング素材一千トン、構造用鋼二千トンのうち、三分の二は阪神特殊鋼の長年の取引先であるシカゴのアメリカン.ベアリング社へ輸出し、他の三分の一は、サンフランシスコの機械メーカーへ輸出するものであった。阪神特殊鋼の主な輸出先は、アメリカと東南アジアだが、年間輸出量は十万トン、その量は日本の特殊鋼メーカーの総輸出量のトップを占めている。国内向け販売の場合は、商品を売った翌月に、売値の二割は現金で支払われるが、残額の八割は三カ月先の手形払いというのが慣例だから、その間の繋《つなぎ》資金の工面が要《い》った。その点、輸出の場合は、出荷の前に八割が輸出前渡金として貿易手形で支払われ、すぐ現金化できたし、残りの二割も出荷直後、すぐ現金で支払われるから、資金繰りが楽で、業界初の高炉建設にも取り組めるといえた。
いつの間にか、陽はすっかり西に傾き、積荷作業は終了した。船内での荷崩れを防ぐ作業が終ると、やがて出航である。
夕陽の中で八千トンの大型貨物船のシルエットがくっきりと浮かび上った。自社の製品がこの船に乗って海を渡り、自動車部品に組み込まれて世界中を走るのかと思うと、鉄平は、エンジニアとしての心の高なりを覚えた。それはとりもなおさず、現在とりかかっている高炉建設を一刻も早く進め、日本一、いや世界一の特殊鋼会社を築き上げて行きたいという衝動に繋《つな》がって行く。そのためには、二百五十億の資金調達が必要であった。非公式とはいえ、通産省の認可が既におりた今は、メイン.バンクの阪神銀行の融資決定が一日も早く待たれた。
阪神銀行の役員会議室で、融資会議が開かれていた。
阪神特殊鋼の高炉建設計画書に対する融資方針を決める会議であったから、万俵頭取を中心に、大亀、小松両専務、融資担当の渋野常務をはじめ、三常務が会議用の丸テーブルを囲み、融資部長が一番末席に坐《すわ》って、阪神特殊鋼の分厚な事業計画書を前に説明を続けていた。
「設備の大要は、先程来、ご説明致しましたように、八百立方米《リユーベ》の高炉一基、六十トンの転炉二基、アッセルミルの圧延設備一基が主たる内容です、予算総額は二百五十億円で、四十三、四年の二年間で二百三十億、四十五年に二十億の支払い計画となっています、資金調達の方は、二年間に百八十億を銀行借入に依存し、三年目には増資、内部留保から五十億返済する計画になっています、百八十億の銀行借入の比率は、メイン.バンクである当行が四〇パーセントの七十二億、サブの大同銀行が三〇パーセントの五十四億、長期開発銀行が一五パーセントの二十七億、その他は五菱、大友、新日本信託等十数行へ依頼となっております」
さらに阪神銀行の七十二億に対する借入れ条件は、返済期間が一年据置、四年弁済、金利は八.五パーセント、担保物件は新設備を出来上り担保にすることなどを説明し終り、最後に融資部の所見をまとめた。
「融資部と致しましては、特殊鋼業界でも例のない高炉建設という大事業だけに、阪神特殊鋼から提出された設備計画書に基づき、今後の特殊鋼の需要の見通しと景気の動向、設備資金の調達能力、高炉建設後の便益計算など、あらゆる面から慎重に調査、検討を重ねました結果、今回の計画は、個々の部分において多少の修正を要しましょうが、ほぼ妥当と認められますので、この際、融資申入れ額の七十二億全額を諒承《りようしよう》し、この大事業を支援すべきだと判断致しております」
融資担当の渋野常務も、それに大きく頷《うなず》いた。
