「高須さま、遅いお茶の時間になってしまいましたけれど、私の手製のクッキーを召し上れ」
浮き浮きとした口調で云った。
「まあ、奥さまのように随筆などのご執筆でお忙しい方が、クッキーをお作り遊ばすなんて――」
パリ生活の長い女性として、新聞や婦人雑誌に海外随筆や、エチケット集などを執筆していることをさすと、
「あちらでは、お客さまをおもてなしするクッキーが上手に焼けなければ、一人前の主婦として通りませんのよ、今、さしあげますから、少々、お待ち遊ばして――」
と云うなり、キッチンへたって行った。時計を見ると、もう五時を指している。相子は見合いの日取りをきめて、早々に席をたちたかったが、夫人の自慢のクッキーを賞味せずに帰るわけには行かなかった。待たされている間、パート.タイムのメイドが持って来た夕刊を手に取って開くと、一面のトップに永田大蔵大臣の経済政策の転換を報じる記事が、大きく載っている。さらりとそれに眼を通した後、頁《ページ》を繰ると、婦人欄には、小泉夫人の“フランス人のエスプリ”という随筆が載っている。相変らず、気取りに気取った文章で、夫人が身につけているパリ.モードそのもののようであった。
「あら、すっかりお待たせしちゃって、ご免遊ばせ」
銀の器に盛ったクッキーが運ばれ、紅茶が入れられた。
「只今、ちょうど奥さまの随筆を読ませて戴いておりましたの、いつもながら、ご博学ぶりに感じ入りますわ」
感嘆するように云うと、
「私、クッキーを焼くのと同じような楽しみで、書いているだけのことでございますのよ」
とはいうものの、小泉夫人の顔に得意の表情がうかぶのを見て取りながら、
「お見合いのお日取りは、五月の二十日過ぎでいかがでしょう、京都の新緑が美しくなる頃でございますから――」
相子は、手早く正式の見合いの日取りをきめた。
小泉夫人のマンションを出ると、近くのグリルで食事をしたあと、赤坂のナイト.クラブへ足を向けた。以前、美馬と行ったことのある外人客の多いクラブで、今日もそこで美馬と落ち合う約束になっているのだった。
美馬の名前を告げると、ボーイが奥まったボックスへ案内した。先に来ていた美馬は、相子の姿を見ると、たち上って迎えた。
「どうだった、狆夫人のご機嫌は?」
「とてもよ、お見合いの場所は嵯峨の吉兆、日取りは今月の二十日過ぎで、すべてこちらのペースで決まったわ」
と云い、アンサンブルの上衣《うわぎ》を脱ぐと、下はネック.ラインを広くくったスリーブレスのワンピースで、豊かな胸が覗《のぞ》いた。美馬は娯《たの》しむような視線を相子の胸に当て、
「だが、肝腎《かんじん》の二子ちゃんは、昨夜もまた、一子に電話をかけて来て、一也君との縁談は気がすすまないから、僕にもその旨《むね》を伝えてほしいと云って来ているんだがねぇ」
と云うと、相子は運ばれて来たカクテル.グラスに口をつけ、
「それなら、なおのこと、一々、当人の意向など聞いていては閨閥《けいばつ》結婚など成りたちませんわ、万俵と私とで検討して、それで意向が定《き》まれば、どんどん進めてしまうの、それで結構、銀平さんと万樹子さんの場合だってうまく行って、万樹子さんは、今、妊娠五カ月なんですのよ」
こともなげに云い、
「それより、あなたと私とのことで、万俵がおかんむりなのよ」
「へえぇ、僕とあなたのことで? ここで会ってることが解《わか》ったのかな」
「そうじゃなくて、四月の初め、二人で上野の文化会館へオーケストラを聴きに参りましたでしょう、あれ、この間、阪神銀行へ銀行検査にいらした森永さんとかおっしゃる主任検査官の方が、ご覧になっていて、万俵に、美馬さんの奥さまはお洋服がよくお似合いになる日本人ばなれした方ですねと、褒めて下すったものだから、一子さんではなくて、私だってことが解ってしまったの」
「それで、うまく云ってくれたろうね」
「あたり前よ、あの時も、二子さんの縁談で、小泉夫人をご招待したのが、あちらさまのご都合で、急にお見えにならなかったと、うまく云い繕っておきましたわ」
「だが、京都の見合いの席で、嘘《うそ》だと解ってしまわないかな」
美馬が気懸《きがか》りそうに云うと、
