中庭を隔てて見える茶室の方を眼で指した。柴垣《しばがき》の向うの茶室は、ひっそりとして人気《ひとけ》を感じさせなかったが、躙口《にじりぐち》に二つの庭下駄が、脱ぎ揃えられていた。
明り障子を通して射《さ》し込む秋陽《あきび》が、帚《は》き浄《きよ》められた畳の目一つ一つまで浮きたたせている。静かな湯の音がたぎり、万俵大介と安田太左衛門は、二人きりで向い合っていた。
炉の前に坐った安田太左衛門は、見事な袱紗捌《ふくささば》きで棗《なつめ》と茶杓《ちやしやく》を拭《ふ》き、おもむろに柄杓《ひしやく》を構えると、湯を釜《かま》から掬《すく》った。
安田は一言も発せず、万俵も正客の座に端坐したまま、黙って安田の点前《てまえ》を見守った。床の間の雪舟《せつしゆう》の枯山水《かれさんすい》の軸が茶室の静寂さをより幽玄なものにしている。
湯を注《そそ》ぎ、静かに茶筅《ちやせん》を動かし、茶をたてると、安田は、万俵の方へ茶碗《ちやわん》を押しやった。
「頂戴致します」
万俵はそう云うと、作法通り茶碗を両の掌《たなごころ》におしいただき、ゆっくりと呑み干した。そして茶碗を賞《め》でるようにその焼きや容《すがた》に眼を凝らした。青織部《おりべ》で、青緑色の地に白く菊花が染め抜かれている。
「見事な青織部ですね」
茶碗の糸尻《いとじり》をかえし、感服するように云った。
「お眼どめ戴いて恐縮です、もう一服、いかがですか?」
「有難うございます、充分に頂戴致しました」
「では、先程のお話ですが――」
青織部の茶碗に、湯を注ぎながら、安田の方から口を切ると、
「おめでたいお祝いの席で、先程は、不躾《ぶしつけ》なお尋ねを致しました」
万俵は、非礼を詫《わ》びるように云った。安田太左衛門の兄弟たちがまだ現われていない座敷で、万俵は還暦祝の赤いゴルフのチョッキを贈った後、直截《ちよくせつ》に「第三銀行と平和銀行の合併話が持ち上っているようですね?」と聞いたのだった。安田は一瞬、驚いたような顔をし、「あとで、茶室で一服さし上げながらお話ししましょう」と云い、宴席がたけなわになった頃、安田の目配せで、座敷をぬけ出したのだった。
「それにしても、どうしてこんなに早く万俵さんのお耳に入ったのです? 私としては、娘のお舅《とう》さんのあなたに、いつまでも知らん顔を押し通すつもりはありませんでしたが、もう少し時期が熟してからと思っていたのです」
「お立場は、よく承知しています、で、両行合併は大蔵省筋にも、話が行っているところをみると、相当、以前から進んでいたのでしょうね?」
大阪重工は、第三銀行の大口取引先であり、大株主でもあったから、社長の安田太左衛門は、第三銀行の社外相談役の筆頭人物として、この合併には相当、深くかんでいるはずであった。
「ところが、私が第三銀行の日下部頭取からはじめて打ち明けられたのは、一カ月ほど前で、その段階では行内でもまだ正式な役員会にかけられておりませんし、日下部頭取と平和銀行の神田頭取とのトップ同士の話合いがあった直後ですから、それほど以前から進められていたとは考えられませんよ」
「じゃあ、日下部頭取が合併を考えられた動機は、何だったんですか?」
安田は、青織部で自分も一服、呑むためにさっきと同じ点前を繰り返し、万俵も茶席での正しい姿勢を崩さなかったが、話の内容は閨閥を利用した企業のトップ.シークレットであった。
「直接の動機はやはり、兄弟会社である第三物産のメイン.バンクとしての地位を保てなくなった事態の深刻さでしょう、しかし、だからといって、日下部頭取は慌《あわ》てて合併を考えたというのでもないのですよ、ご承知のように、あの人は都市銀行の中で一番若い頭取だけあって、なかなかの理論家でしてね、前々から銀行の収益は、金融制度の自由化によって圧縮される方向にあるし、資本自由化によって、産業の編成が進み、銀行もいずれは再編成時代を経て、外国銀行と対決する日が来る、そうした銀行の将来図を考えると、都市銀行第七位の第三銀行は、財務内容、取引先の内容などからみて、競争力の点で不安があると洩《も》らしていました、それだけに今度の合併を決意したのも、じり貧を続けて、上位銀行の餌食《えじき》になって吸収合併されるより、まだ旧財閥系銀行としての威光が残っている今のうちに、頃合いのところと対等合併して、第三銀行の血液を残したいという、いわば防衛のための長期経営戦略に基づいてのことのようです」
