饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15492 字 更新时间:2026-6-16 06:24

 万樹子の大きな眼と厚い唇が口惜《くや》しげに引き攣《つ》れた。

「急に騙したの、騙されたのと、何のことだい?」

「しらっぱくれないでよ、今日、退屈で退屈でたまらなくて、本館へ行ったのよ」

「それが、どうしたというんだい?」

 銀平は、新聞から顔を上げようともせず、お座なりな受け応《こた》えをした。

「まだこの上、私を騙す気なの、本館のお二階のあのお部屋を、あなたが何も教えてくれなかったから、私は知らずに開けて、見てしまったわ」

「なに、見てしまった?――」

 銀平の手にしていた新聞が、大きく揺れた。

「ええ、見てしまったのよ、何も知らずに扉《ドア》を押すと、すっと開いてしまって、呆然《ぼうぜん》と愕《おどろ》いているところを相子さんに見付かったの、そしてあの人から三台のベッドの意味を聞かされたわ――」

 銀平の顔に、激しい苦痛の色が奔《はし》った。

「それから万俵家の晚餐《ばんさん》の妻の席が、一日交替に替る意味も聞いたわ、何が今日はフランス語、明日は英語で晚餐ですか! ごりっぱで、お上品なのは表面ばかりで、中身は下劣そのもの、まんまと高須相子の口車《くちぐるま》にのせられたわ」

 相子の前では、蛇に見入られた蛙《かえる》のように震えていた万樹子が、夫の前では感情を剥《む》き出し、口惜しさに猛《たけ》り狂うように言葉を続けた。

「万俵家は狂ってるわ、この現代に妻妾《さいしよう》同居どころか、妻妾同衾《どうきん》など、しかもあのお姫《ひい》さま然としていらっしゃるお姑《かあ》さまが、よくもそんな獣のような生活を――」

 と云いかけた途端、銀平はまるで火傷《やけど》の背中をさわられたようにソファから飛び上った。

「止《や》めろ! それ以上云うな、一言でも母の名前を口にしてみろ、許さないぞ!」

 狂気のように大声を上げた。

「君が、万俵家の何を見、何を知り、どう軽蔑《けいべつ》してもいい、僕は弁解しない、しかし、母を侮辱する言辞は、一言も許さない」

 怒りと憎悪《ぞうお》に満ちた眼を万樹子に向けた。その異様なまでの激しさに万樹子が口詰ると、やっと、平静を取り戻した銀平は、

「万俵家のすべてを知ったんだから、君は実家《さと》へ帰ろうと思うのなら、帰ってもいいよ」

 低い声で云った。

「男はそれでいいでしょう、けれど、女の私は、何といって帰ればいいの、その口上《こうじよう》を教えてよ」

 万樹子は、開き直るように云い、

「私の一生はこれで滅茶滅茶《めちやめちや》だわ、世間には名門、万俵家の若夫人として通し、邸内では、妻妾同衾の獣のような生活を横に見て過すなんて地獄だわ、あなたは、それを知っていながら、結婚前には一言も云わず、私を地獄に引きずり込んだのよ、卑怯《ひきよう》者《もの》! どうしてあの女を追い出せないの、意気地なし!」

 泣き喚《わめ》くように罵詈雑言《ばりぞうごん》を吐く万樹子には、こうした家庭に育ち、既に傷つき、傷口から血を噴き出している銀平の気持など解ろうはずがなかった。

「あなたのお父さまは、恐ろしい偽善者だわ! こんな生活をしながら、冷厳公正なる頭取として世間を通していらっしゃる、そして万俵家の人々も口を拭《ぬぐ》って、ぬくぬくとその偽善の上に趺坐《あぐら》をかき、世間を欺《あざむ》いている偽善者たちばかり、私はそれに騙された犠牲者だわ、早苗お嫂《ねえ》さまだってそうよ、一体、早苗さんはどう考えていらっしゃるか、お伺いしたいものだわ!」

 銀平は応えなかったが、結婚して八年になる早苗が知らずにいるはずがなく、兄の鉄平のことであるから、彼一流の率直な対し方で、妻に話したであろうと思われた。黙っている銀平に、万樹子はさらに声を昂《たかぶ》らせた。

「でも私と早苗お嫂さまと一緒にされては困るわ、あの方は、とかく噂《うわさ》が多い政治家の娘で、私はすべての面で折目正しい安田家の娘ですもの、あの方が我慢できても、私は絶対、我慢できない!」

 嫂《あによめ》をも軽侮するように云った。

「それなら、なおのこと君の倖《しあわ》せのために帰った方が、いいじゃないか」

 銀平がもとの無表情な顔に戻ると、万樹子は急に黙り込んだ。相子から「私はあなたの結婚前の過去を知っていましてよ、あなたの出方によっては、私は――」と云われた言葉が、万樹子の心を脅《おび》やかし、重い楔《くさび》になっているのだった。

