「うむ、ご苦労――」
万俵も女執事に対するように応え、玄関のホールへ上りながら、書生の一人に、
「どうだね、その後、君のお母さんの病気の工合は?」
「有難うございます、この間の土、日曜日に帰郷させて戴《いただ》き、その上、御見舞まで頂戴して、頭取のお気持のほどに、母は涙を流しておりました」
心から感謝するように頭を下げた。
「そりゃあよかった、姫路は今頃、紅葉できれいだろうな」
書生たちは、万俵家の郷里である姫路から東京の大学で学ぶために出て来ているのであった。そうした書生たちの眼をあざむくためにも、東京の行邸《こうてい》における万俵は、相子に対してはよそよそしい。
書生たちから、留守中の電話の連絡事項を聞き終えてから、相子に向って聞いた。
「先日来、依頼しておいた二子の縁談の件は、うまく捗《はかど》っていますか?」
「はい、ご指示通り、まず五井地所の安田社長夫人に、鄭重《ていちよう》に先日のお縁談《はなし》をご辞退申し上げ、改めて当方の希望をお願い申し上げております」
「それでは、早速とその報告を聞かしてくれますか」
どこまでも曾《かつ》て子供たちの家庭教師であった人に対する言葉遣いであった。応接室に入ると、相子は、テーブルを隔てて下座《しもざ》に着いた。
「で、当方の希望している縁談の、だいたいの心当りはつきましたか?」
「はあ、こちらの希望の線に添って、只今《ただいま》、佐橋総理のご親戚《しんせき》関係で、齢恰好《としかつこう》、その他、似つかわしい方をお願い致しております、先日、茅ヶ崎へ参りましたのもそのためで、五井地所の安田社長夫人へのお断わりの意味だけでなく、安田夫人のゴルフのグループに、総理夫人の又従姉妹《またいとこ》にあたる夫人がいらしたものですから、その方へのお近付きの意味もあって、ご一緒させて戴いたのでございます」
「なるほど、早速にことが進み、何よりです、じゃあ、このあと、さらにスムーズな進行を頼みますよ」
それだけ云うと、すぐ席をたち、
「じゃあ、もうお寝《やす》み、ご苦労だった――」
書生や管理人夫婦たちにも聞えるように云い、眼で、
「あとで――」
と相子に囁《ささや》きかけ、さっさと二階の寝室へ上って行った。
各室の灯りが消え、廊下の灯りもほの暗くなり、邸内が静まりかえると、万俵の寝室の扉《ドア》が開いた。
スーツのままの相子であった。その顔は一週間ぶりに抱かれる体の昂りに紅潮している。手早く服を脱ぎ、万俵のベッドに滑り込んで、
「いつもながら、お見事な演技ですこと、あれでは書生たちも、すっかり騙《だま》されますわ、ふ、ふ、ふぅ」
可笑《おか》しそうに笑うと、
「相子だって、たいした演技力じゃないか、二子の縁談はほんとうにさっき云った通りに運んでいるのかい」
相子の体を抱き寄せながら云った。
「ええ、もちろん、ほんとうのところは総理夫人の甥御《おいご》さまに適齢期の方がいらっしゃるそうなので、この間、総理秘書官から銀行課長になられた井床《いどこ》さんに、美馬さんから当って戴こうと思っておりますの、それだけに美馬さんにも、総理夫人の又従姉妹で、世話好きの外交官夫人と面識を持って戴く意味で、この間の茅ヶ崎にはご一緒して戴きましたのよ」
「なに、美馬が一緒だった?」
愛撫《あいぶ》している万俵の手が、止まった。
「ええ、その方が何かと心丈夫ですもの、第一、私は外ではどこまでも万俵家の女執事の域を出ることが出来ませんし、その点、美馬さんならご長女の娘婿《むすめむこ》でいらっしゃるし、ハンサムで、ご夫人たちの扱いも心得ていらっしゃるから、好都合でございましたわ」
相子はそう云いながら、瀟洒《しようしや》とした長身の美馬がきれいなポーズでクラブを振り、時々、しゃれたジョークで夫人たちを笑わせては、思わず夫人たちに溜息《ためいき》さえつかせる女扱いの巧みさを思い出していたが、万俵は、最前の『金田中』の席で、美馬が、茅ヶ崎へ行ったことを口にしなかったことにこだわった。
「なるほど、美馬なら、そうしたことにも、大いに役だつだろう、しかし、大蔵官僚ともあろうものが、いくら日曜日だといっても、ご夫人連のゴルフのお伴《とも》などとは、恰好のいいものじゃないねぇ」
