饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15362 字 更新时间:2026-6-16 06:24

 山の中腹あたりまで来ると、猪の足跡を追う激しい追撃行にさすがの鉄平も遅れがちになり、三雲は息切れし、地面に鼻をすりつけて步く犬の息さえ荒くなった。突然、先頭をきっている犬が、ぴたっと足を止め、他《ほか》の犬もさっと逆毛をたてて、笹叢《ささむら》のあちこちに匂《にお》いを嗅《か》ぎはじめた。

「おっ、やっと見つけたな」

 鉄平が云うと、三雲もうしろから、

「とうとう追いついたね、猪の寝屋はこの近くなんだろうか?」

 元気を取り戻した。市郎は、地面の足跡を仔細《しさい》に見て步いてから、

「どうやら二頭らしいが、この山なら、だいたい尾根の南側の岩陰を寝屋にしていることが多いから、尾根の頂上から犬をかけて起したら確かや」

 と云い、猟師たちは円陣になって、猪を追い出す作戦を練り、各自の持場をきめた。市郎は、追出し役で十頭の犬を連れて尾根の頂上へ登って行き、他の七人は、猪の逃げ道を遮《さえぎ》るために四方に散って、包囲網を張った。三雲と鉄平は、犬に追い出された猪が、最も出て来る可能性が強い尾根の西側の谷道で、“待ち撃ち”することにした。

 鉄平と三雲は、谷道を下り、百メートル程の距離をおいて、たった。しかし犬が猪を追い出して来るまでには相当、時間がかかる。時には二時間も三時間も待たねばならないことがあり、その間が孤独と忍耐の時間であった。

 鉄平は、笹叢に囲まれた自分の持場に腰を下ろし、祖父から譲られたジェームス.パーディを杉の樹にたてかけた。猪には煙草《たばこ》の煙が禁物であるから、煙草も喫《す》えない。鉄平はごろりと笹叢に寝転んだ。杉の樹の間から青い空が見え、鉄平は両足を伸ばして、大きく息を吸った。体中が膨《ふく》らむような解放感と爽快《そうかい》さがあった。鉄平はふと、毎日、こうした山中で猪撃ちをして過す自由で豪快な暮しを思ってみた。そうした思いは、今がはじめてでなく、学生の頃、祖父のお伴をして北陸の雉撃ちや丹波の猪撃ちをしている時にも、鉄平の胸を去来したことであった。そしていつか、祖父に猟師になりたいなと云ったら、驚くほど厳しい叱責《しつせき》を受けたことを思い出した。その日は、祖父と父と自分の三人に、市太老と五人の猟師がお伴していたが、祖父は、猟師たちの前もかまわず、「猟師になりたいとは何を云うか、お前はわしの跡継ぎだ、いや、万俵家の総領息子だ!」と激怒し、銃床で、鉄平の体を強く突いた。あまりの恐ろしさに傍《そば》にたっている父に助けを求めると、父は妙に冷たい表情でじっと自分を見下ろしていたことを覚えている。その時、父は猪撃ちというのに、きちんとネクタイを結んだ姿にハンチングを冠《かぶ》り、祖父は汚れた革の上衣にだぶだぶのズボンを履いて、太い眉《まゆ》、精悍《せいかん》な眼、分厚い唇に、猟師のような野性味を漲《みなぎ》らせていた。豪快そのものの祖父と、冷徹そのものの父、あまりにも対照的な二人であるのに、自分は父に似ず、顔形から体つき、性格まで祖父に似ている。市太老に云わせれば、猪の撃ち方まで祖父に似ているという。そう云えば、撃つ者の身長に合わせて作らせたジェームス.パーディの銃も、父よりは、自分に合っている。

 ばさっと樹の揺れる音がした。すっくとたち上り、銃を構えると、笹叢から野鳥が飛びたっただけであった。鉄平はそばにある岩に上り、もう一度、視線をめぐらせると、樹間に三雲の姿が見えた。長い待ち時間のせいか、樹に体を寄りかからせ、何か考え込んでいるようなうしろ姿であった。市太老の家では明るく話していたが、山を步いている時の三雲は、心の中の疲れを感じさせるような印象があった。もしや何か事故でも起るのでは――という不吉な思いが、鉄平の胸を横切ったが、三雲のために用意したレミントンは、機関部に油をさし、銃口の汚れも丹念に拭き磨いて点検してあるから、事故など起ろうはずはなかった。

 ズドォーン!

