「おや、ご存知なかったんですか、ほらアメリカン.ベアリング社というシカゴの会社ですよ」
「ほほう、私どもとしては初めて伺うお話ですので、それがどう響くか、今急にはとても判断出来ませんねぇ」
五和銀行と第三銀行は、ほんとうに初めて聞いたのか、計算ずくでそんな素振りをしているのか、異口同音に応えた。それでも綿貫は気勢をそがれる様子もなく、広い会議室に響き渡るような咳払《せきばら》いをした後、
「それに加えて、私が一番心配しているのは、阪神特殊鋼の事故以来の株価の暴落ですよ、今朝《けさ》はこちらへ出張したため、まだ株式欄を見ておりませんが、昨日の終値《おわりね》はいくらだったんでしょうな」
司会役の東郷の方を見た。
「五十一円と出ておりました」
「じゃあ、また六円下りましたな、事故直前まで七十二円だったのが、事故によって六十円に落ち、さらに額面すれすれまで下落しては、来春、三十億の増資はとてもおぼつかないですな、万一、増資が不可能な場合、また銀行融資が三十億追加されることになるのですかねぇ」
真向いに坐っている渋野に云った。
「綿貫さんのご懸念《けねん》はごもっともな点もございますが、現在、株価は底入れ気分でして、阪神特殊鋼が高炉稼動という他社の追随を許さない強味を発揮出来るようになれば、事故によって一時的に売られ、下落した株価も、自《おの》ずから回復すると信じております」
「しかし、問題は果して高炉がいつから稼動し得るかでねぇ、先月末のように、手形の決済で一時ごたごたしたことが起ると、胆《きも》が冷えますよ、五菱銀行さん、あれはどんな事情で起ったことなんですか」
綿貫はじわりと、一時不渡りの件にふれた。綿貫自身が、自行の神戸支店長からの連絡に対して、不渡り手形の買戻し資金は阪神銀行へ廻さず、自行で日銀チェックを切ってやるよう命じておきながらの質問であった。末席に固くなっていた五菱銀行の融資部長は、
「ああ、先月末の手形のことでございますか、あれは阪神特殊鋼の連絡がなかったことから起った思わぬハプニングで、すぐに解決のついたことでございますので――」
二千五百万ぐらいで不渡りにした冷たさを他行に非難されまいとして、ことさら偶発性を強調して応えた。担当役員が出席しなかったのはそのためであった。それにしても各行の出席者たちは、平行メインである大同銀行の融資担当専務が、何故《なぜ》、阪神特殊鋼の悪材料をことさら並べたてるのかを、考えはじめていた。綿貫はそうした各行の微妙な心理の変化を嗅《か》ぎ取るように、
「なんだか今日は、私一人が出しゃばって喋《しやべ》ってばかりで――、こんなことを申しますのも、正直云って、阪神特殊鋼の石川社長は高血圧で倒れており、実際上の経営が、弱冠三十九歳の万俵専務に委《ゆだ》ねられているからでございますよ」
憂《うれ》い顔で云った。その途端、一同ははっと表情を硬《こわ》ばらせ、貝のようにおし黙った。融資先の経営者の批判を、公式の銀行団の会合ですることはタブーであり、それを敢《あ》えてする時は、その会社が警戒しなければならない段階を暗示しているからであった。
司会役の長期開発銀行の東郷は、敏感にそうした気配を感じ取り、
「みなさんのご意見が出尽したようですから、今後、阪神特殊鋼に対して、どのような方針で臨むか、結論に入りたいと思いますが、ご異議ございませんね」
一同を見廻すと、再び綿貫が口を開いた。
「しかし事故の大きさ、一時不渡りの問題など、容易ならざる事態だけに、この際、会社の財務内容を調査した上で、今後の切抜け策を考えた方が、会社自身のためにも、われわれ銀行団にとっても、必要なことじゃないでしょうか」
「なるほど、それはいいご意見ですね、メインの阪神銀行さんでやって下さいますか」
東郷が云うと、渋野はどういう思惑があるのか、妙にはっきりしない口調で、
「調査となると、当行は専門の調査のスタッフ陣に欠けていますので、調査ご専門の長期開発銀行さんにお任せ致したいと存じますが――」
と譲った。綿貫はすかさず、
「阪神特殊鋼と阪神銀行さんは血縁関係の間柄であられるだけに、その方が阪神銀行さんにしてもお気が楽かもしれないし、客観的な立場ということで、われわれ市中銀行より長期開発銀行さんの方が、適役ではありますね」
