「そんな、まさか――、でも、その相手の方を、もし二子が厭《いや》がるようでしたら、何とか今度は相子さんに頼んで、止《よ》して戴きます」
鉄平はともかく、一子に続いて銀平の結婚もうまく行っていないらしいことに心を痛めている寧子は、妻の確固たる座は既に諦《あきら》めていても、母親としての最後の一線だけは守り抜くように、必死の面持で云うと、子供のない千鶴は急に冷淡な表情になり、
「それはどうぞご随意に――、要はあなたのお腹《なか》を痛めて出来たお子さま方のことですもの、高須がどうしようと、私はとやかく云いません、でも、明後日《あさつて》のお父さまの十七回忌の法要には、高須など一切、たち入らせませんから、そのことは寧子さん、あなたもはっきりしておいて下さいよ」
曾《かつ》ての万俵家の一人娘らしい傲慢《ごうまん》さで、ぴしゃりと云った。先代万俵敬介の十七回忌の法要は、万俵家の郷里である姫路の名刹《めいさつ》、亀山《かめやま》御坊で盛大に執《と》り行なわれることになっているのだった。
「もちろん、このことは、私から兄の大介に云い、けじめをつけるよう申しますけど、そうなると、当日の法要の御回向《ごえこう》料のことや、ご焼香客のおもてなしなど、とてもあなたでは取り仕切れないでしょうから、故万俵敬介の娘である私が致しますが、ご自身のお身の廻りのことぐらいはちゃんとなさいましよ、さし当って喪服はどれになさるおつもり?」
千鶴は、一切を引っ構えるように云い、運ばれて来た紅茶に口をつけた。
「それは、お舅《とう》さまの十七回忌にそなえて、この秋、京都のゑり善に別注して仕立てておきましたから――」
「そう、お色はどんなの?」
「地紋が松皮菱《びし》で、お色は公卿《くげ》紫に致しました」
白い細面《ほそおもて》をかしげるようにして云うと、千鶴は一つ紋の喪服にも華族の位取《くらいどり》が滲《にじ》み出ている寧子の感覚に、気圧《けお》されるようにおし黙ったが、女中が暖炉の火加減を見に入って来ると、
「あら、もう五時近くなのね、じゃあ、私、これで失礼させて戴くわ、ごめん遊ばせ」
云うだけのことを云い、聞くだけのことを聞き出して、慌《あわただ》しくたち上った。寧子が後を追って玄関のポーチへ見送りに出た時は、車は既に動き出していた。
寧子はほっと吐息をつき、居間に戻ったが、刺繍にとりかかる興をすっかりそがれていた。暫《しばら》くぼんやりと暖炉の火を見詰めていたが、式服の準備を確かめておくことを思いつくと、女中に衣裳《いしよう》部屋の鍵《かぎ》を持って来させ、スペイン風の西洋館と、数寄屋《すきや》風の日本館を内側《うちら》で繋《つな》ぐ渡り廊下を伝って、衣裳部屋へ向った。日本館の方は、銀平が結婚する際、その新居を建築するために半分、取り壊してなくなったが、客間と仏間、茶室、湯殿などは、そのまま残され、衣裳部屋は渡り廊下を渡ったすぐとっつきのところにあった。
鍵をあけ、戸襖《とぶすま》を開いて中へ入ると、薄暗い部屋の中に定紋《じようもん》入りの油単《ゆたん》(掩《おお》い布《ぬの》)をかけた衣裳箪笥《だんす》がぎっしりと並び、かすかな樟脳《しようのう》の匂《にお》いが鼻をついた。寧子は、底冷えのする冷たい部屋の空気に、肩をつぼめながら、実家の嵯峨家《さがけ》の家紋である上藤丸《あがりふじのまる》の定紋入りの油単をかけた衣裳箪笥の前に步み寄った。三棹《みさお》の総桐《そうぎり》の箪笥には、万俵家へ嫁ぐために、京都の呉服屋に別染めさせた婚礼衣裳から訪問着、散步着が重ねられ、その横の二棹の箪笥には、結婚後に誂《あつら》えた衣裳が入っている。寧子は、舅《しゆうと》の十七回忌の法要の喪服一式をきちんと確かめるために来たのだったが、衣裳部屋に入った途端、そんなことは忘れ果てたように嫁いで来た時に持って来た箪笥の前にたちつくし、やがてゆっくりとした動作で油単をとると、ひき手の金具にまで定紋の入った箪笥の引出しをあけた。寧子が娘として成長した頃はもはや往時の威光を失い、公卿華族という血統を唯一《ゆいいつ》の財産にして娘たちを資産家に嫁《かたづ》け、その余沢で華族生活を維持していた貧乏華族だったから、こしらえの大半は、万俵家の莫大《ばくだい》な結納金によってまかなわれたものであったが、寧子はその衣裳箪笥をあけると、父をおもうさま[#「おもうさま」に傍点]、母をおたあさま[#「おたあさま」に傍点]と呼んで暮した平穏な娘時代のことが偲《しの》ばれ、心が和んだ。
