寝室の扉《ドア》を押すと、香をたく香りがし、寧子が鏡台に向って、漆黒《しつこく》の髪を梳《くしけず》っている。洗い髪を梳る時、香をたきしめるのが、寧子の長年の嗜《たしな》みであった。
「いかがでございましたかしら、お湯加減は?」
白絹の夜着《よぎ》の肩に、黒髪を垂らして聞いた。
「少し熱すぎたのか、うっかり、のぼせ死にしそうだったよ」
大介は、寧子のうしろにあるベッドの端に腰を下ろし、鏡の中の寧子の顔をじっと見詰めたが、寧子の表情は動かず、髪を梳る手も止まらない。大介は、言葉を継いだ。
「ずっと前、まだお父さんが健在だった時、お前が湯殿でのぼせて気を失ったことがあったねぇ、あの時はどんな工合だったんだい?」
寧子の手が、止まった。
「どんな風って――、別に……」
「だが、あの時は大騒ぎで、お父さんのお手までお煩《わずら》わせしたのだから、覚えているんじゃないかねぇ」
大介の声が粘りを帯びた。寧子は、鏡台の前から体をずらせ、
「あの日はとても陽気のあたたかい日で、お昼から何とのう気分がすぐれなかったものですから、ついお湯殿でのぼせてしもうたのですわ」
「だが、どうしてあの日に限って一人で入浴したんだね、いつも女中に体を洗わせるのに」
「それはもう洗い終えたあとでしたから、独りで洗い場にいると、急に目眩《めくら》みがし……脱衣室にひかえている女中を呼ぶと、すぐ中へ入って来てくれ、抱きかかえられたところまで覚えていますけど……、あとは気がつくと、お湯殿の近くのお座敷に寝かされていて、あなたとお舅《とう》さまが、いて下さったのですわ」
ゆっくりと区切るような口調で云ったが、今の寧子の説明と、あの時、父に聞いた説明では、大事なところで食い違っている。
「おや、可怪《おか》しいね、あの時、お父さんは、湯殿の前庭を步いておられ、湯殿の中から人を呼ぶお前の声を聞きつけたと、おっしゃっているから、一番先にお前の急を知ったのは、お父さんじゃないのかね」
「いいえ、女中だったと思いますわ」
いつになく、はっきりとした口調で云ったが、手から櫛《くし》が落ち、長い黒髪がはらりと顔を掩《おお》った。
「どちらでもいいことだ、さあ、髪が終ったら、こちらへおいで――」
優しく誘いながら、大介は、あの夜、自分たち夫婦のベッドで、異常なほど獣めいた交わりをしたことを思い返した。そういう交わりを求め、その反応によって、その日、父と寧子の間にあったかもしれない不倫を探りあてようとしたのだったが、公卿華族出の女性特有の性的無知というのか、羞恥《しゆうち》心《しん》のなさというのか、寧子は大介の求めるままの交わりを行なって、何の反応も得られなかったのだった。しかし、今夜、もう一度、同じことを試みることによって、あの日、父と寧子の間にあったことを探り出せるかもしれないと思った。
大介は寧子の体をベッドの中へ抱き入れると、白絹の夜着を剥《は》ぎ取り、下ばきを脱がせ、一糸まとわぬ裸体にして、その長い髪を両手に巻きつけ、淫《みだ》らな交わりを求めた。さすがに、寧子は顔を背けたが、それでもされるがままになった。そのあと、寧子の体をねじ向け、二匹の蛇が絡み合うように体を絡ませて、執拗《しつよう》に白い小柄な体を責めたが、寧子は、あの日の夜と同じように、息を喘《あえ》がすだけで、何の積極的反応も示さなかった。大介は、寧子の湿りを帯びた髪をさらに強く手に巻きつけながら、人形のように自在に操った。
ほの暗い寝室に、汗の匂《にお》いとあえかな香の匂いが綯《な》いまじって、今あった情事の濃密さがうねるようにたち籠《こ》めていた。大介は、寧子の華奢《きやしや》な体に、執拗に絡めていた手足を離し、自分の頸《くび》に巻きついていた寧子の長い洗い髪を解きほぐすと、体を起した。寧子も体を解かれると、ベッドの下に滑り落ちた白絹の夜着を肌につけ、情事でさらにじっとりと湿りを帯びた洗い髪を束ねかけた。
「こんなこと、久しぶりだったろう?」
ベッドの傍《そば》にたち、ぬるむような声をかけた。相子を交えた妻妾同衾《さいしようどうきん》の夜以外に、これほど執拗で、獣じみた交わりは夫婦の間でもう無くなっていただけに、寧子はあまりの恥ずかしさに返事も出来ず、顔を俯《うつむ》けたが、大介はそうした寧子の様子を暗い灯《あか》りを通して、じいっと見詰め、
