「そりゃあ、いけないな、だが、行きたくても時間的に無理だから、空港で電話するよ」
と応えながら、鉄平は先日の法要の席でのことを思い出した。祖父の法要というのに、父とは殆《ほとん》ど言葉らしい言葉も交わさず、専《もつぱ》ら舅《しゆうと》の大川一郎と話していた。その舅が、体の工合を再び悪くしながらもなお、自分の事業のことを心配してくれていることを聞くと、鉄平は父親である大介より、舅の大川の方に、父親のような温か味を感じる。
「あなた、何を考え込んでいらっしゃるの、ご用意がお出来になったら、お舅《とう》さまにご挨拶《あいさつ》なさっていらしたら――」
早苗は、トランクの蓋《ふた》を閉めながら云った。鉄平は煙草を灰皿にもみ消し、
「渡米するぐらいで、いちいち挨拶などすることもないだろう、あとでお前から一カ月先に予定していた仕事が急に早まったので飛びたちましたと云っておいてくれ」
と云いつけると、また電話のベルが鳴り、早苗が受話器を取った。
「まあ、叔父さま、ご機嫌よろしゅう、ええ、急ですけれど、もう用意が整いました、はい、すぐ代ります」
阪神特殊鋼の社長である石川正治からの電話であった。鉄平が電話口に出ると、
「あ、鉄平君、昨日の船積み待ての電報の件、聞いたが、その後、どうなりそうなんだ、詳しい説明がないから、心配ばかりが先だって、血圧に障《さわ》る、それで、鉄平君が予想し得る事態というのは、どういうことなんだ――」
蚊帳《かや》の外に置かれた不満を抑えた声で聞いた。絶えず、名ばかりのお飾り社長という思いが、石川正治をして、小心なくせに不満ばかり口にする性格につくりあげている。
「いえ、ご心配には及びません、何かの手違いで起ったとしか考えられませんよ――、いえ、昨日の電報のためだけに飛んで行くのではありませんよ、たまたま一カ月後にロスアンゼルスのカイザー.スチール社へ、高炉操業のことで調査を依頼していたこともあり、渡米する予定になっていましたから、それを早めて、この際、カイザー.スチールへも寄って来るのですよ」
鉄平がことさらに、気軽な語調で云うと、
「ああ、ロスのカイザー.スチールへも寄るのか、じゃあ、気をつけて」
石川正治は、はじめて安心したように、電話をきった。叔父にまでほんとうのことを云わないのは、父の耳に入るのを警戒したからであった。
鉄平は、つと窓の外を見た。夕陽の中に、白い塔と白亜の壁のスペイン式の館《やかた》が、美しい輪郭を際《きわ》だたせていたが、やがて夜になると、燦《きらび》やかな灯りがつき、冷厳な頭取然とした昼間の父が、妻妾同衾《さいしようどうきん》の夜の生活を営む――。そうした外と内、昼と夜を何のくるいもなく、平然と使い分ける父の体内に流れている血は、どう考えても、自分のものとは異質なように思える。しかし、隠花植物のように陰湿なそうした一面が、いささかも感情を露《あら》わにしない銀行家としての一要素を形造っているのかもしれない。そうした冷徹なる銀行家の父と、すべてを鉄に賭《か》けている自分とが対決し、闘わねばならぬ時が、いつかは来るような予感がする。その時、自分はどんなことがあっても、父には負けられないという思いが、鉄平の胸に突き上げて来たが、その父との闘いの第一步が、今度のアメリカン.ベアリング社から来た一方的な通告に、如何《いか》に善処するかであると思った。
伊丹空港に万俵鉄平の車が着くと、川畑常務と一之瀬工場長、一之瀬四々彦、そして秘書課員が待ち受けていた。
「専務、切符とお荷物の手続きをして参りますから――」
秘書課員と若い一之瀬四々彦が、てきぱきとトランクや切符を出発便のカウンターの方へ持って行きかけると、
「四々彦君、君も来てくれてたのか」
鉄平は、充血した眼の端に笑いをうかべて声をかけた。
「はい、今日は専務の主宰される研究会が開かれる予定でしたが、それが中止になり、時間が空《あ》きましたので――」
数次渡航のパスポートや切符類の入った書類袋を手にした四々彦は、さり気なく応えたが、父から詳しい事情を聞いているらしく、眼《まな》ざしは張り詰めている。
「そうか、今日は研究会のある日だったな……」
週に一度、社内の冶金《やきん》関係の技術者たちを集めて行なっている研究会のことであった。
