饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15553 字 更新时间:2026-6-16 06:24

 明らかに一億二千万円の預金と引換えの縁組であった。しかし阪神銀行にとっては、明日を控えて、二千三百万円の目算違いは大きかった。情けなさと煮えくり返るような思いを抑え、

「それはおめでとうございます、しかし、これまでのおつき合いをお考え戴いて、たとえ幾分でも、もう一度、ご再考を――」

 と云い、すでに何度も置いている名刺であったが、岡村が、支店長の名刺と二枚、縁先に置くと、河森富造は、

「どいつも、こいつも同じことばかり云いよって!」

 癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させるように云うなり、二枚の名刺を重ねて、びりっと破り、庭へ放り捨てた。庭石の上に、破り捨てられた名刺の紙片がばらばらと散らばった。角田と岡村は思わず息を呑《の》んだが、岡村はすぐ、庭にしゃがみ込んで、こなごなに破り捨てられた名刺を拾い集め、

「せっかく清掃されたお庭をお汚《よご》ししました、しかし、明朝もう一度、伺わせて戴きますから、よろしくお願いします」

 やっとそう挨拶して、地主の家を出た。外へ出るなり、三十六歳の岡村の眼に涙が吹き出し、角田も瞬時、黙って足を停めた。

「支店長、銀行員というのは、辛《つら》い哀《かな》しいものですね、今の話、まるで人身御供《ひとみごくう》じゃないですか、一人の銀行員が、一億二千万の預金と引換えに、入婿するわけじゃないですか、僕は銀行に憧《あこが》れて入行したんですが、この二年間、万博の用地買収に備えて、風邪をひいて三十九度の熱があっても出勤し、休日には、少しでも近付きを増そうと、女房、子供連れの家族ぐるみで、手土産をもってご機嫌伺いし、来る日も、来る日も預金、預金に追い廻されて来ました、それも、自分たちの汗と脂《あぶら》で集めた預金が、銀行の大切な資金になる、僕たち第一線が銀行を支えていると思えばこそ、頑張って来れたのです、それが今日のような話を聞くと、がっくりと来てしまう……」

 と云って、うな垂れた。角田支店長は、

「辛い気持はよく解る、しかし、明朝までの辛抱だ、頑張って残りの家を廻ろう」

 岡村の肩を押すようにして車に乗り、次の農家へ走った。

 銀行へ帰り着くと、十二時を少し廻っていたが、支店長室にはあかあかと灯《あか》りが点《つ》き、先に帰っていた行員たちが待ち構えていた。

「支店長、本店から電報が参っております」

 次長が、昂奮《こうふん》した声で電報を角田支店長に渡した。

 五オクタツセイ ガ ンバ レ ガ ンバ レ

 角田はその電文を繰り返し、読み直しながら、業務担当の荒武常務、支店長会議の後、自分の肩を叩《たた》いて激励した万俵頭取の顔を思い出した。じきじき頭取が自分の肩に手をふれ、激励したことが、自分をして部下たちに過重な働きを求めることになり、既に今まで、十三人の外廻り行員のうち、四人が病いに倒れている。そして上と下との間で板挟みになりながら、自分もまた、部下たちには押し隠しているが、狭心症の発作に度々、襲われている。しかし、それもあと九時間、明朝午前九時に近畿建設局事務所で交付される時までの辛抱だった。

「本店からの五億獲得の激励電文だ、じゃあ、今から最後の詰め[#「詰め」に傍点]に入ろう」

 角田は、心臓の動悸《どうき》がまた高く打ちはじめて来たのを隠して、強いて勢いよく声をかけた。

 机の上に万博道路が横断する宮前、北轟木、豊島三集落の地図が拡《ひろ》げられた。番地ごとに一軒、一軒の名前を書き込んだ大きな地図で、各担当の外廻り行員が、自分の持場の預金獲得予想額を、一軒、一軒の家の上に書入れにかかった。

「中川留市さん五千五百万、松本吉太郎さん一千三百万、山田ハナさん三百二十万、野原和次さん四千九百万――」

 一週間前に予想した額を斜線で消し、その上へ確実に煮詰った数字を書き入れて行った。

「続いて、豊島……」

 票読みの声がそこまで来た時、角田支店長の体が不意に前へ揺れたかと思うと、ずるずると椅子《いす》から体がずり落ちた。

「支店長、どうしたんです! しっかりして下さい!」

 岡村が駈《か》け寄り、体を助け起そうとすると、角田の顔はみるみる蒼白《そうはく》になり、

「く、苦しい、胸が!」

 胸をかきむしるように云い、体を海老《えび》のように曲げて床《ゆか》に転がった。

「救急車、一一九番だ!」

 次長は、角田のネクタイとベルトをゆるめ、岡村が電話器に飛びついて、一一九番を廻した。その間も角田の心臓発作はますます激しくなり、唇が紫色に変って来た。

「救急車を早く、早く!」

 岡村が叫ぶように云い、若い行員がもう一度、一一九番へかけると、やっと遠くからサイレンの音が聞えて来た。

「支店長、来ましたよ、もう少しの辛抱です」

 耳もとで、みんなが励ますように云ったが、角田の苦しげな身悶《みもだ》えが止んだかと思うと、救急車の到着を待たずして、息絶えた。五億円の預金獲得と引換えに、一人の支店長の命が失われたのだった。

