高炉建設現場に近付くと、高炉と熱風炉のあたりから濛々《もうもう》と土煙がたっているのが見えたが、そこで何が起っているのかは解らなかった。さらに二百メートルほど現場に近付いた時、ドドドーン! と、再度爆発音が起り、黒煙とともに、ガス臭い熱風が吹きつけて来た。顔を灼くような熱さであった。ジープを消防車の横につけると、殺気だった怒号と叫喚が飛び交うのが聞え、土煙を通して、熱風炉のあたりに焔《ほのお》が見られた。
「熱風炉が、爆発したのか!」
「そうです、専務、危ない、近寄らないで下さい! 負傷者がたくさんいるんです!」
「なに、負傷者が出た――」
はっと眼を凝らすと、薄らいだ土煙の向うに、ガス爆発を起した熱風炉が点検窓を中心に鉄皮《てつぴ》ごと裂け、内部にびっしり積んである煉瓦《れんが》が柘榴《ざくろ》のように崩れ、周囲の地面に十数人が倒れている。
「なぜ助け出さないのだ、早く救出しろ!」
大声で命じ、自ら土煙の方へ進もうとすると、
「救出できる者はしましたが、熱風炉五十メートル以内は、まだ危険です、ガス爆発が再度起れば、もろともやられてしまいますよ!」
高炉請負いの現場監督は強く鉄平を制止したが、煙の中から駈《か》け出して来た男と、二言、三言、言葉を交わすと、
「ガス爆発の危険はなくなった! 負傷者の救出と消火に当れ!」
と怒鳴った。近くで待機していた同僚や、阪神特殊鋼の作業員がすぐ、地面にのたうち廻っている負傷者の傍《そば》に駈け寄って、担架に乗せた。作業衣が吹っとんで、全身火ぶくれの大《おお》火傷《やけど》を負っている者、点検窓の扉《ドア》に叩《たた》き潰《つぶ》されている者、頭から血を流している者、生死のほどは定かでなかったが、一様に衣服をずたずたに裂かれ、血みどろになっている。
「おい、林、林、しっかりせい、死んだらあかんぞ!」
同僚らしい作業員が、担架に移した負傷者に叫んでいる。鉄平が傍へ駈け寄ると、負傷者は衣服が黒こげで、即死の状態であった。
やがて外部からの救急車、消防車、パトカーが、次々とサイレンを鳴らして駈けつけて来、負傷者の運搬と消火作業が続いた。火は付近の材木や電気溶接のコードに燃え移り、時々、火花のような激しい炎が飛び散ったが、化学消火剤で程なく完全に鎮火され、出動して来た県警によって、立入禁止の縄が張りめぐらされた。間もなく鑑識課が来て、爆風で吹っ飛んだ煉瓦や散乱した鉄屑《てつくず》、血液の付着した布片の一片まで採集して、事故原因の捜査に備えた。
鉄平が汗と砂埃《すなぼこり》にまみれた顔で、立入禁止の縄ばりの外へたつと、一之瀬工場長も、別のところで救助と消火の指揮にあたっていたらしく、作業衣を煤《すす》まみれにして近寄って来た。二人の顔は引き攣《つ》れ、歪《ゆが》んでいた。
鉄平は思わず、のめりそうになる体を支え、事故の原因を問い質《ただ》すために高炉請負いの現場監督を呼びつけた。
「なぜ、熱風炉にガス爆発が起ったのだ」
現場監督は、袖《そで》の千切れた作業衣のまま、呆然《ぼうぜん》と頭を垂れた。
「こんな大事故を起して申しわけありません、実はうちの作業員が、明日から炉内の煉瓦乾燥作業に入る準備のために、熱風炉の点検窓を開いた途端、熱風炉の上の方で給水筒へ続く水パイプの取付作業をしていた溶接の火花が落ちて引火し、あっという間に爆発を起したのです」
熱風炉は蜂《はち》の巣のように穴があいた煉瓦がびっしり積まれている。高温の燃焼ガスによってその煉瓦が熱せられ、穴を通る空気も熱せられ、その熱風が高炉に入って鉱石を溶解し、鉄を製《つく》るのだった。
「しかし、爆発が起きたということは、炉内にガスが充満して爆発限界に達していたことになるが、どうしてガスが充満したのだ」
「そこが、私にも解らないところですが、思うに炉の外側に接続しているガス.バーナーのバルブが緩んでガス洩《も》れし、爆発限界になっていた時、たまたま作業員が点検窓を大きく開けたことによって、外で溶接作業中の火花が引火したのだと思います」
「じゃあ、バーナーのバルブはなぜ緩んだのか、バルブが勝手に動くわけがあるまい」
一之瀬が、厳しい語調で糺《ただ》した。
