綿貫は歯をせせった後、ごぼごぼと咽喉を鳴らして茶を飲み、テーブルをたったが、三雲に、自分と万俵頭取との間で暗黙裡に取り交わした交換融資のことをどう諒承《りようしよう》させたものか、思いあぐねながら食堂を出ると、
「専務、やはりこちらだったんですね」
出合いがしらに総務部次長の影山が寄って来た。
「びっくりするじゃないか、そんな大きな声で――、何か用かね」
「どうも失礼致しました、実は専務のお留守中に、ちょっとした事件がございましてね」
耳もとで囁《ささや》いた。影山は綿貫の腹心の部下で、総務部次長という職務柄、各部から入って来る情報をいち早く綿貫に耳打ちしたり、また綿貫の伝令をもって、各部の綿貫親衛隊に伝える連絡将校であった。
「事件というと? また日銀の若さま連中がチョンボをしでかしたのかね」
いち早く事件の性質を嗅ぎ取るように、鼻翼をふくらませると、
「若さま連中でなく、今日は殿《との》さま自身なのですよ、というのは、この間、製菓業界の老舗《しにせ》の大正製菓が倒産した時、何かの会合の席上で、三雲頭取は例のごとく資本自由化になると、日本の製菓業界はひとたまりもないというようなことを喋《しやべ》ったらしくて、それが今日の朝刊に出ているのですよ、おかげで当行の取引先で、全国製菓協会会長をしている山田製菓社長が、かんかんに怒って銀行へ乗り込んで来、大へんな剣幕でしたよ、幸か不幸か、三雲頭取はまた日銀へ行って留守でしたが、銀行の頭取ともなれば経済学者ではないのですから、少しは考えて発言して戴《いただ》きませんとねぇ」
影山総務部次長は、ひそひそと早口に顛末《てんまつ》を話した。
「困った殿さんだな、山田製菓社長にはあとで電話をしておくよ」
「是非ともそうお願い致します、山田社長も、綿貫専務なら自分の胸中が解《わか》って貰《もら》えると云っておられたので、随分、お探ししたのですよ」
「実はな、阪神銀行の万俵頭取と会って、アサヒ石鹸の融資を頼んで来たんだ、これだよ」
親指と人差し指をまるめて、OKのサインをした。
「えっ、ほんとですか、向うは阪神特殊鋼への融資さえも、最近――」
と言葉を継ぎかけると、
「しっ、噂《うわさ》をすれば何とやらで、向うから三雲の殿さんがやって来る、じゃあアサヒ石鹸OKの件は、みんなに伝えておいてくれ」
綿貫は、三雲頭取の姿をいち早く見つけて、影山に目くばせすると、
「それでは只今《ただいま》、専務のご指示の件は、早速、致しておきます」
影山は取り繕うように云い、三雲頭取には恭《うやうや》しい一礼をして、足早に去った。
「おや、頭取も只今からお食事で――」
綿貫は、すっとぼけた顔で聞いた。渋いグレーのスーツに、同系色のネクタイとハンカチーフをのぞかせた三雲は、綿貫と総務部次長のわざとらしい態度に気付いていたが、
「ええ、あなたは今、済ませたのですか」
口もとにぷうんと鰻の匂《にお》いをさせている綿貫に、生理的な厭悪《えんお》感を覚えながら云った。
「そうなんです、お互い昼食も時間通りに摂《と》れず、因果なことですが、もしおよろしければ、久々にお茶なりとご一緒させて戴きたいものです」
三雲は、綿貫の低姿勢ぶりに、何かあるらしいと察したが、拒む理由が見つからなかったから仕方なく頷《うなず》き、まっ白いテーブル.クロスのかかった一番奥の頭取専用テーブルにつくと、綿貫もその脇《わき》に坐り込んだ。
「私は今日は、コンソメと小海老《こえび》のコキールを戴こう」
三雲はボーイに云い、
「何かお話があるようですね、今なら廻りに人もいないことだし、先に聞いておきましょう」
拡げかけたナプキンを畳んだ。
「じゃあ、そうさせて戴きましょうか、実は昨夜、柳橋の料亭で接待客を送り出して座敷に戻る廊下の途中で、ぱったり阪神銀行の芥川常務と顔を合わせましてねぇ、いつも五行連合の会で会っているのですが、向うも接待が終り、たまたま万俵頭取も一緒だからと誘われまして、頭取ご直々にご馳走《ちそう》になったんです、そこでまたとない機会を生かして商談を一つ、まとめて参りましたよ」
商談という露骨な表現に、三雲は眉を顰《ひそ》めたが、綿貫は、
