饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15381 字 更新时间:2026-6-16 06:24

「さあ、どうぞ、食卓のお用意が出来ますまで、食前酒《アペリチフ》を召し上って下さいましな」

 志保は、ワゴンから食前酒を取って父と鉄平に注《つ》ぎ、スモーク.サーモンのオードブルを出した。

「おや、懐《なつ》かしいですね、ニューヨークのお宅へブリッジをしに行って、よくご馳走《ちそう》になったのを思い出しますよ、あの頃、まだお元気だったお母さまが、カナダ産のスモーク.サーモンにレモンを添えて、よく出して下さいましたねぇ」

 亡《な》くなった志保の母を懐かしむように云うと、

「母も、万俵さまがいらっしゃると、必ず喜んで下さるからと、張りきってお出ししていたようですわ、今日はそれを思い出して、私がご用意致しましたの」

「ほう、よく覚えていたね、そういえば、盛りつけまでお母さまのとそっくりだな」

 三雲は、父親らしい眼《まな》ざしで娘を見た。鉄平はサーモンを一口、口にし、

「うむ、おいしい」

 浅黒く引き締まった顔に、白い歯を見せて笑うと、

「そうおっしゃって戴くとうれしいですわ、たくさん召し上れ」

 志保の顔が生き生きと息づいた。

「昨年の秋、父と丹波の篠山《ささやま》へ猪《しし》撃ちにいらっしゃった時のことを伺いましたけれど、三百メートルほど前から向って来る大猪《おおいのしし》に、父は一発弾を撃っただけで、二発目も、三発目も弾が出ず、もう少しで猪に襲われてしまうところを、万俵さまが横合いから飛んで来て、撃ち留めて下さったそうですわね」

「いや、あれはお父さまが、何かのはずみで銃の弾倉のバネがはずれたのを気付かれなかっただけのことで、僕が横合いから一発撃っている間《ま》に、お父さまもすぐ予備弾倉をつけて撃たれたから、お互いに助かったのですよ」

 鉄平はややてれるように云ったが、志保は、

「でも、あの時、万俵さまが横合いから飛び出して撃って下さらなかったら、小牛のように大きな猪の牙《きば》にかけられていたと、父は何度も繰り返しておりましたわ、それにしても、よくそんな間近にまで迫っている猪に銃口を当て、お撃ちになれましたこと、やはり勇気がおありになるのですわ――」

 頬を上気させ、いつになく饒舌《じようぜつ》に喋《しやべ》ったが、額のあたりがかすかに汗ばんで、異様に紅《あか》い。三雲は、つと志保の額に手を当てた。

「少し微熱が出ているようじゃないか、鉄平君には悪いけど、晚餐《ばんさん》まで失礼させて戴《いただ》くがいい――」

 胸を患《わずら》っている娘の健康を気遣った。

「いいの、お父さま、こんな楽しいことって、めったにございませんもの、是非、ご一緒にお話を――」

「駄目だよ、暫《しばら》く安静にしていなさい」

 厳しい口調で云うと、志保はやっと頷《うなず》き、

「では、少しの間、失礼させて戴きます」

 三雲は娘のうしろに廻って、肩を抱《かか》えるようにして老婢を呼び、娘を託した。

 志保が部屋を去ってしまうと、三雲はぐいとグラスを空け、

「娘はいつも独りの時間が多く、鉄平君との十数年ぶりの再会で、懐かしさのあまり、ついはしゃぎ過ぎたようで、失礼――」

「いえ、それより、奥さまがお亡くなりになっても変らないご家庭の温かさを感じましたよ――」

「有難う、おかげで家庭的には、体が弱くても、優しい娘がいて心憩《やす》まり、幸せですが、仕事の面ではまだまだ、私の意に任せぬことが多々あります、その点、あなたは、資金繰りには苦しんでおられるが、自分の思いのまま、全力投球の仕事が出来て羨《うらや》ましい限りだ――」

「それも三雲さんに資金面のご面倒を見て戴ければこそです、そして先刻《さつき》、銀行でもお話し申し上げましたように、確かに販売面では弱い点がありますが、高炉建設の先頭にたつ技術陣をはじめ、全社を挙げて、高炉のためには、電話一本はもとより、鉛筆一本、紙一枚も節約して、特殊鋼業界最初の高炉建設を成し遂げようとする気概に燃え、実践しております」

 精悍《せいかん》な眼をぎらぎらと光らせ、自社の団結ぶりを誇らしげに話すと、三雲は、昼間の綿貫との話を思い出した。その因《もと》が自行内部に根深く潜在している天下り派と生抜《はえぬ》き派の派閥抗争にあることを考えると、家であることの安心感から、ふと誰かに話したいような気弱な思いに襲われた。

