窘《たしな》めるように云った。途端、鉄平の精悍《せいかん》な眼がぎょろりと相子に向いた。
「君は黙ってろ、親子が争っている時、口を出せるのは、母親だけだ」
ぴしゃりと平手打ちするように云ったが、
「あなたがどうお思いになろうと勝手ですが、私はあなた方を教育し、結婚の心配まで致して参りましたわ」
「それが家庭教師であり、女執事である当然の役目じゃないか、それを、こと改めて口にするなど、少しは分をわきまえろ」
相子は口詰った。“分をわきまえろ”などという言葉は、曾《かつ》て万俵敬介が健在の時に、相子に向って云った言葉と同じだった。思わず、身じろぐと、大介は口からパイプを離し、
「鉄平、これ以上、さし出がましいことを云うな、何一つ出来ない寧子に代って、万俵家を差配し、お前たちを育て、教育し、それぞれに立派な配偶者を選んだのは、相子の努力によるものだぞ」
「確かにそうした意味での相子さんの役目は認めます、しかしそれと同時に、お父さんの愛人であることも事実じゃあないですか、世間では品行方正で、冷厳な頭取として通り、一步、家庭へ入れば妻妾《さいしよう》同居の生活を営んでいるお父さんは、世間を瞞《だま》している偽善者ですよ! そういうお父さんの生活が、銀平を妙にニヒルな性格にしたんでしょう!」
心の中にどろどろと堆積《たいせき》していた怒りをぶちまけるように云い、相子の方を見、
「君もそろそろ、自分自身の将来を考えるべきじゃないか」
ときめつけた。
「私にはまだ、私が育て、教育してきた二子さんと三子さんの結婚問題が残っておりますわ、それに私は、お父さまをお愛ししております、或《あ》る意味ではあなたのお母さま以上に――」
静かな声であったが、そこには何ものにも動じない強靭《きようじん》さがあった。
人の気配がし、銀平が居間の入口に突ったっていた。鉄平が振り向くと、
「兄さん、なかなか派手におやりになってますね、婚約者《フイアンセ》とデートしていい調子で帰って来ると、この様子だから暫《しば》し呆然《ぼうぜん》の体《てい》でしたよ、じゃあ失礼――」
それだけ云って、くるりと踵《きびす》を返し、階段の方へ行きかけた。
「銀平、お前もこの際、何か云うことはないのか!」
腹だたしげに鉄平が問いかけると、銀平はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、
「兄さん、お父さんと争うなんて無駄なことですよ、企業家としての識見、財力、社会的地位、すべての点で何一つ、僕たちはお父さんにかなうものがない、だから勝ちっこありませんよ」
とだけ応《こた》え、階段を上って行った。
「勝ちっこないか、あるか、僕はとにかくやってみる、これ以上、お父さんには頼みません」
鉄平は、父に挑むように云った。
*
万俵鉄平は、東京大手町にある日本産業銀行の役員応接室で、融資担当の五十嵐《いがらし》常務と向い合っていた。
この十日間、殆《ほとん》ど阪神特殊鋼の工場には出ず、連日、各銀行を駈《か》けめぐって、メイン.バンクで削減された十八億円分の資金調達に奔走している。そのうち八億だけは、協調融資銀行と新規の生命保険会社で少しずつ都合出来たが、あとの十億はどうしても調達出来ず、長期設備銀行である日本産業銀行へ新規に申し入れることになったのである。既に神戸支店を通して事務方《かた》の話し合いは進められていたが、支店経由では書類の提出ばかりを要求されて、肝腎《かんじん》の具体的な融資折衝が進まなかったから、鉄平は直接、本店の融資担当常務を訪ね、さし[#「さし」に傍点]で話し合いながら、一挙にことを決めようとしているのだった。
鉄平は、高炉建設計画の内容を、技術者らしく専門的な立場から詳細に説明した。
五十嵐常務は、痩身《そうしん》をダブルの服に包み、剃刀《かみそり》のような鋭さを思わせる細面《ほそおもて》をまっすぐ鉄平に向けて聞いていたが、話を聞き終ると、