安田は、自らたてたお茶をゆっくりと呑み干しながら云った。
「なるほど、自行の血液を残すための合併を考えるとは、さすが名門銀行ならではの発想ですね」
「ええ、それに日下部頭取は創立者大沢一門の御曹子ですから、自行の“血”という点には、他《ほか》のサラリーマン頭取には見られない執着を持っているようですね」
「その気持は、私も似たような立場だけに大いに解《わか》りますが、第三銀行の社外相談役の筆頭である安田さんは、第三銀行と平和銀行の合併をどうお考えになるのですか?」
万俵は、息を詰めるような思いで聞いた。安田は、茶碗の呑口を懐紙で真一文字に拭い、
「私は、原則的には賛成です、第三銀行の取引企業は、第三物産に限らず、長い間、一様に融資額の慢性的な不足に悩んでいたのですから、合併によって一挙に従来の倍近い銀行が誕生して、融資面での待遇がよくなることは、われわれにとって、大へんな魅力ですからねぇ」
「しかし“原則的には”という条件付きの表現は、どういう意味なんです、何かひっかかるようなことでも?」
万俵は注意深く反問した。さすがに安田は、すぐには応えず、暫《しばら》く炉の炭火に眼を向けていたが、
「実はとんとん拍子で進んで来たこの合併話が、最近、少し揉《も》めて参りましてね」
「ほう、どのような点で?」
思わず、万俵は膝《ひざ》をにじらせた。
「両行が合併した場合の新銀行の人事の点で、なかなか話合いがつかないのです」
「今のところ、トップはどちらになりそうですか?」
「それが両行相譲らずでしてね、規模からいえば第三銀行がトップをとることになるのですが、平和銀行の神田頭取は名にしおうワンマン頭取だけに、この合併はトップを自行でとることが出来ればこその合併だとして、一步も退《ひ》かず、代表権のある会長のポストを周囲がすすめても、頑として応じないのですよ、そこへもって来て、何しろ初めての都市銀行同士の大型合併ですから、大蔵省、政治家が各々の立場や思惑で、何とか自分の手によってこの合併を成立させようと動いていますから、ますます問題を複雑にこじらせているのです」
安田は、苦々しげに云った。
「政治家といえば、田淵幹事長が非常に積極的に動き、永田派の春田銀行局長あたりの反感を買っているとも聞いていますが、一体、田淵幹事長はどの線と繋《つな》がって動いているのですか?」
芥川が、春田銀行局長を小金井ゴルフ.クラブの“朝の特訓”に連れ出して聞き出した情報を口にすると、
「そんなところまでご存知なんですか、それならお話ししますが、実は第三銀行の瀬川副頭取と田淵幹事長は、世間にはもちろん、玄人《くろうと》筋の間にさえあまり知られていないのですが、因縁浅からぬ間柄にありましてねぇ、というのも日下部頭取は、あの通りの理論派の御曹子で、実戦面に弱い欠点があるので、瀬川副頭取がもっぱら女房役として、内堀を固めているのですが、田淵さんが大蔵大臣だった時、どううま[#「うま」に傍点]が合ったのか、或《ある》いは意識的にどちらかが接近したのか、解りませんが、非常に昵懇《じつこん》になったようですね」
第三銀行を狙《ねら》っている万俵の心中を知らない安田は、淡々とした語調で話したが、万俵にとっては、その一言一句が、阪神銀行の合併方針を決める貴重な情報であった。いつの間にか陽が傾き、畳の上に映っている安田と万俵の影が長く尾をひいていた。
「じゃあ、佐橋総理の総裁選の時、第三銀行から相当な政治献金が出たというのは、その線からなんですか?」
万俵が聞くと、安田は顔を頷かせ、
「そうらしいですね、田淵幹事長が資金調達に奔走したので、第三銀行からはかなりの金が出たそうで、行内でも問題になったほどです、幸い瀬川副頭取は地味な人柄で、表だった動きをしない人ですから、田淵さんとのそうした関係は表面化せずに済んでいますが、日下部頭取はこうした瀬川―田淵の関係を嫌って、一時は瀬川副頭取の更迭《こうてつ》を真剣に考えたこともあるようですが、結局、更迭出来ずに今日まで来ているのです、今度の平和銀行との合併話も、大蔵省へ話が行く相当以前に、既に田淵幹事長のところへ情報が流れたというのは、この辺のところからでしょう」