 尾根の上から、開始の空砲が一発、鳴り響いた。同時に犬の一団が凄《すさま》じい勢いで駈《か》け降りる気配がし、そのあと暫く、山は不気味な静けさに戻った。五分、十分、突然、谷の一角からけたたましい犬の吠声がこだました。猪を発見したのだろう。銃を構え、犬の吠声がする方向を見上げると、遥《はる》か尾根の上から疾走して来る犬の一群が、樹間に見え隠れし、

 ターン!

 ターン!

 タターン! ターン!

 発砲の音が山中に轟《とどろ》き渡り、あとはまた静まりかえった。さては猟師たちの手で撃ち取られてしまったかと、がっかりして腰を下ろしかけると、三百メートルほど先の笹叢が揺れ動き、こちらに向ってドッ、ドッ、ドッと地響きをたてて走って来る猪の気配がした。もう一頭の奴《やつ》だな! と思い、銃を構えると、黒い大きな猪が、三雲のいる待場《まちば》に向って突っ走って来るのが見え、猪のあとを数匹の犬が吠えたてながら追って来た。猪は笹叢を飛び越えるように走り、犬が猪の脇《わき》に追いすがったかと思うと、ぽーんと牙で跳ね投げ、三雲をめがけてまっしぐらに突進して来た。

 ターン!

 三雲は撃った。猪は前につんのめったが、弾は命中せず、すぐまた三雲をめがけて襲って来た。三雲は二発目の引金を引いた。しかし銃声が鳴らない。猪との距離はみるみる縮まり、もはや二、三十メートルであった。慌《あわ》てて三発目の引金をひいたが、また銃声は鳴らない。明らかに銃の故障であった。鉄平は、夢中で三雲の方へ走った。猪は、犬に追いすがられながらも怯《ひる》まず、先頭をきっている犬が、猪の首に食いつくと、鋭い牙《きば》で犬の腹を突き上げた。キャーンという声がし、宙に跳ね上げられると、もう一匹が、猪の前脚に飛びついた。その僅《わず》かな隙《すき》を狙《ねら》って鉄平は、引金をひいた。

 ターン!

 銃声が轟き、猪はどさっと笹叢へ落ち込んだ。やったぞと思った途端、笹叢から血まみれの猪が飛び出して来た。鉄平はとっさに樹の幹に体を飛び退《すさ》らせ、死にもの狂いで襲いかかる猪をやり過し、無我夢中で一発撃つと同時に、背後で銃声が鳴った。ギャッ! と凄じい獣の叫びが上り、猪はどうと倒れた。三雲と鉄平が駈け寄って見ると、小牛ほどの大きな猪で、前脚のつけ根の心臓部のところから、どくどくと血が溢《あふ》れ出ている。一瞬、静止した静かな時間が流れ、鉄平と三雲は、互いの無事な姿を確かめ合った。

「危なかったですね――」

 鉄平が土まみれの姿で云うと、三雲は額にべっとりと滲《にじ》んだ脂汗《あぶらあせ》を拭《ぬぐ》いながら、

「いや、全く――何かのはずみで弾倉のバネがはずれ、落ちていたのに気付かず、鉄平君が撃ってくれている間に、やっと予備弾倉を付けて撃ったが、君がいなければ、ほんとに危ないところだった……」

「いや、僕だって三雲さんが撃って下さらなかったら、このもの凄い牙にひっかけられていたかもしれませんよ」

 共に闘い、仕留めた喜びを分ち合っていると、

「やったかのう!」

 猟師たちの声がし、鉄平と三雲が手を上げて合図すると、彼らは、谷道を勢いよく駈け下りて来た。

「ほう、鉄平が丹波へ猪撃ちに――」

 万俵大介は、玄関のポーチに出迎えた寧子の言葉に頷《うなず》きながら、今日も寧子一人で相子の姿が見えないことに、不満だった。

「まだ相子は、帰って来ていないのかね」

 両手をポケットに突っ込んだまま云った。二子の縁談のことで、美馬に相談するため上京したまま、まだ帰って来ていないのだった。

「ええ、まだ――でも、今日で五日、いえ、六日目ですから、もうそろそろ帰っていらっしゃるんじゃないでしょうか」

 寧子は、おっとりとした口調で云った。

「ないでしょうかでは、駄目じゃないか、相子がいなければ処理できないエア.メールや電話の返事もあるだろうし、私自身も不便だ、早く帰るように云ってやることだ」

 居間に入って上衣をとっても、傍《そば》にたっているだけで、手をかすことも気付かない寧子に、万俵はあてつけるように云ったが、内心は今日のように身心ともに疲れ果てている時こそ、相子の豊満な肢体を抱きたかったのだ。それに、五日前、上京したまま電話一本かけて来ない相子が、のうのうと羽をのばしているのかと思うと、内に籠《こも》った欲望がさらに昂《たかぶ》って来る。

