ウィルソン副頭取は一つ一つ、鉄平の質問に応えてくれたが、どこまで行っても、一線を画したよそよそしさがあった。鉄平は、父の万俵大介と対しているような苛《いら》だちを覚えた。
「最後に伺いますが、アメリカン.ベアリング社では、十月半ばから十二月初めにかけて、株価に変動があったそうですね、これは銀行サイドからご覧になって、どういうわけだと、お考えになりますか?」
ぶっつけるように云った途端、ウィルソン副頭取の表情が動いた。鉄平はすかさず、
「アメリカン.ベアリング社の株価が、わずかの値幅とはいえ、短期間に動くというのは、要は――」
ウィルソン副頭取の反応を探りかけると、
「そういうご質問は、われわれバンカーには、不適切であると思います――、私の方でお話し出来ることは以上ですし、次の予定がありますので、この辺で失礼したいと思います」
ウィルソン副頭取は、そう応え、慌《あわただ》しく面会を打ち切った。鉄平はウィルソン副頭取の俄《にわ》かに硬《こわ》ばった顔付を見詰めながら、アメリカン.ベアリング社の経営上に、まだ非公開だが、何らかの重大な事態が発生しているに違いないという確信を持った。
ハリス.バンクを出ると、ラ.サール.ストリートに近い江州商事のオフィスへ向った。そのオフィスの一隅に、阪神特殊鋼の駐在員のデスクがあるのだった。
オフィスに入ると、江州商事の駐在員は出かけて、部屋には、現地雇いのタイピストが一人、いるだけだった。
「専務、あまりうまいコーヒーではありませんが――」
南駐在員は、ポットのコーヒーを注《つ》いで、すすめた。鉄平はカップに口をつけながら、最前のハリス.バンクのウィルソン副頭取との話合いから、アメリカン.ベアリング社の株価の動きの背後に何かあることを感じ取ると、それを緒《いとぐち》にしてことの真相を手繰《たぐ》り出す手段を考えた。株価の動きと関係があるなら、証券会社筋を当ってみることだと思いつくと、マサチューセッツ工科大学で親交があったジェームス.コットンのことを思い出した。鉄平より一つ齢上《としうえ》で、専攻も違っていたが、猟が好きなところから、休暇にはよく一緒にカナダへ猟に出かけた仲であった。卒業後、鉄平は日本に帰って阪神特殊鋼へ入り、ジェームスはフォードのエンジニアからニューヨークのウォール街の証券会社へ転職した変り種《だね》で、二カ月前にニューヨークへ行った時も、家へ夕食に招かれた。出来ることならニューヨークへ飛んで、直接、話を聞きたかったが、アメリカン.ベアリング社のボスと会う時間は午後三時であった。鉄平はアドレス.ブックを開いて、ジェームスが勤務しているウォール街のバーナム証券会社のダイヤルを廻した。
「Hello!」
ジェームスのせっかちな声がした。
「Jimmy? こちらは鉄平だ」
「Oh! テペイ、またニューヨークへ来たのか」
友だちの声になって、懐《なつ》かしげに云った。
「いや、今、シカゴで、この電話はビジネスなんだ、急を要することで、話したいが、いいだろうか?」
四十歳で、中堅クラスの証券会社の副社長のポストにあるジェームスの多忙さを慮《おもんぱか》りながらも、是非にというニュアンスを籠《こ》めて聞くと、敏感に鉄平の切迫感を感じ取ったらしく、
「OK、で、用件というのは?」
「わが社と取引のあるアメリカン.ベアリング社のことなんだ――」
鉄平は、今度の事件を簡潔に説明し、アメリカン.ベアリング社の十月中旬から十二月初旬までの株価の変動が何を意味するのか、調査してほしいと依頼した。
「解《わか》った、ではすぐ調べてみるから、三十分ほど待ってほしい、それでいいか」
「いいとも、しかし、僕が今話した範囲内で、君が直感的に考え得ることは?」
「テペイ、君を驚かすわけではないが、アメリカン.ベアリング社は、もしかしたらどこかの企業に乗っ取られる、あるいは乗っ取られたかもしれない――」
「えっ! それはほんとうか?」
思わず、大きな声で問い返すと、
「当時のアメリカン.ベアリング社の株価の変動は、アメリカン証券取引所(第二部市場)で話題になったことがあったように記憶しているが、ともかく直ちに調べてみる」
と云うなり、電話はきれてしまった。