「私、やはり帰れない、帰りたくとも、帰りようがないわ――」

 と云うなり、俄《にわ》かに嗚咽《おえつ》し、激しく泣き出した。夫へのいたわりなど微塵《みじん》もなく、無神経に泣き喚く万樹子の姿を、銀平は索漠とした思いで眺めながら、家柄や毛並、両親の社会的地位によって結びつく閨閥結婚の空《むな》しさとも、無惨《むざん》さともつかぬ思いに囚《とら》われた。そして、今の場合、万樹子が無神経な女であることが、自分にとってせめてもの救いであるかもしれないと思った。

 相子は三台のベッドが並んでいる寝室に入ると、部屋続きになっているバス.ルームの蛇口をひねった。熱い湯が勢いよく流れ、みるみる湯槽《ゆぶね》を満たし、湯気が籠《こも》った。今朝、大介が出かける際、「今日は大阪重工の招宴で遅くなるから、先にバスを使って寝《やす》んでいるように」と云われていたのだった。

 ジョイのオーデコロンを湯槽に滴《た》らすと、濃艶《のうえん》な香りがたち、相子はその香りに酔うような快さで湯槽に体を横たわらせたが、夕食後、寧子をまじえて二子と新しい縁談の話をしたことを思い返すと、不愉快になった。せっかく東京の財界でも有数の実力者である大正電工の林社長の長男という良縁が持ち込まれたのにもかかわらず、「私は鉄平兄さまのような人が好ましいの」と云った二子の言葉が、ひっかかった。こともあろうに銀平の結婚披露宴の日、「あなたは披露宴へ出るのを遠慮してほしい」と自分に向って云い放った鉄平の名前を持ち出すなど、我慢ならなかった。あの日以来、相子と鉄平の間には、眼に見えない冷たい溝《みぞ》のようなものが出来、それまでも同じ邸内に住まいながら、あまり往《ゆ》ききのない間柄が、さらに疎遠《そえん》になっていた。殊《こと》に相子自身の心の中には、あの時の屈辱感が日とともに深くなり、鉄平に対する憎しみが溜《た》まっている。

 ファウン.グレートデンの吠声《ほえごえ》がし、下の門から上って来る車の音がした。グレートデンたちの甘えるような吠え方で、大介の帰宅であることがすぐ解《わか》った。石鹸《せつけん》を泡《あわ》だてた体に、急いでシャワーを浴びていると、寝室の扉《ドア》が開き、大介が入って来た。相子はシャワーに濡《ぬ》れた顔を扉の間から覗《のぞ》かせ、

「あら、ご免なさい、今すぐ出ますから」

「いいよ、ゆっくりおし、私は少し飲んでいるから、今夜は入らない」

「じゃあ、そのナイト.テーブルの上に置いてある二子さんのご縁談先のお写真と釣書《つりがき》、ご覧になっていて下さいましな」

 相子は浮き浮きとした語調で云い、バス.タオルで体を拭って出て来ると、化粧品や香水がずらりと並んだ三面鏡の前にバス.ローブをつけて坐《すわ》り、タルカム.パウダーを体にはたきながら、鏡越しに大介を見た。

 大介はガウンをつけてベッドの端に腰をかけ、仔細《しさい》に二子の縁談の釣書に見入っていた。相子はその姿を見詰めながら昼間、銀平の妻の万樹子がこの部屋を覗き見、取り乱して愕き、怯《おび》えたことを思うと、残忍な笑いのようなものが、咽喉《のど》もとにこみ上げて来たが、そればかりは大介にも、云うべきことではなかった。大介は、釣書と見合い写真とをナイト.テーブルの上に置くと、夜の化粧を念入りにしている相子を見、

「おいで――」

 と手を伸ばした。相子は、云われるまま、バス.ローブをまとった体で、ベッドに滑り込んだ。湯上りの肌にしみ込んだジョイのオーデコロンの匂《にお》いが濃艶にたち籠め、大介の手が背中へ廻った。

「いかがでして? 二子さんのご縁談は――」

「うむ、今度は申し分ないじゃないか、大正電工の林社長の長男で、東大法学部卒、日銀勤務、それに齢《とし》が二子より三つ上の二十六歳――、二子はどう云っているんだ?」

 と聞きながら、大介は、相子の首筋に唇を触れさせた。相子は媚《こ》びるように体をくねらせ、

「ところが、気がすすまないんですって、要は鉄平兄さまのような人が好きの一点ばりなんですのよ」

「なに、鉄平のような男――」

 大介は、不快そうに云い、

「それは若い娘の単純な理想像のようなもので、ヘルメットを冠《かぶ》って、作業衣を着たいかにも男らしく見える姿に憧《あこが》れているだけのことだろう、それより相子自身はどう思うんだ?」