「ご説明のほどはよく解りました、ですが当方で問題とするのは、高炉操業の技術が、あなたのご説明通り、おたくの技術陣で動かせるのか、それが出来たとしても、ほんとうに良質の製品を作り、その販売ルートが確立されるかということです、ご承知のように、当行は同一の審査対象に対して、一般の銀行が二週間で十頁《ページ》ぐらいの調査書を作ることに対しても、半年がかりで二百頁ほどの調査書を作った上で審査する主義ですから、おたくのように早急《さつきゆう》に結論を求められても、返事のしようがありませんでしてねぇ」
まるで役所のような応え方をした。都市銀行や地方銀行など、普通銀行の資金が、行員たちの汗と脂《あぶら》で集めた預金であるのに対し、長期の設備資金銀行は、預金集めの苦労を殆ど知らず、普通銀行が集めた預金を金融債の発行で吸い上げ、産業資金の配分をする。したがって、資金コストを度外視して大局的な融資を考える半面、金融官僚的な尊大さがどこかにあった。
「それはよく承知しておりますが、当社の高炉建設は、単なる私企業でなく、国家の基幹産業の一端を荷負《にな》うものでありますから、日本の産業育成を使命としておられる御行としては、当社の意図するところをぜひご理解戴《いただ》き、格別のご配慮を戴きたいのです」
「あなたのお話を聞いていると、当行は公益的な銀行として、お貸しするのが当然のような口振りですが、国家的な見地から育成すべき企業は、何もおたく一社ではないのですからねぇ」
「当然だなどとは、毛頭、考えておりません、しかし当社の高炉建設は通産省も内諾してくれたことですし、計画自体、決して安易なものではなく、将来、さらに高炉を増やして大きく成長して行くためにも、この際、おたくのような銀行と、ぜひお取引させて戴きたいのです、といっても、これまではお付き合い程度の口座を設けているだけであり、新規も同然のおたくに、いきなり多額の融資をお願いするのは虫がよすぎる話と思いますので、何とか十億の融資を、取りあえずお願い致したいのです」
精悍な眼をたぎらせ、懇請した。五十嵐はそんな鉄平をちらりと見、
「十億ねぇ、しかし、おたくには阪神銀行さんが、ちゃんとついておいでなんですから、今さら、さして馴染《なじ》みのない当行へなど、ご依頼に来られず、阪神さんにお願いして、それぐらい、ことのついでに出して戴かれたらいかがです」
十億を、それぐらいの金額と云いながら、一方で、ほんとうに阪神銀行が出せないのか、それとも、何か別の理由で出し渋っているのかを読み取ろうとする鋭い観察が働いていた。
「阪神銀行の方では、たまたま金融緩和の時期ですから、出してもいいとは云っております、しかし、いかに父が頭取の銀行とはいえ、これ以上、メインの融資比率を高めますと、何をするにつけても、メインの云いなりになり、手も足も出なくなってしまいますので――」
そう取り繕うと、五十嵐は、その言葉の真偽のほどを確かめるように、まじまじと鉄平を見詰めた。
「父子《おやこ》の間柄でも、企業家というのはそんなものですかねぇ、しかし、それほどメインに縛られたくないのでしたら、おたくには、長年、お付き合いのある長期開発銀行さんも随《つ》いておられるのですから、そちらへお頼みになればようござんしょう」
「むろん、長期開発銀行さんには、従来の融資比率を上廻る融資をお願いしましたが、当社としてはさらに将来、大きく飛躍するために、この際、日本の代表的な設備銀行である御行に融資を仰ぎたいわけです」
設備資金銀行としては、長期開発銀行より、日本産業銀行の方が上位であった。
「おいくらでしたかね、長期開発銀行さんの今回の融資は――」
「三十億をお願いしております」
三たび足を運んで、一昨日《おととい》ようやく、当初の二十七億から三億を嵩上《かさあ》げして貰《もら》えたのだった。
「ほう、長期さんが三十億で、当行が十億ですか、その点も、よく検討させて戴きましょう」
五十嵐の言葉には皮肉な響きがあった。銀行の格の高低や、融資比率にこだわる点も、官僚的な序列主義が感じられた。
「それはそうと、この高炉建設について、現在、銑鉄《せんてつ》の供給を受けておられる帝国製鉄の意向はどうなんですか?」
五十嵐はこと改めて、聞いた。
「お話は一度、致しましたが、別に私の方は帝国製鉄さんの系列会社ではないのですから、ご承諾を得なければならぬというものではないと思いますが――」