「何かあったんですか、専務」
南駐在員は、鉄平のただならぬ様子に気付いた。
「アメリカン.ベアリング社は、どこかに乗っ取られたかもしれないというのだ」
「まさか!」
信じられないように南駐在員が云った時、先程からオフィスへ帰って来て、日本からのテレックスを読んでいた江州商事の若い駐在員が、ローマ字で打ったテレックスの紙片を見せた。
HANSHIN TOKUSHUKO NO HUNAZUMI《ハンシン トクシユコウ ノ フナヅミ》 SOUKYUNI HENJI TORARETASHI《ソウキユウニ ヘンジ トラレタシ》
鉄平は電文を暫《しばら》く見詰めていたが、意を決するように、
「返電はこう頼む――、最後マデ交渉頑張ル、手配シテ待テ」
南駐在員は、驚くように鉄平の顔を見た。
「専務、お気持はともかく、現実問題として、つい今、あんなニュースが入り、可能性はますます……」
押し止《とど》めるように云ったが、鉄平は頑とした表情で、
「今云ったとおりに打ってくれ」
と云い、時計を見て再びニューヨークのジェームスの直通ダイヤルを廻した。
「ジミー、僕だ、調べはどうだった?」
せき込むように聞くと、
「充分ではないが、ほぼ推定は出来た、その前にテペイに聞くが、アメリカン.ベアリング社がこの夏、発表して業界に話題をまいたニードル.ベアリングだが、技術者《エンジニア》として、君はあの新製品をどう評価するかね」
「ああ、あれは二カ月前にこちらへ来た時、興味があったので、技術開発部長に直接、会って話を聞いたのだが、実に画期的な研削《けんさく》方式を開発したものだ、コロが小さく場所をとらない上、高速回転、高重量に耐え得るから、ミサイル、ジェット.エンジンなど、航空宇宙部品として、飛躍的な進出を遂げると思う、しかし、それがどうかしたのかい」
「どうやらそのニードル.ベアリングが、LSVに眼をつけられたらしいのだ」
「LSVって、なんだい、それは?」
「Ling-Smith-Vought がフル.ネームだが、最近、ぐんぐん擡頭《たいとう》して来た新興コングロマリット(複合企業)だ」
「なんだって、コングロマリット!」
鉄平は顔色を変えた。コングロマリットは、六、七年前からアメリカの企業界に突如、現われた新しい企業形態で、ミサイルから食品まで、まったく関係のない業種の企業を手当り次第に買収して、雪だるま式に成長し、わずか六、七年の間に百近い会社をかかえ、売上高が当初の二百倍、利益千倍となった凄《すさま》じい会社もある。そのほとんどは、高く吊《つ》り上げた自社株で、株価収益率の低い会社を現金を使わず、株式交換でどんどん買収していくのが手口で、小魚が鯨《くじら》を呑《の》み込むように、売上高が数倍もある巨大な名門会社を恐れ気もなく合併し、アメリカ企業界に旋風を巻き起していた。
受話器を握ったまま、鉄平が黙り込むと、ジェームスは早口に喋《しやべ》った。
「LSVは、もともと電子、航空宇宙関係が中心の二流会社だったが、二年前、アメリカ第三位の食肉メーカーであり、またゴルフ用具で有名な世界最大のスポーツ用品会社ウィルソンの株を、たった二十日間で過半数買い占め、支配権を握ってから一躍、名を上げたコングロマリットで、世界五百社の第十八位にランキングされている会社だ、したがって、アメリカン.ベアリング社など、LSVにとっては、食おうと思えば、あっという間に食ってしまえる存在というわけさ」
証券マンにとっては、さして重大でも、突発事でもなさそうだったが、鉄平には青天の霹靂《へきれき》であった。
「しかし、ジミー、LSVが乗っ取ったというのは、確かなのか?」
「確証はないが、確率は高いね、というのは、君の云ったアメリカン.ベアリング社の株価の変動を調べてみると、たしか十月初旬までは三十ドルを前後していた株価が十月十日過ぎからじりじりと上って、ピーク時には四十七ドルまで上り、一方、出来高も平素は五千株平均だったのが、株価の上昇に比例して、多い時には一万株、二万株の売買高を記録した日もあった」
「しかし、一万や二万株の出来高など、さしたることではないじゃないか」
鉄平が問い返すと、