「専務、それよりアメリカン.ベアリング社の購買部長と会うアポイントメントは確かなんでしょうね」
横から川畑常務が、こんな時に研究会どころの話ではないといわんばかりに口を挟んだ。
「そりゃあ、あの返電が入って来た限り、間違いがないだろう」
「では、向うが会うということは、どちらかといえば、希望的観測ができるということでしょうかねぇ」
「さあ、アメリカ人はビジネスライクだから、面談すなわち希望的観測につながるということにはならないだろう、だが、何しろあと四日後に船が入って来るのだから、どんな事情が向うにあるにしろ、十二月分の輸出品は予定通り、引き取って貰うように、そこに重点をおいて、徹底的に交渉する」
強い語調で云うと、川畑常務は、
「是非ともそうお願い致します、われわれと違って、二カ月前に長期増量を受注された当の専務が足を運ばれて、交渉なされば、向うもそう一方的なことは云えないはずでしょうからねぇ」
傍《かたわ》らにいる一之瀬工場長を顧みながら云ったが、言外に、営業担当役員としての責任を躍起になって回避したがっている胸中が読み取れた。一之瀬工場長はそんな川畑常務に、いつになく厳しい表情で、
「そんなことより川畑君、アメリカン.ベアリング社向けの船積みを、万一、数日、もしくは一週間ほど遅らせねばならない場合のことを考えるのが、先だろう、年末だけに、向うの指定通りの日時にアメリカ向けの船便が好都合につかまればいいが、この点は大丈夫なんだろうね」
鉄平がアメリカへ交渉に飛んでいる間に、それに対応した処置を打っておくことを云った。
「もちろん、それは商社と打ち合せて、万端遺漏なきよう手配しておきますよ、しかし、数日間の遅れならともかく、一週間も十日も船積みをストップされるとなると、資金繰りの面で少々、痛手ですね、経理部の方から突き上げて来ますよ、きっと――」
「川畑君、そこまで心配するには及ばないよ、ただ、銭高常務に対しては、何度も云っているように、僕が交渉をまとめるまでは、あらゆる意味で慎重に頼む、いいね」
鉄平が釘《くぎ》をさすように云うと、搭乗《とうじよう》手続きを終えて、鉄平のところに戻って来ていた一之瀬四々彦と秘書課員も重苦しくおし黙った。万俵頭取の意を受けて、阪神銀行から阪神特殊鋼の経理担当常務として送り込まれ、財政面に絶えず眼を光らせながら、逐一、阪神銀行へ報告している銭高常務は、社員たちの誰からも警戒されていた。
東京行き十八時三十分発の日航の出発便案内のアナウンスが流れた。
「では、専務、そろそろ――」
羽田まで随行する秘書課員が促しかけた時、
「お兄さま!」
鉄平を呼ぶ声がした。振り返ると、スエードのコートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》して、二子が駈《か》け寄って来た。
「なんだ、二子じゃないか、どうしたんだ」
鉄平が驚いて聞くと、
「お忘れものをお嫂《ねえ》さまからことづかって、車を飛ばして来たの、ほら、いつもお持ちになる風邪薬と抗生物質、それにビタミン剤」
息を切らせながら、薬袋を兄の手に渡した。
「ああ、有難う、すっかり忘れていたよ」
「お兄さま、シカゴはもう小雪がぱらついて、気温もかなり下っている気候よ、お嫂さまも、お風邪にはくれぐれもお気をつけ下さいって、おっしゃっていたわ、健康に自信がおありでも、ご無理なさらないでね」
二子は案じるように、長身で逞《たくま》しい兄を見上げて云った。
「うむ、解っているよ」
白い歯を見せて云うと、くるりと踵《きびす》を返した。
「じゃあ、行って来る――、そうだ、四々彦君、アメリカン.ベアリング社との交渉がまとまり次第、ロスのカイザー.スチール社へ回るから、その時は、君も同行出来るよう、大至急で渡航手続きをしておいてくれ給《たま》え」
高炉が完成すれば、高炉操業の技術を担当させる一之瀬四々彦に、カイザー.スチール社の技術を学ばせる心づもりでいるのだった。
「工場の方のことは一之瀬工場長に一任するから、よろしく頼む」
父子それぞれに云い残すと、一之瀬工場長は、
「工場の方と高炉建設のことは、しかとお引受け致しました、安心して暫《しばら》くの間、お忘れになって下さい」