「あの時も、今夜みたいだったね、鉄平はこうして妊《みごも》った子供なのかい」
残忍な響きがあった。寧子は体を震わせた。
「お止《よ》しになって、そんなおっしゃり方は……」
「夫婦である私とお前の間に生れた子供なら、どんな風にして生れようと、別段、恥ずかしいことなどないじゃないか、そうじゃないかね」
大介は、ナイト.テーブルの上に置いた眼鏡を取り、ゆっくりとかけながら、さらに残忍な笑いを投げつけるように云ったが、眼だけは笑っていなかった。
「あなた、お願いですから、もうこれ以上、ご自分の子供を穢《けが》すようなおっしゃりようは、お止しになって」
顔をそむけ、夫の言葉から逃れるように云うと、
「出生のことを話して穢れるようでは、もともと穢れた子供だからじゃないのかね」
大介はそう云うなり、荒々しくガウンを羽織って、寝室を出た。階段をおり、ホールを横切って、居間へ入ると、人気《ひとけ》がないのに、暖炉の薪《まき》がちろちろと燃えていた。パーティへ出かけ、まだ帰って来ていない相子のために、女中が火を残しておいたらしい。大介は暖炉の上のパイプたてから、愛用のダンヒルのストレート.グレーンのパイプを取り、煙草《たばこ》を詰めかけたが、情事のあとの咽喉《のど》の乾《かわ》きを覚え、女中を呼んだ。しかし、みな部屋へ引き取ってしまっているのか、応答がない。仕方なく、ダイニング.ルームの奥の方にあるキッチンへ行った。めったに足を運んだことなどなかったが、タイルを貼った広いキッチンには、ひんやりと冷気が漂い、青白い蛍光燈《けいこうとう》の下に、いくつもの食器棚と拭《ふ》き磨かれた流し台、天井に届きそうな大きな冷蔵庫、オーブンなどが並び、モーターの音がかすかにしている。大介は流しの蛇口の栓をひねり、コップに水を満たすと、ごくごくと咽喉を鳴らして一気に飲み干した。さらに二杯目を飲みかけると、すぐ近くの使用人たちの使う風呂場から湯桶の音が聞え、反対側の部屋からは、テレビの時代劇のドラマらしい音がする。大介は嫌悪《けんお》の表情を露《あら》わにし、居間に戻った。
冷えた体を暖炉で温め、東京事務所長の芥川へ電話をかけようとした時、ファウン.グレートデンのけたたましい吠声《ほえごえ》がし、他の二頭も一斉に吠えたてはじめた。その激しさに大介がガラス戸越しに外を見ると、門の下の方から自動車が上って来るのが見えた。大型の外車であることは夜目にもわかったが、鉄平のビュイックでも、銀平のマーキュリーでもない。犬の威嚇《いかく》するような吠声がさらに高まり、車は西洋館の玄関前に停まった。
「アイ シュア エンジョイド ツゥナイト、シー ユー ネキスト サンディ、バイ!」
玄関のポーチのところで、相子が送って来た外人と話しているのが聞えた。あまり上品な英語でないのと、互いに酔っているのか、大声で妙に馴々《なれなれ》しく話しているのが、大介には不快であった。そのまま行きかけると、
「グッド.イヴニング、ミスター.マンピョウ」
パール.ミンクのコートを着、したたか酔っている相子が、最前の続きのような調子で、大介を呼び止めた。
「なんだ、こんな時間に酔っぱらって帰って来るなんて、女中たちに今のようなところを見られたら、どうするのだ」
「あら、聞いてらしたの? いやだ、たち聞きなんて、あまりよくないご趣味ね」
コートを脱いで、大介の前にたち塞《ふさ》がるようにした。コートの下は、ネック.ラインを大きくあけたノー.スリーヴのカクテル.ドレスで、豊満な胸もとが酒気でピンク色に染まっている。
「失敬なことを云うもんじゃない、私は今からビジネスの電話をかけるところだ――」
腹だたしげに云い、書斎へ行きかけると、
「今頃からビジネス.テレフォン? あなたは、よくよく詰らなく出来てらっしゃるのね」
とろりとした眼で、笑うように云った。
「からむつもりかね、女の酔っぱらいほど醜いものはない」
「あら、悪うございましたわね、でも私、酔っぱらうほど飲んでやしません、ほんとうのことを申し上げただけじゃありませんか」
