「頭取、何か急なご用でも――」
「ほかでもないんだが、君も知っている阪神特殊鋼の融資の件だよ、実は先程、向うの万俵専務が私に面会を求めて来たんだが、アメリカン.ベアリング社への輸出がキャンセルになり、その資金ショートを切り抜けるために、二億八千八百万を融資してほしいという申し入れだったんだ」
三雲が鉄平の依頼を説明すると、綿貫は、まるで動物的な嗅覚《きゆうかく》を働かせるように大きな鼻翼をふくらませ、用心深く聞き入った。それは百戦錬磨を経て来た人間の、容易にものごとを信じない表情であった。聞き終ると、
「なるほど、輸出キャンセルというような突発事が起ったわけでございますか、それでメインの阪神銀行も面倒が見きれないということでございますね、しかし、やはりこれは少々、おかしゅうございますよ、メインが二億八千八百万の面倒が見られず、うちにおっかぶせて来るには、何か裏がありはしませんか」
叩き上げの職業的な勘を働かせるように云った。
「いや、その点については、つい今、私が直接、阪神銀行の万俵頭取に電話をかけて問い合せたところ、阪神銀行が地場の資金需要に追われ、手詰りな状態だから、ここは半分、大同さんに面倒を見て貰いたいという打ち割った話で、君の云うような裏などない」
「そうでしょうかねぇ、で、頭取はどういうご意向なんですか?」
自分の意見は云わず、まず三雲の意見を聞いてからという風に出た。
「今回の阪神特殊鋼の資金ショートは、業績の悪化から来るものではなく、どこまでも輸出キャンセルという突発事から来る一時的な資金ショートだから、この際、融資しておいた方がいいと思っている」
率直に意見を打ち出すと、綿貫の赭ら顔が大きく動いた。
「頭取は、二億、三億と簡単におっしゃいますが、その二億なり三億を五十口、百口と小口に分けて、当行がメインになっている中小企業に融資すれば、どれほど喜ばれるか解《わか》りません、たとえば先日来、私のお話ししておりますアサヒ石鹸《せつけん》への五千万の融資にしても、阪神特殊鋼一社に二億八千八百万も貸す余裕があれば、貸すべきだと思います」
先日来の話を蒸し返すように云った。アサヒ石鹸は資本金二十億、二部上場で、大同銀行がメイン.バンクになっている石鹸、洗剤メーカーであった。
「その件については、この間も私が云ったことだが、石鹸、洗剤メーカーそのものが、一頃《ひところ》のブームも終り、薄利多売の過当競争で下向きになって来ているうえ、今後この業界には、ますます大手の石油化学会社が進出して来るだろうから、同族会社で、これという経営者がいないアサヒ石鹸は、長期的にみた場合、君の云うように将来性のある企業かどうか、考え直す必要がある」
平静な口調で云ったが、綿貫は陰に籠《こも》った表情で、黙り込んだ。それというのも、綿貫はアサヒ石鹸がまだ町工場時代の戦前からその融資を手がけて来ており、昭和二十八、九年、石鹸の過剰生産で業界が悪くなった時には、洗濯機の普及を見越して、尻込《しりご》みするアサヒ石鹸に粉石鹸工場の設備資金を融資し、ホーム.サイズで販売することまでアドバイスして、見事に業界のヒット.メーカーに仕立て上げたという実績があったからだった。以来“石鹸太郎”の異名で呼ばれるほど、こと石鹸については一見識を持っている。それだけに小堅いアサヒ石鹸への融資を固執する綿貫と、阪神特殊鋼への融資に踏み切ろうとしている三雲との間に、根本的に噛《か》み合わぬものがあった。綿貫は、細いよく光る眼で、
「私はですねぇ、やはり人間、着るものから縁がきれず、衣生活が潤沢になればなるほど、洗剤の需要は伸びる一方で、先行に不安のない業種だと思います、それにアサヒ石鹸の預金の步止《ぶどま》りは六割方《がた》あるのに対し、阪神特殊鋼は步止りどころか、高炉が完成して稼動《かどう》しはじめると、さらに増加運転資金を食い、さっぱり預金する余力などありませんよ」
ぱちりと算盤玉《そろばんだま》を弾《はじ》くように云った。
