気が付いた時には、湯殿に近い座敷の蒲団《ふとん》の中に寝かされており、眼を開けると、夫と舅《しゆうと》の顔が両側から覗《のぞ》き込んでいた。
「一体、どうしたんだい? 湯殿で気を失ったりして――」
夫が心配そうに聞いた。寧子は応《こた》えられず、そっと舅の方を見ると、舅の敬介は表情を変えず、
「全く驚いたよ、ちょうど湯殿の前庭を通りかかったからよかったものの、寧子の人を呼ぶ声が聞えなかったら、あのまま湯殿でのぼせ死にしていたかもしれないな」
と云い、女中たちを呼んで座敷まで運ばせた経緯《いきさつ》を何くわぬ様子で話した。その脂《あぶら》ぎった敬介の顔を見詰めながら、寧子は自分の体が完全に敬介に犯されたものか、それとも失神したため未遂に終ったのか、解らないことがかえって空怖《そらおそ》ろしかった。そしてその夜、夫の大介はいつもより執拗に寧子の体を愛撫《あいぶ》し、濃厚な交わりを求めた。そうすることによって、湯殿でのもしやという疑惑を解くような交わりであった。したがって、もし湯殿で舅に犯されていたとしても、その夜、大介とも交わった寧子には、妊《みごも》った鉄平がどちらの子供であるか、はっきりと応えられない――。
「お母さま、どうなさったのです? お工合でもお悪いのですか」
鉄平の声がした。寧子は、ゆっくりと顔を上げ、
「お父さまのおそばにいても何も出来ないくせに、疲れていたのね、でもあなたのそばで静かに憩《やす》めて、少し気分が直ったようですよ」
寧子は、蒼白《あおじろ》い頬にかすかな笑いをうかべ、舅の敬介に似た鉄平の逞《たくま》しい顔と体をまじまじと見詰めた。
「それなら、僕も安心です、先ほどお母さまに妙なことをお聞きして、お気に障《さわ》ったらお許し下さい」
鉄平は一抹《いちまつ》の疑念を残しながらも、これ以上、母を疲れさせたくなかったから、強いて快活に云った時、電話のベルが鳴った。
「子供たちからでしょう、早くどこかへ遊びに行きたがっていましたからねぇ」
鉄平が受話器を取ると、
「もしもし、お兄さま、新年おめでとうございます、一子です、いま着いたところですの、フロントからお電話していますのよ」
美馬中とともに五年ぶりに正月を志摩観光ホテルで過す一子からで、まだ今朝《けさ》起った事故のことは知らないらしく、母に似た細く澄んだ声であった。
美馬中は、舅の万俵大介のベッドの傍《そば》に坐り、相子から今朝の誤射事件を驚き入ったように聞いていた。
「で、鉄平君の撃った弾は、お舅《とう》さんの頭のどのあたりを飛んで行ったんですって?」
正月らしく、きちっとダーク.スーツを整えていたが、興味津々《しんしん》の色を湛《たた》えて聞き返した。その露骨さに、一子は視線をそむけたが、向い側の相子は、すんなりとのびたきれいな足を組みかえ、
「それが、ところもあろうに、顳※[#需+頁]《こめかみ》の間近ですの、しかも弾は背後《うしろ》から撃たれたときてますでしょう? たっていらした地点があと五ミリでも左寄りだったら、一体、どういう事態になっていたのか、それを思うと、ぞっと致しましたわ」
まるで、自分がその現場に居合せて、じかに見ていたような云い方をした。
「危機一髪とは、まさにこのことですが、鉄平君ほどの射撃の名手が、誤射するなんぞ、よっぽどどうかしてたんですね、何かあったんですか?」
美馬は、声をひそめるように尋ねた。大介は眼鏡の下からじっと美馬を見詰め、
「それは、どういう意味なのかね」
「いえ、そう改まって聞かれますと困りますが、たとえば猟に出かける前に、お舅さんと鉄平君との間に何か気まずいことがあったとか、あるいは――」
美馬が想像を娯《たの》しむように云いかけると、それまで顔を俯《うつむ》けていた一子が、
「あなた、いくら何でもそんなおっしゃり方はお止《よ》しになって、鉄平兄さまのことですから、自分のミスでお父さまをこういう目におあわせしたということで、どんなに苦しんでいらっしゃるかしれませんわ」
いつになくきっとした口調で、遮った。
「あら、それならよろしいのですけど、現実は、お父さまに食ってかかられるような口調で弁解される始末ですの、一子さんは平素、離れてお暮しだからご存知ないのでしょうが、最近の鉄平さんは、ことごとにお父さまに反抗的なんですのよ」
