「平和ハウスに注ぎ込めと頭取が指令を出されたのは、たしか九年前でございましたね、当初はあんな玩具《おもちや》のようなバラック住宅を造る会社にと躊躇《ちゆうちよ》する役員が多く、私もその一人だったんですが、最近の目ざましいプレハブ住宅産業の成長を見るにつけ、今さらながら、頭取のご炯眼《けいがん》には敬服致します」
真底《しんそこ》から感服する体《てい》で云うと、小松専務も、
「たしかに頭取はプレハブ住宅産業の今日あることを読み取られておられたわけで、そうした頭取の、今日を読み、明日を見通される鋭い洞察力というか、明快な決断力は、日頃のご勉強もさることながら、やはり“前頭取の血”というものを感じますね」
先の大亀専務に劣らぬ阿《おもね》りを籠《こ》めて云った。万俵は葉巻をくゆらせながら、二人の専務の阿りをしごく当然のように聞いていた。
経理担当の大亀専務は、十二年前、本店営業部長の時に直属の部下が多額の貸金のこげつきを作って進退伺いものであったのを、万俵頭取が長い眼で使ってくれたことに感泣し、その時以来の寝食を忘れた働きぶりが認められて、専務に取りたてられたのだった。総務担当の小松専務は、小松という名に似つかわしく小柄で貧相な男であったが、戦後の農地解放その他で、一時、万俵財閥が浮沈の瀬戸際《せとぎわ》にたった時、万俵家の財産保全のために計理士はだしの活躍をし、爾来《じらい》、万俵コンツェルンの金庫番的な役割を果し、それで専務に成り得たのだった。したがって二人の専務は、本来の銀行業務の上では、もはや格別の見識を持ち合せていなかったが、万俵はそれを承知で身近においていた。その代り四人の若い切れ者を常務に据えている。
四人の常務は、平均年齢四十九歳という若さであった。三年前、阪神銀行の体質改善を図るためという名分で、古参常務五人の首をばっさり切って、関連会社へ追いやったあと、能力厳選主義で選び抜き、抜擢《ばつてき》したエキスパートであった。つまり万俵の人事のやり方は、自分に徹底したサービスをする人間か、さもなくば、仕事に徹底的に役立つ人間のどちらかで、その他は容赦もなく切り捨ててしまう。したがって役員の中に、人事担当がいないのは、万俵自身が人事を握り、自由に生殺与奪の権を振るうためであった。
「では、頭取もお疲れでしょうし、昼食はこちらへ運ばせましょうか」
小松専務が、正午を指しかけている壁時計に眼を遣《や》り、気をきかせるように云うと、
「いや、まだ諸君に重要な話が残っている、統一経理基準の問題についてだ――」
役員たちは、呑《の》み込みかねるように頭取の顔を見た。経理担当の大亀専務は、
「その問題につきましては、以前、二度ほど役員会でも報告しておりますが、何か?」
「解っている、しかし、君たち担当者の報告では、将来、大蔵省の行政指導によって銀行の経理方式が変るという、単なる技術的な問題に過ぎぬような報告ではなかったかね、ところがさる筋からの情報をもとにして考えると、あれは経営上の由々しい問題じゃないか」
昨日、広野ゴルフ倶楽部《クラブ》で、娘婿《むすめむこ》の大蔵省主計局次長の美馬中から聞いたことなど※[#口+愛]《おくび》にも出さず、役員たちの不勉強を叱責《しつせき》するように云い、
「大蔵省が、統一経理基準を持ち出して来た真意は、単なる経理上のテクニックの問題ではなく、これを梃《てこ》にして、将来、配当の自由化を図って、銀行間の競争を一段と激しいものにして行き、併せて、金利の自由化、店舗の自由化をも行なって、徐々に金融再編成を促進しようというのが、ほんとうの狙《ねら》いなのだ」
役員たちは、はっとしたように沈黙した。万俵頭取はじろりと役員たちを見廻し、
「この統一経理基準で大蔵省は、貸倒引当金、価格変動準備金、退職給与引当金など、いくつかの項目にわたって新しい基準を適用しようとしているが、中でも問題なのは貸倒引当金だろう」
銀行にとって、貸金は最も大切な資金である。もし仮に回収不能の貸金が高額に発生し、収入が減って預金者に金利が払えなくなったり、配当が出来なくなるような事態になっては、預金者が迷惑を蒙《こうむ》るので、予《あらかじ》め貸出総額に見合って、一定の比率の貸倒引当金を引き当てることが必要とされていた。
