三時間半にわたる葬儀が終りかけた時、紺《こん》の役半纏《やくばんてん》に股引《ももひき》、紺足袋にさらの草鞋《わらじ》を履きしめ、江戸火消しの装いをした五十人程の行列が、氷雨の中を纏《まとい》を持って、しずしずと本堂へ入って来た。消防団の頭《かしら》と小頭《こがしら》クラスの人たちで、江戸消防記念会の名誉会長をしていた故人のために、木遣《きや》りを唄《うた》って、霊を弔おうというのであった。
※[#歌記号]ヤーレーエー エーエー イーエー エー……
※[#歌記号]ヨーイヨーイ
しんと静まりかえった中に、木遣りの音頭と唱和する声が朗々と響き渡った。
――極楽に吹き行く風が、ものいわば、日に幾度の、便り聞かせん――
五十人の木遣りの声が堂内に響き、江戸火消しの名残りをとどめる纏が、威勢よく宙に舞った。豪快で勇ましいことが好きだった大川一郎の葬儀らしいしめくくりであり、悲しみの中で、敢えて威勢よく唱和する木遣りの声は、かえって惻々《そくそく》として人の胸を搏《う》った。多くの人たちが粛然として頭を垂れた時、万俵大介の背後で、秘《ひそ》やかな人の気配がした。振り返ると、美馬中であった。
「お舅《とう》さん、勝手ですが、私は主計局の予算査定の一番忙しい時ですから、お先に失礼します――」
囁《ささや》くように云う美馬の眼には、葬儀の席に列した湿りがなかった。大川一郎に人前で、「中君、中君」と親戚《しんせき》呼ばわりされる迷惑がなくなった安堵《あんど》の色さえ見受けられるようだった。さすがの大介も憮然《ぶぜん》として頷《うなず》くと、
「おや、鉄平君は泣いていますよ――」
と眼で指した。その方を見ると、こみ上げて来る思いに耐えきれぬような鉄平の姿があった。鉄平は、胸にしみ入る木遣りを聞きながら、大きな後楯《うしろだて》を失った阪神特殊鋼の多難な将来に思いを馳《は》せて、胸を締めつけられるような不安を覚えているのだった。
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三 章
大《おお》晦日《みそか》の夜が更《ふ》けるにつれ、志摩半島のしじまは深くなる。英虞《あご》湾に面したホテルの窓際《まどぎわ》にたち、真っ暗な湾内を見下ろしながら、万俵大介は、
「いよいよ、今年も暮れるな」
呟《つぶや》くように云《い》うと、背後《うしろ》から相子が、
「今年はいろいろなことがございましたわね、銀平さんのおめでたい結婚式があったり、年末には大川一郎氏が突然、亡《な》くなられたり、その他、いろいろと――」
日夜、神経を研《と》ぎ澄まし、金融再編成の流れに対処して来た大介の胸中をも慮《おもんぱか》るように云った。そんな気配を知る由《よし》もない妻の寧子は、
「ほんとにあんなよい方が、あんな風に急にお亡くなりになるなど……」
声をくぐもらせた。三人は別々の思いで、暫《しばら》く口を噤《つぐ》み、窓の外を見詰めていたが、やがて、ルーム.メイドが年越しそばを運んで来た。
「じゃあ、温かいうちに戴《いただ》きましょうか」
相子が云い、三人はテーブルを囲んで年越しそばの箸《はし》を取った。
「例年のことながら、英虞湾を眺めながら、つごもりそばを食べるのはいいものだね」
年末の三十一日から新年にかけての四日間を志摩観光ホテルで一家揃《そろ》って過すのが、万俵家の長年の習慣であったから、年越しそばを食べることも、大介にとって大晦日の欠かせぬことの一つであった。
一年の思い出を噛《か》みしめるように、三人が手打ちそばを口に運んでいると、二子と三子が入って来た。
「ちょうどいい、お前たちもどうかね」
大介がすすめると、末娘の三子は、
「階下《した》で戴いて来ました、これ以上戴くと、肥《ふと》ってお嫁の貰《もら》い手がなくなるからご遠慮するわ」
容姿を気にするように首を振った。大介は笑い、
「お嫁に行くのは、来年は二子の番だな」
と云うと、
「私が嫁《い》きたいと思うような方がいらしたら、いつでも参りますわ」
二子はさらりと応《こた》え、