「旦那《だんな》さま、バスを先にお使いになりますか、それともお食事の方を先に遊ばしますか?」

 齢嵩《としかさ》の女中が、絹のガウンをもって来、背後《うしろ》から着せかけながら聞いた。

「どちらもまだいい、それより新聞だ」

 万俵は、女の匂《にお》いをとっくに失《な》くした女中のかさかさした手の感触を背中に感じると、嫌悪《けんお》するように荒々しく自分でガウンに手を通した。

「夕刊でございましたら、こちらに――」

 寧子は、テーブルの横のマガジン.ラックの中から新聞をさし出したが、夫の不機嫌な気持をときほぐす術《すべ》も知らず、おろおろしている。万俵は黙って五種類の新聞の束を受け取り、ソファに坐《すわ》って、英字紙から読みはじめた。これという記事もなく、流し読みしていると、部屋の隅の電話のベルが鳴った。紅茶を運んで来た女中が、受話器をとり、

「相子さまからお電話です、只今《ただいま》、茅《ち》ヶ崎《さき》のホテルにおいでのようでございます」

 万俵にとも、寧子にともなく取り次いだ。寧子が、ほっとしたように受話器を受け取りかけると、

「いや、私が出る、伝えたいことがあるから、書斎の方へ廻すように」

 万俵は、拡《ひろ》げていた新聞をテーブルの上に置き、居間と隣接している書斎へたって行った。背後の寧子や女中たちには解《わか》らなかったが、万俵の顔は、両の頬がゆっくりと緩み、分厚い唇がかすかに開いて、女の待っている寝室へ入って行く時のような表情が滲《にじ》んでいた。

 万俵は、スペイン製のがっしりとした皮椅子に腰を下ろして、受話器をとった。

「もし、もし、私だ」

「お珍しいのね、もうお帰りだなんて」

 相子の声が伝わって来た。その肢体のように張りと湿りを含んだ声であった。

「なかなか帰って来ないと思っていたら、茅ヶ崎くんだりまで足をのばしていたのかい、どうしたのかと心配していたよ」

 思わず、ぬるむような声で云うと、

「久々に、羽をのばしているうちに、ついお電話するのも忘れてしまっていましたの、お寂しくって? ふうっ、ふっふっ」

 相子も大介の声に敏感に反応し、時折、食卓の下で足を絡《から》み合せるように電話を通して、大介の声に自分の声を絡ませるように囁《ささや》いた。

「なんだか妙に楽しそうだな、たまに羽をのばすのもいいが、二子の縁談のことを忘れているんじゃあないだろうな?」

「あら、美馬さんからお電話がございませんでしたこと? 五日前に、美馬さんとお会いして、佐橋総理の周辺でどなたかいい方がいらっしゃらないか、お探し下さいとお願いしましたら、とっさに驚かれましたけれど、心当りをあたってみましょうということになりましたのよ」

「美馬からは、電話はあったが、二子の縁談の件ではなかったよ」

「じゃあ、私、帰りにもう一度お会いして、念押ししておきましょう、あの翌日から、五井地所の安田社長夫人とご一緒して、こちらへ来て、ゴルフをしながら、以前、二子ちゃんに持って来て下さった大正電工の林社長のご長男のお縁談《はなし》を、角《かど》がたたないようにお断わりしてしまったのですもの」

「それはいいが、美馬の方は、そんなに急がせなくともいいよ」

「あら、どうしてですの?」

 相子の反撥《はんぱつ》するような声が、返って来た。

「銀行の方のことで、突発的なことが起って、ここ当分は二子の縁談よりもっと重大なことで、美馬に動いてもらわねばならないからだ、だからお前もすぐ帰って来なさい、いや、明日、私が上京するから、明日の夜、麹町《こうじまち》の行邸《こうてい》へ帰っておいで、いいね、必ずだよ」

 粘りつくような声で云うと、相子も熱っぽい語調で、

「ええ、帰っておりますわ、久しぶりにご一緒出来るんですもの……」

「うむ、じゃあ、明晚――」

 大介はそう云い、電話をおいた時、

「お父さん、いいですか?」

 と云う声がした。振り向くと、扉《ドア》が開いて、そこに鉄平がたっていた。万俵は、まるで相子との情事をたち聞きされたような不快な気持がした。

「なんだ、人の部屋へ入るのに、黙って入るとは、礼儀知らずも程があるじゃないか」

 厳しい口調で咎《とが》めだてると、

「扉が少し開いていたもので、お電話中とは知らず、入りかけたんですが、お話中は外に出ておりましたよ、それより、今日、丹波へ猪《しし》撃ちに行って来たんですよ、これ、猪肉です」