相子が、一子の弁護を頭から撥《は》ね除《の》けるように云うと、大介は不機嫌に顔を顰《しか》めた。
「もうその話はしたくない、それより中君、永田大臣への新年の挨拶《あいさつ》はどうだったかね」
美馬は、志摩半島へ来る途中、永田大蔵大臣の静養先である芦《あし》ノ湖《こ》にたち寄り、年賀をすませて来たのだった。
「どうも、ご報告が遅れました、大臣は、暮には結構なものをと云っておられました」
美馬は、暮のつけ届けのことを云った。
「そりゃあよかった、大臣のご機嫌はうるわしかったわけだね」
「まあ、いつもの如《ごと》くといったところです、しかしお舅さん、今年の金融界は、また一段と情勢が厳しくなるようですよ」
「ほう、それは大臣自身の発言なのかね?」
「さあ、その辺はどうでしょうか、実はたまたま、春田銀行局長と年賀が鉢合せになり、屠蘇《とそ》を戴《いただ》きながら、ふっと出た話ですから――」
確答せず、気をもたせるような云い方をした。厭味《いやみ》なもの云いだったが、大介はつり込まれるように、
「春田銀行局長と一緒とは好都合だったねぇ、しかし、昨年、あれだけ再編成論をぶち上げておきながら、第三銀行と平和銀行の合併が途中で潰《つぶ》れてしまったから、今年あたりは“合併屋”の面子《メンツ》にかけても、銀行合併を実現させたいというのが、春田局長の本音じゃないのかね」
厳しい情勢というのは、そのことだろうというニュアンスを籠《こ》めて聞いた。
「面子というより、それが大臣から春田局長に与えられた任務でしょうからね、まあ昨年は、再編成のムードづくりということもあって、あんまり強引なことは出来なかったでしょうが、今年あたりはいよいよ、実力行使をはじめるんじゃないですか」
鼻にかかった声で、笑うように云った。
「なに、実力行使――」
大介は、はっと眼を瞬《しばたた》く思いで、その言葉を反芻《はんすう》した。この一年、“小が大を食う”合併を考えて、永田大臣に暗黙の諒承《りようしよう》を求め、春田銀行局長にアプローチを試みながら、なおかつこれという合併相手もなく、暗中模索している都市銀行第十位の阪神銀行にとって、実力行使という言葉は不気味であった。
「おや、そろそろ二子ちゃんの花婿《はなむこ》候補とご対面の時間ですね」
美馬は、ちらっと時計を見て云った。三時のお茶の時間に、階下《した》のラウンジで、佐橋総理夫人の甥《おい》に当る青年を伴って、ホテルへ来ている小泉外交官夫人と会い、それとなく双方で見合いの下見《したみ》をする約束になっているのだった。
「まあ、もう少しのところで、お時間に遅れるところでしたわね、じゃあ、美馬さんと行って参りますわ」
相子が急いでたち上ると、
「うむ、失礼のないよう、よろしく頼む」
大介は、ベッドの中から云った。
「一子、お前も一緒にどうかい」
美馬は、大介の手前《てまえ》、妻を誘ったが、
「いえ、私はお父さまのお傍にお随《つ》きしています」
一子は、固い表情で首を振った。
美馬と相子は部屋を出ると、ロイヤル.ルームから続く人気《ひとけ》のない広い廊下を、肩を並べてエレベーターに向った。年齢的にいっても、二人のもつ雰囲気からいっても、似合いの夫婦であった。
エレベーターに乗ると、
「久しぶりに、またあなたと踊りたいな――」
美馬は、“閉”のボタンを押しかけた相子の指先に、相子より白くきれいな指をさり気なく絡《から》ませながら囁いた。二カ月前、二子の縁談のことで上京した相子と赤坂のナイト.クラブで踊った時の濃艶《のうえん》さを思い起している様子であった。
「残念ながら、このホテルにはホールがございませんのよ、ふ、ふ、ふ」
相子は、指を美馬に委《ゆだ》ねたまま、低く笑った。
「ホールがなくても、踊ろうと思えば、どこでも踊れるじゃないですか」
美馬がつと、顔を近付けかけた時、エレベーターが止まり、扉《ドア》が開いた。その途端、二人の顔が離れ、絡み合った指先がほぐれた。何事もなかった表情で、二人は揃《そろ》ってカクテル.ラウンジへ足を運んだ。