「テペイ、ウォール街は日本のカブト町とちがって、万を超えれば非常に売買量の多い人気株なんだ、それでと――、現在の株価及び出来高をみると、またもとの状態に戻っている、ということはアメリカン.ベアリング社の買収が秘密裡《り》に完了したとみて、ほぼ間違いない」
「だが、アメリカの企業界の買収の多くのケースでは、買取り公告《テンダー.オフアー》によって、公然と株の買占めをはかり、秘密裡に株を買い占めて乗っ取るなど、絶無に近いのだろう」
「テペイの云う通りなんだが、二〇~三〇パーセントを秘《ひそ》かに集めてしまってから、相手側と話合って買収する場合もあり、そういう時は第三者には解らない、アメリカン.ベアリング社の規模がもっと大きければ、LSVと公開買付で争ったかもしれないが、相手がLSVでは、対抗のしようがなく、例のニードル.ベアリングの企業化に資金を出すなどの条件付きで、泣く泣く折れ合ったとみるのが妥当で、そういう好機につけ込んで買収するのは、コングロマリットの常套《じようとう》手段でもあるのだ、以上が三十分間で調べた事柄だ」
「そうか、多忙の中を有難う」
心から謝意を表し、電話をきった。アメリカン.ベアリング社に何らかの事態が起っていると思っていたが、それがアメリカの企業界を震え上らせている巨大なコングロマリットであったとは――、鉄平は暗澹《あんたん》とした。
アメリカン.ベアリング社のロジャース購買部長の部屋で鉄平は、激しくロジャースに迫っていた。
「ミスター.ロジャース、日本の私の会社では、船積みを待っている、つい先程も催促のテレックスが入ったばかりで、私としては何とか予定通り、明後日、荷積みをしたいから、OKして貰《もら》いたい」
「ノー、それは昨日《きのう》も云ったように、ボスの指示を待たねば決定できないことだ」
ロジャースは、苦しそうに同じ言葉を繰り返した。
「しかし、ボスは今日もいないというじゃないか」
「そうだ、今朝《けさ》、急にワシントンへ出張し、ミスター.マンピョウには気の毒だが、三日後でなければ会えない」
「そんな馬鹿《ばか》な、昨日、ボスと会わせてくれと云った時、OKしてくれたじゃないか、それが今日になって急に――」
「しかし、たとえボスと会っても、答えは同じだ、ボスは取りあえず、十二月の船積みを待てという答えだ」
「――じゃあ、どうしても明後日、日本を発《た》つ十二月の船積みは延期しろと、いうわけか」
強い語気で念を押した。
「そう、それが当社の回答です」
鉄平はがくりと、肩を落した。阪神特殊鋼の岸壁で荷積みを待つばかりの状態でいる現場作業員の心中を思いやると、アメリカ人相手のビジネスのドライで事務的過ぎるやり方が骨身にこたえた。倉庫には荷積みを待つばかりになっている十二月分と一月分があり、二月分も半分、製品が出来上っているから、一カ月分三億六千万の商いとして、総額九億円近いビジネスであった。そのうち十二月分だけは既に貿易手形で八割の額面は先払いで受け取っているとはいえ、万一、キャンセルになれば、返済しなければならないから、たちまち資金繰りが苦しくなる。
「それでは大へん困った事態だが、明後日の船積みは、そちらの要望通り延期しよう、だがキャンセルでないことを確約して貰いたい」
唇を噛《か》む思いで云うと、ロジャースは鳶《とび》色の眼を戸惑うように瞬《しばたた》かせ、口詰った。
「ミスター.ロジャース、私はあなたの会社について、或《あ》る重大なニュースを耳にした、それはアメリカン.ベアリング社がコングロマリットのLSVに買収されたというニュースだ、それと今度の船積み延期と関連があるのではないか」
ロジャースは大きく、顔色を動かした。
「あなたは、どうしてそれを知ったのか、私自身も詳しくはまだ知らされてないことだ」
「ウォール街のさる確かな証券筋から得た情報で、間違いないと云われている、それをなぜ私に隠しているのか」
「諸情勢を考え、まだ公《おおやけ》に出来ない段階と、トップが判断したことだから致し方ないことだ」
「では、改めてお聞きするが、アメリカン.ベアリング社が、LSVの支配下に置かれても、アメリカン.ベアリング社と当社との間の契約は、契約として残るのだから、引き続いて以後も当社の製品を購入して貰えると考えていいわけですね」