 浅黒い精悍な顔に白い歯を見せ、猪肉の包みを大介の方へさし出した。猪特有の癖のある匂いが大介の鼻をついた。

「解禁早々に猟に行って来たのかね、大垣たちは元気だったかね」

「ええ、大垣爺《じい》さんの方は齢《とし》で、さすがにもう山步きは出来ませんが、元気そのものです、それよりお父さん、今日は大同銀行の三雲頭取と一緒だったのですよ」

「三雲頭取と? 今、こちらへ来ておられるのかね」

「神戸支店の二十周年記念でいらしていて、昨日は多忙な日程を割いて、うちの工場へもお寄り戴き、高炉建設の進行状況を見て戴きました、そうした日頃の謝意を籠《こ》めて、三雲頭取を猪撃ちにお誘いしたんです」

 と云い、鉄平は、三雲の銃の弾倉がはずれ、突進して来る猪にあわや襲われかけた話をした後、

「お父さんによろしくと、云っておられましたよ」

 と伝えた。

「そうか、で、三雲さんところの阪神特殊鋼への融資方針は、その後、変らないのだろうね?」

「変るどころか、高炉建設現場をご覧になって、阪神特殊鋼の技術が優れていて、成長性、将来性という点でも、旧財閥系の一流企業と比較して、決して遜色《そんしよく》がないと、高く評価して下さいました、そして三雲頭取は行内に多少の批判があっても、自分としては、特殊鋼業界初の高炉建設を見事に完成させるために、尽力を惜しまない、自分は阪神特殊鋼に賭《か》けているとまで云って下さいました、それだけに万が一、阪神特殊鋼の高炉建設に支障が起れば、三雲頭取の命取りにもなりかねないと思うと、僕は責任の重さと同時に、今まで以上に強い闘志《フアイト》が湧《わ》いて来ましたよ」

 鉄平は両の拳《こぶし》を握り、血のたぎる思いを父親に聞いて貰《もら》うように話したが、大介は表情を動かさず、

「そんな銀行家の社交辞令を額面通りに受け取って感激するなど、お前は相変らず、人のいい奴だな、いかにこれという優良取引先を持たない大同銀行といえども、阪神特殊鋼クラスの一介の企業に、運命を賭けるなど、それほど銀行家というのは甘くないよ、三雲頭取は何か含むところがあって、お前にそんなことを云ったのじゃあないのかね?」

 眼もとに冷たい笑いをうかべて云うと、鉄平は、むっとした表情で父を見返し、

「お父さんは、何かというと、すぐそういう風にものごとをご覧になるんですね、三雲頭取はそんな方ではありませんよ、阪神特殊鋼に対して、銀行家として一種の使命感をもって育成して行こうとして下さる意気込みを感じます」

 むきになって抗弁した。

「まあ、そうむきになるものじゃない、それより、この猪肉で久しぶりに、お前と一緒に食事をしようじゃないか」

 万俵はいつになく温かい語調で云いながら、大同銀行の三雲頭取のアキレス腱《けん》が、ほかならぬ阪神特殊鋼であることを、妙にはっきりと頭の中に畳み込んだ。狙った第三銀行を断念し、次なる合併相手を他行に先んじて探さねばならない時期だけに、同じ都市銀行の動きは、どんな小さなことでも知っておきたかった。そんな時、都市銀行の一つである大同銀行の頭取が、融資に対してどんな考えを持ち、その泣きどころというか、どんな弱味を持っているのかを知ったことは、一つの大きな収穫であった。

 そして後日、鉄平のこの一言が、万俵の野望を決定づけるとは、鉄平はむろん、万俵自身も、思い及ばなかった。

(中巻に続く)

華麗なる一族 中巻

山崎豊子

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 一   章

 新橋の料亭『金田中』の庭は雨に濡《ぬ》れ、植込みの間に置かれた石燈籠《どうろう》の灯《あか》りが、けぶるような淡い光をにじませている。

 万俵《まんぴよう》大介は、娘婿《むすめむこ》の美《み》馬中《まあたる》と座敷の広縁に坐《すわ》り、永田大蔵大臣が現われるのを待ちながら、運ばれて来た抹茶《まつちや》を啜《すす》り、静かな庭の風情《ふぜい》を賞《め》でていたが、胸中ではこれから永田大臣と話し合う内容について思いをめぐらせていた。