「お義兄《にい》さま、こちらよ」
ラウンジの奥の方から、二子と三子の声がした。二子だけにすると、見合いの下見であることを感付かれそうであったから、妹の三子も一緒に呼んでおいたのだったが、面識のない小泉夫人たちと、先にお茶を飲んでいる。美馬は驚くように小泉夫人の傍へ寄った。
「新年おめでとうございます、昨年は何かとお世話になりました、今年もゴルフのお手ほどきをお手柔らかに――」
茅ヶ崎のクラブで一度、ゴルフをしただけであったが、十年来の知己のように愛想よく挨拶し、元駐仏大使で、現在、外務省の研修所長である小泉信之氏のことを聞いた。
「主人は総理や外務大臣へのお年賀がございますので、明日、参ることになっております」
元駐仏大使夫人らしく、洗練されたパリ.モードのスーツとアクセサリーを身につけていたが、“狆《ちん》夫人”と陰口されている彼女は、狆のように寸詰りで鼻の低い顔をつんと取りすまして応えた。
「それはそれは、ではご主人さまには、明日、ご挨拶させて戴くことに致します、二子ちゃんたちは、小泉夫人を存じ上げていたの」
夫人と向い合って坐っている二子と三子に聞くと、小泉夫人が、
「私たちこちらでブリッジをしておりましたら、お二人揃ってお見えになりましたの、この間のゴルフの時、美馬さまに万俵さまのお嬢さま方のことを伺っておりましたから、もしやとお声をかけましたら、やはりそうでしたので、早速、お誘いして、お喋《しやべ》りをはじめたという次第でございますのよ、あら、高須さま、ご機嫌よう――」
立板に水のように話し、美馬の斜めうしろにたっている相子に声をかけた。相子は、万俵家の女執事然として、美馬より一步控えた慎しさで挨拶し、
「ご令息さまでいらっしゃいますか」
夫人の横にいる二人の青年に視線を向けた。
「ええ、こちらののんびりした顔の方が私の息子で、背が高く少しは締まった感じのする方が、細川一也《かずや》と申しまして、私どもの遠縁に当る者です、というより佐橋総理夫人の甥と申し上げた方が、よくお解《わか》り戴けますわね」
小泉夫人は、外国煙草《たばこ》をわざとらしい手つきで喫《す》いながら紹介した。
「そういえば、帝国製鉄の秘書課に佐橋総理夫人の甥御さんが勤務しておられると聞いておりましたが、あなたがその方でしたか」
美馬が、二子にそれとなく人物紹介をして聞かせるように云うと、細川一也は、
「はじめまして、お見知りおきを――」
佐橋夫人に似てやや眼尻《めじり》のつり上った顔にボストン眼鏡をかけ、サイド.ベンツのスーツを着こなし、気取った様子で挨拶した。
「こちらこそよろしく、さあ、僕たちもブリッジの仲間に入れて戴こうかな」
美馬が仲間に加わるように云うと、三子が、
「私たちは今から、小泉さんのスポーツ.カーで、ドライブに出かけるところよ、細川さんが、海苔《のり》を養殖しているのり※[#竹かんむり+洪]《ひび》のある湾を見に行こうとおっしゃっているの」
と云った。細川一也は、
「それはですね、伊勢ののり※[#竹かんむり+洪]というのは古いんですよ、平安朝時代の延喜《えんぎ》式の中に、肥後、出雲《いずも》、摂津《せつつ》、伊勢、播磨《はりま》から朝廷へ海苔を献上したことが記されていますから、伊勢ののり※[#竹かんむり+洪]は由緒《ゆいしよ》が深いわけで――」
と話し、言葉を継ぎかけたが、
「あら、お天気が悪くなって来ましてよ、そのご講義は後にして、早く参りましょうよ」
二子が急がせるように云った。若い四人はあたふたと出かけて行った。
三人になると、美馬は、
「どうも大へんおはね[#「はね」に傍点]のところをお目にかけてしまって」
義兄らしく、恐縮するように云った。
「いいえ、大へんご利発そうで、云いたいことをはっきりおっしゃり、私は大いに二子さんを気に入りましてよ、そちらさまは一也さんを、どう思《おぼ》し召して?」
「なかなか切れる方のようでいらっしゃいますわね、二子さんとは性格的に合う感じが致しますわ」
相子は心の中では、二子とは合わないタイプであることを見抜いていながら、そう応《こた》えた。
「たしかに噂《うわさ》にたがわず、しっかりした現代的な青年ですね、いい組合せだと思いますよ」