「そりゃあ、理屈としてはそうでしょう、しかし、当行は帝国製鉄のメイン.バンクですから、先発の高炉一貫メーカーが、おたくの高炉建設をどう見ているかという意見を聞くのは当然のことでしょう、いずれにしましても、正式の回答は後日、改めて――」
その言葉の裏に、帝国製鉄側の意向が動き、融資は望み薄であることが解った。
「どうもお門違《かどちが》いだったようです」
鉄平は席をたった。
日本産業銀行を出ると、鉄平は待っていた運転手に、日本橋の大同銀行へ行くように命じ、シートの背に体を埋めた。何としても十億の資金を日本産業銀行で調達しようと意気込み、阪神銀行から予《あらかじ》め根廻しまでしておいて貰ったにもかかわらず、不調に終ったことは身にこたえた。協調融資銀行と新規の窓口で都合出来ない最終的な不足分は、サブの大同銀行に頼み込み、調整する心づもりはしていたが、何としても十億の金額は大き過ぎた。さすがの鉄平も、大きな不安と躊躇《ためら》いを覚えた。
四時過ぎの凄《すさま》じいラッシュを縫って、日本橋の本石《ほんごく》町まで来ると、日本銀行がその威厳を誇示するように聳《そび》え立ち、斜め後方に、大同銀行本店のビルがあった。
八階建ての正面玄関で車を降りると、鉄平は二階の役員受付へ足早に上った。予め面会を申し込んでおいたから、すぐ頭取室へ案内された。
「いらっしゃい、さあ、かけ給《たま》え」
三雲頭取は、応接用のソファをすすめた。鉄平はたったまま、
「先日来、ご無理を申し上げております、本日はまた、ご多忙なお時間をお割《さ》き戴いて恐縮です」
鄭重《ていちよう》に挨拶《あいさつ》してから坐ったが、いつものような精悍さはなかった。
「どうかしたんですか、今日はいつもと様子が違いますね、牙《きば》を抜かれた獅子《しし》のようじゃありませんか」
三雲頭取は、微笑をうかべ、鉄平の気持をひきたたせるように云った。鉄平は温かいものを咽喉《のど》もとに感じ、今から自分が話すことに、心が動揺した。サブの大同銀行以下、各協調融資銀行へ貸増しを依頼する場合、メインの阪神銀行が従来の融資比率を一〇パーセント削ったからとは云わず、高炉の積算で、二百五十億の予算がオーバーしたと説明するように銀行側から示唆《しさ》されているのだった。長期開発銀行や五菱、大友、新日本信託銀行などの銀行にはそのように説明し、大同銀行にも、今回の面会を求める時に、前もってそう云ったのだったが、三雲と相対し、温かい眼で見詰められると、今から話すことのうしろめたさに口ごもった。しかし、お茶を運んで来た女子行員が出て行くと、鉄平は意を決するように、
「まことにお恥ずかしいことですが、高炉の積算に誤りがあり、予算を十八億もオーバーしてしまったのです」
と云った。
「技術者のあなたにしては、杜撰《ずさん》過ぎますね」
三雲は言葉短かに、鉄平の杜撰さを指摘した。
「全くお恥ずかしい限りですが、十八億のうち、何とか十億をご都合戴けませんでしょうか」
思い詰めるように云うと、三雲は即座に、
「十億とはおかしいですね、それではメインの阪神さんは、十八億のうち、いくら増やされるおつもりなんですか?」
「それが、阪神銀行は御行のように規模が大きくありませんので、従来の四〇パーセントの融資比率が精一杯で、これ以上はどうしても出せないから、他行でお願いするように云われまして――」
鉄平の額に、汗が滲《にじ》んだ。
「鉄平君、これはいくら、あなたと私の間柄でも、お出しするわけにはいきませんね、額の問題より、まず筋の問題として、予算オーバー分を他行へ押しつけるなど、虫がよすぎます、あなたは、お父さんの銀行というこだわりがあって、逆に遠慮しておられるのかも知れないが、メイン.バンクとして、もっと筋を通して貰うよう、お願いすべきですよ」
いつにない厳しさで、三雲は云った。しかし、その厳しさは、父のもつ冷厳さでもなければ、五十嵐のような官僚的な冷たさでもなかった。ぴしりと筋の通った厳しさであった。室内の沈黙が、鉄平の胸に食い入るように重かった。鉄平はこれ以上、三雲を偽ることに苦痛を覚えた。つと顔を上げると、
「申しわけございません、実は、予算オーバーではなく、メインの阪神銀行が従来の四〇パーセントの融資比率を、三〇パーセントに切り下げたのです」