緊張感を解きほぐすように云った。
鉄平が、オーバーを手にした身軽な姿で出発ゲートを出てバスに乗り込むと、一同も送迎デッキへ出た。外はすっかり陽が落ち、薄暮の空港のそこここに、淡い灯りが点滅し始めていた。
「一之瀬さん、お久しぶりですわね」
川畑常務と一之瀬工場長が列《なら》んで步いて行く後から、二子は、四々彦に追いついて声をかけた。
「そういえば、専務が二カ月前にアメリカから帰国された時、空港でお目にかかりましたね」
鉄平の心中を考えていたらしい四々彦は、急に声をかけられて、まごつくように応えた。
「そうですわ、これから一之瀬さんにお目にかかりたいと思えば、伊丹へ来ればいいのかしら――」
冷たい外気にコートの衿《えり》をたてながら、二子は四々彦への思いを籠《こ》めるように云ったが、四々彦は送迎デッキの手すりに寄り、バスを降りて飛行機のタラップの方へ大股《おおまた》な足どりで步いて行く鉄平のうしろ姿を、濃い眉《まゆ》の下の眼を凝らすようにして見詰めている。嫂《あによめ》の早苗から、今度の突然の渡米のおおよその事情を聞いている二子は、兄を思う四々彦の気持に搏《う》たれ、自分もデッキの手すりに近寄って、
「お兄さま、お気をつけて!」
タラップを上りかけた兄に、大声で叫んだ。鉄平はデッキの方を振り仰ぎ、ちょっと手を上げた。
やがてタラップがはずされると、機体は滑走路へゆっくりと動いて行き、インク.ブルーとオレンジ色の誘導燈が夕闇《ゆうやみ》の中に輝いている滑走路を離陸して、夜空へ吸い込まれるように消えて行った。四々彦と二子は、鉄平の乗ったジェット機の赤い点滅燈がすっかり見えなくなるまで、手すりに寄りかかって見送っていたが、気がつくと、川畑常務や一之瀬工場長たちの姿は既になかった。
「さっきの兄の話では、四々彦さんも、近々、渡米なさるのね、いつ頃ですの?」
寒さに思わず、四々彦の方へ体を寄せるようにして聞いた。四々彦も二子への風当りを自分の体で防ぐように、二子と斜めに向い合い、
「交渉がうまく行けば、一週間ほど後ということになるでしょうが、具体的には全く解《わか》りませんね」
「そうですの、会社のことを私などがたち入ってお聞きするのはよくないのだけど、私、なぜか今度は兄のことがとても気になりますの、交渉はうまく行きそうなんですの?」
「そりゃあ、専務のことですから――、しかし専務も一方では高炉建設のことや操業後の技術開発のことを絶えず考えねばならないし、そういう大事な時期に、営業面のことまで自ら足を運ばれないといけないというのは、ほんとうに大へんだと思います、それだけに僕としては、是非ともアメリカン.ベアリング社との交渉に成功してほしいと思うし、帰国された後は、高炉建設に専念出来るようにしてさし上げたい――」
感情を抑えた云い方をし、
「二子さん、あなたも案外、お兄さん思いなんですね」
自分と同じ気持を抱いている二子を見て、微笑をうかべた。四々彦が親愛の籠《こも》った笑顔を二子に向けたのは、はじめてのことであった。二子とは学生時代から顔見知りでありながら、阪神銀行のオーナー頭取の娘として、また自分の会社の専務の妹として、距離をおいて接していた四々彦の心に変化があらわれていた。二子はそうした四々彦の心の動きを掬《すく》い取るような思いで、空港に輝きを増した色とりどりの灯りに眼を遣《や》った。
*
羽田を発《た》ってから八時間半、シアトルに寄港したノース.ウエスト機は、再びシカゴに向けて飛びたった。
窓の外へ眼を遣ると、西海岸のストレート.オブ.ジョージア湾の湾内に緑の島々が見えたが、やがて機体は雲の上に出た。禁煙のサインが消えると、万俵鉄平は、煙草《たばこ》をくわえた。あと五時間ほどでシカゴだった。鉄平は、煙草の煙を大きく吐き出しながら、二カ月前、渡米した際、アメリカン.ベアリング社で、従来の二割増しの発注を受けた時のことを思い返した。購買部長のフランク.ロジャースの部屋で、高炉建設のことを話し、付帯設備のアッセルミル圧延機が導入されれば、アメリカにおけるスピードより五割増しの能率でアッセルミル機を操作し、アメリカで一時間十トンなら、阪神特殊鋼では一時間十五トンのスピードで生産できること、しかも真空脱ガス法によって、今までよりさらに不純物を取り除いた品質の鋼《はがね》を、これまでと同価格で作り得ることを話すと、ロジャースは、「それは大へんいいニュースだ」と云い、期限ぎれになっている販売契約を即座に更新し、しかも二割増量の契約をしてくれたのだった。それから僅《わず》か二カ月後に、船積み待てというのは、一体、どのような事態が発生したというのだろうか――。鉄平は羽田を発ってから十数時間余、同じことばかりを考え、堂々めぐりの思考に疲れを覚えていた。