 *

 万俵二子は、兄の銀平が昨夜、神戸元町《もとまち》の駐車場に置きっ放しにしておいたマーキュリーを運転し、灘浜《なだはま》の阪神特殊鋼へ向っていた。とりたてて用事はなかったが、神戸のフランス人に習っているフランス語のレッスンのあと、銀平から頼まれていた車を取りに行って、岡本の自邸へ戻りかけ、ふと上の兄の鉄平がいる阪神特殊鋼へ寄ってみたいと思ったのだった。

 夕暮時の工場地帯は、一日の仕事を終えた従業員たちが、駅に向って列をなすように步き、自転車やスクーターに乗って行く者もあったが、眼のさめるようなトルコ.ブルーのスカーフを巻いて外車を運転して行く二子の姿を見ると、反感と羨望《せんぼう》の入り混じった視線で振り返った。

 阪神特殊鋼の門をそのまま通り抜けようとすると、

「おい、君い、待たんか!」

 守衛が大声で怒鳴りつけた。二子は急ブレーキをかけて止まり、

「私、万俵二子ですけど、兄を訪ねて参りましたの」

 と応えると、守衛は、

「これはどうも、えらい失礼をば致しました」

 恐縮しきって、最敬礼した。二子は返事の代りに、悪戯《いたずら》っぽい笑いを投げかけ、さっと車を構内へ乗り入れた。交替制の従業員たちによって稼動《かどう》し、黒い煙を吐いている工場の煙突を正面に見ながら、車を事務本部の玄関に乗りつけた。

 二階の専務室へ上って行くと、五時過ぎのせいか役員室が並んでいる廊下は静かで、秘書課の受付にも人影がなかった。兄も不在かもしれないと思いながら扉《ドア》をノックすると、応答があった。

「お兄さま、お邪魔してよ」

 顔を覗《のぞ》かせると、来客のうしろ姿が見えた。

「あら、失礼――」

 慌《あわ》てて踵《きびす》を返しかけると、

「いいんだよ、一之瀬四々彦《いちのせよしひこ》君なんだ、昨日、アメリカから帰って来たんだよ」

「まあ、一之瀬さん、お久しぶり――」

 二子は、部屋へ入って行った。一之瀬四々彦は一之瀬工場長の四男で、東京大学工学部冶金《やきん》科に在学中から、よく鉄平のもとに出入りし、その頃、女子大生であった二子とは、顔見知りであった。そして大学卒業後、阪神特殊鋼へ入社してすぐ、休職の形をとって、マサチューセッツ工科大学の冶金科へ留学したことは、兄の鉄平から聞いていた。一之瀬四々彦は、椅子からたち上り、

「お久しぶりです、二年程、お目にかからないうちに、すっかり変られましたね」

 髪を柔らかくカールし、シャネル.スーツを着こなし、すっかり女らしくなった二子を驚くように見た。

「一之瀬さんも、随分、お変りになりましたわね、すっかりダーク.スーツがお似合いになって――」

 二子は、いつも髪をぼさぼさに伸ばし、服装をかまわない秀才学生という印象しかなかった四々彦が、ダーク.スーツで身を整えている変貌《へんぼう》ぶりに驚きながら、

「いかがでした、向うの大学のスパルタ式教育は? 兄からよく聞かされましたけど、今でもそうなんですの?」

「ええ、相変らずです、講義時間ごとに、講義でカバー出来ない参考書をがっちり読まされるし、一カ月に一度はテストがあり、その上にさらに期末試験があるものですから、毎日がびっしり勉強で塗りつぶされてしまうのですよ、期末試験が平均点以下だと、教授室へ呼びつけられて、君の成績では本校の講義には不適当だと、申し渡される始末ですからねぇ」

 濃い眉《まゆ》の下の眼を凝らすように応えた。

「僕が在学していた時と、少しも違っていないわけだな」

 鉄平は、自らも十三年前に留学した大学を思い出した。ケンブリッジ市の南端を流れるチャールズ河を隔てて、ボストン市に面した静かな一角にマサチューセッツ工科大学はあり、全米選《え》り抜きの優秀な学生と、世界各国からの留学生が集まって来ていた。