「私にお任せ下さいな、私が仲に入っていますから、そんな話題にはしないわ、それより、あの頭取面接のあった日、万俵ったら、とても不機嫌だったけど、何か心配なことでもありそうなの」
相子が問い返すと、美馬の顔に嘲笑《ちようしよう》するような笑いがうかんだ。
「ほう、万俵頭取にして、今もって大蔵省の銀行検査には、緊張なさるというわけかね、そういえば、目下、銀行検査の講評が書かれている最中だな」
と云い、美馬はハイボールのグラスを置くと、
「さあ、僕たちも踊ろうじゃないか」
相子の手を取って、フロアに出た。バンドに合わせて、相子は美馬の腕に抱かれ、踊りの輪の中に入って行った。
「そんなにお舅《とう》さんの気に障《さわ》っているのなら、いっそ……」
美馬は、相子の豊満な体を締めつけながら云った。相子は応《こた》えず、黙って美馬に体をゆだねるようにぴったりと体を寄せた。バンドはさらに官能的なリズムになり、天井のミラー.ボールの灯《あか》りが暗くなった。
不意に美馬の手に力が入り、ぐっと相子の体を引き寄せ、唇を捺《お》した。湿った唇が、相子の唇を吸い、両手が腰に廻った。大胆で長いベーゼだった。
「どう、よかった……」
耳もとで美馬が囁《ささや》くと、
「でも、万俵の方がいいわ――」
相子は、美馬の酔いを逆撫《さかな》でるように云った。
芥川常務はトイレットに入ると、大きな生《なま》欠伸《あくび》をした。つい今しがたまで、このホテルオークラの奥まった一室で、朝食会をかねた五行連合の準備委員会が行なわれ、目だたぬように一人一人、別々に出て行ったばかりである。
二カ月前に第一回の準備委員会を持って、既に今朝《けさ》の会合で三回目であった。五行の提携の話合いは、給与の自動振込から、コンピューターの共同利用、預金の相互受払い、そして協調融資の問題に至るまで、いろいろ論議に上ったが、結局、五行の一致をみたのは、いまだに給与の自動振込のみで、中だるみの状態になっていた。
芥川は、もう一度、今度は声に出して思い切り大きな欠伸をし、ズボンの前を開きかけると、
「芥川さん――」
誰もいないと思っていた広いトイレットの奥から、親しみを籠《こ》めて自分を呼ぶ声が響いた。芥川は思わず尿道の縮まる思いで周囲を見廻すと、大同銀行の綿貫千太郎専務が、奥の便器の前にたっていた。芥川が、ばつ悪そうにまごつくと、綿貫専務は便器の水も流さず、音をたてながら、用を足し、
「全く、こんな朝っぱらから堅苦しい会合など、芯《しん》がつかれますねぇ」
芥川の欠伸に同情を示すように云った。
「どうもこりゃあ、とんだところを見られてしまいましたね、実は昨夜は悪友につかまって、つい遅くまで飲み步いて――」
綿貫のように平気で音をたてて用を足す真似《まね》はできなかったから、芥川は水洗の音を高くして、弁解するように話すと、
「いや、それでいいんですよ、朝食会など、どうせ、アメリカの真似ごとでしょうが、日本人にはもう一つ、ぴたっと来ませんな、第一、意思の疎通《そつう》を欠く」
酒の入らない会合を不満げに云い、
「さっきの協調融資の問題だって、五行共通でもっている主要取引企業をぬき出して、この際、融資比率をならしにしようということだが、長年、培《つちか》った取引先との人間関係を無視して、簡単に比率を上げたり下げたりはできませんよ」
芥川がもう終っているのに、なお音をたてて放尿し、喋《しやべ》った。コンピューターの共同利用や新しい業務提携の話となると、だんまりをきめ込むくせに、担当の融資のこととなると、途端に饒舌《じようぜつ》になって論議をかきまわす綿貫に、芥川はうんざりさせられていたから、
「まあ、おっしゃるのもごもっともですが、五行連合の最大の狙いは、上位四行に対抗し得る強力な資金供給力を持つということにあるのですから、最初は困難な問題が出て参りましょうが、千里の道も一步からと申しますし――」
やんわりかわして、先に洗面室の方へ戻った。ようやく用を足し終って、鏡の前に来た綿貫は、
「ところで、私の方もお手伝いさせて戴《いただ》いている阪神特殊鋼のことですがね」
入口の方を窺《うかが》いながら、声を低めた。
「ああ、あそこは、ほんとうに御行《おんこう》のお世話になりっぱなしです」