ぐいと踏み込むように云うと、
「それは新しいボスが決めることだから、私の口から約束は出来ない」
言を左右にした。鉄平は、南駐在員と顔を見合せたが、気を取り直し、
「LSVは元来、航空宇宙が専門の会社と聞いているが、特殊鋼メーカーを傘下《さんか》に持っている事実はないだろうね」
「ロスに持っていると聞いている」
「それでは、当社からもうベアリング素材を購入しないかもしれないわけか?」
鉄平は、愕然《がくぜん》として聞いた。
「その可能性がないとは云えない」
ロジャースは、黙り込んでしまった。
「ミスター.ロジャース、私はあなたに是非、頼みたいことがある、それは新しいボスに紹介してほしいことだ、私は新しいボスに会って、当社が現在、特殊鋼メーカーでははじめての高炉建設を行なって、来年六月に完成し、一貫メーカーになれば、従来の五パーセントの値引《デイスカウント》が可能であることを説明し、引き続き当社の製品を購入して貰うよう話をつける」
迫るように云うと、ロジャースはさすがに鉄平の熱意に搏《う》たれたように頷《うなず》いた。
「私として出来得る限りの努力はする、しかし、トップが交替すれば、私自身の馘《くび》さえどうなるのか解らず、次にミスター.マンピョウが来た時には、私はもうこの会社にはいないかもしれないのだ、だからあまり期待しないで貰いたい」
「――解った、しかし、新しいボスに会えるようにさえしてくれれば、私は私のやり方で納得の行くビジネスをする」
あくまで強気に云ったが、眼前にたちふさがる壁が、ますます巨大で動かし難いものになって行くのを、鉄平は認めざるを得なかった。
アメリカン.ベアリング社から、コンラッド.ヒルトン.ホテルに帰った時は、既に午後五時を廻りかけていた。朝からの強行軍と心理的な疲れが一度に出、すぐ風呂《バス》を使って、休息を取りたかった。
フロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取ると、キー.ボックスに入っているメッセージを渡された。「ロビーでお待ちしております、小森章子」としたためられていた。鉄平は、ロビーへ引き返した。天井の高いクラシックなロビーを見廻すと、奥のフロア.スタンドの傍《そば》のソファに、断髪の小森章子が黒いスーツの衿《えり》に顎《あご》を埋め、もの憂《う》げに坐っている姿が見えた。鉄平はその方へ步み寄り、
「やあ、あなたが訪ねて下さるとは思いもかけませんでしたよ、よくこのホテルが解りましたね」
「ええ、江州商事のシカゴ事務所の中に、阪神特殊鋼の駐在員がいらっしゃるということを以前、銀平さんから伺っていたのです」
銀平の名前を口にした時、小森章子の顔にかすかな苦痛に似た色が奔《はし》った。それを感じると、鉄平は疲れていながらも、強いて闊達《かつたつ》に、
「バーで少しお酒を飲み、そのあと一緒に食事をしませんか」
と誘った。小森章子は、ぱっと明るく頬笑み、
「喜んでご一緒させて戴《いただ》きますわ、日本から来られた方とゆっくりお食事するなんて、久しぶりですわ」
と応《こた》え、鉄平とともにロビーの奥へ足を向けた。
バーにはあまり人影がなく、鉄平と小森章子は、カウンターの椅子に列《なら》んで坐り、ハイボールを注文した。室内は汗ばむほど温かかったが、窓の外には、夕闇《ゆうやみ》に包まれた湖面が、凍えるように冷たく波だち、遠くを行く船の灯《あか》りも、寒々とかすかに明滅している。
ハイボールが運ばれて来ると、鉄平は互いの健康を祝福するように乾杯し、
「個展は来週の月曜日からでしたね、今朝《けさ》、ミシガン.ギャラリーの前を通りましたよ」
「まあ、そうですの、是非、いらして下さいましな」
「もちろん、こちらにおれば伺いますよ、あなたもパリとニューヨークで二年、勉強されたのだから、きっとすばらしい作品になったでしょう、何か一点、求めて、銀平に持って帰ってやりますよ」
と云い、ふと思いつくように、
「どうです、日本へ電話をかけて、銀平と話しますか、あいつ、驚きますよ」