「ほう、あの瀬川副頭取と田淵幹事長との間には、そんな知られざる関係があったのですか、思いもかけませんでした……」
万俵は、絶句した。今の今まで第三銀行を合併相手として狙い、平和銀行との合併話を、何とか自分の方へ乗り替えさせるべく、第三銀行と阪神銀行両行の大株主である大阪重工社長の安田に、“旗振り”をして貰《もら》おうと秘《ひそ》かに考え、今日の還暦祝に早々と出かけて来たのも、そうした下心があったからであった。それだけに、第三銀行の瀬川副頭取と田淵幹事長がべったりであるという安田の話は、万俵にとって大きな衝撃であった。永田大蔵大臣と深い繋がりを持っている阪神銀行が選ぶ相手として、永田の政敵である田淵が随《つ》いている相手では、不適格であり、実現不可能であった。
「そろそろ、暗くなって参りましたね」
安田が灯《あか》りを点《つ》けるためにたちかけると、
「いや、もうお暇《いとま》致しますから――」
万俵はそう云い、正客らしく挨拶《あいさつ》し、躙口から庭へ降りた。
安田太左衛門の邸《やしき》を出ると、万俵大介は、自邸に帰る車を六甲の山荘へ向けるように命じた。
十一月初旬の六甲山は、紅葉の盛りで、薄暮の中に、紅葉した樹々《きぎ》が、点々と美しい塊《マツス》を描き出し、全山、深い秋色に掩《おお》われているが万俵の眼には入らない。
表ドライブ.ウェイから杉の木立が鬱蒼《うつそう》と茂る聖者の道《シユライン.ロード》に入ると、車は速度を落した。周囲の別荘は、シーズン.オフのため、ひっそりと人気《ひとけ》なく、道の上には落葉が散っていた。
山荘の前まで来ると、管理人夫婦が大門を開けて、待っていた。安田家を出る時、連絡しておいたのだ。
山荘の居間に入ると、暖炉には薪《まき》が燃え、部屋は暖かかった。
「いつもご苦労――、ちょっと考えごとをしたくて寄ったまでだから、酒の用意だけあれば、あとは何もいらない」
万俵がそう云うと、管理人夫婦は洋酒の瓶《びん》とグラスを載せたワゴンを運んで、すぐ退《さが》って行った。
独りになると、万俵は暖炉の前のロッキング.チェアに腰を下ろした。暖炉の火が勢いよく燃え上り、檜《ひのき》の生節《いきぶし》を乱張りした野趣に富んだ壁面が、あかあかと照らし出されたが、外は昏《く》れ落ち、しんしんとした静けさに包まれていた。万俵は、ウイスキー瓶を取り、ぐいとストレートで飲んだ。苦いまずい酒であった。大蔵官僚の美馬中に長女を嫁がせ、自行の筆頭株主である大阪重工の安田社長の娘を次男に娶《めと》り、そしてまた地元の有力企業に融資をして、地盤を着々と固めて来たつもりであったのに、第三銀行と平和銀行の如《ごと》く、深く潜行して進んでいる金融再編成の波を肌で感じると、阪神銀行など、いくらじたばたしたところで、所詮《しよせん》、神戸に本店を置く地方銀行的な都市銀行に過ぎないことが、痛感された。一片の望みもない相手とは知らずに、貴重な日時を費やし、時には狙った獲物《えもの》の大きさに秘かに悦に入っていた自分も、思えば歯痒《はがゆ》く、腹立たしい。しかし、それにしても、これからどうすればよいのか。それを考えると、万俵は恐怖に近い不安感に襲われた。一体、“小が大を食う”合併など、現実問題として、ほんとうに可能なことなのだろうか――。考えれば考えるほど、自ら決意した合併方針に自信が持てなくなり、挫折《ざせつ》感と孤独感が深まって来る。万俵は暫くその挫折感に打ち克《か》つように、じっと燃えさかる暖炉の火を見詰めていたが、つと椅子からたち上ると、部屋の隅にある受話器を取り、美馬家のダイヤルを廻した。
「もしもし、美馬でございますが――」
一子のゆっくりとした声が聞えた。
「ああ、一子か、私だ、元気かい?」
万俵は父親らしくそう云ってから、美馬を呼ぶように云った。
「今日はあの人、二子ちゃんの縁談のことで上京していらっしゃる相子さんと、外でお目にかかっていますわ」
「じゃあ、出先へ電話して至急、六甲の山荘へ電話するよう伝えなさい」
「でも、どちらへ出かけたのか、解りませんの――」
