元阪神銀行本店の融資部長で、三年前、万俵大介の意を受けて、阪神特殊鋼の経理担当役員として送り込まれて来た銭高は、慇懃《いんぎん》に云いながらも、支店長を下目《しため》にみるような眼付きで、首を横に振った。支店長は、それでも嫌な顔はせず、
「それはさようでございますとも、しかし、先程来、お話ししておりますように、私どもの方では、万俵専務のご熱意に動かされて、メイン.バンクである阪神銀行さんという存在があるにもかかわらず、それを上廻るお力添えをするお約束を致したわけですので、せめてこれぐらいのことをご諒承《りようしよう》戴かないと、当方の気持も挫《くじ》けてしまいます、ここでおたく様の誠意をみせて下されば、直接の窓口である私ども神戸支店と致しましても、より一層、仕事がやりやすくなることは云うまでもありませんが、それ以上に頭取の三雲が、どんなに喜ぶかしれません」
満面に笑いをうかべて云ったが、三雲頭取の名前を持ち出して来たところに、早くもメイン.バンク面《づら》をして、何が何でもこの要求を呑《の》ませようという意図が読み取れた。承諾すれば、頭取は喜ぶということは、逆に拒めば怒るということであり、頭取が怒るということは、今後の融資にどう響くか、解らないという脅しの意味が籠《こ》められていた。しかし、銭高は元銀行員の勘で、この要求が支店長の点数稼《かせ》ぎであることを見抜いていたから、
「三雲頭取が、このくらいのことでお喜びになるのでしたら、そりゃあ、当社としても、ご協力出来るものならしたいと思いますよ、しかし、当社の従来からのメイン.バンクである阪神銀行側の意向は、日本自動車さんの振込銀行指定替えだけは、これからの営業方針上、どうしてもOKするわけにはいかないという回答ですので、ほかのことで当社がお役にたつようなことがありましたら、そちらの方を考えさせて下さいませんか、何しろ阪神銀行はご承知のように、万俵専務の父上が頭取である銀行だけに、われわれの苦しい立場をご理解戴きたいわけで――」
あくまで慇懃に突っ撥ねると、鉄平の太い声が遮《さえぎ》った。
「いや、この際、阪神銀行に譲步して貰うべく、私からことを分けて話してみよう、もし仮に諒承が得られない場合でも、この振込銀行指定替えは、当社の意向一つで決定し得ることだから、大同銀行さんのご意向に添うべく致しますよ」
「しかし、専務、それは――」
銭高が慌《あわ》てて押し止《とど》めかけると、
「高炉建設の融資に際して、一方《ひとかた》ならぬご配慮を得ている三雲頭取のご厚誼《こうぎ》に報いる意味でも、私が責任をもって決裁する」
鉄平は、真摯《しんし》な表情で云った。銭高はねっちりと黙り込んだが、橋爪支店長は、ここぞとばかり、
「有難うございます! 只今《ただいま》の万俵専務のお言葉は、早速、本店へお伝えし、三雲頭取に申し上げます」
言質《げんち》を取るように云い、今度は鉄平の作業衣をしげしげと見詰め、
「専務はこれから、現場へお出ましでございますか?」
「ええ、さっきお話ししたクレーンの腕の替えが、そろそろ、来るはずですから」
「もしお邪魔でございませんでしたら、私も現場を拝見させて戴きたいものです、何しろ銀行員というのは、朝から晚まで金の心配ばかりしていなくてはならぬ因果な商売ですので、久々に活気溢《あふ》れる高炉建設現場を拝見して、浩然《こうぜん》の気を養いたいものです」
本心は、昨夜の颱風の被害額がほんとうに些少《さしよう》なものか、また高炉建設にとりかかって四カ月目であるが、予定通りに工事が進んでいるかどうかを、秘《ひそ》かにチェックするためであった。しかし、鉄平にはそんな言葉の裏まで思いが至らなかった。
「どうぞ、じゃあ早速、行きますか」
椅子からたち上ると、橋爪支店長は鉄平に随《つ》いて部屋を出たが、銭高は、苦りきった顔で、そのまま残った。東京での勢力拡大の一環として、日本自動車に食込みを強化したがっている万俵頭取が、このことを聞き及べば、鉄平との間にまた一波乱は免れないだろうという思いもさることながら、こと経理に関して、これまで以上の危惧《きぐ》の念を鉄平に対して抱いたからであった。