「君の云う採算も一理だろう、しかし、当行も今や、以前の貯蓄銀行の時代ではなく、都市銀行なんだから、当行の核となるような取引企業が必要だと思う、何のかんのと云っても、鉄鋼はここ十年、二十年は、世界的に需要増加の傾向を辿《たど》るに違いなく、君の強調する採算面からいっても、外国へ輸出する特殊鋼メーカーと取引することによって、外国為替の分《ぶ》のいい収益が入るじゃないか、扱い高の少ないわが行でも、外為《がいため》収益は全行員の五パーセントの人数で、経常利益の一〇パーセントを上げている、ここで阪神特殊鋼に融資すれば、その見返りとして、高炉完成後の原料の輸入の外為は当行に持って来るという条件になっている、外国部門の強化という面でも、阪神特殊鋼への融資は行ないたい」
静かだが、芯《しん》の強い語調で云うと、外国為替に通暁《つうぎよう》していない綿貫は、ぐうの音も出ず、
「そりゃあ、頭取のおっしゃるように、あらゆる面で国際化が急速に進んでいる折柄、外為業務の拡大が重要なことは解りますが、去年から統一経理基準が実施され、配当の自由化も促進されて、とにかく収益競争の時代なんですから、近視眼的といわれようと、私はやはり、ここのところは、巨額の設備資金や運転資金を食う鉄鋼などより、眼先の堅い利鞘《りざや》を稼《かせ》ぐことを第一に考えるべきだと思いますがねぇ」
叩き上げの専務らしい手堅い意見を述べた。
「だが、君のように云っていると、いつまでたっても、預金量は一人前だが、これという優良貸付先を持たない当行の体質の最大の欠点を改善することが出来ない、この際、基幹産業である阪神特殊鋼に貸し進んで、阪神銀行と並ぶ平行メインになっておくべきだと思う」
「ですが、阪神特殊鋼がほんとうにいい業績にあるのなら、かりにも親子関係にある万俵頭取が、平行メインになる当行を見過すはずがないと思われませんか、それでも頭取が、なおどうしてもとおっしゃるのなら、当行から誰か人を派遣すべきではないでしょうか」
綿貫は執拗《しつよう》に、疑い深く云った。
「それがいいなら、向うと相談した上で出そう、しかし、何も今、そう急ぐことはないじゃないか、業績が悪化したというわけでなく、単なる一時的な資金ショートなのだから――」
三雲が云うと、
「そこまでおっしゃるのでしたら、この件は、頭取のご決裁にお任せした方がよろしいのですかな」
綿貫千太郎は、三雲に責任を持たせるように云い、たち上った。
芸者たちの嬌声《きようせい》で、座敷は三味線がかき消されるほど賑《にぎ》わっている。大同銀行の綿貫専務が腹心の部下ばかりを集めた内輪《うちわ》の酒席であった。
「さあ、豆千代、今度お前が負けたら、見ものだな」
大きな赭ら顔を、さらに酒気でほてらせた綿貫千太郎は、二十《はたち》そこそこの鳩胸《はとむね》の芸者と、背広を脱いだシャツとすててこ姿で向い合っていた。気のおけない神楽《かぐら》坂《ざか》芸者たちを相手に、野球拳《けん》に興じ、芸者の方も既に帯を解き、座敷着も脱いで、長襦袢《じゆばん》一枚のしどけない姿になっていた。
「なにおっしゃってるの、千さまこそ、この一発でまる裸まちがいなしよ、さあ、いくわよ」
長襦袢の袖口《そでぐち》をたくし上げるようにして、豆千代が甲高いかけ声をかけると、三味線が鳴り、他《ほか》の芸者と綿貫の五人の部下たちは、再び歌いはじめた。
歌に合わせて、綿貫と豆千代はわたり合うように、派手なゼスチャーで、
「それジャンケン.ポン!」
「あいこでポン!」
じゃんけんをした途端、どっと笑い声が上った。綿貫の負けであった。
「さあ、千さま、そのラクダのシャツを脱いで貰おうじゃないですか」
豆千代が促すように云い、綿貫は頭をかいてシャツを脱ぎ、上半身、裸になった。
「あら専務、またお灸《きゆう》の跡が一つ、ふえたじゃないの、いやあね」
肉のたるんだ背中一面にある灸の跡を数えて、芸者たちは笑いころげた。
「男を裸にするなんて、豆千代も可愛《かわい》げがないね、この辺で一休みといきましょうか」
すててこ姿になってしまった専務に助け船を出すように、綿貫の股肱《ここう》の臣である業務担当の小島常務が云った。
「うん、さすがに寒くなって来た、熱いのを一杯くれ」
綿貫が云うと、芸者が左右から手早く服を着せ、神戸支店長の橋爪が熱燗《あつかん》をぐいのみに注《つ》いでさし出した。一座の中で一番、齢若い橋爪神戸支店長は、たまたま支店長会議で上京して来ているのだった。