「あら、どうしてそんな風におっしゃいますの? 美馬さんのおかげで、何かとことが円滑に運んでいるんじゃありませんか、しかも二子さんのためでございますよ」
「そうかい、すべて二子の縁談のために、動いているというのかねぇ、あの男が――」
万俵は、長女の一子《いちこ》が、嫁いで半年もたたぬうちに、結婚前から続いている美馬の女の問題で実家《さと》へ帰って来たことを思い出していた。そういう女たらしの美馬と、女ざかりの豊満な肢体を持った相子の取り合せが、大介の心の中で猜疑心《さいぎしん》をもって膨《ふく》れ上り、ふと亡父と妻の寧子《やすこ》に対する猜疑の思いまでが、重なり合って万俵の胸を掠《かす》めた。馬鹿《ばか》な! 万俵は、首を振り、
「一週間ぶりだな」
と云うなり、荒々しく相子の体を抱き、首筋から豊かな胸にかけて唇を捺《お》しつけた。みるみる豊満な相子の体が汗ばみ、声をおし殺して喘《あえ》いだ。そうした相子の肢体を娯《たの》しむように万俵はさらに愛撫し、自在に扱いながら、相子の耳朶《じだ》に囁いた。
「相子、二人のこういうことは……誰にも知られてはいけない秘密だ、いいね……」
相子は体をくねらせながら、
「どうしてそんなこと……今さら……」
「いや、別に……ちょっと……念を押しただけだ……」
そう云い、さらに濃厚な情事に溺れながら、万俵はさっき、永田大臣と話した第三銀行の瀬川副頭取の女のことを思い返した。そして、瀬川を、馬鹿な奴《やつ》だと思った。自分のように相子を四六時中、傍《そば》におきながら、女執事然とした構えで、周囲からいささかも疑われずに押し通している者がいる一方では、新橋の仲居などにひっかかって、総会屋に脅されて不正融資に追い込まれるような愚かな者もいる。銀行家《バンカー》には、他人の金を扱っているという自他から来る厳しい規制があり、その規制がともすれば、自然な人間の欲望を抑圧し、歪《ゆが》め、隠花植物のようなじめじめした欲求をもたらせることがあるが、それを用意周到な方法で処理し、絶対、世間に知られぬようにするのも、また銀行家《バンカー》というものだ。自分は過去十数年間、そして今後も、細心の注意を払って、いささかも私生活の疑問を感じさせない冷厳公正なる頭取で押し通して見せる。そう思うと、万俵は、開ききった相子の体を強く締めつけながら、咽喉《のど》もとに隠微な笑いを溜めた。
翌朝、車は九時十分に、馬場先濠《ぼり》に面した阪神銀行東京支店に着いた。
「頭取、お早うございます」
秘書が玄関まで出迎え、エレベーターの中でその日の日程を報告した。万俵はいちいち頷《うなず》いていたが、頭の中は、昨夜の永田大臣との話しか考えていなかった。
エレベーターを降り、奥まった頭取室へ足を向けると、芥川が待ち受けていたように頭取室へ入って来た。
「昨夜の大臣との会談は、いかがになりましたか?」
「昨夜の商談は、大きかった、第三銀行の不正融資の背後に、“鎌倉のあの男”が繋がっていたのだよ」
と云うと、芥川は一瞬、言葉を跡切《とぎ》らせた。齢の頃、六十二、三歳にもかかわらず、頭髪を染めているのか、髪はあくまで黒いオールバックで、虫も殺さぬ紳士然たる風貌《ふうぼう》でいながら、暮夜ひそかに大企業の経営者や実力政治家を思いのままに鎌倉の自宅へ呼びつけ、日本の政財界のダーク.サイドは、彼を中心として動いているといわれるほどの黒幕的人物であった。
「どうした、君の調査にも鎌倉の男のことはなかったな」
「はあ、まさか、そこまで奥深いものとは……、一介の総会屋が、女のことで第三銀行の副頭取を脅迫した、その不正融資の裏を洗って行くと、融資の大半が田淵幹事長に流れ、しかも鎌倉の男が糸をひいていたとは――」
信じられないように云うと、
「そんなことは、もはやどちらでもいい、それよりここまで来れば、出来るだけ早く第三銀行の三億五千万円の不正融資を、“表沙汰”にして、第三と平和の合併をつぶすことだ」
「と云いますと、新聞に書かすことですね」