湯気がもうもうとたち籠める広い浴室で、鉄平は、二人の子供を一緒に風呂《ふろ》に入れ、上機嫌であった。
「パパ、痛いや、そんなにごしごしこすって!」
小学校二年の太郎が、アメリカ出張から帰ってきた父と久しぶりに入浴出来た嬉《うれ》しさもあって、甘えるように大きな声を上げた。
「情けない奴《やつ》だな、このくらいのことで痛いなんていうのは男じゃないぞ、次は背中だ、さあ、あっちを向いて」
小さな腕を洗い終ると、鉄平は、さらに石鹸《せつけん》を泡だて、息子の背中をこすりはじめた。
「あっ、パパ、あたしのワンちゃん、おぼれそう、助けてあげて」
傍《かたわ》らから、今度は幼稚園児の京子が浴槽《ゆぶね》に滑り落ちたビニール製の犬を指した。
「よし、よし、ボートを出して助けてやるぞ」
風呂桶《おけ》で、玩具《おもちや》の犬をすくい上げてやった。
「サンキュー.ベル.マッチ」
京子は、可愛《かわい》い両手で犬を抱き上げ、聞きかじりの英語で云った。
「ばかだなあ、それは“サンキュー.ベリィ.マッチ”と、こう云うんだよ、どう、パパ、ぼくの発音、いい線いってるでしょう」
この夏から小学生の英会話を習いはじめた太郎が、得意然と発音してみせた。
「うん、いってる、いってる」
鉄平は、笑って頷《うなず》きながら、息子の背中へ湯をかけ、石鹸を流していると、浴室の扉《とびら》が開き、
「まあ、みんな、いつまで入っているの、ゆでだこ[#「ゆでだこ」に傍点]になってしまいますよ」
妻の早苗が、呆《あき》れたように顔を覗《のぞ》かせた。
「もう、二人とも終ったよ、さあ、拭《ふ》いておやり」
鉄平は、小犬を抱くように軽々と二人の子供を両脇に抱き、早苗の方へ押しやると、早苗は、バス.タオルできゃっきゃっとはしゃぐ二人の子供の体を拭いてやり、若いお手伝いに託した。鉄平もすぐそのあとから上り、早苗からバス.タオルを受け取って、逞《たくま》しい体躯《たいく》を拭いた。
「ほっほっほっ、今日、帰ってらしたあなたの姿を思い出すと、おかしいわ、あっちこっちに煤《すす》や油をくっつけて、まるで穴熊《あなぐま》みたい、でも、アメリカから帰っていらした早々、颱風《たいふう》退治なんてあなたらしいわ」
「仕方ないさ、工場の一大事だからね」
「解っていますわ、でも、子供たちにあまりサービスし過ぎて、お疲れになりませんこと?」
「それどころか、疲れが吹っ飛んだよ、子供たちと一緒に風呂に入るのが、好きなんだ、お前も入ればよかったのに」
「親子水入らずということが少ないものだから、お風呂で罪滅ぼししようというおつもり? でも、あなたのそんなところ、お亡《な》くなりになったお祖父《じい》さまに似ていらっしゃるようね、あなたのお祖父さまは、あの日本館の大きなお湯殿に、まだ幼《ちい》さかったあなた方を呼び寄せて、賑《にぎ》やかにお入りになるのがお好きだったそうね」
「うん――」
鉄平は、急に押し黙った。祖父との賑やかな入浴を想起する時、必ず、あの忌《いま》わしい光景――、一子や銀平たちより先に自分だけ入浴して、西洋館の方へ戻って来たある日、細く開いていた父の書斎の扉の隙間《すきま》から、父と高須相子の情事を垣間《かいま》見てしまったことを思い出すからであった。
「あなた、どうなさったの、やはりお疲れになっているのね、二子さんがさっきから居間で、あなたが買ってらしたティファニーのブローチを待っていらっしゃるけれど、今晚は、もうお寝《やす》みになった方がいいのじゃないかしら」
夫の体をいたわるように云った。
「いや、昨日、それを楽しみに空港まで来たのだから渡しておくよ」
と云い、鉄平は浴室を出、着替えの下着をつけ、寛《くつろ》いだ大島の着物を羽織った。蝉羽《せみのは》のような軽い絹の感触がし、ふとその大島の着物が祖父の愛用のものであったことに気付いた。
横段二百詰亀甲《きつこう》の泥大島で、今は、手に入れようにも入れられない逸品であった。祖父が亡くなった時の形見分けに貰ったもので、祖父は、父にではなく、特に鉄平にと云い遺したのだった。その着物を、徹夜で工場を守りぬいて帰宅したその日、身につけることに、祖父と自分との間にある強い絆《きずな》のようなものを感じた。