と相槌《あいづち》をうった。この日の委員会で疑心暗鬼の気持をさらに強めた他行にも、阪神特殊鋼の財務内容の調査は異論なく、委員会は毒を盛った“綿貫独演会”で終始した。
それから三日後、東京へ帰った綿貫千太郎は腹心の部下たちと飲む“綿貫会”のはじまる前に神楽《かぐら》坂《ざか》の料亭『わかもと』へ来、芸者の膝枕《ひざまくら》で耳垢《みみあか》をとらせていた。上衣《うわぎ》を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、ズボンのベルトをゆるめただらしない恰好《かつこう》で、懇《ねんご》ろの芸者の太股《ふともも》に頭をおしつけた綿貫は、
「ああ、いい気持だ、豆千代、そこそこ」
とろんと眼を半開きにして、声を上げた。
「いやあねぇ、妙な声を出さないでよ、へんに勘ぐられるじゃありませんか」
豆千代は慌《あわ》てて、耳かきの手を止め、綿貫の肩をつついた。
「ここは離れ座敷だから、誰に気がねがいるものか、豆千代、今のところ、もっとかいてくれ」
豆千代は鳩胸《はとむね》を突き出し、再び耳かきを動かし、
「あまりいじりまわすと、またいつかみたいにおできが出来てよ、そうでなくても千さまの耳は、耳だれがしているんだから」
耳かきの先についたねばねばとした耳垢を懐紙にこすりつけた。綿貫はここちよげに眼を閉じていたが、不意に、
「豆千代、同じ旦那《だんな》をもつなら、一度は“頭取”と名のつく旦那を持ちたくないか?」
真面目《まじめ》な顔つきで聞いた。
「そりゃあ世間にごまん[#「ごまん」に傍点]といる社長よりは、銀行の頭取の方が望むところよ、どなたかお世話して下さるの?」
色っぽく体をくねらせた。豆千代と綿貫の仲は二年前からで、家を持たせたり、月々きまった手当を渡すほどの間柄ではなかったが、綿貫の座敷には必ず呼ばれ、月に何度か同衾《どうきん》し、生活費の一部をみるという、いわばお座敷旦那の関係であった。
綿貫は、豆千代の膝《ひざ》の間に手を滑り込ませ、
「今すぐというわけにはいかんが、豆千代の心がけ次第で考えてやらないでもない、もっとも、当分の間は、頭取の上に“副”がつくだろうがねぇ」
「じゃあ、千さまは将来、アサヒ石鹸《せつけん》の社長じゃなくて、大同銀行の頭取におなりになるの、ほんと、ほんとなの?」
豆千代は、半信半疑で聞いた。
「まあ、ほんとうの話と信じて大いにサービスすることだな、但《ただ》しこの話は一切、他言禁物だぞ、いいな」
釘《くぎ》をさし、さらにむっちりとした肉付きの奥へ手を伸ばし、豆千代も淫《みだ》らに姿勢を崩しかけた時、からりと襖《ふすま》が開いた。綿貫親衛隊の連絡将校を自認する総務部次長の影山であった。
「なんだ、声もかけずにいきなり部屋へ入って来る奴《やつ》があるか、耳掃除の最中だぞ、びっくりして豆千代が、わしの鼓膜を破りそうになったじゃないか」
狼狽《ろうばい》を押し隠すように叱《しか》りつけると、影山はいまさら、襖の外で声をかけても応答がなかったとは云えず、
「どうも申しわけございません、七時の会合の時間に遅れてはいけないと思って、急いで参りましたもので……」
まことしやかに云い繕った。間もなく業務担当の小島常務、長谷川総務部長に続いて、湊《みなと》本店営業部長、谷崎融資部次長が顔を揃《そろ》え、芸者たちも賑《にぎ》やかに座敷に入って来た。
床の間を背にした綿貫を中心に、一わたり盃《さかずき》が交わされると、綿貫の股肱《ここう》の臣である小島常務が、
「専務、阪神特殊鋼は大丈夫ですか、事故処理委員会が三日前、設けられたと思ったら、時をおかず財務内容が長期開発銀行の手によって調査されることになるなど、事態が急テンポに進んでいますが、平行メインの当行も安閑としてはおれないんじゃないですか」
心配顔で聞くと、湊本店営業部長も芸者の酌を受けながら、
「僅《わず》か一年半程の間に、平行メインにまで突っ込んで行ったのは、いつに三雲頭取のせいではありますが、専務は融資担当というお立場だけに、もしや責任が振りかかって来はしないかと心配で仕方ありません」
と云うと、他《ほか》の一同も頷いた。綿貫は一座を見渡し、