綿貫専務を上座にして、業務担当の小島常務以下、長谷川総務部長、湊《みなと》本店営業部長、岸田浅草支店長、橋爪神戸支店長の五人が、自然と序列順にテーブルを囲み、芸者たちもその間に割って入ると、綿貫は自分の親衛隊の一人一人に盃《さかずき》を廻し、
「おい、岸田君、元気を出して飲めよ」
皆が野球拳に興じている時も、ひとり冴《さ》えない顔でいた岸田に声をかけた。
「そうだよ、今晚の会は、われわれ綿貫親衛隊の忠実なるメンバーである君の送別会も兼ねているんだから、ぱあっと飲んで憂《う》さを晴らし給《たま》え!」
小島常務も、力づけるように云い、この三月三十一日付をもって停年退職する岸田浅草支店長の盃に酒を注いだ。
「どうも、これは――、しかし私は」
岸田は盃を受けながら、表情を歪《ゆが》め、言葉を跡切《とぎ》らせた。
「解る、岸田君、君の無念な気持は」
隣にいる湊本店営業部長が、何度も頷き、
「去年の秋の取締役会で、僕は末席に列《つら》なりながら、一つ空いた取締役のポストに当然、岸田君が指名されるとばかり思っていたのに、またも日銀から発券局の部長が、油揚げをさらう鳶《とんび》みたいに天下って来たんですからねぇ、事前にもしそんな情報が耳に入っていたら、われわれは直ちに組合で問題にさせ、目にあまる日銀天下り人事をボイコットしてやったのになあ、専務はあの時、ほんとうに何も聞いておられなかったのですか」
頭取の三雲の他《ほか》に、常務一人、取締役二人が日銀から天下っていることへの憎悪《ぞうお》を剥出《むきだ》しにするように云った。綿貫は盃を置き、
「それはあの時も話したように、前日になって三雲の殿さんから、日銀の発券局部長を入れたいので、諒承《りようしよう》してほしいと頼み込まれたんだ、もちろんわしは承知しかねると突っ撥《ぱ》ねてやったが、日銀の方じゃあ、すっかり話が固めてあって、たかだか発券局の一部長の処遇に、副総裁までよろしく頼むと云っていると云われては、日銀から金を借りているわれわれとしては、どうしようもないじゃないか、このわしも、次々に日銀から天下って来る自分より齢下《としした》の頭取に仕えさせられているんだ」
ぐっと声を噛《か》み殺すように云うと、
「しかし、専務、わが行は日銀から金を借りているといったって、僅《わず》か一千億になるか、ならないかじゃないですか、それくらいの金で大きな顔をされるなら、いっそのこと、われわれ粉骨砕身、必死で働いて、叩き返してやりたいですな」
橋爪神戸支店長が、きっぱりした語調で云った。
「その通り! だいたいだな、うちが頭取を日銀から入れているといっても、月々、日銀から貰《もら》う貸金の枠《わく》は、むしろ当行より規模の小さい平和銀行や阪神銀行と、いつも同じじゃないか、何かといえば、総裁、副総裁によろしく頼んでおくと、日銀派の連中は云うけれど、私が日銀の営業部長に会って、そんな話が伝わっていたためしがないよ、そのくせ、奴《やつこ》さんたちときたら、お実家《さと》の日銀がすぐお向いにあるせいか、ちょこちょこ、よく行っているんだな、ことに外国担当の白河常務など、週のうちの三日はお向いに足を運び、半日つぶして帰って来る、一体、何の話をしているのかしらんが、そんなにお実家《さと》が恋しけりゃ、ことのついでにサラリーも、向うで半分貰って来いっていうんだ」
小島常務が、業務担当の部隊長らしい向う意気の強さで毒づくと、総務部長の長谷川も傍《かたわ》らの芸者の尻《しり》を撫《な》でながら、
「白河常務といえば、日銀の接待といっては、赤坂、新橋の料亭を、自分専用の座敷みたいに、じゃんじゃん使うので、総務部でも弱ってるんですよ」
こぼすように云った。
「へえ、そんなに使っているのかい」
湊本店営業部長が盃を止めて、聞き捨てならぬように云った。長谷川は顔をしかめ、
「店舗問題で大蔵省を相手に、日夜、頭を痛めている企画担当の角野常務の倍近くも使っているんだから、無駄金もいいところだよ、まあね、あの人は三雲頭取と同じように、お育ちがわれわれと違うんだから、新橋と赤坂しか知らないんだろうよ、神楽坂にこんないい妓《こ》がいるというのにねぇ」
芸はともかく、客の求めとあれば、気さくで大胆に振舞う神楽坂芸者を持ち上げるように云うと、