「そうだ、新聞に一回、書かれただけでは、つぶれはしまいが、まず新聞に書かせることだ、書かれたことによって、相撲でいえば、土俵に呼び上げられたことになり、あとは勝手に動くじゃないか」
「しかし、一つ間違えば――」
芥川は、鎌倉の男の存在を怖《おそ》れるように云った。
「解《わか》っている、相手が相手だけに、下手をすれば、こちらが火の粉を浴びんとも限らない、しかしそこをいかにかすり傷程度におさえるかというのが、君の力量じゃないか、そのために、これという社の、これという記者に、普段のつき合いもしてあるんじゃないか」
そう云い、万俵はぷかりと葉巻をくゆらした。
「書かすとなると、どこの新聞という選定になるが、君の意見は?」
「それは、まず全国紙であること、次に関東系の新聞にするか、関西系にするかですが、第三銀行は、東京に本店を持つ銀行ですから、書かすとなると、関西に本社を持つ全国紙、さしあたり毎朝新聞というところでしょう、その辺にしておくと、まさか阪神銀行などとは思わず、関西の上位二行のいずれかが密告《さ》したという風に取られますでしょう」
「あとは、その持って行き方だな」
万俵は、芥川のやり口を試すように云った。
「その辺のところは、何しろ腕ききの経済記者相手ですから、さり気ない日常の情報交換の中に織り込んで、大きなやま[#「やま」に傍点]があるなと悟らせるような話の持って行き方をせねばなりませんが、それは後程《のちほど》、細かく詰めます」
芥川は成算あり気に云い、ふと声を細めた。
「こうしたことはすべて、大臣のご指示によるものなのでございましょうね」
「あの人が、ストレートにそんな指示など出すものかね、こちらが大臣の胸中をかくあらんと“忖度《そんたく》”する立場だよ」
「そうしますと、大臣のご意向は、いくら第三銀行に不正融資の事実があっても、まさか大蔵省から進んで、天下に“公表”するわけにはいかないから、そちらでうまくやれというわけですね」
「まあ、そんなところだ――」
第三銀行の不正融資を公表し、第三、平和の合併をつぶすことは、阪神銀行の有利な合併のための阻止であり、永田大蔵大臣にとっては、政敵、田淵幹事長の資金パイプに対する大きな揺さぶりになる。
もはや芥川の胸にも、万俵の意図が手に取るように解り、あとは自分の配下の忍者部隊を指揮し、マスコミを利用したつぶし作戦を成功させることであった。
「では早速、つぶし作戦の実施にかかります――」
「これまでマスコミ関係にかけておいた保険が、かけ捨てにならぬようにやって貰いたいものだね」
万俵は、釘《くぎ》をさした。
「私も、保険のかけ捨ては嫌いでございますから、今までかけた保険をこの際、一挙に回収致すつもりでございます」
東京事務所長らしい自信をもって応《こた》え、頭取室を出かかると、
「芥川君、永田大臣の意図を忖度したつぶし作戦と同時に、田淵幹事長への保険つなぎも忘れんで貰いたい」
とつけ加えることを万俵は、忘れなかった。
「もちろん、田淵幹事長へも、盆暮の挨拶《あいさつ》はぬかりなくしておりますが、近々、何か口実をもうけて、ご挨拶に参上しておきます」
芥川は、そう応え、
「頭取、永田大臣の芦《あし》ノ湖《こ》の別荘の方のお手伝いは、どの程度、なさるおつもりです?」
「そうだねぇ、庭石一つでもお手伝い、茶室一つでもお手伝いということになるが、今度の第三銀行のつぶし作戦の片棒を担《かつ》いで貰っていることを考えると、かなりの腹づもりをしなきゃあね」
と云うと、万俵はもう秘書課を呼び出すインターフォンを押し、約束の時間よりもう二十分も遅れている午前の第一番目の来客を、案内するように云った。
芥川は、頭取室を出ると、総務課へ足を向けた。
朝のミーティングが始まるところらしく、総務課長の黒井をはじめ、大蔵担当の伊佐早《いさはや》五郎、日銀担当の冠収《かんむりおさむ》、同業の金融とマスコミ担当の平松雲太郎の四人が、それぞれ収集して来た情報の整理をしていた。芥川は、そうした銀行忍者たちの動きをじっと眼で追いながら、マスコミ担当の平松雲太郎の背に、ぴたりと視線を止めた。
所長室に戻ると、芥川は昂《たかぶ》った気持を静めるために、煙草《たばこ》に火を点け、大きく煙を吐いた。