「それよりお父さま、今度のお年玉は南洋真珠を買って下さいな、ロビーのショー.ウィンドーですばらしい珠《たま》を見つけましたのよ」
お年玉のおねだりをすると、三子も、
「私は指輪、店員さんにもう押えて貰っているから、お父さま、お覚悟のほどを」
ちゃっかりと云った。扉《ドア》をノックする音がした。
「どうぞ――」
相子が応えると、ひらりと真紅《しんく》のシャンタンの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、万樹子が入ってきた。銀平はきちんとしたダーク.スーツ姿だった。
「お父さん、年末のご挨拶《あいさつ》に参りました、本年中は何かとお世話になりました、来年もどうかおよろしく――」
家父長制の厳しい万俵家らしく、父子といえども、改まった挨拶を交わすのだった。万樹子も銀平に倣《なら》って舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》、そして相子にも年末の挨拶をした。大介はにこやかな笑いをうかべ、
「揃って丁寧な挨拶を有難う、来年も万俵家の誇りと繁栄を忘れぬように――」
と頷《うなず》き返した。堅苦しい挨拶が終るのを待ち受けていたように、三子が、
「まあ、万樹子お嫂《ねえ》さまのツーピースはすてきね、お正月三日間はどんなのをお召しになるの、スーツ.ケースを三つもお車に積み込んでいらしたんですってね」
と云うと、派手好きな万樹子は忽《たちま》ち、顔を輝かせた。
「元日の朝は、真っ白なシフォン.ベルベットのドレス、夜は疋田《ひつた》の訪問着、二日は、ほら、あなたとご一緒に行ったジバンシーのファッション.ショーで買ったフォーマル.スーツ、そして――」
と並べたてたが、相子と視線が合うと、
「でも、私はこちらに嫁いではじめてのお正月ですから、お姑《かあ》さま方のお召物とお合わせするつもりですわ」
と言葉を添えた。寧子はおっとりとした口調で、
「私はまだきめかねていて、持参しているお衣裳《いしよう》の中から、相子さんと相談してきめようと思っておりますの」
「じゃあ、今から皆できめましょうよ」
二子と三子が浮きたつように云い、女たちが賑《にぎ》やかに衣裳の話をはじめると、大介は窓際のソファに銀平と列《なら》んで坐《すわ》った。
「どうだね、お前が銀行を出る時は、大分、片付いていたかね?」
今年最後の銀行業務のことを聞いた。暮の三十一日ともなれば、頭取は暇になり、正午過ぎから休暇を取ることが出来たが、貸付課長の銀平は、夕方になってから、やっと出かけて来たのだった。
「僕たちの方は三時過ぎに片付きましたが、支店の連中はまだ走り廻っているでしょう、特に三宮、元町などの商店街を受け持っている係は、除夜の鐘をいつも取引先で聞くらしいですから」
他人《ひと》ごとのように云うと、
「お前にはいつまでも貸付課長をさせておくつもりはない、もっと重要な仕事をして貰うべく考えているが、希望はあるかね?」
「別に――、どのポストでもどうせ似たりよったりですからね」
さして関心なさそうに、応えた。銀平の銀行に対する姿勢は、いつも、もう一つ熱意が感じられない。大介は、はぐらかされたような気持で、万樹子の方へ眼を遣《や》り、
「そろそろ子供があってもよさそうじゃないか」
と云った。銀平はそっぽを向いたが、万樹子はやや顔を紅《あか》らめ、
「私はそう望んでおりますけれど……」
「すると、銀平の意向で計画出産でも考えているというわけかね」
「というより、望んでいらっしゃらないようですわ、それでなければ――」
万樹子が、日頃の不満を舅に訴えるように云いかけると、
「そういうことは、一方的におっしゃるものじゃございませんことよ」
横から相子が遮《さえぎ》った。その“一方的”という言葉の裏には、相子だけが知っている万樹子の婚前にあった異性関係の秘密をほのめかすようなニュアンスが籠《こ》められている。万樹子は押し黙った。
「さてと――、僕は失礼します、お父さん、お母さま、どうかよいお正月を」
銀平がたち上ると、万樹子、二子、三子も揃って部屋を出た。