美馬も積極的に云った。
「じゃあ私、腕によりをかけて二人を組み合せてしまいますわ、私、動き出したら止まらない方でございましてよ」
小泉夫人は、狆のような顔をほほほっと綻《ほころ》ばせた。
シャンデリアの灯《あか》りに照らし出されたダイニング.ルームは、元日の夜らしい華やぎに満ちている。
新年の装いを凝らした人たちが、改まった雰囲気でそれぞれの晚餐《ばんさん》のテーブルを囲んでいたが、奥まった窓際《まどぎわ》の食卓を囲んでいる万俵一族の姿が、際だって人眼を惹《ひ》いている。一族の長である万俵大介を正面に、左側に寧子、鉄平夫妻と銀平夫妻が坐り、右側に相子、美馬夫妻、二子、三子が坐っている。女性たちは訪問着やカクテル.ドレスをまとい、男性たちはダーク.スーツに身を整えていた。総勢十一人がずらりと顔を揃えた晚餐であった。子供たちは、外国流に先に食事をすませていた。
スープの次に、伊勢海老《えび》のチーズ焼が運ばれて来ると、万俵大介は、いつものように洗練されたマナーで、ナイフとフォークを取った。それに倣《なら》い、一同もナイフとフォークを取って、伊勢海老にナイフを入れた。誰もが今朝起った雉《きじ》撃ちの事故など、[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、にこやかに振舞い、人眼には、どこまでも万俵一族の華麗なる晚餐会であった。
「今年は、五年ぶりに中君と一子も揃ったお正月だね、それに孫たちも、先に賑《にぎ》やかに食事をすませたらしいね」
大介が満足げにテーブルを見廻すと、さびを含んだ藤紫の訪問着を着た妻の寧子は、臈《ろう》たけた首筋をこくりと頷《うなず》かせた。美馬は、ナイフを置き、
「僕たちも久しぶりに、お舅《とう》さん方とご一緒出来て、またとないお正月です、子供たちも大喜びで、日頃、かまってやれない罪ほろぼしが出来ますよ」
と云い、同じ列《なら》びの末席にいる三子に、
「マドモアゼル、いかがでした、先程の青年たちとのドライブは?」
と問いかけた。狙《ねら》いは、二子の感想を引き出すためであったが、そんなこととは知らない三子は、サーモン.ピンクのカクテル.ドレスの胸に飾ったルビーのネックレスを輝かせ、
「素敵だわ、あの細川さんという方、――身長百八十センチ、容姿端麗、東大法学部出身、帝国製鉄秘書課勤務、明朗闊達《かつたつ》、それに伯父さまが総理大臣だなんて、まさにスーパー.ヤング.マンよ、ねぇ、お姉さま」
息を弾ませるように云った。が、ブルーのカクテル.ドレスに真珠の大粒のチョーカーをつけた二子は、形のいい口元に爽《さわ》やかな笑いをうかべ、
「随分、いいお点をつけるのね、でも私に云わせれば、あのまるで洋服屋のショー.ウィンドーから飛び出したような気障《きざ》な服装で十点減点、サイド.ベンツの裾《すそ》をひらひらさせて、何かお話しする度に、必ず“それはですね”と概論を一くさり講義しなければすまない“概論居士《こじ》”ぶりで三十点減点というところかしら」
辛辣《しんらつ》に評した。三子は心外そうに、
「だって、それは細川さんの博学多識の現われじゃないの、それにあの若さでサイド.ベンツのスーツが着こなせるのは、大へんなドレッサーだと思うわ、あのサイド.ベンツが、風にひらひらする度に、私、胸が痺《しび》れそうになったの」
ゼスチャーを交えて、甘い口調で云うと、一同は可笑《おか》しそうに笑ったが、美馬と相子は、二子が細川一也に関心を示さないことを知り、ちらっと眼を見交わした。
「次の料理は、松阪《まつざか》肉のステーキでございますが、葡萄《ぶどう》酒は、どちらになさいますか?」
賑やかなテーブルのさざめきのうしろから恭《うやうや》しい給仕長の声がし、各銘柄、各年代の葡萄酒を並べたワゴンを、大介の傍《かたわ》らに寄せた。
「そうだね、松阪肉だから、ブルゴーニュの辛口の赤がいいと思うが、どうかねぇ」
十種類近くある葡萄酒の瓶《びん》の中から選び出し、一同の好みを聞くと、美馬が、
「そうですね、年代は六五年代のところがいいですね、ブルゴーニュの赤は、十年以上を過ぎると、アルコール分が消え、風味が落ちると云いますからねぇ」