「鉄平君、あなたはいくら金に苦しんでも、それだけの全社員の熱意に支えられ、自分の理想に向って一途《いちず》に仕事が出来ることは、企業家として、何ものにも替え難い幸せだ」

「三雲さんには、行内人事の上で、何か難かしいことでもおありなんですか――」

 三雲の立場を気遣うように云った。

「恥ずかしいことながら、当行は、貯蓄銀行時代からの牢固《ろうこ》とした生抜き派と、日銀天下り派と、そのどちらにもつかない中間派の三つに分れて、陰湿に暗闘している、私の仕事は、この派閥抗争をなくすことだったんだが、最近、融資方針の意見の食い違いが行内の対立をますます深め、ほとほと参っている……」

 と云い、あとは言葉を跡切《とぎ》らせた。

「それでは当社への融資についても、僕の知らないところで、三雲さんにご迷惑をおかけしているんじゃないでしょうか?」

 三雲は暫く、暗い夜の庭へ眼を向け、

「いや、そんな懸念《けねん》はいりませんよ、今は私もあなたも、高炉建設に賭《か》けているのです、資金面では当行として出来る限りの協力をしますから、あなたこそ、これからの不況に怯《ひる》まず、高炉建設という大事業にたち向って下さい、亡くなられた大川一郎さんもそれをどんなに楽しみにしておられたかしれない――」

 静かな声であったが、自らにも云いきかせるような響きが籠《こ》められていた。

「そうでした――、舅《ちち》は高炉の火入式には何をさしおいても必ず行くからと云っておりました」

 鉄平は、決意を新たにするように頷き、三雲邸を辞したら、茗荷《みようが》谷《だに》の大川家へ寄ってみたいと思った。

「あなた、鉄平さんがお詣《まい》りに来て下さいましたよ」

 故大川一郎の妻は、まるで生きている人に話しかけるように、仏壇に向って云った。鉄平は鉦《かね》を鳴らし、線香をたてて合掌した。

 眼を上げると、仏壇におさまっている舅《しゆうと》の顔写真を見た。元通産大臣、自由党の領袖《りようしゆう》であった大川一郎は、鋭い眼光、贅肉《ぜいにく》の盛り上った頬、分厚な唇で、仏壇に入ってもなお脂《あぶら》ぎった威圧感を湛《たた》えている。存命中は、朝七時ともなれば、もう陳情客が玄関脇《わき》の十畳の待合室に列び、二台の電話がひっきりなしに鳴って、二人の女中と四人の書生が慌《あわただ》しく取り捌《さば》いていたが、今は一人の訪問客もなく、ひっそりとしている。凝った築山《つきやま》と燈籠《とうろう》を配した自慢の庭も荒れはてている。姑《しゆうとめ》の和代が、鉄無地の地味な着物姿できちんと端坐《たんざ》し、

「いつも心にかけてお詣り下さって、恐縮です、鉄平さんに来て戴くと、主人もさぞかしご機嫌でしょう、さあ、お膝《ひざ》をお楽に――」

 と云い、一人に減らした女中にお茶を運ばせ、娘婿《むすめむこ》の来訪を心《しん》から喜んだ。

「いや、お舅《とう》さんには、ご生前、いろいろとお世話になり、もっと足繁《しげ》くお詣りしなくては申しわけないのですが、このところ、どうしても手を放せないことがあり、ご無沙汰《ぶさた》致してしまいました」

「それでお仕事の方は、順調に行っていらっしゃいますか、主人は鉄平さんのこととなると、むきになって肩入れして、高炉の話になると、まるで自分が高炉を建てるかのように昂奮《こうふん》しておりましたわ」

 期せずして姑も、さっき三雲が云った言葉と同じことを口にした。現在、建設しつつある高炉の許可は、通産省重工業局長が転炉ぐらいにしておく方がと難色を示したのを、大川一郎の政治力によって強引に押し切り、認可を取り付けたのだった。そして高炉の鍬入式《くわいれしき》には、多忙な時間を割いて飛んで来てくれ、重工業局長をはじめ、通産省関係の来賓に自ら挨拶《あいさつ》して廻り、去年の祖父の十七回忌の法要の席で会った時も、通産省の来年度の鉄鋼業界の景気見通しは悪いらしいから、少しでも早く進めることだと親身に励ましてくれたが、思えばそれが大川一郎との最後になったのだった。