「なんだ、夫の出先ぐらい、ちゃんと聞いておくものだ、お前もお母さまに似て、実に頼りないんだな」
不機嫌に云い、電話を切ると、太い吐息をついた。美馬の奴《やつ》――、万俵は舌打ちし、グラスにウイスキーを注《つ》ぐと、またぐいと飲んだ。だいたい、田淵と第三銀行との情報などは、いち早く美馬から入って来なければならない性質のものだった。元銀行課長として、また永田直系の大蔵官僚として、田淵の動きは当然、美馬も知っているはずで、さらに遡《さかのぼ》れば、第三、平和銀行の合併問題そのものも美馬が全く知らないということが腑《ふ》に落ちない。それをこちらに報《しら》せて来ないのは、何か含むところがあるのか、それとも、月々、なにがしかの経済援助をうけている舅《しゆうと》といえども、聞かれないことは自分の方から喋《しやべ》る必要がないという官僚特有の習性なのか――、万俵は薪を取り、投げつけるように暖炉の中へ放り込んだ。ぱっと火の粉が舞い上り、万俵の顔に飛んだ。顔をそむけ、後ろを振り向いた途端、テラスのガラス戸に人影が映っているのに気付いた。一瞬、ぎくりとしたが、それが大亀専務であることはすぐ解った。安田邸を出る時、西宮の大亀専務の自宅へも電話をし、すぐ六甲山荘へ来るよう呼んでおいたのだった。
「なんだ、そんなところから――、玄関から来ればいいのに」
「玄関の扉《ドア》が締まっておりましたので、こちらへ廻ったのですが、何かお考えごとのご様子で――」
大亀は部屋へ入って来ながら、ただならぬ気配を感じ取っているようだった。
「大亀君、第三銀行には思いがけないひも[#「ひも」に傍点]がついていたよ」
「ひも[#「ひも」に傍点]とは、穏やかならぬおっしゃり方ですが?」
大亀は訝《いぶか》しげに聞き返した。
「ところが、第三銀行には田淵幹事長がついていたんだ、その筋がある限り、当行と第三銀行との合併は、いかに安田社長に仲介の労を頼んだところで不可能なことだ、ここまで追い込んで来て退《ひ》くのは残念極まりないが、不可能と判断したら、早急《さつきゆう》に態勢をたて直して、次の合併相手を物色することだ」
「しかし、すぐ次の術《て》を打たれるより、ここは暫く状況を静観された方がいいのではございませんか」
大亀らしい慎重な意見を述べると、万俵は頭を振った。
「金融再編成の状況は、そんな生やさしいものではない、第三、平和の合併がもし成功すれば、それを契機に第二弾、第三弾の合併が続々と続き、日本の都市銀行図は大きく塗り替えられてしまう、そうなると、当行は後手《ごて》に廻って、不本意な合併を強要されることは火をみるより明らかだ、それだけに次の合併相手を物色することが緊急事だ」
万俵は強い語気で云った。大亀はその語気の鋭さに圧《お》されながら、
「では、第三銀行を断念され、次の相手を物色される場合も、やはり当行がリーダー.シップを取る合併、つまり“小が大を食う”合併を考えておられるのですか?」
「もちろんだ、しかし正直云って、今のところ、これときめ手になるような相手は、私の頭に思いうかんでいないが、当面なすべきは、まず目前に迫っている両行の合併を潰《つぶ》してしまうことだ、当行が有利な合併を実現するためには、当行の合併が一番手でなければならない」
燃えさかる暖炉の火に染められた万俵の赭《あか》い顔に、凄《すさま》じい決意が漲《みなぎ》っていた。
「ご決意のほど解りました、しかし、いかに永田大蔵大臣が乗り気でない合併といえども、そこはご本人に一言、打診してみないことにはと存じますが」
「解っている、早急に永田大臣に会う手だてを美馬に打たせる」
万俵はそう云い、ふと語調を変え、
「大亀君、君は、美馬という男をどう思うかねぇ?」
大亀は戸惑うように細い眼を瞬《しばたた》かせ、
「突然、そう申されても――、大へんよく切れるやり手の方だと……」
「やり手か――、確かにその通りだな」
万俵は、妙に乾いた声で云った。
赤坂のナイト.クラブ『サンブラ』では、ステージのバンドがラテン.ミュージックを流し、フロアを囲むボックスは、殆《ほとん》ど外人客で占められていた。
高須相子と美馬中は、フロアから離れた壁際《かべぎわ》の席に坐り、バンドの演奏を楽しみながら、食後のブランディを口に運んでいた。