融資担当の渋野は、いつも渋柿《しぶがき》を含んだような顔をしていたので、融資先の人から“しぶちん”と陰口を叩《たた》かれていたが、齢《とし》に似合わぬ渋い顔をさらに渋くし、
「統一経理基準が適用され、貸倒引当金が厳しく規定されると、引当金の率はこれまでの一.五パーセントからどの程度、アップされるのでしょうか」
「〇.三パーセントぐらいらしい、当行の貸倒引当金は――」
と万俵が云いかけると、渋野は即座に、
「現在の当行の貸金は六千五百億ですから、これまではその一.五パーセントの九十七億五千万を貸倒引当金として内部留保していますが、〇.三パーセント、アップになると、さらに十九億五千万円の上積《うわづみ》が必要となるわけです、当行の現在の収益力を考えますと、これは大へん苛酷《かこく》な額ですね、その点、上位の四行は、内部留保が厚く、既に一.八パーセント以上の貸倒引当金を積んでいるでしょう」
融資担当者らしい読み[#「読み」に傍点]をすると、経理担当の大亀専務は頷《うなず》き、
「大友銀行、五菱銀行などは、既に二パーセント程度、引き当てているでしょうな、つまりあのクラスだと、二兆円近くの貸金があるから、その二パーセントとしても、四百億の引当金を持っているわけですね」
重い口調で応《こた》えた。業務担当の荒武常務は、年中、各支店を走り廻って預金集めの尻《しり》をひっぱたき、厳しいノルマをかけるので、名前をもじって“荒武者《あらむしや》隊長”と渾名《あだな》されているが、そのいかつい顔で頻《しき》りに煙草《たばこ》をふかし、
「表見《おもてみ》の預金額では、上位四行と当行のような都市銀行十二行の中で十位という下位行とでは、三対一ぐらいの差ですが、なにもかも含めた内部留保の数字で比較しますと、四対一ぐらいの開きが出て来る、その上、将来、配当が自由化されると、えらいことになりますな、現在、都市銀行の配当は大蔵省の指導によって九パーセントと均一的に定《き》められていますが、自由化になると、大銀行クラスは一五パーセント以上にしようとしてできないことはない、一方で、当行のような場合は統一経理基準の制約もあって、一〇パーセントにするのも、青息吐息ということになりかねない、そうなると、配当のいい上位の大銀行は、ますます肥って大型化するわけですが――」
素早い頭の回転で問題点を衝《つ》くと、万俵は、
「その通りだ、だから、統一経理基準に対しては大蔵省の通達を待つことなく、今から早速、準備に入って貰《もら》いたい」
一同に命ずるように云った。
「解りました、貸倒引当金の上積《うわづみ》、十九億五千万を留保するためには、何といっても預金量を増強して利益を上げるということが、最大の前提になりますので、これからは陣頭指揮にますます精を出して、預金集めに邁進《まいしん》致します」
荒武者隊長らしい意気込みで云うと、外国担当の舟山常務も、頭取に次ぐ瀟洒《しようしや》な身装《みなり》で、
「外国為替《かわせ》の方も、資本自由化に当って、最近の一年間で三〇パーセント増益になっており、引き続いてこのペースで利益を増やして行くつもりです、また国内営業部門と呼応して預金の増強にも一段と協力したいと思っています」
と云った。阪神銀行が、同クラスの都市銀行に比べて外国為替部門がずば抜けていいのは、神戸という地元の利も大きかったが、外国担当の舟山常務の手腕に負うところも見逃せない。それだけに余裕をもった云い方になった。今まで口を噤《つぐ》んでいた事務能率担当で最年少役員の新井常務は、
「皆さんのおっしゃる預金の拡大はもちろん重要なことですが、今度の統一経理基準の意味する最大の眼目の一つは、やはり各銀行の経営効率の向上ということにあると思います」
新進気鋭らしく一気にそう云って、言葉を継いだ。
「ですから、預金量を増やすと同時に、一店当り、一人当りの預金獲得の比率は他行に比べて効率がどうか、また資金運用益を上げるためにどれだけの経費を要したかという、いわば効率を、これからは絶えず考え、経費のコスト.ダウンを図らねばなりません、そのために事務能率部では、現在、一万円の預金を集めるのに、二百五十円かかる経費を、将来は三分の二までに切り下げるという思い切った効率化運動を計画して行きたいと考えているのです、さし当っては、一年前に買い入れた大型コンピューターも、そろそろ本格的に稼動《かどう》しはじめましたので、その成果のほどは是非、ご注目下さい」