「お舅さんの存在が、どれほど僕にとって大きな力であったか、今さらのように思い返されます、それだけに……」

 気弱になりかけたが、すぐ気持を取り直し、

「それより、こちらの家内《いえうち》関係のこと、相続税その他は、うまく片付きそうですか?」

 気懸《きがか》りそうに聞くと、

「それが国税庁で、主人の生前は何かと取り計らって下さった方が転任され、その後はがらりと態度が変りまして――、それで美馬さんの方から頼んで戴いているのですが、もう一つはかばかしくない様子で、息子たちも困っておりますの」

 長男は、大川一郎の利権に繋《つな》がる大日本漁業の役員をし、次男も大川の息のかかった極東貿易に勤務していたが、二人とも父の威光を笠《かさ》に着るところがあったから、鉄平とはうまが合わず、どちらからともなく親しく話し合うことがなかった。特に長男の方は、大川の死後も、この邸《やしき》に移り住まず、別に暮し、四十九日、百カ日の法要の席などで鉄平と顔を合わせていたが、積極的に相談を持ちかけようとはしなかった。

「じゃあ、私からも美馬によろしく頼んでおきますが、お舅さんの息のかかった政治家で、その方面に顔がきく人がいらっしゃると、なおいいのですがねぇ」

「それがまた、何しろ主人の死が突然だったものですから、選挙をひかえて、皆さん、それどころではないようで――」

 あとは言葉を濁すように云ったが、大川一郎を長として集まっていた『大山《たいさん》会』の三十五人の代議士たちは、跡目相続の仲間割れでまとまらず、ちりぢりになって他の派閥に身を寄せつつあるのだった。大川一郎が死亡してからまだ半年も経《た》っていないことを思うと、鉄平は政治家の世界の有為《うい》転変をしみじみと思い知った。沈みがちになる雰囲気《ふんいき》を和らげるように、

「お姑《かあ》さん、先日は早苗がお邪魔しましたが、お役にたちましたでしょうか?」

 と聞くと、和代はほっと和んだ表情で、

「おかげさまで、あの娘《こ》が帰って何かと相談にのってくれますと、気持が晴れます、何といっても、実の娘は気がおけなくて、親身になってくれますからねぇ」

 息子たち夫婦とうまく行っていないことを洩《も》らすように云い、

「早苗は、何か少し元気がなさそうに見えましたが、そちらでちゃんと致しておりますのでしょうか」

 気遣うように聞いた。鉄平はとっさに返事に詰った。大川の死後、万俵家の早苗に対する態度は、掌《てのひら》を返したような冷淡さで、何かにつけて弟嫁の万樹子の方がたてられることが、早苗の心を傷つけているのだったが、

「いや、別に――、ただこのところずっと、僕の仕事が忙しくて、帰りが遅いので、疲れているのでしょう」

「まあ、そうなんですか、それなら安心ですよ、主人が元気な時から、早苗は実家《さと》帰りして参りますと、あなたが仕事第一主義で、家庭放棄だと不満を云っては、主人に、男はそれでなくてはいかん、仕事をする鋭気を養うためには、女遊びをして帰って来る亭主でも快く迎えんといかんと、手前勝手に、云い聞かせておりました」

 姑は、笑顔をみせて云い、

「そうそう、この間、早苗から聞いたのですけれど、二子さんは佐橋総理夫人の甥御《おいご》さまとご縁談がおありとか……、いえ、娘の嫁ぎ先のお妹さまのご縁談のことなど、さし出がましいのですけれど、ちょっと耳に致しましたものですから……」

 云いにくそうに聞きながら、仏壇の中の夫の写真を顧みた。大川一郎と佐橋総理とは、犬猿《けんえん》の間柄であったから、政治家の妻ならこだわるのが当然であった。

「実はまだ、僕は一度もその縁談《はなし》は聞いていないのですが、どうやら内々《ないない》で、進めているような様子ですね」

 と応《こた》えたが、鉄平は、もし大川一郎が健在なら、この縁談は進められただろうか、大川一郎が急死したことが契機になって、この縁談が始まったのではないかという疑念がうかんだ。大川一郎の葬儀の日、湿りのない表情で焼香していた父の顔が思い出され、もしやあの時、父は焼香をしながら、次なる閨閥《けいばつ》の相手を考えていたのではないかと思うと、咽喉《のど》もとが冷たくなった。

「あら、お喋《しやべ》りしているうちに、もう十時ですわね、鉄平さん、今夜はうちで泊って下さいましな、このところ、家内《いえうち》もすっかり寂しくなってしまって――」