「メインが一〇パーセント、カット――、一体、どうした理由ですか?」
三雲は驚き、常識では考えられぬというように聞き返した。
「阪神特殊鋼も、高炉建設をするほどの規模になったのだから、この際、いつまでも阪神銀行にたよらず、幅広く他行さんに取引をお願いするよう、また、そうしてくれないと、阪神銀行としても負担が重くなると云うのです、しかし、ここでメインが高炉建設という大事業に、一〇パーセント、カットするとなると、全体の資金調達にひびいて来るからと云われ、私自身もそう考え、三雲頭取にまで偽りを申し上げました、お許し下さい」
鉄平は、深々と頭を下げた。三雲はそれには応えず、ソファからたち上ると、窓際《まどぎわ》へ近寄り、この間まで自分のいた日本銀行の建物に、暫《しばら》く視線を向けていたが、やがて、
「理由はそれだけなんですか、ほかにまだ何か、隠していることがあるのではありませんか?」
「いいえ、それだけです、これ以外に、どのようなことを頭取に隠しているとおっしゃるのですか?」
「はっきりと断定は出来ませんが、メイン、しかもお父さんが頭取である阪神銀行が、さっきおっしゃったような理由だけで一〇パーセントもの資金をカットするなど、通常では考えられない――、となれば、当行として考えられることは、あなたの高炉計画そのものに、よほどの欠点があるか、もしくは、会社自体にメイン.バンク以外は知り得ない何か重大な欠陥があるか、そのどちらかでしょう」
静かであったが、一言、一言に鋭い響きがあった。
「それは誤解です、仮におっしゃるような欠陥があるとしたら、留学時代から親《ちか》しく知己を得ている三雲頭取に、私はメインを上廻るほど巨額の融資をお願いには参りません」
きっぱりと云ったが、三雲は、まだ何かを考えるように、日本銀行の聳えたつような青銅のドームを見上げた。鉄平は、もはや坐っていることが出来ず、三雲の傍《そば》へたって行った。
「頭取、高炉建設は、もはや用地の造成、岸壁の補強、高炉の発注と、着々と進んで、今さらあとへは引けません、僕に高炉を建てさせて下さい」
父には通じない高炉建設への情熱を、体ごとぶっつけるように云った。三雲は、それでも何かを思い迷うように黙って鉄平に背を向けていたが、やがて、ゆっくりと向き直った。
「あと十億さえ融資すれば、本当に高炉は予定通り建てられる自信があるのですね?」
「むろんです」
「では、早急《さつきゆう》に役員会議にかけて、何とか諒承《りようしよう》を得るように、努力しましょう、当行は規模の割には、これといった優良企業、特に基幹産業のメイン.バンクになっていないから、この際、その点を考慮して融資を諒承させることが出来ると思う、そうなると、先の五十四億と今度の十億で、総額六十四億の融資となり、当行としては、メインの阪神銀行以上の賭《かけ》を高炉建設に試みるのですから、鉄平君、君も覚悟を新たにして下さい」
三雲はそう云うと、自らも大きな決意をするように、自分の言葉を噛《か》みしめた。
鉄平は六本木の『つる乃家《のや》』の座敷で、たて続けに盃《さかずき》をあけていた。
「どうしたって云うの? いやに荒れているようね」
若女将《おかみ》は、目尻《めじり》のきれ上った涼しい眼もとで、鉄平の様子を見詰めた。つる乃家へ来れば必ず習《さら》える清元も習わず、さっきから料理にも手をつけないで、酒だけをあおっている。
「もうおよしなさいよ、いくら飲めるからといっても、無茶酒は駄目よ」
鉄平の手から盃を取ろうとすると、
「ほっといてくれ、今晚は独りで飲みたいんだ、飲めるだけ飲んで、酔いつぶれて寝てしまいたいんだ、退《さが》ってろよ」
勝手なことを云えるのも、祖父の愛妾《あいしよう》だった老女将の養女が経営している待合なればこそであった。
「おや、おや、今晚は大へんな若御前なのね、じゃあ、お守《もり》はうちのお養母《かあ》さんに替って戴くことにするわ」
「老女将が? また大阪から来ているのかい」
鉄平ははじめて盃を置いた。