と経営の能率化を強調する意見を出すと、万俵頭取は、やっと表情を和らげた。
「皆、積極的な姿勢で、これから迫って来る金融再編成にたち向ってくれるという意気込みを聞いて安心した、まだ他行では、統一経理基準の本当の狙いを知らずして、のんびりと構えているところもあるだろうが、当行はその辺のところを含んで、充分、ぬかりないようにして貰いたい」
そう締めくくりながら、役員一人一人の顔を見詰めた。
万俵にとって、ここにいる六人の役員は、たとえてみれば六頭だての馬車馬であった。阪神銀行という馬車を力を振りしぼって、ほんとうに牽引《けんいん》しているのは四人の若い常務であり、そのうしろで隊列の足並を揃《そろ》わせる役目は二人の専務であり、そして一番うしろで傲然《ごうぜん》と馬車に乗っているのが、頭取たる万俵大介であった。
*
月曜日の午後一時過ぎは、阪神銀行の本店営業部が一週間のうちでもっとも多忙な時刻であった。
天井の高い重厚なたたずまいのロビーには、神戸の元町界隈《かいわい》の会社の経理関係者やオフィス.ガールたちが慌《あわただ》しく出入りし、特に預金や為替関係のカウンターには人影が多い。
万俵頭取の次男である万俵銀平は、貸付二課の課長席に坐《すわ》って、融資申込書と稟議書《りんぎしよ》に眼を通し、判を捺《お》していた。生産部門の取引が主である貸付一課に対して、二課は商業部門が主たる貸付対象で、課長の万俵銀平の下に二人の課長代理と四人の課員がいたが、一人五、六十社を担当しているから、机の上の電話が絶えず鳴り続け、課員たちは、来客や電話の応対に追われ、人の出入りも慌しい。そんな中で万俵銀平は、グレイのサキソニー.フラノのスーツに、渋いブルーのネクタイを締めた一分《いちぶ》の隙《すき》もない瀟洒《しようしや》な身装《みなり》で机に向い、周囲の雰囲気や慌しい人の出入りとかかわりないような姿勢で仕事を運んでいる。
眼の前の電話が鳴った。銀平は面倒そうに腕を伸ばして受話器を取った。
「もしもし、万俵課長でございますね、こちらは渋野常務の秘書でございますが、只今《ただいま》、太平《たいへい》スーパーの太平社長が、常務の部屋へ見えておりますので、すぐご足労願いたいと、常務が申しておりますが――」
多分に頭取の御曹子であることを意識した言葉遣いであった。
「解《わか》りました、すぐ参ります」
銀平は受話器を置くと、自分より五つ齢上《としうえ》の課長代理に、
「例の太平スーパーの件で、渋野常務の部屋へ行くから、電話その他は、適当にさばいておいて下さい」
と云った。課長代理は、太平スーパーと聞いただけで、
「かしこまりました、相当、お時間がかかりそうですね」
心得顔に応えた。
太平スーパーは、資本金二億、支店九店、年商九十億を計上する衣料中心のスーパー.ストアで、本店は、大阪と神戸の中間に位置する西宮にあったが、七年前から本店貸付二課と取引をはじめ、阪神銀行がメイン.バンクであった。たまたま太平スーパーの太平社長が、大阪の繊維問屋街の丼池《どぶいけ》の丁稚《でつち》奉公から身を起した立志伝中の人物であることが地元新聞などを通してよく知られ、それが庶民にうけて、僅《わず》か十年で阪神間では五指に数えられるスーパー.ストアになったのだった。しかし一年前に東京の富士ストアが強力な資本を背景に進出して来たために、昨年の秋頃から押され気味になり、貸付課では経営不振を警戒していたが、遂《つい》に先月、一月二十日払いの支払手形を落す資金が五千万円ほど不足して、駈込《かけこ》みの融資を頼みに現われ、再び今朝、五日先の二月二十日の払いに当って、支払手形を落す資金手当を申し込んで来たのだった。これまでの貸金が十億近くあるだけに、銀平は、営業部長と融資部長とに相談したかったが、あいにく昨日から東京出張で不在だったため、融資担当重役の渋野常務へ直接、上申し、急遽《きゆうきよ》、二時から渋野常務を交えて、太平スーパーの今後の融資方針を、話し合うことになっていたのだった。
