春田は、その場合の大蔵省の特別な取りはからいを暗示し、万俵を自分の構想の方へ引き入れるように云った。横から芥川が、
「それは結構なお話ですね、大蔵省のバック.アップによって出来た連合となると、上位四行といえども、魔の手を伸ばしては来にくいでしょうし、連合した側も、何かと心丈夫です、早速、他の四行に話を廻してみましょうか」
と膝《ひざ》を乗り出した。万俵は眉《まゆ》を顰《ひそ》め、
「お先っ走りなことを云うものじゃない、そういうことは局長にお任せすることだ」
予《あらかじ》め打ち合せておいた台詞《せりふ》であったが、ことさらに窘《たしな》めるように云うと、春田は、
「いや、銀行局長という立場上、私自身が四行に当るのはまずいから、芥川さんあたりから四行の常務クラスに根廻しして貰《もら》った後、万俵頭取から各行の頭取に話をもって行って戴《いただ》くと幸いですがねぇ」
「では、私から“銀行局長を囲む会”を持ってはどうでしょうかという風に持っていき、一度、皆さんとも話し合ってみましょうか」
万俵は、銀行局長から天下った北海銀行頭取、大蔵次官から天下った太平銀行頭取、副頭取は大蔵省から受け入れているが、自らは地銀時代の生《は》え抜きである坂東銀行頭取、日銀理事から天下った大同銀行頭取、それらの一人一人の顔を思い描きながら頷《うなず》いた。
麹町《こうじまち》にある阪神銀行の行邸《こうてい》の居間で、美馬中は、二子と喋《しやべ》っていた。二子は今夜、上野の文化会館で開かれたルービンシュタインのリサイタルを聴くために上京して来たのだった。行邸といっても名目だけで、実際は戦前から東京の万俵邸としてあった建物であるから、来客用の広い応接室を除くと、あとは気楽な部屋ばかりだった。
美馬は、演奏会の模様を聞き終ると、
「ほう、関西でのプログラムに入っていない曲目を聴きに出かけて来たってわけ――、ピアノのお稽古《けいこ》も大へんだな、だけど、明日、うちでもう一泊して帰ればいいじゃない?」
「ところが、明日は女学院の同窓会があるから、八時の新幹線で帰らなきゃならないの、だから東京駅に近いこちらで泊るのよ」
と云うと、美馬は姿勢をかえ、
「二子ちゃんも、こうして見ると、なかなかの美人だな、グラマーだし、若さでピチピチしてるじゃないか」
よく伸びきった二十四歳の肢体を鑑賞するように眺めた。
「お姉さまの方が、ずっと美人よ、私と違って、お母さま似で、お品があって、日本風のほんとうにきれいなお顔だち、その点、私や三子は、地主出身の父方の血が濃くて、いささか土臭い方ね」
父親似の目鼻だちのはっきりした顔で、笑った。
「いや、官僚の女房には、その方が有難いよ、何しろ、あの人と来たら、何事につけても浮世離れした悠長さだから、生活のテンポが合わなくてねぇ」
美馬は、妻の一子のことを“あの人”と呼び、話題を変えた。
「どうだい、二子ちゃん、この間の細川青年の印象は?」
正月の志摩観光ホテルで偶然、出会った振りをして見合いの下見をさせた佐橋総理夫人の甥《おい》にあたる細川一也のことを云った。
「ああ、あの方――、どうって、どういう意味なの?」
「むろん、結婚の相手としてだよ、東大法学部卒、帝国製鉄秘書課勤務のエリート社員で、その上、総理夫人の甥という恵まれた青年、この間、たまたま帝国製鉄の兵藤副社長の“兵六会”の宴席で、それとなく聞いてみると、彼には目下、方々から結婚調査の問い合せが殺到中だということだったよ」
気をひくように云うと、
「じゃあ、この間のは、お義兄《にい》さまと相子さんとが、予め仕組んでおいたお見合いだったのね、それならなおのこといやよ、私は結婚のバーゲン.セールは大嫌い」
二子は、一言、話す度に、それはですねと、概論を一くさり喋る細川一也の“概論居士《こじ》”ぶりを思い出して撥《は》ねつけた。
「バーゲン.セールだなんて、とんでもない、万俵家の次女で、家柄、資産、容姿など、すべての点で恵まれている二子ちゃんが、バーゲン.セールなんてことあるはずがないじゃないか、その証拠に去年の初めから次々と持ち込まれている良縁を、片っぱしから断わってきたのは、二子ちゃん自身だからね」