万俵の前では、成算ありげに引き受けたものの、具体的なことを進めて行く筋だてを考える段階になると、田淵幹事長のみならず、“鎌倉のあの男”まで介在している事件だけに、もし、阪神銀行が密告《さ》したことが発覚すれば、それこそ、どんな返り血を浴びるかわからない。
だとすれば――、芥川はまだ半分も喫《す》っていない煙草を灰皿に捨て、二本目に火を点けながら、考えた。万俵のもとを辞したあと、“忍者部隊”である総務課へたち寄り、マスコミと同業者を担当する平松雲太郎に、この火つけ役をやらせるべく、後で来るように命じておいたが、自分自身ですべきではないかと逡巡《しゆんじゆん》した。その心の決まらぬまま、芥川は、機密書類を入れている鍵《かぎ》のかかった机の引出しをあけ、中からタイプした書類の綴《つづ》りを取り出した。それは、第三銀行の瀬川副頭取を新橋の仲居のことでゆすり、その後、日本橋支店を通して二年間に三億五千万円の融資を引き出した総会屋、丸橋忠に関する人事興信所の調査書であった。
芥川は、戸籍抄本を貼付《てんぷ》した調査書の頁《ページ》を繰り、もう一度、拾い読みして行った。
本名 丸橋 忠
出生地 広島県
生年月日 大正十三年八月一日
最終学歴 昭和十七年、広島中学校卒業
職歴 昭和十七年、満鉄に勤める。
叔父をたよって、満州へ渡る。
昭和二十年、満州引揚げ後、五年間は、消息不詳。
昭和二十五年、東京兜町《かぶとちよう》の老舗《しにせ》大万《だいまん》証券へ入社。
営業マンとして成績を上げ、昭和三十四年法人部長に就任。
昭和三十五年、数年前より、自社の金を流用して手張りをやり、大穴をあけたのが発覚、大万証券を免職される。以後、証券会社時代の情報をもとに総会屋となる。この時期、前大蔵大臣田淵円三氏の秘書官と同窓の誼《よしみ》で、一度接触があった模様であるが、以後、田淵氏の秘書官と親しいことを盛んに吹聴《ふいちよう》、それを笠《かさ》にきた言動が目だちはじめる。
昭和四十年、株式会社太陽土地開発を設立、総会屋のかたわら、不動産業に乗り出す。
株式会社太陽土地開発の事業内容
所在地 東京都中央区日本橋通二丁目吉田ビル三階
資本金 四百五十万円
社長 丸橋 忠
株主 丸橋忠と妻さち江、及び親族
従業員数 不明
取引銀行 第三銀行日本橋支店
業態 主に那須《なす》高原の別荘地開発
現況 昭和四十年、会社設立当初、物件の売買は、数件あった模様であるが、一年を経ずして経営に失敗。その後、実際上の営業項目としてみるべきものは、皆無である。現在、日本橋の事務所には姪《めい》を事務員がわりに一人置いて、開店休業中のかたちをとっているが、太陽土地開発が、あくまで総会屋丸橋の表看板で、実体のない会社であることは疑う余地がない。
調査書から眼を上げると、芥川は三本目の煙草を口にくわえた。この調査書を受け取った後、第三銀行の日本橋支店が、こういう実体のない会社に三億五千万円の融資を行なっている事実を突きとめることが出来たのは、自分のところへ半期ごとに賛助金をせびりに来る総会屋から、それとなく丸橋の評判を聞き、太陽土地開発が警視庁の内偵をうけているらしいという情報を聞いたからだった。芥川は時を移さず、懇意にしている検察庁の幹部と会食し、内偵の内容を聞くと、それが三億五千万円の不正融資であることが解ったのだった。“東京探題”である芥川としては政、官界のみならず、検察庁、警視庁とも絶えず接触していなければ、本当の深層海流はつかめない。芥川はその方面の情報もぬかりなく入手するために、常日頃のつき合いをおこたらなかったが、さすがにその幹部も、背後に鎌倉のあの男がいることだけは、話してくれなかった。
扉《ドア》をノックする音がした。平松雲太郎であることは、ノックの仕方でわかったが、この事件の火つけ役を平松にさせるか、自分自身でするか、まだ考えがきまらぬうちに、平松雲太郎が入って来た。
長身で、ダンディな大蔵担当の伊佐早五郎とは対照的に、ずんぐりと小柄で色も黒く、蜘蛛《くも》太郎と書く方が似つかわしい容貌《ようぼう》だったが、童顔のせいか、陰湿な感じはない。しかし、びっしりと細かく情報の網を張り、一度《ひとたび》、その網にかかった獲物《えもの》は、どんなに日時をかけても、徹底的に追って行くという粘り強さは、やはり蜘蛛太郎というべきであった。