「いや、酔っている、久しぶりにアメリカ人と飲んで、騒いで、昔のことでも思い出したんだろう」
「昔のことって、離婚したアメリカ人のハズバンドのこと? それはそうかもしれないわね」
相子が艶然《えんぜん》と笑った時、書斎の電話が鳴った。
「東京事務所の芥川からだと思うが、出てみてくれ」
「オーケー」
相子は、書斎の電話を取った。
「もしもし、ああ、あなたなの、グッドイヴニング、ホワット? オー、ノーノー、ジャストアミニッツ」
相子は巻舌で云い、大介を振り返った。
「ミスター.テッペイ.マンピョウからよ」
受話器を渡しかけると、
「鉄平からか――、いないと云ってくれ」
大介は、素っ気なく首を振った。
「あら、居留守をなさるの、解《わか》ったわ」
そう云い、相子は、
「もしもし、お父さまはもうお寝《やす》みのようよ、え? 知らないわ、今夜はあなたのお母さまとですものね」
呂律《ろれつ》の廻らぬ云い方で電話を切ると、くるりと大介の方を向き、
「で、これからお寝みになるというわけ、奥方と――」
相子の眼は挑むような妖《あや》しい光を帯びた。大介はやや、戸惑い気味に、
「そうだ、だが、今から電話をしなくては――」
相子の挑発を振り切るように云い、芥川の自宅の番号《ダイヤル》を廻した。
受話器の向うに芥川の応答の声がした。
「もしもし、私だ、配当規制の緩和についての局長通達は、今朝《けさ》、送付されて来たが、そちらの各行の反応はどうだね」
「何しろ、最高限が一五パーセントもの高率なので、各行、随分、慌《あわ》てている様子で、大蔵省《モフ》は、今度の配当の自由化は各行の金融の効率化を図るのが目的と云っていますが、要はこれで昨年来の金融再編成の問題にけり[#「けり」に傍点]をつけようとしているのではないかという観測が専《もつぱ》らですよ」
芥川は、東京情報を伝えた。
「狙《ねら》いはたしかにそうだろう、それで君になるべく早い時期に、春田局長と会う約束を取りつけてほしいのだ」
「頭取が、春田局長と――、局長通達のことで何か?」
「いや、そうじゃない、美馬からの情報によると、ごく最近、大蔵省は都市銀行の新しい合併図を極秘裡《ごくひり》に作成したということだ」
「そんな極秘情報が取れるとは、さすが美馬さんですね、それには当行はどうなっていますか」
急《せ》き込むように聞いた。
「すべて吸収される側の銀行に目《もく》されているそうだ」
「え! それは、ひどいじゃありませんか、春田局長だって、当行の意図は、永田大臣から、云わず語らずに聞き知っているはずですのに――」
「それは東京探題たる君の力量不足も、一半の原因があると思い給《たま》え」
大介はびしりと云い、
「それより春田局長は、銀行局の意見とは別に、彼独自の合併構想を持っているらしい、それによると、日銀、大蔵省の天下り銀行を核に、太平洋ベルト地帯を背景とした中下位五行の合併を考え、当行もそれの一行に組み入れられているというのだ」
「五行合併? しかし、そんなものは役人の独りよがりの構想に過ぎないんじゃないでしょうか」
「そうかもしれんが、どんな話か、一つ詳しく聞きたいので、至急、春田局長を掴《つか》まえてほしいのだ」
「解りました、至急、申し入れますが、どういう風に誘い出すかが、問題です」
「それが君の役目じゃないか、必ずここ一週間以内に、夜の席へ出て貰《もら》うのだ」
「承知しました、約束が取れ次第、ご連絡致します」
「うむ、早く取ってくれ給え、いいね」
大介は念を押し、電話器を置いた。そして書斎と寝室にかかる自分専用の直通電話のスイッチを切り、鉄平から再度かかって来ないようにした。
大阪新町《しんまち》の待合『つる乃家《のや》』の前に、宴席を終えた客を送る車が列《なら》び、万俵鉄平は玄関にたって、営業担当の川畑常務とともに、鄭重《ていちよう》に見送った。高炉完成の暁《あかつき》には大幅な増産になるから、今からその販売先を拡大しておくために、大口ユーザーである東邦ベアリングの副社長をはじめ五人の幹部を招いての接待であった。
車が行ってしまうと、川畑常務は、