「さすがは総務部長、いいことおっしゃるわね、でも日銀出の人って、全部、そんな乙《おつ》にすましたいけすかない人ばかりなの?」
豆千代が、鳩胸を突き出すようにして聞いた。
「うむ、総じて煮えたか、饐《す》えたか解らん御殿女中みたいなのが多いな、つまり陰湿で嫉妬《しつと》深いという奴《やつ》さ、そら、専務、専務の下にいる島津融資部長なんか、その典型じゃないですか」
「そうだな、あいつはほんとうのところ、貸借対照表の右左だって、いまだに怪しいんじゃないかって、時折、次長がこぼしてるけど、やれ景気変動がどうの、国際競争力がどうのという大上段の話ばかりを長々とやって、肝腎《かんじん》の稟議書《りんぎしよ》に書いてある預金取引ぶりや担保については、全く見ていないらしい、そのくせ次長がわしの部屋へ直接、説明に来ると、やきもちをやいて、ねちねちといやがらせを云うんだそうだ」
綿貫が嘲笑《あざわら》うように云うと、小島常務は、
「融資といえば、専務、この間の融資会議で結論が持ち越されたアサヒ石鹸は、どうするつもりです?」
「その件については、実は今朝《けさ》、お殿さんと話したんだが、要はアサヒ石鹸にはこれという経営者がいない、長期的に見た場合、成長性がないから、そんなところへ融資するくらいなら、基幹産業である阪神特殊鋼へもっと貸し込むべきだというのが、殿のご意見なんだよ」
「そうすると、アサヒ石鹸を見殺しにするというわけですか、そんな馬鹿《ばか》な! アサヒ石鹸は、私も専務と一緒に、戦後の焼跡の町工場から今日の二部上場の会社にしたんじゃないですか、日銀からぽっと天下った頭取が何を云うかと云いたい!」
慷慨《こうがい》するように云うと、他の者たちも、
「全くだ! 何で鉄鋼がよくて石鹸がいかんのだ、日銀天下りの連中は、貸付先まで庶民離れのした基幹産業という格付けをせんと、おさまらんのか」
歯噛みし、座敷机を叩《たた》くように云った。そこには、大同銀行の前身である日掛けの貯蓄銀行時代から入行し、こま鼠《ねずみ》のように働き、やっと専務や常務や部長、支店長となった者たちの憤《いきどお》りと反感が籠《こ》められていた。
「それで専務、阪神特殊鋼への融資は本決まりですか、あれは輸出キャンセルによる滞貨資金の手当だとか聞いていますが、真偽のほどはどうなんです」
湊本店営業部長が、聞いた。
「そうだ、しかしお殿さんは外為《がいため》による利益率まで持ち出して、何が何でも融資する腹だ」
吐き捨てるように応《こた》えると、神戸支店長の橋爪が、
「実はその融資依頼は、阪神特殊鋼の経理担当常務から、うちの神戸支店へ出されていますが、いくら何でも、メインの阪神銀行が虫がよすぎるので、断わろうと思っていた矢先です、それをまた万俵専務は、頭取とじか取引したというわけですか――」
自分の頭越しに、トップ対トップで決められたことを不快げに云った。
「今朝のお殿さんの話では、万俵頭取にも事情を問い合せたところ、阪神銀行は地場産業に金を食われ、資金ポジションが悪化しているので、ここのところは――と頼まれたそうだが、阪神銀行は自分のところの系列会社に金を廻せないほど、そんなに資金不足をかこっているのかねぇ」
「そう云われれば、灘浜や播磨《はりま》臨海工業地帯にどんどん大企業が進出して、資金需要は高まっていますが、万俵頭取というのは、聞きしにまさる政治家であり、辣腕家《らつわんか》ですからねぇ、言葉通り信じていいか、どうか」
橋爪が警戒するような口振りで云った。
「なるほど、万俵頭取は聞きしにまさる政治家であり、辣腕家か――、今の君の言葉は心にとめておこう」
綿貫は、酔いの廻った眼をちかっと光らせ、
「さあてと、日銀野郎の話などで酒がまずくなった、おい豆千代、岸田君の送別に、大サービスのチーク.ダンスを踊ってやってくれ、わしが歌うからな」
あと十日で銀行を退職し、浅草の個人商店の重役に停年後の身柄を拾われて行く部下のために、綿貫千太郎は、大きな声を張り上げた。
三雲頭取を乗せた車が、渋谷松濤《しようとう》の邸《やしき》の前に停まり、運転手が門のベルを押すと、六十近い老婢《ろうひ》が門を開けた。
「お帰りなさいまし」
「うむ、今日はどんな風《ふう》かい」
「はい、ご気分がおよろしいそうでございます」
「そうか、それはいい」