 襖《ふすま》の外に足音がした。

「大臣でしょうか――」

 美馬が振り向くと、結城《ゆうき》の着物をきりっと着こなした女将《おかみ》が姿を見せた。

「本日はお揃《そろ》いで有難うございます、只今《ただいま》、秘書官からお電話がございまして、大臣は今、国会が終られたところで、これからお出ましになるとのことでございます、もう一服、お持ち致しましょうか」

「いや、これで充分――、それより庭の手入れが行き届いているね、松の樹《き》の雨滴《あまだ》れのたれ方で、葉刈りの工合が解《わか》るよ」

「何よりも嬉《うれ》しいお褒《ほ》めにあずかり、有難うございます」

 女将がそう云《い》い、座敷を退《さが》って行くと、万俵は、

「中君、君は第三銀行の瀬川《せがわ》副頭取と田淵《たぶち》幹事長との黒い繋《つな》がりを、ほんとうに知らなかったのかねぇ」

 じっと美馬の顔色を読むように云った。庭石へ眼を遣《や》っていた美馬は、不意を衝《つ》かれたような表情で、

「そりゃあ、全く知らないことでもありませんでしたよ、しかし……」

「しかし、なんだというのかね、私が第三銀行を合併相手として狙《ねら》っているのを知っていながら、第三銀行の体質そのものにかかわる重大な情報を、どうしてもたらしてくれなかったんだね、娘婿としての君とのつき合いは随分になるのに、姻戚《いんせき》関係を結んでまだ半年にもならない安田太左衛門氏から知らされて、周章狼狽《ろうばい》するのでは、やりきれない」

「いやですねぇ、それじゃあ、まるで私が知っていながら、わざと知らない振りをしているようで――、私にしてみれば、私がおすすめした平和銀行を頭から撥《は》ねつけられ、何が何でも第三銀行をと云われた限りは、当然、瀬川副頭取のこともご承知の上だと思っていたわけで、今さらそんな風に云われては、心外ですよ」

 鼻にかかった声で、抗弁した。

「君にしては、珍しく下手な云いわけじゃないか、背後に、田淵幹事長が随《つ》いているような銀行と、当行が合併することなどあり得るはずがないのは、誰よりも、君が一番、よく承知しているだろう」

「ですから、そこは瀬川副頭取を排除するような手段を、それこそ永田大臣と相談して講じられるものとばかり――」

 美馬はなおも云いかけ、不意に薄い唇の端に笑いを滲《にじ》ませた。

「お舅《とう》さん、実は瀬川副頭取と田淵幹事長の癒着《ゆちやく》ぶりは、永田大臣の田淵攻略資料の中にあって、ずっと伏せられて来たもので、下手に僕なんかが喋《しやべ》れない問題なんですよ、こう申し上げれば、僕に対する妙なお疑いも解いて戴《いただ》けるだろうし、これからの永田大臣とのお話の一つのヒントになると思いますが、いかがですか」

 謎《なぞ》めいた云い方をした。そんな時の美馬は、女のようにねっとりとしたもの腰の中に、はっとするような冷たさを感じさせる。

「なるほど、すると、この問題は相当、根深そうだな、それで永田大臣は――」

 万俵が云いかけた時、からりと襖が開き、永田大蔵大臣が入って来た。

「これは大臣、ご多忙の中をどうも――」

 万俵が威儀を正して迎えると、永田大臣は、床の間を背にして坐り、

「どうも、国会対策委員会が遅れて、失礼したようですな」

 三十分ほど遅れたことわりを云い、座敷机を挟《はさ》んで万俵と向い合った。たっている時は、背が低く、痩《や》せている上に、色が黒く、一国の大蔵大臣にしては風采《ふうさい》が上らなすぎたが、坐って向い合うと、長身で銀髪端正な万俵にひけをとらない威風が備わり、三白眼《さんぱくがん》が一層、凄味《すごみ》を帯びる。その眼で永田大臣は、末座に坐っている美馬を見、

「なんだ、今日は、君も同席なのか」

「はあ、舅《おやじ》がたまには一緒に大臣にご挨拶《あいさつ》申し上げるようにと申しますので、ちょっと参上致しました次第で、九時半から深夜まで、まだ局議がありますから、すぐに失礼します」

 美馬は両手を膝《ひざ》の上に置き、畏《かしこ》まった。

「しょっちゅう、顔を合わせているのに、改まってご挨拶でもないだろう」

 永田がおしぼりで顔をぬぐいながら、ずけっとした云い方をすると、美馬はさらに恐縮するように姿勢を改めた。日頃の美馬とは全く別人のような畏まり方で、派閥のボスに対する仕え方は、一通りではない。