室内は再び静かになり、寧子と相子は元旦《がんたん》の衣裳を整えはじめ、明朝、雉《きじ》撃ちに行く大介は、銃を入れたケースから、愛用のホーランド.アンド.ホーランドを取り出し、鹿皮《しかがわ》で念入りに手入れをし始めた。
「お父さん、年末のご挨拶が遅くなりました」
慌《あわただ》しく、鉄平が入って来た。早苗も一緒であった。
「工場の方が多忙を極めて、つい今しがた着いたばかりです、子供たちは車の中で眠ってしまいましたが、除夜の鐘に間に合ってよかったです、どうか来年もよろしくお導き下さい」
折目正しく年末の挨拶をした。早苗も、
「お舅《とう》さま、実家《さと》の父の葬儀に際しましては、何かとお心配りのほど、ほんとうに有難うございました」
まだ悲しみを含んだ表情で、深々と一礼した。
「早苗も何かと大へんだったが、心落しのないよう――、あとの始末はうまく行っているのかね?」
「おかげさまで――」
言葉少なに頷いた。あまりに突然な死だっただけに相続税その他、大川家の今後は多難のようだった。
ゴォーン……ゴォーン……、一同が言葉を跡切《とぎ》らせた静けさの中に、鐘の音が聞えて来た。志摩の名刹《めいさつ》、国分寺で打つ除夜の鐘の音であった。
「いよいよ、年が明けるな」
大介は、感慨を籠《こ》めた声で云い、鉄平たちも荘重な音に耳を傾けた。
元日の朝である。
清澄《せいちよう》な夜明けの光が、東の空をほのかに明るませ、やがて太陽が、水平線から昇りはじめる時刻であった。
万俵大介と長男の鉄平、次男の銀平の三人は、英虞湾が一望のもとに見渡される横山の頂上近くに車を停め、初《はつ》日の出を待った。元旦は雉撃ちの前に、毎年、初日の出を見るのが慣《なら》わしで、昨年は太平洋の荒波が打ち寄せる大王崎《だいおうざき》で、その前年は緩やかな砂浜の続く阿児《あご》の松原で、水平線から巨大な炎の塊のような太陽が、ぐいぐいと昇るのを見ることが出来たのだった。しかし、今年は、空に雲が多く、東の空は薄墨色の雲が垂れ籠めている。
「この空模様では、初日の出はどうやら見られそうにないね」
大介は、鳥打帽《ハンチング》にハンター用の皮ジャケット姿で、ポケットに両手を突っ込み、英虞湾のかなたに眼を凝らした。点在する大小の島々と、無数の真珠筏《いかだ》が浮かぶ英虞湾は、透明な朝の光の中で、その輪郭を次第に際だたせはじめたが、太陽が顔を出す気配はない。
「今年は駄目じゃないですか」
愛車のマーキュリーに体をもたせ、銀平が欠伸《あくび》を噛《か》み殺すように云ったが、兄の鉄平は、
「たしかに日の出の時刻は過ぎているが、あの雲間から陽が射《さ》しはじめているから、少し待ってみよう」
分厚い雲の間から、一条の淡いオレンジ色の光が射しはじめたのを指さした。大介と銀平が、その方を見ると、周辺の薄墨色の分厚な雲が、次第にばら色に染まりかけ、みるみる赤味を増し、やがて東の空全体が、真っ赤に焼けるように燃えたった。不気味なほど鮮烈な朝焼けであった。
「縁起でもない、元旦から朝焼けとは――」
大介は憮然《ぶぜん》として云った。
「どうしてなんです? 朝焼けもなかなか美しいじゃないですか」
腕組みして見ている鉄平が、父を振り返って云うと、
「お前は知らないのか、昔から朝焼けは不吉の前兆と云われている――」
そう云われた途端、鉄平の精悍《せいかん》な表情が、はっと動いた。年末にかけて連続して起った不慮の痛手からたち直り、六月には完成予定の高炉建設を見事に成し遂げようと、心を新たにしている矢先の父の言葉だったからである。
「なんだ、鉄平らしくないじゃないか、顔色を変えたりして、何か気になることがあるのかね」
「いいえ、初めて聞く話だものですから」
「そうかな、亡《な》くなったお祖父《じい》さんがよくそう云って、朝焼けを嫌ったものだよ、正月に朝焼けすると、万俵一族に何か悪いことが起るとねぇ」
妙に粘りつくような声で云った。鉄平が反撥《はんぱつ》するように、ぐいと強い光の溜《た》まった眼を大介に向けた時、先に車に乗り込み、エンジンをふかしていた銀平が、
「もう、そろそろ行きましょう、寒さを我慢して見えもしない日の出にこだわっていたって仕方がないでしょう」