老婢の口ぶりで、この日の娘の志保《しほ》の容態が解《わか》った。三十を過ぎて、病弱のために婚家から戻って来ている娘の様子が、九年前に妻に先だたれた三雲にとっては毎日の気懸《きがか》りであった。
古風な洋館の玄関を入り、応接室の前を通って、庭に面した娘の部屋の扉《とびら》を開けると、淡いブルーのガウンを着た志保が、ベッドの横のソファに坐《すわ》って父を迎えた。
「お父さま、お帰りなさいまし」
亡《な》き妻に似た細面の顔の中で、澄んだ眼が頬笑んだ。
「婆《ばあ》やの話では、気分がいいらしいね」
「ええ、夕方のお熱もございませんでしたのよ、それよりお父さまは少し、お疲れのご様子ね」
「いや、別にたいしたことはないんだが、今日は、万俵鉄平君が訪ねて来てねぇ」
「まあ、鉄平さんが――、それであの方《かた》のお仕事はうまく行ってらして?」
父から高炉建設のことや、鍬入式《くわいれしき》の模様などを聞いて、知っているのだった。
「それが困ったことが起って、その頼みごとだったんだ……」
三雲は曖昧《あいまい》に応えたが、志保は父の表情で察したらしく、
「あの方は、マサチューセッツ工科大学に留学していらした頃、うちへいらしてブリッジをしておいでの時でも、すぐ鉄のお話をなさり、お父さまは鉄作りの“情熱居士《こじ》”だと感心していらっしたこともありましたわね、お父さまにお出来になることなら、少しぐらい難かしくても、してさし上げたら……」
父が日銀のニューヨーク事務所の参事、志保自身はまだカレッジ時代であった頃を懐《なつ》かしむように云うと、三雲も、
「その代り、鉄平君も私のことを、アルコールが入ればすぐ若山牧水の歌を口にする“純情居士”だなどと、云い返していたね」
「ええ、そうよ、あの頃、まだお元気だったお母さまが、“情熱居士”と“純情居士”だから、うま[#「うま」に傍点]が合うのねとおっしゃっていらしたわ、それにいつだったか、あの方とお父さまとカナダへトナカイ狩りにいらしたときのこと、雌のトナカイを撃って運んでいると、雄が哀《かな》しげな声をたてて追って来たけれど、さすがに、それは撃てなかったとおっしゃってましたわ、逞《たくま》しい中に優しい心をお持ちの方ですのね」
三雲はその時の光景を思い出した。それは或《あ》る年のクリスマス.ホリデーを利用した狩猟で、見渡す限りの雪原を疾走《しつそう》する二頭のトナカイを見つけて、鉄平と同時に撃ち、雌だけを仕留め、現地で傭《やと》った人夫にそれを運び出させた時のことだった。逃げたはずの雄のトナカイが、その後を恋い慕うように追って来て、それを人夫が撃とうとすると、鉄平は、撃たれることを覚悟している奴《やつ》を撃つのは止《よ》せと制したのだった。
「そうだね、鉄平君というのは、あの精悍《せいかん》なぎらぎらした顔つきに似ぬ優しい心の持主だな、お前もそうした相手だったら――」
と云いかけ、三雲は口を噤《つぐ》んだ。志保は、戦前の法曹界を代表する学者の次男で、東京大学法学部の講師である男と見合い結婚し、一児をもうけたが、病弱が原因で離婚したのだった。志保はアメリカのカレッジを卒業して日本へ帰国し、日本の大学卒業の前年に一年休学していたから、体は丈夫でなかったが、それを承知で結婚しておきながら、結婚して二年目に女児を出産した後、右肺上葉にシューブを起し、療養生活を余儀なくされるや、夫は思いやりもなく志保をつき放したのだった。それを思うと、三雲の心は暗かった。それだけに四十八歳で、妻に先だたれ、何かと不便であったが、娘の不幸を思って、自らも独身を通して来たのだった。
「嬉《うれ》しいわ、今日は久しぶりでお父さまとお夕食をご一緒できるのですもの――」
いつもは老婢と二人きりでひっそりと食事をする志保は、透けるような白い項《うなじ》をかしげて云った。
「このところ、宴席続きだったからね、じゃあ、ちょっと着替えて来るから、待っておいで」