もの知り顔に云い、三子が、
「お父さま、パリのマキシムで葡萄酒を戴いた時、給仕長と別に、酒倉の主任《シエフ》が出て来て、葡萄酒の説明を一席ぶった上、どれにするかと聞かれた時は、さすがのお父さまもいささか戸惑われましたわねぇ」
と云うと、再び軽い笑いがたったが、鉄平と早苗は、笑わなかった。相子はそんな二人に気付き、
「鉄平さん、どうなさいましたの、お元気をお出し遊ばせよ、まあ、早苗さんまで――、ワインをもっと召し上れ」
昼間、さんざん、大介の気持を昂《たかぶ》らせ、鉄平と諍《いさか》うように意図的なものの云い方をしておきながら、わざとらしい気の配り方を見せた。そして今年はじめて万俵家の元日の晚餐会に出た万樹子に視線を移し、
「あら、万樹子さんは、初めてこの晚餐会にお出になったわけね、でもお衣裳《いしよう》のお好みは、お着物といい、帯、帯じめといい、さすがにお母さまが大阪の船場《せんば》のお出だけあって、お見事でございますこと――」
万樹子の母が、大阪の旧家の出であることをことさら口にし、万樹子を万俵家の新しいスターのようなもち上げ方をしたが、その言葉の裏には、実力政治家である父を失ってしまった早苗に対する疎《うと》んじがあった。万樹子は総疋田《ひつた》に雲形の縫取りのある豪奢《ごうしや》な訪問着の胸もとをときめかすように、
「そうお褒め戴きますと、父も母もどんなに喜びますかしれませんわ、正直申しますと、万俵家へ嫁いで最初のお正月だから、遺漏のないようにと、暮から何度も電話をかけて来ておりましたの」
「実家《さと》のお父さまといえば、暮の取込みで、年末のご挨拶も失礼しているが、お元気でいらっしゃるかね」
と大介は聞いた。
「はい、おかげさまで――、それより、こちらのお舅さまに大川様のことでお疲れが出ませんようにと、案じておりました矢先に――」
万樹子が今朝の出来事を口にしかけると、銀平が、
「少々、お喋りが過ぎる――」
万樹子の言葉を遮った。その気配に、美馬はすかさず話題を変えた。
「鉄平君、阪神特殊鋼の高炉建設は、たしか六月完成の予定とかおっしゃってましたね」
「ええ、その予定で大《おお》晦日《みそか》もぎりぎりまでやっていたのですよ、社運を賭《か》けてやっている仕事ですから、予定の期日に完成させたいのです、その矢先に、高炉建設の許可、その他もろもろの通産省との折衝で力を貸して下さった大川の舅《ちち》を失ったことは、手痛いことですが、今後、官庁関係のことで困った時は、美馬さんにもお願いします、その節はよろしく――」
鉄平らしい精悍《せいかん》な眼《まな》ざしを妹婿《いもうとむこ》にあたる美馬に向けた。一子も横から、
「もちろんですわ、お兄さま、美馬は出来るだけのことはさせて戴きますわ」
助《す》けるように云った時、
「鉄平、いつまでも虫のいいことを云うものじゃない」
短いが、凍りつくような冷たい大介の言葉が割って入った。一瞬、座が白けかけると、二子が、
「まあ、一子お姉さまのおのろけは、はじめてよ、力強いこと、私も今年あたり観念してお嫁に行き、そんな風に内助の功を発揮したくなって来たわ」
悪戯《いたずら》っぽく一同を見渡した。それを機に白けかけた万俵家の晚餐会のテーブルは、再び華麗な雰囲気に彩《いろど》られて行った。だが、大介と鉄平との間に横たわる眼に見えない溝《みぞ》はますます深まり、互いの胸に、今朝見た凶運の兆《きざし》という朝焼けが、それぞれの思いでひっかかっていた。
*
正月早々、大蔵省の正面アーチには相変らず、大蔵省詣《もう》でをする各銀行の高級車が絶えないが、夕方ともなると、さすがにその影もまばらになる。
春田銀行局長は、四階の局長室の回転椅子に坐り、薄暮の中を舞うように降っている窓外の雪に眼を向けていた。昼過ぎから降りはじめた雪は、霞《かすみ》が関《せき》の官庁街をすっかり銀世界に変え、なおしんしんと降っていたが、胸中を去来しているのは、昨年来の課題であり、今年こそ実現させなければならない銀行合併への強い決意であった。