「みんなの心配は有難いが、わしが阪神特殊鋼に対して、高炉建設計画の当初から融資反対だったことは、行内で知らぬ者はないし、対外的にも百億近い融資が、融資担当役員の権限を遥《はる》かに越えているのはきまりきったことなんだから、目下、長期開発銀行が行なっている財務調査で、たとえどんな結果が出ようと、わしには、三雲の殿さんのように動ずる点など、何らありゃせんよ」
アサヒ石鹸と阪神特殊鋼の交換《バーター》取引を阪神銀行の万俵頭取と交わして以来、阪神特殊鋼に対する融資を反対しないどころか、俄《にわ》かに別枠《べつわく》融資まで認めて、部下たちの反撃を食ったことなどには一言も触れず、専《もつぱ》ら三雲頭取に責任を転嫁するように云った。小島常務以下、一座の者たちはさすがにあっ気に取られたように口詰ったが、綿貫の自信満々の言葉に勢いづいて、飲めば必ず出る三雲頭取以下日銀天下り派への批判が始まった。
「そういえば三雲頭取は、阪神特殊鋼の爆発事故以後、青菜に塩で、ことに最近は暇さえあれば、頭取室から日銀の建物を恋しそうに眺めて溜息《ためいき》をついているというじゃありませんか、長期開発銀行が調査に乗り出したことが、よっぽどショックなんですねぇ」
まるで見て来たことのように総務部長の長谷川が云うと、綿貫は、豆千代に注がせた盃をぐいと干し、
「そりゃあ、三雲の殿さんは日銀時代、調査畑だったから、自分が都市銀行の頭取になって、最初にこれぞと、銀行家の使命感で打ち込んだ企業が危なくなり、調査されたとなると、それだけで動転してしまうんだろうな、実はわしが関西銀行協会で開かれた事故処理委員会から帰って来た時、会議の模様を報告に行くと、殿さんは沈痛な表情の割に落ち着き払って聞いていたが、話し終ってから、わざとライターを置き忘れて頭取室へ引っ返すと、カタカタ、震えて、事故処理委員会の司会役を勤めた長期開発銀行の東郷常務に電話していたよ」
痛快そうに云うと、どっと笑いが起った。
「そういえば、うちの島津部長も、三雲頭取からそのことを聞いて以来、頭にきている様子でして、昨日《きのう》、笑えぬ話がありましたよ」
融資部次長の谷崎が、上司の日銀天下り部長をこきおろしはじめた。
「あの人、国際金融論が得意なのはいいとして、肝腎《かんじん》の貸借対照表の右左の見方がいまだに怪しいので閉口しているんですが、昨日、阪神特殊鋼の書類が入ったファイルから財務諸表をひっぱり出して、長い間、ためつすがめつ見ているんですよ、三雲頭取と一緒になって阪神特殊鋼への貸込みを指揮した融資部長の立場としては、何とかこれまでの債権回収をはかると同時に、会社がたち直る方策を考えなければならんわけですから、深刻なのも当然でしょうが、奴《やつこ》さん、真っ青《さお》な顔して、僕の方を見てるんですよ、それで、どうなすったんですかと傍《そば》へ行くと、君、阪神特殊鋼の財務構成は悪いどころの騒ぎじゃない、総借入れ額三百億に対して、預金がたった七億しかないと云うんですよ、まさかと思って見ると、案の定、桁《けた》の読み違えで、七十億を七億と間違ったんですよ」
酒気を帯びた声で云うと、またどっと笑い声が上った。酒の席で、多分に戯画化された話であることは誰も承知の上だが、自分たちが営々として築いて来たと思っている銀行だけに、横合いから割り込み、ぬくぬくとしている日銀出身の天下り派が我慢ならないのだった。遅れて来た総務企画担当の角野常務が、
「専務、もし長期開発銀行の調査が悪い結果に出た場合、当行役員会で三雲頭取の責任は、当然、問われることになるでしょうね」
と聞いた。その途端、綿貫の大きな赭《あか》ら顔が緩んだ。万俵大介との密約にしたがい、阪神銀行との合併に向って行内を切り崩して行くためには、まず自派の懐柔が必要だったが、日銀天下り派の追放と大同銀行の自主独立を悲願としている生抜き派が、はじめから自行より下位の阪神銀行との合併を賛成するはずはなかった。したがってまずその第一段階として、三雲頭取追放の機運を盛り上げねばならぬと、考えていた矢先であったのだ。しかし、綿貫はことさらに重い吐息をつき、