と促した。大介と鉄平が気まずい表情で、うしろの座席に乗り込むと、銀平は凍《い》てついた山道を巧みなハンドル捌《さば》きで運転して降りた。
車は山を降りると、雉撃ちをする大崎へ向った。賢島《かしこじま》に向い合うような形で、英虞湾に突き出ている半島で、伊勢志摩では今なお雉が最も多く棲息《せいそく》している場所だった。一緒に猟をする地元の猟友会のメンバーとは、そこで待ち合せることになっていた。
四十分程で志摩観光ホテルが対岸に見える高台の待合い場所に着いたが、この頃には、雲の上に昇りきった太陽が、おだやかな内海《うちうみ》を眩《まぶ》しいほどに照らし出していた。既に到着していた猟友会のメンバーたちは、銃を持って待っていた。
万俵大介も、シートのうしろに置いた銃と弾帯を手にして、車を降りた。
「頭取、新年おめでとうございます」
「皆さんお揃いで、おめでとうおます」
猟友会の四人の顔なじみが帽子をとって、口々に新年の挨拶をした。
「おめでとう、本年もよろしく」
大介は鷹揚《おうよう》に応え、猟友会の会長である東野の車から二匹のポインターが飛び出して来ると、
「よしよし、お前たちも、また一廻り逞《たくま》しくなったな」
上機嫌で犬の頭を撫《な》でた。二匹ともイギリス産のイングリッシュ.ポインターで、仔犬《こいぬ》の時から、大介が東野の家に預け、猟の訓練を任せている“預け犬”であった。それだけに逞しく張った胸郭、ぐいと引き締まった胴、そして白い艶《つや》やかな被毛に黒い斑点《はんてん》を持った二匹の犬の容《すがた》は、血統の優れた俊敏《しゆんびん》さと優美さを備え、曾《かつ》て王侯貴族の猟と云われた雉猟に相応《ふさ》わしい犬であった。
「では早速と、参りましょうか」
東野は、六十過ぎに似合わぬ軽い足どりで步き出すと、二匹のポインターは、ジャンプするようにその横を駈《か》け抜けて行き、一同も銃を肩にかけて步きはじめた。大介の銃はホーランド.アンド.ホーランド、鉄平はジェームス.パーディ、銀平はレミントンで、それぞれ凝りに凝った逸品だけに重量はあるが、緩やかな丘陵の一本道のせいか、さして苦にならない。
東野は、万俵たちに十一月の解禁以来の獲物《えもの》の成果を素朴《そぼく》な口調で話しながら、
「暮に寝ざめの悪いことをしでかしましてな、実はこの少し向うの池で鴨《かも》を見付けて撃ったんですわ、ところが狙《ねろ》うた鴨は逃げてしもうて、傍《そば》にいた鴛鴦《おしどり》に散弾が当ったんですな、鴛鴦は禁猟やから、いかんことしたなと思うていると、傍におった雄が、撃たれた雌の傍を何十回も廻り続けて離れませんのや、鴛鴦はいつも一対《つい》でいるものやけど、片割《かたわれ》が死んでも、離れんものらしいですな」
声を湿らせると、うしろからもう一人のハンターが、話を継いだ。
「けど、これが逆に雄が撃たれると、雌は一目散に逃げてしまうそうですわ、雌というのは、人間を含めて薄情なものですな」
胸が締めつけられるような話のあとだけに、一同は声を上げて笑った。その時、一行の数メートル先を駈けていたポインターが、たち止まって道端を頻《しき》りに嗅《か》ぎ廻ったかと思うと、しなやかに体を屈《かが》めて、灌木《かんぼく》の中へ容《すがた》を消した。東野や万俵たちは、ひたと声を殺し、犬の嗅ぎ廻っていた道端のところまで寄って周囲を見廻すと、雉の足跡がくっきりと三つ、記されている。すぐポインターのあとを追って灌木を分け入った。嗅覚《きゆうかく》の鋭いポインターは、鼻を地面にこすりつけながら、叢《くさむら》の中へ音もなく、まっしぐらに進み、ぴたりと止まった。引き締まった体躯《たいく》に緊張感が漲《みなぎ》り、尾がぴんとたっている。雉を見付け、ポイントしたのだった。銃をかまえた主人が駈けつけるまでその姿勢を崩さないから、獲物は竦《すく》み上って、その場を動けなくなっている。
「よし!」
東野の合図で、ポインターがはじめて大きく吠《ほ》えて躍《と》びかかった。同時に叢から羽搏《はばた》きの音をたてて、一羽の雉が飛びたった。その瞬間、
ターン、タターン!