「いや、それはよろしいんですが、最近、メインのおたくをさしおいて、当行が少々、出すぎた恰好《かつこう》になっていやしないかと、気になりましてねぇ、阪神特殊鋼の実質上の経営者である万俵鉄平専務は、御行の万俵頭取のご長男だけに、頭取がご気分を害しておられませんか」
鏡に映っている芥川の顔をのぞき込むようにした。芥川は綿貫の言葉の意味がすぐには解らず、返答に窮したが、綿貫の語調が、奥歯にもののはさまった云い方であることに気付いた。
「そんな、気分を害するなどとは――、大同銀行さんと違って、当行は何分、慢性的な資金不足をかこっておりますので、直系の企業の面倒も充分みられず、お恥ずかしい限りですが、何かお気懸りなことでも?」
芥川も、鏡の中の綿貫の赭《あか》ら顔を見返して、次の言葉を引き出しにかかった。
「いや、ご気分を悪くしておられないのなら、万俵頭取は、阪神特殊鋼のメイン.バンクをお退《ひ》きになる考えでも、あるいはお持ちだというわけですかねぇ」
「さあ、私は東京事務所の担当で、融資の方面はくらいものですから、そのあたりの万俵の意向なり、融資部の方針となると、とんと見当がつきかねますが、おたくとうちとは、もうそんなところまで行っているのですか」
芥川にとっては初耳のことであったから、逆に驚くように聞き返すと、
「うちの三雲の、阪神特殊鋼さんに対する評価は、えらく大きいものですからねぇ」
綿貫はそう云い、鼻翼をふくらませて曖昧《あいまい》に笑ったが、その笑いにこだわりがあるのを芥川は見逃さず、一步、踏み込むように聞きかけると、トイレットの扉《ドア》が開いて、派手な服装をした芸能人風の男が入って来た。
「どうも、こんな尾籠《びろう》なところで長話をしてしまいましたな、では、お先に――」
綿貫は、そそくさとしたもの腰で出て行った。芥川も、もう一度、鏡に向ってネクタイを直し、トイレットを出たが、何かを考えているらしい綿貫と、一度さしでゆっくり話をしてみる必要を感じた。
ホテルオークラを出ると、芥川は待たせておいた車で、霞《かすみ》が関《せき》の大蔵省へ向った。
大蔵省の正面アーチをくぐり、玄関で車を降り、まっすぐ四階の銀行局検査部へ足を運んだ。
先月の四月十日から四月三十日まで三週間に亘《わた》って、銀行検査を受け、口頭での『講評』は、検査終了の最終日に、役員一同を集めて伝達されていたが、正式文書の形で頭取宛《あて》に送付される『講評』は、検査官が大蔵省に戻って、合議の上で書かれることになっている。口頭の講評と文書の講評との間に、相当な開きがあるというのが常識である。それだけに銀行側は、その一カ月程の間に、口頭で厳しく指摘された内容をそのまま正式文書の講評にされ、マル秘資料として検査部に残されぬよう、全力を尽すのだが、それが銀行検査後の忍者の任務であった。
阪神銀行東京事務所の黒井総務課長や伊佐早五郎が、本店検査を行なった六人の検査官のところへ、目だたぬように、入れ替りたち替り“ほぐし”に日参を続けたが、あと一息というところになると、やはり東京事務所長であり、忍者部隊長である芥川自身が、直接、出向かねばならなかった。
検査部の部屋へ入ると、芥川は素早く室内にいる検査官と来客の顔ぶれを見廻した。ファイル.ボックスや書類を積んだ本棚がぎっしり並んでいる二十坪程の部屋には、銀行検査の企画的な仕事を主にする管理課と、実戦部隊である審査課の係官が十数人いる。奥まった管理課の課長補佐席は空席になっており、主任検査官を勤めた森永俊次の姿は見えなかったが、審査課の席に、眼だけをぎょろりと光らせている海坊主《ぼうず》のような法華検査官の姿が見えた。机の前に、中京銀行の総務課長を坐《すわ》らせて、人を食ったような横柄《おうへい》さでふんぞり返っていたが、芥川と視線が合うと、微妙な笑いを眼の端に滲《にじ》ませた。阪神銀行の検査で、永田大蔵大臣への政治献金ルートを嗅《か》ぎつけられた時、その懐柔策に有馬温泉へ誘い出して、水揚げ前のような若い妓《こ》をあてがい、その後も検査期間中、有馬へ連れ出して、馴染《なじ》みを重ねさせ、“鬼の法華”を“仏の法華”に骨抜きしてしまったのだった。しかし、芥川はそんな気振《けぶ》りはちらとも見せず、慇懃《いんぎん》な目礼をして法華の机の前を通りすぎかけると、中京銀行の総務課長は、芥川に姿を見られるのがまずい用件だったのか、蒼惶《そうこう》と席をたち、帰って行った。芥川は法華の机の横にたち、もう一度、鄭重《ていちよう》に一礼し、低い声で、