銀平は、太平スーパーの資金繰表《しきんぐりひよう》と貸出関係のファイルを持って、渋野常務の部屋へ向った。
応接用の安楽椅子《ソファ》に、太平スーパーの太平社長と、経理担当の専務が肩を落して坐っており、渋野常務は、渋面で、二人に向い合っていた。
「遅くなりました」
銀平が渋野常務の横に腰を下ろすと、貧相な顔に不似合いな金縁眼鏡をかけた成金趣味の太平社長は、腰を浮かし、
「今朝ほどは、また突然と、ご無理を申しまして、ほんまにすんまへん」
胡麻塩《ごましお》頭をテーブルにこすりつけんばかりに云った。銀平はそれには応えず、黙ってダンヒルの巻煙草をシガレット.ケースから取り出し、火を点《つ》けた。銀平のような人間は、こうした一代で叩《たた》き上げた成上り者に対しては、体質的に肌が合わなかった。何事につけても、傍観者的な感情しか持たない銀平であったが、成上り者だけには、どうしようもない厭悪《えんお》感が伴い、順境にあって得意になればなったで、また逆境に落ちて卑屈になればなったで、神経にひっかかるものがあった。
太平スーパーの社長は、そんな銀平の心中を察するはずもなく、背の低い肥《ふと》った体をせり出し、
「万俵課長さん、今、常務さんにも、何とか今月、二十日払いの支払手形を落す二億ほどの工面をお願い致してますのやけど、課長さんからもお頼みしておくれやす」
親子ほど齢の開きがある銀平に、椅子《いす》からたち上って、体を二つ折りにして頼んだ。
「二億もの資金手当をそんなに簡単に云われては困りますね、僕はあなたの説明に、納得しかねる点がありますから、もう一度、資金繰りがつかなくなった理由を、端的に説明して下さい」
銀平は煙草の煙をふっと吐き出しながら云った。
「ほんなら、私が説明させて戴《いただ》きます」
さっきから太平社長の横で、背を屈《かが》めて恐縮しきっている経理担当の専務が口を開いた。
「それは先日来、ご説明致しておりますように、去年、宝塚《たからづか》と川西《かわにし》の新興住宅地に二カ店、店舗を増やしましたが、土地の買付費が予想以上に嵩《かさ》んで、運転資金を圧迫しているのが最大の原因でして、決して売上の鈍化といったような経営不振に繋《つな》がるものではございません、その点のご理解をとくとお願い致したいのです」
と説明すると、社長の太平も、
「現に、先月一月の売上高は七億二千万円で、平均の月商七億五千万をやや下回りはしましたが、今年の暖冬異変が原因で、これから春物にシーズンがわりしますと、売上高はじきに回復しますし、半年後には、尼崎《あまがさき》と明石《あかし》の二カ店が開店五周年を迎えて、ますます好調に伸びていますので、年商百億の目標も今年中に達成できそうだす、ですから、ここは一つ、もう一回だけ無理を聞いて欲しおます、お願いします」
現在の資金繰りの悪さがあくまで一時的なものにすぎぬことを弁じたて、何とか二億の資金手当を引き出そうとする様がありありと見えた。
「それなら、担保は何を入れるのですかね」
渋野常務が聞いた。
「担保、それは……さし当って今まで差し入れている担保の中に、土地の急激な値上りで、当初の評価を相当、上廻っておるものもありますよって、そのふくみをご勘案の上、この度のところは……」
「担保なしと云うわけですか、それじゃあ話になりませんな、サブ.バンクの神戸相互さんに、この際、少し面倒をみて貰ってはどうですかね」
と突っ撥《ぱ》ねると、それまで平身低頭していた太平社長も、さすがにぐっと来たのか、金縁眼鏡の下の細い眼を瞬《しばたた》かせ、
「うちと阪神さんとのお付合いはかれこれ七年で、おたくの創立四十周年に当っては、預金担当の方から拝み倒されて、うちも随分、無理して預金をさして貰うてますし、これまでのお付合いを思うて、何とか助けて欲しおます、たった一回や二回の躓《つまず》きでそんなきついこと云いはるのは、酷過《むごす》ぎます――」
かきくどくように云うと、
「そんな泣き落しより、もうお話しになってはどうですか」
銀平が冷やかな声で云った。太平社長はその言葉の意味が呑《の》み込めぬように小首をかしげた。
「当行にお隠しになっていることがおありでしょう、正直に云って戴きたいですね」