着物の上に、対《つい》の羽織を重ね、居間へ出ると、二子が待ちかねたように迎えた。
「お兄さま、灘浜の工場の方は大へんだったんですってね、さっき、お父さまたちとお食事しながら、ちょっと伺ったんだけど――」
「うん、高炉用の給排水口の法肩《のりかた》が、もう少しで高潮にやられそうになったのを、一之瀬四々彦君をはじめ、製鋼工場の作業員たちがいち早く見付けて駈《か》けつけ、暴風雨の中、土嚢《どのう》積みをやって、やっと決壊を防いだんだよ」
一之瀬四々彦の名前が出ると、二子の顔が俄《にわ》かに生き生きと息づいた。
「一之瀬というのは、やはり親子二代の鉄鋼マンだな、いざという時は、岸壁の土嚢の上にたって作業員を指揮するし、自らも土嚢積みをし、四々彦君はもう少しで足を滑らせ、波にさらわれるところだった――」
「まあ、それでお怪我《けが》は?」
「一之瀬工場長が足を支え、事なきを得たよ、さて、お前のブローチだが――」
鉄平はスーツ.ケースの中をかき廻し、小さな包みを取り出した。
「文句を云うなよ、お前からことづかったカタログをティファニーの女店員に見せて、それと一番似たのを買って来たのだからな」
鉄平が釘《くぎ》をさすように云うと、二子はホワイト.ゴールドの幾何学的なデザインの中にルビーを填《う》め込んだブローチを掌《てのひら》にのせ、
「お兄さま、有難う、希望通りのものよ」
声を弾ませた時、電話のベルが鳴り、早苗が受話器を取った。
「ええ、いらっしゃいますわ……、それで、ご用件は?」
妙に素っ気ない応答をし、
「二子さん、お電話よ、あの人から――」
と云った。あの人というのは、相子のことであった。二子が受話器を受け取ると、相子の硬い声が聞えて来た。
「今夜は食後に、お父さまとご縁談のお話をすることになっていますのに、どうしてさっさと、そちらへ行ってしまわれたのです?」
詰問《きつもん》するように云った。
「だって、私は、縁談のお話などより、鉄平兄さまに買って来て戴《いただ》いたティファニーのブローチの方に夢中なの、だからもう暫《しばら》く、こちらにお邪魔していますわ」
「何をおっしゃるの、すぐお帰りなさい」
と云い、がちゃりと電話を切った。二子は肩をすくめ、
「あの人ったら、この間からまた縁談を持ち込んで来ているの、それで鉄平兄さまがアメリカからお帰りになってご相談すると云ったら、万俵家の縁談を最終的に決めるのは、お父さまとお母さまと私の三人です、鉄平さんにご相談になっても無駄ですよと、ぴしゃりと云うのよ、それでも私がここへ来ているものだから、電話をかけて来たのよ」
と云うと、早苗は、きっと気色《けしき》ばんだ。
「まあ、何てものの云い方をするのでしょう、以前に芦屋病院の院長夫人が、二子さんのご縁談を持って私を訪ねて下さった時も、あの人ったら、いろいろお縁談《はなし》がございますので、その方面のことは、私が一切を取り仕切っておりますと云って、私をさしおき、全く僭越《せんえつ》だわ、あなたが、この間、銀平さんの披露宴の時に、あの人に、遠慮してほしいとおっしゃったのは、もっともですわ」
「そうよ、家内《いえうち》の差配のことならともかく、私たちの将来を左右する縁談のことまであの人に口をさし挟《はさ》まれるのは我慢できないわ、鉄平兄さまたちの時のことはよく知らないけれど、銀平兄さまの結婚の時のあの人の干渉の仕方を見ていると、ぞっとするわ、私は絶対、あの人の思うままにはならないわ、自分の結婚相手は、自分で決めるつもりよ」
二子は、頭から相子に反撥《はんぱつ》するように云ったが、鉄平はこだわらず、
「今、来ている縁談というのは、どんな相手だい?」
「大正電工の林社長のご長男で、日銀へ勤めていらして、お兄さまと同じ東京大学出身よ」
「それじゃあ、いわゆる家柄、社会的地位、本人の履歴とも、まず揃《そろ》っているところじゃないか」
「まあ、いや、鉄平兄さまが、そんなことをおっしゃるなんて――、お兄さまなら、万俵家で一人ぐらい反逆児が出てもいいっておっしゃるかと思ってたわ」
「しかし、無理な反逆などしない方がいいよ、結婚というのは、或《あ》る程度、双方の家庭環境というものが必要だからな」