「専務、お疲れでございましょう、こうして専務自ら宴席へ出て、ユーザーをもてなして戴《いただ》きますと、営業は大いに助かります」
芯《しん》からほっとするように云い、
「じゃあ、私どもはお先に失礼致します」
つる乃家は、故万俵敬介の妾宅《しようたく》であったことを知っているから、川畑は大阪支社の支社長たちとともに、気をきかして、先に帰った。
鉄平はもとの座敷へは戻らず、老女将《おかみ》の部屋へ入った。拭き磨かれた大阪風の幅広の長押《なげし》、黒光りした太い柱、そして座敷の真ん中に置いた桑の長火鉢、座敷の入口にかけた屋号入りのくぐり暖簾《のれん》、どれ一つとっても、大阪の新町という古い花街の女将の部屋らしいしつらえであった。
襖《ふすま》がからりと開いた。老女将かと思うと、東京のつる乃家を取りしきっている若女将の芙佐子《ふさこ》であった。
「老女将は今夜は姿が見かけられないが、どうしたんだ?」
一向に座敷へも出て来なかった老女将のことを聞いた。
「お養母《かあ》さんは、去年の腰痛がここ四、五日来の寒さでこたえ、城崎《きのさき》温泉へ湯治に行きましたの、昨日、送って行って、私だけ夕方に帰って来たんですよ、いつものようにお茶漬召しあがる?」
「うん、佃煮《つくだに》があると有難いな」
と云い、長火鉢の前に坐ると、
「女将さん、おおきに、またどうぞよろしゅうに――」
お座敷を退《ひ》けて帰る芸者の挨拶《あいさつ》であった。
「ご苦労さま、あとは花菊ちゃんだけが残っているわけね」
芸者の花代《はなだい》を数える花代帳を書き入れながら犒《ねぎら》い、芸者が帰ると、
「この頃、東京の私の店の方へは、会社の宴会があっても、お見えになりませんのね」
「このところずっと忙しくて、自分の会社の宴会にも、よほどでない限り出ている暇がないんだよ」
と応《こた》えながら、鉄平は、阪神特殊鋼がアメリカン.ベアリング社と契約している月額三億六千万のベアリング素材の輸出が、去年の十二月の船積み分から出荷延期になって以来、二月に入っても事態は好転せず、そのため運転資金が苦しくなっている実情を思った。その資金繰りの相談のために、昼過ぎ、阪神銀行の頭取室へ電話をしたが、日程が詰っているからと電話口にも出て貰えず、先刻《さつき》、宴席の合間を見計らって、父の邸《やしき》へ電話をかけると、相子が電話口に出、したたか酩酊《めいてい》した声で「お父さまは、もうお寝みよ」と突っぱねられた。しかしその声のうしろで、たしかに父らしい男の声が聞えたような気がした。
「どうなすったの、今、お茶漬の用意をさせますけれど、佃煮はきらしているから紅鮭《べにざけ》とお海苔《のり》でよくって?」
若女将は、長火鉢の上の南部鉄の鉄瓶《てつびん》に湯を足しながら云った。
「いいよ、好物ばかりだ、遅いけど用意が出来るまで、少し清元を習《さら》えて貰おうか」
「じゃあ、この前の続きを少しだけ――」
床の間にたてかけている老女将の三味線を取って、膝《ひざ》の上にかまえた。
つばさ交はしてうらやまし(合)チリチン チチン
野辺のかげろふ春草を(合)チン ツン ツン
鉄平の声を三味線にのせるように弾いたが、去年の十一月からぷっつり稽古《けいこ》を休んでいる鉄平の節廻しは、うまく絃《いと》にのらない。
「駄目ね、小節《こぶし》がきかなくて、それじゃあ清元じゃありませんよ、さあ、もう一度――」
再び三味線を弾き、鉄平はそれに引き込まれるように唄《うた》い出しながら、体の底に澱《よど》むように溜《た》まっている疲労が少しずつ、揉《も》みほぐされて行くのを感じた。それは自分の家庭で、妻の早苗からも得られない、心の芯《しん》からの快い解放感であった。塩沢の着物をきりっと着こなし、目尻《めじり》の切れ上った涼しい眼もとで三味線を弾いている若女将の芙佐子の顔を見詰めながら、鉄平は、自分が清元の稽古に東京のつる乃家へ行くのは口実で、ほんとうは芙佐子に会うためではないかという思いがした。
「駄目、ほんとに今夜はどうかしているわね、とてもこれじゃあ、清元のさま[#「さま」に傍点]にならないから、止《よ》しましょうよ」
芙佐子は、三味線を置いた。鉄平は額に汗をにじませ、苦笑した。