「私も、阪神特殊鋼が、激甚《げきじん》を極める業界の競争に勝ち抜いて行くためには、高炉を持って、銑鉄《せんてつ》の自社生産からはじめ、一貫メーカーになることが非常な強味だと思いますが、高炉操業には、特殊な技術が要りますから、その面をどうするか、また高炉で出来た銑鉄を転炉で大量に精錬すれば、トン当りのコストは大幅に下げられますが、今までの電気炉で精錬したのと同じように、品質の高い製品が作れるかどうか懸念《けねん》されました、それで技術面での審査については、慎重を期して、通産省の回答を待っていたのですが、それもこのほど内諾が得られたとのことですので、当融資部としても、懸念なしという見解に至ったわけです、したがいまして、この上は、たまたま金融緩和の時期だけに、長期の設備資金ではありますが、思いきって今まで通りの融資比率で面倒を見、協調融資銀行へも、協力方を得るよう、メイン.バンクである当行から働きかけたいという結論を出したわけです、いかがでしょうか?」
設備資金関係の融資に対しては、渋野常務が、積極的な融資方針を打ち出して一同の意向を聞くと、万俵頭取の隣に坐っている総務担当の小松専務は、
「高炉メーカーといえば、財閥系か、旧官営の大手メーカーに限られたようなものだから、ここで阪神特殊鋼が高炉を持って一貫メーカーになることは、大いに喜ばしいことですね、しかも阪神特殊鋼は、当行の根幹企業であるだけに、引き受ける限りは積極的にバック.アップするのが当然だと思いますよ」
多分に万俵頭取を意識し、“家令専務”と陰口を叩《たた》かれている人物らしい賛成の仕方をした。
「大亀専務、君はどう思うかね?」
万俵は、大亀の意見を促した。大柄な肥満体で、腕組みしていた大亀は、戸惑うような気配を見せ、
「そうですね、私は、どうも特殊鋼の今後の需要見通しという点で、若干、疑問がございますね、たしかにここ一、二年は、まだまだ自動車、機械メーカーの伸びは続くでしょうが、それから先、市況がどう動くか、それは、かなり難かしい問題だと思います、融資部長の先程の説明では、高炉の建設は突貫工事で、一年後には完成ということですが、果して計画通りの工期で完成するかどうか、何しろ初めてのことだけに、どんな手違いが生じ、工事が渋滞するやも知れず、一年という工期は、少し甘いという感じを持ちますが、この点、どうなんですか?」
融資担当の渋野に向って、聞いた。
「たしかに高炉建設は、一年半というのが普通の基準ですので、融資部長に確かめさせましたところ、高炉建設用地が既に以前からの保有地であり、コークスや鉄鉱石を運んで来る大型貨物船の岸壁も、基礎工事は出来ているから、その分の工期が短縮され、一年で完成する見通しが充分にあるとのことで、その点は、向うの万俵専務をはじめ、優秀な技術陣が揃《そろ》っておりますから、信用してよいと思っております」
渋野がそう説明すると、大亀は、なるほどと頷きながら、ちらっと万俵頭取の方を見た。万俵は相変らず、黙っている。わざわざ自分に意見を促した意図を大亀はどう解釈していいのか、判断に迷った。
「しかし新しい設備は、すぐに稼《かせ》いでくれるものではなく、完成してそれがフル操業し出すには、少なくとも半年の期間は見込まなければならない、そうなると、たしかに目先の需要は強く、好景気が続いているが、今が爛熟《らんじゆく》期に入っているだけに、程なくその裏が出て来る懸念がないでしょうかねぇ、もしその時期が高炉のフル操業に入る時期と重なった場合、一旦《いつたん》、稼動《かどう》しはじめた高炉は、今までの電気炉のように生産を調整することが出来ないのだから、製品は余るわ、価格は下るわで、万一、深刻な打撃を蒙《こうむ》ることがあれば、メイン.バンクの当行にとっても、由々しい問題になりかねない――」
万俵頭取の気持を忖度《そんたく》するように、大亀が、重ねて慎重に渋野に聞いた。
「おっしゃる通り、鉄鋼市況の見通しについては、ほんの僅《わず》かな景気の変動が大きく影響するだけに、ご指摘になる危険性は全くないとは申せません、しかし、特殊鋼の需要は、今年出た通産省の需要予測によりましても、年率八パーセントの伸びが予想されていますし、世界的にも需要は非常に強いのですから、資金繰りさえつけば、多少の景気の波があったとしても、何とか乗りきれるものと思います」