「遅くなりました」
平松は、芥川の前にたった。散髪したばかりらしく、頭髪が短く刈り込まれて、童顔が一層、若がえり、寝業《ねわざ》が特に必要とされるマスコミ、同業者担当の忍者とは、とても思えない。芥川は、そうした平松の顔を見た途端、迷うことなく平松にやらせようと、心を決めた。
「第三と平和銀行の合併問題だがね、新聞社は、まだどこも感付いていない様子かね?」
「はあ、まだどこも――」
「しかし、君たちの調査だと、両行の合併は、ますます確度の高いものになって行くようじゃないかねぇ」
「はあ、あまり乗り気でなかった平和銀行の方も、そろそろエンジンがかかりはじめたような感じでございますね」
こうした事態にも色めかず、ポーカー.フェースで応えられるのが、平松の特長であった。
「すると、第三銀行日本橋支店の三億五千万円の不正融資の件も、まだ知られていないのだね」
芥川は、机の上に拡げた丸橋忠の人事興信所の調査書を眼で指しながら云った。平松は、その芥川の視線を追い、
「では、その方を知って貰《もら》うことに致しましょうか」
確認をとるような口ぶりで云った。その方とは第三銀行の不正融資のことであったが、忍者たる者は、一々、上司に説明させないようにもって行くのが、務めであった。
「うむ、しかし、この事件は当初、考えていたより、根が深いのだ、鎌倉のあの男にも繋《つな》がっている――」
と云うと、平松は童顔を緊張させ、
「では、よほど信頼できる記者でないと話せませんね」
「毎朝新聞がいいだろう、誰にするかね?」
「浅田さんにしたいと思いますが、いかがでしょうか」
「いいだろう、だが、当行が火の粉をかぶらないよう、それだけは充分、心するように――」
いつになく、念を押した。その念押しで、一つまかり間違えばただではすまないという、事態の重大さが、平松の脳裡《のうり》に叩《たた》き込まれた。
「かしこまりました、では――」
平松は、事務所長室を出、総務課へ戻った。総務課には、大蔵担当の伊佐早五郎の姿はなく、日銀担当の冠収も、入れちがいに出かけて行って、黒井課長が電話をかけていた。
平松雲太郎は、自分の机の上の電話を取り、毎朝新聞の浅田記者直通のダイヤルを廻しかけたが、十一時近くをさしている時計を見ると、日銀の金融記者クラブのダイヤルの方を廻した。今の時間なら多分、記者クラブに詰めているはずであった。
「もしもし、浅田さん、いらっしゃいますか?」
と聞くと、電話を取った若そうな記者は、いるとも、いないとも応えず、すぐ浅田記者が電話口に出て来た。
「はい、浅田――、なんだ、クモさんか」
一週間のうちの半分は、顔を合わせている間柄であったから、もしもしというだけで、互いに相手が解《わか》った。
「ちょっと、妙な聞込みがあったんですが、今日、昼食の時間、あいていらっしゃいませんか」
平松はいきなり云った。最初から興味を引くような切出し方をしなければ、毎朝新聞のような大新聞社の記者は、日頃、いかに親しくしていても、簡単に乗り出してこない。
「なんだい、妙な聞込みって?」
「それが全くもって妙な話なのです、日本橋の例のてんぷら屋へお出かけ戴《いただ》けませんでしょうか」
切出しの口調より、ことさら丁寧な口調で云った。第一声でいかに相手の興味を引き、第二声でいかに相手をムズムズさせるか、それがマスコミ忍者の腕の見せどころであった。浅田記者はちょっと間《ま》をおいてから、
「よし、十二時過ぎに行こう」
と承知した。
平松雲太郎は、約束の時間より十分早く、日本橋の表通りから少し入ったてんぷら屋の二階へ上り、毎朝新聞の浅田記者が現われるのを待っていた。