「どんな様子です、私どもの貸金内容は?」
不良貸金として分類された総額に、手ごころを加えて貰《もら》えたかどうかを聞いた。
「百八十億にしておいたよ」
実際は二百億程あったのを、百八十億に止《とど》めてくれたのだった。
「それで、えんま帳の方は?」
役員面接の採点のことであったが、これは銀行にも報《しら》せず、大蔵省銀行局検査部にのみ保存しておく極秘のものであった。それだけに役員たる者の一番、知りたいところであった。
「あんたとボスは、森永主任検査官のおぼえがめでたかったらしいよ」
海坊主のような顔を、にやりとさせて洩《も》らした。
「何かとご配慮戴きまして――、近々、関西へお越しの節は、是非、ご一報下さい、あの妓が忘れられんと云っておりましてねぇ」
事実は、ぞっとするほど嫌だと云っているのを札束で云いきかせておきながら、気を持たせるように云うと、法華は相好を崩しかけたが、急に顎《あご》でしゃくるような横柄な顔付で、
「さあ、あとはあちらだよ――」
と云い、管理課の課長補佐席の方を眼で指した。森永が席へ戻って来たのだった。芥川は足早に、その方へ步み寄り、
「どうも、その節は何かと行き届きませず、失礼申し上げました」
と挨拶《あいさつ》すると、森永課長補佐は俊敏な眼《まな》ざしを上げ、
「これはどうも――、私たちの方こそ、お手数をかけました」
検査期間中、政治的に妥協すべきところは妥協するが、それ以外、銀行側につけ入る隙《すき》を一分も見せずに通したのは、さすがに将来を約束されているエリート官僚であった。芥川は机の前に坐り、
「その節、口頭でご指摘を受けました諸点の中で、是非とも当行の説明をお聞き願いたい点がございまして――」
と切り出した。阪神銀行の口頭での講評は、『経営効率の面でみるべき点はあるが、預金吸収の面で、債務者預金の步積《ぶづ》み両建《りようだて》的な伸びが顕著であり過ぎ、今後、資金ポジションの継続的な安定を図るため、個人預金の吸収に一層の努力を要する』というのが、その大要であった。阪神銀行が県下に一行しかない都市銀行である立場を利用し、地元企業に対して步積み両建がきつ過ぎるという講評は、合併の時、相手行の取引先に“えげつない銀行”として毛嫌いされる因《もと》であるから、阪神銀行としては、何としても手加減して貰いたい点であった。芥川は、
「ご指摘の点はごもっともで、即刻、改善に鋭意努力するつもりですが、正式文書によって講評されますことは、当行にとってまことに不名誉なことでございますので、何とかその辺のところをご勘案願いたいのですが――」
低姿勢で頼み込むと、
「困りますね、事実を正式文書にするのが主任検査を勤めた私の役目ですからね」
三十五歳のエリート官僚の尊大さがあった。芥川は顔を逆撫でされるような思いをしたが、
「二年後の検査の時には、今回のご指摘に十二分にお応えできる自信がありますので、ここのところは一つ――」
さらに拝み倒すように頭を下げた。森永は視線を逸《そ》らさず、平然と芥川のそうした様子を見詰め、
「では、御行《おんこう》の步積み両建の整備についての改善策を、早急《さつきゆう》に書面で提出して下さい、正式文書に記述するか否《いな》かは、それを拝見した上で考えさせて戴きましょう」
と云った。芥川はしめたと、思った。阪神銀行から提出した書面を見た上で考えるということは、ちゃんとした書面さえ提出すれば、正式文書の講評は加減してもいいという意味であった。そしてそれは、大蔵省の主流中の主流である主計局次長の美馬中の存在を考慮した森永の、官僚的な巧《うま》い返答でもあった。
「ご配慮有難うございます、では早速、具体案を書面でもって提出申し上げます」
芥川はもう一度、深々と頭を下げ、席をたちながら、今朝《けさ》から上京している万俵頭取に報告する最上のニュースであると思った。