「こんばんは」

 賑《にぎ》やかなお座敷の挨拶とともに、日本髪に結いあげた五人の芸者が、裾《すそ》をひいて、入って来た。座敷がぱっとあでやかに彩《いろど》られ、万俵は運ばれて来た銚子《ちようし》を取って、

「まず、ご一献《いつこん》――」

 永田大臣に酌をした。永田は一気に干すと、万俵に返盃《へんぱい》し、あとは芸者たちの酌になった。

「大臣、先月、東洋経済新聞の“わが自叙伝”シリーズに、連載された半生記、大へん興味深く拝見させて戴きましたよ、特に故池山総理の経済政策に楯《たて》ついて野《や》に下り、節を押し通されたあの頃の回想部分は、当時、美馬と時たま、伺って存じ上げているだけに、感無量の思いが致しました」

 万俵が感じ入るように云うと、横から美馬が、

「あの頃、僕はまだ銀行局の若輩に過ぎませんでしたが、われわれの卒業年次で、大蔵省入りを志した者は、当時、秘書課長をしておられた永田大臣の面接を受けたのですよ、同じく私たちの前年度と前々年度に永田秘書課長に面接を受けて大蔵省に入った春田局長たちと、“永田学校”を自称し、勉強会をやって大いに気を吐いていました、それだけに大臣が野に下られた時は、ほんとうに無念で、永田町界隈《かいわい》の飲屋に集まって、財政理念のない池山政策をこきおろしたものです」

 懐《なつ》かしむように云ったが、万俵にとっては、あの当時は、薄氷を踏む思いであったことも確かだった。故池山総理は、永田の資金パイプをずたずたにするために、永田に献金している企業に対して、国税その他で厳しい態度を取ったからで、阪神銀行は、神戸に本店を置いてあまり目だたないとはいうものの、いつ、抜打ちの特別金融検査をかけられるかと、夜も眠られぬ時期があったのだった。

「確かあの頃だったな、君の生家の破れ寺に一時、籠《こも》っていたのは――」

 永田大臣は、料理に箸《はし》をつけながら、美馬を顧みた。同じ茨城県人であったところから、一時、永田が身を隠さねばならなかった時、美馬の生家の寺に住まったのだった。

「そうでした、あの時、大臣は僅《わず》か一カ月で法《ほ》華経《けきよう》を暗記されてしまい、さすがは――と、母や兄が驚いていましたよ」

 美馬が云うと、

「あら、ナーさま[#「ナーさま」に傍点]が、お経を? ほっほっほっほっ」

 永田大臣が贔屓《ひいき》にしている若い美妓《びぎ》が、ころころと笑い出した。

「なにがそんなに可笑《おか》しいんだ、桃太」

 まだ二十《はたち》そこそこの水蜜桃《すいみつとう》のようなみずみずしい肌をした芸者に、永田が眼を細めると、

「だって、よくお似合いだもの、いっそ大蔵大臣なんかおやめになって、お坊さんになったら――」

 一座に笑い声がたった。

「相変らず、桃太は口の悪い奴《やつ》だ、そんなに云うなら、なってやらぬこともないが、そのかわり桃太、お前も尼になって随いて来るか」

 永田大臣はそう云い、桃太のまるい肩を抱き寄せると、

「大臣と桃太ちゃんの出家道行きとは、これまた乙《おつ》なものね、桃太ちゃん、是非、そうなさいな」

 年増《としま》の姉芸者が合の手を入れ、一しきり座が沸《わ》いた後、美馬がしお時を見はからい、

「じゃあ、私はこの辺で、失礼させて戴きます」

 と席をたつと、芸者たちも、すうっと席をはずした。

 広い座敷に永田大蔵大臣と万俵大介だけになると、しんとした部屋は雨の音と遠くの座敷の騒《ざわ》めきが聞えて来るだけで、密室のような静けさが、二人をおし包んだ。

 万俵は、その静けさを破るように銚子を取って、永田大臣の盃《さかずき》に注《つ》ぎ、

「大臣、第三銀行と平和銀行の合併は、お認めになるおつもりですか」

 直截《ちよくせつ》に、今夜の話題に入った。

「ああ、あれねぇ」

 永田は至極、あっさりと応《こた》えて盃を干し、

「私のところへは、両行ともまだ正式に願い出て来てないんだが、規模もつり合っているし、本店が東京と大阪で店舗の補完性もまあまあだし、形の上では割にいい組合せじゃないかねぇ」

 と云うと、ふうっと息を吐いて、脇息《きようそく》に寄りかかった。その人を食った尊大な態度に万俵はむっとし、

「しかし、大臣、そんなに簡単に認めて戴いては、困りますねぇ」

 今年の春先、この同じ『金田中』で、“小が大を食う”合併の意図をほのめかし、永田大臣の協力方《がた》を頼み、永田も暗黙裡《り》に諒承《りようしよう》したことを忘れて貰《もら》っては困るというニュアンスを籠《こ》めて云うと、