「その商談というのは他《ほか》でもありません、アサヒ石鹸《せつけん》への融資ですが、ロイヤル化粧品を居抜きで買収するに当っての多額の資金需要を、阪神銀行に半分、押しつけることに成功致したんですよ」
得意気に云った。
「阪神銀行が、この金融引締め期に、十億もの融資を――、しかもアサヒ石鹸になど、ちょっと考えられないことですね」
「失礼ですが頭取、アサヒ石鹸は、三雲頭取がお考えになっているほど、世間では低くみておりませんですよ、殊《こと》に阪神銀行の場合は、大衆消費財への進出を図りたがっていた矢先で、非常に乗り気である上、阪神特殊鋼に対する三雲頭取の誠意溢《あふ》れる融資態度に、万俵頭取がいたく感謝しておられることもあって、私自身も驚くほどスムーズに成りたったのですよ、これで長い間、懸案になっていたアサヒ石鹸の資金調達の問題もけり[#「けり」に傍点]がつきそうですので、これからは阪神特殊鋼の融資について、私も三雲頭取のご意見にご協力させて戴きますよ」
「それは結構ですが、あなたが阪神特殊鋼の融資に反対であったのは、本能的にあそこの会社は危ない勘がするからだと、ついこの間の融資会議でも、ぶち上げたばかりじゃないですか」
「いや、実はあまり行内の意見が両極端に対立するので、あれから特殊鋼業界のことを勉強してみたんですが、いち早く高炉による一貫体制を打ちたてて、コストの安い特殊鋼をつくる方向をとっている阪神特殊鋼は、先見の明があり、将来性もあることが、遅まきながら解りました、やっぱり三雲頭取の勝ちでしたね」
「融資に勝ち負けというような云い方は、おかしいですよ、要は――」
三雲が、きっとした表情で云いかけると、
「いや、言葉は悪いですが、万俵頭取と話していて、石鹸の、鉄のと云って行内で足をひっぱり合っているなど愚劣なことだと思いましたよ、共に将来性のあるものなら、これからは石鹸と特殊鋼の共存共栄で参りましょう、さしずめ目下、申込みのある阪神特殊鋼の融資は、別枠《べつわく》融資ということにして認めさせて戴きますよ」
交換融資であることを気取られぬように、狡猾《こうかつ》に云った。
*
阪神特殊鋼の役員会議は、重苦しく苛《いら》だたしい気配に包まれていた。
不況に落ち込んでいる経営の打開策を図るための会議であったが、製品の売値は、今や錐《きり》もみ状態で墜落する飛行機のような加速度で値崩れしているのだった。社長の石川正治は、ノイローゼ気味の表情で正面の椅子に坐っていたが、専務の万俵鉄平は、テーブルを囲んでいる経理担当の銭高、営業担当の川畑、設備担当兼工場長である一之瀬の三常務をぐるりと見廻し、
「たしかに現在、当社が置かれている立場は大へんだ、しかし、ここで弱気になっては完成前の高炉建設にひびくから、何とか積極的に打開する方策を打ち出すことだ」
さっきから沈滞しがちな会議の空気を盛り上げるように云った。経理担当の銭高は、口髭《くちひげ》をたくわえた小作りな顔で、
「ですが、先程来、何度もご説明しておりますように、五月中旬、トン当り八万五千円であった軸受鋼《じくうけこう》が七万五千円に、四万五千円だった構造用鋼が三万九千円に値下りし、さらにここ一カ月の間に、それぞれトン当り五、六千円も値下りしては、操短して生産を落しても人件費その他の固定費は変りませんから、その分の赤字、値下り分の赤字、さらに金利負担をふくめて、とても現状のままで切り抜ける自信はありません、銀行筋も心配しているようでして、大同銀行や長期開発銀行からは、市況が悪いこの際、膨大な設備費を食う高炉建設を一時中止されてはという話もあるぐらいです」
と云うと、営業担当の川畑も、
「もはや、いい製品を作っても売る自信がありません、こうダンピング競争が激しさを増しますと、買い手の云い値に応じるより他《ほか》ありませんが、そうなると、売れば売るほど赤字になり、しかも高炉建設で他社より固定費の負担が多い当社の現状としては、いたずらに積極策を打ち出すより、ここは一時、高炉建設を延期する方がいいように思います」
第一線にたって売りまくるべき営業が、消極的な意見を吐いた。鉄平は、