妹の気持は解《わか》るが、実生活で苦労知らずの妹に冒険させたくないという気持が籠められていた。
「でも私は、どこそこの御曹子でございますなんていうのに、全然、魅力を感じないわ、お兄さまのように男らしい仕事に打ち込んでいる人、たとえば、鉄に生きるような人に魅力を感じるわ」
一般的な云い方をしたが、その言葉の中に一之瀬四々彦に惹《ひ》かれているらしい二子の気持を、鉄平は感じ取った。
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六 章
馬場先濠《ぼり》に面した阪神銀行東京支店は、国内、国外の大銀行がずらりと建ち並ぶ丸の内の金融街にある。
その五階の東京事務所の総務課で芥川事務所長は、四人の総務課員が、毎朝、行なっているミーティングに顔を出していた。総務課は、東京に本店を持たない銀行の“東京探題”として、政界.官界工作を受け持ち、その面の情報収集を行なっている部署で、俗に“忍者部隊”と呼ばれ、行内の中枢部《ちゆうすうぶ》と直結している。それだけに総務課に配属されるメンバーは、頭脳回転のよさ、行動力の早さ、人間の幅の広さという“銀行忍者の三条件”を兼ね備えたエリート中のエリートである。政界を主《おも》に担当する四十三歳の黒井課長以下、大蔵担当の伊佐早《いさはや》五郎、日銀担当の冠収《かんむりおさむ》、同業の金融機関とマスコミ担当の平松雲太郎の三人は、三十七、八歳の若さであった。
朝のミーティングは、前日、各自が入手してきた情報を交換し、その信憑《しんぴよう》性を測り、確認するための会合で、その分析結果が、次の情報活動を適確なものにする。
「元次官の堂野滋《しげる》氏の件だが、来年五月に任期ぎれになる日銀副総裁のポストを狙《ねら》って動きはじめたというのは、確かな情報なのかね、もしそうなら、これは当行にとって、由々しき問題だからね」
芥川は、忍者部隊を直接、統轄《とうかつ》する東京事務所長らしく、さっきから話題になっている日銀副総裁の候補者の中に、元大蔵事務次官の堂野滋の名前が出ると、縁なし眼鏡をきらりと光らせた。半年も先の日銀副総裁の後任に今から関心を払い、下馬評にのぼりはじめた候補を鵜《う》の目、鷹《たか》の目で追い、一喜一憂するのは、市中銀行が、預金だけでは資金が足らず、不足分を日銀から借り入れているからだった。
「私のみるところ、まず間違いありません、二年前、堂野さんが大蔵次官で退官する際、曾《かつ》て、故池山総理のブレーンとして、高度成長論を演出し、あれだけ大蔵省で辣腕《らつわん》を振るった大物官僚であるにもかかわらず、次の行き先をきめずに浪人生活を宣言したのは、当時の金融界の七不思議でしたでしょう? しかし、彼がその宣言通り、選挙に打って出ることもせず、さりとてひく手あまたの企業へ天下るでもなく、ゴルフと読書三昧《ざんまい》の優雅な浪人生活を貫き通したのは、今にして思えば、三年後に空《あ》く日銀副総裁のポストを、その時から狙っていたんですね」
政界通の黒井課長が云《い》うと、芥川は、
「さすがは大蔵省の怪物、現代のラスプーチンといわれた堂野らしい野心の燃やし方だが、政界筋はそれをどう見ているのかね?」
「佐橋総理―永田大蔵大臣のラインが、強化されていますから、永田大臣としては、これを食い止める根廻しをするでしょうが、前大蔵大臣の田淵《たぶち》幹事長が、永田へのまき返し策として、堂野をバック.アップすることも考えられ、複雑ですね」
「そうか、じゃあ、大蔵省《モフ》の意向はどうなんだ?」
大蔵省を指す隠語を使って、今度は大蔵担当の伊佐早五郎に聞いた。伊佐早は長身の引き締まった体躯《たいく》を前へ出し、
「春田銀行局長をはじめとする永田派は、早くも拒絶反応をあからさまにしていますが、問題は佐橋総理派の重藤《しげとう》次官がどう動くかですね、聞くところによると、堂野さんは、重藤次官を仲介にたて、永田大臣に和を通じるべく、工作しているという情報も入っているのです」
てきぱきとした口調で応えると、日銀担当の冠収が、伊佐早五郎とは対照的な静かな口調で、