そう云いながら、美馬は、まじまじと二子の顔を見詰め、
「二子ちゃん、誰か意中の人でもあるんじゃないか」
と聞いた途端、二子は不意に何の脈絡もなく、一之瀬四々彦に会いたいという灼《や》けつくような思いに駈《か》られた。四々彦は、年末に兄の鉄平が大川一郎の急死で帰国したのと入れ替るようにアメリカへ飛び発《た》ち、年明けに帰国したことを聞いていたが、会う機会はなかった。兄の鉄平に、四々彦の消息を聞いてみたかったが、シカゴから帰国後、異様なほどの多忙さに追われている兄、そして新年の雉《きじ》撃ちの事故以来、父と兄との間にわだかまっている妙に冷たい雰囲気を思うと、四々彦のことを取りたてて、聞くのが憚《はばか》られた。
「細川君と近々、会ってみない? 彼、ピアノを弾くらしい――」
と云いかけた時、表門から玄関の車寄せに入って来る車の音がし、大介を出迎える書生や管理人たちの慌《あわただ》しい足音がした。
「やあ、中君、来てくれたのかい」
大介は、すぐ居間へ入って来た。
「ええ、今夜は新橋で宴席があったものですから、ちょっとお寄りして、お待ちしながら、二子ちゃんに、細川青年の件を口説いていたところなんですよ」
「あれは、結構な話だ、この辺で身を固めて貰いたいと思っている矢先だから、相手の都合さえつけば、明日でも中君と一緒に、夕食でもどうかね」
大介は乗り気で、顔を綻《ほころ》ばせたが、二子は、
「あら、困るわ、私にはそんな気持、全然なくってよ、それに明日は、女学院の同窓会があるから駄目よ」
と云うなり、さっさと部屋を出て行った。
「いかがでした? 春田構想なるものは――、私が橋渡ししたことだけに、どんな風な話になったか、気になっていたのです」
親切めかした言葉の裏に、恩きせがましさがあった。
「うむ、さすがに“合併屋”の異名がある春田局長だけあって、太平洋ベルト地帯を背景にし、日銀、大蔵省の天下り頭取の銀行を核にした雄大な五行合併を考えているが、日銀、大蔵ばかりでは、いかにも“お上《かみ》の銀行”という感じになるから、ここに一つ、阪神銀行も乗らないかと云ったような話だ」
「お舅《とう》さんのお考えは、どうなんです」
「それは、事と次第によるねぇ」
春田構想に乗って仲よく手をつないで五行連合に同調しながら、あわよくば、その中のこれというのをつまみ食おうと算段している大介であったが、曖昧《あいまい》に返事を濁し、書生が運んで来たお冷水《ひや》をゆっくり飲み干した。美馬はそんな大介を不満げに見つめ、
「今度は、お舅さんが、第三銀行との合併をもくろみ、つぶされた時と違って、私が、春田局長に直接、構想を聞き出してお舅さんに仲介の労を取ったのですから、その点よろしくお含み戴きたいと思いましてねぇ」
丁寧な言葉であったが、自分と春田銀行局長との繋がりを強調し、万俵の独走を牽制《けんせい》する響きがあった。
「あたり前じゃないか、私が、中君の官僚としての立場を充分に考えないようなことをすると思うのかね、君も案外と、つまらない取越し苦労をする方だな」
万俵は軽く笑い飛ばしながら、心の中では、美馬中を相変らず、官僚独特のいやらしさを持つ男だと、思った。
*
阪神特殊鋼の高炉建設は着工後九カ月目を迎えていた。外形のほぼ出来上った高炉は、ぐるりを鉄骨の足場やクレーンに囲まれながら、巨人のようにそそりたち、炉頂部の気密装置の取付け作業にかかっていた。
安全用のヘルメットと作業衣に身を固めた万俵鉄平と工場長の一之瀬は、高圧高炉に最も大切な気密装置である大ベルの取付けにたち会うため、足場を伝って炉頂に近い地上三十六メートルのデッキに上り、作業を注意深く見守っている。高炉建設には、炉に空気を送り込む羽口《はぐち》の取付けと、炉内の煉瓦《れんが》積みと、炉頂部の大ベル、小ベル取付けの三つが重要作業だったが、中でも大ベルの取付けは、炉の心臓部にあたる仕事であった。それだけに高炉建設を請負っているメーカーも細心の注意を払って取りかかり、十数人の作業員が、地上から大型デリック.ブームで吊《つ》り上げた高さ四.五メートル、重さ四十トンの釣鐘《つりがね》型の大ベルを、炉心の真上にある滑車にワイヤーで結び、洞《ほら》のようにぽっかり大きな穴をあけている炉体に向ってゆるゆると下ろしていた。指揮者が手で合図する度に、鼠色《ねずみいろ》の鈍い光を放つ釣鐘のような大ベルは、デッキにいる鉄平や作業員たちの頭上から、圧倒するように下りて来る。