「あら、急にやさしい顔になるのね、この前、いらして下さった時から、ずっとこちらにいるのよ、お養母さんだって、あなたのお相手ともなれば大喜びよ、でも、私より六十近いお養母さんの方がもてるなんて、妬《や》けるわね」
軽く睨《にら》む振りをし、空《から》になった銚子《ちようし》を持って、席をたった。
独りになると、鉄平はごろりと畳の上に寝転んだ。したたか飲んだせいで胸苦しく、さらに今日一日のことが輪をかけて思い出され、金の工面の辛《つら》さが身に沁《し》みた。企業は金集めから始まるものだ、金の工面が出来なければ、一人前の企業家とはいえないと云った父の言葉が、まざまざと思い返され、今さらのように資金調達の困難さを思い知った。如何《いか》に方便とはいえ、あれほどまでの温かさをもって自分に接してくれた三雲にまで、嘘《うそ》をついて借りようとした自分のみじめな卑劣さが胸を衝《つ》いた。それにつけても、父は一体、どのような意図によって、従来からの四〇パーセントの融資比率を、一〇パーセントも削減したのだろうか。自分を企業家として鍛錬するためなのか、それとも何らかの含みがあって高炉を建てさせたくないのか、或《ある》いは、銀行内部で、どうしても削減せざるを得ない格別の事態が起っているというのだろうか――。鉄平はあれこれと考えながら、高炉建設の話を持ち出した頃から、妙によそよそしく冷たいものを父から感じ取っていたことを思い返した。
廊下に小さな足音がし、襖《ふすま》が開いた。
「ぼんぼん、ようお越しやす」
老女将が、小柄な体をちょっと屈《かが》め、足をひきずるようにして入って来た。鉄平は体を起し、
「どうしたんだい、その足?」
「へえ、やっぱり齢《とし》には勝てまへん、庭石に躓《つまず》き、一時は腰骨にまでひびいて、大阪の店は二十年来の仲居頭《がしら》に任せ、ずっと、こっちで養生してたんでおます」
そう云って、六十近いとは思えぬ皺《しわ》の少ない白い顔を綻《ほころ》ばせ、
「今晚のぼんぼんは、えろうご機嫌が悪そうでおますけど、なんぞ癇《かん》のたつことがおました時は、きれいどころをあげて、ぱあっと散財しはることだす、亡《な》くなりはった旦那《だん》はんは、いつもそうでおました」
老女将は、その派手な散財ぶりを懐《なつ》かしむように云った。鉄平は、大きな体躯《たいく》で自分を膝《ひざ》の上に抱いていた祖父の姿を眼に描いた。考えてみると、祖父は、弟の銀平や妹の一子を、膝の上に抱いたことがなく、鉄平だけを可愛《かわい》がり、お土産の玩具《がんぐ》なども鉄平にだけ買って来る場合が多かった。
「女将、お祖父《じい》さんは、どうして僕だけをあんな風に猫可愛がりに可愛がったんだろう、小学生になっても、膝の上に抱くんだから、僕は恥ずかしかったよ」
「それは、ぼんぼんが初孫《ういまご》で、その上、お顔から、体つき、ものの云い方から、それ、その趺坐《あぐら》のかき方まで、大旦那はんにそっくりですさかい、可愛ゆうてたまらんかったのでっしゃろ」
「ところが、僕がお祖父さんっ子であり過ぎることが、この頃、妙にお父さんのお気に障《さわ》るらしいんだよ」
銚子を持っていた老女将の手がはっと揺れ、酒が落ちこぼれた。
「どうしたんだい、まさか僕が、お祖父さんとあんたの間に出来た隠し子だったというわけじゃあないだろうな」
と冗談を云うと、老女将は俄《にわ》かに拍子抜けしたように鉄平の顔を見、
「阿呆《あほ》らし! 冗談も度が過ぎまっせ、そんな阿呆なこと云いはるのは、お仕事できつう疲れてはるのでっしゃろ」
きっぱりと云った。
「そうかもしれん、今日は金の工面に走り廻ったからな」
「ほんならお祖父さんの真似《まね》して、今夜は、ぱあっと散財おしやす」
と云い、ぽんぽんと手を叩《たた》いて仲居を呼び、
「まり子はんに小りん、千春はんら、若いきれいどころをずらりと、呼びなはれ」
賑《にぎ》やかに云いつけた。
*
池田市南郊の農村地帯、宮前《みやまえ》、北轟木《とどろき》村は、田植の真っ最中であった。どの田にも水が一杯に張られ、じりじりと照りつける六月の陽ざかりの中で、せっせと苗が植えられている。