「では、遊ぶ時間はどうしてつくり出しますの?」

 二子が悪戯っぽく聞くと、四々彦は生真面目《きまじめ》な顔で、

「そんなのありませんよ、アメリカ人の大学院生は、殆《ほとん》ど結婚しているのですが、ワイフに論文のタイプをうたせたり、図書館へまで連れて行って資料集めを手伝わせたりして、ワイフ達から、いつも文句をつけられていますよ」

「それは当り前ですわ、私だったら、そんなハズバンドとは即刻、離婚して帰ってしまうわ」

「この調子で困ってるんだ、縁談があっても、一向に嫁《い》かないんだよ」

 横から鉄平が手をやくように云うと、

「お兄さま、妙なことをおっしゃらないで――」

 素早く兄の口を封じ、

「チャールズ河を隔ててすぐ向い側のボストンの街へはいらっしゃいまして? あそこの美術館はすばらしいでしょう」

 パリに半年、滞在した帰途、アメリカを廻って来た二子が云うと、四々彦は、

「一、二回、行きはしましたが、僕は芸術音痴だもので、その方はさっぱり」

「でも、ボストン美術館には、日本の広重《ひろしげ》の浮世絵の有名なコレクションがあるじゃありませんか」

「ところが、それも実のところ、パーカー教授のお宅のティー.パーティに招かれた時、教わって、見直しに行ったような次第で――」

 一向に隠す様子もなく話した。それは、二子の周囲に集まる男性たちが、寄れば音楽や美術の話をし、洗練された社交性を身につけているのと全く異質な肌合いであった。

「パーカー教授といえば、お元気だったかい?」

「ええ、六十五になられたのに、矍鑠《かくしやく》たるもので、毎日、早くから実験室へ出て来られて、しごかれました」

「もう、そんなお齢《とし》になられたか、僕が行っていた時には、五十を出られたばかりだったが」

 鉄平がその頃を懐《なつ》かしむように云い、

「それはそうと、二子、何か僕に用でもあるのかい?」

「ご用というほどのこともないの、銀平兄さまったら、また昨日、バーで飲み過ぎて元町の駐車場に車を預けっ放しにして、東京へ出張してしまわれたから、引取りかたがた、いろんな用を片付けて、石屋川まで来たついでに、お寄りしただけ――」

「そうかな、二子が会社まで来たところをみると、お父さんに云えないお小遣のおねだりか、さもなくば通りがかりの気まぐれな食事のおねだりだろう、四々彦君の前ではさすがに云い出しにくそうだな」

 図星をさすように云うと、二子は頬をかすかに染め、

「そんなに解《わか》っていらっしゃるなら、ちょうど四々彦さんの帰国祝いに、食事へ連れて行って下さいな」

 甘えるように云った。

「ところが六時から、三日後に迫った高炉の鍬入式《くわいれしき》の打合せがあって、忙しいのだ、今日はおとなしく帰るんだね」

「じゃあ、いよいよ鍬入式なのね、お兄さま、お気持はいかが? 嬉《うれ》しい?」

 この間、父と兄とが声高に話していたことを思い出して、聞くと、

「当然だ、遂《つい》に本格的な高炉建設工事が始まるのだから――、四々彦君もいいタイミングで帰国してくれた」

 鉄平は、机の上の高炉設計図を食い入るように見ている四々彦を顧みて云った。二子は四々彦のその一途《いちず》な横顔に、兄と同じ鉄に情熱を燃やし、鉄に生きる人間の顔を見る思いがし、

「じゃあ、今日はこれで失礼します、でも鍬入式には出席したいわ、いいでしょう?」

 と頼み込むと、

「若い女性がテープを切ったりする開場式や船の進水式などとは違う、鉄鋼のセレモニーには、女は不浄という観念が今も強く、シャット.アウトしているから駄目だ」

 厳しく首を振り、一之瀬四々彦も同じように頷《うなず》いた。

 昨夜から降り続いていた雨が止《や》み、抜けるようにくっきりと冴《さ》え渡った空には雲一つない。

 灘浜に面した阪神特殊鋼の十万坪に及ぶ高炉建設用地は、ダンプ.カーやトラックのタイヤ跡が畑の畝《うね》のように深く残り、ところどころが沼のような水溜《みずたま》りになっているが、海に面した一角には、高炉建設の鍬入式を行なう大きなテントが張られている。入口に日章旗と社旗が掲げられ、折からの海風にはたはたと鳴り、その下に、阪神特殊鋼の役員一同がモーニング姿で整列していた。その中でも、通産省との折衝から、金融機関へ資金調達に駈けめぐり、やっと高炉の鍬入式に漕《こ》ぎつけた万俵鉄平は、ひときわ喜びを隠しきれない紅潮した顔で、来賓たちを迎えている。