鉄平は瞬《またた》きもせず、厳しい視線を大ベルに向けていた。耐摩耗鋼《たいまもうこう》で作られた大ベルの当板《あていた》の肉盛《にくもり》溶接がうまく出来ていなければ、それを受けるホッパーとのすり合せが精密に行かず、気密度を減じて一酸化炭素が洩《も》れると同時に、鉄鉱石やコークスの粉が当り面を摩耗し、損うのだった。しかし、眼の高さまで下りて来た大ベルの当板の肉盛溶接は、鉄平の期待通りに仕上っていた。
「なかなか、うまく出来てるじゃないか」
満足そうに云うと、高炉メーカーの現場監督は陽灼《ひや》けした顔を綻ばせた。
「専務は、冶金《やきん》出身でいらっしゃいますから、大いに気を遣いましたよ、もちろん、気密テストずみです」
「テストには誰がたち会ったのかね」
と聞くと、一之瀬は、
「私と工務課長がたち会い、大丈夫であることを確認致しました」
と応《こた》え、大ベルが炉内の所定の位置に下ろされると、ほっとしたような表情で、
「専務、大ベルの取付けがすめば、高炉も七分通り出来上りですね」
「うむ、いよいよだな」
そう応えながら、鉄平は、灘浜《なだはま》に臨む十万坪に及ぶ建設用地を見渡した。早春の灘浜は、真冬の海のように黒々と光り、身を切るような寒風が吹きつけていた。眼下の荒涼とした建設用地には、三本の熱風炉と給水筒、鋳床《ちゆうしよう》などが建ち、岸壁沿いには鉱石やコークスを置く原料ヤードと、原料を運ぶベルト.コンベアが出来つつあり、トラックやブルドーザーが赤土の砂煙を上げて縦横に走っている。そうした建設現場の中で、海に向って東側がぽっかり空地になっているのは、将来、第二高炉を建設する際の増設設備を考えてのことであった。視線を大きく反対方向に転じると、現在、操業中の五棟《いつむね》の工場が見え、いずれももうすっかり黝《くろ》ずんでいる。鉄平の眼は、岸壁の製品倉庫に止まった。そこには、アメリカン.ベアリング社向けの、十二月分と一月分、そして二月分の半分の製品が、船積みストップの状態で滞貨しているのだった。それを思うと、気が重くなった。
「先に降りるよ、体が冷えて来た――」
一之瀬の方を振り向いて、そう一言云うと、鉄平は足場を伝って下へ降りて行った。
事務本部の二階の専務室へ戻ると、銭高は斜め向いの常務室から窺《うかが》っていたような間《ま》のよさで入って来、
「お忙しい中をどうも――」
口髭《くちひげ》をたくわえた小作りの顔で、鉄平の前に坐った。
「いや、私も話したいことがあったから、ちょうどいい、アメリカン.ベアリング社のことだろう?」
運ばれて来た温かいお茶を飲みながら、鉄平から口をきると、
「さようでございます、いくら何でも、もういい加減、輸出が再開されてもよさそうなものなのに一体、向うの事情はどういうことになっているのでございますか、石川社長も大へんご心配になっていて、よく専務に事情を聞いてほしいと云われましたんでございますよ」
言葉は馬鹿《ばか》丁寧だが、妙にねっちりとした口調で聞いた。
「それが、まだはっきりした返事が入って来ないのだ」
「まだ――、弱りましたねぇ、実は大同銀行から一月に借りた二億五千万円の返済方をせっつかれているんです、あの時の専務のお話では、アメリカン.ベアリング社の首脳部の交替で、新しい経営方針が打ち出されるまで輸出は延期だから、その間の繋《つな》ぎ資金を都合してほしいということでございましたので、当面必要な三億二千四百万のうちの二億五千万を大同銀行に借り、残りの七千四百万を阪神銀行で調達致しましたわけですが、大同銀行では、二月末になり、三月に入っても一向、輸出が再開されないのはおかしいと、不安を持ちはじめているようです」