不意に、通路から鉄平を覗《のぞ》き込む人の気配に気付いた。
「あら、万俵さん、やっぱり、万俵鉄平さんでいらっしゃいますのね」
髪を断髪に切り揃《そろ》え、眼尻《めじり》の切れ上った個性的な顔だちの女性が、鉄平を見て頬笑んでいた。とっさに誰なのか、思い出せなかった。
「お久しぶりですこと、小森章子《あきこ》です」
「あっ、あなたでしたか、どうもすっかり見違えるようになられて――」
曾《かつ》て弟の銀平と深い間柄であった小森章子であった。鉄平の記憶に残っている小森章子は、髪は今と同じように断髪に切り揃えていたが、清楚《せいそ》な顔だちの中に絵を描く女性らしい一筋の清冽《せいれつ》なものを漲《みなぎ》らせていたが、今、眼の前に見る小森章子は、僅か二年の間に、眼と唇を印象付けるようなメーキャップをし、ぎらぎらと輝くような強烈な個性を身につけている。
「あなたは、パリだったんじゃないんですか? まあ、お坐《すわ》りになって下さい」
鉄平は、やや眩《まぶ》しげな表情で、自分の横の空席をすすめた。
「ええ、つい去年までずっとパリにいたのですけれど、今はニューヨークにおりますの、シアトルの画廊で個展を開いたものですから、さっきシアトルから乗り込んだばかりですわ」
「僕は、シカゴにちょっと商用があって、昨夜、日本を発ったんですよ」
「そうですの、ほんとうに偶然ですわね、皆さま、お元気でいらっしゃいますか?」
皆さまという表現の中で、銀平の消息を聞いていた。
「おかげで銀平も、やっと今年の六月に結婚しましたよ」
と応《こた》えた途端、章子の顔に痛いような哀《かな》しみの色がかすめた。しかし、章子は額にかかった髪をさっと振り払うような仕種《しぐさ》をし、
「じゃあ、銀平さんはお倖《しあわ》せなんですのね」
何かの思いを籠めるように云ったが、鉄平は、即答出来なかった。結婚してからも、相変らず、銀平のバー遊びは止《や》まず、連日、飲んで夜遅く帰宅し、殆《ほとん》ど万樹子と夕食をともにしないことを、万樹子が自分の妻に訴えているのを、鉄平は聞き知っていた。万樹子との結婚によって、万俵家の閨閥《けいばつ》の枝をより大きく伸ばしたが、銀平自身の倖せという点からみれば、灘《なだ》のさして大きくない酒造家の娘ではあっても、小森章子と結婚していた方が倖せであったかもしれなかった。万樹子の持っている我儘《わがまま》な無神経さが、表面はニヒルな冷たさを見せながら、内心は人一倍傷つきやすい銀平の心をどれほど傷つけているかしれない。それに比べて、小森章子が、どんな場合でも相手を侵さず、自分も侵されない心の距離を保てる女性であることは、銀平と小森章子の三年間の深い間柄を傍《そば》から見ていただけの鉄平にも感じ取られていた。それにもかかわらず、銀平と章子が結婚に至らなかったのは、万俵家の結婚は、閨閥作りを旨《むね》とする厳然とした慣《なら》わしを持ち、それを強力に推し進め、実行する高須相子の存在があったからだった。鉄平は、ふと大阪の伊丹空港で、自分を見送りかたがた、一之瀬四々彦と楽しげに話していた二子の笑顔を思いうかべた。そしていつか二子が、「私、結婚するなら、鉄平兄さまのように鉄に生きる人――」と云った言葉が思い出された。あの言葉は、具体的には一之瀬四々彦のことを指していたのではないか――、もし互いに思いを寄せている同士なら、銀平と小森章子とのような不幸に終らせたくない……。
「で、アメリカでのお仕事はうまく行っているの?」
いたわるような眼《まな》ざしを小森章子に向けると、