 関係官庁をはじめ、地元代議士、県会議員、金融機関、鉄鋼メーカーなどの賓客が、次々と車で到着すると、鉄平は、叔父の石川社長と列《なら》んで、その一人一人に鄭重《ていちよう》な礼をしていたが、通産省重工業局長の車が着くと、顔を引き締めた。阪神特殊鋼の高炉建設に対して、はじめは転炉だけにしておいた方がいいと撥《は》ねつけ、岳父の元通産大臣の大川一郎の政治的な根廻しで、やっと認可を出した石橋重工業局長であった。鉄鋼業務課長を従えて車から降りると、受付は最敬礼で迎えて、来賓の徽章《きしよう》を胸もとにつけた。鉄平は数步、步み出て、

「この度は、何かとご無理を申し上げました、おかげで本日、鍬入式を迎えさせて戴《いただ》きます」

 深々と一礼すると、石橋は、

「いや、おめでとう」

 一言、顎《あご》でしゃくるように云い、さっと風を切るように通り過ぎかけたが、その時、背後《うしろ》から太い濁声《だみごえ》がした。

「石橋君、久しぶりだな――」

 鉄平の岳父の大川一郎が、脂《あぶら》ぎった笑いをうかべながら呼び止めた。石橋は驚いたように振り返り、

「これはこれは、大川先生、ご多忙の先生がお見えになっているとは知らず、失礼致しました」

 掌《てのひら》を返すような慇懃《いんぎん》さで挨拶《あいさつ》すると、

「うむ、殺人的な多忙さだが、娘婿《むすめむこ》の高炉の鍬入式とあらば、岳父たる者、駈けつけんわけにはいかんのでな、それより石橋君こそ、多忙な中をよく来てくれたね、これからも何かと頼むよ」

 犒《ねぎら》いと今後の依頼を籠《こ》め、ぽんと肩を叩《たた》いて、連れだつように式場へ入って行った。

 定刻の午前十時になると、司会者が鍬入式の開始を告げた。注連《しめ》縄《なわ》を張りめぐらした高炉設置場所の前に、大きな祭壇が設けられ、それに向って阪神特殊鋼の社長、専務以下役員と、各界の来賓一同が威儀を正してパイプ椅子に坐《すわ》り、テントの外には、阪神特殊鋼の高炉建設本部員一同が、ヘルメットに作業衣姿で、ずらりと列んでいた。

 三人の神官によって厳《おごそ》かに修祓《しゆうばつ》、降神の儀がはじめられ、紙垂《しで》を振って清祓《きよめばら》いの儀が終ると、いよいよ鍬入の儀式であった。

 まず祭主である石川正治社長が、モーニングに白手袋をはめた礼装で、祭壇の前に進み寄り、柏手《かしわで》をうってから、祭壇の左側の地面に、二度、鍬を入れたが、鉄平に対する思いやりから、高炉を築く場所に礎石を鎮《しず》める儀は、鉄平に譲った。

「礎石の儀――」

 司会者が厳粛な声で告げると、鉄平は緊張した表情で椅子《いす》からたち上った。予《あらかじ》め礎石を鎮めるだけの深さは掘られていたが、儀式として、鍬で二度、地面を掘り、三十センチ四方ぐらいの礎石を手に取った。御影石に自らの手で、『雄翔《ゆうしよう》』と鉄平らしい雄渾《ゆうこん》な字で書いた石であった。その礎石の重みが、ずっしりと鉄平の手に伝わった。今ここに自分の手で高炉の礎石を鎮め、自らの手で高炉を建て、銑鉄《せんてつ》を製《つく》り出すのだと思うと、鉄平の胸に、火のような熱いものがこみ上げて来た。鉄平は溢《あふ》れそうになる涙をぐっと堪《こら》え、礎石を鎮めた。続いて工場長である一之瀬常務が鍬を取って、鉄平と同じような感慨無量の面持で、礎石の上に土をかぶせた。

 引き続き、通産省重工業局長をはじめ各界の来賓たちが、恭《うやうや》しく玉串《たまぐし》を奉奠《ほうてん》し、阪神特殊鋼の従業員代表として労働組合委員長もヘルメットを脱いで、玉串を捧《ささ》げると、社長の挨拶に続いて、専務の万俵鉄平が、挨拶にたった。鉄平は、祭壇横のマイクの前に進み寄り、参列者一同に向って一礼した。