「困ると云われても、双方、合意の上で合併したいと云っているのなら、仕方がないじゃあないですか」

 永田は、掌《たなごころ》で空になった盃をもてあそびながら、三白眼に薄笑いをうかべた。その表情で万俵はぴんときた。永田が両行の合併に賛成でないことは、これまで美馬や芥川《あくたがわ》からもたらされた情報でほぼ明らかだが、万俵の前ではわざとそう云い、すぐに話に乗って来ないのは、この“商談”の大きさをまず万俵に悟らせ、あとの“勘定”の桁《けた》をとくと認識させるためらしい。それが解ると、万俵はかえって気持に余裕が出来た。

「大臣、合併をお認めになったあとで、両行のどちらかから、妙な問題が出て来て、揉《も》めごとが起るようなことになると、それこそ金融界全体の再編成促進ムードに水をさし、大臣もお困りになるのではありませんか」

 意味ありげに云い、第三、平和銀行の合併つぶし作戦の口火をやんわりと切った。

「妙な問題――、そりゃあどっちの銀行のことなんですかねぇ」

 永田大臣は、別に表情を動かすこともなく聞き返した。

「むろん、ご名門の方ですよ」

 第三銀行とは云わず、名門銀行という云い方をし、

「あそこの日本橋支店で最近、いかがわしい融資が行なわれていることを耳にしたのですが、大臣はお聞き及びじゃあないですか」

「それなら、小耳に挟んだような気もするが、何しろここ最近、忙しくてねぇ、どういうことだったかなぁ」

 とぼけ面《づら》で云った。自分の方に喋らせるつもりだなと、万俵は感じ取ると、

「丸橋《まるばし》某という一介の総会屋に対して、この二年間に、三億五千万にのぼる不正融資が行なわれているというのです、二年間に三億五千万といいますと、われわれの常識として、これは一支店の支店長が単独に決裁出来る額をはるかに超え、上層部の特別命令融資に属することは一目瞭然《りようぜん》です、名門の誉れ高い銀行が、どうしたことかと不思議に思っていますと、副頭取が女性問題でこの総会屋に脅され、口止料がわりに出したのが、そもそもの融資の始まりだということらしいですがねぇ」

 自らは妻妾《さいしよう》同居の生活を営みながら、芥川が調べ上げたことを平然と話すと、永田大臣は、脇息から体を起し、

「瀬川の女というのは、この新橋界隈の仲居のことだろう――、芸者ならともかく、仲居とは罪深いよねぇ、万俵さん」

 永田は、にやりと笑った。万俵は内心、ぎくりとしたが、相子のことなど知られようはずがなかったから、落着き払い、

「大臣はやはり、ご存知だったのですか、しかし、この不正融資は、単なる女性問題で脅されて、ずるずると今日まで続いて来たにしては、額が大きすぎるようですが――」

「うむ、零《ゼロ》が一つ多過ぎる感じかな」

「ということは、この副頭取の不正融資の背景には、もっと根深いものがあるということではないでしょうか、聞くところによれば、瀬川副頭取と田淵幹事長とは、相当、深いおつき合いがあるんだそうですねぇ」

 さっき、美馬が、田淵と瀬川の癒着関係は、永田大臣の田淵攻略のための資料の中でも、まだ使わずに伏せられている問題で、大臣との話合いでこの線を押してみたらと云った言葉を思い出し、さらに一步、踏み込んだ。

「深いつき合いというと、例えば?」

 永田は軽くいなすように云ったが、万俵がどの程度、知っているかを、探るような問い返し方であった。このあたりに、いかにも官僚出身の政治家らしい狡猾《こうかつ》さがある。

「私の方がさる消息筋から聞いたところによりますと、この間の総裁選一つを例にとっても、その資金調達を受け持った田淵幹事長のもとへ、第三銀行から政治資金が流れ、幹事長は大いに点数をあげたということではないですか、それから察すると、田淵幹事長に対する献金額は相当なもので、丸橋某への疑惑融資の大半は、田淵幹事長のところへ吸い上げられているとも聞いています、もし仮に、そうしたことが事実だとすれば、これは銀行自体の体質にかかわる由々しい問題ではないでしょうかねぇ」