万俵たちの銃声が鳴り、宙に紫の羽がぱっと飛び散ったかと思うと、彼方《かなた》の繁《しげ》みに真っ逆さまに黒い塊が落ちて行った。二匹の犬は、吠えながらその方へ疾走《しつそう》して行ったが、やがてポイントした犬が、射落した雉をくわえ、誇らしげに尾を振り、万俵たちの方へ駈け戻って来、東野の指示で大介の前へ獲物を置いた。
「ようし! よくやった!」
大介は褒めてやりながら、まだ生温かい雉を両手の掌《たなごころ》に受けて、満足げに眺めた。円《つぶ》らな眼の周囲が真紅の羽毛で縁取《ふちど》られ、首から胴、翼にかけて紫色の羽毛で掩《おお》われた見事な雄雉で、元旦の初猟らしい雅《みやび》やかな獲物であった。
次の獲物を求めて、一行は再び步き出した。
「兄さん、今日の猟はあまり乗り気じゃないようですね」
一行の一番うしろに、鉄平と列んで步いている銀平が云った。
「そうでもないが、僕はどちらかといえば、猪《しし》撃ちのように雄壮な猟の方が性《しよう》に合っているのかな、それに年末は、最後の最後まで、思わぬ突発事が起って、疲れているのかもしれない」
吐息をつくように応《こた》えた。
「そう云えば、最近の兄さんは疲れきっている感じですね、高炉建設や大川さんの急逝《きゆうせい》以外にも、心配事がおありなんじゃないですか、二子からちょっと聞きましたが、シカゴで何かあったんですか?」
さりげなく聞いた。鉄平は、十メートルほど前を銃を肩にして行く父のうしろ姿に眼を向けながら、
「いや、別に――、それよりシカゴといえば、行く飛行機の中で、シアトルから乗って来た小森章子さんに会ったよ」
鉄平は、シカゴ行きの真相を知られたくないために、帰国後も黙っていた小森章子のことを口にした。その途端、銀平の表情が動いた。
「シアトルから? どうしてそんなところで――、彼女はパリじゃあなかったのですか」
「いや、今はニューヨークへ移っているが、シアトルで個展を開き、続いてシカゴでも開くためその準備に行く途中だったんだ、相変らずの断髪姿で、きりっとした美しさは、少しも変っていない、君によろしくと云っていたよ」
ほんとうは三十過ぎてなお外国で独り暮しをしている女独特の疲れが見えていたが、それは口にしにくかった。
「シアトルくんだりで、個展か!」
銀平は吐き捨てるように云い、ずんずんと鉄平の先を步いて行った。切り裂かれるような銀平の心中を思うと、鉄平は、やはり小森章子のことは口にしなければよかったと後悔した。と同時に、アメリカン.ベアリング社への十二月の船積み分ストップの通知が、日を経るにしたがって、実質的にキャンセルの色が濃くなり、膨大な損失を蒙《こうむ》るかもしれない危険性が増しつつあることが思い出され、せめて正月三日間だけは忘れようとしていた不安が、また疲労した心に重くのしかかって来た。
けたたましい犬の吠声がし、山側の方で、人の走る気配がした。鉄平は、圧《お》しつぶされそうになる重圧感を払い除《の》けるように灌木の中を小高い丘陵に向って駈け上って行った。
ふと、眼前を一羽の雉が飛びたった。反射的に引金に指がかかった。
「危ない! 頭取が!」
という叫び声がしたが、
ターン!
鉄平のジェームス.パーディは鳴っていた。その瞬間、数メートルほど先の樹《き》の茂みが大きく揺れ、何かがどさりと倒れる気配がした。
「あっ、頭取、頭取!」
「お父さん!」
東野や銀平の叫び声がした。鉄平は全身から血が引くような思いで、灌木を飛び越え、駈け上って行くと、そこに父の大介が顳※[#需+頁]《こめかみ》を押えて倒れていた。
「お父さん、どうしたのです、しっかりして下さい!」
夢中で父の体を抱き起しかけると、
「お、お前は……私を……」
大介は呻《うめ》くような声で云い、鉄平の腕を振り払った。反対側から東野が体を支え、
「頭取! 弾《たま》は鳥打帽《ハンチング》の縁をかすめただけですが、どこか痛みますか?」
「耳が痛くて、聞きとりにくい――、それから腰が……」
腰部にも鋭い痛みを感じた。
「ともかく、すぐホテルへお運びしましょう、もし鼓膜が破れていたり、腰骨に罅《ひび》が入っていたりしては大へんですから、診《み》て貰《もら》わねば――」
東野がいい、銀平はすぐマーキュリーを取りに走った。