春田局長は、贅肉《ぜいにく》のないにが味ばしった顔を、机の上の書類に戻した。それは永田大蔵大臣から諒承《りようしよう》のサインが出次第、都市銀行に対して送付することになっている『配当規制の緩和』に関する銀行局長通達であった。金融界を合併へ駈《か》りたてて行くための第一弾は、昨年の下《しも》半期から実施した統一経理基準で、これによって、従来、密室経営だった銀行経営がガラス張りになり、各行の収益力の格差が目だちはじめたが、さらに経営の格差を明白にすることを狙ったのが、手もとにある配当規制緩和の通達で、これまで一律であった最高限度九パーセントの配当を、一五パーセントにし、配当の自由化を打ち出そうとするねらいだが、この通達は、新年の銀行界を大きく揺すぶり、震え上らせるに違いないものであった。
机の上の電話が鳴った。
「永田大臣からお電話でございます」
大臣秘書官が、告げた。
「もしもし、春田でございます――」
「私だ、例の件、さっき総理官邸で佐橋総理の意向を打診したところ、来年三月期からでもよいという回答を得たよ」
永田大臣のやや嗄《しわが》れた声が、受話器を伝わって来た。例の件とは、春田が目の前に置いている配当自由化の実施の件であった。
「それはようございました、すると、あとは、自由化の実施を再来年《さらいねん》三月期からと主張している五菱銀行と五和銀行の説得ですが――」
「五菱銀行の鵜川《うがわ》頭取には、明日、会うことになっているが、説得には自信がある、そうなれば、富国、大友の両行はもともと異論なしだから、もうまとまったものと考えてよかろう」
機嫌のいい声で云った。銀行経営の根本にふれる行政通達は、いかに絶大なる力をもつ大蔵省といえども、上位四行の内諾は事前に取ることにしている。
「大臣のお力添えのほど、深謝致します、それから例の青写真作りの方は、これからそろそろ、大蔵大臣公邸の方へ集まりまして――」
「うむ――」
永田大臣は、電話を切った。春田も受話器を置くと、急いで局長通達の原文を机の引出しにしまい、銀行局幹部の動向が一目で解《わか》る標示ランプを見た。大蔵大臣公邸に六時半に集まるはずの審議官、総務課長、銀行課長のランプは、久米《くめ》総務課長を除いては不在になっており、もう大蔵大臣公邸へ出かけてしまっているらしい。春田は、オーバー.コートを手に取り、局長室を出た。五時の退庁時間をとっくにまわっていたから、局付きの女子職員の姿はなく、若い事務官がたって来た。
「局長、お車は西玄関の方に待たせております」
「そうか、新聞記者諸君が廻って来たら、今日は久しぶりに早く帰ったということにしておいてくれ給《たま》え」
大蔵省詰めの各社の記者を警戒するように云い、廊下へ出かかると、
「局長、お帰りですか、それとも――」
顔馴染《なじ》みの記者が、春田の手にしているコートを見、にやりと探りを入れた。
「今日は珍しく局議もないし、この雪だし、久しぶりに早く帰って、ひとり、雪見酒をやるのも、乙《おつ》なものだと思ってねぇ」
忙中閑有りを装ったのんびりとした様子で、盃《さかずき》をかたむける振りをすると、大蔵省きっての酒豪で鳴らしている春田だけに、記者も真《ま》に受け、
「羨《うらや》ましいですね、主計局の予算折衝を記事にする仕事がなかったら、うちの社の車でお送りかたがた、僕もお宅へ伺って、雪見酒をお相伴《しようばん》し、金融再編成に対する局長の新しい抱負をゆっくり拝聴致したいところですがねぇ」
「そりゃあ残念だね、といっても主計局の方は深夜までかかるんだろう、せいぜい風邪に気をつけるんだな」
人情味のあるところをみせて、記者の的《まと》をはずし、エレベーターで階下へおりると、西玄関で待っている車に乗り込んだ。
雪は小やみなく降り続け、ラジオの天気予報は、何年ぶりかの大雪になることを伝えていた。
麻布《あざぶ》二ノ橋を渡り、三田綱町の大蔵大臣公邸についたのは、定刻の六時半を過ぎていた。周囲に大使館や旧財閥の社交クラブがたち並ぶ中で、大名屋敷を思わせる長いなまこ塀《べい》をめぐらせて、鬱蒼《うつそう》たる大樹に掩《おお》われた大臣公邸は、森閑と静まりかえっている。元侯爵《こうしやく》邸であった屋敷を戦後、政府が買い上げて大蔵大臣の公邸としたのだったが、実際には、大臣が使うことは殆《ほとん》どなく、大蔵省幹部が、人目を避けて極秘の会議をするために使われることが多い。