「しかし、日銀側とすると、営業担当の笹原理事を副総裁にしたい雰囲気《ふんいき》が、局長以下の中堅幹部に強いですね、だが、日銀マンというのは大蔵省《モフ》と反対に、自分の意見は口にせぬ習性を身につけていますから、外部から強力な輸入人事を押しつけられれば、それを押してまでとは行かないでしょう」
「じゃあ、この問題は、二週間の期限でさらに各自の立場から集められるだけの情報を集め、報告してくれ給《たま》え、特に堂野の動きは、ゴルフの相手から、夜の会合の相手に至るまで細大洩《も》らさず、追跡調査してほしい、堂野に日銀副総裁、総裁の道を步まれたりしたら、当行は終生、いじめぬかれることになる」
阪神銀行が永田大臣と親密な間柄であるだけに、芥川は語調を強めて云った。
「次に、三日前、富国銀行新宿支店で当行との預金の相互受払いの業務関係で起った三百万円誤払い事件を、昨日の『銀行日報』ですっぱ抜かれた件だが、とりあえず私も、富国銀行の竹中常務と同道で、春田局長のところへ詫《わ》びに行ったが、一体、どうして業界紙に洩れたのか、その後、経緯が掴《つか》めたかね?」
同業者間とマスコミ情報を担当する平松に聞くと、平松雲太郎は、むしろ蜘蛛《くも》太郎と呼んだ方が似つかわしい黒い顔付で、
「あれは、五菱銀行に密告《ささ》れた可能性大ですね」
「それは『銀行日報』で確かめた情報かね?」
「はい、昨夜、富国銀行の担当者と、編集長を、築地《つきじ》の料理屋へ連れ込み、手を変え、品を変えて問い詰めましたところ、五菱銀行の新宿支店長がたれ込んだことを認めました、あの新宿支店長は、総務課長出身ですから、それぐらいのことは、朝飯前でしょう」
同業者間の競争が、密告という陰に籠《こも》った卑劣な形で行われるのが、銀行界の特色であった。
「で、これ以上、活字にならないためのマスコミ対策は、万端遺漏ないだろうね」
「はあ、そこは富国銀行もさるもの、取材に動き始めた二、三の新聞、週刊誌には融資面へのプレッシャーをかけ、ことなきを得たそうです」
「そうか、じゃあ、この件はこれで打止めだな」
こうした類《たぐ》いの工作も、忍者部隊の日常茶飯事のことであった。
朝のミーティングが終ると、黒井課長をはじめ、大蔵担当の伊佐早五郎、日銀担当の冠収、同業者.マスコミ担当の平松雲太郎は申し合せたように、一斉に電話器にとびついた。昼食を共にする相手を探すための電話で、各自が目的とする情報をとるための相手探しであった。忍者たちは、こうして朝のミーティングが終ると、約束をとりつけた相手と“昼飯に散り”、夜は夜で、目指す相手に“晚駈《ばんが》け”で、銀行中枢の命じる情報収集を行なうのだった。
芥川は、受話器にかじりつき、相手探しをしている四人の忍者たちの動きを、じっと見た。銀行中枢部の密命を受けて動いている総務課員といえども、まだ万俵頭取の意図する銀行合併は、誰一人として報《しら》されていなかった。
廊下の突き当りの東京事務所長室に戻ると、芥川は考えごとをするためにゆっくり煙草《たばこ》を喫《す》った。
芥川が、万俵頭取から合併相手として第三銀行に狙いをつけ、第三銀行の業容を徹底的に洗うことを命じられたのは、一週間前であった。そして芥川がまず第一に調査を開始したのは、第三銀行と第三物産の現在の関係、及び将来の見通しであった。というのは、もし第三物産のメイン.バンクを、他行にとって替られれば、第三銀行は、砂山がじりじりと崩れるように、地盤沈下することは疑う余地がない。阪神銀行のような下位銀行が、もしつけ入る隙《すき》があるとすればそこだと、考えたからだった。芥川はそのために、日銀担当の冠収に命じて、日銀営業局でここ上半期の第三銀行の金繰り計画を調べさせていた。
同時に、第三銀行の頭取以下の経営首脳陣が、そういう経営上の深刻な問題に対して、今後、どう対処していくかを大蔵省銀行局で探り出すことであった。監督官庁として銀行局は、第三銀行のこうした事態を決して黙って見過していないからであった。
芥川はつと机の上の電話器を取ると、大蔵担当の伊佐早五郎を呼んだ。
「お呼びでございますか」
長身のダンディな容姿に、逞《たくま》しさと機敏さがそなわり、銀行忍者のサラブレッドのような男であった。
「君のこれからの予定は?」