人手不足のせいか、腰の折れ曲った老婆《ろうば》まで田圃《たんぼ》に入っていたが、中川留市《とめいち》の田圃には、女房の他《ほか》に、阪神銀行池田支店の外廻りである岡村と、二人の女子行員が泥まみれになって働いている。女子行員たちは昼からでよかったが、岡村は朝の七時からぶっ通しに手伝い、昼食もそこそこに、また膝まで水に浸《つ》かり、泥と汗にまみれた顔で、苗を植え付けている。というのも、中川留市の家は万博会場から宝塚に至る中央環状線の用地買収予定地に、三反の田圃を持っており、七千五百万の交付金がおりることになっていたが、その預金を阪神銀行に獲得するためであった。
「こら、あかんやないか、そんな手つきでやったら、苗が寝てしまうやないか!」
畦道《あぜみち》から中川留市の声が飛んだ。振り向くと、女子行員の一人が白いブラウスの前を泥だらけにして、泣きそうになっていた。岡村はすぐ、その方へ近寄り、
「どうもすみません、女子行員たちは、私と違って農家出身ではないものですから――」
と謝った。留市は、自らは水田に入らず、畦道に趺坐をかいて、キセル煙草《たばこ》をふかしていたが、
「頭数だけ揃《そろ》えた手伝いでは困るでぇ、もっとしっかり働いて貰《もら》わんことには、手伝うて貰うたことにはならへんわ」
陽灼《ひや》けした顔で、いや味な云い方をすると、野良着《のらぎ》姿の留市の女房が、慌《あわ》てて口を挟んだ。
「あんた、なんちゅうことを云いなはるのや、こない手伝うて貰うてて、調子にのるのもええ加減にしなはれ、さあ、岡村はんらは畦へ上って、一休みして、お茶でも――」
「お前は黙っとれ、他にも田植の手伝いしたいと云うてる銀行は、たんとあるんでなあ」
ぽんぽんとキセルの首を叩いて、居丈高になった。岡村は、
「まあ、そうおっしゃらず、植付けの悪いところは、私があとでやり直しますから――、でも、思ったより早くすみそうですね」
機嫌を取り結ぶように云ったが、
「そら当り前や、東に三反あった水田は、万博道路にとられるのやからな、ほれ、見てみい、あそこが坪八万三千円、〆《しめ》て七千五百万になるとこや」
細い眼を欲深そうに光らせ、顎《あご》で指した。見渡す限り田植を終りかけている中で、帯状に村落を横断している雑草の部分が残り、一眼でそこが用地買収地であることが解《わか》る。その中でも中川留市の田圃のあたりは、池田インターチェンジになるところであるから、幅広く買収されることになっている。留市は満足そうにそこを眺め、
「まあ、あの三反が無《の》うなっても、この田圃は残ってる、けど田植するのは今年限りや、七千五百万も入って来たら、阿呆らしゅうて、汗水滴《た》らして、田植なんぞでけんわな、そいでこの間の、あの話は、確かなんかいなあ」
せっせと田植している岡村の方へ体を向けた。あの話というのは、七千五百万円の交付金を巧《うま》く運用する方法である。
「確かな話ですとも、この間、当行の系列会社の万俵不動産の者が伺ってご説明しましたように、この同じ阪急沿線の蛍《ほたる》が池《いけ》に富士ストアという大スーパー.マーケットを誘致する計画がありますから、その土地買収の時に、おたくの分も買い増しして、スーパーが建った時の値上りを考えているのですから、交付金は、まず当行へお預け戴《いただ》き、それから蛍が池の土地をお買いになって土地の値上りを待つのが、一番、利殖の多いやり方です」
利殖という言葉を強調すると、留市はひと膝のり出し、
「けど、五和銀行はアパート建てた方がええと云うし、大友銀行も親切に、ええ替地を探すと云うてくれてるから、まあ、よう思案することにするわ、交付金がおりるまで、まだ一週間あるさかいな」
田植まで手伝わせておきながら、まだ確たる返事をせず、小ずるい駈引《かけひ》きをするように云った。岡村は、むっと怒りがこみあげて来たが、総額五十億円、六万坪の用地買収金の獲得をめぐる、各行の争奪戦の苦闘を思いだして、陽灼けした顔を強いて綻《ほころ》ばせた。
「いろんなお考えはおありでしょうが、この二年来のおつき合いに免じて、交付金はどうかうちにお願いしますよ、今日は支店長も、もうすぐ、お願いに来ることになっています」
膝まで水田に浸かりながら頭を下げると、さすがの留市も、リューマチを患《わずら》っている母親の病院通いを岡村が送り迎えしてくれたことや、たとえ千円の預金の出し入れにも快くスクーターを飛ばして来てくれたことなどを思い起したらしく、黙り込んだが、