「いらっしゃいまし、この雪では、車が大へんでございましたでしょう」
春田が車を降り、内玄関に入ると、拭《ふ》き磨かれた広い敷台の端に、髪をきりりと束髪にした中年の和服姿の女性が出迎えた。元理財局長付きの女子職員であった原田節子で、五年前から公邸の管理を任されている。
「やあ、いつも手数をかけますね、しかし、あなたがいると安心だ、みんなもう集まっていますか」
春田は靴を脱ぎながら云ったが、なんとなく、丁寧な対し方をするのは、彼女が理財局長付きの職員であった頃、何かと便宜を計って貰《もら》ったことがあるからだった。原田節子は、齢《とし》より地味目の紬《つむぎ》の衿《えり》もとを合わせながら、
「二十分ほど前に、久米総務課長から、少し遅れますというお電話がございましたが、松尾審議官と井床銀行課長は、先程からお見えになっております」
と応《こた》え、長い廊下を先にたって、春田を奥まった座敷に案内した。昔の大名屋敷らしく、外敵に備えるため、迷路のように曲りくねった薄暗い廊下を、原田節子のうしろから步きながら、春田はかすかに匂《にお》って来る香水の香りに気付くと、女の衿あしに眼を遣《や》り、微妙な笑いをうかべたが、奥座敷の前まで来ると、笑いを消し、
「待たせたね――」
松尾審議官と井床銀行課長が着席している座敷机の上座《かみざ》についた。
「局長、例の都市銀行の配当規制緩和の通達は、どうなる見込みなんですか?」
井床銀行課長は、早速、聞いた。つい先刻《さつき》、永田大蔵大臣から諒承の電話があったばかりだったが、同席の松尾審議官が、永田の政敵である田淵幹事長の息のかかった男であったから、
「大臣のサインがまだ出ないから、もう暫《しばら》く保留にせざるを得ないだろうね、僕に云わせれば、統一経理基準の導入で、各行の経営格差が明らかになった以上、なるべく早く、配当に反映されるのは当然だと思うのだが、各行の抵抗が意外に強くてね」
わざと松尾審議官に聞かせるように云うと、井床銀行課長は、
「そうでしょうね、都市銀行で預金量は二位でも、収益力では第一位の大友銀行以外は、各行、配当の自由化には神経質すぎるほど、びくびくしていますよ、或《あ》る銀行の常務など、そもそも統一経理基準を受け入れたのが間違いのもとだと述懐してましたけれどもね」
苦笑するように云った時、襖《ふすま》が慌《あわただ》しく開き、久米総務課長が入って来た。
「どうも遅くなりました、国際投資銀行の件で、証券局へ行っていて、やっと銀行局へ戻って来たら、古顔の記者に掴《つか》まり、局長以下、銀行局の幹部がみんな姿が見えないのは、どこかで秘密会議でも開いているんじゃないかと、執拗《しつよう》に食い下られ、撒《ま》くのに一苦労でしたよ」
「で、うまく撒いて来れたのかい」
春田が、聞いた。
「まあ何とか、しかし、万一、嗅《か》ぎつけられても、原田さんがいるから、昔取った杵柄《きねづか》で、巧《うま》く捌《さば》いてくれるでしょうから――」
若い女中たちを指図して、料理を運んで来た原田節子の方を見て云うと、原田節子は心得顔に頷《うなず》き、一同にビールを注《つ》いで廻り、会議の邪魔にならぬように、部屋を退《さが》って行った。
四人揃《そろ》ってコップのビールを空けると、春田は、咽喉《のど》を潤《うるお》すようにもう一杯ぐっと飲み干してから、
「今年の仕事は、何といっても、金融再編成の段階になるような都市銀行の大型合併をやり遂げることだ、いつも云うように日本の銀行の数は多すぎる、都市銀行十二行、地方銀行六十二行、それに相互銀行七十一行まで入れると、百四十五行にもなる、その一方で、都市銀行のトップである富国銀行ですら、世界の銀行番付では、ようやく十八位に入っているに過ぎない、これは日本の金融の中枢《ちゆうすう》である都市銀行の体質が、いかに弱いものかを物語っているわけで、世界の趨勢《すうせい》が大銀行の集約化によって、スケール.メリットを発揮し、近い将来、その巨大な資金力と合理的な経営方式を持って、日本に上陸して来ることを考えると、心胆を寒からしめるものがある、永田大蔵大臣も、そうした事態を憂《うれ》い、都市銀行の大型合併が実現することを強く望んでおられる、むろん、われわれも、これまで望ましい金融再編成の構想は折にふれて討議して来たが、この際、考え方の一つの基準となる銀行合併の組合せを作っておきたい」