「でも、日本は、午前九時前ですわ、朝寝坊の銀平さんは今頃、銀行の席についたばかりで、一番ご機嫌斜めの時ですわ」
前髪を払いのけながら云った。そこには、たとえわずかな間でも一緒に過した女の心遣いと、今もなお銀平を思う切実さが溢《あふ》れていた。鉄平はまずいことを云ったと思い、黙ってハイボールを飲むと、章子もぐいとハイボールを空けた。
「強くなりましたね、お酒が――」
「だって、外国で女が独り暮しをしていると、お酒でも強くならないと淋《さび》しくて――」
自嘲《じちよう》に似た笑いを、うかべた。
「だが、あなたには仕事があるじゃないですか、仕事はどんなに辛《つら》くとも、やり甲斐《がい》があり、救われるじゃないですか」
力付けるように云った時、ボーイが足早に近付いて来た。
「ミスター.マンピョウでいらっしゃいますね、日本からお電話です、こちらへお廻しします」
バーのカウンターの横の電話を指した。すぐたち上って、受話器を取ると、会社からではなく、思いがけない妻の早苗の声が聞えた。
「どうしたのだ? 子供がどうかしたのか」
「いえ、あなた、父が倒れました……腹部動脈瘤《りゆう》とかで――」
嗚咽《おえつ》するように云った。
「なに、大川のお舅《とう》さんが! 病状は? おい、早苗! 病状はどうなんだ」
「重態です、あなたのお舅さまも神戸から駈《か》けつけて下さいます、あなた、お帰りになって!」
「よし、解《わか》った、便を取り次第、帰国する」
鉄平は、震える手で、受話器を置いた。
*
昨夕、腹部動脈瘤で慶慈《けいじ》大学付属病院に緊急入院した大川一郎は、深夜に起った多量出血で、一時、危篤《きとく》状態に陥ったが、朝になって持ち直し、昼過ぎには小康状態を保っていた。
しかし容態は一向に楽観を許さず、血の気の失《う》せた土色の顔で仰臥《ぎようが》し、酸素吸入を続けるベッドのまわりには、血管外科の権威である主治医の相馬教授の指示で、三、四名の医師と看護婦が付ききりで、脈搏《みやくはく》、呼吸、血圧、心電図などを絶えず、チェックしていた。
見舞に駈けつけた万俵大介は、ベッドから離れたソファに、大川の長男と次男、そして大川が率いている派閥の世話役である衆議院議員と列んで坐り、言葉少なに容態を見守っていた。大川の妻と長女の早苗はベッドの傍《そば》から離れず、長男と次男の嫁は、隣接した応接室で見舞客の応対を手伝っている。『面会謝絶』ではあったが、大川の突然の重態を聞きつけ、佐橋総理の代理として田淵幹事長が朝早く駈けつけたのをはじめ、自由党三役、大川派の閣僚、議員、そして財界人が続々と詰めかけていた。
病室の扉《とびら》が開き、大川のかかりつけの医師である松見日本医師会会長が入って来た。松見医師は、大川の病歴を見て来た医師として、慶慈病院の医師団に顧問格として加わっているのだった。
「どうですか、経過は――」
ぎょろりとした眼が、大川とよく似ている松見医師は、うとうとと、まどろんでいる大川を視診しながら、相馬教授に小声で聞いた。応接ソファにいる万俵たちは、思わず耳を※[#「奇+支」]《そばだ》てたが、低い声でドイツ語の医学専門用語を混じえながら交わされている医師たちの会話は、殆《ほとん》ど聞き取れない。
「ううむ……ううむ……」
不意に、まどろんでいた大川の口から、苦しげな声が洩《も》れた。医師たちはすぐ枕元《まくらもと》に寄った。
「どうしました、痛いですか?」
相馬教授が、聞いた。大川は首を振り、
「小用をしたい――」
と訴えた。大川の妻と早苗が、すぐ便器をさし入れかけると、松見医師は手馴《てな》れた看護婦に命じた。しかし、便器がさし入れられても、尿はなかなか出る様子がなかった。
「出ないじゃないか!」
思い通りにならぬ自分の体に、大川は細くなった濁声《だみごえ》で苛《いら》だつように云った。意識はかなりはっきりしているようであった。
「無理をしないで下さい、そのうち自然に出ますから――、今、力んだり、動いたりすると、せっかく塞《ふさ》がりかけた血管が、また破れかねませんよ」
相馬教授は宥《なだ》めるように云い、看護婦に前をあけさせて、胸部と腹部の聴診を行い、その後、ポータブルのエックス線撮影機で、写真を撮った。大川はその間、ぐったりと力なく眼を閉じていたが、呼吸が苦しげで、腹部は異様に大きく膨満している。