「それはバルブそのものに故障があったのか、それとも誰かが誤ってバルブを開いたのか、そこのところは、作業にあたっていた当事者たちが負傷し、現場の器具もふっ飛んでしまった現在、解りません」
当事者たちは死亡、或《ある》いは負傷していた。鉄平は縄の張りめぐらされた無惨《むざん》な事故現場に眼を遣《や》った。この事故によって命を失った者への弔慰をどうしたらよいか、今後の再建策はどうしたらよいか――、それらが、錘《おもり》のように鉄平の体にのしかかった。
「鉄平、こんな大事故をひき起して、どうするつもりなんだ」
万俵大介は、事態の重大さに蒼《あお》ざめ、緊迫した表情で、鉄平に云った。夜の八時を廻っていたが、阪神特殊鋼の爆発事故対策のために、阪神銀行本店は、直接取引のある一階の営業部をはじめ、調査、融資、総務の各部屋とも灯《あか》りが点き、大介と鉄平が対《むか》い合っている頭取室も重苦しい。
「申しわけございません――、今はただこれ以上、死者が出ないことを祈るばかりです」
鉄平は、眼を閉じるように云った。
「死者は、その後、増えているのか」
「全身火傷で、神戸病院に運び込んだ当社の現場責任者が、夕刻、ついに息を引き取ってしまいました……、午後七時の時点で、死者四名、重傷者五名、軽傷者十三名という惨事になってしまって……」
咽喉《のど》もとからこみ上げて来る慟哭《どうこく》を堪《こら》えるように、歯を食いしばった。
「全く何ということだ! 警察当局へはすぐさま、陳謝に出向いただろうな」
「はい、遺族の家と、負傷者の入院している病院を廻ってから、行って参りました――」
と云い、鉄平は充血した眼を潤《うる》ませた。どの遺体も、その惨《むご》たらしさを隠すために白い繃帯《ほうたい》でぐるぐる巻きにされていた。その遺体に取り縋《すが》って泣き崩れた遺族の声は、まだ生々しく耳に残って離れない。
「鉄平、私の云っていることが聞えないのか、警察当局はどう云っているんだ」
苛《いら》だたしげな大介の声が飛んで来た。鉄平は、はっと我に返り、
「兵庫県警と灘《なだ》警察署の両方にお詫《わ》びに参りましたところ、四名もの死者を出した事故であるから、阪神特殊鋼事故捜査班を組んで、徹底的に事故発生の原因捜査に乗り出すが、阪神特殊鋼に於《おい》ても事故原因の究明を急ぐことと、熱風炉の周辺の建設工事は、現場の証拠物件保全のため、二カ月間、建設作業を中止するようにと申し渡されました」
「二カ月か――、しかし、肝腎《かんじん》の事故原因についての当局の心証はどうなんだ、早くも刑事たちが、現場付近に居合せた作業員に聞込みを始めているということだが、阪神特殊鋼側に問題となるような手落ちはないだろうな」
大介は、鋭く視線を光らせて聞いた。
「熱風炉の乾燥準備は、五菱重工の下請け業者が行ない、当社側はそれにたち会うだけのことですから、爆発に繋《つな》がるようなミスはおかしていないと思います」
「だが、つい今、お前は重傷を負った阪神特殊鋼の現場責任者が死亡したと云ったじゃないか、俗に昔から死人に口なしという言葉があるから、下手に五菱重工の下請けから責任転嫁をされぬように、せいぜい注意し、よく考えることだな」
「お父さん、そんな!」
あまりに酷薄な父の言葉に、鉄平は眉《まゆ》をあげた。
「そんなも何もないだろう、幾多の反対がありながら、高炉完成を急ぐあまり、突貫工事を決意し、実行したのはお前自身なのだ、したがって、ことの事実はどうあれ、警察当局から、安全対策の面で手ぬかりがあったのではないかと、初めから疑ってかかられているような様子では、困るじゃないか」
心身ともに参りきっている鉄平に対して、思いやりのない言葉を投げつけた。鉄平はやりきれぬ思いで、
「ではお父さん、大同銀行の神戸支店からも今日の事故内容の説明を求められておりますし、死者の通夜《つや》にも参らねばなりませんから、今日のところは一まず失礼致します」
と云い、部屋を出かかると、大介は、
「鉄平、まだ肝腎の話が残っている――」
と制したが、鉄平はかまわず、頭取室を出た。
長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向いかけた時、頭取秘書の速水が近寄って来て、