阪神銀行東京支店の頭取室で、芥川は万俵頭取に、森永課長補佐とのやり取りを詳細に報告した。万俵は整髪したばかりらしく、いつもよりさらに端正に見える表情を動かさず、黙って聞いていたが、聞き終ると、
「ご苦労だった、じゃあ荒武常務に命じて、大蔵省《モフ》の喜びそうな書面を作らせ給《たま》え」
葉巻をくゆらせながら云った。
「はあ、早急にその旨《むね》、連絡致します」
芥川が慌《あわただ》しく連絡にたちかけると、
「何も急ぐことはないよ、どうせ形式的なことだろうから、講評が書き終えられた頃に提出した方が、向うの手間がはぶけていいだろう」
こともなげに云い、
「ところで、今朝の五行連合はどうだったかね、そろそろ協調融資の事項が懸案になる頃だろう」
「それなんですが、昨日《きのう》、永田大蔵大臣の金融引締め政策が発表され、近々、日銀の公定步合の引上げも行なわれる見込みですから、資金の配分は効率的にしなければいけないというのに、各行の頭の中は、いずれ金融が緩んだ時のことを考えて、預金がだぶつき、貸付先に困るのが不安なのか、そう簡単に融資を引き揚げられないの、従来からの人間関係がどうのと、例によって一向、話がまとまりません」
芥川は、ほとほと手を焼くように会合の模様を説明した。
「じゃあ、会合の雰囲気《ふんいき》がだれないようこの辺で銀行局の井床《いどこ》銀行課長や久米総務課長あたりを招《よ》んで、ゴルフ大会でもやり、ともかく当行がつまみ食い出来る相手を探し出すまで、長引かせることだ」
「それは考えているのですが、夜の宴会やゴルフで五行の専務や常務が一堂に会し、さらに銀行局の役人も列席となりますと、目だって、他行にことが露見しやしませんか」
「それもそうだな――」
万俵は、ぷかりと葉巻をくゆらせながら、窓外へ眼を向けた。馬場先濠《ぼり》に面した五階の頭取室からは皇居の二重橋が見え、さらに向うに新宮殿の屋根が望まれた。しかし、一度《ひとたび》、視線を金融街に転じると、建ち並ぶ建物こそ荘重であり、或《ある》いは近代的に洗練されているが、そこでは眼に見えない各行の凄《すさま》じい銀行戦争が火を噴いている。
「で、本題以外で何か変ったことは、今日はなかったかね」
「とりたてて今日は別に――、そうそう、会合のあと、大同の綿貫専務とトイレットで顔を合わせ、阪神銀行さんは、阪神特殊鋼のメインを退《ひ》くお考えでもおありですかと、いやにしつこく聞かれました」
「それで、君はどう答えたのかね」
と聞き返しながら、万俵は、特殊鋼の不況で急激に経営が悪化している阪神特殊鋼のことを考えると、市況の見通しも出来ずに高炉建設に突っ走った鉄平の甘さが、今さらのように腹だたしかった。
「ところが私は、まさか大同銀行が当行とならぶほど融資率がせり上っているとは知りませんでしたので、適当に言葉を濁しておきましたが、ほんとうにそうなんですか」
芥川は、やや信じられぬ表情で聞いた。
「まあ、そんなところだ、三雲頭取が、鉄平にえらく肩入れしてくれているからね」
万俵は、鉄平への複雑に屈折した感情を抑えて応《こた》えた。
「そういえば、綿貫専務もそんな風なことを云っていました、それにしても、当行が阪神特殊鋼のメインをおりるつもりがあるかなどとは、誇大妄想《もうそう》もいいところで、あんな手合ばかりでは、日銀育ちの三雲頭取が、いい加減、いや気がさしてノイローゼになるというのも無理からぬ話ですね」
「ほう、三雲頭取がノイローゼ? 日銀理事から天下って一年経《た》ったばかりというのに、またえらく、たおやかな絹のハンカチーフなんだな」
三雲のひ弱さを揶揄《やゆ》するように云った。
「三雲頭取も、あと二、三年たてば、競争劇甚《げきじん》の市中銀行の頭取としての抵抗力がつくでしょうが、天下って一年目ぐらいの時が一番、くたびれ果てて、脆《もろ》くなる時期なんでしょうねぇ」
「なるほど、そしてそのあと、絹の雑巾《ぞうきん》になるわけか」
万俵は、芥川の話を興味深げに聞き、
「さっきの綿貫専務の話だがね、彼自身は、阪神特殊鋼に対する融資をどう考えている様子なのかね」