ベッドに横たわった大介は、まだ尾を曳《ひ》いている耳鳴りを覚えながら、数時間前の出来事を思い返していた。銀平に抱きかかえられるようにホテルへ帰って来、たまたま宿泊していた耳鼻科医の診断を受けたことまで覚えている。幸い外傷は免れたが、医師の診断では弾が耳もとを通過する際の風圧で、鼓膜がショックを受けた一過性の症状で、腰部の痛みも単なる打撲《だぼく》傷であるから、暫《しばら》く安静にしているようにと云い、鎮静剤をのむ指示をしたのだった。そのため二時間ほど睡眠し、眼が醒《さ》めた今は殆《ほとん》ど気持も落ち着いていた。
大介は、ベッドのまわりに、寧子や相子、そして鉄平、銀平たちがいることに気付いていたが、眼を閉じたまま、自分が危うく、鉄平に撃たれかけた前後を、仔細《しさい》になぞって行った。
第一番目の雉を撃ち落してから、三十分ほどして、ポインターが再び鋭い嗅覚をもつ鼻を鳴らして、ずんずん丘陵を上って行き、自分も灌木の茂みの間を縫ってその後をつけると、二匹の犬はぐるぐると同じ円周を嗅《か》ぎ廻り、やがて二匹が殆ど同時に獲物を見付けたらしく、ポイントに入った。自分、銀平、東野、そして他《ほか》の猟友会のメンバー三人が位置についた。その時、鉄平の姿はなく、東野が犬に合図をしかけようとすると、下の方から人の駈け上ってくる気配がし、
「危ない! 頭取が!」
という東野の声と耳を劈《つんざ》く銃声が同時に聞え、空がぐらりと回転するように揺らいだかと思うと、倒れてしまったのだった。
思い出してみれば、それだけのことであった。しかし鉄平が駈け寄って、体を助け起そうとした時、もしや鉄平が自分を狙《ねら》い撃ったのではないかという疑念が、脳裡《のうり》を掠《かす》めたのだった。あり得ない不穏な疑惑と思いつつも、亡父の敬介が自分の身長に合わせて別注したジェームス.パーディだけに、それがぴたりと合う鉄平が、その黒光りする銃口を自分の背に向けた姿が何故《なぜ》か想像され、めらめらと憎悪《ぞうお》の念が煮えたぎって来て、つい眼を見開いた。
「お父さん、お工合はいかがですか」
ベッドの傍《そば》に随《つ》きっきりだった鉄平が、覗《のぞ》き込んだ。大介は、黙って視線を背けた。
「あら、お目覚めになりましたの」
相子が素早く步み寄った。
「お耳の方は、少しはよくなられまして?」
「うむ……いや、先程までのようなことはないが、まだ耳鳴りがする」
殆ど止《や》んでいたが、大介は、鉄平を意識して眉《まゆ》を顰《しか》めた。
「まあ、それはいけませんわね、もう一度、お医者さまに診て戴《いただ》かなくてもおよろしいのかしら」
大げさに、相子は心配してみせた。
「あのう、冷やしたり、温めたりということは、しなくていいのでしょうか」
寧子が、おろおろと不安げに云った。
「へんにそんなことをしたら、よけいお工合が悪くなられますわ、それより、ほんとうにもう一度、さっきの先生に診て戴くなり、かかりつけの先生にお電話でお尋ねするなりしなくても、およろしゅうございますか」
相子は、取り仕切るように云った。
「うむ、もう暫く様子を見てからにしよう、元日早々、こんなことであまり人を騒がせたくないからね」
「それもそうですわね、でも、ほんとうに元日早々から、なんと縁起でもないことが起ったのでしょう、あなたがたっていらした地点から、十メートルも向うへ吹き飛んでいた鳥打帽《ハンチング》を、先程拝見して、総毛だつ思いが致しましたわ、ほら、ご覧遊ばせ、この鳥打帽の裂け目を――」
相子はそう云い、大介の眼の前に、鋭い裂け目ができている鳥打帽をさし出した。散弾の幾つかが貫通したらしく、鳥打帽の縁《へり》が鋭い裂け傷になって、千切れ飛んでいる。
「こんなもの、すぐ処分するんだ、見るだけで命が縮まる」
おぞましげに云い、大介は裂け傷のついた鳥打帽を払いのけた。
「お父さん、ほんとうに私の不注意でした、どうかお許し下さい」
鉄平は、はたきつけるような父の激しい手の動きに、自分への憤《いきどお》りの強さを感じ取った。
「許すとか、許さんとかの問題じゃないだろう、一体、この私を、何をどう勘違いして、撃ったのだ、それが不思議でしかたがない」
大介は、口もとを歪《ゆが》めた。
「あの時、犬の吠える声がして、お父さんたちがその方へ駈けて行かれた気配がしたので、私も後を追って行くと、不意に眼の前を鳥が羽搏いたので、反射的に引金を引いてしまったのです、灌木に視界を遮《さえぎ》られ、まさかお父さんがその向うにたっておられたとは、気付かず――」