「正面玄関には、新聞記者が詰めかけていますから、お車は行員通用門の横の駐車場にお廻ししておきました、あちらの階段からお降りになられた方が、ご面倒がなくてよいと存じます」
と云い、目だたぬように階段の方へ案内した。鉄平は、速水の配慮に感謝し、通用門から素早く駐車場へ行き、車に乗った。車が動き出すと、正面玄関の辺《あた》りには、社旗をつけた新聞社の車が並んでいるのが見え、阪神特殊鋼の爆発事故が、社会面の記事から、経済面の記事に移行しつつあることが見て取れた。鉄平は高炉建設が危ぶまれるような不安を覚えた。
一之瀬常務とともに、鉄平は阪神特殊鋼の高炉建設の現場担当工長だった故多田増太の通夜の席に、疲労した体を支えるようにして、坐っていた。
熱風炉のガス爆発で全身大火傷した多田増太の遺体は、警察の検視後、全身白い繃帯に巻かれて棺《かん》に納められているが、事故死の報《しら》せを受けて九州から駈《か》けつけて来る両親のために、棺の蓋《ふた》は覆《おお》わず、中学三年生を頭《かしら》に三人の子供と妻、身内の者たちに取り囲まれていた。無惨《むざん》な事故死のショックが、そこに坐っている人たちの顔を引き攣《つ》らせ、憎悪《ぞうお》の籠《こも》った険しい視線を鉄平と一之瀬に向けさせている。鉄平は、再び両手を畳についた。
「このような大事故を起し、犠牲者を出してしまって、何とお詫び申し上げてよいのか……今となってはご遺族の方に心からお詫び申し上げ、会社として出来るだけのことをさせて戴《いただ》くよりほかはありません……」
沈痛な面持で云った途端、涙も涸《か》れ尽したように、空《うつ》ろな表情で坐っていた妻が、悲鳴を上げた。
「お金なんかいらん、うちの人を返して! あんたらが殺したんや、返して!」
髪を振り乱して、鉄平の胸に掴みかかった。鉄平は胸ぐらを掴まれたまま、黙ってさらに深く頭を垂れた。夫や息子を、無惨な事故で失った遺族に対し、詫びる言葉など、あろうはずもなかった。一之瀬も、
「何と云われてもお返しする言葉がありません、こんな申しわけないことになったのは、工場長である私の責任です」
と詫びたが、棺の傍《そば》にいる故人の弟は、半袖のワイシャツの衿《えり》もとを汗に滲《にじ》ませ、鉄平の前へたちはだかった。
「さっきから黙って聞いていたら、あんたらはすまんの、申しわけないのばっかり繰り返しているが、それですむと思っているのか! 今度の事故は無茶な突貫工事のせいやないか、そんなところの現場工長に廻された兄貴は人柱や、一体、事故の原因はなんやねん!」
「それは今、警察でも調査中ですが、熱風炉の乾燥準備中に、取りつけてあったガス.バーナーのバルブが、何らかの理由で緩んでいて、ガスが炉内に充満し――」
鉄平が応《こた》えかけると、
「ほんなら、死んだ兄貴の現場の監督の仕方が悪かったとでも云うのんか、そんな云われ方をしたら、仏がうかばれんわ!」
「いや、そういう意味で云ったのでは……」
「弁解はええ加減にせえ! 警察の調査もへったくれもあるか、全部、会社の責任や、とっとと帰って、遺族が困らんだけの弔慰金と補償額を決めてから、出直して来い!」
唾《つば》を吐きかけるように云ったが、鉄平はぐっと堪《こら》え、一之瀬も遺体に向ってもう一度、深々と一礼して、席をたった。背広もズボンも、汗でびっしょりと濡《ぬ》れていた。
外へ出ると、鉄平は独りになりたかった。一之瀬の見送りを断わって車に乗ると、事故発生以来、警察への陳謝、負傷者の見舞、銀行への事故説明、遺族への弔問と、一時も体を憩《やす》めなかった疲労がどっと出て来た。そして夫や父親を失った遺族の険しく冷たい視線が、無数の棘《とげ》になって鉄平の心に鋭く突き刺さった。車はいつの間にか、犇《ひしめ》くように家が建てこむ尼崎を抜けて、阪神国道を岡本の家に向って走っていた。
門を入ると、十二時近かったが、父たちが住まっている本館に灯りが点《つ》いているのが見え、事故を知って六甲の山荘から帰って来た一族の緊張が感じ取られた。邸内の道を上って、玄関に車が停まると、扉《ドア》が開き、二子が飛び出して来た。
「お兄さま! 大丈夫? 大へんなことになったのね」
兄の気持を汲《く》みとるように迎えると、三子も背後《うしろ》から、泣き出しそうな顔で迎えた。