「皆さま方に、本日のご参列を心から感謝致します、本日は、阪神特殊鋼の歴史の中で忘れることの出来ぬ感銘の日になると存じます、申し上げるまでもなく、今回の高炉建設は、特殊鋼業界初の事業であり、当社の社運を賭《と》した事業であります、それだけに本日、高炉の鍬入式にまで漕ぎつけ得ましたのも、関係官庁、金融機関をはじめ各方面の皆さま方のご尽力によるものでございます、しかし、今日は、やっと高炉建設の産声《うぶごえ》を上げたばかりで、今後の長い苦難の道を考えます時、今日の感激よりも、その苦難の大きさに心が引き締まる思いが致します、当社は近代的な設備を持つ特殊鋼メーカーになってから十余年、その間、飛躍的な成長を遂げて今日に至りました、これは常に、自分たちの手で日本一の特殊鋼、いや世界一の特殊鋼を製り出すのだという気概を一人一人の作業員に至るまでが持ち、その団結と結束によって成し得たのだと自負致しており、今またその団結の力をもって高炉建設にあたろうとしております――」

 と挨拶しながら、これからの長い苦難の道を思うと、鉄平は両の拳《こぶし》が震え、最前列に坐っている大川一郎や三雲頭取の方を見た。大川一郎は、うむと大きく頷くように首を振り、その隣に坐っている大同銀行の三雲頭取は、まじまじと食い入るような眼《まな》ざしで鉄平を見詰めていたが、父の万俵大介は、いつもと変らぬ冷静な表情を向けていた。

 鉄平は、さらに言葉を継いだ。

「甚《はなは》だ勝手なお願いではありますが、この鍬入式後、寸暇をお割き戴き、隣接しております当社の工場をご見学賜わり、併せて高炉建設本部に展示しております今回の高炉建設計画をも、ご高覧戴ければ幸いと存じます」

 と結ぶと、拍手が鳴った。形式的なものではない、鉄平の真摯《しんし》な熱情に溢れた挨拶が、参列者の心を強く搏《う》ったのだった。参列者一同に神酒《みき》の盃《さかずき》が配られると、一時間余に及ぶ鍬入式は、恙《つつが》なく終った。

 鉄平は来賓たちの先頭にたって、テントの外へ出ると、ヘルメットに作業衣姿の従業員代表たちが眼を潤《うる》ませるようにして、鉄平を迎えた。万俵鉄工時代からの古い職長や、鉄平を中心にした優秀な技術スタッフたちで、一番うしろには、一之瀬四々彦もいた。鉄平が、一同の前を通りかかると、不意に一人の齢老いた職長が、

「専務、やりますぞ!」

 眼尻《めじり》に涙を溜《た》め、声をかけた。来賓を先導している鉄平であったが、思わず足を停め、

「頼むぞ!」

 と応《こた》えると、一同、力強く頷いた。それ以上、言葉はなかったが、現場の技術者だけに通じる強い連帯感があった。

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 五   章

 東京の麹町《こうじまち》にある阪神銀行の行邸《こうてい》は、いつになく賑《にぎ》やかな人の気配に包まれていた。

 万俵銀平の大阪における結婚式と結婚披露に引き続いて、帝国ホテルで、東京での披露をするために、万俵一族が上京して来ているのであった。いつもは管理人夫婦と二人の書生だけで、ひっそりと静まりかえっているが、今日は応接間をはじめ、居間、寝室まで一時《いちどき》に使われ、寧子、二子、三子、それに鉄平の妻の早苗と、相子の五人が、式服の着付けに大童《おおわらわ》であった。

 披露宴は、午後五時からであったが、五人は、昼食をすませると、大阪から出張させたかかりつけの美容師の手で、髪をセットし、メーキャップをして、着付けにかかっていた。

 部屋一杯に、五人の豪奢《ごうしや》な式服が拡《ひろ》げられ、寧子は黒地に金蒔絵《きんまきえ》の裾模様《すそもよう》に、吉兆文様《きつちようもんよう》の袋帯、二子は若草色の桃山風手描《てが》き友禅の振袖《ふりそで》に、光琳《こうりん》菊の袋帯、三子は薄桃色の疋田《ひつた》の振袖に、総金通しの袋帯、そして早苗と相子は、それぞれ、摺箔《すりはく》に縫取りの黒留袖に、佐《さ》賀錦《がにしき》の帯であった。

 平常は殆《ほとん》ど使われることがなく、雨戸も締め切りがちの居間が明るく開け放たれ、艶《なま》めいた長襦袢《じゆばん》の色や女の匂《にお》いがたち籠《こ》め、帯を締める度に、絹擦れの音が、小気味よく鳴った。手早い美容師の手で、次々と着付けが進み、寧子と二子が最後に残った。