「あら、汗をかいてらっしゃるのね、先にお風呂《ふろ》へ入ってさっぱりなすったら?」
芙佐子は、女中に入浴の準備をさせた。
浴室は一坪半ほどの広さで、老女将がおれば、必ず襷《たすき》がけで鉄平の背中を流し、「大旦那《だんな》さんにも、こないしてお流ししたんでおます、お背中の広さといい、背骨の太さまでよう似てはる――」と云うのが口癖であった。その老女将が、今夜は不在であったから、鉄平は、石鹸《せつけん》を泡《あわ》だて自分で背中を洗いかけると、浴室の戸が開いた。振り返ると、着物の裾《すそ》を端折《はしよ》り、襷をかけた若女将だった。
「今夜はお養母《かあ》さんに代って、私がお流ししますわ」
甲斐甲斐《かいがい》しく、洗い場へ入って来た。
「いや、いいよ、家ではいつも自分でやっているから――」
鉄平の方が狼狽《ろうばい》するように云うと、
「うちのお養母さんのように上手には流せませんけど、我慢して下さいよ」
鉄平の背中を手際《てぎわ》よくこすりながら、
「お養母さんから聞いたんですけど、お正月の雉《きじ》撃ちは大へんでしたのね、やっぱり鉄砲を持つ遊びは危ないわ、この際、おやめになって、ゴルフに凝られる方が無難ですよ」
芯から鉄平の身を案じるように云ったが、鉄平は黙り込んでいた。たしかに雉撃ちの誤射は、今思い出しても背筋が凍るような怖《おそ》ろしい事故であったが、だからと云って学生の時から猟好きの祖父に伴われて、北陸や丹波の奥へ出かけ、獲物《えもの》を撃ち留める時のあの豪快な手ごたえを、自分の手から失ってしまうことは出来なかった。
「僕から鉄砲を取り上げたら、他《ほか》に楽しみがなくなってしまう、無理な話だよ」
と応えると、鉄平の背中で芙佐子が、くすっと含み笑いした。
「実を云うと、養母《はは》も亡《な》くなった大旦那さんにそう申し上げたら、今と同じお返事だったそうよ、ほんとに何から何までそっくり――」
と云い、ざぶざぶと背中に湯をかけ、洗い終ると、さっと浴室を出て行った。
鉄平が湯殿からあがり、浴衣と丹前の合せ着を着て、もとの部屋へ戻りかけると、
「さっぱりなさいまして? お部屋は、こちらのお座敷に致しましてよ」
芙佐子が、中庭に面した奥座敷を指《ゆびさ》した。障子を開けると、二間続きの入ったところの座敷にお茶漬の用意が整えられ、奥の間の襖《ふすま》は閉ざされていたが、艶《なま》めいた気配が感じ取られた。鉄平は湯上りのほてった体で、からりと襖を開けると、そこに友禅絞りの夜具が敷かれ、男女の枕が並んでいる。
「さあ、お茶漬を召し上ったあと、ごゆるりと――、若い妓《こ》を呼んでおきましたわ」
逞《たくま》しい鉄平の体の生理を処理するように云うと、
「断わってくれ、今夜は――」
「だって、そのつもりでいらしたんでしょう、若旦那《だん》さんのようないいお体をしてらしたら、奥さまだけで持たなくてあたり前よ」
至極、当然のように云ったが、鉄平は、
「家内は今、実家《さと》へ行っているけれど、いらないよ」
「だったら、よけいのことご入用じゃないの、さっとすましてお帰りなさいよ、それとも奥さまがご不在なら、お泊りになる? 若い妓よ」
芙佐子が取り捌《さば》くように云うと、
「いらないったら、いらないんだ、さあ、早く断わってくれ!」
怒ったように両手で芙佐子の肩を押した途端、鉄平ははっと手を止めた。鉄平の大きな掌《たなごころ》の中で、芙佐子のむっちりとした肩が息づき、肌の温かさが伝わって来た。両手に力を入れ、ぐいと体を引き寄せると、
「駄目、駄目なのよ、私は――」
花街の酸《す》いも甘いも噛《か》み分けた芙佐子が、素人《しろうと》のように激しく拒んだ。鉄平が黙ってさらに強く芙佐子の体を引き寄せかけると、
「いけないのよ、あなたと私とは……」
声に涙を含んでいた。
「どうして、いけないんだ」
鉄平の精悍《せいかん》な眼が、情欲に濡《ぬ》れ光った。
「養女ということになっているけれど、ほんとうは私、今の母の実の子なんです」
「え? 実の子――、それをどうして、養女ということにしなくてはいけないんだ」
鉄平は信じられぬように聞き返した。