「もし阪神特殊鋼が危機に直面するようなことになれば、行内の役員会どころか、大蔵省が直ちに当行の経営の仕振《しぶり》について、圧力をかけてくるだろう」
と云うと、一同は顔色を変えた。
「阪神特殊鋼への融資の件で、大蔵省に睨《にら》まれたりしたら、われわれ融資に反対した者は、ますますもって、間尺に合わないじゃないですか、そんなことにならぬうちに、早期に三雲頭取に退陣して貰《もら》うことだと、僕は思いますね」
一番若い影山が気炎を上げるように云うと、融資部次長の谷崎も、
「そうだ、この機会に無能な日銀野郎など追っ払って、綿貫内閣を実現しようじゃないか、今こそ大同銀行一万行員の悲願達成の時期だ!」
昂《たかぶ》った声で云い、小島常務までが、
「専務、この間の副頭取昇任ストップの弔い合戦と思って、中間派の夏目専務以下の抱込み工作をやり、三雲追放にたち上って下さい、うかうかしていたら、大同銀行は、日銀ばかりか、大蔵省の天下り先にされかねませんよ」
強迫観念に駈《か》られるように云った。綿貫は大きく頷《うなず》きながら、うしろが床の間で誰にも見えぬのをいいことに、傍の豆千代のたっぷりとした尻《しり》を掌《てのひら》で娯《たの》しんでいた。
*
高須相子は、二子《つぎこ》の婚礼荷をしたためた目録を前に、じりじりとした思いで寧子《やすこ》を見た。
「七月十日にお結納がおさまって、あれから二カ月も経《た》っていますのに、おこしらえが和箪笥二棹《わだんすふたさお》、小袖《こそで》箪笥二棹、長持二棹、荷台一棹の七荷と、宝石箪笥と家具一式という荷数《にかず》だけしかきまらず、中身のほうが少しも進んでいないじゃありませんか、私は小泉夫人やその他の方々との交渉に忙しいし、寧子さまは京都ご出身ですから、せめて和服のおこしらえだけでも進めて下さいと、あれほど申し上げておりましたのに……」
詰《なじ》るように云うと、寧子は、九月半ばといっても残暑が残っている中で、越後上布の単衣《ひとえ》をきちんと着付けて、
「でも、肝腎の二子が取り合ってくれないものですから、きめようにも、きめかねて……」
口ごもるように云った。
「それがいけないのですよ、二子さんにはちゃんと云ってありますのに、一週間も軽井沢へ出かけたままなんですから、こちらで進めてしまえばよろしいのですわ、そうしないと、せっかくのお縁談《はなし》が進みませんことよ」
「けど、もうそろそろ帰って来る頃ですから、少し待ってやれば――」
「結婚式は来春の三月三日ですのよ、振袖《ふりそで》、訪問着をはじめ、丸帯なども龍村《たつむら》の丸帯となれば、一本別織にして戴《いただ》くのに四、五カ月はかかりましょう? その他いろんな準備を考えますと、寧子さまのように悠長にかまえていらしては、全般の運びを任されている私が迷惑致しますわ」
と云いながら、相子は、阪神特殊鋼の事故が起って以来、俄かに多忙を極めている万俵大介の内部に、何か尋常でない変化が起っていることを感じ取っていた。それだけに家内《いえうち》の差配を任されている自分は、迂闊《うかつ》にしておれないという思いが強かった。
室内電話が鳴り、相子が受話器を取った。
「もしもし、大へんでございます、万樹子《まきこ》奥さまが、只今《ただいま》、お実家《さと》へ帰るとおっしゃっておられます」
銀平の家の若いお手伝いが、急《せ》ききった声で報《しら》せた。
「私がそちらへ行きますから、それまでおとめしておくのです」
強く命じた。
「万樹子さんがお実家へ帰るということですわ、ちょっと失礼」
「まあ、お実家へ――急にまたどうして……銀平と何かあったのでしょうか」
寧子がおろおろとしてたち上りかけると、
「あなたがいらしても、どうなるものではございませんでしょう」
姑《しゆうとめ》としても、無力な寧子をみくびるように云うなり、相子はさっと部屋を出、庭を隔てた銀平の住まいに足を向けた。
玄関を入ると、うろたえているお手伝いには眼もくれず、もの音のする寝室の扉《ドア》を開けた。部屋の中は、洋箪笥の引出しが開けっ放しになり、ツイン.ベッドの上からナイト.テーブルの上までところかまわず衣類が投げ出されて、万樹子はスーツ.ケースに身の廻り品を乱暴に放り込んでいる。パンティやスリップに混じって、皮張りの宝石箱と長方形の時計箱も入れられていた。