 寧子は、撫肩《なでがた》の小柄な体で鏡の前にたち、美容師にされるがままになって着せつけられ、いざとなると別染めの伊達《だて》巻《まき》が足らなかったり、前当ての幅が狭過ぎたりし、その度に、岡本の本邸から連れて来た女中が寝室へ走ったり、先に出来た早苗と三子が、傍《そば》から世話をやいていたが、相子は、二子の着付けにかかりきっていた。

 長身で均斉のとれた二子の体に、相子が選んだ若草色の振袖をきりっと着付け、黒地に朱赤の光琳菊を配した帯を文庫結びにすると、若い華やぎがたった。美容師は帯〆《おびじめ》を真一文字に結び終ると、

「まあ、大阪の披露宴の時より一段とおきれい! 若草が萌《も》えたつようによくお似合いですわ」

 衣裳《いしよう》の見事さと本人自身の美しさに、溜息《ためいき》を洩らすように褒《ほ》めそやしたが、相子は仔細《しさい》に点検するような眼《まな》ざしで、鏡の中の二子の姿に見入り、

「お着付けは結構ですわ、でも、お顔のパウダーの色をもう少しオークルにして戴《いただ》きたいわ、せっかく若草色を着こなしながら、顔を白く塗っていると、個性味がなくなりますから、それから口紅の色も、もっとモダンなオレンジに変えて下さいましな」

 次々と命じるような口調で云《い》うと、美容師はその玄人《くろうと》はだしの相子の意見に圧《お》されるように、すぐ、二子のメーキャップを直した。

「そう、それで結構、眼を見張るほどの美しさですこと――」

 相子がやっと満足するように云うと、三子が横から、

「どうして二子姉さまばかり、そんなに念入りにみてあげるの、不公平やわ」

 すねるように云った。

「どうしてって、次のおめでたは、二子さんの番ですもの、今日は特に念入りにして、東京のお親《ちか》しい方々に、この際、お目見得しておかないことにはねぇ」

 と云うと、鏡の中の二子の顔が動いた。

「いやだわ、そんな意味できれいにするのなら――、私は銀平兄さまの披露宴だからおとなしく着飾っているのよ、自分のためなら、こんな仰々しいことご免だわ、第一、こんな大げさな結婚披露など致しません」

 切口上で云ったが、相子はとり合わぬように、

「今日は、新大阪ホテルの時よりさらにお人数も、お顔ぶれも大へんな披露宴ですから、それぞれのお立場で、ご来賓やご招客の方々に粗相のないご挨拶《あいさつ》を遊ばして下さい、寧子さま、ようございますわね」

 まだ着付けが終っていない寧子の方に特に念を押すように云うと、寧子はそれには応えず、

「一子は、どうしているのかしら?」

 長女の支度を気遣うように云った。

「一子さまは、成城のご自宅へ、かかりつけの美容師さんを呼んでお着付けをして、美馬さまとお揃《そろ》いでまっすぐ帝国ホテルへ行かれます、それから、叔母さまの千鶴さまをはじめ、ご親戚《しんせき》方は、帝国ホテルにお部屋をとってご用意遊ばしておられますから、何のご心配もございません、寧子さまさえ、入口での立礼を失礼のないようにして下されば、およろしいのでございますよ」

 と云いながら、相子は、五日前の新大阪ホテルでの披露宴の立礼の時、万俵大介と列《なら》んで、新郎新婦のそばにたった寧子が、人の顔の見極めがつかぬままに、誰彼なしに操り人形のようなぎこちない礼をしていた姿を思い出した。そして相子は、鏡の中に映っている自分の姿を見詰め、五人の中で一番艶《あで》やかで、個性的な美しさを備えていることを確かめながら、時計を見た。もう三時を廻っていた。

「私は、ちょっと殿方たちのご用意の方を見て参りますから、こちらの支度が出来上りましたら、応接間の方へ来て下さいましな」

 そう云い、相子は公式の来客に使う応接室へ足を向けた。そこには、万俵大介、鉄平、銀平の三人が、書生たちの手をかりて身支度を整え終っているはずであった。

 扉《ドア》を開け放した応接室のソファに、万俵大介と鉄平は黒のモーニング、新郎の銀平はグレイの燕尾《えんび》服を着、三人三様の姿で煙草《たばこ》を喫《す》っていた。大介は葉巻をゆったりとくゆらせ、鉄平は、色の浅黒い精悍《せいかん》な顔で巻煙草をふかし、銀平は火の点《つ》いていない煙草をくわえたまま、新聞を拡げていた。

「あら、大分、お待たせ申し上げたようですわね、でも間もなく出来上りますわ、あと寧子さまだけですから――」

 底意地の悪い云い方をすると、大介は、

「これだから寧子は困る、大阪から美容師を二人も連れて来ているのに、どうしてそんなにぐずいのだろう」

 不機嫌になりかけると、相子は宥《なだ》めるように、

「今日は、大蔵大臣、通産大臣をはじめ、両省の次官、局長クラスがご出席下さり、その他、これという政財界の名士の方々も、殆ど出席のご返事を戴いておりますから、近頃にない豪華な顔ぶれの披露宴になりそうでございますわ、ようございましたわね」