 相子の首筋から、豊満な乳房へ唇を移しながら聞いた。相子は大介の愛撫《あいぶ》に快げに身をゆだね、

「ご縁談としては……ほんとうに申し分ありませんわ、でも……あなたが今、美馬さんを六甲の山荘にまで呼び寄せて……秘《ひそ》かに相談していらっしゃることを考えると……二子さんの相手は万俵家にとって……官僚、政治家に次いで、どんな閨閥が必要かと……いうことじゃありませんこと?」

 次第に汗ばんでくる体で、息を弾ませ、言葉を跡切《とぎ》らせがちに云った。閨房の中で、万俵家の閨閥を画策する面白さが、相子を隠微に娯《たの》しませていた。大介は、相子の弾力性のある腰に足を絡《から》ませながら、

「そうすると、官僚、政治家に次いで、マスコミ、つまり新聞社の社主か、社長ということになるね、下世話《げせわ》に政治家と官僚とマスコミを握っていたら、たいていのことは巧《うま》くやれるということだからねぇ、だが相子ならどの辺を狙《ねら》うかね」

 情事を娯しみながら、娘の縁組を進めて行った。相子は、いつもより濃厚な情事に汗を滴《したた》らせ、

「……私――、私なら同じ……狙うなら、いっそ佐橋総理との閨閥を……狙うわ」

 と云い、のけ反るように体を大きく波うたせた。ベッドのスプリングが弾み、自らの大胆な言葉にますます昂りを見せる相子に、大介も引きずり込まれそうになりながら、日夜、心を砕いている銀行合併も、最後の最後は、総理の諾否如何《いかん》であることを考えると、思わず、合併のことを洩《も》らしかけたが、さすがにそれは口にせず、

「そりゃあ、佐橋総理との閨閥が出来れば、これ以上の閨閥はないよ、しかし、そんなに都合よく総理と縁戚《えんせき》関係が出来るような相手がいるかどうかだね、それにしても相子、君という人は、いきなり、ずばっと本丸に斬《き》り込むようなことを考える人だねぇ」

 と云い、大介は、女には惜しいほどの政治性と豊満な肢体を兼ね備えた相子をさらに娯しませ、悦《よろこ》ばせるために、体中に唇を捺《お》しつけ、足の指先まで愛撫し、閨房の中で、閨閥の枝を押し拡《ひろ》げて行った。

 *

 十日間のアメリカ出張を終えて、帰阪する万俵鉄平を、阪神特殊鋼の秘書課員と一之瀬四々彦が、伊丹《いたみ》空港まで出迎え、妹の二子も来ていた。颱風《たいふう》が四国沖合を北上しているという予報が朝から出ており、ローカル線のダイヤは相当乱れていたが、東京.大阪間の便はまだ平常通り運航していた。

 二子は、どんよりと鉛色の雲が垂れ落ちそうな空を見上げ、

「颱風よりお兄さまの方が、一足お先にというところね」

 パン.アメリカン機で羽田へ着き、すぐ大阪行の便に乗り継いで帰って来る鉄平のことを云うと、若い秘書課員は、

「東京.大阪間が欠航になりますと、新幹線への乗り継ぎや、何やかやで大へんですが、うまく飛行機に乗れて何よりでございました」

 ほっとした声で応えた。二子は、悪戯《いたずら》っぽい眼《まな》ざしで、

「それにお兄さまったら、日本へ帰るなり、何をさておいても真っ先に工場へ出かけたいという方《かた》だから、颱風で東京に足どめなどされたら、地団太ふむわ、ねぇ、一之瀬さん」

 と云うと、たまたま阪神特殊鋼の大阪営業所へ出張し、予定より早く仕事が終って空港まで出迎えに来ている一之瀬四々彦は、

「冶金《やきん》を出て、鉄をやっている人間は、おおかた、そんなものでしょう」

 格別のことではないように応えた。

「じゃあ、一之瀬さんもですのね、そういえば、一之瀬さんはいつも、お仕事のことしか頭にないみたい、でも今夜は兄の家へいらっしゃいませんこと? 嫂《あね》と一緒に腕を振るって、ご馳走《ちそう》致しますわよ」

「そんな風に食事が出来るのならいいですけど、どうやらこの空模様では、颱風は来そうですね――、高炉建設の工事場は大丈夫かな?」

 二子の食事の誘いなど上《うわ》の空で、ますます暗く、雲の流れも早い上空を観察しながら、颱風が阪神間へ上陸した際のことを、心配するように呟《つぶや》いた。二子は、そんな四々彦の様子にがっかりして、眼を伏せた。今日、わざわざ兄を迎えに空港に来たのは、ニューヨークで買って来て貰《もら》う約束をしていたブローチもさることながら、一之瀬四々彦に会えるかもしれないと思ったからだった。