浅田記者は、毎朝新聞の日銀記者クラブのキャップで、記者歴十五年、顔には出さないが、好き嫌いが激しい性格で、嫌いな人間は寄せつけないが、不思議に平松とは心が通い合う仲であった。浅田のように仕事が出来て、反骨精神の強い記者は、金と看板にあかして情報を集める大銀行の忍者たちより、自分の手と足で粘り強く情報を集めて分析する平松のような男に好感を持ってくれていた。そして、「どうだい、クモさんの蜘蛛の網は大分、張れたかい」と聞いてくれる浅田と、食事をしたり、飲みながら、大新聞の記者たちがたち廻らない小さな金融機関の情報を話すと、それを繋《つな》ぎ合せて、切れ味の鋭い記事に仕立てあげてしまう場合がある。その代り、阪神銀行の忍者では到底、窺《うかが》い知ることも出来ないトップ.シークレットを報《しら》せてくれる仲であった。記者と忍者の関係は、情報交換の取引だけでつき合う間柄と、人間的な信頼感を踏まえたうえで情報を研究しあう間柄とがあるが、浅田記者と平松は、どちらかと云えば、後者の部類であった。
とんとんと、階段を上って来る足音がしたかと思うと、浅田記者が姿を見せた。
「先程はお電話で失礼しました、早速に、どうも」
平松は、童顔をぺこりと下げるように云うと、
「なんだね、さっきの妙な聞込みというのは――」
新聞記者特有の気の早さと素っ気なさで、坐《すわ》るなり聞いた。平松は注文を聞きに来た女中が、階段を降りてしまうのを確かめてから、
「実は、第三銀行のことなんですがね、日本橋支店で三億五千万円の不正融資があるということを聞き込んだんですよ」
と云うと、浅田は一瞬、眼を瞬《しばたた》かせたが、ゆっくり煙草を口にくわえてから、
「いくら第三銀行の日本橋支店といっても、三億五千万とは、ちょっと桁《けた》が大き過ぎるじゃないか、融資先はどこなんだ」
「日本橋の太陽土地開発という、資本金四百五十万円の不動産会社なんですが、ちょっと聞いたところでは、主に那須高原の別荘開発と云いながら、実際上の取引では動いている様子がなく、女事務員一人だけがいて、開店休業中のような幽霊会社なんだそうですよ」
「で、一体、その経営者というのは、どんな奴《やつ》なんだ」
浅田は、運ばれて来たてんぷらに箸《はし》をつけ、先を促した。
「それが、丸橋忠弥《ちゆうや》ではなかった――、ええっと……丸橋忠という男で、本業は総会屋らしいですが、ご存知ですか?」
「知らんねぇ、どうせ小物だろう」
にべもなく云い、
「それにしても、どんな因縁か知らないけれど、そんな正体不明の男に三億五千万も貸す一方で、たとえ百万でも融資してやれば助かる中小の企業には、預金者の大切な金だからとかなんとかいって、冷酷に倒産に追い込んだりする、銀行ほど一皮めくれば、表見《おもてみ》と大違いというところはないよねぇ、クモさん」
皮肉な笑いを平松に向けた。
「こりゃあ、いつもながら手厳しいお言葉ですね、そんな風に云われると、今おっしゃった因縁というのが、話しづらくなってしまいますよ」
「僕の前で、今さら当惑してみせることもないだろう、ことの起りは、どういうことなんだね」
「それが、女のことなんですよ、第三銀行の瀬川副頭取が、総会屋の丸橋忠という男に、女の問題で脅され、口止料がわりに最初、融資したのが腐れ縁になって、ずるずると三億五千万にまで膨《ふく》れ上ったということです」
「なに、女のことで――、ますますもって舐《な》めた話じゃないか、特に瀬川副頭取と来たら、お座敷でも芸者の手ひとつ、よう握らない堅物《かたぶつ》で通っている奴なのに」
瀬川の欺瞞《ぎまん》を憤《いきどお》るように云った。
「ところが、新橋の待合『右近《うこん》』の仲居で、名前は小川美代、年齢三十三歳、色白で小柄な女というところまで解っているのです、そりゃあ銀行家《バンカー》も血が通った人間ですから、女性関係が絶無というわけには参らないでしょうが、実のところ、私もあの謹厳実直、石仏《いしぼとけ》さんのように云われている瀬川副頭取だけに、全く驚きです、しかもそのことが億の桁のつく不正融資の因《もと》になったというのですからねぇ」
巧みに浅田記者の不快感を増すように云い、
「しかし、浅田さんの感じとしては、この事件はどうなんでしょうか、われわれが今まで名前も知らなかった一介の総会屋が、第三銀行から億という金を引き出す程の大悪党とは、とても考えられないのですがねぇ」
「さあ、どうかな――」