言葉は鄭重《ていちよう》であったが、容赦のない鋭い響きがあった。専務の方は一瞬、動揺の色をうかべたが、太平社長は、
「隠しだてなど、めっそうな、一体、何のことでおますやろか」
真底《しんそこ》、心当りのないような顔付をした。
「そうですか、じゃあ、お伺いしますが、おたくは最近、東京系の富士ストアにお客を取られて売上が大分、低下しているのではないですか」
銀平は、さり気ない語調で切り出した。城攻めにたとえれば、まず三の丸を攻めにかかったのだった。
「そんなことおまへん、富士ストアがいくら安売りで押して来ても、なんし、うちは十年来の老舗《しにせ》で、地元のお客はがっちり掴《つか》んでますよって、先月、暖冬異変で一時的に売上が低下したとはいえ、全体的にはむしろ順調に伸びてまっせぇ」
唇に唾《つば》を溜《た》めて抗弁した、銀平はむっと生理的な厭悪感を催して来るのを抑え、
「それじゃあ、当座預金の入金が落ちて来ているのは、どうご説明になるのです? ここ半年間の入金額から逆算すると、おたくの月商は、七億どころか六億位にしか思えませんがね」
「そら万俵課長さんの何かの勘違いやおまへんか、うちはおたくから総借入金の六割をみて貰ってますよって、月平均の売上七億五千万円の六割は、毎月ちゃんと入金さして貰うてるはずでおます、なあ、そうやな」
傍らの専務を顧みて云うと、専務も強く頷《うなず》いたが、銀平の眼には冷やかさが増した。
「そんな見えすいた嘘《うそ》を並べても駄目ですよ、こちらにはちゃんと資料が揃っていて、おたくが水増しの売上を報告していることぐらい、解っておりますよ、次に、おたくの仕入先筋の方で、近頃、太平スーパーは急に払いが悪くなった、これは何かあるのではないかということで、商品の納入を警戒しているという噂《うわさ》があるのを、ご存知ですか」
売上高に次いで、支払勘定という二の丸を攻めにかかった。
「そんな阿呆《あほ》なこと! 富士ストアが故意に流している悪質なデマだすわ」
「しかし、現におたくの支払手形の金額が以前にくらべて増えてきているのは事実で、手形のサイトも長くなって来ているじゃありませんか、これからすると、仕入価格もおたくから報告して戴いているのより、実際は相当、悪いように思われますが、如何《いかが》です」
太平社長は、狭い額に汗を滲《にじ》ませ、弁解の言葉を探すように口もとを動かした。太平スーパーにとって、乗るか反《そ》るかの事態だけに、絶対に本音は吐けない。なんとか云い抜けようとする苦しいあがきが見て取れたが、銀平は、動かない眼《まな》ざしで、追打ちをかけた。
「しかも、一番不思議なことは、ここ一年間のおたくの支払手形の受取人の顔ぶれを調べていると、最近、仕入とはあんまり関係のないところが混じっており、金額もかなりの額のようですね、一体、どういう取引で、こんなに金が動くのですか?」
暗に金融手形が混じっていることを指摘し、一挙に最後の本丸を攻め落そうとした途端、太平社長と専務の顔がみるみる青ざめ、体が震え出した。経営者にとって、金融手形や融通手形を指摘されることは、泥棒呼ばわりされることと同じであった。それだけに、それを云う側もよほどの覚悟がなければ、切り出せない。
太平社長の顔が引き攣《つ》れ、今一言、銀平が踏み込めば、たち上って銀平に掴みかからんばかりに殺気だった時、扉《ドア》をノックし、頭取秘書の速水《はやみ》が入って来た。
速水は一座の険しい気配を感じ取ったらしく、
「どうもご用談中を――、実は頭取がお会いになる約束だった方が、頭取の都合で急にお目にかかれなくなりましたので、渋野常務にということなのですが――」
手短かに用件を伝え、来客の名刺を示した。
「困ったな、今、はずせない用談だから、ちょっとお待ち戴けないか」
「承知致しました、先さまにはよく申し上げて、別室でお待ち戴くことに致しますから、よろしく」
渋野にそう依頼すると、速水はすぐ部屋を出た。この僅かな切れ目が、険しく緊張していた部屋の空気を和らげたようだった。渋野常務は、ほっと息をつくような表情で、