 やがて鉄平の乗っている東京発の飛行機の到着案内がアナウンスされ、鉛色の空の中を日航機が滑走路に着陸した。二子たちはすぐ出口の方へ行き、鉄平を待った。滑走路からバスで送られた乗客たちの先頭を切って、鉄平が大股《おおまた》な足どりで步いて来、手をあげて合図する秘書課員の姿に気付くと、全く疲れの見えないいつもの浅黒い精悍《せいかん》な顔を綻《ほころ》ばせた。

「お兄さま、お帰りなさい!」

 二子が、明るい声をかけると、

「なんだ、お前が来ていたのか、ああ、一之瀬君も――」

 と云いながら、荷物のチケットを秘書課員に渡し、一之瀬に、

「どうなんだ、颱風の方は?」

「上陸後の進路はまだはっきりわかりませんが、四国沖合を北上して阪神間に向いそうな様子です」

「そうか、じゃあ急いで工場へ行こう、荷物が遅いな」

 荷物の出を待ちかねるように云うと、

「お兄さま、ティファニーのブローチ、忘れないで買って来て下さって?」

「うん、買って来たよ」

「どんなのかしら、早く見たいわ」

「家へ帰ってからだ、忙しい、忙しい」

 二子の言葉に耳をかさず、秘書課員が荷物を出して来ると、

「じゃあ、早苗に元気で帰ったと伝えておいてくれ、それからもし颱風がひどくなったら、家へは帰らないということも――」

 と云うなり、鉄平は東京出張から帰阪した時と同じような気軽さで、一之瀬四々彦と秘書課員とともに迎えの車に乗り、工場へ向った。

 車が走り出すと、鉄平はまずラジオのスイッチを入れさせ、颱風情報を聞いた。気象台の発表では、颱風は、現在、室《むろ》戸岬《とみさき》の沖合三百キロの海上にあり、中心気圧は九百六十ミリバール、中心付近の最大風速三十五メートル、暴風半径二百キロの中型颱風で、西日本へ上陸する危険性はほぼ避けられない状況にあり、四国南岸では既に波浪注意報が出ていると報じた。

「十月颱風というのは珍しいが、この調子だと、灘浜《なだはま》のあたりも危ないかもしれないな――」

 鉄平は太い眉《まゆ》を寄せて云い、スイッチを切らせた。そして自分の隣に坐っている一之瀬四々彦を見、

「何とか理由をつけて、君がわざわざ出迎えに来たのは、アメリカでのビジネスの結果を早く聞きたいからだろう?」

 と云うと、一之瀬四々彦はてれながらも率直に頷《うなず》き、

「アッセルミルの購入の件、どうなりましたか?」

 鉄平が渡米ぎりぎりまで、日本の有力商社の機械部を通して、アッセルミルの製作元であるブロー.ノックス社へ、再三再四、設計図購入を交渉したにもかかわらず、アッセルミルの心臓部にあたる重要な機械部分は輸出し、その他の付属部分だけ設計図で売るという回答しか得られなかったのだった。しかし阪神特殊鋼としては、何としても設計図面購入を切望し、鉄平がその交渉に飛んだのだった。

「うん、何しろ設計図だけなら、三十万ドルですむものが、機械一式となると二百四十万ドルにもつくから、ブロー.ノックス社の技術主任と会って、阪神特殊鋼の技術水準と設備を長時間にわたって話した甲斐《かい》があって、やっと図面購入をOKして貰ったよ」

 契約書が入っている鞄《かばん》を嬉《うれ》しそうに叩《たた》くと、一之瀬四々彦は、

「一体、どうしてブロー.ノックスを口説き落されたのです? あんなに向うも強引だったのに」

「そこだ、阪神特殊鋼が内外に誇っている真空脱ガス法によって鋼《はがね》の中の不純物を除き、鋼の精密度をいかに高めているかという点を説明し、さらに冶金と塑性《そせい》加工の関係についてディスカッションしたところ、たまたま私の専門分野でもあったため、向うの技術スタッフより塑性加工の理論をよく知っていたので、彼らも大いにこちらの技術水準を見直し、設計図面でOKということになったのだ」

 鉄平は熱っぽい語調で云い、

「それからもう一つ、ビッグ.ビジネスを成功させたんだ、当社の輸出ベアリング素材の三分の二を買い入れているアメリカン.ベアリング社との販売契約、値下げをせずに、二割増量の長期契約を更新して来たんだ」