「今朝は佐橋総理大臣が、この辺まで視察に来て、わしらに頭を下げて笑うてみせたでぇ、愛想がようて、ええ男前やな、あんたところの頭取さんは、一向に来《こ》えへんな」
ますますつけ上るように云った。そう云われると、一言もなかったが、その時、背後で車の停まる音がした。
「中川さん、いいお日和《ひより》でございます、うちの者は間に合っておりましょうか?」
角田支店長が車から降りて来ながらそう云い、畦道で趺坐をかいている留市の傍へ步み寄って手土産の包みをさし出した。
「いよいよ、一週間先に迫りましたので、よろしくお願い致します」
「これはいつもおおきに、交付金のことは今、じっくり考えとるところでしてな」
角田支店長は畦道にしゃがみ込んで、
「お考え戴いた上で、是非とも当行にお願い致します、ご相談ごとには何なりとお役にたたせて戴きますから――」
と挨拶《あいさつ》すると、車のところまで戻って、岡村を呼んだ。岡村は泥に汚れた顔から汗を滴《したた》らせ、畦道へ上って来た。
「岡村君、苦労かけるな、今、本店からの帰りだが、本店の要請はさらに厳しい、池田は猪名川《いながわ》を挟《はさ》んで阪神銀行の地元になるのだから、目標額の五億円は必達成だ、阪神銀行の一兆円必達成運動の一環を荷なっているのだから、何が何でも貫徹せよという厳命だ、君たちにこれ以上というのは辛いが、頑張って貰いたい、もちろん、私自身も君たちと同じように走り廻るよ」
泥まみれの岡村と二人の女子行員の姿を見やりながら、角田支店長は感に耐えぬような重い語調で云った。本店から苛酷《かこく》なノルマを課せられ、そのために、部下を酷使しなければならぬという板挟みに困憊《こんぱい》しきっている支店長の立場が、岡村には痛いほど解った。岡村は綿屑《わたくず》のように疲れきっている体で、深く頷《うなず》いた。
総額五十億円にのぼる用地買収金の交付がいよいよ翌日に迫った。
阪神銀行池田支店の角田支店長は、外廻りの行員はもちろん、内勤の行員をも督励して、最後の預金依頼に各農家を廻らせるとともに、自らも岡村と軽四輪車に乗り、千万単位の交付金が入る農家を走り廻っていた。午後九時を過ぎた田圃道に人影は殆《ほとん》どなかったが、一目で銀行の車と解る軽四輪車やスクーターが慌《あわただ》しくすれ違って行く。総額五十億のうちの二十五億は、地元の農協に獲《と》られるとして、残り二十五億を、阪神銀行、大友銀行、五和銀行、池正銀行、浪花相互銀行、その他信託銀行など十数行で分け取りしようとしているのだった。
角田支店長と岡村は、北轟木村の中川留市の家の前に車を停め、薄暗い玄関の土間に入った。留市の女房が愛想よく迎え、奥からパッチ姿の留市が出て来た。
「ああ、支店長さんと岡村はんかいな、いよいよ明日やな、今朝も岡村はんに話したように村のつき合いちゅうもんがあって、七千五百万のうち二千万は農協へ預けるが、あとの五千五百万は全部、あんたとこへ預けたるでぇ、その代り、この間の話、按配《あんばい》にしてや」
欲の皮が突っ張ったように頬骨だけが高い顔を恵比須《えびす》顔にしながら、それでも念押しするように云った。七千五百万の交付金が入る中川留市のところには、十数行が入り乱れて、下はマッチから上はテレビまで届けられ、交付金の運用をめぐっても、いい替地を見付けるとか、アパートを割安で建てる世話をするとかの話が持ち込まれたが、結局は、阪神銀行の系列会社である万俵不動産が、近く阪急沿線の蛍《ほたる》が池《いけ》にスーパーを誘致する計画を持っていて、用地買収の際に、中川留市の替地を買い増し、スーパーが建って、周辺の土地が値上りするのを待とうという話が功を奏し、阪神銀行への預金を決めさせたのだった。留市は上機嫌で細い眼尻《めじり》を下げ、
「それに、替地を買う時の脱税、いや節税[#「節税」に傍点]の仕方まで、あんたとこの本店の元税務署員とかいう人が相談にのってくれはるのやから、テレビまでくれた銀行には義理が悪いけど、阪神銀行は、袖《そで》にしとうてもできんわな、お互い、めでたし、めでたしや」