「いつものように大蔵省の銀行課へ顔を出した後、理財局にいる重藤次官直系の親しい男と昼食をすることになっています」
それ以上、云わなかったが、堂野滋の動向を追うつもりらしい。
「そうか、じゃあ、銀行課へ行った時、最近の第三銀行の地盤沈下について、日下《くさか》部《べ》頭取以下、首脳陣は、どう対処する考えでいるのか、また銀行課としての意向はどうかを、聞き出してくれ給え」
ごく事務的な口調で云ったが、伊佐早五郎はその指示の本当の目的を反射的に見極めるべく、芥川の顔を見返した。もし、言葉通りの一般的な第三銀行に対する経営分析であれば、さっきのミーティングの席上で、命じられるはずであった。それをわざわざ、事務所長室へ呼んで申し渡されるには、それなりの理由があると考えた。しかし、何のためにという質問は、禁じられている。それは徳川時代のお庭番、忍者が、将軍の命に対して、聞き返すことは許されず、聞き返せばお手打という仕儀に似ていた。云われたことの真の目的を報されなくとも、それを察しなければ、忍者の資格はなかった。
「で、この件はいつまでにご報告すればよろしいのですか?」
「少し、慎重に時間をかけてもいい」
「解《わか》りました、では――」
伊佐早は一礼し、足早に出て行った。
伊佐早五郎は、大蔵省の正面玄関を入ると、すぐ四階の銀行局へ向った。薄暗い廊下を曲った東棟が銀行局で、手前から銀行局長室、財務審議官室、総務課、銀行課、中小金融課、検査部と部屋が並び、銀行課は検査部の向いにあった。用があってもなくても、一日に一回は、ご用聞きよろしく顔を出すところであったから、大蔵省を担当して二年になる伊佐早五郎にとって、眼をつむっていても行きつけるほど、行き馴《な》れた場所であった。
扉《ドア》を押すと、まず素早く一番奥の井床《いどこ》銀行課長の席へ眼を遣《や》った。この七月人事で佐橋総理の秘書官から銀行課長になった井床課長は、窓側に近いL字型のデスクに坐り、大友銀行の総務課長と、何かひそひそと話し合っており、少し離れた待合用の長椅子には、五和銀行の東京事務所長が部下を連れて待っていた。伊佐早五郎は、目的の小田課長補佐のデスクを見た。空席であったが、書類を拡げっ放しにしている様子からして、ちょっと席をたっているだけらしい。伊佐早は、入口のすぐ横にあるファイル.ボックスを開けている顔馴染《なじ》みの女子職員の傍《そば》へ寄った。
「忙しそうだね、資料探し?」
背後《うしろ》から声をかけると、
「あら、今日は少し遅いのね」
「銀行を出る時、やぼ用があってね、それより、これ、いつか君がほしいと云ってた手袋――」
和光で買ったスペイン製の手袋を女子職員のポケットへ滑り込ませた。
「覚えていて下さったの? 有難う」
女子職員は、他愛ないお喋《しやべ》りを伊佐早が覚えていてくれたことを感激するように云い、再び、ファイル.ボックスの資料を探す振りをしながら、
「小田課長補佐でしたら、今、総務課へいらしてますけど、すぐ戻られるわ、ほんとうはあなたの前に中京銀行が来ているのだけど、お先にお廻しするわ」
「そうして貰《もら》うと有難い、今日は叱《しか》られごとがあるので、あんまり他行《よそ》さんに見られたくなくてねぇ」
「ふっふっふっ、解ってますわ」
女子職員は心得顔に笑った。こうして女子職員を手なずけておくことも、忍者の心掛けの一つであった。小田課長補佐が総務課から戻って来ると、女子職員が素早く取り次いでくれた。しかし、昨日の誤払い事件の業界紙すっぱ抜きの件があったから、伊佐早は匍匐《ほふく》前進する心境で、デスクに步み寄り、
「どうも、昨日は、申しわけありませんでした」
くどくどと弁解がましく云わず、さっと頭を下げると、小田課長補佐は、伊佐早より東大で一期先輩の三十九歳の若さでありながら、鷲鼻《わしばな》のせいか、年より老《ふ》けたいかつい顔を案の定、にこりともさせず、
「今日はそのお詫びが用件? それなら昨日、竹中、芥川両氏お揃《そろ》いで、局長のところへ挨拶《あいさつ》されたんだから、もういいじゃないか、今日は僕は忙しいんだよ」