畳紙《たとうがみ》に包まれた着物を一枚、一枚、取り出し、着ている着物の上から華やかな訪問着や若やいだ散步着を次々に肩にかけているうちに、さっき千鶴と話していた時の哀《かな》しみとも苦しみともつかぬ表情は消え、着せ替え人形を楽しむ童女のような無垢《むく》な美しさが満ちた。畳紙から出した着物を寧子はたたむことを知らないように、肩にかけてはそのまま下へずり落し、また次の着物を取り出してはうち眺め、友禅や疋田《ひつた》絞りの豪奢《ごうしや》な衣裳が寧子の周囲に、花弁のように拡がって行き、なおも憑《つ》かれたように、何枚目かの着物を取り出すと、寧子は眼を輝かせて両袖に腕を通した。京都の高名な染色家の筆になった白地に紅梅模様の香気溢《あふ》れる綸子《りんず》の訪問着で、寧子の気に入りの着物の一つだったが、両袖をひろげて、うっとりと賞《め》でるように見入っているうちに、あっと小さく叫んで、息を呑《の》んだ。右脇の身八口《みやつくち》のところが鋭く裂けている。寧子はみるみる顔が青ざめ、震える手でその着物を脱ぐと、遠くへ押しやった。身八口のその無惨《むざん》な裂け口が、寧子に四十年前の身をわななかせるような出来事を思い出させたのだった。
それは、寧子が万俵家へ嫁いで初めて迎えた女節句の時のことであった。舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》の住まう日本館の大広間に雛壇《ひなだん》を飾ったから是非にと招待をうけ、一族の集まるという時間に、気に入りの紅梅の訪問着を着て訪れると、大広間には舅の敬介が一人、坐っているだけで、ほかに誰もいなかった。寧子は訝《いぶか》しい思いを抱いたが、飾られた雛人形が、実家の嵯峨家に代々伝わる京雛とあまりにそっくりな似方に驚いて理由《わけ》をたずねると、寧子のためにわざわざ同じものをつくらせたということだった。そして敬介は、だからこそ、誰よりも先に寧子に見せたかったのだと云い、自ら白酒を寧子に注《つ》いですすめ、寧子がほんのりと頬を染めると、いきなり体を寄せて来、「寧子はあの内裏《だいり》雛以上に美しい」と囁《ささや》くなり、逞《たくま》しい太い手を身八口からさし入れ、腋《わき》の下へ伸ばして来た。あまりのことに最初は、抗《あらが》うことさえ忘れ、呆然《ぼうぜん》とされるままになっていると、敬介は、「公卿の女の肌はましゅまろのようだ」と云うなり、さらに深く手を押し入れた。寧子は、思わず声を上げそうになりながら、かぼそい体に渾身《こんしん》の力を振りしぼって、舅の手を払いのけると、びりっと鋭く着物が裂ける音がし、さすがに敬介もひるんで手をひっこめた。無我夢中で洋館の方へ帰りついたが、夫の大介が居間の扉《とびら》のところにたって、妙に冷たい視線で自分を見詰めていたのだった。その女節句の雛祭りから一カ月も経ずして、もっと異常な出来事――、寧子の眼に、白い湯煙が籠《こも》った日本館の大きな湯殿がうかび、そして……。寧子はその時の眼も眩《くら》むような光景を払いのけるように、両手で顔を掩《おお》った。
万俵家の菩提寺《ぼだいじ》である姫路の名刹、亀山御坊の本堂で、先代万俵敬介の十七回忌が、底冷えのする初冬の日にもかかわらず、盛大に営まれていた。
堂内正面の須弥壇《しゆみだん》の前に故人の遺影が祀《まつ》られ、緋衣《ひい》の七条の袈裟《けさ》をかけた院主が大導師になり、色衣《しきえ》に五条の袈裟をかけた十四人の結衆《けつしゆう》が内陣の両側に居列《いなら》んで、大導師に和して読経《どきよう》している。その声が朗々と響きわたり、須弥壇の燈明の灯《あか》りがあかあかと堂内を照らし出している。
大導師の調声《ちようしよう》に続いて結衆の読経がはじまると、会役者《えやくしや》が遺族席に向って、
「喪主の方から、ご焼香をおはじめ願います――」