「え? 二割増量――」

 アメリカン.ベアリング社との契約更新には、当初、営業担当の川畑常務が出かけることになっていたのを聞き知っている一之瀬は、驚くように聞き返した。鉄平は、白い歯を見せてにやりと笑った。

「君も、技術畑の僕には、販売、営業は無理だと思っていたようだな、だが、向うの購買部長を掴《つか》まえて、わが社に現在あるアッセルミルを、日本人の器用さから、アメリカにおけるそれより五割増しのスピード、つまりアメリカで一時間十トンなら、当社では一時間十五トンのスピードで、しかも真空脱ガス法によって今までよりさらに品質のよい鋼を自信を持って作り得ることを話すと、それならと、二割増量の長期契約をし、見越し生産をするように云ってくれたんだよ」

 と云いながら、窓の外へ眼を向けると、雨が降りはじめ、車の窓ガラスを叩く音が次第に高くなって来た。もう一度、ラジオのスイッチを入れさせると、颱風は、阪神間に上陸する可能性が強くなったことを伝えた。

 夜九時を過ぎた灘浜の工業地帯は、颱風の接近とともに、横なぐりの雨が工場の屋根を叩き、風が咆《ほ》えるように吹き荒れはじめた。四国を縦断して阪神間へ上陸する颱風は、時間とともに予想よりやや西へ進路をかえ、午前一時すぎ兵庫県を襲う公算が大になった。

 阪神特殊鋼では直ちに颱風対策本部が設けられ、対策本部長には今日、アメリカ出張から帰ったばかりの万俵鉄平、副本部長に一之瀬工場長がたち、電気炉、圧延、製管工場などの各現場の部長と保安課全員が本部に詰め、ヘルメットと作業衣で身を固めている。

 既に午後六時に、工場内の第一種災害指令を発令し、雨合羽《あまがつぱ》、シート、土嚢《どのう》、照明器具を各工場へ配分し、警戒体制の中で操業を続けていた。

 新しい颱風情報が、テレビで報じられた。

「大阪管区気象台、午後八時五十分発表、颱風二十三号は室戸岬の沖合二キロにあって、なお北上を続けています、勢力は依然として衰えず、中心最大風速三十五メートル、今後の進路は四国東部を縦断して播磨灘《はりまなだ》に向う予想ですから、この付近の方々は厳重な警戒が必要です、なお、大阪湾には高潮の危険があり、今後の高潮注意報には充分、気をつけて下さい」

 高潮を伴う颱風であることを告げた。鉄平は、直ちに第二期緊急体制を発令した。

「各工場の操業停止! 直ちに各工場のモーター、計器類は、万一の浸水に備えて、シートをかけ、高所に吊《つ》り上げろ! なお停電に備えて自家発電の試運転をせよ!」

 と指示すると、伝令が自転車に飛び乗って各現場へ伝えに走った。十五分程すると、工場の操業音が止まった。

 鉄平は、室戸岬に打ち上げる六、七メートルの波濤《はとう》をテレビで見ながら、高炉の鍬入式《くわいれしき》後、四カ月目に颱風に見舞われる不運を考えていた。通産省、融資関係などの幾多の困難を乗り越え、この十日間も、アメリカで圧延設備の設計図購入と販売契約に奔走し、成果を上げて、すべてが順調に運んでいる最中《さなか》に、颱風による被害を受けることは、大きな痛手であった。

「高炉建設現場は大丈夫だろうか、ちょっと見てくる」

 ヘルメット、作業衣の上に、雨合羽を重ねると、一之瀬工場長もたち上った。

 外へ出ると、既に瞬間風速二十メートルぐらいの風が吹き荒れ、鉄平と一之瀬は、しのつく雨の中をジープに乗って、高炉建設現場へ向った。十万坪の敷地に、八百立方米《リユーベ》の高炉が、地上二十五メートルまでたち上り、三本の熱風炉も三分の二の高さまで出来上りつつあり、高炉のすぐ横に高さ六十メートルのクレーンがあった。問題はこのクレーンで、高炉建設業者が、倒れないよう尖端《せんたん》にワイヤーを巻き、四方八方から地面に打ち込んだ杭《くい》に繋《つな》いでいたが、それでも前後に一、二メートル揺れているのが、夜眼にもはっきり解《わか》る。

「おい、本体だけでなく、クレーンの腕《ブーム》がやられぬよう、しっかりワイヤーを張れ!」

 鉄平は、周囲にいる高炉建設業者の作業員たちに命じた。万が一、このクレーンが倒れるようなことがあれば、高炉の建設は大きく手戻りしてしまう。鉄平は、作業員たちがトラ(ワイヤーの突っ張り)を補強するのを見確かめてから、他《ほか》の設備を見廻りに行きかけると、資材倉庫の方から、凄《すさま》じい勢いでトラックが突っ走って来る。