「しかし、おかしな話だね、私たちの後を追って来たお前が、眼前にたとえどんな獲物が現われようと、それを撃つなど、ルール違反じゃないか、流れ弾が先を行く者に当るかもしれないことは、お前ほどの猟のベテランが、どうして、考えられなかったのかねぇ」
「おっしゃる通りです、年末来の睡眠不足でひどく疲れていたせいか、ハンターとしての冷静な判断を欠き、つい眼前を飛びたつ雉に、反射的に引金を引いてしまったのです」
鉄平が潔《いさぎよ》く自分の非を認めると、相子が口を挟《はさ》んだ。
「あら、でも私が東野さんたちのお話を伺ったところでは、背後《うしろ》で鳥の羽搏く気配がしたので振り向くと、鉄平さんが銃をお父さまの方へ向けているのが眼に入って、危ないと制止したにもかかわらず、引金を引いてしまわれたとか伺いましたけれど、まさか、そんなことはございませんのでしょう?」
大介の気持を煽《あお》りたてるような底意地の悪さが含まれている。鉄平はむっと気色《けしき》ばんだ。
「確かに、制止する声は聞きました、しかし、その時、既に引金を引いてしまっていたのです」
「お前ほどの銃の名手が、制止の声を耳にしたら、とっさに銃口を逸《そ》らすことが出来なかったのかね、それともお祖父《じい》さん譲りのジェームス.パーディが、お前の意思に反して、勝手に火を噴いたとでも云うのかねぇ」
大介は、じわりと粘りつくように云った。何かを疑い、何かをためすような響きがあった。
「お父さん、お父さんはこれ以上、僕に何を云えとおっしゃるのですか!」
鉄平は堪えに堪えていた思いを、爆発させるように云った。
「鉄平、ご病気のお父さまに向って、何ということを……」
寧子が涙ぐみながら窘《たしな》めかけると、それまで窓際《まどぎわ》で黙って煙草《たばこ》をふかしていた銀平が、
「忠臣蔵の松の廊下じゃあるまいし、吉《き》良上野介《らこうずけのすけ》と浅野内匠《たくみの》頭《かみ》もどきの芝居じみたやりとりなど、もういい加減になさったらどうですかね」
傍観者のような素っ気なさで云い、
「お母さま、お父さんはあれだけお喋《しやべ》りになれるのだから、たいしたことはないはずですよ、昼食にでも参りましょう」
そっと寧子の肩をおして、部屋を出かかると、
「鉄平、お前こそ、出て行って貰いたい」
大介が突き放すように命じた。その冷やかさに、鉄平は言葉に詰ったが、
「――僕が少し云い過ぎました、どうおっしゃられようと、僕のミスで起った事故で、お父さんをこんな目におあわせしたのですから、僕に出来ることなら、何でもお申しつけ下さい、もう一度、さっきのお医者さまに来て戴きましょうか」
「いらない、それより早く部屋を出てほしい、お前の顔を見たくない、それが今、私の一番、望むことだ」
大介は、そう冷たく拒絶した。それはどんな罵倒《ばとう》の言葉より、鉄平の胸に鋭くこたえた。鉄平は、すごすごと部屋を出た。
自分の部屋へ戻って来ると、鉄平は、そこに妻の早苗がいることも気付かぬように両手で頭を抱え、ぐるぐると室内を步き廻った。今の父との会話を思い出すと、哀《かな》しみとも、怒りとも、空疎《くうそ》ともつかぬ思いが、胸に突き上げて来た。そして今さらのように自分と父との間にある隔絶を思い知った。
それにしても、なぜ自分と父との間に、これほどまでの隔絶が出来たのだろうか。血を分けた親子同士であり、しかも父親と長男であるというのに、眼に見えぬ帷《とばり》のようなものが二人を隔てている。自分は虚心に父に接しているにもかかわらず、父の方は、何かにこだわり、何かを意識するように自分を拒んでいる。それは何であるのか――、鉄平は何度、考えてみても解《わか》らなかった。強いていえば、阪神特殊鋼の高炉建設を時機尚早として反対した父を押しきって、建設に着工したからだろうか。以来、鉄平は父の意中に妙に冷たいものを感じ取り、そのため、年末のアメリカン.ベアリング社の船積みストップの件も隠していることが、父の不興を買っていると云えば、云えることであった。しかし、それはまだ父の知るところとなっていないはずだから、それが原因ではない。そうすると、自分と父を阻《はば》んでいるものは何だろうか――。鉄平は、何度も同じ疑問を繰り返し、見えない壁にその問いをぶっつけるようにして、さらに室内を步き廻ると、
「あなた、いい加減にお止《よ》しになって、まるで動物園の檻《おり》の中の熊《くま》みたいに、さっきから、ぐるぐる部屋の中を步き廻ったりなさって――」
鉄平ははっと呼び醒《さ》まされるように、妻の方を振り向いた。