浅田は曖昧《あいまい》に応えたが、平松には、第三銀行の持っている黒い体質を浅田が知っているらしく感じ取られた。平松はさらに、その手ごたえを確かめるために、
「聞くところによりますと、その丸橋忠というのは、田淵幹事長の秘書官とも親交があるとかいう噂《うわさ》ですが、ほんとうなんでしょうか、実は今度の三億五千万円の不正融資事件に、田淵幹事長が絡《から》んでいるとも、いないとも云われていましてねぇ」
てんぷらを頬ばりながら云うと、浅田の眼が光った。
「臭いな、これは黒い霧か……」
平松は内心、しめたと雀躍《こおど》りしたが、素知らぬ態《てい》で、
「それが黒いか、灰色程度なのか、それこそ、浅田さんに判断して戴きたいのですよ」
生真面目《きまじめ》な口調で云うと、
「あの銀行は、瀬川が副頭取になった頃から、黒い体質に染まってきたところだから、その不正融資の背後を洗って行くと、霧に包まれていたものが、現われるって感じだな」
ひとりごつように云った。
「そうしますと、浅田さんの判断では、この事件は、私が考えているような単なる不正融資でなく、もっと根が深いというわけですか」
さらに煽《あお》りたてるように云うと、
「だが、君の銀行も少し妙だな、どうして第三の事件にそうも興味があるんだい?」
ばさりと斬《き》り返すように聞いた。覚悟していた反問であった。
「そりゃあ、こんなことを小耳に挟《はさ》めば、どの銀行だって、興味を持つのが当り前じゃありませんか」
童顔のとぼけ面《づら》で云うと、浅田はにやりと笑い、
「それもあるだろうが、それだけじゃないだろう、第三銀行の件を表沙《おもてざ》汰《た》にすることによって、何か阪神銀行に影響することでもあるんじゃないか」
鋭いきっ先であった。
「とんでもありませんよ、当行としては、ただ、ことの真相を知りたい、それだけですよ」
辛うじて、鋒先《ほこさき》をかわすと、
「それにしても、何も僕に話して、新聞に書かせようとまでしなくてもいいじゃないか、要は書いてほしいということだろう」
有無《うむ》を云わさぬ口調で詰問《きつもん》した。平松は、言葉に詰りかけたが、
「なにも私の方は、新聞に出すとか、何とかではなく、一般的な情報収集ということで浅田さんにお話しし、もっと詳しいことをご存知だったら、お教え戴こうと思っただけですよ、それにもし、他《ほか》の新聞にでも出て、私がそのことについて知らなかったでは、これ[#「これ」に傍点]にかかわることですからね、そこのところを解って下さいよ」
首のところへ、手をやって、あくまでもしら[#「しら」に傍点]を切った。
「そうかい、クモさんもなかなかしぶといな、それなら、それでいいよ、その代り、今日のこの話は、ベタ一段ぐらいの扱いでいいんだな」
平松のいちばん痛いところを突くように云った。平松にしてみれば、トップ記事にはならなくとも、出来るだけ賑々しく[#「賑々しく」に傍点]扱って貰わねばならなかったから、ほとほと弱り果てた顔をつくり、最後の切札を出した。
「浅田さん、そんなにいじめないで下さいよ、実は、この件で、警視庁は太陽土地開発と第三銀行日本橋支店を、内偵しはじめている様子なんですから――」
「なに、警視庁が――」
浅田は、思わず中腰になり、
「そう聞いては、ぐずぐずしておられない、朝刊まで大車輪だ――」
と云うなり、駈《か》けるように階段を降りて行った。その足音を聞きながら、平松はほっと太い息をついた。十一月というのに、背中から腋《わき》の下まで脂汗《あぶらあせ》がにじんでいた。
羽田空港に向う車の中で、万俵と芥川が小声で話していた。万俵は全国銀行協会の会議を終えたあと、取引関係の宴席があり、芥川は、万俵頭取を空港へ送りかたがた、車中で第三銀行の件に関して、その後の状況報告をするため、同乗したのだった。
「頭取、全国銀行協会での第三銀行の日下《くさか》部《べ》頭取の様子は、いかがでございました?」
「会合の時はまだ何も知らされていなかったらしく、いつもの理論家ぶりを発揮していたが、懸案事項が終りかけの頃、本店から緊急電話が入り、会議室を出て行ったが、相当、長い電話だったし、そのあと、エレベーターで帰る時も、顔色が青ざめていたから、火の手が上ったのは、まず確実だねぇ」