「どこかへご旅行なの?」
相子はわざと軽い語調で聞いた。万樹子は振向きもせず、
「いいえ、私、今日限り実家へ帰らせて戴きたいと存じますの」
「あら、いきなりそんなことをおっしゃられても困りますわ、銀平さんはご存知のこと?」
「いいえ、あの人には何を云っても無駄です、この頃では私とろくに話もしないし、ゆっくり顔を合わせることもありませんわ」
万樹子は投げやりに云った。万樹子の流産後も、バー遊びを止《や》めないばかりか、帰宅が遅いという銀平の日常は、相子も知っていたが、突然、実家へ帰ると云い出すには、何か格別の事情があるはずだった。
「何があったの、今さらでもないのに突然、荷物をまとめてスーツ.ケースに詰め込んだりして、子供じみたことを――」
相子が受け流すように云うと、不意に万樹子の顔が歪《ゆが》んだ。
「子供じみているなんて、ひどいわ! 私、今朝《けさ》、あの人にひどいことを云われたの、許せないわ」
と云うなり、若く豊満な体を投げ出すようにベッドにうつ伏した。
「許せないって、銀平さんの女性関係でも?」
「そんなことはとっくに馴《な》れています、もっと冷酷なひどいことよ――、昨日、芦屋《あしや》病院の院長先生のところへ流産後の予後《よご》を診《み》て戴きに行ったら、京都の洛北《らくほく》大学の産婦人科教授に、卵管癒着《ゆちやく》の剥離《はくり》手術をして貰えば、妊娠の可能性があると教えて下さったので、朝食の時、手術したいと云いましたの、そしたらあの人ったら、そんなことまでして子供はいらない、そんなにまでしてつくりたければ、勝手に人工授精でもしてつくればいいだろうと、くわえ煙草《たばこ》で平然と云ったのよ! 平然と!」
さすがの相子も、その言葉の冷酷さに身じろいだ。人工授精は、相手が明確に解《わか》らぬよう、四、五人の男性の精液を混ぜて女性の子宮内に注入するとは聞いているが、受精させる能力を持っていながら、自分の妻の体内に、見知らぬ男の精液を注入してもいいと、平然と云いきれる銀平の神経は、冷たいというより、どこか狂っているように思えた。しかし、今、万樹子と銀平に離婚されることは、来春にひかえている二子の結婚に齟齬《そご》を来たすことであり、阪神銀行の筆頭株主である大阪重工社長の安田太左衛門との閨閥《けいばつ》を失うことであった。
相子は険しくなりそうな表情を抑え、
「安田家や万俵家の子女は、芸能人や普通の家庭の子女のように、簡単に離婚出来ません、お父さま同士、家同士の結びつきを慎重に考えなければならず、勝手な行動は許せませんから、今日は心を鎮《しず》めてここにいらっしゃい、銀平さんには私からよく話しますから」
説き伏せるように云うと、万樹子はヒステリックに叫んだ。
「私に閨閥結婚の犠牲になれとおっしゃるの! 今さらあの人に話して、どうなるというの、あの人には万俵家という化けもの屋敷じみた血が流れているわ、お舅《とう》さまは、お怪我《けが》をなさっても一滴の血も滴《したた》らないような方だけど、あの人だって同じ……阪神特殊鋼で爆発事故が起り、たくさんの死傷者が出ているという夜、あの人はお義兄《にい》さまと十分程話しただけで、そのあとは平気でステレオを聞いて楽しんでいたわ、そんな人と結婚して、私は不幸になり、その上、子供まで産めない体にされたのよ、実家の父だって、万俵家の何もかもを話せば、きっと離婚を認めてくれるわ」
「じゃあ、あなたは万俵家の寝室の秘密まで話すつもりなのね、それなら私は、あなたが結婚前に異性関係を持ち、産婦人科の門をくぐったこともあるのを、あなたのご両親にお話しさせて戴くかも知れませんことよ」
「嘘《うそ》! 私が妊娠したなんて、そんないい加減なことを誰が――」
万樹子は顔を蒼《あお》ざめさせ、激しく頭を振った。
「嘘じゃありません、信用のおける人事興信所でちゃんと素行調べをして貰った結果です、なんだったら、私の部屋に保管してあるその報告書をお見せしましょうか」
と切り込んだ。万樹子は暫《しばら》く押し黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「仕方がありませんわ、でもやはり、私は実家へ帰ります」