「さあ、深く話し合ったわけではありませんから、確かなことは解《わか》りませんが、どうもあの遠廻しな、奥歯にものの挟《はさ》まったようなものの云い方からしますと、あまり快からず思っているのではないでしょうか、そしてメイン.バンクを退く考えがあるかと聞いたのも、今にして思えば、それほど重荷になる要素が阪神特殊鋼にあるのではないか、それなら今のうちに自分のところも逃げを打とうという思惑があってのことかもしれません」
芥川は、トイレットでたち話しした綿貫の顔と言葉を思い返すように云った。
「もし、その綿貫専務が、阪神特殊鋼に対する融資を反対した場合、三雲頭取との力関係はどうなのかね」
「そりゃあ、いくらくたぶれた絹のハンカチーフとはいえ、背後に日銀がついていますし、都市銀行の頭取としての見識という点ではかないっこありませんから、貯蓄銀行時代からの主《ぬし》のような綿貫専務といえども、正面きって反対は出来ないでしょう、しかし、綿貫専務とは、一度さしで、ゆっくり話してみようと思っていますが、いかがでしょう」
縁なし眼鏡をきらりと光らせて、万俵の意向を聞いた。
「そうだな、君に任せよう」
どちらでもいい口振りで応えると、芥川はやや拍子抜けしたような表情で、頭取室を退《さが》って行った。
万俵は独りになると、葉巻を灰皿に置き、回転椅子《いす》からたち上って、背後《うしろ》の書棚の中から、『日本紳士録』を取り出した。そして〔ワ〕の部分の頁《ページ》を繰って、綿貫の氏名を眼で追った。三人目の綿貫のところで、万俵の眼がぴたりと止まった。
綿貫千太郎《わたぬきせんたろう》 大同銀行代表取締役専務
妻 まさ 明40110生、岡芳蔵次女
長男百太郎 昭14916生、早大卒、建設省勤務
同妻 操 昭1686生、アサヒ石鹸《せつけん》社長筒井義正次女、日本女子大卒
次女淑子 昭22416生、学習院女子短大卒
明治四十二年二月三日仙台に生まる、仙台高商卒、昭和六年関東貯蓄銀行入行、昭和三十年大同銀行取締役融資部長、同三十六年取締役常務、同四十年取締役専務に就任、現在に至る
〔住所〕東京都大田区千鳥四丁目
万俵は、頭に刻み込むように二度、その項を読み返した。
三雲はさっきから、服装、話しぶり、ものの見方まで、すべて自分とあまりにもかけ離れた専務の綿貫千太郎に、生理的な厭悪《えんお》感を覚えながら対話していた。綿貫の方は、そんな三雲の気持などいささかも気付かず、大きな赭ら顔をさらに赤らませて云った。
「頭取、くどいようですが、先日来、お話ししておりますアサヒ石鹸への五千万円の融資は決裁させて戴《いただ》きますから、ご諒承《りようしよう》下さいよ、アサヒ石鹸は、当行が都市銀行になる前から付合いのあった因縁浅からぬ取引先で、一介の町工場にすぎなかった石鹸工場を、今日の資本金二十億、従業員二千人の二部上場の会社に成長させるには、そりゃあいろいろ苦労がありましてねぇ、ですから、ここのところはひとつ、融資担当の専務である私に任せておいて下さい」
言葉は丁寧であったが、開き直るような語調があった。三雲は感情を抑え、
「アサヒ石鹸と当行との長年の付合いは、充分、承知しています、それなればこそ、私もここ一年余、アサヒ石鹸の業績回復を見守って来たのだが、冷静に考えて、将来たち直るめど[#「めど」に傍点]もないところへ、みすみす赤字資金の一部と解っている融資を諒承することは出来ない」
「現在の業績不振はともかく、将来、たち直るめど[#「めど」に傍点]もないというのは、失礼ながら何をもっておっしゃるのでしょうか、アサヒ石鹸は目下、高年齢層の人員整理による合理化を進める一方、男性化粧品の分野へ進出して、経営の多角化をはかるべく体質改善に取り組んでおるではございませんか」
「しかし、石鹸、洗剤業界には大手の石油化学会社がどんどん進出し、加えて世界最大の洗剤メーカーであるアメリカのP&G社の日本上陸も間近い折から、いかに業界を代表する老舗《しにせ》メーカーとはいえ、同族会社で、大手資本や外資にたち向える優れた近代的感覚をもつ経営者もいないアサヒ石鹸は、長期的にみた場合、将来性を期待出来ないという懸念《けねん》が大いにありますね」
と云うと、綿貫千太郎は唇を歪《ゆが》めた。