と云うと、芥川は昂《たかぶ》った口調で、
「おそらく、それは毎朝新聞からの取材申入れではなかったのでしょうか、先程、マスコミ担当の平松からの電話によりますと、毎朝新聞では第三銀行はもちろん、警視庁、大蔵省、日銀などへも、社会部と経済部の記者が、他社に感付かれないよう隠密裡《り》に取材している様子だそうです」
「扱いは、どの程度になりそうかね?」
万俵は、前方を向いたまま、聞いた。
「そこが肝腎《かんじん》のところですが、平松から毎朝新聞の浅田記者と話し合った内容を聞いた感じでは、トップは無理にしても、まあ、社会面の五、六段の記事にはなると見込んでおります」
「相手は名門、第三銀行のことだ、政治資金その他で繋《つな》がっている政、官界の有力筋を通して、あらゆる術《て》を打ち、それこそ田淵幹事長をも動かして、必死のもみ消し工作を行なうだろうから、油断はできない」
そう云われると、芥川は瞬時、口を噤《つぐ》んだが、
「しかし、もはや警視庁が動き出していては、いかな田淵幹事長でも、全くもみ消してしまうことは出来ないのではないでしょうか、その上、検察庁関係なら、昨夜、頭取がお目にかかられた大臣の筋の方が、強いのですから――」
さすがに永田大蔵大臣の名前は、運転手の耳を憚《はばか》り、口にしなかった。
「だが、“鎌倉のあの男”が動き出せば……」
万俵は再び“鎌倉の男”のことを思った。虫も殺さぬ紳士然としながら、暮夜ひそかに鎌倉の自宅へ政、財界の大物を自在に呼び出し、日本の政治、経済をダーク.サイドで動かしている黒い主《ぬし》の顔と姿が、まざまざと眼にうかんだ。
「芥川君、しっぽの方は、大丈夫だろうな」
万俵は体を起し、念を押すように聞いた。新聞社に書かせるように仕向け、その工作に成功しても、火つけの張本人が阪神銀行であったことが解《わか》れば、“鎌倉のあの男”のこれまでのやり口を考えると、火の粉どころか、阪神銀行自体も大火事の憂目《うきめ》にあわされる。
「頭取、その点はご懸念《けねん》なく――、毎朝新聞の浅田記者と平松のつき合いは、昨日や今日のものではなく、また浅田記者は好き嫌いの激しく、反骨精神の強い性格で、仕事の面で、みすみす損と解っていても、反骨を通して来た人だけに、ニュースソースは、どんなことがあっても、口外する記者ではありませんから――、あとは忍者たちの言動ですが、彼らにはここ当分、騒ぎがおさまるまで、亀《かめ》のように首をすくめて、じっとしているように申しつけております」
「そうか、それならいいが、してやったつもりが、してやられる場合もあるから、当行の者にも、絶対、気付かれぬようにすることだ、私は息子の銀平にさえ、このことは話していない」
と云いながら、万俵は、こんな危ない橋を渡ってまで、第三銀行のスキャンダルの火つけ役をしたのは、第三、平和銀行の合併を阻《はば》んで、自行を有利な方向へ持って行きたいという衝動もさることながら、永田大蔵大臣の意向を忖度《そんたく》し、永田大臣と二人三脚であればこそ、踏み切れたのだと思った。
鎧戸《よろいど》を通して射《さ》し込んで来る朝の薄い光に、大介は眼を覚ました。ナイト.テーブルの上の時計を見ると、まだ六時前で、平常より一時間早い目覚めであった。今朝の毎朝新聞に、第三銀行の件が載っているか、いないか、気懸《きがか》りであったからだった。
大介は寝返りをうち、もう一眠りしようとした。まだ朝刊の来る時間ではなかったし、昨夜、東京から最終便の飛行機で帰って来たあと、なかなか寝つかれず、頭の芯《しん》がずきずきと痛む。暫《しばら》く眼をつむっていたが、緊張しているせいか、やはり寝つけず、もう一度、大きく寝返りをうった。傍らのベッドで、妻の寧子はまだ眠っている。昨夜、東京から帰って来た時も、夫の異様に緊張している様子に気付かなかったが、今もすやすやと平穏に寝入っている。相変らず、おっとりとした人形のような妻だと思ったが、こんな場合、自分の胸中の動きを鋭敏に読み取る相子より、かえって気が楽だった。