万樹子はスーツ.ケースの蓋《ふた》をかちりと閉めたが、婚前の秘密を両親に話されるという動揺が、手もとを震わせていた。相子はそれを見て取り、
「じゃあ、お好きなようになさいましな」
突き放すように云うと、万樹子はことさら声高にお手伝いを呼んで、スーツ.ケースを持たせると、
「では、ご機嫌よう、皆さまにはあなたからおよろしく――」
と云い、玄関を出て行った。そのうしろ姿を見送りながら、相子は、どうせ自分の婚前の秘密を明かされることを怖《おそ》れて、万俵家の三台並んだベッドのことも云えず、舞い戻って来るに違いないとたか[#「たか」に傍点]をくくっていたが、はじめて自分の指図が通らなかった口惜《くや》しさが相子の心を錐揉《きりも》んだ。
銀座『和光』の扉《ドア》を押すと、万俵二子は、姉の一子《いちこ》より先に奥の売場に足を向けた。閉店間近の店内は、人影が疎《まば》らで、落ち着いた静けさに包まれている。
「二子ちゃん、手袋の売場は二階よ」
うしろから一子が、そっと声をかけた。
「ああ、そうだったわね、私、やはり軽井沢ぼけしているようだわ――」
広いつば[#「つば」に傍点]の帽子の下で、二子は陽灼《ひや》けした顔を綻《ほころ》ばせた。ここ一週間、ピアノの親友と軽井沢で過し、帰途、東京の姉の家へ寄ったのだった。浅葱《あさぎ》色の結城《ゆうき》単衣《ひとえ》をきちんと着ている一子は、階段をゆっくり上りながら、
「あなたは昔から、ハンカチーフや手袋を、男の人が傘を置き忘れるみたいに、すぐ失《な》くすのね」
と云うと、二子は肩をすくめた。今日も二子は、成城の姉の家から銀座へ出て一時間としないうちに、レースの手袋を失くしてしまったのだった。
手袋売場に来ると、二子はショー.ケースの中から、失くした手袋と似たベージュのレース編みを見つけて、店員にサイズを云った。
「こちらでございますね、おためしになりますか」
女店員がケースから取り出して、さし出した。糸の縒《より》の細いスイス製の手袋で、二子の長い指にぴったりはまり、オレンジのマニキュアが、きれいにすけて見える。
「結構よ、このままはめて帰りますから」
二子が頷くと、一子が支払いをした。
「まあ、お姉さま、メルシー.ボクゥ!」
「どう致しまして、それより美馬《みま》との食事の時間は六時だから、あまりゆっくりしていられないわ」
と促した。昨夜、美馬家に泊った二子に、美馬は明日は久しぶりに役所の仕事も早くきり上るから、東京会館のプルニエで夕食をご馳走《ちそう》してあげようと約束したのだった。
一階へ降り、ハンドバッグ売場の前を通って出口へ行きかけると、一子が急に足を止めた。
「お姉さま、どうかなすって?」
「春田銀行局長の奥さまが――」
六、七メートルほど先のショー.ケースの上に、和光の包み紙から取り出したオーストリッチのハンドバッグを置き、店員と話している中年の女性を、そっと眼で指した。グレーのスーツをきりっと着こなした婦人であったが、二子は悪戯《いたずら》っぽい眼つきで、
「あら、あれなのね、お中元やお歳暮のシーズンになると、高級官僚の自宅へ業者から和光の届けものがどっと送りつけられ、どれも同じようなものばかりだから、品物交換に行くご夫人連がひきもきらないというお話――、あのオーストリッチのハンドバッグだって、きっと交換よ」
「二子ちゃん、何というお品の悪いことを――、第一、失礼ですよ」
一子は低い声で窘《たしな》めた。
「だって、お姉さまのお家にだって、お仕立券付の舶来ワイシャツ生地から、ネクタイ、カフス.ボタン、香水、ハンドバッグ、置時計に至るまで、和光発送のお中元が一杯だったわ、お姉さまの場合は交換なさらないだけじゃないの」
けろりとした口調で云った。一子は慌《あわ》てて、二子の腕を取って和光を出、タクシーを拾うと、すぐ近くの東京会館まで車を走らせた。
「お姉さま、私、細川さんとの結婚は気が進まないの」
突然、二子が前方を向いたまま、切口上に云った。
「なんですって? 本気でそんなことを……」
「ええ、本気ですとも、今日、お食事の時、お義兄《にい》さまにもご相談しようと心に決めているの」