突《つ》っ慳貪《けんどん》に云った。もともと、預金の相互受払いについては、実際の事務方である小田課長補佐をはじめとする事務官たちは反対意見であった。それを富国銀行側の強引な政治力で、春田局長をうんと云わせ、上からの命令で認められた恰好《かつこう》となったのだ。そういうやり方に対する若手エリート官僚の反撥《はんぱつ》は、相当、後々までしこりを残すものであったから、直接、渉外にあたる伊佐早は辛《つら》い立場にあった。
「それはそうでしょうが――、春田局長には事情をよくご説明し、今後、二度と起らないようなダブル.チェック.システムを考える旨《むね》をお話ししたら、ご諒解《りようかい》戴け、今度の件は、大目にみて下さるということになったようです」
畏《かしこ》まった口調で云った。
「大目にねぇ、しかし、われわれ事務方は、そのダブル.チェック.システムとかいうものの具体的な説明を聞かせて貰わねば、そう簡単に見過すわけにはいかないね、来春、両行の店舗新設を審査する時、われわれとしては、もしかしてこの問題を考慮に入れるかもしれない」
小田課長補佐は、脅かすように云った。それは以後の両行の仕振《しぶり》如何《いかん》によっては、銀行の命綱である新設店舗の認可を、来年度は見送るぞという、いかにも監督官庁の役人らしい言葉であった。
「私どもの方でも、そう云われるのが一番辛いのです、双方の営業部の方で、直ちにダブル.チェック.システムの検討をはじめ、案が出来しだい、お伺いしたいと申していますので、その節はよろしくアドバイスして下さい、春田局長も、井床課長や小田課長補佐の意見をよく聞くよう、おっしゃっていたそうですから」
小田課長補佐の気持をほぐすように云うと、最後の台詞《せりふ》が効いたのか、不機嫌な顔がやや和らいだ。伊佐早はすかさず、
「ところで小田さん、第三銀行の経営トップが、最近の経営不振の責任をとって、退陣するという噂《うわさ》は、ほんとうなんですか?」
今までの恭順の意を表していた言葉つきとは、打って変った、からりとした口調で聞いた。芥川に指令された情報をとるための、これは伊佐早が勝手に捏造《ねつぞう》したかま[#「かま」に傍点]であった。
「知らないよ、そんなこと、今が聞きはじめだ」
小田課長補佐は、椅子の背に体をもたせかけたまま、素っ気なく受け流した。
「あ、そうですか」
伊佐早も、わざと言葉短かに云い、口を噤《つぐ》むと、逆に小田課長補佐の方が気になるのか、
「そんなこと、誰が云ってるのかね?」
と聞いた。伊佐早は、内心、しめたと思いながら、
「いや、第三銀行の某実力役員と親しい経済記者から、小耳にはさんだのですが、日下部頭取は、創設者大沢一門の御曹子ですから、第三物産との関係が多少、変化することがあっても、そう簡単に頭取退陣なんてことはあり得ませんでしょう? 責任追及があるとすれば、営業担当常務あたりじゃないですか」
「それはどうかな、責任をとって辞めるかもしれない常務が、平和銀行の常務と、日をずらしているとはいえ、一時間近くもべったり局長室に入るものかねぇ」
小田は、思わせぶりな口調で云った。たとえ常務といえども、局長との面会はせいぜい十分程度が普通であったから、一時間近くもの談合というのは、両行間に何か格別なことが持ち上っているはずだった。伊佐早は思わず、身を乗り出しそうになる衝動を抑え、
「忍者稼業《かぎよう》を長らくしていて、第三銀行と平和銀行さんとが、そんなにお近しい仲とは知りませんでしたよ、何かあるんですか」
わざとのんびりとした、呆《とぼ》け面《づら》で聞くと、
「さあ、また向うさんも、富国銀行と阪神銀行との預金の相互受払いの向うを張って、何かやるのかねぇ」
皮肉たっぷりな云い方をし、
「今日は、さっきも云った通り、僕は忙しいんだが、まだ何かあるのかね」
話を打ち切るように云った。
「いえ、どうも、お邪魔しました」
伊佐早は席をたちながら、この情報は、もっと突っ込んで取るべきだと思った。それにはすぐさま、芥川に一報を入れるとともに、両行の動きについて奥歯にものの挟まったような云い方をする小田課長補佐から、もっと情報を引き出すために、今夜、小田の家へ行こうと考えた。