と云った。万俵大介は黒紋付に袴《はかま》をつけた喪服姿で席をたち、袴の折目を崩さないように祭壇へ進み寄り、亡父の遺影を見上げた。写真の中の故万俵敬介は、紋服姿の上半身をそらせ気味にし、大振《おおぶ》りな目鼻だちと精悍《せいかん》な眼ざしで、参列者たちを睥睨《へいげい》するように見据えている。それは亡父の生存中、大介が叱咤《しつた》されて、絶えず畏怖《いふ》し続けて来た表情であった。大介は、今も威圧を感じるような思いで恭《うやうや》しく焼香し、席へ戻ると、妻の寧子が代って席をたった。
公卿紫の喪服に、白珊瑚《さんご》の数珠《じゆず》を持ち、しずしずと祭壇に步む寧子の姿は、公卿華族の出らしい気品に満ち、香煙と燈明の灯りの中で、臈《ろう》たけた紫の影が美しくゆらめき、人眼を奪ったが、大介は、故人の遺影の前にぬかずき、怖《おそ》れるように青白みながら焼香する寧子の姿を射るような視線で見詰めていた。
次いで鉄平が焼香にたち、祭壇の前まで進んだ時、ほうっという吐息とともに、周囲の視線が一斉に鉄平に注がれた。黒羽二重の紋付に袴をつけた鉄平が、故万俵敬介の写真と向い合うと、口髭《くちひげ》、髪の色こそ違っても、まるで万俵敬介が写真の中からぬけ出して動き出したように、そのいかつい肩、大振りな目鼻だち、精悍な眼ざしが酷似していた。そうした周囲の気配に気付いたのか気付かないのか、鉄平はまっすぐ写真を見上げ、焼香をして席へ戻った。そのあと、鉄平の妻、銀平夫妻、二子たちが次々と焼香にたったが、大介はもはや、それらの姿に眼を向けていなかった。
読経の声がさらに高まり、焼香にたつ人の流れが早くなっている中で、大介は喪主らしく威儀を正した姿勢で祭壇に向っていたが、眼だけは亡父の遺影に向って鋭く見開かれていた。
大介は、亡父のことを思い出す時、懐《なつ》かしさより重苦しい圧迫感と苦渋に満ちた思いが胸に来る。播州《ばんしゆう》の地主であった万俵家十三代目の亡父は、第一次世界大戦勃発《ぼつぱつ》と同時に、万俵船舶と万俵鉄工を興《おこ》し、それで得た巨万の富を資金にして万俵銀行を創立し、さらに群小の田舎銀行を吸収して現在の阪神銀行の基礎を創《つく》り上げた。万俵家を地方の一地主から阪神間の財閥に仕上げたその偉業は、誰しも認めるところであったが、それが絶えず、大介の両肩に重くのしかかっていた。銀行を要《かなめ》にし、鉄鋼、不動産、倉庫と、次々に手を拡げた亡父は、大介にとって、一家の父というより、事業欲と野心に満ちた怪物的な企業家であった。一人息子の大介に絶対服従を強い、自分の思い通りの型にはめようとした。大介自身は、どちらかといえば、地主の出である父よりも、近江《おうみ》で代々藩学者を勤めた素封家の出である母に似、土くさい荒ぶれた血でなく、母方の性格を受け継いでいた。企業の経営方針にしても、絶えず積極策で押しまくり、或《あ》る時は出血をも辞せずに断行する父のやり方に対して、大介は周到緻密《ちみつ》な計画のもとに、その結果を計数的に納得した上でないと行動しないという違いがあった。それだけに、大介のやり方にはまず失敗というものはなかったが、それがまた豪毅《ごうき》な性格の亡父の気に染まず、失敗がないということは、成功がないということにも通じると貶《けな》され、褒められるということがなかった。その父が、こと鉄平のこととなると、全くの自由気儘《きまま》にさせた。万俵家の長男でありながら、銀行より鉄鋼の方をやりたいから、大学は工学部に進学したいと鉄平が云えば、そうかと簡単に許し、二言目には、「鉄平は顔形から気性までわしにそっくりだから、企業家としてもわし譲りの器量に違いない」と云い、父親である大介をさしおいて、鉄平と寧子をたてることが多かった。初孫《ういまご》に対する盲愛といってしまえばそれまでであったが、それだけではすまされぬ異様さがあった。臨終の床の苦しげな息遣いの中で、敬介は「跡継ぎは鉄平だな――」と念を押し、息を引き取った。当然、大介の跡を継ぐ長男の鉄平を、ことさらに跡継ぎだなどと、臨終の床で念を押した異様さは、十六年経《た》った今日も、大介の脳裡《のうり》に明確に残っている。