 しみじみとした語調で云うと、

「うむ、新大阪ホテルでの披露宴も、大阪、兵庫県の両知事をはじめ、各界の名士、特に関西財界のこれという人々がずらりと顔を揃えて、盛会だったが、やはり何といっても東京だ、大臣をはじめ、政官界の大物の出席ともなれば、とても大阪では望めないことで、予想以上の盛会になりそうだ」

 機嫌を直して満足そうに云った時、廊下に華やいだ声がし、

「お父さま、お待たせしてご免なさい」

 二子と三子を先頭に、寧子、早苗たちが入って来た。大介は、大阪の披露宴の時とはまた違った衣裳をつけている二人の娘に、父親らしい視線を向け、

「花嫁に負けないほど二人ともきれいだぞ、あとは皆さま方にちゃんとご挨拶することだ、じゃあ、出かけよう」

 と腰を上げた。相子もいそいそと席をたち、玄関へ足を向けかけると、突然、鉄平が、相子の前にたち塞《ふさ》がった。

「あなたは、今日の披露宴には、遠慮して貰《もら》いたい」

 いきなり、云った。一瞬、皆が呆然《ぼうぜん》と息を呑《の》んだが、相子はすぐ、きっとした眼ざしで、

「何をおっしゃるのです、私はあなた方の育ての親ですよ、お母さまに代って、あなた方を教育したのはこの私です」

 きっぱりとした声できり返すと、鉄平の精悍な眼がぎらりと動いた。

「それは解《わか》っていますよ、しかし、あなたはさっきの母のことにしても、過ぎた言動が多過ぎる、大阪での披露宴では我慢していたが、今日は遠慮して貰いたい、万俵家の長男として、僕は――」

 と云いかけると、大介が、鉄平の言葉を遮《さえぎ》った。

「万俵家の長は私だ、私が相子の出席を認めている」

 きめつけるように云うと、寧子は狼狽《ろうばい》するように、

「お止《よ》しなさい、鉄平――、相子さんは私に代って、何もかもして下さったんです、それなのに何ということを……」

 涙ぐんだ。瞬時、重い沈黙に包まれたが、銀平は、

「いいじゃないですか、兄さん、どうせ結婚式だの、披露宴だのと云っても、猿《さる》芝居に過ぎないのだから、そう僕の結婚を厳粛に考えて下さらなくても結構ですよ」

 と云うなり、先にたって玄関へ向った。大介はちらっと鉄平を一瞥《いちべつ》して、玄関へ足を向けたが、その眼には曾《かつ》てない憎悪《ぞうお》の色が漂っていた。そして相子は、いささかも表情を崩さず、大介のあとに続き、車寄せに三台並んでいる車に、一同が分乗すると、車は帝国ホテルに向って走りだした。

 孔雀《くじやく》の間《ま》に続く控えの間は、政官界、財界の著名人が次々と詰めかけ、その夫人たちの色とりどりの衣裳で、華やかに彩《いろど》られていた。

 控えの間の入口には、万俵家、安田家の双方の受付が設けられ、万俵側は政官界関係と、財界関係、そして親戚、知人、友人関係の三グループに分け、政官界関係はその方面の顔ぶれをよく知っている阪神銀行東京事務所の総務課があたり、金融関係をはじめ各企業関係は秘書課長を頭にして中堅の秘書課員、親戚、知人、友人関係は、万俵コンツェルン各社の東京支社の秘書課員が、受付を勤めていた。

 招待客や来賓たちは、披露宴がはじまるまでの僅《わず》かな待時間にも、ボーイが運んで来る食前酒《アペリチフ》のグラスを受け取り、賑《にぎ》やかに談笑していた。万俵大介は、端正な顔をかすかに汗ばませて、まず大蔵省関係の応対に廻り、美馬中もそのうしろに随《つ》いて挨拶に廻った。春田銀行局長夫妻に挨拶し、ふと斜め横をみると、総理秘書官の井床《いどこ》治郎がたっていた。万俵はすぐその方へ足を運んだ。今日の披露宴に総理が出席出来ない場合は、保谷官房長官が祝辞代読をするよう計らって貰った人物であり、七月人事で次期銀行課長になることが内定している人物であった。