「どうも大へん、ご都合の悪いことをお聞きしたようですな、しかし、私ども主力銀行としては、出来るだけのことをして差し上げたいと思えばこそ、このようなたち入ったところまでお聞きしたわけで、決して他意はないのですよ、今日のところはおたくも充分、心の準備が出来ておいででないようだし、当行も実際のところ、今の今、はっきりした判断を下しかねる状態なので、一応、お引取り戴いた方がよいと思いますが、いかがです?」
強いて柔らかい口調で云うと、太平社長はまだ震えの止まらない肩をすぼめ、専務にいたわられて席をたち、部屋を出て行った。
渋野常務は、暫《しばら》く腕を組んだまま沈思していたが、銀平は机の上に拡《ひろ》げた資料を畳み、
「常務、早速、明日にでも本部から緊急の特別調査を入れて、徹底的に帳簿を洗いましょう、すぐ調査部へ指示をお出し下さい」
と云うと、安楽椅子《ソファ》からたち上った。たかだかスーパー.ストア一社の社運がどうなろうと、意にも介さないというようなもの腰であった。
淡い間接照明に包まれたナイト.クラブ『ムーンライト』では、幾つものテーブルから賑《にぎ》やかなホステスや男たちの声が聞えていたが、万俵銀平はカウンターに片肘《かたひじ》をついて、独りグラスを空けていた。
毎晚のように独り飲み步く銀平は、テーブルよりも、勝手気儘《きまま》に入って行き、ふらりと出て行けるカウンターの方を好んでいた。阪神銀行の行章をはずし、スーツの袖口《そでぐち》からエルメスのホワイト.ゴールドのカフス.ボタンをのぞかせてハイボールを飲んでいる万俵銀平は、誰の眼にも銀行員という地味なタイプには見えない。
「ダブルでもう一杯――」
その二杯目を飲みかけた時、
「万俵君――」
銀平を呼ぶ声がした。振り返ると、頭取秘書の速水であった。秀《ひい》でた額に澄んだ瞳《ひとみ》を湛《たた》え、贅沢《ぜいたく》ではなかったが、秘書らしい整った身だしなみをしている。銀平と同じ慶応大学の経済を卒業し、同期に阪神銀行へ入行したのだった。行内では営業の貸付課と秘書課に分れ、殆《ほとん》ど言葉を交わすこともなかったが、銀行の外で顔を合わせれば、友人同士の親しい言葉を交わし合う間柄であった。
「今日も独りかい」
速水が云うと、銀平は、
「うん、僕は独りで飲む主義なんでねぇ」
“頭取の御曹子”ということが、いつも銀平を不快にしていた。三十代の貸付課長にしては人並以上の仕事をしているにもかかわらず、“御曹子”であるために正当には評価されず、心にもない社交辞令を云われ、内心で反撥《はんぱつ》されている。そのことを知っている銀平は、そんな手合と飲むより、独り気儘に飲む方が酒がうまい。
「それで、速水君も独りかい?」
「いや、僕はお客さまの接待だよ」
そう云って、奥のボックスを眼で指した。大口取引先の東亜化学の秘書室長で、阪神銀行側からも秘書課長が出て、ホステスたちがテーブルを取り巻いている。そして、その周《まわ》りのテーブルにも、神戸や大阪の大会社の幹部連の酒気に紅《あか》らんだ顔が見られた。
速水は、接待している客の方へ視線を配りながら、
「今日のこと、もう少し相手の立場も考えて、応対してやったら――」
「今日のことって?」
「渋野常務のところへ来ていた太平スーパーのことだよ」
「ああ、あのことか――」
早速、明日にも太平スーパーの経理を緊急調査するように渋野常務に進言しておきながら、銀行を出るなり、太平スーパーのことなど、銀平の念頭にはなかった。それがたとえその会社の死活に繋がることであるとしても、一步、銀行を出れば、銀行員であることを忘れ去ってしまう。速水は、そんな銀平の徹底した合理主義というか心の冷たさに、何か云いかけたが、
「つまらないことを云ったようだね、じゃあ、失敬――」
くるりと踵《きびす》を返し、接待している客のテーブルの方へ去って行った。
独りになると銀平は、自分と速水英二が、同じ齢《とし》で、同じ大学を出ながら、人生に対する姿勢も、人間に対する愛情の持ち方も、すべての点で違っていることを今さらのように感じた。しかし優れた知性と情感を兼ね備えた速水にして、自分の心中は、到底、理解出来ないだろうと思った。三杯目のハイボールを注文しながら、銀平は時計を見た。昼間、高須相子から電話がかかり、今夜は重要な話があるから、銀行からまっすぐ帰宅してほしいと云って来たのだったが、もう十時を廻りかけている。ハイボールを飲み終ると、銀平はナイト.クラブを出、自分の車は駐車場に預けっ放しにして、タクシーを拾った。