 曾《かつ》ては、三十五人の代議士を抱えた『大山会』の長として、大川一郎は年中、料理屋のように来る人ごとに酒肴《しゆこう》を振舞い、談論風発すれば夜を徹して語り明かし、妻である和代は、料理屋の女将《おかみ》さながら、数人の女中たちを賑《にぎ》やかに指図していたことを思うと、鉄平は、俄《にわ》かに身辺がわびしくなり、齢《とし》老いた姑の気持をむげに拒みかねた。ホテルでぐっすり眠り、連日の疲労をとりたかったが、

「ようございますとも、久しぶりに泊らせて戴きますよ」

 姑をいたわるように、闊達《かつたつ》に笑った。

 *

 午後五時を過ぎると、大蔵省の記者クラブ詰の新聞記者たちが、省内を遊泳しはじめる。阪神銀行東京事務所総務課の伊佐早五郎は、日本新聞の内藤記者を記者クラブから出る前に掴《つか》まえるべく、急ぎ足で二階の大臣室の前を通り抜け、廊下の突き当りにある記者クラブへ顔を出した。

 各全国紙、通信社、日刊業界紙に、放送関係が加わった記者クラブは、五時を過ぎて既に記者たちが出払ったあとらしく、閑散としており、各社のキャップが数人、碁《ご》を打ったり、夕刊をひろげて話し合っているだけであった。

 伊佐早は、一足遅かったことを悔んだが、目だたないように素早く記者クラブから踵《きびす》を返し、内藤記者が省内を廻るとすれば、主計局、銀行局、理財局のどのあたりから先に廻るか、考えをめぐらせながら、エレベーターのボタンを押した。

「あっ、これは美馬さん――」

 エレベーターの中から出て来たのは、主計局次長の美馬中であった。

「ああ、君か――」

 美馬は、伊佐早の会釈《えしやく》に軽く頷《うなず》き、そのまま行き過ぎかけた。時折、省内で顔を合わせることがあるが、美馬はよほどの時以外は口をきかない。舅《しゆうと》の阪神銀行の忍者との話は、周囲から色眼鏡で見られやすいからであった。伊佐早五郎にしても、その辺は充分心得て、殆《ほとん》ど言葉はかけなかったが、今は一刻も早く内藤記者を掴まえる必要があったから、辺《あた》りに人のいないのを幸い、

「日本新聞の内藤さんを主計局で見かけられませんでしたでしょうか?」

「いや、来ていなかったが、どうかしたのかい?」

 切れ者の多い大蔵省廻りの記者の中でも出色の記者であったから、美馬は探るように聞き返した。

「いえ、ちょっと伝言がありまして――」

 言葉を濁すと、美馬はじろりと伊佐早に一瞥《いちべつ》をくれ、そのまま行ってしまった。

 伊佐早は、止めっ放しにしておいたエレベーターに乗ると、ともかく銀行局をのぞいてみようと、四階のボタンを押した。伊佐早が内藤記者を追っているのは、今日の午後、発売になった『週刊日本』の“霞《かすみ》が関《せき》スズメ”というコラムに、内藤記者が“大同銀行、三専務制の舞台裏”と題して書いている記事の根を、もう少し深く探るためであった。

 記事は「空席の副頭取のポストに、かねてより昇格が噂《うわさ》されていた筆頭専務の綿貫千太郎は、今期取締役会で再び昇格を見送られた。加えて、従来二専務制であった役員定款《ていかん》が、このほど三専務制に変更され、新たに日銀天下りの外国担当常務の白河裕《ひろし》が専務に昇格、この人事をめぐって“絹のハンケチ”三雲頭取と“もめんの雑巾《ぞうきん》”綿貫専務との抗争が深刻化しそうな気配である」という書出しで、大同銀行のお家騒動的な事件が戯画化して書かれていたが、短いコラムだけに事の真相が掴みにくい。平素なら内藤記者と顔を合わせた時に探るところだが、芥川東京事務所長から、大同銀行の綿貫専務に関する情報を、細大洩らさず収集するようにと特命を受けていた矢先だけに、第三者に気付かれないように聞き出さねばならない。

 エレベーターを降りると、

「あら、伊佐早さん、今日は三回目ね」

 廊下の向うから、帰り支度をした顔馴染《なじ》みの女子職員が、くすりと笑って、声をかけて来た。時折、手袋や観劇券をプレゼントして、ご機嫌をとり結んでいる銀行課の女子職員であった。