「今さらそんなことを……、昨夜、岡本のお母さまにお電話したら、あなたのことがきまってほっとしていると喜んでいらしたし、美馬だって、細川さんをご紹介しただけに、そんなことを云い出したら怒ってしまうわ……」
一子は、妹の気持が阪神特殊鋼の一之瀬四々彦《いちのせよしひこ》に傾いていることをうすうす聞き知っているだけに、言葉を詰らせた。
「もし、お義兄さまがお怒りになったら、明日、私一人で細川さんをお訪ねして、自分ではっきりお断わりするわ、軽井沢からまっすぐ岡本へ帰らず、東京に寄ったのは、このことを早く解決したいためだったの」
「二子ちゃん、もうお結納がおさまって、お式の日もきまっているのを、覆《くつがえ》そうというの」
「そうよ、私は――」
二子がきっぱりとした口調で云い募りかけると、
「やめて頂戴《ちようだい》……そんな重大なことをタクシーの中などで、私、眩暈《めまい》がしそう……」
両手で青白い顔を覆《おお》った。
「――お姉さま、ご免なさい、私、家では鉄平兄さまにだけ、ほんとうの気持を打ちあけ、高炉が完成したら、お父さまに取りなして戴く約束になっていたの、それがあんな爆発事故が起って、会社の経営が大へんなので、とてもこんなご相談など出来なくなったの、でも、相子さんはどんどん結婚準備を進めるし、いたたまれなくなって、ついお姉さまに……」
激して来る感情を抑えきれぬように云うと、一子は涙ぐんだ眼《まな》ざしで、
「私も、美馬のところへ強引に嫁がされ、決して倖《しあわ》せでないだけに、なんとか力になってあげたいけれど、今日、美馬に話すのは止《よ》して、私たち二人で考えてみましょう」
夫に心を許していない一子は、押しとどめるように云い、タクシーが東京会館に着くと、もの静かな様子で、二階のプルニエに上った。
ボーイに美馬の名前を告げると、皇居の緑が見渡せる窓際《まどぎわ》のテーブルに案内された。
「あら、白鳥――」
薄暮の皇居の濠《ほり》に一羽だけ浮かんでいる白鳥に、二子が眼を向けた時、
「やあ、待たせたね」
美馬の声がした。
「お義兄さま、レディを待たせるなんて、失礼よ」
美馬を睨《にら》みつけ、二子ははっと顔を硬《こわ》ばらせた。美馬の背後《うしろ》に、細川一也《かずや》がたっているのだった。一子も愕《おどろ》いた表情を向けると、美馬は、
「二子ちゃん、今日はまた一段ときれいだなあ、僕が細川君を誘って来るのを、まるで知っていたみたいだね」
陽灼けした肌をオレンジ色のシルク.ジョーゼットのワンピースに包んだ二子をしげしげ眺めて云うと、細川一也は、まず一子に挨拶《あいさつ》して、二子の隣の椅子に坐り、ボストン眼鏡の端正な顔に微笑を湛《たた》えた。
「二子さん、軽井沢に行ってらしたんですって? 今年の夏は六甲山の山荘を早く引き揚げられたそうで、うちの軽井沢の家へお誘いしようとしていたところなんですよ」
「細川君のところの別荘は、さすがに建築家の父上のご設計だけあって、ヨーロッパの田舎《いなか》家風《やふう》のなかなか凝った造りらしいよ、もう一度、軽井沢へ行って来たらどう?」
美馬がすすめた。
「せっかくですけれど、私、明日中に帰らなくてはいけませんから――」
「なるほど、花嫁修業中の身としては、そうそう遊んでもいられないわけだね」
美馬は、突《つ》っ慳貪《けんどん》な二子の返事を取りなすように云い、ボーイにメニューを持って来させると、今が一番おいしい鱸《すずき》を中心にしたメニューをきめ、ワインの銘柄は細川一也と打ちとけた様子できめた。その打ちとけ方が、早くも親戚《しんせき》づき合いのような親密さがあり、二子は、肌がべとつくような不快さを覚えた。
「二子ちゃん、鉄平君はその後どう?」
美馬は、煙草に火を点《つ》けながら聞いた。
「毎日、高炉の再建に奔走していらっしゃるわ、よくお体がもつと思うぐらい」
と云うと、阪神特殊鋼が一時不渡りを出し、融資銀行が警戒しはじめて、事故処理委員会が開かれたことも知っている美馬は、微妙な笑いをうかべて、細川一也の方を見た。
「この間“兵六《ひようろく》会”で、君のところの兵藤《ひようどう》副社長から、手厳しく阪神特殊鋼を批判されてね、弱ったよ」