万俵は、昵懇《じつこん》な間柄の松見医師の傍へ步み寄った。
「今朝《けさ》のお話では、容態が落ちつき次第、手術して動脈瘤を取り除き、人工血管を入れるということでしたが、いつ出来るのでしょうか?」
声をひそめて聞くと、
「それはまず無理でしょうね、相馬教授も、もはや手術《オペ》は不可能だと云っています」
「……ということは、容態がまた悪化したということでしょうか?」
「悪化したというより、大動脈全体に硬化が著しいので、もともと手術《オペ》は危険な上、今診《み》ると、左腹部にたまっていた血液が腎臓《じんぞう》にも及び、腹膜炎と同時に腎臓の機能も低下して来ているようです、尿意があっても出ないのはそのせいで、もし今度出血が起ったら、非常に危険だと考えられますから、ご親族の中で必要な方には、お知らせしておいた方がいいですよ」
医師らしく冷静な口調で云った。万俵は、松見医師のその言葉に強い衝撃を受けたが、悲しみの気持は不思議と湧《わ》いて来なかった。それより、こんな時に鉄平が日本を留守にし、まだ帰国していないことが腹だたしかった。
「早苗、ちょっと――」
万俵は、早苗を窓際《まどぎわ》へ呼んだ。
「鉄平は、何時に帰国するのだ、連絡はちゃんと取っているんだろうね」
「もちろんでございます、アラスカ経由の直行便の切符で、羽田には今日の一時半に到着する予定だと、シカゴの空港から電話がございました」
早苗は徹夜看護の疲れきった顔で応えた。
「じゃあ、もうそろそろ着く頃だな、それにしても鉄平は、発《た》つ前に舅《しゆうと》の工合の悪いことを知っていながら、私に一言も報《しら》せず、その上、自分がお見舞にたち寄ることさえしないとは、なんということだ」
苦虫を噛《か》みつぶすように云った。
「それは、今度の渡米がまったくの突然で、一刻を争うようなことらしかったものですから――」
「一刻を争うような用? そんな緊急の用件があるのに、私に隠すようにして渡米したのは、変な話じゃないか、いったい、何が起ったというのだろうかねぇ」
眼鏡の下から、探るような視線を早苗に向けると、
「会社のことは私、何にも存じません、それより予定通り飛行機が羽田に着いてくれるかどうか、もう一度、問い合せてみますわ」
と云い、足早に病室を出て行った。その時、
「う、う、う……痛い!」
再び大川の呻《うめ》き声がし、振り返ると、ベッドの上で、体を曲げ、腹部を抑え込むようにして、苦悶《くもん》している大川の姿が眼に飛び込んで来た。
「あなた! あなた!」
枕頭台《ちんとうだい》の傍にいた大川の妻が、振り搾《しぼ》るような声で、夫の体にとりすがり、息子たちもベッドに駈け寄った。
「動脈瘤からの出血が、再び起ったようですから、ご家族の方は、ベッドから離れて下さい」
相馬教授は厳しく制し、若い医師たちに、
「直ちに輸血する、静脈切開の緊急手術の用意をするよう!」
と命じた。その間にも大川の手足は急速に冷たくなり、意識が薄れて行った。
「血圧は、どうです」
松見医師が、相馬教授に聞いた。
「八〇~六〇、それに胸部にラッセル音があります、どうやら前回を上廻る大量出血で、腹部から胸部全体に血液が及んだようです」
最高血圧が下って、脈圧が少なくなり、同時に頻脈《ひんみやく》が起るのは、出血性ショック特有の症状であった。
やがて数分を経ずして、輸血用の血液瓶《びん》が新たに十本、運び込まれた。一本二〇〇cc入りだったから、その量は人間の体に流れる全血液のほぼ半分近い量であった。次に三人の外科医によって、大川の両肘《りようひじ》、両足首の静脈が切開され、血液瓶に繋《つな》いだカテーテルが、切開された静脈に挿入《そうにゆう》されると、大量の血液がどんどん輸血されて行った。しかし、それがもはや大川の生命を取り戻すための輸血でないことは、家族や万俵の眼にも解りかけていた。
シカゴからの直行便であるノース.ウエスト機が、木更津《きさらづ》沖の上空に達すると、ベルト着用のサインが出、着陸態勢に入った。しかし、鉄平は、もうさっきからじっとしていられない気持だった。飛行機は予定より四十分も遅れているのだった。