「何かありましたな」

 一之瀬が緊張した声で云い、懐中電燈を振って、トラックを止めた。

「どうしたんだ?」

「高炉の給排水口が……」

 激しい風雨で声が切れ、聞きとれない。

「給排水口が、破れたのか!」

「そうです、今、製鋼部の作業員が総出で決壊を防いでます!」

「よし! すぐ、われわれも行く」

 鉄平はそう云うと、トラックの後を追った。

 岸壁のところにある給排水口の工事現場へ着くと、二台のトラックのヘッド.ライトで、決壊しかかっている給排水口を照らし、三十数人の作業員が、ずぶ濡《ぬ》れで土嚢《どのう》を積んでいる。眼前の海は白い牙《きば》のような波濤が逆巻き、襲いかかるような波柱が岸壁にぶっつかって来る。その度に土嚢がずるずると押し流されそうになり、土嚢を運ぶ者、積む者、灯《あか》りを照らす者の怒号が飛び交《か》っている。

「おーい! 頑張ってくれ、土嚢はどんどん運んでくるからな!」

 鉄平が大声で叫ぶと、

「専務ですか、もう一台分、頼みます!」

 土嚢の上にたって、機敏に動いている一之瀬四々彦が、怒鳴り返した。

「解った、しかし危ないぞ! 足を滑らせるな!」

 鉄平がうしろの方で注意した。一步、足を滑らせれば、眼下の荒れ狂う高波に呑《の》まれてしまう。

 トラックがまた一台、土嚢を積んで到着した。間髪入れず、積み下ろし、運び、懐中電燈が光り、土嚢と人間と灯りが一体となって動いている。波浪はさらに高まり、水位が岸壁ぎりぎりまで膨《ふく》れ上り、給排水口の法肩《のりかた》(穴を掘った角)がまた崩れそうになった。

「おおい、法肩から少し離したところに集中的に積め!」

 四々彦は命じるとともに、自らも土嚢を移しかえているが、時々、足を滑らせそうになる。その度に父親である一之瀬工場長は、はっと息を止めるように体を硬《こわ》ばらせるのが、鉄平に感じ取られた。工場長として自分の息子に危ないから止めろとは云えず、さりとて馴《な》れぬ岸壁の土嚢積みの作業は危険極まることであった。

「もっと積むんだ、こっちへ渡せ!」

 と云い、四々彦が体の位置を変えた時、ぐらりと体が揺れ、片足を土嚢から滑らせかけた。危ない! と鉄平が叫んだ時、いつの間にそこへ行っていたのか、父親の一之瀬工場長が、四々彦の足を持ち、転落を防いだ。一瞬のことであったが、四々彦のヘルメットが海に落ちただけで、ことなきを得た。再び土嚢の上にたつと、父親の一之瀬工場長は、

「ぼやぼやするな、だらしがないぞ!」

 一言そう云い、自分のヘルメットを四々彦に手渡した。鉄平の胸に熱いものがこみ上げた。それは温かい血の通った父子《おやこ》の姿であった。万俵家ではその片鱗《へんりん》をも見出《みいだ》せないものであった。

「どうもご心配を、馴れないくせに強気な奴《やつ》で――」

 一之瀬工場長は、鉄平に心配をかけたことを詫《わ》び、ジープに乗って対策本部へ帰った。

 満潮時の午前零時十五分頃になると、風雨はますます激しくなり、海鳴りの音が高まり、やがて停電した。自家発電に切り替え、灯りを点《つ》け、高潮の浸水を防ぐために工場内の排水ポンプを稼動させると、さらに電話線がきれ、各工場との連絡が跡絶《とだ》えてしまったが、もはや、自然の猛威の前では、颱風一過を待つより仕方なかった。不意にズドーンと地面を轟《とどろ》かす不気味な大音響が遠くの方でした。保安課員が、扉《とびら》の桟《さん》をはずして出かかると、

「危ない! 出てはいかん!」

 鉄平は語気鋭く制した。大音響は、クレーンが倒れたか、クレーンの腕《ブーム》が落ちたのか、どちらかであったが、トタン屋根やスレートが飛び交う真っただ中へ出ることは出来なかった。