「やはり東京には、すばらしいナイト.クラブがあって、夜を楽しめますわね」
相子は大きく胸をきったトルコ.ブルーのドレスを着、ブルー.サファイアの指輪をはめた手で煙草《たばこ》をふかしながら、関西では得られない解放感を味わうように云った。
「あなたも、東京では人目を気にしないで、のびのびと遊べるでしょう」
「ええ、まるでニューヨークにでもいるような気楽さですわ、でも、美馬さんには、主計局のお忙しい時で、祭日もお仕事がある中を恐縮ですわ、万俵も喜んでおりましてよ、あの人は、今日は、大阪重工の安田さまの還暦祝に行っていますの」
「ほう、安田さんの還暦祝に、そしてあなたは二子さんの縁談とは、まさに閨閥《けいばつ》の両面作戦ですね」
美馬は、大介が還暦祝に行っている意図を知っているかのように云い、
「この間のお手紙、いかにもあなたらしい表現でしたね、万俵家の閨閥の枝を、この際、いささか妙を得た枝ぶりにしたいというのは、どういう意味なんです?」
相子が数日前に、美馬宛《あて》に出した二子の縁談依頼の手紙のことを云うと、相子は、
「解《わか》ってらっしゃるくせに――」
「いやいや、さり気ない表現の中に、深長な意味が籠《こも》って、感心しましたよ」
「じゃあ、率直に申し上げますわ、二子さんの縁談は、財界筋からは結構なお話が沢山あるんですけれど、この際、政界の実力者との縁談を望んでおりますの」
「そうすると、鉄平さんの岳父の大川一郎氏のような党人派ではなく、今後、政界の主流を占める官僚出身の実力政治家の方がいいのでしょう」
美馬は、自分の立場に益するように云って、微妙な笑いをうかべた。
「ええ、ですから、特にあなたのお智恵《ちえ》を拝借致したくて、上京して参りましたのよ」
ほの暗いキャンドルの灯りの下で、相子はじっと美馬の眼の奥を覗《のぞ》き込み、国家予算を握る大蔵省主計局次長として、時には大臣にも頭を下げさせる場合がある美馬の顔を活用するように云った。
ステージのバンドが、タンゴを演奏しはじめ、フロアで踊る人々が多くなった。美馬は、その中で黒人の男と日本の女とのカップルを眼で追いながら、
「なるほどねぇ、しかし、肝腎《かんじん》の二子ちゃんは、この間、上京してうちへ泊った時の感じでは、相子さんの考えとは、大分、違うようだな」
「そんなの問題じゃありませんわ、あなたと一子さんの時だって、そうじゃありませんこと?」
「さあ、どうだったかな、僕たちのことはあなたの方がずっとよく知っているでしょう」
美馬は、相子の新しい煙草に火を点《つ》けてやりながら、含み笑いをした。
「閨閥結婚というものは、大なり小なりそんなものですわ、その代り、人より早く出世のチャンスを得たり、権力を握るきっかけを得たりして、互いに閨閥の甘い汁を啜《すす》り合っているわけじゃありませんかしら――」
と云い、相子は、ふうっと煙草の煙を吐いた。
「そうかもしれない、閨閥作りは云ってみれば、エリートの再生産ということですからねぇ」
「おっしゃる通りですわ、優秀な血統と能力を持つ者同士の結びつき、有能な閨閥エリートの再生産ですわ、そして娘の方が、息子の場合よりずっと生産価値を持っておりますわね、たった一人の娘によって、一国の象徴との閨閥だって出来上るのですもの、使いでがあるというものですわ」
相子は、こともなげに云った。美馬はそんな相子を娯《たの》しむように見詰めると、相子の顔が前へ揺れ、
「美馬さん、どこかいいお心当りはございませんこと?」
「さあ、急にそう云われてもねぇ、予算関係や銀行関係のことと違って、何しろ閨閥作りの縁談の話ですからねぇ」
思案するように云った。
「いっそ、佐橋総理のご縁戚《えんせき》に、どなたか似合いの方がいらっしゃらないかしら?」
「総理のご親戚――、これはまた、えらくはっきりとしたご希望ですね」
美馬は一瞬、あっ気に取られたが、
「阪神銀行の順位は、都市銀行十位ですけれど、万俵家の家柄、資産からいえば、総理のご親戚といえども、決してひけを取らないはずですわ」
相子は、艶然《えんぜん》と笑った。美馬の頭に、総理秘書官から銀行課長に就任した井床治郎の線が思い浮かんだ。
「まあ、心あたりを当ってみますよ、それにしても総理との閨閥など、あなたらしい狙《ねら》い方だな、大胆で、野心的で、しかも絢爛《けんらん》としている」