と云うと、他《ほか》の役員たちもさして異議を挟《はさ》まず、申入れ金額七十二億を全面的に諒承する線に固まりかけた時、
「君たちの意見はよく解《わか》ったが、私としては、融資申入れ金額の七十二億は、そのまま認めるわけにはいかない――」
万俵が、首を振った。
「高炉計画については、私はかなり以前から、度々、向うの専務から依頼を受けていたが、すべて融資部の審査に任せ、融資会議にはかった上でないと何とも云えないという態度を貫き通して来た、ところが君たちの論議を聞いていると、どうやら私が、当然、オーケーするのではないかという前提のもとに話を進めているような節《ふし》がうかがえるが、たとえ、息子が経営に当っている会社といえども、融資となれば他人同士であり、親子という情実をまじえて考えて貰《もら》っては困る――」
ぴしりと云ってのけ、
「私は、この際、阪神特殊鋼の融資方針については、再検討すべきだと考えている、その理由の一つは、統一経理基準がこの九月から準備段階に入り、銀行間の収益競争がますます激しくなって来ているので、今のうちに、銀行の貸金の内容も、出来るだけ利廻りのいい貸付を増やして行きたい、そのためには、たとえ系列企業といえども、利率が低く長期にわたる大口の貸金は、抑えるべきだと思う、理由の第二は、阪神特殊鋼の規模が大きくなるにつれ、資金を食う一方で、はっきり云って、重荷になって来ているということだ、特に今回のように高炉建設という巨額の設備投資をする時は、絶対額が大きいだけに、従来通りの四割の融資比率をそのまま、踏襲するなど、断じて出来ない」
強い口調であった。理由はどれも至極、もっともであったが、今まで阪神特殊鋼への融資となると、何かと理由付けて、一度も否決したことのない万俵頭取だけに、一同は、その真意をはかりかねて、暫《しばら》く押し黙った。
「では頭取は、今回の阪神特殊鋼の高炉建設に対する融資を、どのような比率でお考えなのでしょうか?」
ややあって、渋野が聞いた。
「せいぜい、三〇パーセントにカットすることだな、つまり、二十億近くを削ることだ」
「そうしますと、この資金調達は、大幅な変更を要求しなければなりませんが、実際問題として、メインの当行が四〇パーセントから三〇パーセントにカットするとなると、この高炉計画は実現不可能になりかねませんが――、といって、阪神特殊鋼では、高炉建設用地の土地造成をはじめ、高炉の発注など、既にこの設備計画を前提にして着工準備にかかっていますし、専務自身が、一本気な技術者《エンジニア》の方だけに、今さら計画を修正したり、いわんや中止されるようなことは、あり得ませんからねぇ……」
渋野は、万俵頭取と万俵鉄平の板挟みになり、困惑するように云うと、
「事前にメイン.バンクの諒承もなく、工事に着工し、融資だけ云ってくるなど、虫がよすぎるというものだ、阪神特殊鋼が何と云おうと、当行としては三〇パーセントが限度で、あとはサブの大同銀行以下、協調融資銀行の借入れ額を嵩上《かさあ》げさせる一方、新規の借入れ窓口を、もっと増やすことだ、だいたい、この資金計画自体、筒一杯で、甘過ぎる」
いかなる時でも、感情を見せない万俵であったが、今回は、何らかの感情的なこだわりがあるように感じ取られた。渋野は言葉の継穂を失い、口ごもっていると、万俵頭取の眼を覗《のぞ》き込むようにしていた大亀専務が、言葉を挟んだ。
「当行が今回の阪神特殊鋼の画期的な事業に対して、従来の融資比率を下げるとなると、サブ以下の銀行が警戒して尻込《しりご》みするという懸念はないでしょうか、そのあたりの詰め[#「詰め」に傍点]をしておかないことには、結局、高炉建設が行き詰り、最終的にはメインの当行に負担がかかって来るのですから――」