「私の見るところ、特殊鋼の不況はそう長く続くとは考えられないから、予定通り高炉を完成し、銑鉄《せんてつ》一貫生産の体制を作って、一刻も早くコスト.ダウンを図るべきだと思う、それに不況の時の方が、工費その他、何かと無理もききやすいから、一挙にやり上げるべきだ」
精悍《せいかん》な眼を光らせ、消極的な意見を蹴《け》った。工場長の一之瀬も、日頃の温和な顔を紅《あか》らませ、
「そうですとも、完成前の高炉を途中で中止したら、その設備の保全はどうするのですか、第一、既に高炉操業のための原料は船に積み込まれて、今、太平洋を渡ってこちらの岸壁に向いつつあるのではないですか、そんな時、高炉建設を中止しては現場の作業員の士気を損いますよ、それに工事を一時中止し、再開する場合の方が、かえって余分な費用が加わるじゃありませんか」
採算第一主義の銭高の考えを衝《つ》くように云うと、
「それは借金のない場合の話でしてねぇ、当社のように高炉建設のために膨大な負債を抱えている場合は、不況期に身分不相応な設備投資を続けて、必要以上に資金を固定するのは、もってのほかだと思いますよ、私はこの夏のボーナスの手当さえ頭が痛いぐらいですよ」
銭高はいや味な云い方をし、
「先刻来、私たちの意見は殆《ほとん》ど出尽しましたが、社長のご意見はいかがなものでございましょうか」
と聞いた。お飾り餅《もち》的な社長の石川正治は、鶴《つる》のような痩身《そうしん》で、
「私としては専務の云うところの気持もよく解るが、一方、経理が資金的に自信がないということにも一理があって、それを無理に押し切ってやれとは云えないしねぇ……」
ほとほと困惑するように、言葉を濁した。鉄平はむっとし、
「じゃあ、私が資金的な面まで責任を持てばいいわけでしょう、今までだって、私自身が大同銀行その他へ足を運んで資金繰りに走ったことがあるのですから――、と同時に、さっきのボーナス云々《うんぬん》の話だが、そこまで資金繰りが苦しいなら、まずわれわれ役員賞与の辞退からはじめようじゃないか、その上で社内全体にさらに徹底した諸経費の節減を実施させよう」
心を決めるように云うと、銭高は慌《あわ》てるように、
「いやいや、そこまでして戴かなくとも、経理担当たる私は、それぐらいのところは、ちゃんと致しますよ、私が云うのは、月々、何億もの高炉の設備資金のことでして――」
言葉を濁しかけた時、会議室の扉をノックし、秘書が入って来た。
「会議中、恐縮でございますが、銭高常務にお電話がございまして――」
と云い、メモをさし入れた。役員会議中はよほどの用件でない限り、みだりに電話を取り次がないことにしているから重要な用件に違いなかった。銭高はメモに眼を走らせ、
「会議が終り次第、ご連絡致しますと、申し上げておいてくれ」
と云い、鉄平の方に向き直った。
「まあ、まあ、専務のようにそう昂奮《こうふん》してしまわれてはお話になりません、私だって資金調達のめど[#「めど」に傍点]さえたてば、もちろん、高炉完成に異論があるはずはありませんが、肝腎《かんじん》のメインの阪神銀行がこれ以上貸さないと云っておるのですから、仕方がないではありませんか」
「いや、父が支援してくれることになっている、阪神銀行としてはこれ以上貸せないが、阪神銀行が保証して、インパクト.ローンを導入する手はずにして下さっている」
「ほう、いつ、そんな話が決まったんでございますか」
銭高は怪訝《けげん》そうに首をかしげた。
「先月の二十日頃だ、大蔵省の国際金融局に手を廻して貰っているから、私はむしろ当初の予定よりもっと高炉完成の期日を早めるべきだとさえ考えているんだ」
拳《こぶし》を振るように鉄平が云い放つと、一之瀬は、
「突貫工事でやれば、一カ月の工期の短縮は可能だと思います、もし突貫工事と決まれば、設備担当役員として、責任をもって高炉請負業者を説得致しますよ」
と応《こた》えた。
「しかし、突貫工事ともなれば勢い、徹夜作業が多くなり、工費が予算より上回るのではないですか」
銭高がすかさず言葉を返すと、鉄平は、
「そりゃあ、もちろんだ、しかし、一日も早い一貫生産体制によって、工費の割増分ぐらいは取り戻せる、したがって高炉建設は一時中止ではなく、突貫工事で工期を早めるというのが、私の結論ですが、社長のご決心はいかがです?」