「心配をかけてすまない、お父さんは?」
「まだよ」
鉄平は再び暗い気持になった。阪神銀行頭取室へ詫びに行った時、大同銀行神戸支店の呼出しと、遺族弔問のために、父が「鉄平、まだ肝腎な話が残っている」と呼び止めるのもかまわず席をたったが、父はまだ銀行にいて、高炉建設途上に大事故を起した阪神特殊鋼にどう対処しようとしているのだろうか――。そう思い、今からもう一度、阪神銀行へ行こうと踵《きびす》を返しかけた時、廊下に乱れた足音が聞え、母の寧子が銀平の腕に支えられるようにして姿を現わした。
「鉄平、無事に帰って来ておくれなのね……」
「お母さま、ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫ですよ」
鉄平はたっていることがやっとのような母の手を取り、居間へ連れて入ると、相子が待ち受けていたようにたっていた。
「鉄平さん、大へんなことをして下さったのね、今日はテレビもラジオもずっとあなたのところの大事故を報じっ放しよ、お父さまがあれほど無理だとおっしゃったことを、押しきっておやりになったからですよ、こんな大事故になって、お父さまの銀行のご迷惑はもちろん、せっかく佐橋総理夫人の甥御《おいご》さんの細川一也さまとのご結納もおさまったおめでたい時というのに――」
怒りと侮蔑《ぶべつ》を投げつけるように云った。
「何をおっしゃるの、こんな時に結納のことなど、非常識過ぎるわ」
二子が気色ばむと、
「二子さんはお黙りなさい! 鉄平さん、さっき千鶴さまからお電話があって、石川社長は事故のショックで倒れてしまわれ、その後、容態が回復しなくて不安だと、云ってらっしゃいましたわよ、高血圧症でもしものことがあったら、作業員のみならず、あなたは石川社長も――」
相子がさらに追打ちをかけるように云い募ると、寧子は、
「やめて、……あんな怖《おそ》ろしいことを、皆さまに申しわけないことになって、鉄平こそ死にたいほど参っているはずです……」
鉄平を庇《かば》うように云って、両手で顔を覆った。相子は冷やかに、
「泣きたいのは、メイン.バンクの頭取のお父さまですよ、今頃はきっと銀行で――」
と云いかけると、銀平が、
「そこまであなたが云うことはないだろう、それより兄さん、嫂《ねえ》さんが心配して待ってるから、早く行ってあげて下さい」
女ばかりが泣き喚《わめ》いている中で、兄を連れ出すように云った。
「ではお母さま、これ以上、ご心配なさらないで下さい、事故の処理はきちっと致しますから――」
鉄平は綿屑《わたくず》のように疲れ果てた体でそう云い、銀平とともに本館を出ると、池を隔てた高みにある家へ向った。
庭は夜露と八月の暑さに蒸れていたが、鉄平は汗も拭《ぬぐ》わず、黙って足を運んでいた。銀平はそんな兄の様子を見ながら、
「兄さん、今夜はこれ以上考え詰めず、ともかく早くお寝《やす》みなさい、これ、僕の使っている睡眠剤です」
ポロ.シャツの胸ポケットから錠剤を出して渡した。
「うむ、今夜はともかく寝るよ、明日から早速、高炉の再建策にとりかからねばならないからな」
「え? 早速、高炉の再建――」
銀平は、愕《おどろ》くように、兄の顔を見返した。
「当然じゃないか、事故を起した熱風炉の現場は、警察の指示で二カ月間、立入り禁止だから、新たな再建方法を考え、一刻も早く着手しようと思うのだ、それには資金繰りが必要だから、直接の担当者でなくても、同じ本店営業部の貸付課長として、今度はお前も是非、僕の力になって貰いたい」
と頼んだが、銀平は押し黙ったままだった。
「どうした? お父さんに何か別のご意向でもあるのかい」
鉄平はさらにそう聞いたが、さっき父の帰宅がまだだと知らされた時に感じた不安が、再び胸に襲って来た。
大同銀行の役員会議室で、神戸支店長の橋爪は、直立不動の姿勢で、昨日《きのう》起った阪神特殊鋼のガス爆発事故について、報告していた。