と云い、さらに上機嫌で交付金のおりるほかの家の話を喋《しやべ》りはじめた。角田支店長と岡村は、相槌《あいづち》を打ちながら、内心、時間を気にしていた。まだこれから十二時まで、十数軒ほど、最後の預金依頼に廻らねばならなかった。
「なんちゅうても、七千五百万や、腹巻の中へ先祖の位牌《いはい》を入れて貰いに行きまっさ、岡村はん、ちゃんと車で迎えに来てや」
云いつけるように留市が云うのを機会《しお》に、岡村は、
「もちろんですとも、明朝は七時頃、こちらへお迎えに来、交付金のおりる近畿《きんき》建設局事務所にお伴《とも》します」
笑顔で頷くと、角田支店長も、
「その足で当行へご案内し、ご預金戴いて、お宅までお送りさせて戴きます、では明日は、かたがたお願いします」
と挨拶した。ようやく外へ出ると、すぐ軽四輪車に乗り、そこからさらに一億二千万の交付金がおりる地主の家へ車を走らせた。三丁余り離れた河森富造の家の前まで来ると、既に他行の車が停まっている。岡村は懐中電燈を出して、車を照らした。
「また大友銀行の支店長らしいな、暫《しばら》く待とう」
反対側の辻《つじ》に車を寄せ、窓から容赦なく入って来る藪蚊《やぶか》を叩きながら待った。しかし、十五分経《た》っても一向に出て来る気配がない。
「支店長、よそへ廻りましょう、時間がもったいないですから」
岡村は、しびれをきらすように云ったが、各行が、預金獲得に鎬《しのぎ》を削っている地主の家だけに、僅差《きんさ》で約束がひっくり返されかねない。角田はもう五分待ってみようと云ったが、それにしては、中で粘っている人の気配がなさ過ぎた。もしやと疑いはじめた時、中から高校生の息子が出て来た。
「やあ、今晚は、お客さんはまだいてはるのん?」
顔馴染《なじ》みになっている岡村が聞くと、
「いや、銀行の人ならもうとっくに帰って、誰もいてへんわ」
息子はきょとんとした顔で云い、向い側の家へ行った。
「誰も来ていない? じゃあ、やっぱり――」
角田は、いまいましげに唇を噛《か》んだ。他行の最後の詰め[#「詰め」に傍点]を妨げるために、空《から》の車を影武者に仕立てて駐《と》めておき、自分はその近辺を訪問して廻っているのだった。いよいよ明日が、預金合戦の勝負の日ともなると、やり方はますます巧妙を極め、陰湿になって来る。角田と岡村は急いで車を降り、門を入って案内を乞《こ》うたが、玄関の戸は固く閉ざされ、返事がない。岡村は庭へ廻って、雨戸をとんとんと叩いてみたが、やはり返事がない。しかし、耳をすますと、テレビの音が聞えているから、人が起きているのは確かであった。岡村は思いきって大きな声で呼んだ。
「河森さん! 今晚は! 河森さん!」
「なんじゃい」
やっと中から応《こた》えがあった。
「岡村です、おかむら[#「おかむら」に傍点]ですよ」
毎日のように足を運んでいた家であったから、区切るように自分の名前を云うと、
「なにぃ、岡村て、誰やねん」
怒鳴り返すように云いながら、たち上る気配がし、がらりと縁側の雨戸が開いた。
「夜分に恐縮です、阪神銀行の支店長と岡村がお伺いしました」
と挨拶すると、河森富造は、したたか酒に酔っているらしく、ぷんと酒臭い匂《にお》いをさせながら、
「阪神銀行――、銀行なんぞ、もうたくさんや、朝から十三人目やぞ、せっかく人が晚酌で、テレビをみてるのに、ええ加減にしてくれ」
あたり散らすように云った。角田は慌てて、
「どうも、せっかくお寛《くつろ》ぎのところをお妨げして申しわけありません、実は先日、お約束戴きました二千三百万円のご預金、明日、何時頃にお伺いさせて戴きましたらよろしゅうございますか?」
庭にたったまま、鄭重《ていちよう》に聞くと、
「あれは止《や》めにさして貰いまっさ」
「え、止め? それは一体……」
角田と岡村の顔色が変った。
「理由《わけ》は簡単や、地主いうたかて、土地を手放してしもうたら、陸《おか》に上った河童《かつぱ》も同然、何もでけへんよって、大友銀行の行員さんに娘の婿《むこ》に来て貰うことに昨夜、きまったのや、そやから農協と地元銀行のつき合い預金以外は、全部、大友銀行に預けることに決めましたんや」