断固とした語調で迫ると、石川社長は顔を硬《こわ》ばらせて瞬時、沈黙し、
「そこまで高炉建設本部長を兼務している専務が決意しているのなら、社長の私としても、突貫工事に踏み切らざるを得ない――」
専務の鉄平に下駄を預けるような云い方で、断を下した。鉄平と一之瀬の眼には喜びの色が漲《みなぎ》ったが、営業担当の川畑は押し黙ったまま、銭高はねっそりとした上眼遣いで、鉄平の方を見、
「しかし私としては、もはやとても一人で資金調達する自信がありませんので、先程の専務のお言葉に甘えまして、これからは大いに専務のご協力をお願いします」
と云ったが、先程の電話が気懸《きがか》りらしく、時間を気にするように会議が終るなり、そそくさと席をたった。
銭高は阪神銀行の東玄関の前で車を降りると、人眼を憚《はばか》るようにさっと中へ入り、エレベーターに乗って三階の頭取室へ足を向けた。
最前、電話をかけて来たのは頭取秘書の速水で、急用があるので五時過ぎに銀行に来るようにという万俵頭取の伝言であった。毎月の阪神特殊鋼の業績報告以外に、万俵頭取から急ぎの用があると云われる時は、専務の鉄平に内緒で来るようにというニュアンスを含んでいる。むろん、万俵頭取の口からは、内緒などという言葉は一度も出なかったが、明らかにそういう意味合いが読み取れた。
「どうも遅くなりまして――、会議が終りましてから急いで駈《か》けつけて参りました」
銭高は、阪神特殊鋼の常務というより、阪神銀行の元融資部長のもの腰で万俵の前に進み寄った。
「ご苦労――、それで今日の会議はどうだったのかね」
机の前の椅子を顎《あご》で示した。銭高は畏《かしこ》まるように腰をかけ、
「それがまことに申しわけないのでございますが、現在の不況と資金繰りの苦しさを説明して、高炉建設の一時中止を主張したのですが、専務に押し切られまして、逆に工期を早めて突貫工事という結論になってしまいました――」
と云い、万俵の厳しい叱責《しつせき》を覚悟するように深々と頭《こうべ》を垂れた。
「じゃあ、勝手にやらせるがいい、だが、当行としてはこれ以上、融資するわけにはいかないよ」
「しかし、メイン.バンクが引いたということになると、他行が――」
と云いかけると、万俵は表情を動かさず、
「他行の手前は、これまでの融資シェア分についてのみ、融資した形を取ることにすればいい」
「え? それでは見せかけ融資にしておくと、おっしゃるわけでございますか……」
銭高は、息を呑《の》むように問い返した。万俵は応えず窓の外へ顔を向けた。
先程まで明るかった陽が翳《かげ》り、窓を左側にした万俵大介の彫塑《ちようそ》のように彫りの深い顔の半面が、暗い影になっていた。銭高には、その暗い影の部分さえも、自分などには到底、窺《うかが》い知ることの出来ない複雑怪奇な生きもののように見えた。銭高は、重苦しさに耐えられぬように、
「あのう……」
口を開きかけると、万俵は葉巻を口から離し、
「要は、爾後《じご》、当行が阪神特殊鋼に行なう融資は、他行の手前、これまでの融資シェア分は貸出しをするが、実際に使うことは罷《まか》りならぬということだ――」
一語、一語、区切るように云った。ということは、月々の融資分は従来通り貸し出しても、実際には使わさないでそのまま預金に据え置かせる、いわば“見せかけ融資”をしろということであった。それは銀行として違法の行為であった。
「ですが、頭取、それは一体、どのようなお考えのもとに……」
銭高が口ごもるように問い返すと、万俵はやや苛だたしげに、
「君、解《わか》らんかねぇ、阪神特殊鋼が今置かれている立場というのは、大へんなものじゃないか、にもかかわらず、高炉建設が、中止どころか、突貫工事と決まったら、先だつものは資金繰りだろう、ところが当行《うち》としてはこれ以上出せない、といって、メイン.バンクの当行が現状以下に融資シェアを落せば、大同銀行をはじめ他行も手を引いてしまう、だから私も気が進まないが、今、云った方法で、融資の形を取り繕うより方法がないじゃないか」