一カ月前、万俵から銀行合併の意中を打ち明けられた大亀は、万俵が阪神特殊鋼の高炉建設に貸し渋るのは、“小が大を食う”という銀行合併に備えて、少しでもリスクのある貸出しを抑えようとしている魂胆だと、読み取ったのだった。
「それは当然だ、だから他行への折衝には、メインの当行は従来通りの融資方針に変りないと云って一向にかまわない、またここ当分は、その方が、むしろ阪神特殊鋼にとっても、当行にとっても、望ましいことだ」
万俵は、そう云い、今後の阪神特殊鋼への融資は、阪神銀行が目だたぬように貸し控え、他行に貸し込ませて行くという基本方針が秘《ひそ》かに打ち出されて、三時間にわたる融資会議は終った。
融資会議を終えて頭取室へ戻って来ると、万俵大介は、阪神特殊鋼へ電話をつなぐように命じた。鉄平が、融資会議の結果を待ち受けていたからである。
電話が繋がる間、大介は回転椅子《いす》に坐り、頭上に掛っている亡父の肖像写真を見上げた。阪神銀行の初代頭取である敬介は、十三代続いた播州《ばんしゆう》の地主の出らしい大振りな目鼻だちと精悍《せいかん》な眼光で、頭取室を睥睨《へいげい》するように額の中におさまっている。大介は、亡父のその表情にじっと見入りながら、その額に刻まれた太い皺《しわ》、口元にたくわえた見事な髭《ひげ》を取り去り、白髪を黒い髪におきかえてみると、長男の鉄平そのものの顔がうかび上って来るように思えた。
電話のベルが鳴った。
「お待たせ申し上げました、阪神特殊鋼の万俵専務がお出になりました」
秘書課の女性の声がして、すぐ鉄平に替った。
「もしもし、鉄平ですが――」
大介は、なお亡父の写真へ視線を当てながら、
「ああ、私だ、今、融資会議が終ったところだ――」
「申入れ額の全額を、お認め下さったのでしょうね」
期待を持った鉄平の声が、聞えて来た。
「いや、当行にも、いろいろな都合があって、今までの融資比率通りには出せないので、申入額から一〇パーセントをカットしたよ、お前のところも高炉を建てて銑鉄一貫メーカーを目指すような大企業に成長したのだから、この際、他《ほか》にもっと借入れ銀行を増やすことだ」
亡父のぎょろりとした眼のあたりを見詰めながら、云い渡した。
「えっ、一〇パーセントもカットですって! お父さん、それはひどすぎますよ、そりゃあ、二百五十億という設備資金自体が大きいのですから、従来通り四〇パーセントの融資比率というのは、阪神銀行にとっても相当な負担だということは解ります、しかし特殊鋼業界ではじめての画期的な事業をする時ですから、メインがまず積極的な融資方針を打ち出して下さらない限り、他行が随《つ》いて来てくれません、通産省が高炉建設を内諾してくれたのも、大川の舅《ちち》の線の政治力もさることながら、結局、うしろに阪神銀行が随いて、しっかりバック.アップしてくれているという、いわば“背景重視”で内諾してくれたのですから」
「それなら、そんな甘い計画自体中止したらどうなんだね、製品需要の見通しはともかくとして、資金調達計画を見ると、メインの当行をはじめ、従来、取引のある銀行、新規取引先を含めて、あまりにも筒一杯の計画で、危険極まりない、お前はメインの阪神銀行が金の面倒を見るのは当然のような気持でいるらしいが、企業とは、まず自分で金の工面をすることから始まるのだ」
大介は、鼻翼の張った野心的で好色な亡父の大きな鼻を凝視しながら云った。
「それは承知しております、しかし、今回の融資につきましては、先日来、何度もことをわけてお願いしていることであり、融資部長、融資担当の渋野常務にも、私自身が会って計画を説明し、積極的な支援を約束してくれたのですから、どうして今日の融資会議で、突然、一〇パーセントも削減されたのか解りません、それはお父さんのご意見なんですか、もしもし、お父さんは、僕に高炉を建てさせたくないんですか!」