木魚の音が小止《こや》みになった。亡父の遺影から眼を戻すと、親族、万俵コンツェルン関係の焼香も終って、焼香の列は残り少なくなり、地元の有志たちの一般焼香に移っている。姫路には先祖伝来の古い家と墓所が在るだけの万俵家であったが、今もって、播州一の地主であった万俵家の法要に集まって来る人たちの数は多かった。大介はそれらの人々に目礼していると、一人の焼香客が、大介の前にたち止まって、深々と一礼した。見ると、元大蔵省銀行局の金融検査官で、阪神銀行のために中位四行のマル秘資料を持ち出し、その返礼として阪神銀行の系列下にある白鷺《しらさぎ》信用金庫の理事に送り込まれた田中松夫であった。万俵大介は、はっと厳しい現実にたち返った思いで、猫背で貧相な田中の姿に眼をやりながら、阪神銀行の新たな合併相手を早く決めなければならないと思った。
法要が終ると、寺内の白書院で、万俵家の一族と親族のために供養膳《くようぜん》が整えられた。
広い書院にコの字型に並べられた供養膳の末席に、喪主の万俵大介と長男の鉄平が威儀を正して坐《すわ》り、
「本日はご多用の中を、亡父万俵敬介の十七回忌法要のためにご列席戴《いただ》き、おかげで盛儀をもって終えさせて戴きました、故人に代りまして厚く御礼申し上げ、心ばかりの供養膳を整えさせて戴きました」
大介が喪主の挨拶《あいさつ》をすると、親族を代表して、敬介の弟で一族の長老である白髪の万俵喜三郎が、
「ごりっぱなご法要を営んで戴き、その上、結構な供養膳をして貰《もろ》うて、改めて故人の冥福《めいふく》を祈らせて戴きます」
改まった口調で、供養膳に列《つら》なる礼を云った。
堅苦しい挨拶が終ると、精進酒《しようじんざけ》が酌《く》み交わされ、急に座が賑《にぎ》やかになった。正面の床の間の前に坐っている大川一郎は、
「さすがに播州一の万俵家の法要だね、人間、死んでから十六年も経つと、すっかり影が薄くなるものだが、万俵家ともなると、下手な政治家以上の法要だ」
と云い、斜め向いに坐っている美馬に、
「それにしても美馬君、十二月といえば、主計局が一番、忙しい時期だろうに、よく来れたもんだね」
と声をかけると、美馬は、
「ほかならぬ万俵家の先代の大法要ですから、そこは万障繰り合せ――ですよ、そのかわり、帰ったら数日間徹夜ですがね」
周囲の親族にも聞えよがしに応《こた》えると、大川はふんと鼻先で笑うような表情を見せたが、美馬の隣に坐っている一子は、夫のそうした恩着せがましい態度に、顔をそむけた。
「おじさま、私のお酌でいかが?」
二子が大川の前に来て、銚子《ちようし》をさし出した。藤色一つ紋を着ているせいか、いつもより大人びた女らしさが匂っている。
「ほう、二子ちゃん、今日はまた一段ときれいだな、聞くところによると、降るほどある縁談に見向きもせず、大介氏を困らせているそうだが、こういうきれいなうちに早く嫁《い》ってしまわないと、女というのはすぐとう[#「とう」に傍点]がたって、貰い手がなくなるよ」
上機嫌に盃《さかずき》を干し、云い聞かせるように云った。
「おじさまでもそんなお説教をなさるの? でも私は残念ながら、まだその気になっていませんのよ」
全く取りあわぬように云うと、阪神特殊鋼の社長である石川正治が横から、
「銀平君が結婚したら、すぐ二子ちゃんの番だという約束だったじゃないか、何なら叔父さんも、いい人を探してあげようか」
生真面目《きまじめ》な顔で聞くと、叔母の千鶴が、
「あなた、お止しなさいな、二子ちゃんの縁談は美馬さんにお心当りがあって、相子さんが例の如《ごと》く奔走しているんですって」
美馬にも当てつけるように云うと、気の弱い石川正治は、
「相子さんといえば、今日は姿が見えんな」
慌《あわ》てて、話題をそらした。
「相子さんがこの法要に列なる筋合いはないでしょう、それに父はあの人のことを嫌っていましたし――」
千鶴が底意地の悪い云い方をすると、一瞬、座が白《しら》けたが、大介は平然とした表情で、
「しかし、いずれにしても、二子の相手は万俵家及び親族一同にもご納得戴ける相手でないと、結局、最後は本人の不幸になることですから、この席をお借りして、皆さま方にもお願いしますよ」
政治家の大川一郎、官僚の美馬中、そして財界人の安田太左衛門と、閨閥の枝を巧みにめぐらせ、さらに万俵家の閨閥《けいばつ》を華麗に茂らせて、企業のメリットを生み出そうとしている野心は[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、父親らしく和やかに云った。