三雲は娘の部屋を出、廊下伝いに書斎に入った。十四、五畳ほどの部屋であったが、天井が高く、壁紙の色は褪《あ》せ、一行の頭取の書斎としては決して贅沢《ぜいたく》に整ったものではなかった。しかしよく見ると、節《ふし》一つない太い柱と梁《はり》が使われ、何十年来、拭《ふ》き磨かれて来た光沢と重みがあった。曾《かつ》ては父が使っていた書斎であるが、父は旧財閥の五井家の理事で、貴族院議員であり、母もその一族の出であったから、戦前は富裕であった。戦後の財産税で邸の半分を物納し、今は五百坪の敷地に、建坪九十坪の住まいになってしまっている。三雲は書斎机に坐って、窓の外を見た。敷地は半分になってしまっているが、庭の松と槙《まき》の樹《き》は齢毎《としごと》に年輪を増している。その年輪のように自分を顧みると、日銀へ入行して以来、秘書室、海外勤務、調査局などのいわゆるエリート.コースと呼ばれる道を步んで理事になり、戦後はじめての国債を発行するにあたって、大蔵省と金融証券業界の双方に納得の行くような国債発行の条件をまとめたことが認められ、当時の総裁からも犒《ねぎら》いの言葉をかけられ、自他ともに将来を期していたのだが、日銀人事の序列で、大同銀行の頭取に天下ることになったのだった。そして今、十数年前に日銀マンとしてニューヨークに駐在時代、たまたま親交を結んだ万俵鉄平という一人の青年の鉄に賭《か》ける熱意に動かされ、銀行家である自分が、一つの事業に賭けようとしていることを、もう一度、反省するように思い返した。それは日銀という砦《とりで》の中にいた時には到底、考えもつかない冒険であった。銀行家たるものは、失敗の危険性が一分でもあれば、踏み切らないことであった。それに反して事業家は、成功と失敗のバランスが、たとえ七対三、或いは六対四の割合でも、賭ける場合がある。そこが事業家と銀行家の基本的な相違点だが、今の三雲は、銀行家としての基本から一步、踏み出そうとしているのだった。
背後《うしろ》で、老婢の声がした。
「旦那《だんな》さま、お夕食のご用意が出来まして、お嬢さまがお待ちでございます」
「ああ、うっかり待たせてしまったな、じゃあ、着替えを手伝っておくれ」
老婢は書斎に続いている居間から結《ゆう》城紬《きつむぎ》の着替えを出し、三雲のうしろから羽織らせ、手早く帯を結んだ。それは、三雲の妻がまだ若く、娘の志保も幼なかった時から、三雲家にいる者の手馴《てな》れた仕種《しぐさ》であった。
食堂に出ると、志保も青磁色の和服を着て、父を待っていた。食卓の上には、淡いクリーム色の薔薇《ばら》が活《い》けられ、濃い香りが漂っていた。
「ほう、クリーム色の薔薇だな、志保が三歳ぐらいの時、お庭のクリーム色の薔薇を見つけて、クリーム色の匂《にお》いがすると云ったのを今も覚えているよ」
その頃から感受性の強い娘をなつかしむように云うと、給仕をしている老婢も、
「ほんとうにお嬢さまは、ご幼少の時から、色や香りに強い感覚をお持ちでした」
と相槌《あいづち》を打ちながら、皿にスープをつぎ分け、
「はい、お嬢さまのお好きなオニオン.スープ、お体が温まって栄養がございますが、猫舌《ねこじた》でいらっしゃるから、お気をつけて――」
まるで母親のように一つ一つかまった。
「婆やったら、いつまでもそんな風に云わないで、三十二歳にもなっているのに、人さまがいらしたら恥ずかしいわ、ねえ、お父さま」
「いいじゃないか、内輪だから――、こうして婆やがお前の面倒をみてくれているから、私だって安心しておれるんじゃないか」
と云い、スプーンを取って、スープを呑《の》みかけた時、薔薇の花弁《はなびら》が、三雲のスープ皿に落ちた。給仕をしていた老婢の袖が、開き過ぎた一茎に触れたのだった。志保はすぐ手を伸ばして、その一茎を抜き取ろうとした途端、
「あっ!」
小さく声を上げた。指に棘《とげ》が刺さり、白い指先に血が滲《にじ》んだ。三雲はすぐ白いナプキンを娘の指に当てながら、病弱な娘の手が、薔薇の棘にさえ傷つくのかと思うと、いとおしさが増した。
「お父さま、もういいの、ご免なさい、私って、こんな風に不器用なものだから、何かにつけて、いつも叱《しか》られてばかりいましたの」
離婚した婚家先のことを云った。
「いいよ、こんなこと不器用でも、少しも恥じる必要はないよ、さあ、棘を抜いてあげよう」
三雲は娘の血を拭《ぬぐ》い、指先に刺さった棘を抜き取ってやりながら、万俵父子のことを思いうかべた。いくら企業家同士に父子の関係はないとはいえ、あまりにも血が通わなさすぎる万俵父子の在り方を思うと、或《ある》いは、何か他人には測り知ることの出来ない骨肉の縺《もつ》れがあり、それが企業に絡《から》んでいるのではないかという疑念が、尾を曳《ひ》いた。