玄関のポーチにタクシーを横付けてベルを押すと、若い女中が出迎えた。
「お帰りなさいまし、相子さまがお待ちでございます」
と伝えたが、銀平はそれに応《こた》えず、ホールを横切って階段へ向った。
「あら、お帰りなさい、先程からお待ちしておりましてよ」
階段のところに高須相子がたって、艶然《えんぜん》と笑っていた。
「ちょっと、つき合いがあったもので、どうぞ、僕の部屋へ――」
銀平は先にたって階段を上り、父の部屋とは反対側の突き当りにある自室へ入った。そこは以前、兄の鉄平が使っていた部屋で、八畳の広さの書斎兼居間と六畳ほどの寝室が続いている。銀平はテーブルを挟んで相子と向い合うと、黙って煙草《たばこ》を喫《す》った。相子もきれいな手つきで煙草を喫い、
「銀平さん、早速ですけど、あなたのご縁談のことね、関西財界の重鎮《じゆうちん》でいらっしゃる大阪重工の安田さまのお嬢さまと、京都大学の国際的な数学者の三木教授のお嬢さまと、どちらになさるか、もう二カ月もご返事が遅れていますから、今夜こそはっきりお気持を聞かせて戴《いただ》きたいの」
相子と大介との間で、既に大阪重工の安田太左衛門の令嬢と定《き》めておきながら、それを※[#口+愛]《おくび》にも出さず、切り出した。
「また、あの縁談《はなし》ですか、どっちだっていいですよ――」
いつものように素っ気なく応えた。
「ほんとうに、どちらでもおよろしいの?」
「ああ、いいですよ」
あしらうように銀平が顎《あご》をしゃくった途端、相子の眼がきらりと光った。
「じゃあ、大阪重工の安田さまのお嬢さまにお定め致しましょう、安田さまなら、財界人としてのお家柄と云い、ご資産と云い、ご一族、三代に遡《さかのぼ》ってのご親戚《しんせき》もごりっぱで、これでお父さまもご安心なさいますわ」
すかさず、銀平の言葉を抑え込んだ。
「どうぞ、ご随意に、これであなたの閨閥《けいばつ》作りの点数が、また一点上りましたね、兄と姉に続いて、今度は僕、そしてそのあと二子、三子と、あなたは何年かごとに、万俵家の閨閥作りをして愉《たの》しみ、僕たちはそれに翻弄《ほんろう》されるんだ――」
「まあ、翻弄だなんて――、まさか、あなた方は自分たちと全く異《ちが》った階層の方と結婚しようなどとは、本気で考えたりなさらないでしょう、それとも甘いセンチメンタルな気持で、閨閥結婚を否定しようとでもなさっているの?」
銀平の顔に白い笑いがうかんだ。
「とんでもない、僕は、閨閥こそエリート社会を泳ぐための、より有効な手形であるとさえ思っておりますよ、ただ、その手形をあなたから発行されることに、こだわりを感じているだけですよ」
「まあ、なんて云い方をなさるのです、私が閨閥作りを真剣に考えるのは――」
「万俵家の繁栄のためと云いたいのでしょう、でもほんとうにそれだけですかね、僕は他《ほか》に、あなた自身も気付いていない、何かもう一つの理由が、あなたを閨閥作りに熱中させているような気がする――」
銀平の声には陰湿な暗さがあった。
「どうしてそんな云い方をなさるのです、私がここへ来た頃のあなたは、少し神経質すぎるところはあったけれど、素直で明るい少年でしたわ、それがいつごろからか、急に変ってきてしまって――」
「そうです、僕もそんな気がします」
銀平は、母が自殺未遂した日を境にして、自分の性格が変ったことを知っていた。
銀平がまだ少年だった冬の或《あ》る夜、激しい木枯しの音のなかで、異様な人の気配に眼を醒《さ》ました。廊下へ出ると、母の寝室に向って走る人影が見えた。銀平は、とっさに母が急病だと思った。母はここ暫く子供たちとも殆ど口をきかず、塞《ふさ》ぎ込んでいたからだった。すぐ母の寝室へ駈《か》けて行くと、その時はまだ健在だった執事の松井が、扉《とびら》の前にたちふさがって、「お母さまは心臓発作を起されたのですが、お医者さまがお見えになったから、もう大丈夫です、お部屋へお帰りになるよう」と寄せつけず、後から駈けつけて来た姉の一子ともども、その部屋に入れなかった。仕方なく不安な思いで各自の部屋へ帰ったが、銀平は気持の昂《たかぶ》りがおさまらず、来客用の寝室のベランダから一階の屋根に降り、父の書斎の上まで行くと母の寝室が覗《のぞ》けることを思いつくと、パジャマの上にセーターを着て、そっと母の寝室が見通せるところまで這《は》って行った。そして、ガラス戸越しに母の異様な姿を見た。