「それは先代が信用第一の銀行の頭取という世間体と、ご本宅への聞えを憚《はばか》って、一旦《いつたん》、祖母の子、つまり母の妹として入籍し、そこから母のもとへ養女に来た形になっているのです」
「じゃあ、あなたと僕は、二つ違いの叔母と甥《おい》……」
「それならまだしも、あなたと私は……」
と云いかけ、芙佐子は言葉を跡切《とぎ》らせた。
「まだしも、なんだと云うのだ?」
「いいえ、別に、何でもありませんわ……」
顔を青ざめさせ、堅く口を噤《つぐ》んだ。
「まさか、僕が祖父の子で、あなたと異母兄妹《きようだい》というのでは……」
鉄平は、あとの言葉を呑《の》んだ。
「何をおっしゃるのです、そんな空怖ろしいことを……、そんなことありません……」
言葉を区切るように強く打ち消したが、鉄平の心にはじめて父が他人のように思えた。そして雉撃ちの時の異様な激怒、高炉建設の時の冷たい融資の仕方、今日、銀行と家へ二度、電話をかけた時の素っ気ないあしらいの背後にあったものが、解けて来るようであった。そして、もしやと思うと、鉄平の体に、汚辱の思いが突き上げて来た。
阪神銀行東京事務所の伊佐早《いさはや》五郎は、通産省の正面玄関の構内に停めた車の中で、春田銀行局長を待っていた。万俵頭取と芥川事務所長が待っている築地《つきじ》の『吉兆』へ春田局長を連れ出すのが、大蔵担当の“忍者”である伊佐早五郎の今夜の任務であった。当の大蔵省でなく、その向い側の通産省構内で待機しているのは、他行の忍者や新聞記者の眼を避けるためであった。
しかし、春田局長は約束の六時四十分を過ぎ、既に七時になろうとしているのに、いっこう、姿を現わす気配がない。たまりかねて、つい五分ほど前、通産省の赤電話から、局長付の事務官に電話をしたのだが、局議がまだ終らないから仕方がないよと、木で鼻をくくるような返事であった。その旨《むね》は、すぐ芥川に連絡したものの、大蔵省の正面玄関を真向いに見る位置に駐車して、凍《い》てつくような冬空の下で、春田局長を今か今かと待つ気持は辛《つら》い。
「遅いなあ、全く――、伝さん、ラジオをつけてくれよ」
伊佐早五郎は、気分を紛らすように運転手に云った。
「さすがの伊佐早さんも、今日は大分、気を遣っているんですね、いつもなら、鼻唄まじりに居眠りして待つというのに――」
馴染《なじ》みの運転手が、ラジオのスイッチをつけた。
「そりゃあ、時と場合によりけりだよ」
忍者のサラブレッドをもって自他ともに任じている伊佐早五郎も苦笑しながら、芥川事務所長がここ五日間ほど、春田銀行局長を夜の席にひっぱり出すために、躍起になって動いていた様子を思い返した。
最初は、都市銀行の配当規制緩和に関する局長通達をめぐる交渉事かと思っていたが、万俵頭取がじきじき、春田局長の“ご高見を承りたい”ということだと知って、伊佐早は直観的に、昨年の第三、平和銀行合併のつぶし作戦と同じようなトップ.シークレットが交わされる席にちがいないと推測した。それだけに春田局長の誘い出しは困難を極めると思っていたが、今朝《けさ》の総務課のミーティングの後、午後六時四十分に春田銀行局長を迎えに行くようにと命じられた時は、さすがは“忍者頭《がしら》”の芥川の手並と、感じ入ったのだった。
「伊佐早さん、待っている場所を間違えられたということはないんでしょうね」
七時を十分過ぎると、運転手まで心配しはじめた。
「いや、この場所での待合せは、向うの希望でもあるのだから、その心配はないのだ」
打ち消しながらも、万俵頭取が自分と同じ気持で、否《いな》、それ以上に苛《いら》だちながら、『吉兆』の座敷で待っているだろうと思うと、じっと車の中に坐っていられなくなり、ドアを開けて外へ出た。その途端、冷たい空《から》っ風が首筋に吹き込み、伊佐早は肩をすくめて、窓から顔を出した運転手に、
「伝さん、今日の夜風は身にしみるなあ」
溜息《ためいき》混じりに云って、はっと眼を光らせた。灯《あか》りの点《つ》いた大蔵省の正面玄関から、こちらへ向って步いて来る春田局長の姿が見えたからだった。伊佐早は足早に步み寄り、
「局長、ご多忙の中を恐縮でございます」