「私が爆発事故を知りましたのは、昨日の午後三時頃、支店長室で取引先の顧客と用談をしている時でした、次長が慌《あわ》てて飛び込んで来て、今、テレビのニュース速報で、阪神特殊鋼の高炉建設現場でガス爆発事故が起り、死傷者が多数出た模様と報道している、と云って来ましたので、私はすぐさま阪神特殊鋼に電話を入れました、しかし、どの電話も話し中で埒《らち》があかず、車でかけつけたところ、爆発の消火作業や負傷者の救出作業は一応、終っていましたが、破裂した熱風炉から、こなごなになった煉瓦《れんが》が腸《はらわた》のように砕け出、周辺には負傷者の千切れた衣服や血痕《けつこん》が飛び散っていて、愕然《がくぜん》とした次第です」
緊急役員会での報告を命じられて、急遽《きゆうきよ》、上京した橋爪は、まだ昂奮《こうふん》がさめやらぬ表情で話した。
コの字型のテーブルの正面に坐っている三雲頭取をはじめ、融資担当の綿貫、経理担当の夏目、外国担当の白河の三専務と、業務担当の小島、人事担当の山之内、事務能率の中原、総務企画担当の角野の四常務は、橋爪支店長の報告を緊張した表情で聞いていたが、心の中はそれぞれ微妙に食い違っていた。
「事故現場確認のあと、ただちに関係者の間を廻り、熱風炉爆発による損害額、及びそれが今後の資金面に波及する影響について調査致しましたところ、まず熱風炉自体の損害額は、爆破した炉体を取り壊し、一から建て直さねばなりませんので、約三億五千万と考えられますが、完成前の事故の損害は、通常、高炉建設の請負業者が支払うもので、阪神特殊鋼に損害が及ぶことはまずないと考えてよろしいかと存じます、次に事故による死亡者への弔慰金、負傷者への見舞金は、請負業者の作業員の場合は業者側で持ちますから、阪神特殊鋼は工事にたち会って事故に遇《あ》った現場工長に対する弔慰金だけで、ほぼおさまると思われます、しかし今回の爆発事故における最大の問題点は、高炉稼動が半年遅れることによる得べかりし利益の損失と、高炉建設借入金の金利負担が、不況で経営不振の阪神特殊鋼にどのような影響を及ぼすかであり、この点、大いに慎重に考えねばならないと考えております」
と橋爪支店長は報告した。役員たちは誰もすぐには口を開かなかったが、筆頭専務である綿貫は、
「聞けば聞くほど、えらい事故を起したものですな、阪神特殊鋼については、前々からどうも危なっかしい会社だと思っていたが、やっぱりねぇ」
大きな赭《あか》ら顔を突き出し、厭味《いやみ》な云い方をした。三雲頭取はそんな綿貫に厳しい視線を向け、
「今は、そんなことを云っている場合ではない、橋爪君、当行が阪神特殊鋼に融資している現在の残高は、いくらぐらいなのかね」
末席に畏《かしこ》まっている橋爪に聞いた。
「はい、高炉の長期設備資金が九十億五千万、短期貸付が十八億二千万でございます」
「では、半年間、高炉が稼動延期になったことによる阪神特殊鋼の不足資金はどのくらいに達する見込みなのかね」
「正確な数字につきましては、もう暫《しばら》く時間をかけて調査致しませんことには解《わか》りませんが、昨夜、阪神特殊鋼の万俵専務と銭高常務に聞いた話では、約五十億ということでございました、そのうち阪神特殊鋼が調達しうる資金は、支払い手形の期日の引き延ばしや、不要不急の不動産の売却、原料在庫の売却等をひっくるめて二十億が限界だと思います」
橋爪が説明すると、綿貫が、
「すると、三十億の不足分については銀行の追加融資でまかなうということになるね、メインの阪神銀行はどういう意向かね」
と突っこんだ。
「阪神銀行本店営業部長の話では、メインとして出来る限りの救済の手をさしのべるから、サブ.メインとしてもご協力願いたいと云っていますが、銀行間の話合いは、協調融資の銀行団による事故処理委員会というような場でなければ、なかなか打ちわったことは聞き出せませんから――」
綿貫に合わせるように言葉を濁すと、三雲は、
「だが、事故の大きさはともかく、高炉本体をはじめ、他の付帯設備は順調に完成に向っているのだから、阪神銀行がこの期《ご》に及んでどうこういうことはないはずじゃないか、重視しなければならないのは、むしろ阪神特殊鋼の経営陣の態度で、犠牲者が多かっただけに、世論を怖れて高炉建設への意欲が薄れたり、資金調達面で弱腰になったりしないかということだが、この点の橋爪君の感じはどうなんだね」
気懸《きがか》りそうに聞いた。