「さようではありますが、先程開かれた当社の会議で、専務は父上が支援してくれている、事実、インパクト.ローンの導入を計ってくれていると、おっしゃっていましたが――」
銭高は、鉄平の口振りと万俵頭取の言葉に違いがあることに、戸惑った。
「それも、当行がもはや貸せないから、当行の保証で、インパクト.ローンの導入を計って、資金繰りの手助けをしてやろうというのじゃないか」
「では、それはいつ頃から導入されるのでございますか」
「それが君も知ってのように、大蔵省国際金融局での順番があることだし、すぐさまというようなわけにはいかない」
「それでは、阪神銀行が引く分の資金は、さしずめどう調達すればよろしいのでしょうか」
途方にくれるように、口髭に手を当てた。
「大同銀行から、もっと借り増すことだ」
「お言葉ですが、そう簡単には参りません、大同銀行では三雲頭取はともかく、融資担当の綿貫専務が、当社への融資に反対しているそうでございますよ」
「解っている、しかし綿貫専務とはもう話ができている」
一体、どういう風に、いつの間に成りたった話なのか、銭高は不審そうに口詰り、
「では万俵専務には、この見せかけ融資について、どういう風にご説明すればいいのでしょうか」
「いや、あれには話すことはない、経理に暗い上に、妙な正義感だけを主張して、ごたごたするだけだから――、それに石川社長にもこのことは伏せておくように、どうせ石川社長に話したところで、血圧が上るだけだから、経理担当常務の君だけが含んで、操作すればいい」
有無を云わさぬ口調で、申し渡し、
「今日の用件は以上だ、解ったね」
話を打ちきった。銭高はたち上りかけたが、もぞもぞと中腰のまま、
「あのう、頭取、私には今一つ、合点の行きかねる点がございますのですが……」
恐縮しきって云った。
「なに、どこが合点が行かないのかね」
「阪神銀行が貸さず、他行に貸し込ませるためとはいえ、見せかけ融資をする点がどうも……、万俵コンツェルンの中で阪神特殊鋼が重荷になって来たから、お手放しになるおつもりでもございますのでしょうか」
「そんなつもりはない、しかし、いくら鉄平一人が力み返っても、現在の鉄鋼業界の動向を見ていると、いずれどうにもならない時がやって来るかもしれないだろう」
万俵は、平静な口調で応えた。
「それでは、どこからか、具体的なお話でも、あったのでございましょうか」
と聞きながら、万一、大資本の系列下に吸収された場合の惨《みじ》めさと同時に、長男がまだ高校生であることが、銭高の脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
「いや、具体的な話など何もないが、高炉をもたない中小鉄鋼メーカーの間で金をやたらに食う高炉を無理して建てなくても、共同でビレット.センターのようなものをつくろうという話が出て、帝国製鉄はじめ一、二の大手高炉メーカーが、ビレット.センター造りに力を貸すらしいという噂《うわさ》を、東京で耳にして来たのだ、だからといって阪神特殊鋼が今すぐどうこういう問題ではない、第一、私の息子の会社のことだから、悪く考えるはずがないよ」
と応えたが、銭高は万俵の言葉の裏に何か一筋の冷たいものが通っている感じを受けた。日頃、銭高が見ている万俵頭取と長男である万俵鉄平専務との間は、決して温かな親子の間柄ではなく、かねがねしっくりいかないものを感じていた。いかに経理に暗い技術者専務の補佐とはいえ、毎月の定期的な業績報告以外に、何かあると銭高だけを頭取室に呼びつけ、極秘に阪神特殊鋼の事情を聴取する万俵頭取のやり方は、世間の血の通った温かい親子関係といえるものではなかった。それだけに銭高は、万俵親子の間の気持の齟齬《そご》が、融資にまで響いて来ているような不吉な予感がした。しかしそんなことは口に出せるはずがなく、
「では、本日はこれで失礼致します」
深々と一礼して、退室しかけると、
「銭高君――」
と呼び止められた。
「阪神特殊鋼の株価は、このところ、大分、落ちて来ているねぇ」
「はあ、ついに七十円をきってしまいました」
「そんなことで、来春の増資は行なえるのかね、何とか七十円の株価を維持して行かないと、増資はできなくなる」