「ええ、絵が売れるという意味では、何といってもニューヨークが中心ですから、パリからこちらへ移ってよかったと思いますわ、ニューヨークの画廊というのは、毎日、毎日が凄《すさま》じいエネルギーで動いていますもの」
気負うように云ったが、現実にはニューヨーク住まいなのに、地方都市で個展を開いている。鉄平には三十を過ぎて外国で独り暮しをしている女性の孤独な疲れが感じられた。
「Attention Please《アテンシヨン.プリーズ》」
スチュワーデスが、シカゴのオヘア.フィールド空港への着陸準備をアナウンスし、“Fasten Seat Belt”のサインが出た。小森章子は自分の席へ戻るために急いでたち上り、
「じゃあ、失礼します、もし、お暇がありましたら、一週間後から、ラ.サール街のミシガン.ギャラリーで個展を開きますから、見にお越し下さい、銀平さんにおよろしく――」
「有難う、それまでシカゴにいるかどうかわかりませんが、滞在していたら拝見しに参りましょう」
鉄平は、激励するように云った。
やがて軽いショックとともに、機体が着陸し、エンジンが停まった。時計を見ると午後四時十分であった。鉄平は急いで座席をたつと、コートを着、皮鞄《かわかばん》を持って、機外に出た。外は氷点下の寒さで、肌を刺すような風が吹いており、空港のところどころが凍りついていた。
通関をすませると、黒いコートにブーツを履《は》いた小森章子の姿が見えたが、先を急いでいる鉄平は声をかけず、出口へ足を向けた。
「専務、お疲れでございましょう」
南駐在員が出迎え、鉄平の手からトランクと鞄を取り、自分の車の方へ向い、
「ミスター.ロジャースとの用談は、一時《いつとき》も早い方がよいと思いまして、あれからさらに交渉しましたところ、五時半までなら待つということですので、直行してよろしいでしょうか?」
「それは何よりだ、すぐ行こう」
羽田から長時間、乗り続けて来た疲労が一瞬のうちに吹き飛び、鉄平は勢い込むような声で云い、車に乗り込んだ。
車は空港からすぐジョン.F.ケネディ高速道路に入った。三十分ほど走ると、シカゴ.ダウンタウンに入り、シカゴ商業取引所や十八階建てマーチャンダイズ.マート、ゴシック風摩天楼《まてんろう》のトリビューン塔などの高層建築が林立している。さらに陸橋になったスカイ.ウェイに乗り入れると、左手前方のミシガン湖の湾曲した地帯に、大工場群が望まれ、黒い煙が空に向って絶え間なく吐き出されている。そこには世界的に知られているUSスチールやインダント.スチールなどの大手の工場があり、いかにも、工業都市シカゴらしいダイナミックで活動的な光景であった。
「日本でいえば川崎か、水島の工場地帯といったところだな、公害問題はどうなんだ」
「ほんとうのところは、日本よりずっとひどいのですよ、ところが、シカゴという街は、古い建物をご覧になると解りますように、昔、安い石炭を暖房用にどんどん焚《た》いて、建物を真っ黒に煤《すす》けさせて平気な街ですから、日本ほど喧《やかま》しく云わないらしいですね」
南駐在員はそう云い、車のスピードをぐんぐん増して行った。やがて高速道路を下り、カルメット.ストリートに出て左へ曲ると、アメリカン.ベアリング社の工場と事務所の建物が見えた。
アメリカン.ベアリング社に着いたのは、五時十分であった。
冬の日暮は早く、仕事を終えた工員《ワーカー》たちが軽快な服装で、フォードやシボレーなどの古い年式の車を運転し、薄暗い夕闇の中を帰宅して行く。南駐在員は正門の守衛室の前で車を停め、守衛に声をかけると、顔見知りの守衛は、南駐在員より鉄平の方を注視して、驚くように、
「Oh! Mr.《ミスター》 Manpyo! また日本から来たのですか」
と云った。鉄平がそうだと応えると、
「You are very busy!」
と云い、すぐ門を通した。構内に入ると、五十エーカーほどの敷地に、五棟《いつむね》の工場が並び、向って左側にクリーム色の本社ビルが建っている。本社ビルの玄関に車をつけ、鉄平は、南駐在員を伴って、購買部長のフランク.ロジャースの部屋に向った。三階のロジャースの部屋の前まで来ると、中年の女性秘書が、
「どうぞ、お入り下さい、ミスター.ロジャースは、只今《ただいま》、会議中ですが、ほどなく終りますから」