「われら末輩は哀れなもんさ、そうだ、君、日本新聞の内藤さん、見かけなかった?」

「内藤さんなら、井床銀行課長のところに来てるわ、さては今日のお目当ては彼ね」

 図星をさすように云った途端、伊佐早は返事のかわりにウインクを送って、脱兎《だつと》の如《ごと》く銀行課に駈《か》けつけた。

 銀行課には係官の姿は殆どなかったが、井床銀行課長の机の前に、内藤のほかに数人の新聞記者が坐《すわ》り込んでいる。

「で、井床課長の方には三雲頭取から今回の人事について、コメントがあったんでしょう?」

 若い記者の声がした。伊佐早はしめたと思いながら、何食わぬ顔で記者たちのうしろにたった。井床銀行課長は伊佐早の方をちらっと見たが、敢《あ》えて咎《とが》めだてもせず、

「コメントは貰《もら》っている、白河常務は日銀外国局の部長時代、外国為替に弱い大同銀行に、いわば乞《こ》われて入った常務で、この四年間、外国部門の強化につとめ、所期の成果を上げたので、この際、専務に昇格させ、外国部門の陣容をなお一層、強化したい、ということだった、だが、綿貫千太郎君の専務据置きについては、格別聞いてないよ」

 記者たちの質問にひっかからぬよう、あたりさわりなく応えている様子であった。

「すると、三雲頭取はああみえて、なかなかのやり手なんですかねぇ、要は今度の人事は、三雲体制の強化を狙《ねら》った以外の何ものでもないじゃないですか」

 別の記者が云うと、内藤記者が、

「そうでもないさ、三雲頭取の個人的な心情としては、長年苦労した綿貫専務をこのあたりで副頭取に昇格させ、生抜き派の宣撫《せんぶ》工作をしたかったんだが、日銀の方から横槍《よこやり》が入って、断念したというのが真相だよ」

「ほう、うがった推理だな」

 井床銀行課長が半信半疑の体《てい》を装いながら、今度は逆取材にかかった。

「いや推理じゃないですよ、ニュース.ソースは云えないけど、取締役会の一週間程前、三雲さんはどうやら綿貫さんに次期副頭取への昇格を約束したらしい、ところが寸前になって、日銀の松平総裁が三雲さんを呼び出し、大同銀行の副頭取のポストは空席のまま、見送ってほしいというプレッシャーをかけたらしいんだな、松平総裁の頭の中には、市川理事がもう随分、長いことになるので、奴《やつこ》さんの転出先として、大同銀行副頭取のポストを確保しておき、いずれは三雲頭取の後継者に据えようという考えが、早くも去来しているんだと思うね」

「なるほど、考えられる筋書だね」

 井床課長が頷《うなず》くと、さっきの若い記者も、

「それなら、取締役会の夜、綿貫派が一団となって、赤坂の料亭から銀座へ繰り出し、荒れたのも無理からぬことですね、たまたま僕はあの夜、銀座で飲んでて、一行をみかけたんですが、えらく昂奮してましたよ」

「副頭取就任祝いとして用意していた席が、残念会になったのだから、そりゃあ頭にも来るだろう、内藤君の『週刊日本』の記事じゃないが、あの綿貫ほていさん[#「ほていさん」に傍点]のことなら、念願の副頭取だけに、金縁《きんぶち》の分厚い名刺を手廻しよく作って、机の引出しにしまって、毎日、にたにたしながら眺めていたかもしれないな」

 また一人が、まぜっ返した。

「大いにあり得る光景だな、しかしこれで綿貫さんも副頭取への道が完全に閉ざされ、哀れ一巻の終りというわけだね」

「そうかもしれんが、三雲さんはこれでぬぐい難い私怨《しえん》を買い、ますますやりにくい立場に追い込まれるだろう」

 内藤記者がそう云い、たち上りかけると、伊佐早は、そこまで聞いてしまえば、それ以上、内藤記者にこと改めて聞くことはないと判断し、阪神銀行東京支店へとって返した。

 東京事務所の灯《あか》りは、まだあかあかと点《つ》いている。伊佐早は総務課を素通りして、事務所長室へ直接、行った。芥川は、

「詳しい報告は、この電話のあとで聞くから、ちょっとそこで待っていてくれ給《たま》え」

 と云うなり、直通電話のダイヤルを廻した。

「もしもし、綿貫専務はおられますか、私、阪神銀行の芥川でございます」

 大同銀行秘書課への電話であった。綿貫の在否を待つ間、芥川は空いている左手を伸ばして、郵便入れから和紙の封筒にしゃぶしゃぶ屋の店名が印刷してあるダイレクト.メールをつまみ出した。