「その点については、頭の痛いところでして、大亀専務にご相談致そうと思っております」
「そうし給《たま》え、阪神銀行の持株は、阪神特殊鋼全株式の八パーセント、そして私自身は四パーセントだったね」
確かめるように聞き、
「大同銀行は目下、どの程度なのかね」
「約三パーセントでございますが、何か?」
「この際、もっと持株を増やして貰《もら》ってはどうかね」
軽く云ったが、眼はそれを強く命じていた。銭高はいつになく大同銀行に株の買い増しまで指示する万俵に、何らかの思惑があることを感じた。
銭高が帰ると、万俵大介は、秘書の速水に、渋野常務がいたらすぐ呼ぶようにと命じた。阪神特殊鋼に対する見せかけ融資を、阪神銀行側の融資担当役員にも、命じるためであった。
「頭取、至急のご用件とのことでございますが、何か――」
渋野常務が、慌《あわただ》しく入って来た。
「これから夜の会合があるので、要点のみ話しておく、阪神特殊鋼へは、来月から新規融資を行なわないことにしたので、その旨《むね》、心得ておいてほしい」
「頭取、それは一体……」
渋野は、思いもかけない万俵の言葉に絶句した。
「理由は、阪神特殊鋼がこの不況下にもかかわらず、メインの当行の勧告を聞き入れずに高炉建設を続行するばかりか、突貫工事にまで突き進むという、無謀な手段をとるに至ったからだ」
「突貫工事とはまた無茶な――、しかし頭取のおっしゃるように、メインである当行が今後、新規の融資を行なわないとなると、大同以下、協調融資をしている銀行団もストップするでしょう、そんな事態になれば、阪神特殊鋼は膨大な負債をかかえ、高炉どころか、経営そのものが危機に瀕《ひん》するではありませんか」
動揺しきった口調で云った。渋野にとって阪神特殊鋼の突貫工事も無謀なら、万俵の指示も正気の沙汰《さた》とは思えなかった。
「まあ、落ち着き給え、当行で差し引く分は、大同銀行に融資して貰うのじゃないか」
万俵は、ことさらに平静な語調で窘《たしな》めた。
「君の調査に基づき、アサヒ石鹸《せつけん》への融資を当行が諒承《りようしよう》したかわりに、メインの大同銀行は少なくともその分、今まで以上に阪神特殊鋼へ貸増ししてくれるはずだから、実質的な打撃は、何ら阪神特殊鋼に与えないではないか」
「すると、アサヒ石鹸への融資は、阪神特殊鋼との交換《バーター》融資が建前だったわけですか」
「はっきり交換《バーター》融資と文書で約束を取り交わしたわけではないが、向うの綿貫専務とは、そういう含みで最終的に話をつけたのだ」
「しかし頭取、メインの当行が全く新規貸出しを行なわないのは、他行から妙に勘ぐられますし、阪神特殊鋼だって黙ってはおりませんでしょう」
「それはもっともだ、したがって当行はまず他行の手前、融資している形をとり、実際にはこれ以上、貸増ししない操作を君に考えて貰わねばならない」
自らの口から、見せかけ融資をやれとは云わず、渋野にそのことを忖度《そんたく》させるような云い廻しをした。
「――そう致しますと、要は貸した金を使わさないという以外、術《て》がありませんね」
「うむ――、で具体的にどういう方法をとるつもりかね」
「そうですね、融資はするが、その貸金の替り金を一旦《いつたん》、預金にプールしておき、月末にその預貸《よたい》金を締後《しめご》勘定で落す、そうすれば阪神特殊鋼では融資が残っているように見えますし、当行では預貸金がないという姿をとることが出来ます」
「だが使わせない金が、毎月、阪神特殊鋼の当座預金に残っているのは、不自然じゃないのかね」
万俵は、何食わぬ顔で尋ねた。
「ですから、その貸金の替り金は、別段《べつだん》預金にプールし、月末に締後勘定で相殺《そうさい》する、これを毎月、繰り返すという形になりますでしょうねぇ」
別段預金というのは、外部から送金されて来た分の中から、どの当座宛《あて》か不明のものや、当日、すぐに事務処理出来ないものを、まとめて銀行にプールしておく預金のことで、別段預金の記帳に、毎月、阪神特殊鋼のこの勘定が出ては消え、消えては出るという仕組になるのだった。