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四 章
白い帆を一杯に張ったヨットが、春霞《はるがすみ》にかすむ瀬戸内海を、ゆっくり家島《いえしま》群島に向って帆走《セーリング》していた。万俵《まんぴよう》大介の持船『ヴァイカウンツ.ドーター号』(子爵《ししやく》令嬢号)で、船体をペンキ塗りにせず、渋いニス塗りにした艇の長さ三十八フィートの大型ヨットは、その船名の如《ごと》く、優美で気品に満ちていた。
万俵大介はサン.グラスをかけ、スポーツ.シャツからスラックス、ヨット.シューズに至るまで、白ずくめの装いで、甲板のデッキ.チェアに寝そべりながら、こんなやすらいだ気持で、土曜日の午後を寛《くつろ》げるのは、何カ月ぶりだろうかと思った。傍《かたわ》らの銀平の方を見ると、銀平も白のポロ.シャツと白のバーミュダ.ショーツで、ながながと寝そべり、今年はじめての帆走《セーリング》を楽しんでいる。
姫路の的形《まとがた》ヨット.ハーバーを出て一時間半あまり、おだやかな風を受けて西南西の航路をとりながら、クルーとして乗り込んだ神戸商船大学の学生に舵輪《だりん》を任せて、春の海を帆走して行くと、やがて前方に淡い緑の島影が霞を透かして見えはじめた。播磨灘《はりまなだ》の沖合七、八キロに列《つら》なる家島群島であった。
「見えてきたな、やっと――」
大介が去年の夏以来の家島群島を懐《なつ》かしそうな眼《まな》ざしで見遣《みや》ると、銀平もデッキ.チェアから体を起し、
「去年の十月、播磨灘を直撃した颱風《たいふう》で、このあたりはずい分、手ひどくやられたようですが、うちの島は大丈夫ですかね」
懸念《けねん》するように云《い》った。家島群島の南端近くに、戦前、先代の万俵敬介が買い取った小さな無人島があり、瀬戸内海の帆走《セーリング》を楽しむ時は、島の漁民たちが『万俵島』と呼んでいるその無人島を基地にしているのだった。
「さあ、どうかな、管理を任せている向いの松島の漁師の便りでは、島へ上る桟橋《さんばし》が流されたので、颱風シーズンが過ぎたらつくっておきますということだったが――」
「あ、また石船だ、あんなのに接触されては、このヴァイカウンツ.ドーター号が可哀《かわい》そうだから、島まで僕が舵輪をとります」
銀平は、家島群島から採石した石を運ぶ石船をみると、敏捷《びんしよう》にたち上り、甲板後部に廻った。兄の鉄平が学生時代から猟が好きで、祖父の敬介に随《つ》いて、丹波の篠山《ささやま》をよく廻ったように、銀平は父の大介が持っていたヨットに関心を持ち、慶応に入ると、ヨット部に入って練習をつむかたわら、九州や奄美《あまみ》大島へ大介と一緒に遠出していた。そして大学を卒業して三年目に、大介に頼んで、それまでの古いヨットを現在のものに買い換えて貰《もら》ったのだった。
しかし、もともとヴァイカウンツ.ドーター号は神戸のイギリス領事だった人の持船で、任務を終えて帰国するに当り、将来とも絶対、ペンキ塗りにしないことを条件に譲り受けたのだった。海水に対してはニスよりペンキの方が遥《はる》かに長持ちしたから、ほとんどのヨットはペンキ塗りで、内外装ともにニス塗りというのは、何にもまさる最高の贅沢《ぜいたく》であった。当時、さすがの大介も逡巡《しゆんじゆん》すると、銀平は「お父さん、目をつぶって下さいよ」と強引に買わせ、船名も子爵令嬢、ヴァイカウンツ.ドーター号と勝手に命名してしまったのだった。それは元嵯峨《さが》子爵令嬢であった母の寧子《やすこ》のことであった。大介は相子にあてつけるようなこの船名に反対したが、銀平はどうしても聞き入れず、ニス色の船尾に自らの手で『VISCOUNT'S DAUGHTER』と記したのだった。