「もしもし、これは綿貫専務、突然、こんな時間にお電話などさし上げまして……いえいえ、こちらこそ……突然ですが、今晚、空いておられませんか」

 芥川はよどみなくそこまで云い、相手の言葉を聞いていたが、

「そうですか、いえ、ほかでもありませんが、神戸の花隈《はなくま》の元芸者が、日劇の向いのビルの地階に、しゃぶしゃぶを食べさせる東京店を出し、今日がその開店披露日なんですよ、有楽町といえば、ほら、十何年前に、専務は大同銀行有楽町支店の名支店長、私は支店経験はじめての新米支店長で、何かとお引き廻し戴《いただ》いた思い出のところでございますので、久しぶりに当時を懐《なつ》かしんでご一献《いつこん》、さし上げたいと存じましてねぇ、そうです、そうです、では歌の文句ではありませんが、七時に有楽町で会いましょうと参りますか、お待ち致しておりますよ」

 芥川は約束を取りつけ、電話をきると、伊佐早の方へ向いた。

「さて、出かけるまでに、君から詳しい話を聞こうか」

 忍者部隊長らしい手際《てぎわ》のよさで促した。

 日劇前のビルの地階に開店した『花くま』は、開店披露のせいか、満員の盛況でテーブルはふさがり、神戸肉のしゃぶしゃぶを煮る匂《にお》いと湯気が、店内にたち籠《こ》めている。

 芥川は、奥に三つほどある座敷の一つに入って、綿貫を待っていた。床柱から座敷机までがっしりとした太木で作られた民芸調の内装を眺めていると、襖《ふすま》が開き、

「すんまへん、ほったらかしにしといて」

 関西弁の三十五、六の女盛りの女将が、元芸者らしい色っぽい身のこなしで、茶を運んで来た。

「いや、なかなか豪勢な店開きだね、よっぽど旦那《だんな》の景気がいいとみえる」

「いややわ、旦那のことなど云いはったら、営業妨害だっせ」

 軽く睨《にら》む振りをし、店開きの苦労話をしていると、綿貫千太郎がぬっと入って来た。黙っていても絶えず喋《しやべ》っているような赭《あか》ら顔が、今日にかぎって生気がないのは、さすがに『週刊日本』の記事を気にしているらしい。芥川はしいて陽気な声で、

「突然、勝手なお誘いなどしてすみません、お待ちしていましたよ」

 と云うと、女将も、

「ようお越しやす、神戸肉と灘《なだ》の樽《たる》ぬきのお酒が売りものでおますので、これからはせいぜいご贔屓《ひいき》に――」

 と挨拶《あいさつ》し、ぽんぽんと手を叩《たた》いて、仲居たちに酒としゃぶしゃぶ鍋《なべ》の用意を云いつけ、席をたった。

 鍋の用意が出来、二人きりになると、芥川は綿貫に酌をし、

「五行連合、その他《ほか》の席で顔を合わせていても、こうして綿貫専務とさし[#「さし」に傍点]で飲むなど、有楽町の支店長時代以来のことですね、あの頃はこんなビルなどまだなくて、国電沿いの寿司屋《すしや》横丁で、よく飲んだものですね」

 昔を懐かしむように云うと、綿貫も盃《さかずき》をぐい飲みに替えて飲みながら、

「旧《ふる》きよき時代というのも、あの頃までですな、今はやたらとマスコミが幅をきかせて、おちおちしてると寝首をかき切られる――」

 憤懣《ふんまん》やるかたないように云った。

「いや、全く、マスコミといえば、今週の『週刊日本』を読みましたが、怪《け》しからんですな、芸能界のことを書くような感覚で、われわれ金融界の、しかもトップのことを書くなんて、記者の節度を疑いますよ」

 共通の被害者めいた表情で云うと、

「やっぱり芥川さんもそう思いますか、私は何も副頭取の名刺など、作っとりゃせんのに、あんな風に書かれ、内藤とかいうあの記者を告訴してやろうかと思っている」

「まあお気持は解《わか》りますが、内藤記者は大蔵省のみならず、大物財界人や政治家にも顔の利《き》く相当な記者ですから、敵に廻すと、手強《てごわ》いですよ、それよりここは我慢して、いつか機会があったら私がお引合せ致しますから、お会いになったらいかがです?」

「なるほど、そういうものですかねぇ――、しかし、なんといっても今度の人事で、一番可哀《かわい》そうなのは、私に期待をかけていてくれた部下たちですよ、取締役会を前に、みんな今度こそは私を副頭取にして、生抜き派の頭取を実現させる足がかりをつくろうと必死でしたからねぇ」