「その優れた近代感覚を持つ経営者というのは、どういう意味で? まさか、前社長が丁稚《でつち》からの叩《たた》き上げ、現社長も高商出という学歴を指しておられるわけではございませんでしょうねぇ」
綿貫自身、仙台高商出で、三雲が東大法学部出身であることを含むように云った。
「むろん、学歴などを云々《うんぬん》しているのじゃないのです、アサヒ石鹸という暖簾《のれん》にだけ頼り、近代的な経営精神が乏しいということを問題にしているのですよ」
「しかし、頭取がえらく強気で貸し込んでおられる阪神特殊鋼には、万俵鉄平専務という、東大工学部出身で、マサチューセッツ工科大学にまで留学された近代経営者がおられながら、長年の取引先であるアメリカン.ベアリング社から一方的にキャンセルされ、その時の苦しまぎれのダンピングが、特殊鋼業界の不況ムードに火を点《つ》けて、今や高炉建設さえ危ぶまれるような先行《さきゆき》の暗さだというではございませんか、しかも、昨日《きのう》、五行連合の準備委員会で同席した阪神銀行の芥川常務に、それとなく親銀行と子会社の関係を探ってみますと、何となく水くさい感じさえあるのですが、そうした阪神特殊鋼に対する頭取のお考えはいかがなんです?」
既に自分の息のかかった神戸支店長に、阪神特殊鋼の現状を調べさせ、高炉建設の一時、中止を云わせておきながら、素知らぬ体《てい》で聞いた。
「たしかに阪神特殊鋼の現状はいいものではない、高炉建設という膨大な設備投資の最中だけに、他社より苦しいことも認める、しかし、特殊鋼というのは、単に売った買ったの繋《つな》がりだけではなく、需要家の要求によって培《つちか》った技術がものをいう業種だ、それだけに、常に技術革新で業界をリードしている阪神特殊鋼の力量には信頼がおける、そして特殊鋼の長期需要見通しも、通産省の調査によれば、五十年度には現在の七〇パーセント増加を予想しているから、現在の一時的な落ち込みだけで見ず、長い目で判断することだ、しかも阪神特殊鋼一つだけを取り上げず、これを取り巻く企業群をわが行の取引網の中へ組み込んで行くという、もっとマクロ的な考えで判断するのが、都市銀行の経営者たる者の眼だと思うがねぇ」
もの柔らかではあったが、綿貫の安全な融資先ばかりを選ぶ目先勘定を窘《たしな》めるように云うと、綿貫は唇に唾《つば》を溜《た》め、
「私のような叩き上げの実務家は、頭取がおっしゃるような日本経済の展望や国際金融の動向などというマクロ的な見方より、ミクロ的、つまり身近な眼先のことを信じる方なんでございますよ、鉄鋼の話一つにしましても、世界的需要の傾向を論じるより、今日、何ミリの棒鋼がトン当りいくらかという方に関心があり、さらにいえば、鉄、電力、石油などの基幹産業より、大衆の日常生活と密着した消費財メーカーへの貸付に関心がございます、その場合も、貸付先の資本金や業界の評判などでことを決めず、貸付先の勝手口まで覗《のぞ》いた上でないと納得しない性質《たち》でございましてねぇ、アサヒ石鹸もそうして今日《こんにち》あらしめた企業なんですが、一介の町工場時代から、工員と一緒になって石鹸粉にまみれて来た者の気持など、到底、お解り戴けんでしょうなあ……」
自ら詠嘆し、言葉に酔うように云った。そこには、叩き上げの人間の中小企業に対する限りない愛情と同時に、大企業に対する抜きがたい反感が見られた。
「綿貫君、融資は浪花《なにわ》節《ぶし》的な感情できめるものじゃないよ」
三雲が云うと、綿貫は大きな鼻翼をぴくりと動かした。
「浪花節はいかんが、高邁《こうまい》な理想主義の融資なら、少々、現実離れしていても通るというわけでございますか」
「そうじゃない、アサヒ石鹸に対する君の長年にわたる情実貸付を、今後は慎んで貰《もら》いたいという意味です」
三雲は云わずにすむものなら、云いたくないと思っていたことを口にした。
「おや、そういうことだったんですか、それなら、廻りくどいことをおっしゃらず、最初から、そうおっしゃって下さればよろしいのに――」
綿貫はねっちりとした云い方で抵抗した。