「まあ、具体的な方法については、君に一任しよう、阪神特殊鋼の方は、銭高によく含ませてあるから、彼を呼んで、爾後の具体策を考えることだ」
「すると、石川社長や万俵専務は、この件は……」
「さっきも云ったように、阪神特殊鋼が何ら打撃を受けることではないから、ことさら波風をたてることはないと思うがねぇ」
万俵は意味深長な響きを含ませた。
「かしこまりました、では当行の方も、融資部次長、本店営業部長、そして直接の帳簿操作に当る貸付課長に関係者を限り、厳しく箝口令《かんこうれい》をしいて処理致します」
渋野は緊張した面持でたち上った。万俵は独りになると、回転椅子を半回転させ、頭上の万俵敬介の肖像写真を異様にぎらぎら光る眼で見上げた。
美馬中は、久しぶりに万俵家を訪れ、大介の帰宅を待ちながら、居間で姑《しゆうとめ》の寧子、相子、三子たちと寛《くつろ》いでいた。近畿《きんき》財務局へ出張のため来阪し、久々に万俵家にたち寄り、一泊することになったのだった。
「お義兄《にい》さま、おビール、もっと召し上れ」
三子は、はしゃぐように云い、義兄のジョッキに生ビールを注《つ》いだ。美馬は、なみなみと注がれたジョッキに口をつけ、
「二子ちゃんは、さっき二階へ上って行ったきり、下りて来ないね、どうしたんだろう」
気懸りそうに云った。二子は挨拶《あいさつ》には出て来たが、美馬が細川一也のことを口にすると、さっと二階の自室へ上って行ってしまったのだった。相子は大ジョッキのビールを見事に飲み干し、
「お気になさらなくて結構ですわ、あの人の気儘《きまま》は今に始まったことじゃありませんもの」
と云うと、三子は、
「でも、二子姉さまは細川一也さんとの結婚のこと、かなり深刻に悩んでいるようよ、ハンサムでフェミニストで、その上頭がきれて、悩むことなど何もないわと云ったら、じゃあ三子ちゃんが結婚すればいいとおすすめになるの、お姉さまが真底、そう思っていらっしゃるのなら、私、身代り結婚したいくらいやわ」
けろりとして云った。
「身代り結婚やなど、なんという不謹慎なことを――」
単衣《ひとえ》の着物の袖《そで》を膝《ひざ》の上にきちんと畳んで美馬たちの話を聞いていた寧子は、慌《あわ》てて三子を窘めた。相子も、
「ほんとうに、冗談にも程があってよ、もうお結納の日取りもきまったというのに」
「あら、いつなの、お結納は」
「お見合いから一カ月目あたりの大安吉日の日をということで七月十日に決まったの、その時は一家揃《そろ》って、お仲人《なこうど》の小泉夫人をお迎えするのですから、三子ちゃんもそのお心づもりで――」
「解《わか》ったわ、その時、婚約指輪も持っていらっしゃるわけでしょう? やはりダイヤなの」
「ええ、そうよ、でも細川家は、実業家の安田さまや万俵家とはちがい、建築家でいらっしゃるから、そういう仕儀は少し地味目になるでしょうね」
相子は母親のような表情で云った。五日前、上京し、小泉夫人を通して細川家の意向を打診したところ、結納金は三百万円、婚約指輪は一.五カラットのブルー.ダイヤ、結婚後の新居は、細川一也の父の信也が設計した南平台《なんぺいだい》のマンションということであった。昨年、銀平と大阪重工の安田太左衛門の末娘万樹子との間に婚約が整った時、万俵家が安田家に納めた結納金と婚約指輪はもっと豪奢《ごうしや》で、同じ邸内に独立した南欧風の新居を改築したことなどから比較すると、質素の感は免れず、万俵家としては決して満足の行く仕儀ではなかったが、佐橋総理夫人の甥《おい》との縁組で、総理をはじめ東京の政財界の実力者と蔓《つる》のように絡《から》まっている閨閥《けいばつ》を考えれば、取るに足らぬことであった。
「そうしますと、ご婚礼はいつごろになりそうでしょうか」
寧子が、おっとりとしたもの云いで聞くと、相子は、