「その気持は解りますよ、聞くところによると、今度の人事も日銀からプレッシャーがかけられたとかいうことですが、そうなんですか?」

「あたらずとも、遠からずとだけ、申しておきましょうか、一旦、日銀の色がついてしまうと、なかなかわれわれの思うようにはいかんものでしてねぇ」

 薄桃色の肉を頬張りながら、吐き捨てるように云った。芥川も鍋をつつきながら、

「伺えば伺うほど、綿貫専務のお立場の難かしさが解りますよ、たしか本店営業部長の湊《みなと》さんあたりは、専務が取締役の頃から、ずっと仕えて来られた人だけに、最も尖鋭《せんえい》な綿貫親衛隊じゃあないのですか」

 綿貫の愚痴から、そろそろ綿貫派の派閥のメンバーを探りかけた。

「中堅どころでは彼など、よく慕ってくれますな、しかし何分、血気盛んな男だけに、例の取締役会の夜などは、残念無念と男泣きに泣いて飲み步き、おかげで酔いつぶれた彼を明け方近くまで、私が介抱させられる羽目になったんですよ」

 苦笑すると、芥川は感じ入るように、

「ということは、それだけ専務のご信望が厚いということじゃありませんか、たしか専務を囲む行内の勉強会というのがあると聞いてますが、さぞたくさんの部下の方がお集まりになるんでしょうねぇ」

 今後、部下たちをそういったメンバーにアプローチさせるために、さらに一步、突っ込んで聞いた。

「いや、勉強会というほど大袈裟《おおげさ》なものじゃあないのですが、業務担当の小島常務や、総務企画担当の角野常務、中堅どころでは湊君や長谷川総務部長をはじめ、都内の主《おも》だった支店の支店長など、昔、一緒に苦労した連中が月に一度、神楽《かぐら》坂《ざか》あたりで気軽に集まって、飲んだり、議論したりしていますよ、今となってはこうした部下の成長だけが、私の楽しみですな」

 苦いものをのみ下すように、綿貫は最後の言葉を酒とともにぐいと飲み干し、

「いやあ、芥川さん、ついあなたの聞き上手と昔の懐かしさが手伝って、つまらぬ愚痴を並べたててしまいましたが、まあお互い、これから長いのですから、大いに頑張りましょうや」

 綿貫はやっと大同銀行の専務らしい節度を取り戻し、

「時に芥川さん、今日は私にご用でもあったんじゃないですか?」

 と聞いた。芥川は一瞬、ぎくっとしたが、

「いえいえ、別に、たまたまここの案内状が来て、有楽町時代を思い出し、お誘いしただけのことですよ」

 さして飲んでいないくせに、ほろ酔い機嫌で笑うと、

「そうですか、じゃあ、私の方でこの席を借りて、ほんの少々、用談をさせて戴いてもよろしいですか」

 俄《にわ》かに改まった口調で云い、

「実は、芥川さんも既にご承知かもしれませんが、当行の取引先であるアサヒ石鹸《せつけん》が今度、ロイヤル化粧品を買収して、男性化粧品の分野にまで、経営の拡大をはかることになりましてね、そこで一つ、ロイヤル化粧品の一括販売をしている精華商事のメイン.バンクの阪神銀行さんにも、これをご縁に一つ、アサヒ石鹸とのお取引を、お願い致したいと思うのですが、いかがなもんでしょうか」

 さっきまでのしょぼくれ方とは打って変った生き生きとした表情で話した。人が旧交を久々に温めるためにと誘った席で、ぬけぬけと自行の取引先の面倒をみてほしいなどと依頼するその厚かましさに、芥川はあきれながらも、

「御行《おんこう》のお取引先のお手伝いとあれば、ご協力はやぶさかではございませんが、何分、私は融資の方とは縁が薄いものですから、融資担当に早速、話しておきましょう、その上で何でしたら、アサヒ石鹸の社長とお会いしてもようございますね」

「そう云って戴くと有難いですよ、実はうちの息子の嫁が、アサヒ石鹸の社長の次女でして、なまじ親戚《しんせき》関係があると、有望な融資でも、情実貸付の何のと、へんに勘ぐられて、思い切った融資ができませんのですよ」

 綿貫が云うと、芥川は、

「いえいえ、当行も阪神特殊鋼がいつもご無理ばかり申し上げているそうですから、お互いさまですよ」

「阪神特殊鋼さんといえば、このところ市況が悪化して、底なしの不景気と云われているだけに、大へんですねぇ、万俵鉄平専務もお若いだけに、ご苦労が多いことでしょうな」

 綿貫はこのところ融資申込みが急な阪神特殊鋼の内情を探り出すように云ったが、芥川は、

「まあ、蛙《かえる》の子は蛙というのか、根っからの事業好きなんでしょうね、しかし、阪神特殊鋼と当行の間も、ちょうどおたくとアサヒ石鹸のように親子関係にあるだけに、かえって万俵頭取も甘い顔が出来ず、やりにくいのですよ、お互い銀行家というのは、不自由なものですな」