「そう云って戴《いただ》くと、嬉《うれ》しいですわ、じゃあ、お話はこれくらいにして、お踊りになりませんこと?」
美馬はグラスを置き、相子の手を取って、フロアへ出た。バンドは『ラ.クンパルシータ』から、『夜のタンゴ』に変り、相子は、長身の美馬の腕に抱かれて、久しぶりにステップを踏みながら、肩越しに、フロアの踊りの輪を見た。さして広くないフロアに外人独特の強い体臭が蒸れるようにたち籠《こ》め、体をぴったりと重ね合せたまま、長いベーゼを交わしている組《カツプル》もある。相子は、ふと離婚したアメリカ人の夫と、よく小さなホールへ踊りに行ったことを思い出した。大学の研究室の研究員であったリチャードとの生活は、きり詰めた質素なものであったが、そこには夫婦のやすらぎがあった。それに比べて現在の自分は、身につけるもの、口にするもの、すべて物質的に恵まれ、万俵家を差配し、万俵家の子女の結婚を定《き》める権限をも与えられているが、考えてみれば、所詮は人の子供の縁談に走り廻っているに過ぎないのではないか。そう思うと、ふといいしれぬ空《むな》しさが、相子の胸を吹き抜け、自嘲《じちよう》的な気持がせり上げて来た。
「どうしたの? 急に考え込んだりして」
美馬の甘い声がした。眼を上げると、美馬の眼が、豊かに盛り上った相子の胸を見詰めている。
「別に何も――、少しブランディに酔っただけよ」
「じゃあ、僕に寄りかかって、踊ればいい――」
耳もとで囁《ささや》くように云われると、相子は、身をゆだねるように、美馬に体を寄せた。美馬は手を相子の腰に廻し、緩く揺さぶるように踊った。バンドはさらに官能的なリズムに変り、相子の大きな眼は上気したように潤《うる》んで、喘《あえ》ぐように美馬を見上げた。
「どう、相子さん、もっと踊る――」
美馬は、昂《たかぶ》っている相子の体を締めつけるように云った。
「ええ、あなたさえ、およろしければ――」
相子はしなだれかかるように美馬に体をまかせた。いつになく乱れかかるその相子を、美馬はさらに力を籠めて抱き寄せながら、今さらのように肉感的な魅力を持った美しい女だと思った。そして相子のような女を自分のものにし、意のままに動かしている万俵大介という男に、嫉妬《しつと》を覚えた。
*
白い朝靄《あさもや》の中から、丹波《たんば》の中央部を縦断して但馬《たじま》まで延びている多紀《たき》連山が、次第に容《すがた》を見せはじめた。
午前六時に神戸を出発した万俵鉄平と大同銀行の三雲頭取が乗っている車は、丹波で猪狩《ししが》りをするために、神戸から三田《さんだ》廻りの国道を走り、篠山《ささやま》口から鼓峠《つづみとうげ》を越えて、多紀連山の麓《ふもと》にある草山村に向って走っていた。十一月中旬の丹波の山々は、早朝の陽の光の中で、茶褐色の山襞《やまひだ》を見せ、三岳《みたけ》山の頂上は、早くもうっすらと雪を頂いている。
狩猟用の皮ジャケットを着、自ら車を運転している万俵鉄平は、フロント.ガラスに背を重ね合せるように迫って来る山並に眼を向け、
「とうとう強引に猟へお誘いしてしまいましたね、ご多忙な頭取を――」
と云い、白い歯を見せて闊達《かつたつ》に笑った。大同銀行神戸支店の開設二十周年記念のために来神した三雲頭取の多忙な日程の中で、昨日は、阪神特殊鋼の高炉建設現場の視察をして貰《もら》い、土曜日の今日は狩猟に誘ったのだった。三雲は、朝靄に包まれ、まだ明けきらぬ清々《すがすが》しい山々の景色を眺め、
「こうしていると、アメリカにいた頃、クリスマス.ホリディを待ちかねて、カナダへ一緒にトナカイ狩りに行ったことを思い出しますね、全く何年かぶりに、爽快《そうかい》な気分が味わえる――」
ほっと心が憩《やす》らぐように云った。
「草山村まではもう少しですよ、そこに祖父の代からよく知っている猟師で、猪撃ち名人と云われている親爺《おやじ》がいて、今日もその親爺に山案内を頼んでいるんです」
鉄平は、その猟師に会うことを楽しみにしているように云い、つづら折りに曲った鼓峠を下り、山間《やまあい》の小さな村落に入って、一軒の田舎家の前に車を停めた。玄関横の大きな犬舎の中から、猪《いのしし》の牙《きば》に背中をひっかけられたらしく、生々しい傷跡を見せた猟犬が二匹、ねそべりながらも、威嚇《いかく》するように吠《ほ》えたてた。