ようやく滑走路に飛行機が停まり、タラップがかけられると、鉄平は真っ先に降りた。大川の舅《ちち》のことを考えると、少しでも先へ先へと步かないではいられない気持であった。
税関の荷物台に出て来たトランクを受け取ると、手早く通関の手続きにかかった。
「大川一郎の親戚《しんせき》の者です、危篤《きとく》の電話をシカゴで受け取り、急遽《きゆうきよ》、帰国して来たので、荷物の検査を急いでお願い出来ませんか」
鉄平は、切迫した口調で頼み込んだ。
「ああ、大川先生の――、早くおいでになった方がいいですよ、さっき、ラジオの臨時ニュースで、大川先生は再び重態に陥ったと云っていました」
係官は、トランクの蓋《ふた》を形ばかり開けただけで、税関を通した。
「再び重態……どうも」
鉄平は、やっとの思いでそう云い、税関の外へ出た。
「専務、お帰りなさいまし、自動車はこちらでございます」
阪神特殊鋼の東京支社の秘書課員が出迎え、荷物を鉄平から受け取り、足早に步いた。
「大川の舅の容態はどうなんだ、再び重態ということだが」
自動車が走り出すと、鉄平は秘書課員に聞いた。
「はい、一時、持ち直されたのですが、一時間前、再び大出血を起され……」
「で、助かる見込みはあるのか」
「医師団の発表によると、最善を尽して第一回目の危篤状態を乗りきったように、今回も乗りきりたいが、腹部中央の大動脈にできた動脈瘤の病根は、非常に古く、容態はきわめて憂慮されるとのことです」
「病根は古い……」
鉄平は、思わず口詰った。急遽、アメリカン.ベアリング社へ飛びたつ日、渡航準備が終るのを待ちかねるように、妻の早苗は「さっき、実家《さと》の母から電話があって、父がまた工合を悪くしたのですって――、あなたのことを、どういうわけか、とても気にしていて、出来たらちょっと、見舞ってやって下さらない?」と云った言葉が思い起され、鉄平の胸を強く締めつけた。あの時は会社の重大事で頭が一杯で、深く考えなかったが、今にして思えば、大川は、当然、知っていたであろう自分の病気の悪化を感じ取って、高炉建設のことを気にしてくれていたに違いない。生きていてほしい、ただ生きていてくれさえすればと、鉄平は祈るような気持で、車を走らせた。
高速道路を走って、芝白金《しばしろかね》の慶慈病院に着いたのは、三時二十分を過ぎていた。鉄平は、急いでエレベーターで五階の外科病棟へ上り、大川一郎の入院している特別室へ足を向けた。そこここに見舞客や報道関係者がたたずみ、異様に緊張した気配が廊下にまで漂っている。鉄平は早鐘のように打つ不吉な胸の動悸《どうき》を抑え、病室へ入った。室内の目が、一斉に鉄平に向けられ、わけても、父の万俵大介の咎《とが》めだてるような冷たい視線を感じたが、かまわず、十数人の医師と看護婦が取り巻いている大川一郎のベッドに近寄った。
「お舅《とう》さん――」
鉄平は、そう呼びかけたが、あとは言葉にならず、その場にたちすくんだ。あの精力的で脂《あぶら》ぎった大川一郎の面影は微塵《みじん》もなく、苦悶のあとを残した青白い顔が上を向いたまま、昏睡《こんすい》状態に陥っている。
やがてそれまで動いていた心電図の棘波《きよくは》が直線に変った。心停止が来たのだろう。瞳孔《どうこう》の反射も全くなくなった。
「ご臨終です――」
医師団を代表して松見医師が、家族たちに臨終を告げた。
築地《つきじ》本願寺の大門から本堂までの参道の両側に、各界から贈られた五百対《つい》に及ぶ花輪が並び、氷雨《ひさめ》降る十二月二十三日にもかかわらず、焼香を待つ参列者たちが長い列をなしていた。
本堂の正面祭壇には、菊花に囲まれた大川一郎の遺影が祀《まつ》られ、天皇陛下から贈られた大輪《たいりん》の白菊の花籠《はなかご》一対が一際、清々《すがすが》しく供えられ、従《じゆ》二位勲一等旭日大綬章《きよくじつだいじゆしよう》と副章が、故人の業績を讃《たた》えるように飾られている。祭壇の前では導師一人に二十数人の脇《わき》導師が和して経をあげ、そのうしろには遺族と親族、さらに自由党の党葬らしく、佐橋総理大臣、田淵幹事長、永田大蔵大臣をはじめとする閣僚、各党委員長、党員二百数十名の殆どが威儀を正してずらりと居列《いなら》び、政界、官界からも多彩な顔ぶれが参列していた。