「経営陣に動揺がないとは申せません、石川社長は事故直後、ショックのあまり社長室で倒れてしまったと聞いていますし、在庫をかかえた営業も、この事故で販売はますますダウンする一方だろうと悲観しており、なにがなんでもという意欲をお持ちなのは、万俵専務一人のように見受けられます――」
橋爪は、三雲と万俵鉄平の間柄を知っていたから、言葉を選ぶように応えた。
「そうか、万俵専務がへこたれないで、再建の意欲を燃えたぎらせているのなら安心だ」
ほっと安堵《あんど》するような口調で云うと、綿貫はわざとらしい咳払《せきばら》いをしてから、
「ですが頭取、確か六月でしたでしょうか、万俵専務は別枠《べつわく》融資の礼と称して私のところへも挨拶《あいさつ》にみえ、暫く話をしましたが、産業界に安いコストの製品を提供するのが現代の企業家の社会的使命云々《うんぬん》と、まるで社民党の青年議員のようなことをおっしゃるんで、驚き入りましたよ、そういう経営者は、私のこれまでの経験から申して、いい時にはのぼり竜《りゆう》ですが、一旦《いつたん》、悪くなると、まっさかさまというのが、えてしての傾向でございますから、この際、あまりご信頼になるのもどうかと存じますねぇ」
万俵鉄平が別枠融資の礼に来た時はアサヒ石鹸《せつけん》との交換融資があったから、歯のうくようなお世辞で高炉建設を褒めあげたが、今は掌《てのひら》を返すように非難した。綿貫の股肱《ここう》の臣である業務担当の小島常務もそれに呼応するように、
「私も各新聞の論調を注意深く読みまして、今回の阪神特殊鋼のガス爆発事故は、過大な設備投資のために不況に耐えきれなくなり、無謀な突貫工事に突っ走ったのが原因であると思いますし、それがあらかた一致した見解でございました、阪神特殊鋼に平行メインとして巨額の融資をしている当行にとって、まことに耳の痛い批判でございますが、当行は元来、貯蓄銀行時代の特質を生かし、堅実第一主義を守って参ったのですから、この際、基本方針にたち戻って、阪神特殊鋼への融資については、直接の窓口になって内情をよく把握している橋爪支店長の云うように、大いに警戒すべきだと思います」
と云うと、日銀外国局の部長から大同銀行常務に天下り、先の六月人事で、筆頭常務の小島を飛び越えて専務に昇格した白河が、上席から瓜実顔《うりざねがお》を顰《しか》めた。
「そういう議論は、さっきも三雲頭取がおっしゃったように、高炉完成を目前にした今の段階で云々しても仕方がないじゃないですか、しかも今度の事故は、新聞ではいろいろと書きたてていますが、要は一人の現場作業員のミスによって偶発的に起った事故であり、会社の経営内容そのものの悪化という本質的な問題とは無関係なのですから、これまでの融資方針を変更する必要はないように思います、マスコミがどう騒ごうと、当行としては都市銀行の見識をもって、冷静に対処すべきでしょう」
白河は、綿貫ら生抜き派がマスコミの論調に右顧左眄《うこさべん》するのを批判し、三雲頭取に同調した。
「なるほど、冷静に対処すべきねぇ、しかし、特殊鋼業界には、景気が回復するという見通しがあるでなし、操短で赤字を出している状態なんだから、都市銀行らしく鷹揚《おうよう》に構えておりましょうでは、汗水滴《た》らして預金獲得に走り廻っている第一線の行員たち、ひいては一般預金者に対して、万が一の場合、どう申し開きするのですか」
綿貫が大きな鼻翼を膨らませて気色ばむと、白河専務は、三雲の方へ眼を配りながら、
「万が一というのは、どういう事態を指して云われるのですか、融資担当の綿貫専務をさしおいてこう申すのも何ですが、私は国内景気の回復はともかく、輸出の伸びは、この秋以降、期待できると思っております、その材料の一つは、アメリカの鉄鋼業界のストが長期化する様相を示し、USスチールをはじめアメリカの各社が、日本から備蓄買いする動きが出ていることです、そうなれば技術水準の高い阪神特殊鋼の製品は、輸出競争に強味を発揮すると見ています」
外国担当らしい意見を述べると、綿貫はとっさに返す言葉に詰り、
「夏目専務、あんたの意見は?」