鉄平の声に怒気が籠《こも》った。大介も眼に憤《いきどお》りの色を漲《みなぎ》らせ、写真の亡父を、まるで鉄平であるかのようにぐいと睨《にら》みつけた。
「それがメイン.バンクの頭取に向って云う言葉かね、いくら父子《おやこ》とはいえ、今、私は阪神銀行の頭取室から電話しているのだ、少しは、わきまえるべきだ」
「申しわけありません、しかし、電話ではなんですから、今からすぐそちらへお伺い致します」
「いや、私は午後から重要な取引先へ行かねばならないから時間がない、それに最高の決定機関である融資会議で決定した方針だから、もはや再考の余地はない」
突き放すような冷たさで云って、電話を切った。そして秘書課に、
「久しぶりに外で食事をするが、一時間程で帰って来る」
と告げると、鏡の前にたった。外出する時は、必ず鏡の前にたって銀髪端正な顔だちと、到底、六十歳とは思えぬ瀟洒《しようしや》な姿を映す癖があった。エレベーターで階下へ降りると、昼食時であったから、行員たちの姿がそこここに見かけられ、頭取の姿に気付くと、たち止まって鄭重《ていちよう》に一礼した。そうした行員たちに、万俵は適度の厳しさと適度の柔らかさを混じえた微笑を向け、東玄関の方へ出ていったが、昼食をすませて帰って来たらしい銀平の姿が眼についた。自分に似た長身に、チョーク.ストライプのスーツを着こなし、彫りの深い端麗な顔であったが、どこか冷たさが漂っている。銀平は、父の姿に気付くと、照れるようにそっぽを向いたが、万俵はつかつかと近付き、
「いいスーツを着ているじゃないか、仕立おろしかい? お前も私に似て、なかなかおしゃれだね」
その眼《まな》ざしには、さっき鉄平との電話で示した態度とは全く違った父親らしい温かみが滲《にじ》んでいた。
万俵銀平は、六甲山表ドライブ.ウェイを山頂に向けて、マーキュリーを走らせていた。五月半ばの六甲山は夕陽を浴びて、群生する山《やま》躑躅《つつじ》が茜《あかね》色に燃えたっている。
「まあ、きれい、近くにいて、日暮前の六甲山が、こんなに美しいものとは知らなかったわ、夕暮のドライブもいいものね」
銀平の横で、安田万樹子は感嘆するように云ったが、銀平は応《こた》えず、左腕を窓枠《まどわく》にかけたまま、右手でマーキュリーのハンドルを捌《さば》いていた。結婚式を一カ月先に控えて、さすがの万樹子もその準備に追われ、ここ暫くは、電話をかけて来なかったが、今日は朝から二度、デートを誘う電話があり、銀平は五時過ぎに銀行を出て、神戸の街から三十分程の六甲山ホテルで食事することを承知したのだった。
車が丁字ガ辻《つじ》の杉木立を過ぎて六甲山ホテルに近付くと、
「あなたのおうちの山荘、このお近くでしたわね、私、ホテルでお食事する前に、山荘の方へ少しお寄りしてみたいわ」
「管理人がいるけど、シーズン.オフだし、急だから無理だろう」
銀平は気が進まぬように云ったが、万樹子は、我儘《わがまま》娘らしく、
「でも、やはりお寄りしてみたいの、別に何のご用意もいらなくてよ」
とせがんだ。
「じゃあ、そうしようか――」
面倒だったが、車を聖者の道《シユライン.ロード》の方へ向けた。正門の前で警笛《クラクシヨン》を鳴らすと、裏門横の家から、管理人が驚いたように出て来た。
「これはこれは、坊ちゃま、急なお見えで――」
「いいんだよ、早く門を開けてくれ、それから山荘の扉《ドア》も」
「山荘の方は、ちょうど今、家内がお掃除に参っておりますよって、開いてございます」