「この度は勝手なお願いを致しました、それから銀行課長へのご栄転、おめでとうございます、これをご縁に今後も何かとよろしく――」

 相手は、娘婿《むすめむこ》の美馬より若かったが、深長な意味を含めて鄭重《ていちよう》に云うと、井床は、

「いやあ、妙なご縁ですな、私がこんな橋渡しをするとは――」

 ポーカー.フェースで応え、

「官房長官が、お見えですよ」

 と眼で指した。保谷官房長官が、大川一郎など、四、五人の自由党の実力者と何か話し合いながら、こちらへ步いて来る。万俵は、自分の方から足早に近付き、

「官房長官、本日はご多忙の中をようこそお見え下さいました」

 と挨拶すると、保谷官房長官は、

「いや、総理に是非とお頼まれしたことですからねぇ」

 政治家特有の愛想笑いをうかべて挨拶を返した。大川一郎が大きな濁声《だみごえ》で、

「保谷君、親戚の一員として私も大いに感謝するよ、それからこの万俵の娘婿の中君だがね、ゆくゆくは政界入りをするだろうから、その際は何かとよろしく頼むよ」

 万俵の横にたっている美馬中のことを云ったが、美馬は困惑するような表情をうかべた。官僚である美馬は、党人派で特にあく[#「あく」に傍点]が強く、政敵の多い大川一郎と親戚であることは迷惑で、出来るだけ大川一郎と顔を合わせぬようにたち廻っていたが、大川の方は、それを承知でわざと「中君、中君」と親戚仲の呼び方をし、美馬を辟易《へきえき》させていた。政、官界を一廻りすると、万俵大介は、息もつかず、同業の各行の頭取、大口取引先の社長たちにも挨拶に廻った。もちろん、大亀専務、芥川常務以下、阪神銀行の役員たちも応対に出ているが、任せきりというわけには行かない。

 安田太左衛門の方も、秀才三兄弟といわれている中央製紙社長の安田長兵衛と五井地所社長の安田三衛門の三人が柱になって、日経連会長、通産大臣をはじめ万俵家に劣らぬ政官界の要人を来賓に招いて、その応対に追われ、結婚披露宴というより、阪神銀行と大阪重工の企業パーティのような様相を見せていた。そうした中で、高須相子は、さっきあったことなど気振りにも出さず、控え室に引き籠《こも》っている寧子に代って、万俵家の女執事然とした慎しさで、万俵側で招待した来賓の夫人たちの応対にたち廻り、これという夫人には、二子を引き合せることを忘れなかった。

 控えの間の入口が騒《ざわ》めき、永田大蔵大臣が姿を見せると、大介は、美馬とともにいち早く出迎え、

「大臣、本日はご多忙のところ、お時間をお割き戴き、恐縮でございます」

 深々と礼をした。永田は三白眼の眼をちらっと動かし、

「いや、いや、他《ほか》ならぬご長男[#「長男」に傍点]のご結婚式とあらばねぇ」

 次男と長男[#「長男」に傍点]を取り違えていたが、誰もそんなことは問題にしなかった。何より、大蔵大臣自らが出席したということに、阪神銀行頭取の万俵大介の実力のほどを垣間《かいま》見る思いがしたようだった。

 大蔵大臣の到着を待ち受けていたように、モーニング姿の進行係が、

「只今《ただいま》から万俵家、安田家、ご両家の結婚披露を行ないます、皆さま、ご順次にご入場の上、お手もとのご案内カードに記されましたお席に、ご着席下さいまし」

 披露宴の開始を告げると、騒めいていた人たちは、手にしていたグラスを置き、披露会場の入口の金《きん》屏風《びようぶ》の前には、新郎新婦を真ん中にして、仲人《なこうど》夫妻、新郎新婦の両親が、立礼のためにたった。大蔵大臣を先頭に来賓、招客が次々に入場し、その一人一人に向って、新郎新婦たちは鄭重に立礼した。三百五十人の招客たちは、何らかの意味で選ばれたエリートたちであり、カメラのフラッシュが光り、万俵、安田家の華燭《かしよく》の典は冒頭から華やかな昂奮《こうふん》に包まれていた。

 来賓、招待客、親戚、知人、友人一同、四百五十名が着席すると、民間放送のアナウンサーである司会者が、

「只今から新郎新婦が入場されますから、拍手をもってお迎え下さい」

 と云うと、結婚行進曲《ウエデイング.マーチ》が流れ、燕尾服の銀平と、白無垢《しろむく》裲襠《うちかけ》姿の万樹子が、しずしずと入場して来た。拍手が一しきり鳴った。銀平はにこりともしなかったが、万樹子は感激に顔を紅潮させ、羞《はじ》らいを見せて步んで来た。正面の席に、新郎新婦を挟《はさ》んで、仲人の伊東商事会長夫妻がたち、型通りの挨拶をした後、祝辞の皮きりにまず、総理大臣代理として官房長官が祝辞を代読し、次いで永田大蔵大臣がたち上った。

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