と云った。輸出の支払いは、通常、出荷の二カ月前に、輸出代金三億六千万円の八割、二億八千八百万が銀行から前借りでき、残り二割、七千二百万は船積み後に借り入れることになっている。したがって、現在、滞貨している十二月と一月の二カ月分の八割については、大同銀行と阪神銀行の両行から既に前借りしていたが、残金二割は、輸出ストップで入って来ていない。そのため、一月の末までに七千二百万の二カ月分、一億四千四百万と、既に見越し生産で出来上っていた二月船積分の原料.加工代一億八千万、合わせて三億二千四百万円の資金がショートし、銭高常務が大同、阪神の両行から調達してきたのだった。しかし、三月のはじめになってもアメリカン.ベアリング社の動きは好転せず、阪神特殊鋼の資金繰りは、かなり圧迫されていた。
「私としては、再三再四、シカゴの南駐在員に電話で指示したり、川畑常務に渡米して貰ったりして、絶えず向うの動向を探らせ、輸出再開の交渉を重ねさせているが、巨大な複合企業《コングロマリツト》であるLSVの傘下《さんか》に入ってしまい、なかなか、はかどらないのだ、しかし、輸出が再開されれば、アメリカン.ベアリング社は以前にも増して有力な取引先であるだけに、ここは根気よく交渉を続行し、今の事態を打開したいと思っている、そして高炉建設で気になっていた炉頂部の工事も、ここ一両日で一段落するので、私自身、再度、渡米しようと思っているのだ」
じっとしておられないように、云うと、
「しかし、専務がいらしたところで、もはやどうなる事態でもないのではございませんか」
銭高は、眼の端を皺《しわ》めた。
「それは、どういう意味なのかね」
鉄平はむっとして、聞き返した。
「いや、私は決して失礼な意味で申し上げたのではございませんのですよ、専務がお話し下さらないので、私はついこの間まで全く知らなかったのですが、アメリカン.ベアリング社を吸収したLSVは、傘下にベアリングの素材メーカーを持っているということではないですか、それなら、他社から買うことはないと思います」
じわりと、詰め寄るように云った。
「しかし、あの程度の規模と技術なら、わが社の方が、うんと優れている」
「今は会社の優劣を比較している時じゃあございません、それにアメリカン.ベアリング社の購買部長であるロジャースは、二月末に、馘《くび》になったそうですね、あれやこれや考え合せますと、これはますますキャンセル臭いんじゃございませんか」
「よく知っているね、どこでそこまで調べて来たんだ」
「調べるというような大げさなことは何も致しておりませんが、ある筋でひょんなことから聞き及びましたもので」
銭高はそう応えたが、二月半ばを過ぎても、アメリカン.ベアリング社との話合いが進展しないのに不審を抱き、阪神銀行の融資部長時代の顔を使って、江州《ごうしゆう》商事の経理部長に個人的な依頼として、現地の様子を探って貰《もら》い、情報を入手していたのだった。
「ところで専務、万一、キャンセルともなれば、輸出前金として銀行から借りている十二月分と一月分の五億七千六百万は返済しなくてはなりませんが、ただでさえ毎月、コンスタントに入って来ていた三億六千万の売上げが入らなくなり、運転資金の捻出《ねんしゆつ》にも四苦八苦しているのに、どうなさるおつもりなんでございます?」
「それは、私としても万々一の場合を考え、南君や川畑常務に、ロスアンゼルスあたりに適当な転売先がないか、それを目下、探させている」
輸出品は、国内向けの製品と仕様《しよう》が異なるから、国内に転売がきかないのだった。
「しかし、そう都合よく転売先が見付かりますでしょうか、それにしても、どうしてもっと早く、忌憚《きたん》のない実情を私にお話し下さらなかったのですか、水くさいじゃございませんか」
「そう云われると辛《つら》い――、だが高炉建設の真っ最中だけに、社内の士気に影響すると思い、何とか解決しようと日夜、苦慮していたんだ――、しかし、大同銀行が不安を持ちはじめて来ているなら、キャンセルにならぬ今のうちに、資金調達の無理を頼んで貰いたい」
鉄平が率直に頼むと、
「突然、そんな風におっしゃられても、五億からの資金を調達するなど、容易に出来ませんですよ、常日頃、資金調達は早目、早目に見通しをたてて、相談して戴《いただ》かないことには、請け合いかねますと申し上げているのは、こういう事態を案じるからでございますよ」