年来の持論を述べ、
「井床君、組合せのたたき台[#「たたき台」に傍点]は、出来ているだろうな」
と聞いた。井床銀行課長は、鞄《かばん》の中から一枚の書類を取り出し、
「これは、銀行行政のベテランである二人の課長補佐をまじえて作成したものです、理論上の望ましい将来図としては、現在の都市銀行十二行をまず六、七行に集約化し、次にさらに篩《ふるい》にかけて、三、四行に大型化したいのですが、たたき台という意味で、ひとまずこういう図式を作ってみました」
と云い、座敷机の上に拡げた。大蔵省用箋《ようせん》に鉛筆で書き記された、一見メモ風のものであったが、それが銀行合併に関する極秘の機密文書であった。
(1)富国銀行――大同銀行or阪神銀行
(2)大友銀行――(大友信託銀行or伊勢銀行)
(3)五菱銀行――第三銀行(or八洲信託銀行)
(4)五和銀行――第三銀行or阪神銀行
(5)中京銀行――大同銀行
(6)平和銀行――(北九州相互)
(7)太平銀行――北海銀行
(8)坂東銀行――(神奈川銀行or房総銀行)
春田局長がまず眼を通し、次いで松尾審議官、そして久米総務課長と、序列順に廻し読みして行った。
「全般的には、ほぼ妥当な組合せだと思うが、富国銀行と大同銀行、もしくは富国銀行と阪神銀行が合併すると、預金量はどの位になるのかね」
春田がまず、口を開いた時、襖の外に人の気配がした。一同が申し合せたように言葉を跡切《とぎ》らせると、静かに襖が開き、原田節子が新しいビールを運んで来たのだった。井床は、ほっとした表情で、
「富国.大同銀行の場合ですと、三兆六千億で、何とか世界のベスト.ファイブに滑り込みます、富国.阪神銀行ですと、三兆三千億で、ベスト.ファイブ入りが出来るか、出来ないかというところですね」
「すると、五菱銀行と第三銀行の方が、規模としては三兆八千億で、さらに大きいわけだが、可能性はどうなんだね」
久米総務課長が、井床銀行課長に聞いた。
「同じ財閥銀行として、行風が似ていること、融資先のバランスがうまく取れていることに加えて、頭取同士が個人的に親交があり、実現度はそう低くないと思います、ただ第三銀行は、昨年の秋、平和銀行との合併寸前に、瀬川副頭取のスキャンダルがマスコミにすっぱ抜かれ、そこから第三銀行の体質にまで問題が発展して行ったことを考えますとどうでしょうかねぇ、暫く時間をかけて、第三銀行の体質改善を図らなければ、いくら実質的には吸収であっても、五菱銀行の方が話に乗って来ないんじゃないですか」
永田大蔵大臣と春田銀行局長との頂上作戦で、田淵幹事長の資金パイプを太くする第三.平和銀行の合併を意図的に潰《つぶ》したにもかかわらず、田淵幹事長と繋《つな》がっている松尾審議官の手前《てまえ》、そう応えると、痩身《そうしん》をやや猫背にした松尾審議官がビールのコップを置き、
「体質云々《うんぬん》は別にして、五菱.第三銀行は、合併の最大のメリットである店舗の補完性の面で、殆どと云っていいほど、プラスがないのじゃないかね、その意味では、むしろ大友銀行と第三銀行との組合せの方が、より実現性は高いと思いますがねぇ」
第三銀行が、もはや合併される側の銀行に凋落《ちようらく》した今となっては、田淵幹事長の望ましい合併図を代弁しようにも出来なかったから、松尾審議官は、せめて永田色の強い富国銀行や五菱銀行を太らせないような発言をするのが、やっとのことであった。井床銀行課長は、そんな松尾審議官の気配を敏感に感じ取り、
「大友.第三銀行ですか、なるほど面白い組合せですが、いかな第三銀行でも、あの大友銀行に、身を任せますでしょうかねぇ、南大阪銀行を吸収した後のあの大友銀行の冷酷さを見ては、各行とてもじゃないが、随《つ》いていけないと、思っていますからねぇ」