供養膳の席が終り、弔問客が車を列ねて帰ってしまうと、広い境内はひっそりと人影がなくなって、さっきまでの盛大な法要が嘘《うそ》のような静けさに返った。
万俵鉄平は、舅の大川一郎と、車が待っている山門に向って、ゆっくりと步いていた。夕刻からクラブ関西で、後援会の在関西主要メンバーと懇談する予定の大川は、それまでの時間つぶしに、供養膳のあと、鉄平と寺の離れで話していたのだった。
「お舅《とう》さん、火の気のない離れで話し込んでしまって、お体が冷えませんでしたか?」
袴《はかま》の裾《すそ》を蹴《け》るようにして步きながら鉄平が聞くと、大川一郎は、脂《あぶら》ぎった精力的な顔を綻《ほころ》ばせ、
「いや、久しぶりに君と話して愉快だったよ、お互いに忙しくて、こういう時でないと、なかなか話せないからな」
「しかし、あまりご無理なさらないで下さいよ、さっき、供養膳の時にお姑《かあ》さんに聞いたんですが、この間、眩暈《めまい》をおこされて、深夜、お医者さんの往診を願ったというではありませんか」
心配げに舅の横顔を見ると、
「相変らず、おしゃべりな奴《やつ》だな、別に大したことはなかったよ、この春、ソ連対外貿易省の招待でソ連へ行ってまとめた貿易協定が、いよいよ仕上げの段階に来ているので、このところ多忙を極めて疲れているのだが、そこへもって来て、これの方もやめられないので、ついついというわけさ」
大川は小指をたて、女のことを云いながら好色な笑いをうかべたが、鉄平は姑の話が耳に残っているせいか、大川の顔がどことなくむくみ、眼に張りがないように見えた。
「お舅さんのことだから、それは仕方がないにしても、かかりつけの松見先生には、以前から高血圧と動脈硬化を指摘されておられるのだから、大事にして下さいよ、何事も命あってのものだねじゃないですか」
大っぴらに妾宅《しようたく》を構え、月のうちの半分も本宅へ帰らない舅であったから、おどかすように云うと、大川は苦笑したが、眼前に聳《そび》えたっている山門の見事な甍《いらか》を仰ぎ見て、足を止めた。
「人のことを心配する暇があったら、高炉建設の方を少しでも早く進めることだ、通産省の来年度の鉄鋼業界の景気見通しは、当初の予想より悪くなるらしいからね」
曾《かつ》て通産大臣をつとめ、現在も相当の残存勢力を省内にもっている大川は、いち早くキャッチした情報を齎《もたら》してくれた。
「そりゃ僕だって、高炉は一日も早く完成させたいですよ、今、ちょうど炉体が出来上ったところですが、この山門のように高く聳えたっているんですよ」
鉄平も足を止め、山門を仰ぎ見た。
「で、どうなんだ、大ピッチで予定より早く完成させる成算はあるのかね」
「それは、資金繰りその他の面から云っても、何しろ初めての大事業だけに、予期せぬ事態がいろいろ起って、今のところ工程表通りに進めるのが精一杯ですね」
「資金繰りなら、親爺《おやじ》さんに頼めばいいじゃないか」
大川は、再び步きながら云った。
「しかし、阪神銀行の高炉建設資金の融資比率は三〇パーセントで、それ以上はいかなる事態が発生しても出せぬと、最初に釘《くぎ》をさされていますからねぇ」
「自分の息子に対して、そこまで徹底的に冷徹になれるというのは、或る意味ではりっぱだが、あまりにも血が通わないやり方だな、親子ってそんなもんじゃないと思うがね」
大川は腹だたしげに云い、待っていた車に乗りながら、
「高炉の火入式は、いつ頃になるのかね」
「来年の六月です、火入式には是非とも出席して下さいよ」
「もちろんだとも、通産大臣だった時、一度、帝国製鉄の高炉の火入式に招かれたことがあるが、社長以下、関係者が高炉に火を入れるあの瞬間というのは、実に感動的だったよ、通産官僚どもとべったりの帝国製鉄など、虫が好かんのだが、あの時ばかりは心から拍手してやったよ、だから君んところの火入式には、何をさしおいても是非、出るさ」
まだ半年以上も先の火入式のことを熱っぽく口にし、車に乗り込むと、
「じゃあ、頑張り給《たま》え、困ったことがあったら、いつでも云って来ることだ――」
「有難うございます、お舅さんもくれぐれも、ご自愛下さい」
鉄平は、山門にたって車が見えなくなるまで見送った。