読経《どきよう》が終り、司会役の自由党副幹事長が弔辞の儀を告げると、最初に佐橋総理がたち上って、役者のように整った容貌《ようぼう》と体躯《たいく》で徐《おもむ》ろに祭壇へ步み寄り、咳《しわぶき》一つなく静まりかえった中で弔辞を読みはじめた。
「……巨星落つ、大川一郎君の突如としたご逝去《せいきよ》の悲報に接し、ただ暗澹《あんたん》たる思いであります、君の政治家としての業績は歴史に残るところであり、君の優れた着眼と迅速《じんそく》果敢なる行動は、国家にとっても、わが党にとっても……、大いなる損失であります、大衆に愛され、かつ信頼された君は、今多くの国民が悲しみ、悼《いた》むところであり……特に日ソ国交回復については、全身全霊を傾けられ……」
佐橋総理の弔辞は、故大川一郎の業績と人となりについて、最大級の表現を連ね、そこには生前、政敵であった者の片鱗《へんりん》をも見出《みいだ》せない。続いて衆参両院議長、各党委員長などの弔辞が、次々と読み上げられた。
万俵大介は、親族席に妻の寧子と列んで坐り、先刻来、皮肉な思いで、総理をはじめ、各党委員長の弔辞に耳を傾けていた。生前は実力政治家として評価されながらも、あく[#「あく」に傍点]の強い油断ならぬ政治家として財界から警戒され、そのため一度も政権の座につけなかった。しかし毀誉褒貶《きよほうへん》の多いその大川一郎が、死亡した途端、識見、人徳ともに惜しむべき政治家として褒め讃えられ、英雄視されている。万俵大介は、死を境にした人間の評価の相違に苦笑しながら、長男の鉄平が、大川一郎の長女を娶《めと》った関係によって、阪神特殊鋼が飛躍的に伸びたこと、大川一郎が通産大臣に次いで、建設大臣になった時、中国縦貫道路の計画で、姫路に広大な土地を所有する万俵不動産が巨富を得たことなどを、次々に思い返した。むろん、一方では大川一郎と閨閥《けいばつ》を結んだことで、一部の政財界から煙たがられたことも事実であったが、そうした利害得失も、大川一郎の急逝によってご破算になってしまうのだった。
弔辞が終ると、再び読経が続けられ、焼香が始まった。
まず遺族席の最前列に坐っている未亡人が静かにたち上ったが、夫を失った哀《かな》しみの面持より、ものものしい党葬の盛大さに気圧《けお》されたように祭壇へ步み寄り、参列席に向って深々とお辞儀をして、夫の遺影に焼香した。続いて長男、次男夫妻、長女である早苗と鉄平が焼香にたったが、鉄平は危篤の報による急遽の帰国、通夜《つや》、密葬、今日の本葬と、ここ四日間、憩《やす》む暇《いとま》もなく、さすがに疲労の色を滲《にじ》ませていた。しかし精悍《せいかん》な眼《まな》ざしで、舅《しゆうと》の遺影を見上げ、どんなことがあっても阪神特殊鋼の高炉建設は完遂させることを霊前に誓った。さらに大川家の親族として万俵大介、妻の寧子、美馬中と一子も焼香にたち、それが終ると、立礼のために親族一同が焼香路の両側にたち、葬儀委員長である佐橋総理も、夫人とともに焼香にたった。
万俵大介の眼が、きらりと光った。喪服に身を包んだ佐橋総理夫人は、白狐《しろぎつね》のように色白で細く、神経質な顔つきを終始、ハンケチでおさえていた。通夜の席でも、佐橋総理とともにいち早く弔問し、人前もはばからず泣き伏し、今もまた眼を泣きはらせている。夫人の甥《おい》が二子の縁談相手であり、次なる閨閥の相手であると思うと、万俵大介は、その一挙手一投足に、注意深い視線を向けた。
やがて堂内の告別式参列者の焼香が終ると、一般焼香に移った。読経の声はさらに高まり、たちのぼる香煙の中で、一般参列者たちは、用意された一万本の菊を次々と霊前にたむけた。なかには新橋、赤坂の粋筋《いきすじ》と目される女たちの喪服姿も見られた。その間にも、要務のため告別式に間に合わなかった政官界の要人が、一般参列者に混じって菊花をたむけ、その度に、大蔵省、財界関係は、万俵大介と美馬中、通産、建設省関係は、大川一郎の長男と鉄平という風に分担して、鄭重《ていちよう》な答礼をすることを忘れなかった。