 と巧みに綿貫の口を封じ、

「さあ、今夜は私が昔のご恩返しの意味で介抱させて戴きますから、ゆっくり飲みあかしましょうや」

 と云いながら、アサヒ石鹸への融資を緒《いとぐち》に、もっと深く大同銀行の内部を覗《のぞ》き見られるかもしれないと思った。

 万俵は、秘書の速水《はやみ》の言葉を苛《いら》だたしく遮《さえぎ》った。

「何度、云ったらわかるのだ、私は目下、多忙で、鉄平と会う時間などないのだ」

「ですが頭取、万俵専務が面会をお申し越しになって既に一週間になっているのです、ご多忙とおっしゃいましても、ここ数日間の予定は、平素と比べれば会合や宴会も少なく、特に今日は夜の会合もございませんから、一、二時間のやり繰りはおつきになるのではないでしょうか」

 速水は、澄んだ眼《まな》ざしで云った。事実、その通りであったから、万俵は口詰ったが、机の上の予定表へ眼を逸《そ》らせ、

「そりゃあそうかもしれないが、時間に拘束されないこういう時こそ、一行の頭取としての考えごとや勉強があることを、君は心得ているだろう」

「お言葉を返すようでございますが、今、阪神特殊鋼は――」

 控え目に云いかけると、

「いい加減にし給え、少しさし出がまし過ぎる」

「どうも、失礼致しました」

 速水が一礼して頭取室を退《さが》って行くと、万俵はさらに苛だたしげな表情で回転椅子を左右に廻しながら、業績低下の一途で、来期六月~九月も、膨大な資金繰りを云って来ている鉄平が、もし自分の息子でなく、しかも技術者でなければ、即刻、首をすげ替えてしまいたいほどの憤《いきどお》りを覚えた。

 眼の前の直通電話が鳴った。不機嫌に受話器をとると、東京事務所長の芥川からであった。

「頭取、その節、申し上げておりました大同銀行の綿貫専務と、昨夜、さしで会って参りました」

「綿貫専務といえば、『週刊日本』の記事を読んだが、今度の人事ではえらく恥をかかされた様子だな、真相はどうなのかね」

「そのことなんですが、頭取――」

 芥川は、低くしぼった声を一段と低め、部下の伊佐早五郎が大蔵省で取って来た情報と、自身で綿貫専務を有楽町のしゃぶしゃぶ屋の開店披露に誘い出し、三雲頭取に対する反感の深さと綿貫派の派閥の主要メンバーを聞き出してきたことを、こと細かに報告した。万俵は興味深げに聞いていたが、聞き終ると、

「しかしいずれにしても、綿貫専務は来春あたり、系列企業へ転出という形で、体《てい》よく追われるわけだろう?」

「そのことですが、昨夜の席で綿貫専務は、自らの手で今日《こんにち》あらしめ、姻戚《いんせき》関係も結んだアサヒ石鹸へ、当行の融資を願いたいというのですよ、ということは、綿貫さんがもはやアサヒ石鹸へ転出の覚悟をきめ、アサヒ石鹸サイドにたって、今のうちに融資ルートを拡《ひろ》げておこうという腹なのか、あるいは今度の人事で煮え湯を呑《の》まされた三雲頭取へ巻返しを図るための策なのか、実のところ、私も判断に迷っているのでございますよ」

「じゃあ、今度、渋野常務が上京した折に、大同銀行とアサヒ石鹸の双方の話を聞かせてみることだ」

「かしこまりました、それでは――」

 芥川が電話をきりかけると、

「いや、ちょっと待ち給《たま》え、今、三雲頭取への巻返し策かもしれないといったが、三雲頭取はアサヒ石鹸への融資は反対なのかね」

「そうらしいですね、綿貫さんは飲むほどに昂奮《こうふん》して、三雲の殿さんは商売を知らん、融資先まで、基幹産業だから有意義だの、石鹸だからもう一つだのと、専《もつぱ》ら業種の品位と経営者の毛並ばかりを云々《うんぬん》すると息まき、あげくの果ては阪神特殊鋼がよくて、何でアサヒ石鹸が悪いんだと、延々二時間も絡《から》むのですから、閉口致しましたよ」

 酒癖の悪さを辟易《へきえき》するように云った。

「よし、綿貫専務には、私自身が会おう」

「え? 頭取が、ごじきじきにですか」

「うむ、それまでに渋野常務にアサヒ石鹸の業績を充分に調査させる」

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