一言、低い声で礼を述べ、素早く車のドアを開けて春田を乗せると、自分は前の助手席に廻った。退庁する通産省の役人たちの姿が全くなかったわけではないが、伊佐早のパントマイムのような迅速な動作は人の眼にとまる隙《いとま》も与えず、車は周囲の暗がりに紛れるように滑り出した。
車が『吉兆』の玄関に着くと、伊佐早は黙って車のドアを開けた。忍者の仕事はそこで終るのだった。玄関には芥川が出迎えており、
「お忙しい中をどうも、どうぞこちらへ、万俵もお待ち致しております」
仲居に任さず、下へもおかぬ鄭重《ていちよう》さで、春田を座敷へ案内し、床の間の前の上座《かみざ》をすすめた。
「では、お言葉に甘えて――」
春田は、万俵大介に会釈《えしやく》して坐った。万俵は、銀髪端正な顔に笑いをうかべ、
「どうもこのところ、ご無沙汰《ぶさた》しております、何かと多忙を極めておられるご様子だそうですが、その中をよくお運び下さいました」
一行の頭取とはいえ、銀行行政を司《つかさど》る銀行局長に対しては、極めて慇懃《いんぎん》にならざるを得ない。
仲居が漆塗の懐石盆にならべた前菜を運んで来ると、万俵自ら銚子《ちようし》を取った。
「まずご一献《いつこん》――」
「これは、どうも恐縮――」
春田は盃《さかずき》を干し、万俵に返盃《へんぱい》した。次いで芥川が春田に献盃しながら、
「昨日、小金井《こがねい》ゴルフ.クラブへ参りましたら、めったに人を褒めないあの村上寅七《とらしち》プロが、春田局長の勘の鋭さに舌を巻いておりましたよ」
芸者の入っていない席を和らげるように云った。昨年の秋、第三銀行と平和銀行の合併の真偽を探るため、春田を小金井ゴルフ.クラブの“朝の特訓”に誘い、プロ.ゴルファーの大御所である村上にレッスンさせるという他行では真似《まね》の出来ない便宜を提供したのだった。
「おかげであれ以来、村上プロのレッスンのよろしきを得て、二十止まりだったハンディは、念願の十台になり、大いに気をよくしている次第ですよ」
春田が村上プロのレッスンの礼を云うと、
「ところで局長、ゴルフのお手並もさることながら、美馬から聞き及んだところでは、都市銀行の再編成に大へんな構想をお持ちのようですね、今晚は一つ、その太平洋ベルト地帯を背景にした銀行の複合合併というプランについて、じっくり承りたいと存じましてねぇ」
和らいだ座敷の雰囲気《ふんいき》に乗って、万俵は直截《ちよくせつ》に本論へ入った。
「ああ、あの話ですか、さすがにおたくの情報は早いですね」
春田は、美馬と万俵の関係を指すように云った。“小が大を食う”合併をもくろんでいる万俵の心中を知らぬはずがない春田が、大蔵、日銀の天下り頭取の銀行を核とした複合合併の一端に阪神銀行を加え、その上、美馬を通じて春田の方から暗に誘い水を向けておきながら、ぬけぬけとそんな皮肉をいうとは――。万俵は、内心むっとしながら、春田が、永田大蔵大臣の冷飯時代、永田派であることを理由に、長い間、陽の当らぬポストで干されたあげく、外務省へ出向の形で、国際金融市場からはずれた国の海外勤務へ追い払われ、尾羽《おは》打ち枯らして羽田空港を発《た》って行った時のことを思い返した。しかし、それから六年経《た》って、永田が大蔵大臣として返り咲くや、春田も直ちに帰国して東京国税局長、理財局長、そして銀行局長と、大蔵官僚としての出世コースを驀進《ばくしん》している。
「太平洋ベルト地帯を背景にした都市銀行の大合併といいますと、どういった銀行が入るのでしょうか」
白けかけた空気をもとに戻すように、芥川が、春田に酌をしながら聞いた。
「まだ一私見に過ぎないのですが、北は北海道から南は神戸までということで、北海、太平、坂東、大同銀行、そしておたくの五行ぐらいが、理想的ではないかと思っているのです、といっても、現実問題として初めから五行が言葉通り合併して、たとえば太平洋銀行というような全く新しい銀行をつくるというわけにはいかないと思いますから、最初は、正確には五行連合[#「連合」に傍点]ということですがねぇ」
春田は、万俵の反応を確かめるように視線を凝らした。万俵は表情を動かさず、