襖越《ふすまご》しに長唄《ながうた》と三味線の音が聞えて来る待合の空《あき》座敷で、接待の酒席をぬけて来た阪神銀行の東京事務所長芥川と部下の伊佐早五郎は、声をひそめて話していた。芥川は酒気に顔を紅《あか》らめながらも、冴《さ》えた眼《まな》ざしで、伊佐早の話を注意深く聞いた。
「なに、第三銀行の日下部頭取と平和銀行の神田頭取が、先月、ローマで会っているって? 間違いないのかね」
「東都新聞の記者が第三物産の会長から直接、聞いたというのです、早速、両頭取の海外出張を調べましたら、日下部頭取は第三企業グループの役員とアメリカ廻りで九月二十日、羽田を出発していますし、神田頭取は北廻りで九月二十五日、ヨーロッパへ向けて発《た》っています、しかも両頭取とも夫人同伴という手のこみようでしてね、日銀総務部にも当ってみましたが、両行合併はかなり確率の高そうな感触でした」
「うむ――、それに加えて、両行の組合幹部の交渉が頻繁《ひんぱん》ということなら、ますます臭い、他行やマスコミは、この動きに気付いているのかね?」
「いえ、東都新聞のその記者も、まだ合併とまでは気付いていない様子です、それだけに私としては、何が何でも今晚中に、銀行課長補佐の小田を掴《つか》まえ、突っ込んだ話を聞き出します」
「彼が今、大蔵省の会合に出ていることは、確かなんだね?」
「はあ、明日の国会で永田大蔵大臣が答弁する金融制度調査会についての打ち合せですから、九時頃までかかる見込みです、私はこれから先廻りして、奴《やつこ》さんの家へ押しかけ、何時になろうと待ちますよ」
「そうしてくれ、じゃあ――」
芥川はそう云うと、手洗いの帰りのような振りをして廊下へ出、伊佐早は廊下伝いに勝手の方へ行き、目だたぬように勝手口から出かかると、
「車、来てますよ」
古顔の仲居頭《がしら》が囁《ささや》いた。
「有難う――」
伊佐早はにこりと笑い返し、裏口に停まっている車に乗り込み、西荻窪《にしおぎくぼ》の小田課長補佐宅の道順を運転手に云った。
西荻窪の小田課長補佐宅の十メートルほど手前まで来ると、伊佐早は車を降り、辺《あた》りの人影を窺《うかが》うようにして、門の傍《そば》へ寄り、ベルを押した。小田の妻が門の小窓を開け、伊佐早の姿を見て、門を開けた。
「どうも、夜分にすみません」
伊佐早は、引き締まった長身を屈《かが》めるようにして、素早く門の中へ入り込んだ。
「でも、主人はまだ帰ってませんわよ」
さっさと玄関へ入って行く伊佐早の姿を小田の妻は、あきれるように見た。
「解っております、あと三十分ほどしたらお帰りになるはずですから、すみませんが、待たせて下さい」
勝手知ったわが家の如《ごと》く入り込んだ。
「すみませんって、便利な言葉ね、伊佐早さんみたいにそう連発されると、何も云えなくなるじゃありませんか」
「いやあ、こんな夜分に、実際、ご迷惑だと思ってるんですよ、しかし、企業が命じることに、いやとは云えないのが、われわれサラリーマンでして、大学時代にもっと勉強して、先輩みたいに大蔵官僚になればよかったと後悔しているんですよ」
「もう、そんな泣き落しの術《て》は古いわよ、それよりお茶でも召し上れ」
小田の妻は、笑いながら紅茶を入れた。こうして目指す人物の家へ上り込み、奥さん相手に茶飲み話が出来るようにならなければ、一人前の忍者とはいえない。そのためには、おきまりの中元と歳暮以外に、その家族構成、年齢、生年月日まで記憶し、家族の誕生祝から、子供の進学祝はもちろん、冠婚葬祭、あらゆる機会あるごとに徹底的な“つけ届け”が必要であったが、伊佐早はそうした点にかけても、ぬけ目なかった。
ブザーが鳴り、小田が帰って来た。伊佐早はさっと玄関へ出迎えた。
「なんだい、用は役所ですませて貰いたいものだねぇ」
小田課長補佐は、本能的に保身するような用心深い眼で、伊佐早を見た。
「申しわけありません、お昼、伺った第三銀行と平和銀行のことで、どうしても今晚中に、小田さんのご意見を拝聴しておきたいニュースにぶつかりましてね」
「ほう、何だね、それは?」
小田は、いかつい顔を動かした。
「あれから記者クラブを廻りましたら、両行頭取が夫妻揃って観光旅行の形をとって、ローマで会っていた事実をキャッチし、おっしゃっていたことの裏がとれました」