管理人はそう応えながら、松の自然木で作られた正門の大きな扉を両側に開いた。銀平はそのまま、門内の雑木林の道へ車を乗り入れ、山荘の前で停めると、管理人の主婦が出迎えていた。
「いらっしゃいまし、只今《ただいま》、門の方からインターフォンで連絡がございましたが、何のご用意も出来ておりませず、申しわけないことでおます」
「いや、すぐ帰るから、薪《まき》の用意だけあればいい」
銀平がそう云いながら車を降りると、万樹子もあとに続いて、
「私、安田万樹子ですの、以後およろしくね」
鷹揚《おうよう》にかまえた口調で云った。管理人の主婦は、はじめて彼女が銀平の婚約者であることに気付いて、
「この度は、おめでたいことでございます、今後ともに、よろしゅうにお願い申し上げます」
鄭重に頭を下げ、すぐ暖炉のある大きな部屋へ案内し、馴《な》れた手つきで暖炉の傍《そば》に積んだ枯枝をぽきぽきと折り、その上に薪を組んで火を点《つ》けた。その間、万樹子は、一抱えもありそうな天井の太い梁《はり》と檜《ひのき》の生節《いきぶし》を乱張りにした室内を興味深げに眺めていたが、銀平は長椅子に足を投げ出すように坐って、燃え上る暖炉の火を眺めながら、煙草《たばこ》をくわえていた。暖炉の薪が充分に燃え上ると、管理人の主婦は、
「早速、お茶のご用意を致します」
と云って、台所《キツチン》へたちかけたが、
「いいのよ、私が致しますから、お湯だけ沸かしておいて下さいな、ティー.セットは台所の食器棚にあるのでしょ、あとはもう退《さが》って戴《いただ》いて結構よ」
万樹子は、早くも奥さま気取りで、お茶の用意にたった。銀平は、今から新婚気取りで浮き浮きしている万樹子にうんざりし、投げ出していた足を伸ばして、長椅子にねそべった。窓外はいつの間にか暗くなっていたが、銀平は今日の融資会議で阪神特殊鋼への融資額が削られたことを意外な感じで思い返し、兄の鉄平の胸中を思い遣《や》った。
「お茶のご用意が出来ましてよ、ブランディを少し落したわ」
万樹子は寝そべっている銀平に紅茶茶碗《ぢやわん》を渡すと、自分は絨毯《じゆうたん》の上に横坐《ずわ》りになった。
「倖《しあわ》せだわ、人気《ひとけ》のないシーズン.オフの山荘で、暖炉を焚《た》いて二人きりで静かにお茶を戴くなんて――、それにこのお部屋、素敵ね、渋くて野趣に富んでいて――、うちの軽井沢の別荘ときたら、あまり西洋風に作りすぎて、かえって味気ないわ、でも、この夏には一緒に参りましょうね、お隣は五菱商事会長の石山さま、お向いは元外務大臣の藤川さま、すぐ近くには日銀総裁の松平さまのお別荘もあるのよ、あなたがお付き合いになるには、ちょうどおよろしくてよ、それに父も――」
万樹子は肉感的な厚い唇で、はしゃぐように自分の家のことやその交際範囲のことなどを次々と話し出したが、銀平は適当に生返事し、同じ六甲山で出会った小森章子とはじめて結ばれた日のことを思い出していた。五年前の夏の終り、絵を描く小森章子と奥摩耶《まや》までサイクリングして驟雨《しゆうう》に襲われ、雨宿りした外人の空《あき》別荘の一室で、雨に濡《ぬ》れた体を温め合っているうちに、生温かい体温に誘われるように体を貪《むさぼ》り合ってしまったのだった。章子の体は猫のようにしなやかで、温かい感触に溢《あふ》れていた。
「いやだわ、黙ってらして、あなたはいつも私の話を上《うわ》の空でしか聞いていないのね」
万樹子は寝そべっている銀平の長椅子に上半身をもたせかけ、甘えるように銀平の手に指を絡《から》み合せた。暖炉の火がぱちぱちと音をたててはぜ、大きな炎を上げた。銀平は、紅茶茶碗をおくと、万樹子の手をぐっと引き寄せ、唇を捺《お》しつけながら、手を背中に廻した。
「待って――、結婚式までもうすぐよ」