鉄平と南駐在員をロジャースの部屋へ案内した。淡いグリーンの壁に囲まれた部屋の中央にデスクがあり、その上にロジャースの家族の写真が飾られ、サイド.ボードの上には、魚釣りが趣味らしく、遠洋の魚の剥製《はくせい》が置かれている。
扉《ドア》が開き、ロジャースの大きな体と鳶《とび》色の眼が、愛想よく鉄平を迎えた。
「Glad to see you! ミスター.マンピョウ、日本からの旅は疲れませんでしたか?」
四十七、八歳のロジャースは血色のいい顔で、大きな手をさしのべた。鉄平も大きな身振りで挨拶《あいさつ》し、ソファに腰を下ろすと、すぐ用件をきり出した。
「ミスター.ロジャース、突然の電報に驚きましたよ、この部屋で二カ月前に、二割増注の長期契約を受けたばかりであるのに、十二月の船積みを待てというのは、どういうことなんです?」
「それは国防総省《ペンタゴン》の航空機関係の来年度予算が、当社の期待していたより削減される模様なので、その需要の見通しがはっきりするまで、在庫調整をするために、十二月の船積みを待って貰《もら》いたいということなのです」
「ほう、国防総省《ペンタゴン》の予算変更が原因だったのですか――」
軍需に関係することなら、簡単に云えないはずだと思って、相槌《あいづち》をうちかけると、横から南駐在員が、日本語で耳うちした。
「しかし、国防総省の予算のかわり目は六月ですから、それはおかしいですよ」
「なるほど、そういえばそうだな」
鉄平は頷《うなず》いたが、ロジャースにはわざと素知らぬ体《てい》で、
「では、船積みはいつまで待てばいいのですか?」
「それは、在庫の量と需要の見通しがついてから決まることですから、販売部長が答えを出すまでは解らない」
ロジャースは、二カ月前に、購買契約をした時の積極的な態度とは、うって変った素っ気ない返答をした。
「しかし、購買部長のあなた自身の見通しは、ほぼ、いつ頃と考えられるのです?」
畳み込むように聞くと、
「それは、販売部長が考え、決めることで、that's out of my business」
アメリカ人らしく、自分の職務でないことを楯《たて》にとったが、どこかに曖昧《あいまい》な節《ふし》がある。
「国防総省の来年度の予算変更が原因だとおっしゃったが、納期を遅らせる理由は、他《ほか》にあるのではないですか?」
鉄平がひたと射るように聞くと、ロジャースは、
「実は、もう一つ理由がある、これは企業の秘密で、いまだ極秘裡《ごくひり》のことであるが、フォードが、日本の小型自動車の攻撃を受けて、各種の小型車の生産に乗り出すことになり、その部品のサイズが決まるまで現在の品種の納入を見合せたいのだ」
と云い、肩をすくめた。
「それはあなた方の会社の事情で、私の方とは何ら関係のない理由ではないですか、アメリカン.ベアリング社ともあろう会社が、そんないい加減な見込み生産で、素材を発注するのですか、日本の私の工場の岸壁には、三日後に船が入り、荷積みをすることになっている、それを一体、どうすればよいのか!」
と詰め寄ると、ロジャースは口ごもり、
「――要は、十二月の船積みを待ってほしい」
「では、もう一度聞くが、いつまで待てばいいのか」
「それは先程も云ったように、販売部長のサインが出るまで、暫《しばら》くだ――」
「暫くでは話にならない、はっきりした期限をきめて貰いたい」
「多分、一週間後にははっきりとした期限が云えるだろう」
「そんな曖昧なことでは困る、突如、ストップを通知して来た限り、具体的に今、日を決めてほしい、日本の私の会社では、私の電報を待っているのだ」
鉄平とロジャースの間に、一步もひかぬ押し問答が繰り返され、次第に鉄平の語気が鋭くなって来た。
「ミスター.ロジャース、二カ月前にこの部屋で、契約書にサインしたのは、あなた自身であるから、納期遅れになっても、船積み分だけは責任もって引き取ることを約束してほしい」
「I understand, but……それは、ボスの指示によって契約し、またボスの指示によって十二月の船積みを待ってほしいと申し入れているのだ、したがって、今後のこともボスの指示に従わねばならない」