灘浜《なだはま》の阪神特殊鋼は、連日の増産体制で、工場全体に活気が漲《みなぎ》っている。なかでも全工程の要《かなめ》にあたる製鋼工場では、昼夜を分たぬ作業が続けられ、年末の追込みにかかって、今が一番、忙しい時期であった。
万俵鉄平は、朝から会議と来客の応対に追われ、なかなか現場へ出る時間が取れなかったが、昼過ぎに暇をみつけると、作業衣とヘルメットを身につけ、ジープを飛ばして、第一製鋼工場へ行った。
ターミナル駅の構内のような天井の高い建屋《たてや》の中には、高さ四メートル、直径七メートルの巨大な六十トン電気炉が据えつけられ、他《ほか》にも三十トンと十五トン電気炉がありフル操業していた。従来、十五トン電気炉の方は、特別注文の高級な特殊鋼を注文量に合わせて作る以外、使われることはなくなっていたが、十月初旬に鉄平が渡米した際、長年の得意先であるシカゴのアメリカン.ベアリング社から、二割増量の長期契約を受けてきたから、それもフルに稼動《かどう》させ、増産体制を敷いているのだった。それだけに工場の中は、電気炉で溶解された鋼《はがね》の出鋼する回数が多くなり、電気炉の出鋼時間の度に、溶鋼を受ける取鍋《とりべ》を動かすクレーンが轟音《ごうおん》を轟《とどろ》かせてひっきりなしに左右に移動していた。そして、あちらこちらの造塊場では、取鍋から鋳型《いがた》への注ぎ込みが次々に行われ、オレンジ.レッドの強烈な光と火花が、広い建屋を明るく照らし出している。
「六十トン電気炉、出鋼だ! クレーン、移動開始!」
下の方で、金田製鋼部長の張りのある声がし、同時に班長がピィーッと笛を吹いた。それを合図に、クレーンが大きな音をたてて六十トン電気炉の傍《そば》へ取鍋を動かして来て、高温のために白光を放っている溶鋼が流れ出ると、周《まわ》りにいた作業員たちは、放射される熱に顔を真っ赤にして、鋳型の注ぎ込み作業にとりかかった。
「おい、金田君!」
鉄平も、下から吹き上げて来る熱風に頬を紅《あか》らませ、大きな声で呼んだ。
「あっ、専務、いらしてたんですか」
金田と一之瀬四々彦《いちのせよしひこ》が目礼した。
「あの百トン吊《づ》りのクレーンだがね」
鉄平が云いかけると、再びクレーンが動き出して、声が消された。鉄平は大股《おおまた》な足どりで二人の傍へ寄り、
「少し横ぶれしているね、車輪が片べりしているのじゃないのかね」
「ご指摘の通りです、そろそろ取り替えねばと思っているのですが、アメリカン.ベアリング社の来年二月分までの見越し生産があと四、五日間かかりますので、何とかそれまでもたせられないかと話していたところなのです」
金田は、額の汗をぬぐいながら応えた。一之瀬四々彦も黒く煤《すす》けた顔で、
「今朝、クレーンに上って調べてみましたら、まだ車輪のゴムは十五ミリ以下には減っていませんので、四、五日なら大丈夫と思いますが」
と云った。
「十五ミリをきっていなければ、その位は多分、もつだろうが、何しろチャージ回数が多いから、念のために専門家に見せることだ、万が一、脱線でもしたら、それこそ人命にかかわる大事故になるからね」
鉄平は注意を与えると、製鋼工場を出、外に待たせていたジープの運転手に、岸壁廻りで高炉建設現場へ行くように命じた。構内の大通りをまっすぐ岸壁まで出ると、正面に灘浜の内海が拡《ひろ》がり、スモッグに掩《おお》われた冬空の間から、わずかに青い空がのぞいている。鉄平は、潮風を吸い込むように、大きく呼吸し、岸壁の倉庫に、アメリカン.ベアリング社を含めた十二月分のアメリカ向け船荷が、五日後に入港する船を待つばかりの態勢になっていることを確認すると、高炉建設現場へ向った。
着工して七カ月目の高炉建設現場近くに来ると、資材を運ぶダンプ.カーが、でこぼこの道を土煙を舞い上げて激しく往《ゆ》き交い、苛《いら》だたしげに鳴らすクラクションや人夫たちの怒声が、工事現場の騒音に混じって、戦場のような凄《すさま》じさであった。そしてその向うに、鉄皮《てつぴ》を巻き終った高炉の炉体が高々と聳えたち、三本の熱風炉と煙突、さらに鋳床《ちゆうしよう》や転炉の建屋《たてや》が、がっちりとした鉄筋の骨組を見せて建っているのが一望のもとに見渡せた。鉄平はジープの中から、その雄々しくダイナミックな景観を見詰め、メイン.バンクの阪神銀行や通産省からあんなに反対された高炉建設の計画だったが、やはり断行してよかったと思った。