抗《あらが》うように云ったが、銀平は乱暴に万樹子の体を押し倒し、背中のジッパーを引き下ろして下着をとった。長椅子の上に仰向いた万樹子の体は二十三歳にしては豊か過ぎるほど豊かだった。銀平は女遊びに馴れた手つきで暖炉の火にあかあかと照らし出された体をゆっくりと抱いた。
体が離れると、万樹子は恥じらうように眼を伏せていたが、
「大丈夫なんだろうね」
銀平は醒《さ》めた声で、妊娠の懸念《けねん》を聞いた。
「多分、大丈夫だと思うわ」
「それなら、よかった、僕は面倒なことが嫌いでねぇ」
出産日の合わぬ子供が生れた時のわずらわしさを払うように云った。
「それにしても、君ははじめてじゃないね」
服をつけていた万樹子は、はっと手を止め、
「――ご免なさい、私……」
告白しかけた。
「解《わか》ってたよ、そんなことは――、しかし、君と関係のあった男の話など、聞く趣味はないよ」
煙草をくわえながら素っ気なく遮《さえぎ》った。万樹子は、みるみる涙を溜《た》めて、
「私、結婚したら、一生懸命、いい家庭をつくります」
「いいよ、お互いさまだ――」
銀平は、万俵家のような異常な家庭に育った自分は、健全な家庭を営む姿勢を最初から失い、背骨が折れ曲ったようないびつな家庭しか作れないだろうと思っていた。しかしそれも、もともと企業的な一つの意図を持った閨閥《けいばつ》結婚であってみれば、別にかまわないじゃないかという気がしていた。
「さあ、そろそろ帰ろうか、あまりゆっくりしていると、管理人から変に思われるからね」
促すように云うと、長椅子からたち上り、上衣をつけて、インターフォンを強く押した。
「帰るから、門を開けといてくれ」
と云うと、管理人の声が返って来た。
「もう、お夕食のお時間でございますよって、六甲山ホテルから特別にお取り寄せ致しましょうか、この間、美馬さまがお見えになりました時も、そのように致しましたから――」
「え、美馬の義兄《あに》が? 僕たちはホテルへ行って食事をするからいいよ」
そう云ってインターフォンを切ったが、この山荘へ美馬が訪れたことを、父の大介がなぜ伏せているのだろうかという疑問が、銀平の胸を掠《かす》めた。
万俵家の居間に、二子の弾くブラームスのピアノ.ソナタが静かに流れていた。晚餐《ばんさん》はすでに終っていたが、寧子と相子は、銀平の結婚披露宴に着る訪問着の染め上りのことで、応接間で出入りの呉服店の主《あるじ》と話しており、父の大介だけが二子のピアノの傍《そば》にいた。しかし大介の頭の中では、今日の融資会議で阪神特殊鋼の高炉建設資金を一〇パーセント、カットし、それを電話で鉄平に云い渡した時のことを思い返していた。
ピアノが止《や》んだ。
「お父さま、ちゃんと聴いていて下さるの?」
「うむ、聴いている、だが、お前のブラームスは少々、激し過ぎるね、ブラームスはもっと情感豊かで、ソフトじゃないかな」
「まあ、この間と同じことをおっしゃって――、碌《ろく》に聴いていらっしゃらない証拠やわ」
睨むように云うと、大介はパイプをくゆらせながら苦笑し、
「二子も、ピアノばかり弾いていないで、そろそろお嫁に行くことだな」
「銀平兄さまの結婚式も終らないうちから、もうお催促ですのん? でも私は銀平兄さまみたいに、お父さまや相子さんがすすめる方ならどなたでも、というわけにはいかないわ、およろしくって?」
「お父さまが脅かされているようだね、二子はどんな男性を好もしいと思っているのだね」
珍しく父と娘の二人きりで話が弾みかけると、扉《ドア》が開き、鉄平が顔を出した。
「あら、お兄さま、お帰りなさい、今、お父さまに私の好きな男性像を聞かれていたところなの、私は鉄平兄さまのような方が好き」
二子がしゃきしゃきした口調で云った。鉄平は白い歯を見せて笑い、
「藪《やぶ》から棒に驚くじゃないか、ところでお父さん――」
と云いかけると、大介は鉄平の用件を察して、
「さあ、私はそろそろ寝《やす》もうか――」