何事も技術優先で、いつも経理が尻拭《しりぬぐ》いをさせられている厭味《いやみ》と不満を籠《こ》めるように云うと、銭高は蒼惶《そうこう》と席をたった。この事態を、一刻も早く阪神銀行の万俵頭取に報《しら》せねばならないと、思ったからだった。
車が神戸の栄町《さかえまち》通りに入ると、銭高常務の顔に、活気が帯びる。電車通りを挟《はさ》んで両側に戦災を免れた銀行、証券会社の建物が並ぶこの辺りは戦前からの金融街で、銭高が四年前、阪神銀行本店の融資部長から阪神特殊鋼へ転出するまでの間、長年馴《な》れ親しんで来た空気が漂っているからであった。
六本の円柱が聳《そび》えたつ古めかしいバロック風建築の阪神銀行の東側玄関で車を停めると、銭高はさらに生き生きとした表情で玄関へ入った。融資部長時代からの顔馴染《なじ》みの守衛が丁寧な会釈《えしやく》で迎え、それに頷《うなず》きながら、ゆったりと通り過ぎたが、守衛はなかなか頭を上げない。奇妙な気がして、背後《うしろ》を振り向くと、貸付課長の万俵銀平が、ストライプのスーツのポケットに片手を突っ込み、すぐうしろからやって来ていた。
「これは万俵課長、お久しゅうございます、お仕事ぶりのほどは、いつもお噂《うわさ》を伺っております」
銭高は、自社の専務である鉄平に対する時以上の鄭重《ていちよう》さで挨拶《あいさつ》した。
「どうも――、ご無沙汰《ぶさた》しています」
銀平は元融資部長に対する礼を失さない程度の儀礼的な会釈を返し、営業部の方へ行きかけると、銭高は一緒に步きながら、
「お昼はやはり、オリエンタル.ホテルのグリルでございますか」
一時を少し過ぎていたが、銀平の寛《くつろ》いだ様子から、昼食をすませて帰って来たのだろうと察した。
「まあ、そんなところですが、銭高さんもそうだったんですか」
「いいえ、私など会社の方で簡単にすませて、飛んで参りました次第で――」
「何か阪神特殊鋼のことで、急用でも?」
はじめて銀平の眼が、銭高へまともに向けられた。銭高は慌《あわ》てて、
「いえいえ、そういうことじゃあないのです、頭取へのごく事務的なご報告でして――、では、失礼致します」
営業部の前まで来たのを幸いに、そそくさと挨拶し、銀平もそれ以上は聞かず、営業部へ入って行った。銭高はほっとした顔で、三階へ上った。
頭取秘書の速水の部屋へ声をかけようとすると、頭取室から出て来る速水の姿が見えた。
「先程は電話で失敬――、一時過ぎの約束だけど、頭取のご都合はいいですかね」
口髭《くちひげ》を撫《な》でながら、先輩面に適度の愛想を混じえて聞くと、
「どうぞ、お待ちになっておられます」
速水は慇懃《いんぎん》なもの腰で応えたが、銭高はこの速水が、好きではなかった。自分がこうして時折、阪神特殊鋼の経営内容を万俵頭取に、秘《ひそ》かに報告に来るのを、速水はどうやら快く思っておらず、澄んだ眼《まな》ざしの内側から、批判的に見ていることが感じ取られるからだった。
頭取室に入ると、万俵は、机に向って決裁書に眼を通していたが、机の前の椅子を眼で示した。銭高は一礼して坐り、
「どうもご多忙のところ、お電話などさし上げまして――、本来なら融資担当の渋野常務にご相談するのが順序と存じましたが、先程、ちょっと申し上げましたように、何分、ご令息の専務にじかにかかわることでございまして、他《ほか》に洩れてもなんでございますので、僭越《せんえつ》ながら、じきじきお耳にお入れ致した方がと存じまして――」
万俵頭取から直接、阪神特殊鋼の目付《めつけ》役を任されているとはいえ、子会社の一常務が、頭取にじかに話すことの失礼を詫《わ》びると、
「前おきはそれぐらいにして、早速、本題に入って貰いたい、こちらは何かと忙しいんだからね」
気難《きむず》かしげに促した。
「実は、当社の大口輸出先であるアメリカン.ベアリング社からキャンセルされそうな事態が出て参ったのです」
「なに、キャンセル? アメリカン.ベアリング社というと、シカゴにある会社だったね」
万俵の眉《まゆ》が、ぴくっと動いた。阪神特殊鋼の非常勤役員として名を連ねていたから、海外の大口取引先もおおよそ知っていた。