「おう、お待ちしとりましたでぇ」
七十近い老人が、待ちかまえていたように土間から顔を出し、鉄平と三雲を家の中へ迎え入れた。黒ずんだ家の中の一角には、狩猟を業とする家らしく、南京《ナンキン》錠のかかった頑丈な鉄砲入れが据えられ、炉ばたには山兎《やまうさぎ》の皮が座蒲団《ざぶとん》代りに敷かれている。
鉄平は、まず三雲を紹介すると、猪撃ち名人と云われる大垣市太《いちた》は、
「ほう、あんたはんも、銀行の頭取さんかいの、鉄平さんのお祖父《じい》さんの阪神銀行の頭取さんやった人も、猟がお好きで、よう来なはったもんやが、まあ、餅粥《もちがゆ》でも食べて温まりなはれ」
とすすめると、三雲は会釈《えしやく》して炉ばたに坐ったが、鉄平は、
「餅粥も結構だが、猪の足跡はどんな工合なんだい?」
早々に聞いた。猪猟は、山の中の猪の足跡を見付け出すことが、何よりも第一の作業であった。市太老は日灼《ひや》けした顔を皺《しわ》にし、
「ほれ、ほれ、そんなせからしいところまで、お祖父さんにそっくりよのう、早うから、うちの若い衆《し》が山へ先見《さきみ》に行ってるから、おっつけ報《しら》せに来るじゃろう」
と云い、嫁に任せず、自ら白い湯気のたつ餅粥を椀《わん》によそって出した。鉄平と三雲は、ふうふう吹きさましながら箸《はし》をつけた。
「大旦那《だんな》さんも、この餅粥がお好きでの、まだ夜が明けきらん暗いうちから見えなさって、餅粥で腹ごしらえしてから、わしをお伴《とも》にして猟へ出かけなはったが、あの頑丈な体と健脚で、猟師と一緒に猪を追い、いつも、弾《たま》は一発しか持たれんかった、わしらが何度も危ないからと云うても、大旦那さんは、わしは一発しか持たん、一発で仕留めんことには、わしの鉄砲が泣くと云いなはって、ジェームス.パーディの銃床を撫《な》でなさったもんや」
昔を懐《なつ》かしむように市太老が云うと、
「そのジェームス.パーディは、僕がお祖父さんから拝領していて、今日は持って来たよ」
鉄平は傍《そば》に置いた銃ケースの中から、そのイギリスの名銃を取り出した。三十年前のものであったが、拭《ふ》き磨かれた銃口は黒く光り、機関部の彫刻は、いぶし銀のような渋い重厚さで作られていた。三雲も吸いつけられるようにそれを手に取り、
「これが幻の銃と云われるジェームス.パーディですか、なるほど銃を使う者の身長に応じて銃床の長さをきめ、一梃《ちよう》、一梃、手作りするだけあって、銃の製作を始めた年月日と完成した年月日まで明記されている、この銃は三年三カ月かかっていますね、実にイギリス人らしい――」
その重厚な作りに、眼を凝らした。市太老も、じっと眼を細めるようにして見、
「何しろジェームス.パーディは、銃一匁《もんめ》の値段と、金一匁の値段が同じと云われるほどやそうやが、大旦那さんはもう一つ、ホーランド.アンド.ホーランドという、これも鉄砲撃ちなら涎《よだれ》をたらしそうな逸品を持ってなはったはずや」
「あれは、今、父が持っているよ」
「ほう、お父さんの手もとに――、頭取さんも、以前は、鉄平さんや銀平さんを連れて、猪撃ちに来なさったものやが、五、六年前から、とんとお見えにならん、猪の方は止《や》めなされたんかいな?」
「いや、そちらの方は、さっぱりご無沙汰《ぶさた》だけど、鴨《かも》と雉《きじ》撃ちの方は、たまには出かけているよ」
と云うと、三雲は眼に笑いを含み、
「昔から鶉《うずら》はおおみやびとの猟、雉撃ちは王侯貴族、猪は武将の猟といわれているから、その伝で行けば、やはり万俵大介氏は王侯貴族の雉撃ち、鉄平君は武将の猪撃ちというところでしょう」
「武将とは嬉しい言葉ですね、僕は王侯貴族などより、戦国の武将として闘う方が性《しよう》に合ってますよ、今、建設中の高炉だって、戦国武将の初陣《ういじん》の気持でやっています、それに対して、三雲頭取には、いつもひとかたならぬお力添えを下さって、感謝しています」
姿勢を改めて礼を云うと、三雲も改まった表情で、