高炉の傍に来ると、炉内の煉瓦《れんが》積み作業のために、人夫たちが、重さ十キロの大きな耐火煉瓦を高炉の羽口《はぐち》に通じるベルト.コンベアに、一個ずつ乗せて、炉内へ送り込んでいた。
「ご苦労さん――」
鉄平は犒《ねぎら》いの言葉をかけ、地上から三メートルほど上の高炉の羽口へ足場を伝って上って行き、炉内へ足を踏み入れた。炉頂を塞《ふさ》がれていたから、中にはサーチライトや裸電球がぶら下って、炉内を照らしていたが、上層部は暗く、巨大な筒の中に入ったような重圧感を感じる。鉄平は高さ六十メートル、直径七メートルの炉底の真ん中にたって、一個一個の煉瓦を鏝《こて》を使ってメジ材(接着セメント)で丹念に積み上げている七十人近い煉瓦工や、煉瓦工を助《す》ける手元[#「手元」に傍点]たちの作業の邪魔にならぬよう、鉄皮の内側に一メートル幅の煉瓦の内壁が少しずつ出来て行くのを見渡しながら、ふと視線を自分の足元に落した。煉瓦積みをはじめる第一日目の鏝入れ式の時、足下一メートルのところに、雄鳥の飛揚するように勢い盛んであれという思いを籠《こ》めて、「雄翔《ゆうしよう》」と書き記した礎石を、埋めたのだった。
「専務、また来てはりますな」
煉瓦工の親方が、顔を上げた。
「ああ――、作業は順調に予定通り進んでいるようだね」
「もちろんだすとも、それよりメジの工合は、もう文句、おまへんでっしゃろ」
職人気質《かたぎ》で、一徹そうに云った。煉瓦積みで一番大切なことは、メジの厚さが規定通りにおさまっているか否《いな》かで、規定より分厚いと、煉瓦より耐火性が弱いだけに、高炉の操業後に事故を起すもとになる。それだけに鉄平は、三日前に見廻りに来た時、メジの厚さの不規則な部分を見つけ、そこを全部、張り替えさせたのだった。
「結構だ、この調子で頼む」
「心得とります、この高炉が専務の片割れみたいなもんやと解《わか》った限り、二度とこの前みたいな不始末はさせしまへんわ」
ぽんと胸を叩《たた》くように請け合ったが、その時は、鉄平を若造の経営者と舐《な》めて、剥《は》がせ剥がさぬで、一悶着《ひともんちやく》を起したのだった。しかしその時のやりとりで鉄平の心意気にすっかり搏《う》たれた煉瓦工の親方は、掌《てのひら》を返すように協力的になっていた。
「万俵専務は、こちらですか!」
羽口の方から大声がした。
「いるぞ、何か用か」
大声で返事すると、作業員が入って来、
「只今《ただいま》、川畑常務から現場事務所へ電話がかかり、至急、事務本部へお戻り下さいとのことです」
と伝えた。現場へ出ている時に役員連絡が入るのは、よほどの急用に違いない。鉄平は炉底から羽口へ上り、ジープで事務本部へとって返した。
二階の専務室に戻ると、川畑常務が待ち受け、ひどく慌て、落着きを失っている。
「専務、アメリカン.ベアリング社から、つい先程、こんな電報が入りました」
と云い、英文の国際電報をさし出した。
RE OUR ORDER NO. TY501, PLEASE POSTPONE DECEMBER SHIPMENT UNTIL OUR FINAL INSTRUCTIONS
(十二月分ノ船積ミヲオ待チ乞《こ》ウ)
「なに! 船積みを待てだって?」
電文に眼を走らせるなり、鉄平は顔色を変えた。
「一体、これはどういうことなんだ、船積みを待てといっても、船は五日後に灘浜へ入るというのに――」
「私もあまりに突然のことなので――」
「しかし、理由《わけ》もなく、こんな電報が突如、来るはずがないだろう、心当りはないのかね」
「私なりに考えてみましたが、アメリカン.ベアリング社の製品の売行きが、急激に悪化したとも考えられませんし、アメリカの鉄鋼市況がダウンしたとも思われず、ましてやヨーロッパ.サイズのミルが大幅な安売りで攻撃をかけて来たという話も聞きませんし――、二カ月前に渡米され、長期増量を取って来られた専務なら、もしかしてお解りかと思いまして……」
自分の責任を逃れるような云い方をした。
「いや、あの時、そんな危惧《きぐ》を抱くような気配は、アメリカン.ベアリング社には全くなかったよ、それより商社筋へ何か情報が入っていないのかね」
「取引商社のほかにも一、二、さり気なく当ってみましたが、どこも何も知っていない様子です」