「さようでございます、昨年の十二月出荷の直前に突然、船積み待ての電報が入りまして、それから今日に至るまでずっと引き延ばされっ放しですが、私は、これは事実上のキャンセルで、正式の通知が来るのは、もはや時間の問題だと判断致しております」
と云い、経緯を詳細に話した。万俵はその間、眼鏡をはずして、レンズの曇りを拭いながら黙って聞き、
「なるほど、それで鉄平は、昨年の暮にばたばたと渡米したというわけか、それにしても今頃になって、それを報告しに来るとは怠慢過ぎるじゃないか、第一、社長の石川は一体、何をしているのだ、これではお飾り社長と云われても仕方がないじゃないか」
「申しわけございません、弁解申し上げるわけではありませんが、石川社長も私も、船荷ストップに関するほんとうの事情は聞かされていなかったのです」
「なに、それでは鉄平が、故意に実情を隠しだてしたというわけかね」
万俵の眼が、険しく光った。
「いえ、故意か、どうかは存じませんが、ともかく、アメリカン.ベアリング社がLSVの傘下に吸収され、経営者が交替し、新しい経営方針が打ち出されるまで船積みは見合せるということになったから、当面、不足する運転資金の都合をするようにと、云われたのでございます、しかし、その時の専務の口振りは至極、楽観的で、事実、一カ月ぐらいの遅れはこれまでにもあることでしたから、専務のお言葉をそのまま信じて、ショートした分の三億二千四百万円の資金調達は、何とか切り抜けることが出来ました、ところが――」
銭高は上眼遣いに万俵を見、自分の手で江州商事の経理部長を通して探り出した現地の動きを説明した。
「だが、鉄平は資金繰りにかかわるそんな重大なことを、なぜ、今日まで経理担当役員の君に話さなかったのかね」
拭《ふ》き磨いた眼鏡を端正な顔にかけながら、万俵は云った。
「さあ、そこでございますが、去年の十月に、渡米して、ご自身で二割増注も取っていらしたいきさつ上、何とかご自分で解決されたかったのだと思いますし、他意はないと信じます、なにしろ、ああいう竹を割ったような、しかも責任感の人一倍強いご気性の方ですから――、ただ、そんなことよりキャンセルが正式に通知されて来れば、十二月と一月の輸出分に対する八割の輸出前借金は、十二月は大同銀行から、一月は阪神銀行から既に借りていますので、キャンセルと同時に五億七千六百万の前金の返済をしなければならず、また一方で膨大な高炉建設の資金もいる時ですから、五億七千六百万もの運転資金をどうやって賄《まかな》ったらいいか、ほとほと考えあぐねてしまいます――」
吐息をつき、困り果てるように云うと、
「その金は、当行では出せないよ」
万俵はびしりと、先手を打った。
「しかし、頭取……」
「しかしも、なにもないだろう、メイン.バンクであり、親会社である阪神銀行に、それだけの重大事を二カ月以上もひた隠しにしておいて、いよいよ困ったからと云って駈《か》け込んで来たって、それではあまり虫がよすぎるというものだ、それに当行は、運転資金としては月平均、約七、八億は貸しているのだから、これ以上は他行で借りることだ」
銭高は取りつくしまもなく、瞬時、口を噤《つぐ》んだが、
「頭取のお憤《いきどお》りはごもっともで、私も役職怠慢の責めがございますので、最大限の努力を致します、しかし、輸出キャンセルによる前借金返済のための融資とわかれば、どこの銀行も、おいそれとは貸してくれませんし、高炉建設途上の際に、こうしたことが外部に洩《も》れますと、高炉の方の融資にまでひびきかねませんので、ここは一つ、ご令息の会社ということで、格別にご融資をお願い致します」
頭を垂れ、屈《かが》み込むと、
「君までが、息子の会社云々《うんぬん》というのか、いい加減にし給《たま》え」
鋭い叱声《しつせい》が飛んだ。
「私が出せないというのは、今回のキャンセルによる損失もさることながら、もっと重大なことは、高炉が完成し、コストの安い製品を生産出来ても、今回のように大口の取引先を失い、生産しても売れないという、私が一番心配していた事態が起って来たことだ、そうした阪神特殊鋼の生産販売計画に根本的な問題があるにもかかわらず、経営陣がこの段になっても、その点に厳しく眼を向けていないことだ、とどのつまりは、何とか親もとの阪神銀行が面倒をみてくれるという安易な社風が瀰漫《びまん》しているからだろう、そう鉄平に伝え、他行で調達するように云っておき給え」