「そりゃあ、たまたま現社長の筒井の次女が、私の長男の嫁になっておりますが、だからと云って、私は不明朗な情実貸付は致しておりませんよ、その証拠に、先程も申しましたように、一介の町工場であったアサヒ石鹸を二部上場の会社に仕上げたじゃありませんか」
「しかし、アサヒ石鹸に対して、いつも融資部を通さず、専務の“鶴《つる》の一声”で決まる貸付については、行内の心ある者の間で非難の的となっており、中にはそれをあなた自身の将来と結びつけて考える者さえある、その辺を充分、留意して、アサヒ石鹸に対し、今後、融資部を通さないルーズな貸付は慎んで貰いたい」
三雲が云うと、綿貫は一瞬、胸中を見すかされたように表情を動かしたが、
「いやですねぇ、それじゃあ、まるで私が将来、アサヒ石鹸の社長にでもおさまろうとしているような云われ方ではありませんか、体質云々を云われていても、大同銀行は第八位の都市銀行でございますよ、その専務たる者が、アサヒ石鹸の社長に擬せられるなんて――、同じ擬せられるなら、口先だけでも次期副頭取と云って貰いたいものでございますよ、私自身のためではなく、大同銀行の自主独立を願う中堅幹部の士気昂揚《こうよう》のためにね」
取締役会を控えて、綿貫派がしきりに綿貫の副頭取昇格を画策している矢先であったから、綿貫は力むように云い、
「それにしても、頭取のお耳にそんなことを入れるのは、融資部長の島津君じゃありませんか」
と聞いた。島津融資部長は日銀発券局の一課長から、大同銀行の融資部長におさまった人物だった。
「誰が云ったの、いわないのということは問題じゃない、アサヒ石鹸への情実貸付を、以後慎んでほしいと云っているのです」
厳しい口調で云うと、綿貫は大きな赭《あか》ら顔を不意ににんまりと綻《ほころ》ばせ、
「じゃあ、今回のアサヒ石鹸への融資は、頭取にもご賛同戴くことに致しまして、以後は融資部を通しましょう、その代り、この間の融資会議でもめた阪神特殊鋼への来期六月から九月までの融資計画には反対致しませんよ」
取引するように云った。三雲は、不快な思いが咽喉《のど》もとに突き上げて来たが、阪神特殊鋼の万俵鉄平が、夕方、訪ねて来る約束になっているのを思い出して、黙った。三雲と綿貫との間に、人間的な肌合いの相違に加えて、阪神特殊鋼とアサヒ石鹸の融資問題がからみ、従来以上に目に見えぬ対立が深まった。
三雲頭取と万俵鉄平を乗せた車は、日本橋本石《ほんごく》町の大同銀行を出ると、渋谷松濤《しようとう》の三雲邸に向った。ラッシュ.アワーは過ぎていたが、日本橋から渋谷に向う高速道路三号線はまだ車が渋滞している。
「まさか、用談のあと、鉄平君に娘を見舞って戴くとはね、娘も喜ぶことでしょう」
三雲は、ついさっきまで頭取室で鉄平と対していた時とは別人のような明るい表情で云った。
「いえ、僕の方こそ、いつもお訪ねすると、無理な融資のお願いばかりですから」
鉄平は今日もまた、三雲頭取を訪ね、ダンピング競争に巻き込まれた阪神特殊鋼の苦しい経営状態をありのまま報告すると同時に、来期六月から九月までの高炉設備資金と運転資金の計二十四億は削減しないで貰いたい旨《むね》を懇請したのだった。それに対して三雲は、既に融資会議で決定していることだし、高炉建設は当然、あなたの手で完成して貰いたいと、応《こた》えたのだった。
車はやがて渋谷松濤の三雲邸の前に停まった。老婢《ろうひ》が門を開け、ポーチまで入ると、薄茶《ベージユ》に臙脂《えんじ》の縞紬《しまつむぎ》を着た志保が、玄関に出迎えていた。
「お久しゅうございます、お待ち申し上げておりました」
細面の白い顔の中で、父に似た澄んだ眼が頬笑んだ。鉄平がマサチューセッツ工科大学の学生、志保がカレッジ在学中の時以来だった。
「ほんとうにお久しぶりですね、お体が勝《すぐ》れられないそうですが、お工合はいかがですか」
「大丈夫でございますわ、先程、父から万俵さまがお越し下さると聞き、すっかり気持が明るくなりましたの、急で何もご用意できませんけれど、ごゆっくり遊ばして下さいまし」
と云い、応接室に案内した。天井の高い古風な部屋で、正面の壁に岸田劉生の『麗子像』が掲《かか》っている。麗子像は、銀行の三雲の頭取室にも掲っており、よく見ると、その可憐《かれん》で澄んだ面ざしが、少女の頃の志保に似ているようだった。