銀平のこの時の強引さは、後にも先にもただ一回のものであった。大学を卒業して大介が阪神銀行へ入行するように云った時も、結婚相手を選ぶ時も、青白い無表情な顔で、「お父さんのよろしいように」と、意思をもたない人間のように振舞える男が、どうしてこのヨットにだけは、ああも固執したのか、ヨットを走らせるたびに大介は不思議に思ったが、次男の銀平にねだられて買い与えてやったという気持は、父親として決して悪いものではなかった。それは長男の鉄平に一度も感じたことのない情愛であった。
風を受けて、帆を右舷《うげん》にひらきながら、ヴァイカウンツ.ドーター号は、家島群島の中で、最も大きな家島本島《ほんじま》と男鹿島《たんがじま》の間を抜け、さらに松島を目指して南下して行った。左右の島々には、潮風を防ぐために周囲に黒土塀《どべい》をめぐらせ、低い屋根の上に石をのせた家々がひっそりと並んで、鄙《ひな》びた漁村の風景が点々と見えたが、やがて右舷前方に、松島が望まれ、その手前に現われた小島が、万俵家所有の無人島であった。幅〇.五キロ、長さ一キロの大きさで、中程で少しつぼまり、偶然にも米俵のような形をしている。
大介は、デッキ.チェアからたち上ると、ヨットを島の湾内へ誘導するために、ヨット.マンのマナーを守って、艇長帽を冠《かぶ》り、舳先《へさき》に立った。勝手知った自分の持島《もちじま》であっても、岩の多い海底はよほど注意してかからなければ、危険であった。海底の岩を注意しつつ、大介は風を考慮して東へ入口をひらいた湾にヨットを入れる指示を与えた。銀平の巧みな舵輪捌《さば》きで、ヨットがやや右傾しながら湾に入ると、
「帆を下ろせ!」
艇長らしく大介が命じた。銀平と学生のクルーは、スループの一本マストの前帆《ジブ.セール》をまず下ろし、次いでメイン.セールを下ろして、ブームにシートをくくりつけた。そしてスロー.エンジンで風のない湾内へさらに進み、錨《アンカー》を下ろした。湾内の静寂を破る水音と、飛沫《しぶき》が大きく上ったが、すぐもとの静けさに包まれた。
ヴァイカウンツ.ドーター号が、繋留《けいりゆう》されると、大介は自ら下の船室《キヤビン》のバーから木桶《きおけ》のような酒器に入ったポルトガル産の地酒を持って来た。
「さあ、今年はじめての帆走を祝って、乾杯だ」
上機嫌な声で、銀平と学生クルーに酒を注《つ》ぎ、海の方へ向って高々とグラスを上げた。
「乾杯!」
銀平も、平素と全く異なる冴《さ》え冴《ざ》えとした表情で、大介に和した。乾杯がすむと、学生クルーは、積んでいた伝馬船《テンダー》を降ろして、島の周辺の点検に出かけて行き、甲板に残った大介と銀平は、キャビアとアスパラガスを肴《さかな》に、グラスをかたむけた。
「どうやら、島は湾の一部が崩れたぐらいで、思っていたより被害は少ないですね、それにしても、お祖父《じい》さんという人はやはり変った人だったんですね、今でこそ無人島を買うなんて、そう珍しいことではなくなりましたが、戦前に買うなんて――」
銀平が、若葉の噎《む》せ返るような島の緑をめでるように云うと、
「うむ、その頃は皆、粋狂だといって、驚いたものだよ、しかしお祖父さんは自分の所有する領地の拡大に並はずれた欲望と執着を持ち、この島もその一つのあらわれというわけだ」
敬介の代の地所拡大が、今日の万俵家の富裕な富を生み、企業の繁栄を齎《もたら》しているのだった。
再び沈黙が続き、大介と銀平は思い思いの方向に眼を遣りながら、グラスを重ねた。あたたかい陽だまりの下で、船縁《ふなべり》をぴたぴたと叩《たた》く波音が、快く二人を酔わせる。
「銀平、お前は不思議な奴《やつ》だな」
グラスの手をとめ、大介が云った。海中の小魚の群れに視線を向けていた銀平は、
「藪《やぶ》から棒に、僕のどこが変ですか」
「ヨットに乗ると、別人のように表情がなごみ、そのくせ凜々《りり》しいのだ、若い頃の私そっくりだ」
まじまじと銀平を見た。
「今日はどうも妙ですね、ポルトガルのこの地酒に酔われたのですか」
「酔ってなどいないよ、だが、銀平も、今年は一児の父親になるのだから、日頃の行動をもう少し考えなくちゃ、いけないよ」
万樹子《まきこ》の妊娠のことを口にすると、銀平の顔に歪《いびつ》な笑いがうかんだ。
「――父親ですか、そんな役廻りは願い下げだって、万樹子には云ってあるんですがねぇ」
万樹子からはじめて妊娠のことを告げられた時、子供はもちたくないから、堕《おろ》すように云ったことをほのめかすように云うと、