と万俵は、命じた。
その翌日、万俵鉄平は、阪神銀行の頭取室で、父の万俵大介が戻って来るのを待っていた。午後四時に銀行に来るようにという電話を受けていたのだった。
「どうも、お待たせして申しわけございません、今日は神戸財界人の一水《いつすい》会の会合がございまして、頭取はそちらへ出かけておられますが、程なくお戻りになると存じます」
頭取秘書の速水が、約束の時間より遅れていることを詫《わ》びた。
「いや、それよりこの間は、あなたにお手数をかけました」
鉄平は、先だって、父の大介に面会の時間を都合して貰うべく、速水に何度も電話したことを云った。
「とんでもございません、私の方こそせっかく時間の切れ目がございましたのに、毎朝新聞の榎本記者の方が、予定より早く来られてしまってお取り次ぎ出来ず、失礼致しました」
鉄平に電話しようと思えば、出来たのに、どうせ資金繰りのことだろうから、他日に廻せばいいと拒んだとは、云えなかった。
「いや、いつも父との連絡ではあなたにお世話をかけています、お陰《かげ》で高炉建設も七分どころまで漕《こ》ぎつけました、もし興味がおありなら、案内させますよ、何なら銀平と一緒にいかがですか」
「有難うございます、私たち銀行員の仕事は、いくら全力投球しても、それが設備なり製品なり具体的な形になって残りませんので、時折、ふっと虚《むな》しさを覚える時があります、高炉建設は是非とも見学させて戴きたいと思っておりましたので、早速、銀平君を誘ってみます」
「喜んでお待ちしますよ、銀平には友人らしい友人がなく、あなただけが心を開いて語り合える相手らしいですから、今後も誰もしてくれない忠告もして下さるようなおつき合いを、よろしく頼みます」
兄らしく云うと、速水は、
「そんな風におっしゃって戴くと恐縮です、時折、二人で一緒に飲むことはありますが、やっぱり君も解《わか》ってくれてないんだねと、云われる時があります、しかし私は私なりに、今まで通り学生時代からの交友を続けて行くつもりです」
爽《さわ》やかな眼ざしで応《こた》えた時、万俵頭取が入って来た。
「お帰りなさいまし、先程から万俵専務がお待ちでございました」
と云い、速水は頭取室を退《さが》って行った。
「このところご無沙汰しております」
鉄平が挨拶すると、
「そういえば、ここ二カ月近く会うことがなかったようだな」
同じ邸内に住まいしながら、正月の雉《きじ》撃ちの事件以来、互いに顔を合わすのを避け合う雰囲気《ふんいき》になっていたのだった。
「それでお父さん、今日、僕をお呼びになりましたのは、どういうご用件でしょうか」
「昨日《きのう》、お前のところの銭高常務が突然、私を訪ねて来た、何のためか解っているだろう」
大介はソファに坐《すわ》り、眼鏡越しに、じろりと鉄平を見た。
「では、アメリカン.ベアリング社のことを――、それなら私自身が直接、事情をご説明に参りましたのに」
銭高とは昨日の夕方も、今朝《けさ》も会社で顔を合わせているにもかかわらず、何も云わなかったことを鉄平は不快に思った。
「何が気に入らないのだ、去年の十二月に船荷ストップの電報が入ったことから、アメリカン.ベアリング社がコングロマリットのLSVに乗っ取られたこと、LSVはベアリングの素材メーカーを傘下《さんか》に持っていること、従来の購買部長がごく最近、馘《くび》になったことなど、一部始終を銭高から聞いたよ、どんな思惑があってか知らないが、私に恥をかかせてくれたね」
「思惑だの、恥をかかせるだの、そんなつもりで申し上げなかったのでは、毛頭ありません、ただ――」
「ただ、何だと云うのかね、私が阪神特殊鋼の非常勤とはいえ、役員であることを、まさか忘れてはいないだろうね」
畳みかけるように云った。
「承知しておりますが、出来うるならば、自分の力で解決し、ご心配をおかけしないようにと思ったのです、しかし、なかなか事態が好転しませんので、ご報告しなければと思い、先だって面会を申し込んだのですが、会って戴けず、お電話にも出て戴けませんでしたので、つい延び延びになっていたのです」