と、自分の向い側に腕組みしたまま、さっきから黙っている夏目に話を向けた。銀行家として格別の識見も業績もないにもかかわらず、貯蓄銀行時代に入行した唯一《ゆいいつ》の東大出という学歴がものを云って専務に昇格している夏目は、高商出で叩《たた》き上げの綿貫とは肌合いを異にしているが、さりとて日銀天下り派とも馴染《なじ》まず、両派の確執のバランス.シートに乗りながら中間派の長として一派をなしていたが、生来の温厚な性質から、天下り派対生抜き派の潤滑剤の役目を果すことが多かった。
「そうですねぇ、私は阪神特殊鋼の融資に対しては、今暫く事態を静観して、今度の爆発事故が、経営面にどう影響を及ぼすかを見さだめて、それから決めればよいと思いますね」
落ち着いた口調で発言すると、三雲は、
「たしかに今、ここでいたずらに互いの主張をぶつけ合っていてもはじまらない、もちろん財務内容については、これまで以上に注意深く見る眼を持たなければならないが、何にしてもここまで当行がバック.アップして来た企業であり、将来性について希望もあるのだから、温かく見守るという基本的態度を変りなく持っていきたい」
と云い、会議をしめくくった。
ちょうどこの時、大阪北浜では、阪神特殊鋼の株が、七十二円から一挙に六十円に落ちていた。
(下巻に続く)
華麗なる一族 下巻
山崎豊子
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一 章
綿貫《わたぬき》千太郎は、辺《あた》りの人が振り向くほどの大きなくしゃみをして眼を覚ました。新幹線のグリーン車の冷房が、上衣《うわぎ》を脱いでワイシャツ姿で寝入っていた綿貫には冷え過ぎたらしい。もう一度、大きなくしゃみをして、窓の外を見ると、列車は琵琶湖《びわこ》の辺りを走っていた。
綿貫は、一カ月前にアサヒ石鹸《せつけん》が買収したロイヤル化粧品名古屋工場をメイン.バンクの融資担当専務として視察し、その足で京都に向っているのだった。阪神銀行の万俵《まんぴよう》頭取と会うためであったが、綿貫の胸中には微妙な思いがからんでいた。阪神特殊鋼のガス爆発事故があった翌日から、阪神銀行東京駐在の芥川《あくたがわ》を通して、万俵頭取に会い、じかに今後の阪神特殊鋼への対処方《がた》を聞きたいと、申し入れていたが、多忙を理由に返事を延び延びにされ、事故後一週間も経《た》ってから、「もし八月十五、六日頃に関西へご出張のご予定でもあれば、京都の鴨川《かもがわ》の床《ゆか》で大文字の送り火を眺めながら、ゆっくりお話し致したい」と返事して来たのだった。
待ちかまえていた返事であったが、そのためにだけ出張することは目だつから、たまたま買収したばかりのロイヤル化粧品の名古屋工場を視察するという形を取ったのである。それにしてもさんざん返事を延ばしておきながら、突然、京都で大文字の火を眺めながら懇談しようということの裏には、時が時だけに、何か尋常ならざる駈引《かけひ》きでもあるのではないかという動物的な嗅覚《きゆうかく》が頭を擡《もた》げていた。その反面、鴨川のお茶屋の床《ゆか》で舞妓《まいこ》に侍《はべ》られながら、大文字の火を眺める趣向は、綿貫の気持を娯《たの》しませた。
時計を見ると、京都まで間もなくであった。
鴨川べりのお茶屋の座敷から川原に向って組まれた床《ゆか》は、大文字の火を眺めながら酒宴を張る人々が溢《あふ》れ、提灯《ちようちん》の灯《あか》りの下で舞妓や芸者たちも賑《にぎ》やかに出入りしている。
三条大橋寄りの『京清水』の床には、万俵大介と芥川が綿貫千太郎を迎えて、舞妓や芸者たちを侍らせていた。舞妓たちは姉芸者の指図で、綿貫を主客と心得、
「旦那《だん》さん、ようお越しやす、おおきに――」
「うちにもお酌さしておくれやす、おおきに――」
代る代るあどけない仕種《しぐさ》でお酌をすると、
「こりゃあ、豪勢な大文字見物ですな」
綿貫は、ずらりと列《なら》んだ六人の舞妓と芸者の顔を眺めて、相好を崩した。芥川はすかさず、
「そう云《い》って戴《いただ》くと恐縮です、大文字にこと寄せて、お呼びたてしたような形になって気にしておりました――」
と云うと、万俵も、
「いつも綿貫さんの方からお運び戴くことになり、恐縮です、まずご一献《いつこん》――」
献盃《けんぱい》すると、綿貫は盃《さかずき》を受けながら、