「それはこの間、私が東京から帰って参った日にお話し申し上げたじゃありませんか、細川さまの方は十一月早々を望んでいらっしゃるのですけれど、こちらでは婚礼のお衣裳《いしよう》一つにしても、染めから縫取、お仕立、それに丸帯の織上りまでの期間を考えますと、どんなに早く見積っても、最低三カ月かかりますし、その他《ほか》、別誂《べつあつら》えの家具、什器《じゆうき》類のお支度を入れますと、五カ月は戴《いただ》きませんと、格式にかなったご用意は出来ませんでしょう、万俵家としては、一子さん以来、十数年ぶりに花嫁を送り出すお支度なんですから、鉄平さんや銀平さんの時のように、ぼうっとしていらっしゃっては困りましてよ」
皮肉るように云った。美馬は、
「お話を聞いているうちに、つい一子と僕の結婚の時のものものしさを思い出しましたよ、何しろ田舎寺の住職の父と、同じく宗門の家から嫁いで来た母は、冷汗《れいかん》三斗で、こんな仰々しい結婚はこりごりだと音《ね》を上げてしまいましてねぇ、僕の時にも、相子さんがこうして采配《さいはい》をふるって下さったら助かったでしょうにね」
その頃は、相子はまだ若く、銀平や二子、三子の家庭教師の域を出るか出ないかだったが、美馬は、寧子の手前にもかかわらず、ねっとりと粘りつくような視線を相子に向けて云った。
「おビールを飲み過ぎたせいかしら、私、眠くなってしまったわ、卒論を書くつもりだったけれど、今晚は駄目ねぇ、お義兄さま、お先に」
三子はそう云うと、ふらりとたち上った。
「まあ、そんなにふらついて、危のうないのかしら――」
寧子が心配げに見上げると、美馬も、
「僕があんまり飲ませ過ぎたかな、階段から転げ落ちたりされたらことですね」
と云い、三子のうしろからたち上りかけると、寧子は、
「いいえ、中さまはどうぞ、私が随《つ》いて行ってやりますから――」
長女の夫をたてるように云い、三子のあとを追った。
美馬と相子だけが居間に残ると、美馬はたち上りかけたその足で、相子の坐《すわ》っているソファに寄り、ソファの肘《ひじ》に腰を下ろして、相子の首筋に手を伸ばして来た。
「まあ、こんなところで、お戯《たわむ》れはおよしになって――」
いつ、女中たちが入って来るともしれないだけに、美馬の大胆さに相子の方が体を退《ひ》くと、美馬は面子《メンツ》を損ったように、
「えらく臆病《おくびよう》なんだな、やはり家じゃあ、万俵大介氏がこわいと見えるね」
相子は、二子の縁談のことで上京する度に美馬と会い、ナイト.クラブで踊ったり、大胆なベーゼを許したりしていたのだった。
「こわい、こわくないだけの問題じゃありませんわ」
「ほう、他にどんな問題があると云うんだい、こういう生活を平気でしている君らしくもない」
にやりと二階の寝室の方を眼で指した。妻妾同衾《さいしようどうきん》の生活を揶揄《やゆ》しているのだった。
「じゃあ、美馬さん、あなたにこういう生活がお出来になって?」
開き直るように云った。美馬が鼻白むように相子の傍《そば》から離れた時、玄関の方で車の停まる音がし、万俵大介が帰邸した。相子は慌しく迎えにたち、寧子も二階から降りて来た。
大介が居間に姿を現わすと、美馬はたった今の相子とのことなど、気振《けぶ》りにも見せず、
「お舅《とう》さん、お帰りなさい、今夜はお言葉に甘えてお邪魔させて戴いております」
娘婿《むすめむこ》らしい折目正しさで、挨拶した。
「やあ、久しぶりによく来てくれた、晚餐《ばんさん》でも一緒にしたいところだが、今日はどうしても断われない宴会があってねぇ」
万俵は、美馬と向い合うと、残念そうに云い、
「次の近畿財務局長には理財局次長の旗さんが本決まりになったそうだねぇ」
「ええ、彼はなかなかの侍ですから気をつけた方がいいですよ」
美馬は、七月に変る次期近畿財務局長の人柄、経歴、閨閥を話した。
「それでは私たちは、引き退《さが》らせて戴きますわ、美馬さま、どうか、ごゆるりと――」
相子は、女中たちを指図して、飲みものを新たに整えさせると、美馬に会釈《えしやく》し、寧子を促すように席をたった。大介と美馬が会えば、必ず重要な仕事の話が交わされることを、相子は心得ていた。
二人きりになると、美馬は、
「お舅さん、この間、ご依頼のあった阪神特殊鋼に対するインパクト.ローンの件、どうもお電話では要領を得なかったのですが、要は書類提出は今からやっておくが、国際金融局の許可の順位は、なるべく来年まわりになるように引き延ばしておけということですね」