「じゃあ、今からボスと話し合いたいから、その連絡を取って貰いたい」
「ボスは、もう帰った」
「では、明日、必ずボスと会えるようにして貰いたい、私はアメリカン.ベアリング社との交渉のためにのみ、日本から飛んで来たのだ」
鉄平は強い口調で云い、ソファからたち上った。
アメリカン.ベアリング社を出ると、車はもと来たハイウェイを戻り、ミシガン湖畔に近いコンラッド.ヒルトン.ホテルに向った。夜のハイウェイは交通量が少なく、四車線の広い道路を時速六十五マイルで走らせながら、南駐在員は、
「どうもロジャースの様子はおかしいですね、十二月の船積みを待てと云いながら、その期間を云わないのは、事実上のキャンセルにしてしまうつもりじゃないでしょうか?」
「まさか、そこまではしないだろう、こちらには契約書があるのだから――」
重い口調で応《こた》えながら、鉄平は、アメリカン.ベアリング社への輸出が月額三億六千万円の大きなビジネスであることを考えると、何としても、明日のボスとの交渉をうまく運ばねばならなかったが、今度の船積み延期の理由には、何かほかの原因がありそうに思えてならなかった。
「南君、これから江州《ごうしゆう》商事のシカゴ事務所長に会えないだろうか?」
江州商事は、阪神特殊鋼の貿易手形と船積み業務を委託している商社だった。
「ホテルへ着きましたら、すぐ連絡してみます、彼も今度の件は非常に気にしていて、専務がおいでになったら、会いたいと云っていましたので、都合をつけてくれると思います」
「それじゃあ、ホテルで食事をしながら、話を聞き、両者で検討することにしよう」
鉄平は勢い込むように云い、ミシガン湖畔に近付いた車の窓から、夜の湖に眼を遣《や》った。湖面は闇《やみ》に包まれて定かでなく、湖から吹いて来る風が、車のフロント.ガラスを強く叩いた。
朝のミシガン湖は、凍りつくような水面に白い小波《さざなみ》がたち、底冷えのする大陸の寒さが感じられた。
ダイニング.ルームで朝食を終えて、五階の自分の部屋へ戻って来た鉄平は、外出の用意を整えると、窓際《まどぎわ》にたって、冬枯れのグラント.パークを隔てた向うに、弓形のスコープを描いて拡がる湖を見詰めていた。濃い髭《ひげ》は、ダイニング.ルームへ出る時にきれいに剃《そ》って、剃りあとは青々としていたが、疲労の色が滲《にじ》んで、眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》が刻まれている。
鉄平は昨夜、江州商事のシカゴ事務所長と会食したが、アメリカン.ベアリング社の要領を得ない回答について、現地商社筋からの情報を織り込んで、夜遅くまで検討した内容を思い返していた。
江州商事のシカゴ事務所長は、ロジャース購買部長が船積みストップの理由として挙げたアメリカ国防総省の来年度予算の変更の件も、フォードが日本の小型車に対抗すべく小型車の生産に乗り出す件についても、突如、船積みをストップする理由としては、非常に不自然だと云った。というのは、アメリカ国防総省の軍需見通しについても、ベトナム戦争のエスカレートで、需要は上る一方であるから、アメリカのベアリング業界が在庫調整を迫られるような事情は全くないはずだということであった。次いでフォードの小型車生産にしても、デトロイトからそういう情報はしばしば入って来ているが、まだモデル車のテスト走行の段階で、生産開始にまで至っていないはずだということだった。強いて気になる点といえば、十月半ば過ぎから十二月初めにかけて、アメリカン.ベアリング社の株価に、多少の変動があったことだが、これも好景気に加えて、夏に発表した新製品の企業化を控えて、人気買いがあったくらいで、船積みストップの理由とは結びつかないと云った。そうした堂々めぐりの論議のあげく、鉄平が「アメリカン.ベアリング社のメイン.バンクへ行ったら、何か聞き出せないだろうか」と云うと、江州商事のシカゴ事務所長は、「さすがに銀行家の御子息らしい思いつきですが、アメリカの銀行は、日本の銀行とだいぶ事情がちがって、企業内部のことは、あまり深く知らされていない場合が多いですからねぇ」と小首をかしげたが、鉄平はともかく当ってみるからと云い、ハリス.バンクのウィルソン副頭取宛《あて》の紹介状を書いて貰ったのだった。そして今朝《けさ》、オフィスの開く九時少し前に、江州商事のシカゴ事務所長からウィルソン副頭取に会うアポイントメントを取って貰ったところ、運よく十時半に会える約束が取れたのだった。