執事の松井は心臓発作と云ったが、ベッドに仰向いた母は鼻にゴム管を差し込まれていた。そして、傍らの看護婦が持っている筒状のガラス器から透明な液がたえず母の鼻の穴へ流し込まれ、看護婦がそのガラス器の位置を低くすると、黄色く濁った液が母の体内からガラス器へ逆流していった。ガラス戸越しの銀平にも、そのとき、母が毒物か睡眠薬を飲んで、胃を洗滌《せんじよう》されているのだと解《わか》った。その間、父と高須相子は身動き一つしない母の枕《まくら》もとに列《なら》んでたっていたのだった。医者や看護婦、それに女中たちが慌《あわただ》しく動いている中で、相子がそっと父の方へ体を寄せ、薬瓶《くすりびん》らしいものを示して何かを囁《ささや》いた。その瞬間、母を見守っていた父がその薬瓶を手にとると、にべもなく床へ投げ捨て、まるで他人を見るような眼で母を見た。それは銀平にとって、父親の顔ではなかった。銀平は屋根から墜落しそうな衝撃を受けたが、その日からかなり大きくなるまで、銀平は木枯しの吹きすさぶ夜になると、時々、ベランダから屋根伝いに母の寝室を覗きに行き、母の安らかな眠りを確かめないと寝られなくなった。銀平は、その時のことを自分の心にだけ秘めていたが、次第に自分の気持が頑《かたく》なに内に向って閉ざされるようになり、父親さえ信じることの出来ない、何事に対しても傍観者の姿勢しかとれない性格になったのだった。
銀平は、目の前の高須相子を見なおした。それから長い歳月が経《た》っているが、濃艶《のうえん》な美しさをいっそう増した高須相子という女の存在は、年とともに万俵家を大きく動かすようになっていた。
「それにしても、いやに気忙《きぜわ》しい話じゃないですか、美馬の義兄《にい》さんがいらして、何か急がなければならないような話でもあったわけですか?」
「そう、さすがに銀平さんらしいお見通しよ、あの方から金融再編成の足どりが早くなると伺い、お父さまはその時のことをお考えになって、阪神銀行の大口株主である大阪重工の安田さまをお考えになったのですわ」
「じゃあ、早速、お役にたつというわけですか、どうぞ、お縁談《はなし》をお進め下さい」
銀平は、銀行業務を処理するように事務的な語調で云った。
太平スーパーの本店は、阪神電車の西宮東口の駅前にある。そこは戦前からの古い家並に混じって戦後の住宅やアパートがぎっしりと建て込んでいる住宅街の真ん中で、すぐ近くには商店街や公設市場があり、朝の活気に満ちみちていた。
間口十間の太平スーパーの店先には、オーバーや肌着や靴下から、牛肉、野菜、歯ブラシに至るまで、特価の目玉商品を書き出した派手なチラシが貼《は》り出されて、特価デーの客寄せの雰囲気を盛り上げていたが、まだ朝のせいもあってか、買物する主婦たちの入りは意外に少ない。
店先に車が停まり、三人の男が下りてきた。阪神銀行本店の調査部員二人と、営業部貸付課長の万俵銀平で、昨日の二億の手形駈込みで、急遽《きゆうきよ》、太平スーパーの経理を特別調査しに来たのだ。三人は店内へ入ると、客足の悪い店内をぐるりと見廻してから二階の社長室へ上っていった。
「これはこれは、お忙しい中をお運び戴いて恐縮でおます、むさくるしいところでおますが、どうぞこちらへ――」
調査は昨日の夕方、知らされていたので、太平社長は揉《も》み手で迎えた。十畳程の広さの部屋には、てかてかと光る合成皮革の応接セットが置かれ、飾棚には極彩色の壺《つぼ》や絵皿が麗々しく並べたてられていた。
「本日はお邪魔します、こちらは本行の調査部員です」
事務的に云った。
「ほんまにこのたびはえらいお手数をかけまして――、けど、阪神銀行さんのようなりっぱな銀行に、この際、うちの経営状態を診断して貰《もら》えるということは、願うてもないことやと思うてます、ご調査のあとは、別席を設けておりますよって、ひとつ、よろしゅうに――」