「あなた、子供たちはよそのお部屋へ遊びに行かせておりますからいいものの、どうしてお舅《とう》さまは、あんなにまであなたに冷たくあたられるのかしら――」
その場の雰囲気《ふんいき》に遠慮して、鉄平より先に部屋へ帰っていた早苗であったが、恨むように云った。
「いや、何といっても、僕の不注意から起った事故だから、しようがないよ」
「それにしても、お舅さまのあなたに対する問い詰め方は、ひど過ぎるわ、いいえ、あなたに対してだけではないわ、私に対しても、口では実家《さと》の父の急死を悼《いた》み、力付けて下さってはいますけれど、父が亡《な》くなってからの私に対するお舅さまのご様子は、どことなく、今までと異なる素っ気なさがございますわ」
「そんな馬鹿《ばか》な! お前の思い過しというものだよ」
「そうじゃありませんわ、あなたのお舅さまはそういう冷たさを体質的にお持ちになっている方だと思いますわ、でも、他家《よそ》から嫁いで来た私はいいの、血を分けたあなたとお舅さまとの間で、あんな言葉のやりとりがあるなんて、まるでほんとうの父子《おやこ》でないみたい――」
早苗がさらに言葉を継ぎかけると、
「それ以上は口を慎むべきだ、暫く、僕を独りにして貰いたい」
鉄平がそう云うと、早苗は涙ぐみながらも、政治家の娘らしい気強さで、部屋を出て行った。
独りきりになると、鉄平はもう一度、今朝来のことを考えた。自分は確かに眼前の叢《くさむら》から飛びたつ獲物《えもの》を見、その方向に父がいるなどとは気付かず、反射的に引金を引いてしまったのだった。それを血を分けた親子でありながら、どうして父は、息子に狙われたなどという考えが出来るのか。これがもし弟の銀平であったら、父はやはり同じ問い詰め方をしただろうか。鉄平の耳に「お祖父《じい》さん譲りのジェームス.パーディが勝手に火を噴いたというのかねぇ」と粘りつくように云った父の声が、なまなましく甦《よみがえ》って来た。
扉《とびら》が開き、足音をたてずに入って来る人の気配がした。振り返ると、母の寧子が顔を蒼《あお》ざめさせている。
「お母さま、申しわけありません、僕の不注意のために、せっかくのお正月をこんな風にしてしまって――、銀平とお食事に行かれたのではありませんか?」
「いいえ、それよりお父さまのあまりにきついお叱《しか》りに、あなたが参っているのではないかと思うて……」
「いや、参ってはいません、ですがお父さんが、どうして僕に対して、あのようなものの取り方をなさるのか、お父さんと亡くなられたお祖父さんの間に、何かがあったのですか?」
母の寧子は一瞬、身じろぐように鉄平を見た。
「そんなこと、あるはずが――」
「しかし、お父さんが僕に対して感情的になられる時は、不思議と、何かお祖父さんに繋がっている、今日もお祖父さん譲りのジェームス.パーディの銃だった、ですから何か――」
鉄平は迫るように云った。
「――でも、何もありません……」
寧子は、白い項《うなじ》を振り、あとはいつものようにひっそりと黙り込んだが、心の中では四十年前の身をわななかせるような出来事を思い出していた。
その日、いつものように女中が入浴の時間を告げに来、その頃、浴室として使われていた日本館の檜造《ひのきづく》りの湯殿に入り、湯槽《ゆぶね》に浸《つ》かって上ると、背中から両手、両足、爪先《つまさき》から恥部まで女中が洗ってくれた。実家《さと》の嵯峨家で、幼い時から公卿《くげ》華族のお姫《ひい》さまは、自ら体など洗わず、前もおさえず、人に洗わせるものとして躾《しつ》けられて来ていたから、平気で前を拡げて洗わせ、女中が引き退《さが》った後、独りたゆたうように湯槽に体を浸《ひた》していると、湯殿の木戸が開く音がし、磨《すり》ガラスの仕切戸に浴衣《ゆかた》の着流し姿が映った。久しぶりに夫の大介と入浴する恥じらいと昂《たかぶ》りで、ほてって来る体を緩く拡げながら待っていると、白い湯煙の中から「やはり公卿の女の肌はましゅまろのようだな」と、ぬるむような声がした。思わず息を呑《の》むと、夫ではなく、舅《しゆうと》の敬介の湯気に濡《ぬ》れ、情欲に濡れた顔が近付いて来た。大声で人を呼びかけると、「大介はまだ帰っていないよ」と囁《ささや》くなり、寧子の体を湯槽から抱き上げて、幼児のように両足を拡げて洗い場に坐らせ、異様な体位で体をからませて来た。あまりの恥ずかしさと怖《おそ》ろしさに、寧子はそのまま、湯殿の中で失神してしまったのだった。