椅子《いす》からたち上った。
「お父さん、ちょっとお話ししたいことがあります」
「仕事の話かね? それなら明日にして貰《もら》いたい」
「ですが、僕はどうしても今晚中に、お話ししたいのです」
強く云うと、二子はピアノの蓋《ふた》を閉じて、そっと部屋を出て行った。
「話というのは何だね――」
「お父さん、端的に申し上げますが、今日の融資削減の件、もう一度、ご再考願いたいのです」
鉄平は、直截《ちよくせつ》にきり出した。
「駄目だね、再考の余地はないよ」
にべもなく、頭を振った。
「どうしてですか? 融資部長も融資担当常務も、承諾しているのに、なぜお父さんが反対なさるのです、その点が納得ゆきません」
「その返事なら、既に昼、電話で伝えたはずだ」
「しかし、これまで阪神特殊鋼の融資とあれば、何かとバック.アップして面倒をみて下さったのに、今回に限って、どうして削減なさるのか、わかりません」
鉄平は重ねて云った。
「くどいねぇ、お前は――、だいたい、特殊鋼メーカーが高炉を建てるなど、分不相応だよ」
「決して分不相応な計画ではありません、先日来、機会あるごとにお話ししていますように、特殊鋼の将来の需要見通しをたてた上での計画ですから、最初の滑り出しさえ乗り切れば、あと二基、三基と増やして、阪神特殊鋼を日本一、いや世界一の特殊鋼メーカーに飛躍させることだって、不可能ではないのです」
「なに? 高炉を二基、三基――、思い上りもいい加減にするものだ」
「しかし、お父さんがお祖父《じい》さんから受け継がれた銀行を地方銀行から都市銀行に拡大されましたように、僕もまた、お祖父さんが創設された阪神特殊鋼を、高炉メーカーに発展させたいのです」
鉄平の声に熱が籠《こも》り、膝《ひざ》を乗り出すように云った。
「お前は、何かと云うと、お祖父さんのことを口にする、大学へ進学する時、経済を専攻して銀行を継ぐように云ったのに、銀行は弟に任せ、自分はお祖父さんが創《はじ》めた鉄をやりたいからと工学部へ進んだね、お前は、父である私より祖父の方を尊敬している、確かにお祖父さんは偉い、阪神銀行の前身である万俵銀行を創設したのも、阪神特殊鋼の前身の万俵鉄工を創設したのも、そしてこの広大な万俵家を建てたのも、万俵敬介だからねぇ」
冷やかに云いながら、大介の眼には異様な光が溜《た》まっていた。
「お父さんこそ、妙にお祖父さんにこだわり過ぎていらっしゃる、僕は何も、お父さんよりお祖父さんの方を尊敬するなどと申したことはありません、お父さんこそ、お祖父さんを嫉妬《しつと》して……」
「なに、私がお祖父さんを嫉妬? 馬鹿《ばか》な!」
大介は、めったに感情を現わさない顔に朱奔《しゆばし》るような怒気を漲《みなぎ》らせた。その激しさに、鉄平は一瞬、唖然《あぜん》とし、
「僕が云うのは、親子といえども、企業家同士の場合は、互いの優れた企業手腕に嫉妬する場合があったって、決して可笑《おか》しくないという意味ですよ」
「企業家としても、私は、亡《な》くなった父に嫉妬など感じたことはないよ、だいたい嫉妬などというのは、不快極まる言葉だ」
「そのようにこだわられることの方が、可笑しいじゃありませんか」
「この上、お前はまだ何を云いたいのだ!」
さらに大介が気色《けしき》ばむと、
「鉄平さん、お父さまに何ということをおっしゃるの」
いつの間にか、相子が居間に入って来ていた。
「お祖父さまのご存命中ならともかく、現在はお父さまあっての万俵家ですよ、お父さまは阪神銀行の頭取であると同時に、阪神特殊鋼をはじめ、万俵コンツェルンの総帥《そうすい》として、いつも大きな責任を負っておられるのです、そのお父さまのお云いつけは、それなりのお考えがあってのことなのですから、お従いになるべきではございません?」