電話のベルが鳴り、南駐在員の声がした。
「専務、只今、お迎えに上りました」
「有難う、すぐ降りて行くから――」
鉄平は、書類鞄《かばん》とオーバー.コートを手にして、足早に部屋を出、ロビーへ降りて行った。
南駐在員の運転する車は、ホテルの前のグラント.パーク沿いに、ノース.ミシガン.アヴェニューを北へ向って走った。高層建築のホテルやオフィスが公園に向って建ち並び、その間に骨董品《こつとうひん》店や、高級洋装店《オートクチユール》の店がシックな店構えをみせている。やがて車は、大通りを左折するために、信号待ちで停まったが、鉄平は角から一つ手前のビルの二階にふと眼を止めた。『ミシガン.ギャラリー』というプレートが眼についたからだった。
「なるほど、彼女はここでやるのか――」
古めかしいヨーロッパ調の画廊を見上げながら、呟《つぶや》いた。小森章子が、一週間後にミシガン.ギャラリーで個展を開くから、滞在していれば見に来てほしいと云っていた画廊であった。信号が変り、車は交叉点《こうさてん》を左折し、程なくウエスト.モンロー.ストリートのハリス.バンクに着いた。
ハリス.バンクは、シカゴの四大銀行の一つで、表通りに面した壁面が総ガラス張りの近代的な二十五階建てビルであった。鉄平は、南駐在員を車に残して、五階へ上った。
『Willson Vice President』と記されたドアをノックし、秘書に来意を告げると、すぐ中へ通された。ウィルソン副頭取は、鉄平の姿を見ると、書類にサインしている手を止め、L字型に置いた大きな机からたち上った。
「How do you do? ウィルソン副頭取《ヴアイス.プレジデント》にお目にかかれて光栄です」
鉄平は流暢《りゆうちよう》な英語で初対面の挨拶をし自己紹介し、江州商事のシカゴ事務所長から紹介状を貰って来ている旨《むね》を話すと、ウィルソン副頭取は紹介状の封を切り、眼を通した。
「ほう、ミスター.マンピョウの父上は、ハンシン.バンクのプレジデントでいらっしゃるのですか、それで、ご用向きは?」
鉄平に興味を寄せるような視線を向けたが、すぐ銀行家らしい平静な表情で、用件を聞いた。鉄平は、阪神特殊鋼とアメリカン.ベアリング社との取引関係と、今度の船積み延期の事態を直截《ちよくせつ》に話し、
「わが社としては、アメリカン.ベアリング社の説明に納得しかねる点があり、アメリカン.ベアリング社内に何か変動が起ったのではないかとも思って、ご事情に明るい御行に伺った次第です」
体を乗り出すようにして、云った。アメリカでは、企業の自己資本力が高く、借入金が少ないから、日本ほど銀行の企業に対する支配力は強くなく、それだけに取引企業の内容についてフランクに聞けるのだった。しかし、ウィルソン副頭取は、
「目下のベアリング業界の環境は非常によく、先行きの見通しについても、われわれとしては楽観的に考えていますので、ご質問の点について、そういうニュースは知らないとしか、お返事のしようがありません」
紋切型な応え方をした。
「しかし、業界全般の伸びは順調でも、アメリカン.ベアリング社の借入金が最近、増えているとか、そういう事実はないのですか?」
「それは全くありません」
「では、わが社に脅威を与えるアメリカ国内もしくは、ヨーロッパの特殊鋼メーカーが、アメリカン.ベアリング社に進出して来そうであるとか、そういう点は、いかがでしょうか」
「あなたのところのベアリング素材の価格は、どのようになっているのですか」
「それは、このリストをご覧下さい」
鉄平は書類鞄から、各種ベアリング素材の価格表を取り出して、テーブルの上に置いた。
「なるほど――、これでは欧米のメーカーが、太刀打ち出来るはずはまずないと云えるでしょう、したがって、あなたの会社にライバルが現われたということも、われわれとしては考えられないと申し上げるよりほか、ありませんね」