 やがて風が凪《な》ぎはじめると、気象に通じている保安課長が、空を見上げ、

「風が南風から、西風に変りました、颱風《たいふう》が抜けそうです」

 と云うと、張り詰めていた対策本部の空気がほっと和らぎ、鉄平は直ちに各部署の被害状況を報告するように命じた。

「電気炉工場、電気室その他、被害ありません」

「圧延工場、窓ガラスのみ破損、モーター、機械類の被害なし」

 次々に入る報告は、些少《さしよう》な被害であったが、鉄平が気にしているのはクレーンのことであった。金田製鋼部長が慌《あわただ》しく入って来た。

「専務、さっきの大音響はやはり、クレーンのデレッキ.ブームのワイヤーが切れて、逆さ吊りになり、尖端《せんたん》がすぐ横の鋳床《ちゆうしよう》工場の建屋《たてや》にめり込んでしまっています」

 鉄平はクレーンの本体でないことにほっとしたが、各工場の被害状況の報告が一応、終ると、独りでジープを運転し、高炉建設現場へ走らせた。

 作業員たちが引き揚げたあとで、人影がなかった。鉄平はジープから飛び降りると、クレーンを仰いだ。高さ六十メートルのクレーンは、だらりと鉄の腕《ブーム》が折れ、その尖端を組みたてたばかりの建屋にめり込ませている。そしてそのあたりの鉄骨の建屋は、その時の衝撃でぐにゃりと歪《ゆが》んでいた。しかし、すぐ横にある高炉は何の被害もなく、日の出前の静かな空に向って巨大な口をあけている。鉄平は高炉の傍《そば》へ寄り、体中から噴き上げて来る喜びを噛《か》みしめながら、空を仰いだ。東の空がしらじらと明るみ、颱風一過の柔らかな朝の陽が射《さ》しはじめ、上層雲が流れている。岸壁の向うに拡がる海も、数時間前の凄じい波濤が嘘のように静まっていた。

 鉄平は、分厚いカーテンをひいた専務室の長椅子で毛布にくるまり、ぐっすり眠り込んでいた。夜を徹して工場を守りぬいた後、被害を蒙《こうむ》った高炉建設現場の復旧を指示し、操業を停止していた電気炉、圧延工場をはじめとする各工場に慎重な操業テストをさせた上、ようやく八時操業のサイレンが、高々と工場に鳴り渡るのを聞いてから、ワイシャツ姿のまま眠ったのだった。

 深い寝息をたてていた鉄平は、大きく寝返りをうち、片足が長椅子からずり落ちそうになって、眼を醒《さ》まし、反射的に時計を見た。十一時二十分であった。

「一時間したら、起すように云ったのに――」

 鉄平は毛布を撥《は》ねのけて起き上ったが、足の関節の痛さに眉《まゆ》を顰《しか》めた。足だけではなく、体の節々の至るところが痛い。長椅子からたち上って、カーテンを開いた。秋陽が一杯に射し込み、颱風一過の清澄《せいちよう》な日和だったが、電気炉工場の横に積んである原料のスクラップの山から、鉄骨や鉄板が、思わぬ場所まで吹き飛んでおり、猛威をふるった颱風の凄じさを物語っている。鉄平は、一晚のうちにのびた濃い顎鬚《あごひげ》を撫《な》でながら、高炉建設現場のクレーンの折れた腕《ブーム》の修理方が気になった。今朝早く、駈《か》けつけて来た高炉メーカーの五菱重工の工事責任者は、どんなに早く見積っても、三、四日はかかると云ったが、その間、高炉建設がストップすることを思うと、そんな悠長な工事責任者を相手にもしておれず、一之瀬工場長を直接、五菱重工大阪支社の首脳部へ交渉に行かせているのだった。

 鉄平が、作業衣を手にしかけると、叔父の石川正治社長が入って来た。

「いやあ、昨夜《ゆうべ》は帰国早々というのに、徹夜で颱風の防備作業に当ってくれて、すまなかったねぇ、大したことがなくて何よりだった――」

 鶴《つる》のような痩身《そうしん》で、鉄平の前にたち、阿《おもね》るように云った。昨夕、六時に第一種災害指令を出した時、鉄平のすすめを待ちうけていたように、蒼惶《そうこう》と帰ってしまったのが、気になっているらしかった。

「叔父さんの家は、大丈夫でしたか?」

「ところが君も知っている、それ、門の脇《わき》の樹齢百年に近い松の木の枝が、つけ根から大きく折れてしまってねぇ、惜しいことをしたよ」

 残念そうに云った。阪神特殊鋼のおかざり餅《もち》的な社長のポストに安んじている石川正治にとっては、クレーンの腕《ブーム》が折れたことより、自分の邸《やしき》の植木が損われたことの方が、切実に感じられるらしい。鉄平は、馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなり、

「今から、高炉建設現場へ行かなくちゃなりませんから――」

 話を打ち切りかけると、

「私も今からロータリー.クラブの会合があるので、出かけるんだが、君が疲れてやせんかと、心配だったものでね、では、アメリカ出張の報告は、午後の役員会で、楽しみに聞かせて貰《もら》うよ」