鉄平は、父の妙にねじ曲った誤解を解くように説明した。
「ああ、あの時の駈込み面会というのは、このことだったのかい、こんな重要な用件なら、何故《なぜ》もっと重ねて云って来なかったのか、あの日だけ、やいのやいのと、私が帰宅して既に寝《やす》んでしまってからも電話をかけて寄こしながら、翌日から梨《なし》の礫《つぶて》というのは、どういうわけなのかねぇ」
葉巻をくゆらせながら、問い返した。
「いえ、その後、もう一度おかけしました時は、東京へご出張ということでしたし、私も高炉の重要な建設工程にかかりましたので、ここ暫《しばら》く多忙を極め、やむを得なかったのです」
鉄平は、だんだん腹だたしくなって来る気持を抑えかねるように云った。
「なるほど、それにしても、自分の社の経理担当常務の銭高のみならず、社長の石川正治にまで、こういう事態を隠しだてするのは、独断も度が過ぎる、今日、一水会のあと、会合に出席していた石川に、阪神特殊鋼の社長として責務怠慢じゃないかと叱《しか》ったら、自分は船荷ストップの電報のことも、二カ月半分の製品が滞貨していることも、聞き知っているが、詳しい事情については碌《ろく》に説明を受けず、蚊帳《かや》の外に置かれている、鉄平君は万事この調子だから、父親であり、社外役員でもあるあなたから注意してほしいと、逆に不満を云われたよ」
「申しわけありません、しかし石川社長は人一倍、気に病む性格《たち》で、弱気の果てについ見さかいなく、ぽろっと口外してしまう人なので、敢《あ》えて最小限に、しかも楽観的に云っておいたのです」
「それじゃあ、本当の見通しはどうなりそうなのかね、銭高の話では、キャンセルされれば、さしあたり総計九億の損害を蒙《こうむ》るらしいが、その危険度のほどは、船荷ストップの電報が来て、アメリカン.ベアリング社へ飛んで行ったお前が一番、よく承知しているだろう」
「それは購買部長が替ってしまった今となっては、何とも云えませんが、ともかく、近々、私自身がもう一度シカゴへ飛んで、新しい購買部長に会い交渉するつもりです、わが社の品質は優秀なんですから、希望はあると思っています、しかし、銭高常務は万々一のキャンセルに備えて、今のうちにその資金調達をしておかねば、急に五億七千万もの資金は出来ないと云いますので、本日、お父さんに呼ばれたついでに申し上げるのは、無礼に過ぎますが、万一の場合はお世話戴《いただ》きたいと思い、お願いする次第です」
鉄平が深々と頭を下げかけると、
「それは昨日、銭高にも頼まれたが断わった」
葉巻の煙を天井に向けて吐き出し、にべもなく応えた。
「しかしお父さん、こんなことは他行には持って行けない話です、輸出再開に全力をあげ、お父さんのところにはご迷惑がかからないように致しますから、お願いします」
重ねて頼んだ時、机の上の電話のベルが鳴った。大介がソファからたち上って受話器を取り、
「阪神特殊鋼から鉄平に、緊急電話? よし、本人とかわるから――」
鉄平に受話器を渡した。
「もしもし、私だ、え? 早口で解らないよ、何をそんなに慌《あわ》てているんだ」
電話は、営業担当の川畑常務からだった。
「そう、父と話し中だが、緊急の用件ならいいよ、なに? 落ち着いて云い給え、――シカゴの南駐在員からテレックスが入った、内容は? えっ、キャンセル! アメリカン.ベアリング社の新しい購買部長が南君にキャンセルを通告したんだって!」
受話器を握りしめている鉄平の手が、震えた。
「――解った、父に資金繰りを諒承《りようしよう》して貰ったら、すぐ帰社する、皆が動揺しないように云っておいてくれ給え」
鉄平はそう云うと、受話器を置いた。息を整えるようにして父の方へ体を向けると、じっと自分を見詰めている大介の視線と合った。
「お聞き及びのように、只今《ただいま》、アメリカン.ベアリング社からキャンセルが通知されて来たということです、正式の文書は追って届くらしいですが、そうなれば既に阪神銀行と大同銀行の両行から輸出前借金として借りている五億七千万の返済は余儀なく迫られます、何卒《なにとぞ》、融資をお願いします」