「いやいや、ちょうど名古屋のロイヤル化粧品の工場を視察する用件がありましたから、ついでのことにちょっと京都まで足を伸ばしただけですよ」
「で、いかがでした? ロイヤル化粧品の方は――」
その買収資金の半分を融資した万俵が聞くと、
「合併で一番心配していた人の和も、どうやらうまく行きそうですので、アサヒ石鹸も従来の洗剤メーカーという単品メーカーから、化粧品分野に進出できました、これも万俵頭取のご支援あってこそと、アサヒ石鹸の筒井社長も大喜びですが、私もなお一層、力こぶを入れ、さらに大きくしてみせますよ」
「綿貫専務が肩入れされれば、力強いですね、ロイヤル化粧品という名前がいいですから、大いに高級イメージで売って行かれることですねぇ」
芥川が相槌《あいづち》を打つように云うと、
「今度、ロイヤル化粧品のモデルにならはった男はん、ようおすなあ」
一番齢若《としわか》の舞妓が、蕾《つぼみ》のようにぽっちりと京紅をさした口もとを綻《ほころ》ばせて云った。もう一人の目鼻だちの整った舞妓は、
「そやろか、うちはあんなぼんぼんみたいな優男《やさおとこ》型より、もっとパンチのきいた逞《たくま》しいモデルさんの方がよろしいどすわ、なあ、姉ちゃん」
姉芸者の同意を求めるように云ったが、衿替《えりか》えして裾《すそ》を引いている姉芸者は、
「そんな、よそさんのお商売のことに口を出すもんやおへん、堪忍《かんにん》どっせ」
そつなく笑い、綿貫に酌をした。
「かまわん、かまわん、それよりロイヤル化粧品のこと、あんたらの口から大いに宣伝して貰《もろ》うた方が、結構――」
「ほんなら、うちのお兄ちゃんに早速、ロイヤル化粧品をすすめたげまひょ、ヘア.トニックはどこのがええやろと云うてたとこどす」
簪《かんざし》をゆらめかせ、さっきの舞妓が云うと、綿貫は、
「あんたのお兄ちゃんは、頭の禿《は》げたお兄ちゃんじゃないのかい」
とまぜっ返した。舞妓や芸者相手の他愛ない冗談と献盃が一しきり続いたあと、綿貫は頃合いを見はからうように、つと万俵の方へ顔を寄せた。
「頭取、先日の事故、あれはどの程度、今後の経営に響きますのですかねぇ」
阪神特殊鋼のことを、切り出した。万俵は、まだ送り火がはじまらぬ真っ暗な大文字山に眼を向け、
「実は、当初予想していたよりかなり悪い状態で、正直なところ、当行としても困っているのです」
「まさか……おどかさないで下さいよ、ねえ、芥川さん」
「いや、実は私も融資担当の渋野常務から聞くところによると、うちよりもおたくの方によりご迷惑がかかりそうだということで――」
芥川も言葉を濁すように、口を閉じた。
「じゃあ、今日、こちらへお招きあずかったのは、そのお話ですな」
万俵に向って云うと、
「その点については、こんなところも何ですし、ぜひともさし[#「さし」に傍点]でお話しさせて戴きたいと思いましてね」
と云うなり、万俵は先にたって、床から座敷へ入った。
座敷の中は冷房がきき、大文字の火を観《み》るために電燈を消して蝋燭《ろうそく》の灯りが点《つ》いていたが、万俵と綿貫が向い合って坐《すわ》ると、仲居頭《がしら》は盃と銚子《ちようし》を置いて退《さが》った。
「万俵頭取、さし[#「さし」に傍点]でお話というのは、どういうことなんです?」
薄暗い灯りの中で、万俵の表情は変らなかったが、綿貫の大きな赭《あか》ら顔は緊張していた。
「不躾《ぶしつけ》ですが、阪神特殊鋼の事故があった翌朝、大同銀行さんで開かれた緊急役員会のご意向はどうだったのか、忌憚《きたん》のないところを伺いたいのです」
「正直云って、役員会の意見は、三つに分れました、三雲《みぐも》頭取と、同じ日銀天下《あまくだ》り派である外国担当の白河専務は、あの爆発事故は偶発的に起った事故であり、会社の経営内容に多少、響くとしても従来通りの融資方針を変える必要はないという意見です、しかし私をはじめとする生抜《はえぬ》き派、つまり業務担当の小島、人事担当の山之内、総務企画担当の角野ら三常務は、無理な突貫工事から起るべくして起った事故であり、この際、慎重を期して引くべしという意見で、中間派にあたる経理担当の夏目専務と事務能率担当の中原常務は、暫《しばら》く静観して、今度の事故が経営面にどう響くかを見てから決めるべきだという意見でした」