「なるほど、五行連合ですか、それなら現実味のあるお話だと思いますが、やはり問題はありますね、たとえば五行が横に手を繋《つな》ぎ合っても、この場合の五行は地銀的都市銀行の性格が強いだけに、それぞれの銀行の特殊性をどうするか、つまり、北海銀行は北海道という地元企業に優先的に融資しないといけないし、当行にしても阪神地域を優先的に扱わねばなりません、それが横に繋がってしまいますと、各行それぞれに持っている独自性が維持出来るかどうか、不安が残りますね」
「確かに一番の問題はそこでしょう、しかし、それぞれの銀行が持っている地域への融資といっても、最近は融資を受ける企業の方が非常に大きくなって来ている一方、巨大なコンビナートが次々に出来て、とても一行の資金量だけではやっていけない情勢にあるようです、しかも、このまま都市化が進んで、日本の人口の八割が太平洋ベルト地帯に集中するという未来学者の予測を考え合せると、全産業の八割近くが集まることになる、そうした資金需要に対応するための太平洋ベルト銀行なんですから、互いに提携して、資金量を融通し合えばいいんじゃないかと思うのですよ、いってみれば“合併なき合併銀行”をつくろうというのが、私の案なのです」
春田は、珍しく熱っぽい口調で自分の構想を話した。芥川は神妙そうに相槌《あいづち》を打ち、万俵は、春田の構想を聞き終ると、
「つまり、そうすれば横もうまくいき、縦もうまくやれるというわけですか、じゃあ、いっそのこと、連合銀行の数をもっと増やしてはどうですか、たとえば太平洋ベルト地帯の中間にあたる名古屋の中京銀行なども入れた方が、自然な感じがしますが、それを除いておられるのは、何か格別のお考えでもおありなんですか?」
と尋ねた。万俵にしてみれば、横もうまくいき、縦もうまくいく合併なき合併銀行の話よりも、それがほんとうはどのような意図に基づいて考え出された構想であるかを知りたかった。もしこの五行連合なる構想が、単に官僚統制を強めるための連合でなく、上位の四大銀行に対抗し得る、いわば大蔵省の息のかかった大蔵銀行なるものをつくろうという狙《ねら》いなら、そんな話にうかうかと乗るわけにはいかない。
春田は、そんな万俵の胸中を知ってか知らずか、
「こういうのは、数を増やし過ぎてもまとまりが悪く、駄目なものですよ」
頭から問題にしないように云った。
「そうでしょうか、太平洋ベルト銀行の設立が目的なら、北海銀行のような、こう云ってはなんですが、ベルト地帯の端の、さして発展性が期待できない銀行より、名古屋の中京銀行の方が、心丈夫な気がしますがねぇ」
北海銀行は、大蔵省系の銀行であったから、日銀系の中京銀行を持ち上げるように云うと、
「しかし、資金量が豊富でも、中京銀行のように地元の経済圏との繋がりが格別に強い銀行が一枚噛《か》むと、図体《ずうたい》が大きいだけに、やりにくい面が出て来るのですよ」
春田は、日銀系の銀行の中で最も規模の大きい中京銀行が入り込んで、日銀勢力が連合体の中で幅をきかすことを警戒するように云った。と云うことは、五行連合の春田構想が、要は大蔵銀行設立の地ならしに他《ほか》ならない。そうと解《わか》れば、ここは一応、春田構想に乗ると見せかけて、他の四行と横に手を繋いで、提携のうま味を吸いながら、四行のうちのどこかをつまみ食いして、連合体から脱け出すことだと思った。その時は少なからぬ摩擦もあるだろうが、今、ここで断わって、他の四行がもし春田構想に乗ってしまえば、阪神銀行はバスに乗り遅れ、上位四行の餌食《えじき》になりかねない。しかし、万俵は、そんな心中は気振《けぶ》りにも出さず、
「局長のお説によりますと、五行連合は、理想的な形だということになりますねぇ、しかし、当行としては独自な合併構想を進めております矢先なので、おいそれと決心しかねます」
わざと言を左右するように云うと、
「お気持は解らないでもありませんが、必ずしも、従来の考えにこだわられることはないじゃないですか、むしろ中位行あたりとの中途半端《はんぱ》な合併より、上位四行に堂々と対抗して生き延びる道を考えるなら、五行連合という形の方が、大局的には有利だと思いますね、五行の皆さんにその気さえあれば、大いにお力添え致しますよ」