「結構ご存知じゃないですか、しかし、鎌倉のあの男のことまでは、まだ調査及ばずのようですね」

 三白眼をちかっと光らせて、云った。万俵は、とっさにわが耳を疑い、驚愕《きようがく》で動悸《どうき》がするのを覚えた。“鎌倉のあの男”というのは、いまだかつて、その名前も顔も、国民の前には一度たりとも現わしたことがなかったが、日本の政治、経済、言論を陰で操る黒い人物のことであった。

「第三銀行には、鎌倉のあの男まで絡《から》んでいるのですか、ではもっと克明に調査すれば、三億どころの額ではすまないでしょう」

 万俵は、ようやく呼吸を整えてから云った。

「そりゃあ、そうでしょうな、この間、検察庁の某幹部と会ったら、田淵―鎌倉のあの男―瀬川―第三銀行は、日本の黒い山脈の主峰とか云ってましたよ、はっ、はっ、はっ」

 永田は乾涸《ひから》びた笑い方をした。“検察の永田”と云われ、検察庁を握っている永田だけに、その笑いは不気味で、この事件で政敵、田淵を叩《たた》こうとしている心中を読み取った万俵は、永田の言葉に今、乗りかかるチャンスだと見た。

「大臣、当行としては、第三と平和の合併を、何としても阻止したいのです、大臣としても、ご異存ないのではないでしょうか」

 ひたと永田の顔に眼を当てた。永田は、

「三億五千万円の不正融資が、第三銀行の黒い体質と繋《つな》がる奥深いものであれば、大蔵省としては、そんな問題をはらんだ銀行の合併を不用意に推進するわけにはいかないが、かと云って、銀行を監督指導する立場にある大蔵省が、これを天下に公表するわけにはいかないからねぇ」

 上眼遣いに云った。その途端、万俵は、永田がこの問題を何らかの形で表沙《おもてざ》汰《た》にすることを望んでいる意図を感じ取った。

「ごもっともです、まさか、大蔵省がこんなことを……、なんなら当行独自の判断でやらせて戴きます」

 永田の意図を忖度《そんたく》するように云うと、永田は返事の代りに自ら銚子を取って、万俵の盃に注いだ。

「これは大臣、恐縮です――」

 万俵は恭《うやうや》しく受けると、すぐ返盃した。万俵にとっては、第三銀行の不正融資を世間へ“表沙汰”にすることは、第三、平和の合併を阻止し、自行に有利な合併を推進させるためであり、永田にとっては、政敵、田淵に対する揺さぶりになる。いわば利害の思惑が一致した者同士の乾杯であった。

 高須相子は、窓際《まどぎわ》の椅子に坐って、中庭を隔てて見える英国大使館の雨に濡《ぬ》れ、鬱蒼《うつそう》とした夜の樹立《こだち》を眺めながら、ここ一週間のことを思い返していた。

 六日前の夜、赤坂のナイト.クラブで踊った時の美馬の体の感触を思いうかべると、かすかな昂《たかぶ》りさえ覚える。スロー.テンポの曲に合わせて、体をぴったりと重ね合せ、緩く揺さぶるようにステップを踏む美馬の踊り方は、万俵大介には感じられない官能的な甘さがあり、相子は思わず自分を見失いそうになる戸惑いを、抑えたのだった。美馬も同じ思いらしく、強く抱き寄せ、口づけしかけた顔をつと仰向け、手を緩めた。双方の立場と齢《とし》が、辛うじて二人を感情の溺《おぼ》れから、怜悧《れいり》な打算の方へ導いたのだった。

 美馬にとって、万俵は出世のためのかけがえのない金蔓《かねづる》であり、相子にとっても、万俵大介は、齢の点を除けば、社会的地位、資産、家柄ともに、美馬より遥《はる》かに優れた第一級の人物であることが、二人をそれ以上の関係になることから救っているのだった。しかし、銀のスプーンをくわえて生れて来たような万俵家の人々の中で、自分たちだけが中流家庭に生れ、自らの力で生きて来たという共感は、相子と美馬の心の奥底に流れている。それだけに、そのあとの日曜日、五井地所の安田社長夫人から持ち込まれていた二子《つぎこ》の縁談を、角《かど》がたたぬように断わるために、茅《ち》ヶ崎《さき》へゴルフに出かける時、美馬も一緒に行ってほしいと誘うと、快く承知したのだった。しかし、それも二子の縁談の断わりというのは口実で、日曜日を一緒に過したかったせいかもしれない。

 門の方でクラクションの音がし、邸内に入って来る車の音がした。万俵大介の帰邸であった。相子は急いで部屋を出、玄関へ出迎えた。二人の書生と管理人夫婦も既に出迎えている。

「お帰り遊ばしませ――」

 相子は、傍《そば》にいる書生たちを意識し、女執事然とした恭しさで云った。

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