「私が、あなたに力を入れているのは、決して個人的な気持からではありませんよ、あなたがやっている阪神特殊鋼の優秀な技術とあなたの仕事に対する情熱に賭《か》けているのですよ、大げさに云えば、阪神特殊鋼の将来性に対して、当行は従来の銀行の常識を越えた積極的な融資方針を取りたいと思っているのですから、しっかりやって下さい、今日は一つ、お互いの鋭気を養う意味で、久しぶりに大いに銃を撃ちましょう」
静かではあったが、強い語調で云い、
「鉄平君のお祖父さんではないけれど、餅粥をもう一杯、戴こう」
鉄平もお替りを云った。市太老は嬉しそうに、
「さあ、たんと食べて、撃つからには大猪を撃って来て下されな、わしも昔は十一月から二月までの一年に百日しかない猟期に、百頭は仕留めたものや、それもワタヌキ(臓物抜き)三十四、五貫という大猪ばっかりや、その代り、わしは夜寝てても、猪のことばっかり考えとったが、鉄平さんの鉄砲の腕前は、上っとりますけ?」
「ちょいちょい、射撃場で撃ったり、近くの山へ鳥撃ちぐらいには行くから、まあまあのところだよ、三雲さんはいかがです?」
「私はこのところ、ずっとやっていないから、どんなものかねぇ」
三雲がちょっと自信なさそうに応《こた》えた時、若い衆《し》の一人が、猪の餌《え》ばみの跡を見付けたことを報せて来た。市太老の眼が光った。
「なに、赤柴《あかしば》山に猪の餌ばみの跡があったと? さあ、早う行きなはれ、わしは猪が来たらまだ撃てるけんど、山步きはえろうてのう、息子と地元の猟師によう云うてある」
追いたてるように鉄平と三雲を送り出した。
外へ出ると、若い衆はライトバンに飛び乗り、鉄平の運転する車がそれに続いて、草山村からさらに十キロ奥の赤柴山へ向った。
鉄平と三雲は、編上《あみあげ》のハンターシューズ、大垣市太老の長男の市郎と地元の猟師たちは地下足袋に足もとを固め、ともに肩から銃をさげ、十頭の猟犬を先導にして、半時間近く山道を步いていた。朝の山中は、時々、喬木《きようぼく》の上でばさっと飛び交う野鳥の羽搏《はばた》き以外には、不気味なほど森閑としている。その中を猪の足跡を見つけるのが、猪猟《ししりよう》の第一の作業だった。猪は夜になると、人里の田畑を荒し、明け方、山へ帰って笹藪《ささやぶ》や岩陰を寝屋《ねや》にして眠っているから、猟犬をかけて、その寝屋を見つけ出すのだった。猟犬といっても、猪猟の中で自然に狩りの方法を覚えた雑種で、額に傷のある犬、顎《あご》のつぶれた犬、猪に牙をかけられた傷あとのある犬の一群であり、猟師頭《がしら》の大垣市郎の命じるままに動く。
先頭を步いているハナ犬が、俄《にわ》かに鼻を地面にすりつけた。市郎をはじめ七人の猟師たちが眼を光らせ、犬のあとを注意深く見ると、猪の足跡らしい窪《くぼ》みがついている。一行にさっと緊張の色が漲《みなぎ》ったが、ハナ犬は、それ以上の反応を示さなかった。
「こりゃあ、昨夜《ゆんべ》の足跡ではなさそうよの」
市郎はそう判断し、再び步き出した。尾根伝いに暫《しばら》く步き出すと、山道はさらに険しく、太い松の樹《き》が聳《そび》えたち、背丈よりも高い山笹が鬱蒼《うつそう》と生い茂って、その切れ目から朝の陽に映えた多紀連山が見はるかせる。猟師たちは肩に銃をかけ、平地を步くような足どりで進み、鉄平もそれに随《つ》いて步いていたが、三雲はともすれば遅れがちであった。暫く猟から遠ざかり、五十を過ぎている三雲には、鉄平が用意したレミントンを肩にかけ、弾帯を腰に巻いての猪追いは、相当な負担になっている様子だった。
「三雲さん、銃は私がお持ちしましょう」
「じゃあ、そうお願いしようか」
三雲は、鉄平に銃を渡し、鉄平は二梃の銃を肩にかけて步いた。
不意に先を行っていたハナ犬がくんくんと鼻を動かした。そのあとを拾うと、猪の足跡らしい窪みが、点々と掘り返されている。猟師頭の市郎は、注意深くその跡を見た。
「この大きさなら、親猪らしいのう」
足跡の大きさが直径二センチぐらいなら、今年生れた当歳猪《とうさいじし》、三センチぐらいなら古子《ふるご》(二歳)、五センチもあれば親猪と、長年の猟師の経験で見分けられる。そして掘り返されている土の工合から、丹波に住みついている“居付《いつき》”の猪か、よそからの渡り猪かということも見分けられる。