帝国製鉄の兵藤副社長が、通産省、大蔵省の局長、局次長クラスのエリート官僚を集めて、月一回、新橋の待合『たがわ』で開いている会合で出た話をはじめた。秘書課勤務の細川一也は、
「副社長は、ああいう豪放な人柄ですから、思ったことをずばずば云い過ぎ、われわれがその後始末を云いつけられて困り果てることが、時々あるのですよ」
エリート秘書であることを、多分に意識した云い方をした。
「しかし、今度の場合はおっしゃることも、ごもっともなんだよ、兵藤副社長は、本来、特殊鋼というのは、需要の大きい普通鋼とは異なり、その名の如《ごと》く特殊で、需要も自《おの》ずから制約がある業種であるから、高炉を持って量産化によるメリットを得ようとする発想自体に誤りがある、特殊鋼の場合は、量産化してコストを下げることより、むしろ金を倍かけても、よりよい製品を、ダイヤモンドより強い高級な鋼《はがね》を、造ることの方が、本来の行き方だというご意見なのだ」
「なるほど、阪神特殊鋼には、高炉を持って世界の特殊鋼たることを目指そうという理想があったのですから、或《あ》る程度の量産化は図らねばなりませんが、その辺、現実と理想のギャップがあったわけですね」
細川はボストン眼鏡に手をやり、頷《うなず》いた。
「全くその通りだ、しかし膨大な借金で造った高炉を壊すわけにもいかず、帝国製鉄が面倒をみて下さったらどうですと云ったら、兵藤副社長、えっへっへっと笑っていたよ」
「僕も賛成ですねぇ、そうなれば、何かにつけて、万俵さんとは結びつきが濃くなるし――」
二子の方をちらっと見て云うと、
「ひどいことを……、お二人は、必死で再建に努力している阪神特殊鋼の一人一人の社員のことなど、お考えになったことがないから、そんな無神経なことをおっしゃるのですわ、それに阪神特殊鋼が高炉建設を目指したのは、もとはといえば、帝国製鉄が大企業の力を笠《かさ》にきて、自分勝手な都合で銑鉄《せんてつ》を減らしたり、ストップしたからだと聞いています、帝国製鉄のお世話になどならないでしょう!」
大きな眼を潤《うる》ませ、二子は料理が運ばれて来たテーブルを、たった。
万俵鉄平は久しぶりにヘルメットを冠《かぶ》り、作業衣のジャンパーを着て、製鋼部の一之瀬四々彦とガス爆発事故後の現場にたっていた。まだ熱風炉は鉄皮《てつぴ》ごと裂け、内部の煉瓦《れんが》が腸《はらわた》のように砕け出たまま、飛び散った鉄材や電気コードも散乱した状態で、警察の立入禁止の縄が張られている。
「専務、熱風炉の再建はいつになったら取りかかれるのでしょうか、早くして戴《いただ》かないと現場の作業員の士気にかかわります」
「警察から証拠保全のために二カ月間、作業中止の指示を受けているから、それまでだ」
「では、あと一週間後には再開ですね」
「うむ、そうしたい――」
と応《こた》えながら、鉄平は目下の苦しい資金繰りのことを考えていた。今後の融資方針は、協調融資銀行による事故処理委員会で、財務内容の調査結果を待って決定されることになり、それまでは従来通りと申し合わされたにもかかわらず、銀行団は融資順位の下の方から櫛《くし》の歯がぬけるように融資を引きはじめていた。そのため忽《たちま》ち今月末の支払手形の決済に窮し、今朝から営業担当の川畑常務と経理担当の銭高常務が、部下を督励すると同時に、自らも支払期日を延期して貰《もら》うべく、各支払い先へ奔《はし》っているのだった。
「専務、いくら高炉が完成しても、熱風炉が出来上らない限り、高炉は動きません、一刻も早く再建に着手して下さい」
四々彦は焦《あせ》るように云った。鉄平も同じ思いであったが、先だつものは資金である。今や設備資金を運転資金に流用し、その上なお、原料や機械購入の支払手形の期日を延ばして貰わねばならない状態だった。
現場を一巡して事務本部へ帰ると、商社へ資金繰りに奔っていた銭高と出会った。
「どうだった、諒解《りようかい》して貰えたかね?」
専務室に入りながら聞くと、銭高は、生気のない眼をねそっと上げ、
「伊東商事と日紅商事に、各々《おのおの》九千二百万と九千八百万の支払い延期を頼みに行きましたが、月商二十億の阪神特殊鋼が一億未満の手形決済が出来ず、商社に泣きつかんならんほど悪いのかと、突っ込まれました」