 石川正治は、再び阿るような口調で云い、部屋を出て行った。

 作業衣を着、専務室を出かかると、出合い頭《がしら》に経理担当の銭高《ぜにたか》常務と、大同銀行の橋爪《はしづめ》神戸支店長に出会った。細い小作りの顔に口髭《くちひげ》をたくわえた銭高常務は、

「専務、大同銀行の神戸支店長が、颱風見舞にお越しですから、少々、お時間を――」

 現場へ飛び出して行く鉄平を足止めするように云った。橋爪支店長もすかさず、

「どうもご多忙の中を御見舞に上り、かえってご迷惑をおかけ致しますが――」

 低いもの腰で云った。そう云われると、高炉建設の資金調達では、メインの阪神銀行より世話になっているだけに、たち話というわけにもいかなかった。

「徹夜で颱風と闘われましたそうで――、これはほんの心ばかりの御見舞のしるしでございます」

 橋爪支店長はそう挨拶《あいさつ》し、清酒三本を差し出した。

「これはどうも――、わざわざ支店長にお運び戴《いただ》いて、恐縮です」

「とんでもございません、お取引戴いているお得意様に、こういう時こそ、お役に立つようなことがございましたら、何なりとお申しつけ下さいましという意味で伺いましたので、これが当行の昔からのモットーでございます――」

 橋爪支店長は、大同銀行がまだ日掛の貯蓄銀行時代に入行した生え抜きらしく、揉手《もみで》をせんばかりに云い、

「で、被害の方は、如何《いかが》でございましたんですか?」

「お陰さまで、既存の工場の方は、十一時間操業を停止したのみで、被害というほどのものはありませんでしたが、高炉建設現場の方で、クレーンの腕が折れて鋳床《ちゆうしよう》の建屋《たてや》の屋根へ突っ込んでしまいましてね、しかし、それも五菱重工の方へ、早急に修理して貰うよう、交渉に行かせていますから、さして手戻りもなく、被害は最小限度に食い止められる見込みですよ」

「そうですか、そりゃあようございました、それでお見舞に上って、ついでにと申しますと、まことに不躾《ぶしつけ》でございますが、先日来、担当の者から経理部の方へご依頼しております例の件、どうも捗々《はかばか》しいお返事を戴けませんが、もう一度、ご再考戴くわけには参りませんでしょうか?」

「例の件と、おっしゃいますと――」

 鉄平が、見当がつきかねるように聞き返すと、それまで黙って横に控えていた銭高常務が、

「専務は渡米前のご多忙の折でしたので、詳しくご報告致しませんでしたが、当社の大口得意先である日本自動車の入金振込銀行を、これまでの阪神銀行本店から、大同銀行神戸支店へ指定替えしてほしいというお申越しが、半月ほど前からございましてね」

 と云った。そう云われてみれば、鉄平も渡米前、銭高常務から簡単な説明があったことを思い出した。日本自動車は、東京に本社をもつ大手自動車メーカーで、阪神特殊鋼とは月商一億五千万前後の取引があり、その支払いの大半は、阪神銀行本店の阪神特殊鋼の口座に振り込まれていた。それを、橋爪支店長は自分のところの口座へ指定替えしてほしいというのであった。

「当行と日本自動車とのおつき合いは、互いに本店が東京にある関係上、かなり古うございますが、当行の阪神特殊鋼さんへの融資順位が、阪神銀行さんより低かったものですから、おたくに対する日本自動車の振込が大半、阪神銀行さんの口座へ振り込まれても、指をくわえて見ておりました、しかし、高炉建設を機に、当行は阪神銀行さんが従来の融資比率でお貸しにならない分までお引き受けし、大いに肩入れさせて戴こうと意気込んでおります矢先ですので、何とか私どもの申し出もお聞き入れ願えたらと、こう存ずる次第なのです」

 高炉建設に対して、メインの阪神銀行が従来の融資比率を一〇パーセント削減し、その分を鉄平が三雲頭取のところへ泣き込んで借り入れた経緯《いきさつ》を強調するように云った。鉄平は、それは恩義に感じていたから、即座に橋爪支店長の申し出を容《い》れようとすると、銭高常務が、

「おっしゃることは、重々、ごもっともで、高炉建設に対するご支援のほどは、感謝しておりますよ、しかし、現時点では何といっても阪神銀行の融資ウェイトは、他行さんと比較して断然強く、メイン.バンクであることに変りありません、しかも本来、こうした振込指定というのは、メインのメリット料になっているのが、金融界の常識でありまして、それをこちらが急に掌《てのひら》を返すようなことが出来ないのは、支店長さんに、よくお解《わか》り戴けると存じますが――」

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