「じゃあ、シカゴにすぐ事情を聞いてみようじゃないか」
鉄平はそう云うなり、シカゴに一人、置いている駐在員の自宅へ国際電話を申し込ませた。時差の関係で向うは夜中であったが、そんなことにかまってはいられない。程なくして、電話が繋《つな》がった。
「もしもし、南君か、万俵だ、今、アメリカン.ベアリング社から、十二月分の船積みを待てという電報が入ったが、どういうことなんだ」
まくしたてるように云うと、突然、深夜の国際電話で叩き起された戸惑いの気配が感じられたが、
「私も昨夕、それを聞かされ、びっくりして、担当者に理由を尋ねたのですが、一向に要領を得ぬまま、時間切れになり、明朝、すぐ調査致します」
「要領を得ないなど、呑気《のんき》なことを云っている場合じゃないだろう、船は五日後にわが社の岸壁に入るんだ! 船積み待てというのは、たとえば製品の仕様《しよう》が変更されるとか、輸出量が増減するとか、そういうことじゃないのかね」
「それが、そうでもないようでして……」
「じゃあ、船積み待てというのは、何日ぐらい、待てということなのだ」
「ところが、暫《しばら》く待てというだけで、それも向うははっきり応《こた》えてくれないのです」
当惑しきった駐在員の声がした。
「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものか! ともかくこんな突然の通告には応じられないから、予定通り出航出来るよう、極力、交渉してくれ給え、そして何か解り次第、連絡を入れるように」
鉄平は、強い口調で命じて、電話をきったが、平素は優秀な駐在員が今度に限って、要領を得ない返答しか出来ないことが気懸《きがか》りであった。
「専務、どうも様子がおかしいですね」
横で電話を聞いていた川畑が、ますます不安そうに云った。
「うむ、あとは暫く向うからの連絡待ちということだが、もしかすると、渡米しなければならぬかもしれない」
「それは、心づもり致しておきます」
「いや、その時は私自身が行く、だが、このことは、事態がはっきりするまでは石川社長や、経理担当の銭高《ぜにたか》常務には、伏せておくように――」
「しかし、こんな重大事を、いくら何でも」
川畑は躊躇《ためら》うように云ったが、鉄平は、
「いや、私が責任をもって処理するから、そうしてほしい」
きっぱり云い切ったが、内心はやはり動揺していた。
翌日、鉄平は慌《あわただ》しい渡米の用意に追われていた。昨日、まる一日、何回もシカゴの駐在員と電話のやりとりをして、再三再四、アメリカン.ベアリング社の意向を問い合せたが、一向に埒《らち》があかず、無駄に時間が経《た》つばかりであった。この上は、鉄平自身が急遽《きゆうきよ》、シカゴへ飛び、直接、話し合うしか方法がなかった。
腕時計のカレンダーは十二月十六日、午後三時三十二分を指している。大阪伊丹《いたみ》空港六時半発の日航機で発《た》ち、羽田で午後八時三十分発のノース.ウエスト機に乗り継ぐ予定をたてていた。数次渡航のパスポートを持ち、外国出張に馴《な》れている鉄平は、東京出張と同じような感覚で手早く書類を鞄《かばん》に詰めたが、妻の早苗《さなえ》は、あまりに急な旅だちに、慌《あわ》ててトランクに衣類と身の廻り品を詰めていた。
「昨日、電報が入って、今日、出発だなんて、いくら何でも急なことね、ワイシャツは五枚でいいの?」
「うん、それでいい、電気剃刀《かみそり》を忘れないでくれよ」
「大丈夫、あなたのお髭《ひげ》は一日に二度、剃《そ》らなくちゃならないんだから――、他《ほか》にお忘れものはなくて?」
そう云っている間にも、電話のベルが鳴った。秘書課からの連絡であった。
「専務でいらっしゃいますか、やっと今、向うの購買部長と会えるアポイントメントが取れたという返電が入りました」
「そうか、それでほっとしたよ」
そう云い、受話器を置くと、煙草《たばこ》に火を点《つ》け、一服、大きく喫《す》った。早苗は、そんな気配を待っていたかのように、
「あなた、先程、実家《さと》の母から電話があって、父がまた工合を悪くしたのですって――、あなたのことを、どういうわけか、とても気にしていて、出来たらちょっと、見舞ってやって下さらない?」